凱里博物館 1 凱里博物館 2 南花村歓迎会 舟渓 芦笙祭6/8

2001年2月中国貴州省の旅


2月12日(日)   -2-  舟渓鎮(しゅうけいちん)芦笙祭り



南花村からの帰路が順調で、早く帰れたため、
一度ホテルで、休憩を取り、改めて、舟渓鎮へと
出発することになった。

空模様もすぐれず、お祭りの人出が心配
されたが、会場に近づくにつれ、道にお祭りに向かうらしい
人並みが、増えてきた。たくさんの人が、
田舎道を歩いて、会場へと向かっていた。

一台に大勢の人が詰め込み状態で、
向かっている車もたくさんいた。バスで、向かう、私達も段々と
期待に旨が膨らみ、ワクワクしていた。

会場に近づくにつれて道幅は狭くなる。
お祭りの会場は、どうやら大きな橋の下の川原らしい。
道端には、たくさんの車が、
路上駐車しており、その残りの道幅を私達の
マイクロバスや他の車と、会場に歩いて向かう人達が分け合って
進む状態になっていた。そんなに奥まで入って行って
大丈夫だろうか、と、私などは、思う。

でも、くまさんなんかは、臆せず言う。
「運転手はん、ずぅっと、奥まで行ってヤ。
足場も悪いよって、歩くのは、かなわん。」
「そやな。なんせ年寄りばかりやからな。」誰かが合いの手を入れる。

そう言っておきながら、「ほら、案の定」という事態が帰り道に
起きるのだけれど、それは、又、その時に書く事に
しようとおもう。


会場には、すでに芦笙の音楽が
あちこちから、響いていた。どうやら、歌のコンテストか何かもスタート
しているらしかった。広い川原の会場は、
もうごったがえしていた。





小さな流れを渡って会場の川原に下りると、もう
身動きが自由には、とれないほどの人並みだ。
あちこちに円が作られている。それが、多分
集落単位と言う事になるのだろう。
その円の中で、男性は、芦笙を吹き、この時とばかり、
着飾った、女性達が、緩い簡単なステップを
踏みながら、円を描いて踊っていた。

私達は、何から、どう見ればよいのかわからず、
人の多さに驚きながら、しばらく右往左往していた。
一般観光客というのは、多分、私達位だったのでは、
ないだろうか。動いて歩くと、
「この人達は、と゜うしてここにいるんなんだろう。」と
いう感じで、怪訝そうに見られた。

写真を撮ろうにも、あちこちに対象がいて、
何から撮ればいいのやら。石ころの足元に気をつけつつ、
人波に押されながら、日本語で、「済みません。
済みません。」と言いながら、人を掻き分けていた。

行き交う人が、皆、ペッ、ペッと、地面に何かを
吐いている。「なんや汚いねぇ。」一緒に行動していた
神戸のNさんが、おっとり、不満をもらす。それで、
二人で、良く見ていると、どうも、ひまわりの種らしいのだ。
お祭りと、どうやら「ひまわりの種」は、
つきものらしい。多分中国では、そうなのだろう。
皆手に袋を持っていたり、ポケットにいれていたりする。それを
歩きながら口に運んでは、殻をだすのだろう、右や左に
ペッ、ペッとしているのだ。

集まった人の様子は、取り留めが無さ過ぎるので、
すこし、まとめてみる。

1.子供達

2. 娘さん達

3.母と娘

4. 衣装の飾りなど



と、でもしようと思う。

*のマークの写真はクリックしてご覧下さい。



1. 子供達


子供達は、いつも注目の的。




小さいのにかなり衣装も
揃っていて、色合いもかわいい

*
もう立派な銀冠をしている子もいれば、
まだの子もいる

*






2. 娘さん達



晴れの舞台に胸を張って。


赤いエプロンがかわいい
*
ここは、黒いエプロン(スカート?)
*
このエプロンは、珍しかった
*
ここは、スカートをはかないらしい
*




3.母と娘



娘のそばには、世話を焼いたり、
心配そうに付き添ったり、見守ったり、いつもお母さんの
姿があった。





これから、豪華な銀冠も揃えていくのでしょうね。
この随分現代的な上着のスタイルもたくさん見かけました。
立った襟に、上着には、地模様があり、それが何と、チェック!!
これも、その村あるいは、その辺りの流行りなのでしょうか。



