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21歳の新鋭で初マラソンに挑戦した渋井陽子(三井海上)が、スタートからレースを引っ張る積極的な走りで2時間23分11秒の初マラソン世界最高記録で優勝を果たした。従来の初マラソン日本最高は、92年、小鴨由水(当時ダイハツ)がマークした2時間26分26秒でこれを大幅に更新するばかりか、初マラソンの世界最高、マッキャナン(アイルランド)の2時間23分44秒をも上回る日本歴代4位の好記録をたたき出す、見事な走りだった。
大阪女子マラソンで日本選手が優勝を果たしたのは、94年の安部友恵(旭化成)以来7年ぶりとなる。渋井はこれで、11月の東京国際で2時間24分をマークして日本人1位となった同僚の土佐礼子とともに8月のエドモントン世界陸上代表に内定(内定の条件は選考3レースでの日本人1位、2時間26分突破)まだ21歳、楽しみアテネ五輪も視野に入れた、楽しみな逸材の衝撃的なデビューとなった。
2位には、35歳のベテランフィアッコーニ(イタリア)が入り、山口衛里(天満屋)の後輩、松岡理恵も自己記録を大幅に更新する2時間27分50秒で3位、昨年に続いて出場した小幡佳代子(東京陸協)が2時間32分14秒で日本人3位だった。
日本人では3位となった小幡佳代子「離れた(20km手前)は一杯一杯でした。今回は、足の故障と喉をいためるなど満足な練習ができなかった。マラソンの練習はやはり正直なものだと思います。いろいろと勉強になったレースとなりました」(今回がマラソン15回目)
自己記録を約8分短縮した松岡「外国選手2人と走っていたところまではなんとか走れたが、やはり1人になってからが本当に苦しかった。今回は練習の成果を出そうと思っていたので、まずまずの結果でした。山口さんにも応援してもらいました」
小出監督「渋井の走りが前傾で、しかも腰の位置が一定、さらに腕の振りのリズムが非常に効率良く生きている。女子では筋力あってのことで、非常に新しいタイプのランナーではないか。鈴木監督には大事に育てて欲しいし、2時間20分を切る女子ランアーがまた日本にも増えたね」
日本陸連・桜井専務理事の話「これでエドモントン世界陸上の代表に内定する。初マラソンだがものおじしない性格で、レース前にも「どんな条件でも走ってみせる」と話していた姿が印象的で、本当の強さがあると思った。日本の女子マラソンは、昨年の選考レース以来、すべてのレースですばらしい活躍を見せており、好循環ともいえる状態。エドモントンでは全員が金メダルを狙える代表となるだろうし、アテネも視野に入れた強化ができる。3月に新体制でアテネ強化対策を決定するが、弾みになった」
30kmを1時間40分8秒で通過して迎えたラスト10km、渋井は「日本記録を狙うならばここからが勝負」と決めていたという。自ら「精神的にも、肉体的にも丈夫」と自信を持つ体力を武器に、1km3分20秒ペースはここまで一定で刻んでいる。レース前から「自分のペースで走る」と宣言していたように、集団に巻き込まれることなく、前傾で腕をリズミカルに使う走りのリズムを維持してきた。
しかし、この地点で手にした給水ボトルの「超ラッキー、楽しく走ろう」という仲間からのメッセージは、35kmからにはふさわしくなかったかもしれない。高橋尚子の持つ2時間21分47秒が視野に入った瞬間現れたのは、やはり「マラソンの壁」だったのだと、渋井はレース後しみじみと話していた。
35km過ぎからそれまでのリズムが嘘のように止まり、脚も止まった。この1kmで3分50秒まで一気に落ちた。
「突然足が動かなくなったんです。体のリズムもおかしくなってとても重く感じる。誰もが35kmからとか、ラスト5kmだとか、初マラソンを走る前にアドバイスしてくれたけれど、ああこれか、って感じでした。地獄ですね、地獄を見てきました」
