ぼおおおっと

何となく」というのは、ぼおっとしているときの頭の中の状態である。ぼおっとするのは自分の中の「何となく」に浸るようなものだ。「何となく」状態でぼおっとしていると時間だけが無為に過ぎる。何もせずに時間が過ぎていくと、すごく無駄なことをしているような気がする。我々にはやらなくてはならないことがたくさんあるのだ。しかも期限付きで。だから貴重な時間を無駄にはしたくない。ぼおっとなんてしていられない。

ところで、やらなくてはならないことって何だろう? 我々は仕事をしないとご飯が食べられないし、ご飯を食べないと仕事ができない。ご飯を食べるにはご飯を作らないといけないし、ご飯を食べたらお皿を洗う必要がある。そんなの当り前だ。とにかく、忙しいのだ。ぼおっとしてる暇なんかない。「何となく」なんかに構っていられないし、構わなくてもやっていける。

「何となく」に構わずにいるとどうなるか。構おうが構うまいが「何となく」は我々の中にある。無視したからといって、なくなってしまうわけではない。しかし自分の中の「何となく」と向き合わずにいるとそのうちに忘れてしまう。「何となく」に構わずに「当り前」のことをやっていると、自分の中で「当り前」が発達する。そうやって高度に発達した「当り前」によって我々は暮らしていくわけである。そこに「何となく」の出番はない。高度「当り前」社会では、そうやって「当り前」に集中していないとやっていけないのだ。

その「当り前」でうまくいっているうちはいいが、最近は世の中の変化が激しくてうまくいかないことが多くなってきた。なぜいろんなことがうまくいかなくなってきたのかというと、「当り前」が高度になりすぎたからである。「当り前」が複雑になりすぎたので、我々は複雑な「当り前」世界の一部しか捉えられないようになってしまったのだ。複雑な「当り前」世界の全体像というものは「何となく」捉えるしかない。

ところが、我々は高度「当り前」社会で生きていくのに必要な「当り前」を身に付けるために「何となく」には構わないようにしてきた。その結果として、高度「当り前」社会に浸りきっている人ほど「何となく」の扱いに不慣れである。つまり、専門家ほど世界の全体像が見えないということになるわけだが、この複雑な高度「当り前」社会というものを動かしているのは専門家の方々なのである。だからいろんなことがうまくいかなくなってしまったのだ。

そういうわけなので、我々は「何となく」の能力を取り戻さなくてはならない。そのためには意味のあることばかりするのを少し休んで、何も考えずにぼおっとしてみる必要がある。そこから、「当り前」とは違った意味の何かが生まれてくるかも知れない。生まれないかも知れない。とにかく、問題解決の方法はそれしかないと僕は思います。