左から、子供の小さい順に
*
*
*




4.衣装のアップなど


見たい所、撮りたい場面は、いつも人だかりもすごくて、落ち着いて
カメラを構えていられるゆとりがない。自分が、あわてて、ピンボケに
なってしまったり、被写体との間を人が横切ってしまったり、
なかなか思うショットが撮れない。本当に内輪のお祭り風景そのものだった
ということでもある。

*
*
*




お祭り見物の親子


子供達は、いつもかわいい帽子をかぶっている。
一般的な説明は、目にしたことはないけれど、
子供の帽子は、魔除けのため、と、どこかで読んだことがある。。




帰り道


人ごみにもまれながら、私と、Nさんが、
ようやく会場を一回りした頃、ちょうど、集合時間が
迫ってきていた。小さな流れを石づたいに戻る時、
Nさんが、足を滑らせて、川の流れの中で転んでしまう。
体半分がずぶぬれとなる。
お店の人にタオルを借りて、ようやく、一時凌ぎに
全体を拭き、集合場所に向かう。「大丈夫ですか?コートも
すっかり濡れてしまいましたねぇー。」私がいうと
Nさんが言う。「そやねぇー。かなわんわぁ、でも、よかったわぁ。
コートも靴も、二つ持ってきたんよ。」さすが、
何て準備がいいこと。集合時間がせまっていたので、
私達は、足早に歩いた。


普段着の民族衣装の娘さん達が、たくさん通りすぎて行く。
写真を撮りたいけれど、時間がない。


お祭りに一所懸命のお母さんに代わって、
この日ばかりは、お父さんも「子守り」、なのだろうか。
男性のねんねこ姿を結構見かけた。
それにしても、ねんねこまで色とりどりなのには、
どこでも感心したものだ。。



でも、どこかで読んだことがある。手先の器用な
少数民族ということには、なっているけれども、
やはり、100人が100人共そうというわけでないらしい。
苦手な人も、あるいは、刺繍にばかり精を出して
いられない人もいるというのだ。

そういう人達は、それこそ「ねんねこ」などは、市の日に
買うのだそうだ。でも、この日の出店では、
食べ物と、生活必需品関係がほとんどのようだった。



集合場所で、皆揃うのを待つが、
二人が、時間を過ぎても、なかなか来なかった。
一人は、途中で、「もう時間よ。」とNさんが、声をかけたのに、
「なあに、大丈夫、大丈夫」と、更に奥に行ってしまった
Hさん。もう一人は、少々わがままな「社長さん」だった。
どのくらい待ったのだろう、先にHさんが、最後に「社長さん」が
戻った。「社長さん」は、しごく御機嫌が悪い。皆を待たせても
誤らない。聞けば、彼も、川を渡る時に足を滑らせて、
転んだのだという。トレーナーの上下とも、
ずぶぬれになっている。待たされた不満を抑えて、
心ある人が声をかけるけれど、転んだのがまるで
皆のせいであるかのように機嫌が悪い。

それを見て、その日までは、まがりなりにも
コンビとして、「社長さん」を立てていた気のいいくまさんも、
とうとう腹を立てる。愛想をつかした形である。
「あン人、何言うてまんねん。自分で転んでおいて
誰のせいでもおまへん。それで、何、人にあないに不機嫌にし
ますねん。みんなを待たせて置いて、我ままにもほどがある。」
と、いうわけだ。直接言ったわけではないけれど、その後、
コンビ解消・・・というか、くまさんは、「社長」と距離をおくことにしたようだ。
その後、「社長」は、ずっと、不機嫌だった。
もっと、言えば、帰るまで、不機嫌だった。
お話相手を最年長88歳のSさんと、おとなしくて、
やさしいEさんにしぼっていた。


やっと、皆が揃いバスに乗り込む。
でも、どうなるんだろう。こんな奥に入って来ているから、
出るのが大変だ。道は、どんどん歩いて来る人と、
新しく会場に向かう車でびっしりなのだ。道の横に止めた
バスを出発させること自体が難しそうだった。


