チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団

 チューリッヒは、リマト川が注ぐチューリッヒ湖畔のスイス第一の都市です。ツウィングリが説教をした大聖堂が湖面に壮麗な姿を映し、リトベルクなどの緩やかな丘陵が穏やかな風景にとけ込んでいます。この町にはワーグナーが住み、ブラームスが何度も訪れこの町のオーケストラを指揮した文化の町であることも忘れてはなりません。
 宗教改革の嵐が収まり、人々は再び音楽の楽しみを求めるようになりました。聖歌の編纂を行っていた人々が中心になって音楽協会(コレギウム・ムジクム)が生まれ、十八世紀にはそれが主催する演奏会に富裕な市民が出かけるようになっていきます。この活動と結びついて、ネーゲリ等の合唱運動が高揚していったのですが、ネーゲリがベートーヴェンやモーツァルトといった音楽を出版し、スイスの人々の音楽的教養を高めていった結果、常設ではないものの、プロの器楽奏者がチューリッヒに集まるようになっていきます。
 一八四九年にヴェーゼンドンク氏に招かれ、チューリッヒに滞在したワーグナーは、この町の音楽協会が主催するコンサートの指揮をしたりしていますから、チューリッヒにはかなり古くからオーケストラが存在していたようです。常設のオーケストラではなかったようで、ワーグナーもあまり良くは語ってはいませんけれど・・・。
 多くの人々の要望に応える形で、一八六二年に常設のオーケストラがチューリッヒに誕生します。歌劇場や音楽協会のコンサートに演奏していたようです。
 そして、一八六八年。このオーケストラを核としてチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団が創設されます。当時の楽員数はたった三十三名だったそうです。初代の指揮者はフリードリッヒ・ヘーガーでした。当時の録音が残っているわけありませんから、どんな演奏をしていたのかは全くわかりません。しかし、スイスに何度か訪れたブラームスが、何度もこのオーケストラの指揮台に立っていますから、ある程度のレベルを維持していたと考えてよいのではないでしょうか。
 一八九五年にブラームスが自作の「勝利の歌」を指揮して、新しいトーンハレのこけら落としが行われました。ブラームスのあとには初代指揮者であったヘーガーが、ベートーヴェンの第九を指揮してこのホールの第一回コンサートが行われたのです。一九〇六年に第二代の指揮者であるフォルクマール・アンドレーエに引き継がれるまでの四十年間を率いたヘーガーはトーンハレ管弦楽団の土台を作ったのです。
 さて、第二代のアンドレーエは、このオーケストラを四十二年にわたり率いたスイスの巨匠でありました。彼は、ブルックナー指揮者としても高名であり、いくつかその録音も残されています。この当時のスイスの指揮者は作曲家でもありました。有名なザンクトガレン交響楽団のシェックやベルン交響楽団のフリッツ・ブルンといった人たちが交響曲やオラトリオ、歌劇といった大がかりなものからピアノの小品に至るまで様々な作品を残していますが、アンドレーエもその一人にあげられるでしょう。
 また、アンドレーエはチューリッヒ音楽院で指揮法の教授もしていて、多くの指揮者を育てています。
 彼は一九四九年までトーンハレ管弦楽団の音楽監督として活躍しました。ブルックナーなどの作品がそのレパートリーに加わり、ヨーロッパでも名声を得るようになります。ヴァルター・ギーゼキングと入れたモーツァルトのピアノ協奏曲第二三番などは、すっきりした軽快なテンポでありながら豊かな情感にあふれた表情で、聞く者を惹きつけます。ウィーン・フィルハーモニーなどにも数多く客演をしたアンドレーエは、エルネスト・アンセルメと並ぶ巨匠でありました。
 その後、エーリッヒ・シュミットがその座を引き継ぎます。シュミットはバーゼル放送交響楽団とチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団を中心に活躍した指揮者で、チューリッヒ音楽院で指揮法の教授でもありました。一九五七年からはハンス・ロスバウトが受け継ぎ、このオーケストラで現代音楽のシリーズ「ムジカ・ノヴァ」を創設し、チューリッヒの人たちに現代音楽を紹介していったのです。
 こうした積み重ねがあって、一九六五年、ウィーンやベルリンで高い人気を誇っていたルドルフ・ケンペが着任します。ケンペはライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のオーボエ奏者から指揮者に転身した経歴の持ち主で、ドイツの地方歌劇場の指揮者からたたき上げていった職人でした。誠実に作品と向き合って積み上げていくといった特色で、あまり派手な演奏で大向こうをうならせていくタイプではありません。しかし、それがチューリッヒと合ったのでしょう。十年にわたるチューリッヒで彼の仕事は、大変実り多いものでした。録音があまり多くないのが残念ですが、わずかに残されたブルックナーの第八番などの大名演に接してみると、改めて彼らの十年にわたる実り多い年月のことを思わずにはいられません。
 一九六七年から七一年まで、NHK交響楽団の音楽監督として私たちにも親しいシャルル・デュトワがフランス物のレパートリーを充実させるために客演でトーンハレの指揮台に立っていることにも注目したいところです。しかし、デュトワはその後モントリオール交響楽団に転出し、チューリッヒにはまたしてもドイツ人指揮者で読響の指揮で私たちになじみ深いゲルト・アルブレヒトが就任。あと指揮活動も軌道にのりはじめたドイツ人ピアニスト兼指揮者のクリストフ・エッシェンバッハ、我が国の若杉弘氏やドイツ人のペーター・フロールといった指揮者が活躍しました。
 若杉氏以外は全てドイツ人ということで、このあたりにこのオーケストラのアイデンティティーがあるのでしょう。すなわち、スイス・ロマンド管弦楽団がフランス語圏のオーケストラでありチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団がドイツ語圏のオーケストラであるというアイデンティティーを頑ななまでに守ろうとしているように私には思えるのです。
 しかし、一九九五年に首席指揮者に就任したディヴィッド・ジンマンは多くの点で画期的でした。
 彼は、ニューヨーク出身でタングルウッドでピエール・モントゥーに認められてキャリアを開始した
ジンマンはアルテ・ノヴァ・レーベルに重要で、極めて興味深い、いくつかの録音を始めました。ベーレンライター版によるベートーヴェンの交響曲全集は強いインパクトをもって世界中の注目を集めましたし、リヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲のシリーズやモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集、オネゲルの管弦楽曲集などが世に出ると多くの人から称賛の嵐が巻き起こります。
 ジンマンのもと、二十一世紀を迎えたトーンハレ管弦楽団は、新たな段階に入ったと言って良いでしょう。