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藤白王子~鈴木屋敷~有間皇子~藤白坂 | |||||||||||||||||||||||||||
<藤白王子> 藤白神社は、海南駅から南東へ約1km、海南市南東部の藤白峠の麓にある。 平安時代から文献に現れているが、7世紀斉明天皇の牟婁行幸の際社殿が営まれたという。 聖武天皇が玉津島行幸の時、僧行基を詣らせて、皇子誕生を祈願したところ高野皇女ご誕生、母光明皇后はそのための神域を広め整えた。 これにより、熊野三山の遙拝所とされ、子授け・長寿の守護神として広く信仰を集めた。 境内には、子守楠神社、有間皇子神社がある。 藤白という地名は、ここに成育する藤松(または藤白の松とも)に藤がまつわりつき、皇子を悼んで33年に一度白い花を咲かせたのが、由来とか。 後鳥羽上皇と定家一行は、ここ藤白で宿泊している。 藤白王子権現本堂 境内にある藤白王子権現本堂は藤白王子を顕彰するもので、祭神の本地仏3体が祀られている。 これらの仏像はもともと藤代王子の神宮寺であった中道寺に祀られていたものであったが、豊臣秀吉の紀州攻めに際して危害が及んだ際に縁の寺院に避難させていたものを江戸時代に復したものである。 明治の神仏分離の際の破棄を免れ今日に伝わっている。
鈴木姓 全国200万の鈴木さん 紀州藤白がルーツです また藤白神社には、熊野一の鳥居と呼ばれる大鳥居がたてられ、はるかな熊野三社を拝んだところでもあるが、もう一つ特徴がある。藤白神社の境内には、歴史の匂いをプンプンさせる旧家がたっていて、”鈴木邸”の表札がかかっている。 全国200万人いるといわれる鈴木姓のルーツにあたる家である。 熊野の荘園を管理していた八家のうちの一つであった鈴木家は、平安時代末に熊野から今の海南市藤白に引っ越してきている。このとき藤白神社に、鈴木家の祖先にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)をおまつりした。 この饒速日命の子孫が、熊野から大和へ向かう途中の神武天皇に、稲をさしあげたところ、”穂積”という姓をもらったと伝えられている。 稲穂を積みあげたものは、”すずき”と呼ばれていたので、”鈴木”となったといわれている。 また、ナギの”木 ”に”鈴 ”をつけて馬印としたところから付けられたともいわれている。 日本で一番多い姓が鈴木さんなのである。 熊野信仰がひろまり、熊野神社の末社が全国を網羅して、3千数百社もつくられたように、鈴木姓もひろまっていったのだろうか。 霊験あらたかな熊野にあやかろうとしたのかも知れない。 122代つづいた鈴木家は、熊野詣の街道筋で、ルーツを訪ねてくる鈴木さんを待っている。 熊野詣での道すがら、旅人が初めて海を見るところといえば、海南藤白である。 いにしえには、この神社のすぐそばまで海がきていた。 山と川ばかりの古道を歩いて、海を見たときは、どんな気持ちであったろうか。 ここ藤白神社は、五体王子のひとつで、藤白王子の歌会などが催されていた。ここから藤白の御坂越えに加茂郷まで行く景色のすばらしさは、たくさんの人々が歌を詠んでいることでもわかる。 現在は、埋め立てがされて往年の美しさはなくなってはいるが、それでも立ち止まって眺め入る景色が続く。 藤白神社の境内の坂をやや上ると有間皇子の椿地蔵がある。 日本書紀巻二六に記されている皇子の若き非業の死を悼むかに花を手向けていく人がいる。 言葉たくみに仕組まれた罠にかかり、牟婁の湯までその釈明に呼ばれ、その帰りぎわにこの藤白坂で殺された。 家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る 有間皇子の歌の石碑を訪ねてこの藤白坂を歩く人々が多い。 藤白坂 藤白神社と有馬王子の墓を越えるといよいよ山越えの道が待ちかまえている。 藤白坂である。 これまでの矢田峠以外は、平坦な道が続いていたが、海南から有田市までの道は、心してかかる必要がある。 しかし、味も素っ気もない街の古道より、落ち葉や山の緑を楽しみながらの山道の方がはるかに楽しい。 このけわしい山坂をいくと、20歳で命を落とした有馬王子の身にせまる危機感のようなものが伝わる。 途中にある地蔵さんも趣のあるものが多い。 そんな山道を歩いて感じたのは、やはり徒歩で行く道は、コンクリートより地道の方が疲れないということである。土や落ち葉の適当なクッションが、歩く人を優しく守ってくれている。 その昔、江戸中期のころ、峠の上まで約18丁の道のりを悪い駕篭かきが距離をごまかすので、近くのお寺のお坊さんが1丁毎に地蔵を作って置いた。 しかし、怒った駕篭かきが谷へ落としてしまったので、4体しか残っていなかった。 近年地元有志がこの丁石蔵を復元し、現在18体がそろっている。 途中の鬱蒼とした竹藪や雑木林の下に、季節の野の花が咲きかわいいお地蔵様が、ひっそりとたたずむ姿は歴史の道、熊野古道にふさわしい雰囲気がある。 古道の坂を登っていく道には竹林があり、木漏れ日が道をスポットで照らし、幻想的である。 頂上まであと少しの所に、筆捨松がある。 道は、雨の日などはかなり歩きにくいので、きちんとしたウォーキングシューズが必要である。 いままではほとんどコンクリートの道であったがこのあたりからいよいよ古道らしさのある道がある。 投げ松 第34代舒明天皇(629年~641年)は、熊野へみ幸の途次、藤白峠で王法の隆昌を祈念し、小松を谷底へ投げられた。 帰途、小松が根づいていたので、吉兆であると喜ばれ、以来「投げ松」と呼ばれている。 筆捨松 平安初期の仁和(885年)の頃、絵師巨勢金岡は熊野への途次、藤白坂で童子と会い競画をすることになり、金岡は松に鶯の絵を、童子は松の絵に烏(カラス)を描いた。 次に金岡は童子の絵の烏を、童子は金岡の鶯の絵を手を打って追うと両方とも飛んでいった。 今度は童子が烏を呼ぶと何処からか飛んできて絵の中におさまった。しかし、金岡の鶯はついに帰らなかった。 「無念!」と筆を投げ捨てた。筆は「投げ松」の所へ落ちた。 以来「筆捨松」と呼ばれてきた。童子は熊野権現の化身であったといわれている。
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