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98.09.09

切り取り「伊豆の踊子」

 先日の日曜(1998.09.06)の「朝日新聞」読書面「本よみの虫干し」で、関川夏央氏が川端康成の「伊豆の踊子」を取り上げていました。要旨は、「伊豆の踊子」は「純愛小説」と認識されているが、いま読み返すと、ずいぶん性的である、主人公の「私」は、踊子を追いかけるストーカーの一種である、というようなことでした。
 これを読んで、思わず膝をたたきました。そうなんですね。僕も高校の国語で「純愛小説」として教えられました。教科書だった大修館書店の『高等学校 国語I』(1983.04再版)を読むと、純愛小説ととられてもしかたがない扱われ方です。
 ところが、当時、高校の図書室で文学全集の川端康成の本を開き、この「伊豆の踊子」には教科書には載っていない部分がかなりあることに気づき、驚いたことがあります。
 それらの部分が削除されたのは、スペースの関係もあるでしょうが、一番の理由は「教科書にふさわしくないから」でしょう。まず、性的な場面は載せない。それから、旅芸人一行がいやしめられている表現は載せない。この2つの基準があるようにみえます。
 ところが、これを取ってしまうと、「伊豆の踊子」の話が非常に曖昧模糊としてくるんですね。
 主人公の「私」は、初め踊子を誤解していた。茶屋の婆さんの「お客があればあり次第、どこにだって泊るんでございますよ」という〈甚だしい軽蔑を含んだ〉ことばにあおり立てられ、「それならば、踊子を今夜は私の部屋に泊らせるのだ」と思ったほどで、踊子を性的対象とも見ていたわけだ。芸人一行がいやしく描かれているため、「どこにだって泊る」という婆さんのせりふが、より性的な色合いを帯びる。
 もっとも、この部分は教科書にも出ています。ただ、その後、「私」は宴会の模様をうかがいながら、踊子が色を売るのかと焦燥するのですが、その場面は削除されています。

 やがて、皆が追っかけっこをしているのか、踊り廻っているのか、乱れた足音が暫く続いた。そして、ぴたと静まり返ってしまった。私は眼を光らせた。この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。踊り子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。
 雨戸を閉じて床にはいっても胸が苦しかった。また湯にはいった。湯を荒々しく掻き廻した。雨が上って、月が出た。雨に洗われた秋の夜が冴え冴えと明るんだ。跣で湯殿を抜け出して行ったって、どうとも出来ないのだと思った。二時を過ぎていた。(新潮文庫『伊豆の踊子』 p.17)

 自分の思う少女が、客に色を売っているかもしれぬという煩悶! これが「伊豆の踊子」の前半の白眉だ。これをカットしてしまっては、後で踊子の年を知ったとき、なぜ「私はとんでもない思い違いをしていたのだ」と〈ことことと笑い続けた〉のかが分からなくなる、少なくとも分かりにくくなります。
 こうやって、人畜無害に変えられた小説ばかりを読むのが国語の時間であるのか。名作「伊豆の踊子」はお子様ランチ的「伊豆の踊子」(なぜか「り」が入る)となり、無類の痛快小説「坊ちやん」は、少年期の追憶物語「坊ちゃん」となり(なぜか「っ」が抜ける)、また、すきあらば他人の奥さんを取ろうとする話ばかり書く夏目漱石は、則天去私の高踏派文豪として教えられる。
 これで生徒に国語ぎらいが出てこないほうがおかしいではありませんか。

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