ソロ・ツーリング記録

ソロ・ツーリングとは単騎鉄馬にまたがり旅に出ることである

バイクなどには50ccのホンダしか経験はなかったが1994年に老後の楽しみにとハーレダビッドソンを購入した。なに せシルバーになって初めて乗るバイクである。習熟のため 毎週末近くの箱根、伊豆半島、三浦半島を練習目的でソロツーリングをした。その後、石原隊でグループ ・ツーリングしているが、時々ソロツーリングも継続している。

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三浦半島にて

1994-1998年の間

1994年11月13日に横須賀に永久保存され ている戦 艦三笠を訪問したのち三浦半島を一周した。

4輪車を一時持たなかった時期、鶴ヶ島カントリークラブ(Golf Course Serial No.005)などで のゴルフの行き帰りに、また長 野への帰省にソロツーリングをした。

1996年2月に安岡章太郎が大病して入院中に読破した「大菩薩峠」を紹介した「果てもない道中記 上下」 を読んだ。「大菩薩峠」は青梅街道ぞいの沢井村出身の中里介山が書いた41巻にのぼる大著である。これがきっかけで青梅街道ぞいに甲州の塩山に出、信州の 白骨温泉に出る街道をバイクで旅したいと思うようになった。しかし甲州の塩山に出るだけでも当時の技量ではタンデムでは高速道路が使えず、一泊旅行を覚悟 しなければならないし、ソロではつまらないだろうと決行し なかった。1997年に乗鞍経由飛騨にタンデムで旅した時も白骨(しらふね)には後日を期して立ち寄らな かった。この願いは2006年の能登半島・若狭湾の旅で実現する。

1996年3月末、きだみのる著の「気違い部落周遊記」を読んで、1996年3月に日帰りの出 来る陣馬街道にソロで挑戦した。陣馬街道は多摩川上流の和田峠にぬける上恩方村を貫通する街道である。相模湖、宮ケ瀬、七沢、厚木経由で帰宅。初めての山 岳走行であった。

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上恩方村の民家(1996年撮影)

きだみのる氏が「気違い部落周遊記」を書いたのは恩師マルセル・モースの外界からの影響の少ない集落でフィールドワーク して観察記録を残すようにとの薦めに従ったわけであるが、気違い部落と書かれた恩方村の人々は二度ときだみのる氏に心をひらくことはなかったといわれる。 しかしここに書かれた戦中・戦後の村の人々はまさに日本人の典型である。

1998年9月15日、湘南バイパスー箱根ターンパイク経由湯河原に出、「こごめの湯」 (Hot Spring Serial No.102) を一風呂あびて帰る。

2003年8月2日、山梨県が主催した、「瑞垣の森」探検と森林バイオマスエネルギーの話という集会でマキカートの デモ運転するために日帰りで出かけた。ひさしぶりのソロ運転である。片道4時間の往復と現地6時間の拘束であるため、4:30起床、5時出発、夕刻7: 00帰着の強行軍であった。「瑞垣の森」への入り口にある黒森部落では名物「花豆」のダイダイ色の花が咲き誇っていた。それにしても途中通過した甲府盆地 の暑さはすごかった。

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瑞垣山 (2003年8月撮影)

「瑞垣の森」は日本百名山の瑞垣山(みずがきやま 2,230m)の西側の麓のなだらかな斜面に2001年全国植樹祭のために開発された広場である。天皇の臨席を仰ぐことからアクセス道路も瑞垣山の全貌が 見渡せるロケーションも最高である。「瑞垣の森」そのものが1,500mの高地にあるので、ここから見上げる瑞垣山の絶壁の高さは730mという見事なも のである。ちょうど1月前にここを訪れた時には瑞垣山は雲のなかであったが、今回は薄いベールのなかにその姿をみせてくれた。

ただ残念なのは駐車場はやむをえないとして、集会にも散策にも手ごろな折角のなだらかなスロープが大規模土木工事で平ら にカットされ、丁度オッパイを半切りにしたような痛々しい斜面が瑞垣山の前に出現し、景観を阻害していることである。この違和感のある斜面に植樹したのだ そうであるが、いまだに木は育っていない。どうも全国植樹祭というのは土木工事業者のために存在するのかという疑問がフツフツとわいてくる。手入れの行き 届いた芝が敷き詰められたこの広場のシーンは結局撮らないで帰った。この芝が自然のスロープの上に敷き詰められたら、催し物をしなくとも、人々が殺到した だろうにと思う。青森県下北半島の北端の町、大畑町が失敗から学んだように、学んでほしいものだ。