実際に──もちろん初マラソンでの世界最高につける注文などないのだが──35kmから40まででペースががたっと落ちて17分57秒と、その前の5kmと1分も変った。さらにラストの2.195kmでは、8分9秒と、これはゴールした上位選手の中でも下位。まさに地獄を見続けた35kmからの26分6秒だった。
鈴木秀夫監督は「もし順調に行けば、土佐の記録を練習の40kmで3分上回っていましたから当然22分代は出ると思っていた。記録のことは一切話さなかったが、よくやったということ以上に、びっくりするようなことはない」と冷静にタイムを分析。鈴木監督の恩師でもある小出義雄監督も「あの素材は2時間20分を切れるもの。高橋もおちおち走ってられないよ」と笑顔を見せて、鈴木、渋井の師弟にまっさきに駆け寄って握手をしていた。
力強いフォーム同様、タフである。
今回も、土佐と同じように昆明(2000m)での合宿を行った。途中で体調を崩し、一度は大阪を断念しかけた。高地合宿の拠点では、施設も環境も完備されている米国のボルダ−を選ぶ実業団が圧倒的に多い中、鈴木監督はあえて昆明にこだわっている。昨年、五輪を前に市橋有里(VISA)が昆明合宿を行ったが、帰国した後、浜田コーチが「環境的にちょっと難しい」と話していたが、食事も現地で任せるために油の質も違う。シャワー、風呂などももちろん日本やボルダ−のようにはままならず、体調を崩す選手が続出する。
しかし渋井、土佐はそういうところで練習を積み「へこたれないこと」(渋井)を体で覚えていったという。昨年春のサーキット、五輪の出場権をかけた華やかなレースの陰で、渋井、土佐が、中国から帰国してひっそりとそのまま神戸に出場したとき、「下痢がひどいんです。でも走ります」と豪快に笑っていた姿は、この日を予感させるに十分なものだった。あの日から、2人のマラソンへの戦いは始まっていたといえる。
明るさ、積極性、我慢強さ、すべてスケールが大きいと鈴木監督はいう。
「昆明はきつかったでしょう。でも練習をするしかないのがマラソンの面白いところ。いい練習をすることだけ考えた」と話す。見ていた地獄は、練習にもあったというわけである。
このレースに向けてランニングパートナーを務めた土佐も、スタンドから応援して泣きじゃくっていた。
「渋井は絶対にいい走りをしますよ。だって私たち、泣きながら走ったんですから。初めてです、走りながらあんまりきつくて涙が出たのは」と、1月の都道府県女子駅伝の際も太鼓判をおしていた通リの結果だった。レース直前にはIモードでメールの交換をし、その話をした時だけ、渋井が涙ぐんだ。
「終わってしまえばこんなものです。ラスト5km、本当に体が動かなかったことを次の反省にかえたい。いつも一人で距離走をしているので独走も不安はなかったです。私のセールスポイント……明るさ、明るさを売りにしてます!」
ドーピング検査を終えると、ハスキーな声で笑い続けていた。エドモントンの世界陸上にも期待の新星は「イメージは沸きませんが、思い切りやります。物怖じしないで」。
「売り」は、ハスキーボイスでも、明るさでもなく、もちろん物怖じしない精神とそれを映し出す力強い走りである。
●渋井陽子(しぶい・ようこ)
1979年3月14日生まれ 栃木県黒磯市生まれの21歳。陸上は、厚崎中学から始めて、那須拓陽高校からは距離を伸ばして3年にはインターハイで5000m5位。全国高校駅伝にも出場している。家族は両親と兄。164センチ、45キロ。三井海上の鈴木監督が、走りのスケールに引かれて勧誘「あまり陸上を長くやる気にはならないけれど21歳くらいまでなら走ります」と、3年を目標に実業団入りし、約束の3年目に初マラソンの世界最高を樹立してしまった。温泉に入ることが大好きだそうで、この日のレース後も「おんせん、おんせん」と叫びながらバスに乗って行った。