「何となく」の世界

「何となく」というのは「理由を説明しようとしてもうまく言えない」ことである。言葉ではうまく説明できないけど自分はそう感じる、ということだから「何となく」は自分の中にある。自分の中にあるけどうまく説明できないひとつのがあるわけだ。そして、説明できないというからには、誰かが説明を求めているはずだ。「お前、なんでそんな文章書いてるんや?」、「いや、何となく...(書きたいから)」。あるいは、説明を求めているのは自分かも知れない。「俺はなんでこんなことしてるんやろう...?」というように。

誰もそういう疑問を持たなければ「何となく」の出番はない。疑問を抱く者のいない所には「当り前」の世界が広がっている。「当り前」というのは、当り前である以上みんなに共有されている。誰かが疑問を持つとしたら、その人は「当り前」をまだ共有していないか、もう共有できなくなったのだ。疑問を持つ者は「当り前」の世界の外にいるのである。「当り前」の世界は自分の外にあり、当り前じゃないものは自分の中の「何となく」の世界からやって来る。

「当り前」の世界があるとする。そこでは誰も疑問を抱いていない。全ては当り前である。ある時、誰かが疑問を抱く。なんで? なんで? なんで? 僕の息子が3才の頃そうであったように、疑問が疑問を呼ぶ。しかし、当り前の世界には正しい説明というのはあっても、納得のいく答えは用意されていない。正しい説明とは、ひとつの「当り前」についての疑問を別の「当り前」で説明することである。しかし、当り前によって納得は得られない。

例えば「空はなんで青いの?」という疑問がある時、光の波長なんかを持ち出して答えるのは正しい説明だ。そういう説明は「...だから当り前なんだ」と言っているのと同じである。しかし、そもそもなんで「空が青いこと」なんかに疑問を持ったのだろうか? それこそ「何となく」である。「空はなんで青いの?」という疑問は、「僕はなんで空が青いことに(ふと)気付いたのだろうか?」という意味でもある。それは「何となく」についての疑問なのである。

「何となく」についての疑問に対する納得のいく答えは「当り前」の世界にはない。「当り前」の世界では全ては当り前なんだから「何となく」について考えたってしょうがないということになる。つまり、「当り前」の世界では「何となく」は大事にされない。でも、「当り前」だけの世界なんて面白いだろうか? 「当り前じゃないこと」こそが面白いのだ。じゃあ、当り前じゃないことっていうのはどこにあるのか?というと「何となく」の世界にある。

「空はなんで青いの?」という疑問に対する僕の答えは「空が青かったら何となく気持ちええんとちゃう?」というものである。そんなん、全然説明になってないやんか。でも、疑問に対する答えは「何となく」の世界にあって「何となく」には正しいもマチガイもない。青い空を見ると何となく気分がいいという感覚が「空はなんで青いの?」という疑問を生んだのである。

「当り前」の世界では「何となく」を「当り前」で説明しようとするが、それでは面白くない。「当り前」に対して「何となく」で答えると(うまくいけば)面白くなる。うまくいかなければワケが解らないことになるけど、とにかく「当り前」のことだけでは誰も納得がいかないし面白くないのだ! 「何となくわかる」と「ワケワカラン」は紙一重である。ワケワカランことを好意的に受け止めると何となくわかるのかも知れない。何となくわかってもらえたでしょうか?

 → 「何となく」は伝わるか?