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アタマの中の自由

お気楽とはアタマの中が自由なことで、アタマの中の自由とは「何を考えてもいいし考えなくてもいい」ということである。アタマの中で考えるだけならいつでも自由のような気がするが、実は意外とそうでもない。アタマの中で何を考えていようと外からは分からないはずなのだが、アタマの中を自由にすると「やるべきことがオロソカになってしまってどこかから文句が出る」ということになりがちである。つまり、アタマの中の状態が行動に出てしまうのだ。それは我々が近代人として「考えた通りに行動する」ようにできているからである。行動というのは他人との関わりがあるから完全に自由というわけにはいかない。それで、「変なことを考えると変な行動をしてしまうから変なことは考えないようにしよう」という風に自分の考えに枠をはめてしまうことになる。

だから、アタマの中を自由にしようと思ったら、「考えた通りに行動しない」ということが必要である。考えた通りに行動しないというのは、考えたことの反対に行動するというアマノジャクのことではなく、考えに囚われずに臨機応変に行動するということである。変なことを考えても臨機応変に行動するのなら別に問題はないから「変なことは考えないようにしよう」という自主規制の必要もなくなる。

そういう規制が無いつもりでも、自由に何かを考えようとすると、なぜか「そんなこと考えて何になるんだ?」という疑問がわいてくる。やるべきことは他にあるような気がしてしまう。実際、やるべきことは他にあるし、自由に何か考えたところで何の得にもならない。その上、自由に考えていると自分にとって不都合なことまで考えてしまう可能性があるから心理的な抵抗があるのだ。しかし、自分にとって不都合なことでも考えるのが自由に考えるということである。自分に都合のいいことしか考えられないとしたら、アタマの中が自由とは言えない。

自分にとって不都合なことなんか考えずに都合のいいことばかり考えていた方が自由で気楽なんじゃないか、という気もする。しかし、不都合なことを考えずにいるためには、不都合なことについて考えないように常に気を付けていなくてはならない。そんなのは全然自由ではないし気楽でもない。だからといって、自分に都合の悪いことばかり考えていても落ち込んでしまう。自分に都合のいいことしか考えられないのも、都合の悪いことばかり考えるのも、どちらもお気楽ではないのだ。自分の都合というものから離れたところで「何を考えてもいいし考えなくてもいい」というのがお気楽である。

自分の都合というのは私利私欲という意味ではなく「考えた通りにいく」ということで、それがあるとアタマの中は自由にならない。アタマの中が自由になれば、考えた通りじゃなくてもいいから臨機応変に行動できて「考えた以上にうまくいく」ということがあり得る。しかし、考えた以上にうまくいくというのは「自分の考えが不完全だった」という意味でもあるので、自分の不完全さを認めたくない人にとっては心理的抵抗がある。そして、自分の考えの不完全さを認めたくないのも自分の都合である。

アタマの中の自由というのは行動における臨機応変さと対応しているわけだ。アタマの中の自由が「リラックス」で臨機応変が「クール」だとも言える。臨機応変というのは試行錯誤の積み重ねによって身に付くもので、試行錯誤というのは自分の不完全さを前提にした行動の仕方である。自分に完全さを求めないことで、アタマの中は自由になる。