ジュネーヴの名ピアニスト、マガロフ

 ニキタ・マガロフは一九一二年二月八日にロシアのペテルブルク(旧レニングラード)に生まれています。貴族の家柄で、作曲家のセルゲイ・プロコフィエフもよく出入りしていて、音楽の才能を示すマガロフをよくかわいがったといいます。
 七才の時に革命を逃れフィンランドへ移住し、ここで高名な名ピアニストのシロティ(確か彼の編曲したバッハか何かをギレリスが弾いていたなぁ)その後パリ音楽院に進み、名教師にして名ピアニストのイジドール・フィリップに師事したそうです。
 ここで、徹底的なツェルニーからリストに繋がる伝統的なメソッドによって徹底的に鍛え直されたマガロフの演奏を聞いた作曲家のモーリス・ラヴェル(自身も大変な名ピアニストだったそうです)が、「傑出した、真に素晴らしいピアニストが誕生した」と、その門出を讃えたと言います。

 その頃のマガロフは、まだ作曲に興味があったようで、パリでプロコフィエフに習ってみたり、ストラヴィンスキーと親交を結んだりしていますが、結局はピアニストとしてのキャリアを歩んでいくことになったのです。

 こういう作曲にたいする興味が、同時代の音楽に対する彼の深い共感として表れているようで、ストラヴィンスキーのピアノと管楽のための協奏曲やカプリッチョの録音などに聞くことができますし、ファリャやグラナドスといったスペイン音楽からバッハ、フレスコバルディにスカルラッティといったバロックに至るまでの、とんでもなく広いレパートリー(そのどれもが素晴らしい解釈で聞くことができる)に表れています。

 一九三一年から名ヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティの伴奏者として、七年間、楽旅を共にし、その間に彼の娘イレーネと結婚し、ジュネーヴに家を持ちました。
 シゲティの伴奏者として、このヴァイオリニスト(ジュネーヴに住んでいた)から得たものは計り知れない物があっただろうと思いますが、一九三七年にはピアノのソリストとして、本格的に活動を開始しています。

 一九四九年、あの伝説のディヌ・リパッティが病に倒れ、ジュネーヴ音楽院の職を辞した後をうけて、ジュネーヴ音楽院の教授となった彼は、その後十年にわたってこの地位にあり、アルゲリッチなど多くの名ピアニストを育てています。そうそうオルガニストのロッグも彼の弟子でしたっけ。

 チューリッヒ・トーンハレ管と共演したリストのピアノ協奏曲(コンサート・ホール盤)や、アンセルメのストラヴィンスキー全集に納められている前述の二作品(アンセルメとの唯一のレコーディングとなった)は、スイス内でのその活躍を聞くことができるものです。
 またおびただしいライブ盤が(海賊盤まがいのものまでふくめれば)CDとして出ていますし、その中には、モントルー・ヴェヴェイ音楽祭(有名なジャズ祭とは違います。念の為…)のライブ(ディスク・モンターニュ盤)や、ベリンツォーナでのリサイタルのライブ(スイス・イタリア語放送の原盤、エルミタージュ盤)といったものも含まれていますが、彼の代表盤といえば、なんと言ってもフィリップスに入れた、ショパン全集でありましょう。

 その素晴らしさは、アシュケナージの全集よりも更に優れた音楽性と、確実なテクニックで、今もショパンの全集としてはファースト・チョイスの演奏だと思います。
 難曲として知られる練習曲集なども、アシュケナージやポリーニの名盤と充分に互角で渡り合えるものですし、全集全体としての仕上げの良さ、仕事に対する誠実さ、彼自身の音の美しさは、何とも言えない素晴らしさであります。曲自体に語らせるといった、演奏のどこにも演奏者の力瘤が入っていない、風通しのよさと、自ずと音楽が流れ出すような、自在な演奏の在りようは、もはや達人にのみ許された世界のように思えるのです。
 この演奏の特徴は、他の作曲家のものでも同じで、ベートーヴェンのソナタでも、作曲家の意図を汲み上げ、「ピアノを叩くのではなく音をすくい上げる(マガロフの言葉)」という彼の音楽に対する、あまりにも誠実な態度から出てくる、(ほとんど奇跡のような!)豊かな世界を聞くことができるのです。

 祖国を革命で追われ、転々とした後、スイスに定住していった音楽家は多くいます。近くには、名指揮者で作曲家でもあったチェコ出身のラファエル・クーベリックも住んでいたそうです。バイエルン放送交響楽団の音楽監督として活躍していましたが、スイス国籍を持っていました。亡くなったのはルツェルンでしたね。
 マガロフの義父のシゲティもスイスに住んでいましたっけ。

 マガロフは、一九九〇年の最後の来日の時(ああ、何で行かなかったのだろう!無念!)、ショパンの全曲演奏会を行っています。
 そしてその二年後、一九九二年十二月二十六日、ヴェヴェイで亡くなりました。