チューリッヒのワーグナー

 ドレスデン革命に参加した為に、リヒャルト・ワーグナーはドイツを追われ、一八四九年以来、スイスのチューリッヒに住んでいました。

 一八五七年四月。この年、以前よりワーグナーの支持者であったオットー・ヴェーゼンドンク氏とその妻マチルデ・ヴェーゼンドンク夫人から彼は、作曲に打ち込めるようにと、チューリッヒの彼らの自宅の隣の屋敷を提供され、引っ越してきました。
 美しい夫人は、熱烈なワーグナーの信奉者で、彼を神のように崇拝していたわけで、二人はすぐに恋人同士となったのです。

 あっ、こういうのって、フランツ・リストの時もありましたね。
 十九世紀の音楽業界もずいぶん乱れていたようで…。

 ところで、この恋愛は芸術において大きな意味を持っています。何故ならこの人目を忍ぶ恋愛が、ワーグナーに以前から構想を温めていた楽劇「トリスタンとイゾルテ」に手を付けさせるきっかけとなったからです。
 一八五七年六月二七日に、チューリッヒのヴェーゼンドング家の隣の家で仕事を開始したのですが、当時、大作「ニーベルングの指輪」四部作の「ジークフリート」を作曲中だったのに、それを中断しての着手だったことからも、当時のワーグナーの「トリスタンとイゾルテ」に対する意欲の様がわかると思います。
 一八五七年の九月には、台本が完成します。すぐに前奏曲を作曲。一幕はその年の内に出来上がったといいます。

 ここで、ワーグナーは作曲を中断。マチルデ・ヴェーゼンドンク夫人が作った五つの詩に作曲をしています。その中の第五曲はオーケストレーションされ、マチルデの誕生日にワーグナーからのプレゼントとなったのです。

 こういうのもありましたねぇ。後にワーグナーは、ルツェルンで「ジークフリート牧歌」を妻コジマに作って演奏していますが、それは別に述べましたので、ここでは触れませんが…。

 ともかく、この恋愛の中から生まれた五つの歌は小宇宙を形成していて、楽劇を聞くがごとき充実感があります。マチルデに贈った時は、ピアノ伴奏の形でしたが、後に全曲を、モットルがオーケストレーションし、管弦楽の伴奏で聞かれることとなったこの曲のあちらこちらに、「トリスタンとイゾルテ」のフレーズが隠れています。
 実際に第三曲の「温室」は「トリスタンとイゾルテ」の第三幕の場面でオーケストラがうめき声のように執拗に繰り返すフレーズが伴奏に出てきますし、第五曲の「夢」はトリスタンとイゾルテ」の第二幕、愛の場面でのフレーズが出てきます。
 この「ヴェーゼンドンクの五つの歌」として知られる作品は、大作楽劇「トリスタンとイゾルテ」の子供ではありますが、決して未熟な音楽ではなく、素晴らしい独自の世界をも表現している名曲と言えます。

 さて、二人の恋愛は翌年の夏には厳しい段階に入り、ワーグナーはヴェネチアに逃れます。三角関係のもつれは尾を引き、なかなかチューリッヒに帰れないまま、ヴェネチアでオーストリア皇室とイタリア自由解放の戦いの間に入り込んでしまいルツェルンに逃れて行っています。
 そして一八五九年の三月二十九日より九月七日まで、ルツェルンのホテル「シュヴァイツァーホーフ」に滞在し、ここで作曲に励み楽劇「トリスタンとイゾルテ」は一八五九年七月末に完成し、八月七日、出版社に送られたのです。
 ヴェーゼンドンク夫妻が、ルツェルンのワーグナーの所を訪ねた頃には、完全に恋愛は終わっていたそうです。夫妻に「トリスタンとイゾルテ」をピアノで弾いて聞かせたと記録には残っていますが、ほとんどピアノが弾けなかったワーグナーが悪戦苦闘して自作を紹介している様はなかなか見物(聞き物?)だったかも知れませんね。
 「トリスタンとイゾルテ」は音楽の世界では、トリスタン以前とトリスタン以後に分かれるというほど、後の音楽に影響を与えた作品です。ドビュッシーの名作「ペレアスとメリザンド」はそのアンチ・テーゼとして強力な影響下に作られましたし、現代の調性崩壊(何長調だとか短調だとかいう調が無くなって無調と呼ばれる音楽)を起こす原動力となった、作品であります。
 音楽の語法を大きく変えたこの作品が、チューリッヒでの恋愛から生まれたのは、面白いことだと思います。そして、その副産物の五つの歌もまた、チューリッヒの空の下で生まれたことも、また知っておいてほしいものです。チューリッヒがいかに当時文化の中心として機能していたか、知る布石にもなるでしょう。

 暑い季節にはちょっと不向きな音楽ではありますが、寒い季節、胸を締め付けられるような大恋愛の音楽もまたいいものです。誕生の地がスイスだということで、またまたちょっとうれしくなってしまいます。