そんな時、バスの真横の畑に腰を下ろしている
一組のカップルがいた。
お祭りは、公認の恋のチャンスでもあるとのこと。
だから、母親達は、自分の娘が、少しでも男性の目に
留まるように、着飾らせてあげるのだ。

でも上の二人は、着飾ってはいないけれど、真剣だった。
見ていれば、少なくとも、男性は、必死で女性に何かを
話しかけている。でも、彼女が、なかなか、
いい返事をくれないそんな様子だった。


二人は、何しろバスの真下にいた。私達のバスは、動かない。
見たくなくても、見えてしまうのだから、仕方ない、という
感じだった。でも、本当に感心することに、
二人は、自分達のすぐ横のバスに、どやどやと、私達が
乗り込んだのも全く意に介していなかった。


バスの中では、皆が、いろいろ
言い始めていた。
「あー、あれは、かわいそやなぁ。男ん方は、ダメやおまへんか。」
「そやなぁ、時間が掛かりすぎてますがな。」
「あんな長いこと、畑に直接座って、、あれは、おしりが、
冷たいでっせぇ。」
「そやなぁ、わてが、新聞持っていきまひょか。」
「止めときなはれ、邪魔なだけやがな。○○さんも覚えが、
ありまっしゃろが。」・・・・・  ・・・・・
おもしろくすれば、きりがなく、二人のことで、バスの中は、
しばし盛り上がっていた。


やっと、バスが、動き出した。
でも、ノロノロとほんの少し(10p位に思える)進んでは、すぐ止まる。
・・と、なると、ここからが、大阪人の本領発揮か、という流れである。


くまさんが、言い出す。
「運転手はん、あんた、こないしていたら、何時までたっても
ホテルに帰れませんがな。バス出ぇしませんのんか?」
道路側に座っている私としては、えっ、という感じだった。
バスの下の車と車のわずかの間をひっきりなく人が通っているという
状態である。ここで今、バスの頭を
出してもすぐ先には、こちらに向かう車がきているのだ。

「いつまで、待っていても、これは、し方がありまセン。
頭から入って行かなくては、出られまセン。」
隣の座席のHさんも、四国弁というのだろうか、それとも
彼特有の言いまわしなのだろうか、
独特のイントネーションで、つぶやくように言う。


何分そこで、又、先に進めずにいたのだろうか。
やがて、くまさんは、又、その大きな目をむいて、
運転手さんやバスの前の方にいるガイドさんに向かってゲキを
飛ばす。
「何でこないに動きぃしませんのやろ。
中国いう所は、こないな時、交通整理ゆうモンを
しませんのかいな。誰か、前ぇ、出て行ったらええんとちゃいまっか。」
「そや、誰か、道路に立ったらえぇんや。」


中国人の運転手さんも、ガイドさんも何とも返事できずにいる。
だからと言って、そのために行動に起こす気もなさそうだ

「ガイドはん、あんた、ただ、黙って、すわってへんと、ホラ、
先の方に行って、安生して来てぇな。」
でも、ガイドさんは、動かない。じっと、ガマンの子というところか。


ただ、急きたてられっぱなしの運転手さんは、
もともと強気の運転をする人だ。そんな言葉にじいっと、甘んじて
いるはずはなかった。当初からスキあれば、バスを進めようと、
狙っていた。そして、とうとう人と、車の流れのわずかの
スキをついて、グーンと、バスの頭を道路の真中にせり出させた。
と、後ろからもう一台真中を来た車と、私達のバス、
それにと、前から来た車の三台が、路上でいきなり、ダンゴ状態になった。
どう動いてもお互いがどれかと、接触しそうな状態だ。


でもここから先は、どうやら運転手同志の
力関係になるらしかった。更に一歩先んじるためには、
隣の車を下げさせなくてはならない。そのためには、その
後の車も下げさせなくては、ならない・・・そして、又、その後も・・。
だから、この際、重要なのは、相手達を引かせる「威勢」だ。