この催し物は県がNPO「えがお・つなげて」に委託したものである。20人ほどの小学生とその親にまじって森林インスト ラクターから木、野草、指標 植物毒キノコに ついての話を聞きながら周辺の森を散策した。山梨県の名前はヤマナシの木が多いことから名つけられたという話をうかがう。それにしても行政の力をまざまざ と再確認した。わざわざ東京から日テレの報道陣が取材にきているではないか。

「瑞垣の森」の林床は散策しやすいようにと、大勢の草刈人夫が下草を刈って、手入れを怠っていない。しかしかなり税金を かけていることはたしかである。グリーンウッド氏は持論のフェンスで囲った区画でのヤギの放牧による林床のローコスト・メンテナンスを口にするとたちどこ ろに須玉町役場の林政係官から「苗木の芽も食べてしまうというのでダメ」という硬直思考の言葉が鸚鵡返しにかえってくる。少し自分の頭で考えてみれば苗木 の周りに保護柵をめぐらすほうが、大勢の草刈人夫の長期間の人件費よりローコストであることはわかるはずなのに。

心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず

今日は日当をもらって県に雇われた立場であるのでそれ以上の議論は自粛する。

2006年6月1日、安曇野で開催された笹の実会に出席した帰り、長野の実家に預けておいたバイクに乗っ て帰る。長野道→中央道→御坂峠のルートである。

案山子山荘にて飯島先生と

2006年10月11日、亜細亜大学名誉教授の飯島正先生から「私の新潟の別荘の案山子山荘に遊びに来 ないか」というお言葉をいただいた。それではとハーレダビッドソンに騎乗してでかけた。途中群馬通過通雨となってしまい久しぶりの雨中走行をした。

先生が始められた亜細亜大学の亜細亜大学アジア研究所の研究会に一緒に参加している西沢重篤さんは別 途車でこられた。

先生は長野の森のご出身で、過去40年間塩沢・石打インター近くにある舞子・後楽園スキー場でスキーを楽しんでこられた。案 山子山荘は舞子・後楽園スキー場の真下にある。案山子山荘の歴史をひもとくとまずスキー用の小屋を建てたいと思った。しかし積雪量が多くて使い物にならな いと土地の人に言われた。民宿を開業したい人から 「村の奥まった山際にある古い2階建ての自宅をただであげるからその屋敷を買ってくれ」と頼まれて購入した。なにせ豪雪地帯、身の丈以上に積もる屋根の雪 下ろしを毎年3回、30年間継続したが、70才になって体力の限界を感じた。もったいないと思い、家族も反対したが、巨大な家を取り壊して更地にし、横に 屋根勾配の大きな小さな別荘を建てた。おかげで雪下ろしもしないで済むようになり満足している。数百坪の広大な敷地内で農作業にいそしみながら著作活動に 専念できると喜んでいた。

新 潟は積雪量が3mにも達するので、コンクリート基礎を3mに嵩上げしてある。新潟では床下の面積は固定資産税の対象にはしていない。だから床下は物置、ガ レージとして無税で使える。しかし新潟以外では床下の面積にも租税がけかられるため誰も基礎を3mにすることはしない。というわけで洪水になると床上浸水 となる。最近の家屋は省エネのため床下にも石綿をつめているので、水が引いても床は腐ってしまう。ついでに指摘すると、日本のアパートはみなベランダは片 持ち梁という高価な構造にするのも、ベランダを柱で支えると租税の対象になるからだ。この高価な片持ち梁の構造は租税が造り出した歪なのだ。国家的損失以 外の何物でもない。

