私が裁判官だったころ (13) 2001.6.26

2年の年の暮れ

1982.12月
数日来、寒い日が続く。
今年は、刑事事件の起訴件数が、大幅減で、割合ひまであったが、さすがに昨今は、事件が混んできた。
年末まで、期日は、ぎっしり詰まっている。
未済事件数も、増えそうだ。

支部長は、合議事件についても、もっぱら和解で落とす主義らしく、法廷の回数は、いたって少ない。
裁判長と左陪席とで、和解をするので、右陪席である私は楽だが、つんぼさじきに置かれているような気もする。

12.11
水戸管内の、裁判官会議。
今回は、下妻支部で、行う。
宇宙開発センター見学の後、筑波学園都市のホテルに一泊。

日立支部の、I裁判官。
私の薦めで、プリンスのデカラケを買ったところ、肘が痛いという。
多少、責任を感じた。

12.12
テニス、
牛久・シャトー杯、予選。
私とI氏のペアは、京成コート。
ホームグラウンドであるのは、幸運。
逆シードを、もらっている。
1回戦 免除
2回戦 8-2
3回戦 8-5
4回戦 8-6で、シードを破る。
予選を、突破する。
本大会は、19日だ。

12.16
今年も、あと2週間ばかり。
今年は、民事・刑事の忘年会の席に、裁判官には、声がかからなかった。

年末に向けて、法廷がぎっしり詰まっており、今、割と、仕事をしていると思う。
連日、深夜まで、机に向かう。
それなりの充実感はある。
ふと、この生活も良い、と考える。

12.19
牛久・シャトー杯、本戦。
牛久ファミリー・コートにて。
1回戦 8-5
2回戦 8-4
準決勝 9-7
決勝戦 3-8

ようやく本戦出場を果たし、1回戦を勝てれば、と考えていたのですから、決勝まで行けたのは、予想以上の成績でした。
相棒のI氏が、好調だったことが、勝因と言えるでしょう。
相棒のI氏は、私よりも年下でしたが、抜群の運動神経を持った方でした。
決勝戦は、相手の球が速く、まったく歯が立ちませんでした。

この戦績が、私にとって、土浦での、最高の戦績でした。
予選から数えると、トーナメントを7回勝ち上がったのですから・・・
12.24
今日で、法廷は、ほぼ終わり。
後は、27日に、判決言い渡し2件あるのみ。

今年は、民事部・刑事部の忘年会に、裁判官には、声がかからなかった。

先日、京都の弁護士の紹介で、金沢のY弁護士に電話する。
正月に来訪し、金沢の事情を聞いてみよう。

12.25
昨日の法廷での出来事です。
公務執行妨害事件の、判決言い渡しでした。
判決は執行猶予でしたが、弁護人が、即時、上訴権を放棄しました。
執行猶予で上訴権放棄というケースは、初めてでした。
判決に不服はない、という意思表示なのでしょうか。

この事件は、酒気帯び運転取調べ中の警察官に対する暴行であり、否認の余地のない事件でしたが、本人は事実関係を否認し、徹底して争ったもので、いわゆる大変情の悪い事件でした。
被告人は、小さいながらも会社の社長であり、ワンマン社長の横暴さのあらわれなのか・・・などと、考えたものでした。
法廷での態度が悪いのにも、度が過ぎるので、結審直後は、実刑にして、控訴審で判断してもらおうと、本気で考えたのでしたが、日を置いて、頭を冷やし、結局、執行猶予としました。
罪自体の重さからは、相応でしょう。情の悪いことは、あまり重く考えないことにしました。

言い渡し直前の被告人の態度は、極めて素直で、やはり裁判中の自らの争う態度の非を感じているものと、推察されたのですが、甘い見方でしょうか。
振り返ってみれば、公判期間を通じて、起伏はあったものの、妥当な結論に至ったと、思うことにしました。

かくして、2年目の年が過ぎてゆきました。

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