情報の値打ち

ある情報を認識することによって感動したり何かの能力が向上したりすれば、その情報は自分にとって価値があるといえる。感動するのも能力が向上するのも、自分が変化することである。我々は情報を認識することによって変化する。自分にとって価値のある情報は、何らかの意味で自分を変化させるような情報である。したがって、価値の大きな情報ほど、認識する者を大きく変化させることになる。

我々の心や身体は変化を経験する時、不安定な状態になる。一時的に不安定になったとしても、結果として安定を取り戻せたら、その不安定な状態は自由な状態でもある。情報の価値とは、その情報によって変化する過程で我々が経験する自由な状態の価値だ。我々がどれだけ価値のある情報を得られるかは、どれだけの変化を経験できるか、どれだけ不安定な状態に耐えられるかによって決まる。それは、情報処理能力の問題だが、「情報処理能力が高ければ価値のある情報が得られる」というものではなく、「自分の処理能力以上の情報」に価値があるということである。

自分の処理能力以上の情報を短時間で得ようとすると、急激な変化を経験することになるが、急激な変化は暴力である。変化が急激すぎると心身の安定を取り戻せなくなるかもしれない。変化というのはゆっくりじゃないと危険だ。つまり、自分にとって価値のある情報を短時間で得ようとするのは、危険なことなのである。したがって、情報の価値が大きければ大きいほど、じっくり長い時間をかけて認識する必要がある。自分にとって価値のある情報を得て自分を大きく変化させようと思ったら、少しづつの変化を積み重ねるしかないわけである。そうじゃないと、自分というものが壊れてしまう危険がある。

自分にとって価値のある情報は自分というものを変化させるから危険だ。だからといって、自分にとって価値のある情報に近寄らないようにしていると、自分が変化しないのだから精神の成長もない。我々凡人にできることは、長い時間をかけてちょっとづつ変化し続けることである。それには、自分の処理能力をちょっとだけ上回るような情報を常に探し続ける必要がある。そして、何かを長く続けるのは、それを生活の中に取り入れるということだ。

感動やら能力というものは、自分が得た情報を自分の生活に結びつける過程において生じるものである。生活を離れたところにも感動や能力というものはあるだろうが、生活に結びついていないものはその場限りである。生活に戻ればその場限りの感動や能力は消えてなくなる。何とかして自分の生活に結びつければ、消えない。生活は情報処理の場である。同じ情報を得ても、それをどれだけ自分の生活に反映させられるかは人によって違う。つまり、情報の価値というのは情報自体の性質ではなく、情報を処理する側のあり方に関わる問題なのだ。

 → 価値ある情報の伝達