私が裁判官だったころ (1) 2001.5.30

私が裁判官を辞めた理由 (1)

私は1950年生まれ。
司法試験は大学4年のときは失敗しましたが、留年して受けた2回目の受験で、合格することができました。
1972年のことであり、そのとき私は22歳でした。
その年の司法試験合格者は、530名強だった記憶です。
2年間の司法研修所での研修を受けた後、私はそれほど迷うことなく、裁判官への道を選択しました。
25歳の若い裁判官の誕生です。
裁判官になっても、いきなり裁判を主宰するわけではありません。
経験不足の若年者に任せられるほど、裁判は軽いものではありません。
裁判官が1人前と認められるのは、5年間経験を積んだ後のことなのです。
私は、3年間の転勤を3回繰り返し、9年後に、裁判官を辞めました。
最後の任地は、茨城県土浦市でした。
この手記は、最後の任地となった土浦でのことを、振り返っています。
私が水戸地裁土浦支部に赴任したのは、裁判官になって6年が経過しておりました。
ですから、ようやく裁判官として、1人前になったときであり、当然ながら、単独で法廷を主宰し、仕事の責任を果たすことが期待されておりました。
裁判が重い仕事であるとの自覚はありましたが、やりがいのある仕事でもありますので、責任を果たそうとの意気込みを、若かった私は持っておりました。
その時点では、3年後に裁判官を辞めることになるなどとは、考えておりませんでした。
それが、赴任して2年経った頃から、真剣に辞めることを考えるようになったのです。
そのころのことを、振り返ります。

着任

1981年(昭和56年)4月4日(土)。
家族とともに、土浦市の駅に降り立ちました。
そのとき私は31歳でした。
妻と、5歳、3歳、0歳の3人の子供を連れていました。
晴れた日だが、駅前の通りが、何かしら古く、狭かったことを覚えています。
さっそくタクシーで、真鍋町にある裁判官の官舎に向かいました。
真鍋町の官舎は、敷地100坪ほどの平屋の家でした。
かなり古い家であり、その日、家の中に入ると、壁紙が剥がれて、垂れ下がっているのが目に入りました。
張り替えるにしても、家具を運び入れた後では、大仕事になります。
そんなことから、その日に私が、さっそくやったことは、糊を買ってきて、壁紙を貼りなおすことでした。
数十年は経ったかと思われる古い家は、屋根の瓦もボロボロであり、落下の危険があるように思えました。
そんなボロ家でしたが、取り柄は、広い庭。
その庭で、私はトマト、ナス、キュウリ等の野菜を植えたものです。
枇杷の木、いちじくの木もあり、春になるとたけのこまで出てきました。
竹の子といっても、小さい細いやつですが・・・
庭が広い分だけ、草刈も大変でした。
土浦にいた3年間は、私にとっては、裁判官の最後のときです。
子供が幼稚園から小学校、庭には、犬のももたろうがいました。
なつかしい、大切な時代です。

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