2月4日

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★Special Column★
「大いに太れ!!」

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増島みどり著
シドニーへ
彼女たちの
42.195km

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 巨人の宮崎キャンプを取材に来ているために、4日の丸亀ハーフマラソンには行くことができなかった。しかし、現場で取材していた記者がレース後、電話をくれた。
「レースが終わってから会見に来るまでの着替えの時に、かなり泣いたようです。一目でわかるほど顔が腫れてしまっていて……。小出さん(義雄監督)がフォローしたら、さらに目を潤ませてしまいました」

 9月24日、シドニー五輪女子マラソンが終わってから4か月半、金メダリストの高橋尚子(積水化学)が五輪後、初めて公式レースに出場した。記録は1時間12分40秒で8位と復帰レースとしてはまずまずの出来だったのではないか。おそらく設定タイムよりははるかに良かったはずだ。
 これから3月の名古屋国際女子マラソンを目指すランナーたちと、4か月のブランクを経て再始動となるランナーとのレースではおのずと「課題」そのものが違う。涙の理由を考えてみよう。
 1時間10分を切る日本女子最速のマラソンランナーにとって、ただ単純に受け入れ難い成績であったかもしれないし、ようやく次に向かうスタートラインにたどりついたうれしさかもしれない。
 しかし泣いた理由は、ほかにあるようだ。

 先週発売の週刊誌に「あなたは何様なのか」といったバッシング記事が掲載された。小出監督によれば、それを目にした高橋は泣き出してしまったという。監督やスタッフが慰めたが、やはりひどく落ち込んだままこのレースに駆けつけたそうだ。誰が何を着ようが何を持とうが、自分の給料で買っているのなら文句など言われる筋合いはないし、反対に、誰が文句を言おうと批判しようとこれもまた勝手。記事自体、是非を問うようなものではない。
 ただひとつ、断固反対しておきたいのは「体重」の一件である。「2重あご」「太りすぎ」「練習をしないからだ」といった批判がされているが、これこそ批判の対象にはなり得ない。

 昨年9月25日、金メダル(記録は2時間23分14秒)獲得から一夜明けた会見の際、監督があげた言葉を忘れてほしくない。
「世界記録を狙うにも、何をするにも、まずは休むこと。休むとは彼女の場合、太ることなんだ。まずはしばらく2〜3か月、5kgから7kg太ってほしい」
 この言葉を実際に現地で聞いたときに、そこにいた記者の誰もが笑いながらも、ほっとしたものだ。なぜなら、これはもちろん高橋に限らず、彼女たちがレースに向かって文字通り身を削っていく姿が実に過酷なものであることを、誰もが目にしているからだ。

 五輪のレースの日、高橋は体脂肪7%程度だった。山口衛里(天満屋)も、2時間22分12秒をマークした際は6%だった。弘山晴美(資生堂)もベストは10%切った状態で必ずレースにあわせてくる。
 ダイエットに興味があれば、この数字がどういうものかわかるはずであるし、私たちのように、たるんだ肉体から体脂肪を追い出そうというのとはまるで違う世界の話なのだ。
「炭水化物を抜こう」「甘いものを食べず間食もしない」「そうして体脂肪を燃やせば、あなたも3キロ痩せられる!」……。彼女たちの目標と壮大な夢は、そんなダイエットで叶えられるものでは決してない。

 すべての栄養素を十分に摂りながら月に1000キロもの距離を走り込み、足から、それは太ももやふくらはぎなどといった一般的な部分ではなくて、例えば足の甲や土踏まずからも、脂肪を削るような作業を、少なくても3か月にわたって続けなくてはならない。時には貧血に怯え、体脂肪の減少とともにリスクが増す生理が止まる問題や、それにともなう骨の生成機能の弱体化、これらと日々戦いながら、頑丈な体とそれを可能にする強靭な精神を持ってスタートラインに立たねばならないのだ。いわば、不健康と健康の1ミリほどの境界線を猛スピードで走り抜けるような仕事なのである。

 太ることは、自然の状態に体を戻すことであり、何よりのリカバリーであり、次への極めて重要な蓄えになる。シドニーを戦った多くの女子選手が、レース後(幸い高橋ほど人の目に触れないだけでみな胸を撫で下ろしているかもしれないが)多かれ少なかれ、みな太った。太って当然で、太らなければよほど問題である。
 2時間22分台、あるいはそれ以上の記録を出す彼女たちの肉体が、自分たち一般人の太った、痩せたの次元にはないことだけは間違いがないのだ。

 そもそも、これまで人目に触れる機会が少なかっただけで、高橋がレース後、別人のように太ることは少しも珍しくない。98年アジア大会で日本最高記録(2時間21分47秒)をマークした後、名古屋で代表権を獲得した後、いつも周囲を驚かせてきており、今回も同業者たちからは「いつものように太った」という反応以外、特別なものはない。小出監督が強調するのは、それが内臓の強靭さをベースとするからで、彼女たちが無理なダイエットをしていれば当然、日本の女子マラソンは金メダルなど望むべくもなかった。太ることは容量の大きさであり、無論、故障の引き金になることだけを防ぐことができれば、体に自然のオモリを背負って走り筋肉をつける非常に有効な「ウエイトトレーニング」にもなる。

 太ることは重要なトレーニングだ。レベルが上がれば上がるほど、である。個人的にも、そういう時期にある彼女たちが茶目っ気たっぷりに「見てください、このたぷたぷのモモ」とか「お尻がたるんで震えてる」と笑うのを聞くと、本当にほっとする。ああよかった、まだ太れる余裕が、心身ともに残っていたのだと、本当に安堵する。
 世界のトップレベルで競う、高橋と同じ女子ランナーたちはこの日の記録を見て誰も、「あれじゃあダメだ」「あの記録ではダメだ」などと思っていないだろう。すでに公式戦を迎えた以上、高橋がどんな思いでこれから走り続けるか、容易に想像できる。金メダルの翌日も黙々と走っていたランナーである。だから、もっと太ってもよかったとさえ思う。

 あの日、シドニーの青空の下、死闘を制して金メダルでゴールしてもなお、笑っていたではないか。「泣くのは練習だけ」、それがモットーだと言ってきたはずだ。
 金メダルを手にしても「歴史に名前を残すことができました。次は記録に名前を残すために、時計と戦って勝ちたい」と言ったはずだ。
 こんなことで泣くことなどないはずだ。

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