心は錯覚か

心というのは、あるのかないのかよく分からないようなものだが、心が動いたような感じがすることがある。心が動くというのを言い換えると「動揺」である。自分が動揺したことを肯定的に捉えたのが「感動」で、感動も動揺の一種だ。心が動くのは自分の内部の変化だが、動揺すると、自分の外側に広がる現実の世界までが今までと違うように感じられたりする。心が動くと我々の現実認識にも影響するわけである。

心が動いていないときには、心は意識されない。心とは「自分の中の意識できない部分」の動きである。意識できないのだから、よく分からない。「自分の(あるいは、他人の)心がワカラナイ」というのは、心の本質だからしょうがないのである。ワカッタつもりになったら、それは間違いだということになる。そして、その「よく分からない部分」も自分の一部なのだから、我々はそういう「よく分からないもの」に影響される。自分の中のよく分からないものに影響されたくない人は、心などというものは無いことにしてしまったりする。しかし、誰でも心が動くことはあるだろう。そういうとき、心を無視する人は自分の動揺を他人のせいにする。

では、そのよく分からない心というヤツが「動いた」ことはどうして分かるのか。それは、現実の「感じ」が変わるからである。現実の見え方が変わった時に、我々は動揺したと感じるのだ。動揺したら、ドキドキしたり涙が出たり体調が変わったりする。つまり、心が動いた時は身体も変化している。というより、身体が何かに反応して変化したために、自分の内側の「感じ」が変わり、それを我々は「動揺」と捉えているのだ。我々は身体で現実を感じ取っているのだから、身体に変化が起きれば現実の「感じ」も変わる。そうやって、カラダが変化する時にココロが現れるのである。

心とは「内側から感じ取った自分の身体の変化」である。「身体が変化する感じ」であって、「身体そのもの」ではない。我々が思い浮かべる「心」というのは、物理的な実体を持たないような何かだ。実体を持たないのに「存在するように思える」のだから、心は錯覚みたいなものである。心というのは、我々の身体が作り出した仮想現実だといえる。だから、心の中はシュールでよく分からない。しかし、そのよく分からないところからものごとの「価値」が生まれてくるのだ。