リラックスには想像力が必要だ

今、僕はパソコンに向かって文章を書いている。気分はわりとリラックスしている。この文章の結末がどうなるのかはわからないが、あまり焦ってはいない。どうにかなるだろうと気楽に構えている。うまくいくだろうという予感のようなものがあって書こうという気になっているわけだから、快活な意識状態である。

でも、座ってものを考えている状態を快活というのはなんかヘンだ。普通、快活な意識は活発な動作と結びついているし、あまり身体を動かさないでいるのは不活発な意識状態を表していることが多いんじゃないだろうか。我々は「普通」の状態では意識的に活動しているから、意識と身体活動の状態は連動しているものなのだ。ところが、リラックスというのは「意識は快活でありながら身体の活動は抑制されている」状態のことで、意識と身体が単純には連動していないわけである。実は、リラックスというのは「普通」じゃないヘンな状態なのだ。

「リラックスは普通じゃない」ということを裏返せば、「我々にとって普通の状態というのはリラックスしていない状態だ」ということになる。快活な意識で活発に行動している場合はリラックスというより興奮状態だし、意識も活動も不活発な場合もリラックスしているとは言い難い。要するに、精神と身体が単純に連動しているとリラックスできないのだ。そして、精神と身体を単純に連動させようというのが近代の考え方なのである。そういう時代に育った我々はそれが普通になってしまっているのだ。

「リラックスは我々にとって普通の状態じゃない」のだとすれば、リラックスしようとするのは間違っているのだろうか? そうではなくて、そんなのは「普通」の方がマチガッテいるのだと僕は思う。それが間違っているとしても、リラックスしていない状態が我々にとっての「普通」であることに変わりはない。リラックスしようとすることは別に間違ってはいないのだが、我々にとっては普通じゃないことなので、そこにはそれなりの苦労がある。

リラックスというのは「行動を抑制しながら、快活な意識を保った状態」のことだが、行動を抑制しているのに意識だけが快活な時の精神の中身というのは妄想みたいなものだ。妄想というと何だかヤバそうな感じもあるが、言い換えれば想像力の産物である。行動を抑制するというのは何もしないということで、何もしないでいると普通は退屈になる。そこで退屈にならずに快活な意識を保つのがリラックスだから、「リラックスとは、想像力で退屈をしのぐことである」というのが僕の発見である。

では一体どうすれば想像力が身に付くのかということになるが、想像力というのは身に付けるものではない。想い出すものである。小さな子どもを見ればわかることだが、我々も昔はほとんど想像力だけで生きていたはずなのだ。しかし、いろんなことを知るうちに、想像力を失ってしまった。いろんなことを覚えたので想像する余地がなくなったのだ。だから、覚えたことを忘れてしまえば想像力を想い出すだろう。そうするとリラックスすることができる...はずである。