太陽の塔(その2)

太陽の塔」はもともとそんな名前じゃなかったのだそうだ。岡本太郎は「観賞の妨げになるから」と言って、自分の作品に名前を付けなかったのだという。製作中は仮に「太郎の塔」と呼ばれていたのだが、小松左京が「太陽の塔」と名付けたらしい。岡本太郎は他人の付けた名前を受け入れちゃうのである。これはなかなかすごいことである。そんなことができるのは、彼の作品がいろんな解釈に耐えられる多様性を持っているからだ。

岡本太郎の作品は、いろんな風に解釈できる多様性を持ちながら、「どう見ても岡本太郎」な個性がある。本当の個性とはそういうものであり、そういう個性を表現できる人はとても少ない。奥田民生の「いろんな風に解釈できる歌詞(曲にもそういう面はある)」や村上春樹の「様々な解釈本が出てしまう小説」は、多様性を持った個性的表現の数少ない例だ。

いろんな風に解釈できるのは、いろんな人が自分なりに解釈できるということである。多くの人の「自分なり」が集まると多様性が生まれる。多様な人々に解釈されるためには、分かりやすい表現でなければならない。難しい表現だと、受け手が限られるので解釈の多様性は生まれないのだ。また、多様な解釈が生まれるためには、複雑な内容を持っていなければならない。単純な内容では解釈のしかたも限られる。つまり、「ややこしい内容を分かりやすく表現したもの」だけが多様な解釈を生むのである。

「太陽の塔」についての僕なりの解釈というのもある。まず、頭の部分にある「黄金の顔」は人間の意識性を表す。意識の中心は頭にあるのだ。「黄金の顔」は定規とコンパスで図面に書けるような形をしているし、金ピカで無機質なところが工業製品みたいである。生き物の世界から離れている感じがする。それに対して、お腹のところにある「太陽の顔」は人間の身体性を表す。身体の中心はお腹である。その表情には前向きな意志のようなものが感じられる。「太陽の顔」とはいうものの、白くて丸いところは月である。は無意識や身体性の象徴だ。そういえば、万博の目玉商品は「月の石」だった。

背中にある「黒い太陽」は不気味な目付きをしている。いわば、無意識のダーク・サイドである。「太陽の塔」のそば(背中の方向)にある民族学博物館には、あんな顔の仮面がいくつもありそうである。岡本太郎はパリ大学民族学科卒で、万博当時の「太陽の塔」の地下にはそういう仮面などの民族学的な資料の展示もあったのだ。「太陽の塔」は無意識の暗黒面を忘れ去ってはいないが、正面に向けてもいない。

太郎の塔はそういういろんなものを抱えながらアッケラカンと立ち続けている。(↓00.5.2撮影) 太陽の塔