頭のネジをユルめよう

お気楽というのは、簡単に言うとアタマのネジをゆるめた状態だ。頭のネジがゆるんでると、他人からはアホに見える。アタマのネジがゆるい人間のことを人はアホと呼ぶ。だからアホに見られたくない場合は、頭のネジをゆるめてお気楽になるのが難しい。アホに見られた時にアホじゃないことを証明しようとすると結構面倒クサイが、それさえあきらめてしまえば、アホに見られて困ることというのはあまり無い。「他人からどう見られるか」にプライドがかかっているとしんどいのである。

頭のネジというのは、頭の中の「言葉で考える部分」と「身体に関わる部分」をくっつけているネジのことである。そのネジをゆるめるとなぜアホに見えるのかというと、考えた通りに行動することができないからだ。考えた通りに行動するというのが近代的人間である。つまり、近代化というのは「頭のネジをキッチリ締めとけ!」という掛け声だ。ネジをちゃんと締めてない人間は「近代社会に貢献しないからダメだ」と誰かに言われてしまう。近代において「身体に関わる部分」はアホということにされるのだ。

人間以外の動物は言葉で考えようとはしないからネジはユルユルだが、それでちゃんと生きている。というか、この地球上の動物の歴史においてはそっちが普通である。ネジをきちきちに締めるのは人間の動物性を否定しようとすることだが、否定される「身体に関わる部分」というのも何事かを考えているに違いないのである。いや、考えてないかも知れないが、とにかくその「何事か」は我々の行動に出てしまう。それをアホなことだと思う人は「もっとネジを締めないとイカン」となって、ネジはますます固く締められることになる。でも、それはすごくしんどいことなのだ。ネジを固く締めると「身体に関わる部分」が自由に動けなくなる。「身体に関わる部分」が自由に動けないというのは、要するに我々がうまく行動できないということである。

近代社会というのは人間がうまく行動できなくなるような考え方を前提にしているのだ。だから、各個人があまり自分で行動しなくても済むように、サービス業や機械化・自動化が盛んになる。自分の「身体に関わる部分」の機能を追求する代わりに、何でも自分以外のものに任せるというわけだ。「身体に関わる部分」にある「何事か」は直接的な言葉にならないから「言葉で考える部分」にとってはワケが分からない。全てを言葉で分かりたい近代的人間は、ワケが分からないものをアホだということにして他人任せにする。

そのワケの分からない何事かを追求して表現しようとするのがスポーツ選手や芸術家だ。そして、一流のスポーツ選手や芸術家は「力を抜く」ことが大事だと言っている。余計な力が入るのは言葉で考えた通りにしようとするからだ。ネジをきつく締めているほど力が入って、力が入るからしんどい割に成果は上がらない。ネジは緩めた方がうまくいくのだ。「ネジを緩める」とは身体の力を抜くことだ。それが我々一般人に関係あるのかというと、大いにある。なぜなら「ネジを締めっぱなしじゃないと生活できないような社会」はしんどいからだ。余計な力を抜いた方が得られる成果は大きいとすれば、ネジを固く締めていても何もいいことは無いのである。