自由に生きられるか?

自由にいきたいものである。自由に生きられたらスバラシイが、現実はキビシイ。そう簡単に自由に生きられるものではない。自由に生きられないのはなぜだろう? お金がないからだろうか、権力がないからだろうか。お金や権力があって「他人を自由に動かしている人」を見ると、自由にいろんなことができてうらやましいような気がする。

でも、よく考えてみればそれは錯覚である。お金や権力を使う人は他人にいろんなことをやらせているだけであり、本人が自由にいろんなことをしているわけではない。実際にいろんなことをしているのは、「お金や権力を自由に使っている人」ではなくて「お金や権力によって動かされている人」である。もちろん「お金や権力によって動かされている人」の方も自由に生きているとはいえない。

お金や権力はいろんなシガラミを増すばかりで、自由とは関係ないものなのだ。ではそういうシガラミのない山奥や無人島に行けば自由があるのだろうか? どんな山奥でも無人島でもそこは誰かの土地である。他人の土地に勝手に入り込んだら不法侵入だし、自分の土地なら固定資産税を払わなくてはならないとか、とにかく自由な場所なんていうものは現在の地球上には存在しないのである。

自由というのは(あるとすれば)自分の頭の中にあるものだ。自由に生きるとは、せめて自分の頭の中だけでも自由な状態に保っておくということである。頭の中が自由でなければ、周りの状況がどんなに自由でも自由に生きることはできないし、頭の中さえ自由に保つことができれば、不自由な状況でも何とかやっていくことができる(かもしれない)。

頭の中の自由とは、頭の余白が多いことである。頭の余白というのは想像力が働く空間だ。頭の中に自分で考えたことや他人から聞いたことがびっしりと書き込んであると、自由に想像力を働かせることができない。

頭の中の余白がメモ用紙だとして、何かを書き込むというのは何かについて考えることだが、消すというのはどうしたらいいのか。何かについて考えまいとすると、余計に考えてしまうものである。頭の中に書いてあることを消すには、身体を動かせばいい。ただ身体を動かすだけで、ちょっとしたメモは消える。それでも消えないほどしっかり刻まれた書き込みは、身体を動かしながらそのことについて深く考えれば消える。

身体を動かしながら、何かについて深く考えるのは難しい。それをやるには、頭と身体をある程度切り離した上で同時に働かせる必要がある。身体を動かす方に集中し過ぎると考えるのがオロソカになるし、考える方に気を取られると身体が止まる。うまくできるようになれば、頭の中も自由になるし、身体も自由に動かせていろんなことができるようになるだろう。