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02.09.11

ナオミという名前

 谷崎潤一郎の「痴人の愛」(1925)は、大学時代に読んで以来僕の好きな小説のひとつですが、読むたびに、どうも新しすぎる、これは本当に大正時代の小説なのだろうかと首をひねっていました。
 まず、改めていうまでもないことながら、テーマがたいへん斬新です。30代半ばの夫が、20歳そこそこの美しくもまた浮気な妻にいいようにもてあそばれ、そこにマゾヒスティックな幸福を感じる心情を述べたもの。「羅生門」「城の崎にて」「伊豆の踊子」といった、学校で習う良い子向けの大正文学とはずいぶん趣が違います。

痴(言海)  文学作品としての斬新さはもちろんのこととして、僕は表記の新しさが気になりました。
 まず、タイトルが「癡人の愛」ではなく「痴人の愛」となっています。これは、初版本のタイトルからそうなっています。「痴」は「癡」の略字体であり、この略字体は「当用漢字」の字体として戦後広く使われるようになったものであるはず。大正時代の小説のタイトルに使われるのはめずらしいのではないでしょうか?

 実際には、昔は「痴」の字もしばしば使われていたようです。『言海』『日本大辞書』『ことばの泉』といった明治時代の辞書には、「癡」ではなく「痴」の字体が見出しに立っています。1943(昭和18)年の『明解国語辞典』には「[痴・癡]」の順で載っており、どうも一般的には略字体の「痴」のほうがよく使われていたようです。
 すると、タイトルに関しては、べつに谷崎の意図はなさそうです。「あと20年もすると『当用漢字表』というのができるだろうから、その字体に選ばれるはずの『痴』を使おう」というふうに未来を先取りしたわけではなかったようです。

 では、主人公の女性の名前「ナオミ」はどうでしょうか。「ナオミ」というのは「現代仮名遣い」ではないでしょうか。当時の仮名遣いならば「ナヲミ」となるはずです。
 冒頭の部分を読むと、主人公の名前に関するエピソードが語られています。

彼女はみんなから「直ちやん」とよばれてゐましたけれど、或るとき私が聞いて見ると、本名は奈緒美と云ふのでした。此の「奈緒美」といふ名前が、大變私の好奇心に投じました。「奈緒美」は素敵だ、NAOMIと書くとまるで西洋人のやうだ、と、さう思つたのが始まりで、それから次第に彼女に注意し出したのです。
〔略〕
實際ナオミの顏だちは、(斷つて置きますが、私はこれから彼女の名前を片假名で書くことにします。どうもさうしないと感じが出ないのです)活動女優のメリー・ピクフオードに似たところがあつて、確かに西洋人じみてゐました。(『谷崎潤一郎全集』第10卷 p.4)

 「直ちゃん」ならば仮名遣いは「ナホちゃん」であり、本名の「奈緒美」を「片假名で書くことに」するならば「ナヲミ」です。しかし、作者は意図して表音的な「ナオミ」を用いています。

 作者はまた、語り手である「譲治」の呼び方にも注意を払っています。最後の方にこういう個所があります。

自信がなくなると仕方がないもので、目下の私は、英語などでも到底彼女〔ナオミ〕には及びません。實地に附き合つてゐるうちに自然と上達したのでせうが、夜會の席で婦人や紳士に愛嬌を振りまきながら、彼女がぺら/\まくし立てるのを聞いてゐると、何しろ發音は昔から巧かつたのですから、變に西洋人臭くつて、私には聞きとれないことがよくあります。さうして彼女は、とき/゛\私を西洋流に「ヂヨーヂ」と呼びます(『谷崎潤一郎全集』第10卷 p.302)

 「譲治」は「じやうぢ」と表記するのが当時の仮名遣いです。これをGeorgeを踏まえて表音的に記すことによって、新しさを出しています。それまで「じやうぢ」であった男が、「ナオミ」と同様に表音的に記されるところでこの小説が終わるのは示唆的といえるでしょう。

 ところで、当時、「ナオミ」のような「○○ミ」という名前は一般的だったのでしょうか。猪俣勝人・田山力哉『日本映画俳優全史 女優編』(教養文庫)という名鑑によって女優の名を見てゆくと、まず1人、1918(大正7)年の映画「生の輝き」で主演した花柳はるみがいます。しかし、その後はとんと現れません。
 大正・昭和戦前は「〜子」の天下であり、この名鑑で見るかぎり「○○ミ」はひとりも出てきません。再び出てくるのは1950年代になってからで、水野久美(1956年映画デビュー)江利チエミ(1952)雪村いづみ(1955)芦川いづみ(1953)中原ひとみ(1954)野添ひとみ(1952)二木てるみ(1955)大空真弓(1958)などの名が見えます。

 明治生命の「生まれ年別の名前調査」では、1912(明治45)年以来の毎年の女子の名トップ10が示されています。これによれば、大正期にも「キミ」「トミ」「フミ」といった「○ミ」型の2字名が上位にあります。しかし、種類が限られており、後の3字名の「○○ミ」のような生産性もないようです。
 3字名の「○○ミ」がトップ10に入ったのは、じつに1957(昭和32)年の「明美」(第9位)が最初です。

 「ナオミ」の名は、表音的に記されているという点から見ても、3字名の「○○ミ」の形である点から見ても、新しいのです。

 最後に、蛇足になりますが、「カオリ」という発音で、「かほり」と書く名前の人がいます。ところが、辞書を見ると、「香り」の歴史的仮名遣い(旧仮名遣い)は「かをり」であり、「かほり」は不適当ではないかという意見があります。
 僕が大学時代に習った先生は、
 「たまに『かほり』さんという人がいますが、仮名遣いの間違った名前なので気の毒ですね
 と断言されました。
 しかし、固有名詞の「カオリ」が、普通名詞の「香り」と同じ仮名遣いを守らなければならない理由はありません。
 「ナオミ」の場合、「直(なお)く美しい」という意味の「直美」であれば歴史的仮名遣いは「なほみ」ですが、実際には1字1音で書く「奈緒美」や「奈生美」もあり、それぞれの仮名遣いは「なをみ」「なおみ」となります。
 同様に、「エリコ」は「衿子」ならば「えりこ」ですが、「絵里子・恵理子」ならば「ゑりこ」となります。「シオリ」も「栞」ならば「しをり」、「志保里」ならば「しほり」、「詩央里」ならば「しおり」となるところでしょう。「志保里」では本の栞の意味にならない、と文句を言うのは的外れです。
 小椋佳作詞「シクラメンのかほり」の「かほり」は、奥さんの名前に由来するそうなので、これも問題ないでしょう。

(2002.09.17改稿)



追記 作者は「NAOMIと書くとまるで西洋人のやうだ」と書いていますが、これが単に日本人名をローマ字表記したのではなく、西洋人名のNaomiと掛けてあることに僕は最初気づきませんでした。
 岡島昭浩氏からご指摘をいただいて、やっと気づきました。お恥ずかしい。そういえば、ナオミ・キャンベル(Naomi Campbell)という有名なモデルもいます。
 そこで、ご指摘をいれて当初の文章を大幅に改稿しました。
 岡島氏はまた、「イザナキ・イザナミの昔から、ミは女性を示すもの」であり、そのため舶来の「ナオミ」が「和化しやすかったのでしょう」とのお考えもお示しくださいました。(2002.09.17)

関連文章=「減少する「子名前」」、「詠めりて」(「かをり」に関して)

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