チューリッヒのワーグナー |
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ドレスデン革命に参加した為に、リヒャルト・ワーグナーはドイツを追われ、一八四九年以来、スイスのチューリッヒに住んでいました。 一八五七年四月。この年、以前よりワーグナーの支持者であったオットー・ヴェーゼンドンク氏とその妻マチルデ・ヴェーゼンドンク夫人から彼は、作曲に打ち込めるようにと、チューリッヒの彼らの自宅の隣の屋敷を提供され、引っ越してきました。 美しい夫人は、熱烈なワーグナーの信奉者で、彼を神のように崇拝していたわけで、二人はすぐに恋人同士となったのです。 |
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あっ、こういうのって、フランツ・リストの時もありましたね。 ところで、この恋愛は芸術において大きな意味を持っています。何故ならこの人目を忍ぶ恋愛が、ワーグナーに以前から構想を温めていた楽劇「トリスタンとイゾルテ」に手を付けさせるきっかけとなったからです。 ここで、ワーグナーは作曲を中断。マチルデ・ヴェーゼンドンク夫人が作った五つの詩に作曲をしています。その中の第五曲はオーケストレーションされ、マチルデの誕生日にワーグナーからのプレゼントとなったのです。 こういうのもありましたねぇ。後にワーグナーは、ルツェルンで「ジークフリート牧歌」を妻コジマに作って演奏していますが、それは別に述べましたので、ここでは触れませんが…。 ともかく、この恋愛の中から生まれた五つの歌は小宇宙を形成していて、楽劇を聞くがごとき充実感があります。マチルデに贈った時は、ピアノ伴奏の形でしたが、後に全曲を、モットルがオーケストレーションし、管弦楽の伴奏で聞かれることとなったこの曲のあちらこちらに、「トリスタンとイゾルテ」のフレーズが隠れています。 さて、二人の恋愛は翌年の夏には厳しい段階に入り、ワーグナーはヴェネチアに逃れます。三角関係のもつれは尾を引き、なかなかチューリッヒに帰れないまま、ヴェネチアでオーストリア皇室とイタリア自由解放の戦いの間に入り込んでしまいルツェルンに逃れて行っています。
音楽の語法を大きく変えたこの作品が、チューリッヒでの恋愛から生まれたのは、面白いことだと思います。そして、その副産物の五つの歌もまた、チューリッヒの空の下で生まれたことも、また知っておいてほしいものです。チューリッヒがいかに当時文化の中心として機能していたか、知る布石にもなるでしょう。 暑い季節にはちょっと不向きな音楽ではありますが、寒い季節、胸を締め付けられるような大恋愛の音楽もまたいいものです。誕生の地がスイスだということで、またまたちょっとうれしくなってしまいます。 |
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