そして、そうなると鼻息が、荒いのは我バスの運転手氏だ。
(真実の程はわからないけれど )後で聞けば、同じ運転手の中でも
観光バスの運転手は、ランクが上なのだそうだ。
。まあ、ともあれ、
腕もいいけれど、プライドも高い、ということでもあったのだろうか。
我運転手氏は、窓から体ごと乗り出して、
思いっきり、怒鳴っている。向こうも怒鳴り返す。
もっと更に後の車からも怒鳴り声が聞えてくる。
そうして、怒鳴り合いは、続き、我バスは、ジワリ、ジワリと、
調整に優勢をみせた。

私は、窓の外のその様子をみていて、ヒヤヒヤものだった。
まるで、ケンカのような怒鳴り合いもそうなのだけれど、
車同志のきわどい距離、しかもそれでも、その間をすり抜けて
行こうとする人々・・・・。この人達、命は、惜しくないのだろうか、
という感じだった。

我バスが、ようよう、後から来た真中の車を出し抜いて行く時、
こちらのバスと相手の車の胴体の距離は、10センチ位!!だった( 気がする)。
ふうっー、疲れる。
でも、何しろ、「交通整理」というものがないのだもの、こうでもしなくては、
あそこから出られなかったのかもしれない。

それから先、我バスは、「怒鳴り勝ち」して、
まあまあ、首尾良く進むことになった。
そうすると、もう文句はない、くまさんと仲間達だ。


この一件を私は、結局、多いに楽しんでいたと思う。

この混雑の中だ、「ずうっと、前へ」と行ったら、
出るのが、大変なのは、わかっている理屈という気がする。
そうすると、普通に考えると、出る時にそう急かすのも気が引けるというものだけれど、
くまさん達は、それには、何のこだわりもならしい。
その何とも「我ままところ」が、おもしろかったのだ。
「運転手はん、ずうっと、前まで行ってや。」
「運転手はん、早よ、出ぇな。」



夕食


この日の夕食は、ホテルのレストランでだった。
そして、驚いたことに、「日本そば」が出た。
でも、これは、ホテルのメニューではなく、この旅行会社の
添乗員の人のお手製なのだという。この旅行社では、
旅行中に日本食が懐かしくなってきた頃、添乗員の人が
宿泊ホテルの厨房を借りて、1、2回日本食を出す、というのが
恒例なのだそうだ。今回は、その1回目が、おそばだったのだ。

中華料理に飽きることは、なかったけれど、
こんな場面で、思いがけず日本の味が、ひょいと、出て来るのは、
嬉しいものである。皆も、喜んで箸を運び、おそばは、あっという間に
売り切れた。


ホテルの御土産屋さんにて


食後、私達は、又、あの御土産屋さんを覗きに行った。
そして、閉店間際まで、粘った末、くまさんは、お気に入りの
刺繍を数点買い込んだ。私も、どさくさに紛れて、小さいものを
二枚買った。「ドル」にするとか、「円」でもいいのでは、とか、いや
それなら、「元」・・・とか、いろいろやり取りが
あったけれど、私は、その計算について行けず、少し値切っただけで、
満足して買ったのだったと思う。

お店を立ち去り際に店内に飾られていて、ずうっと気になっていた
紺の(ミャオ族の)ろうけつ染の金額をやっと、
聞いてもらうことが出来た。もし、これが、日本に来て買うとすると、
とんでもない値段になるんだろうな、など邪念まで入ると
増して心が動いていた。
でも、そこで買った刺繍と、その前に昨日、
「凱里博物館」の売店で買った少数民族のCDの金額が
響いて、もう私の元は、なくなっていた。ホテルに両替え所はない。

最後に、せめて写真だけ撮らせてもらって、諦める。
(実は、今でも心残りでいるのだけれど)

ダイナミツクで繊細で何て見事な図柄だろう!!
ろうけつ染めの下絵

仕上がったもの
*


ここで、ついでに購入したCDの紹介を
本当は、いけないかもしれないけれど、少しだけ。

オーデイオのカラオケの機能で、音と画像が再生出来ると
わかったものの、完全な形では、その画像を見ることが出来なかった。
音は、完全に再生して楽しめたのがせめてもというところかも
しれない。

お土産は、最後にまとめました。




貴陽へ