先生のご先祖の家業は明治時代より片倉工業などとはりあって絹織物を外国に輸出していたが、浮き沈みの激しい産業で何回か不沈を繰り返した最後の良い時期 に会社を整理して土地を買った。こうして森近郷の大地主となったがマッカーサーの農地解放で全てを失ったという。長野では二毛作が可能で小作料は米の6割 が地主、米の4割と麦10割が小作の取り分だったという。トータルで江戸時代の四公六民の税制程過酷ではなかったという。新潟、山形、秋田など一毛作のと ころでは、飢饉などが発生すると困窮した農民は娘を人身売買せざるを得なかったという。

西沢氏と3人でタラチリ鍋を囲み、夜半まで佛説摩訶般若波羅蜜多心経、文明論、先生の教え子たちの思 い出話 、台湾で蒋介石の腹心で総司令部参謀長であった何応欽(かおうきん)に会ったことなどの思い出話を肴に痛飲 した。 蒋介石が終戦にあたり論語の「以徳報怨」を引用し、何応欽が日本敗戦時に日本の将兵を紳士的に扱った理由を知りたいと言ったら台湾政府がすぐ紹介してくれ たというのだ。話ははずみ2007年にはスキーに付き合うことになってしまった。

竹内靖雄の「正義と嫉妬の経済学」によれば論語にある「徳を以って怨み に報ゆ」 という行為を孔子は立派だとほめているのではなく、「善意に対しては何で報いよというのか」と反問し、悪意に対しては「直」(公平無私の態度)で報いるべ きだといっている。日本の論語の解釈「相手の悪意に対して善意で報いる」は論語を過って解釈していることになるそうだ。蒋介石も孔子と同じ意味につかった のではなかったらしい。

文明論ではグリーンウッド氏が最近読んだシュペングラーの「西洋の没落」に触れたことからシュペングラーに触発されたアーノルド・トインビーの 「歴史の研究」解釈 に発展した。先生は伊勢神宮が発行する小冊子「瑞垣」196号に「伊勢神宮とトインビー」という一文を書いている。そこでトインビー自身の言葉「今日で は、西洋においても西洋の絶対性に対して大きな疑惑がもたれ、人々は中国や日本、インド、言いかえればヒンズー教や仏教、儒教に目を向けようとしていま す。また、最近の公害に対する取り組みは、自然と人間との調和という点で、神道を再び見直させることになりました」を紹介している。(「日本の活路」 PHP研究所1975)地球有限がはっきりと見えてきた現在、トインビーの見方は正しく、これは松原久子が「驕れる白人と闘うための日本近代史」で主張したことと同じ 文脈である。

先生が現在書いている本は環境倫理に関してのものとか、同じ認識を共有されているようだ。

翌日は多量に採れたミョウガをどっさり持って西沢氏は東京へ、グリーンウッド氏は十日町→秋山郷→雑魚川林道→奥志賀高原経由長野に出る計画を雨を理由に 中止し、関越道、上越道経由で長野に移動した。そこで山また山の山の会に出席するためで ある。

いただいた数キロのミョウガは甘酢漬けにした。

2008年9月10日NEW フォーラム、鍋倉高原パート2と石 原隊のミーティングに参加するために、久しぶりでソロツーリングをした。8:00自宅発、東名→東富士五湖道路→御坂峠経由、双葉SAで昼食を済 ませた時は12:00であった。ここから米国のルート66ツーリング用に購入したGarmin社製GPSのテストをした。

鍋倉高原森の家を目的地に設定して、道路探索ナビゲーションさせてみたが、高速道路より、普通道を優先するようでIC毎に高速道路から出るように指示がで てまいった。しかし無視すれば、気を取り直して次のICからの道をさがしてくれる。高速道路から下ろそうとするのは設定でルート探索を「徒歩」としたこと に理由がありそうだ。探索方法は「ルート優先」であった。次回はルート探索を「車/バイク」にしてみよう。

Garmin社製GPSmap60CSx (バイク装 着時

鍋倉高原森の家には14:30着。

2008年9月11日、関田峠に登って下り、飯山を縦断して豊田飯山IC近くの高野辰之記念館でNEWフォーラムメンバーと別れ、赤倉に向 かう。

高野辰之記念にて 碓井さん撮影

2008年9月12日、赤倉から長野の実家に移動してここで、ハーレーダビッドソンはガレージ入り。新幹線で翌日かえる。GPSによれば3 日間で553km走行した。平均走行速度は44kmであった。

Rev. October 14, 2015


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