idle talk60

三井の、なんのたしにもならないお話 その六十

(2021.07オリジナル作成)


 
 大先達の諸先生方の訃報に万感の思いあり

   
 
 
 先に記したように、昨年は日本中小企業学会の第40回大会という節目の年であった。
 学会の設立は1980年で、すでに爾来41年目となるわけだが、この学会の歩みと、一研究者としての私自身の歩みとがほぼ一緒となるので、いろいろ思うところも大である。

 そうした一端は、私の懐古的対談で披露し、また昨年の学会大会の際での私のスピーチで振り返ってもいる。
 

 そうしたなかでしばしば強調してきたのは、私は戦後日本の中小企業研究での「第三世代」とも言うべきジェネレーションの一端に位置し、まさに末席を汚しつつも懸命に努力してきたという実感である。

 ここでの「第一世代」と位置づけさせていただくのは、学会初代会長を務め、まさに戦後研究の名実とものリーダーであった山中篤太郎氏、またその前後の大先生の方々である。伊東岱吉、藤田敬三、田杉競、小林靖雄、滝澤菊太郎氏など、私にとっては実際上「書物のなかの先生方」の存在で、それらの方々の謦咳に接することができただけでも幸運に属していたといま実感する。

 
 それに続く「第二世代」の先生方には、様々な機会で直に教えをいただき、ご一緒に研究活動等に参加させていただくこともでき、いまにして思えば、これはまたとない貴重な経験であった。わけても佐藤芳雄先生には、別に「指導教授」でもないのに多々叱咤激励を頂戴し、文字通り「鍛えられた」経験の数々であった。
 佐藤先生のみならず、小川英次、前川恭一、巽信晴、鈴木安昭各先生らのお名前も浮かぶ。こうした世代の先生方を軸とする研究グループに混ぜてもらったことに、私の駆け出しの「研究生活」が始まったのである。

 それが、佐藤先生を代表とする調査研究と議論のためのグループであり、その成果が佐藤芳雄編著『巨大都市の零細工業』(日本経済評論社、1981年)であった。これには、佐藤先生のほか、同世代の大先生・中山金治、池田正孝両先生が並び、そのもとに当時まだ駆けだし的な「若手」として、伊藤公一、大林弘道、渡辺幸男各氏、そして私が末端に連なったのである。こうした方々を私は勝手に「第三世代」と呼ばさせていただいている。
 この書は、佐藤先生のもとで担われたいくつかの調査研究事業や独自の調査、さらにそれらをもとにした研究会での議論などを踏まえて構成されたもので、急速に肥大化・中枢化を強める巨大都市東京が、明治以来の近代産業発展と工業化の中心でもあり、その有り様は時代とともに変化しつつも、あらためて現代の都市経済の重要な構成要素となっていること、その担い手は中小企業と言うよりむしろ「零細経営」であることを立証するものであった。「都市型先端産業」といった、一部企業の急成長に注目するような見方の氾濫へのアンチでもあった。
 

 本書は私個人にとっては、まさに「中小企業研究者」としてのデビューの機会であり、人生の大きなステップとなった。こうした機会を与えてくださった佐藤先生や共著者諸兄には感謝の言葉もないくらいである。



 この『巨大都市の零細工業』書の刊行からも、今年で丸四〇年となる。誠に感慨深いものである。この間に佐藤先生は日本中小企業学会会長を務められ、池田先生も副会長をされた。伊藤氏、渡辺氏、そして私も会長を務めた。大林氏には先輩ながら、副会長をお願いした。
 
 佐藤先生は不幸にものちに重い病に冒され、闘病生活を送りながらも、新設大学の学長、また学会会長としての重責を担われ、その途上1998年に斃れられた。64歳の若さだった。私は再度の在英中のことで、ご葬儀に参ることもできなかった。中山金治氏も日本大学教授の現職のままで、病に斃れられた。私には「ほぼ同世代」の伊藤公一氏は2018年に病に冒され、亡くなられた。

 そしていま、池田正孝先生の訃報を受けている。1932年生まれ、88歳であったそうなので、今の時代でも長寿のうちではあるのだろう。
 万感胸に迫るものがあるが、ともかくこれで、『巨大都市の零細工業』執筆者のうちで生きているのは3人になってしまった。のみならず、「第二世代」の先生方のうちでご存命の方は数少ない。小川英次先生も、巽信晴先生も、前川恭一先生・鈴木安昭先生いずれももうおられない。

 

 池田先生には個人的にも学恩大である。とりわけ、私が1986年に「生まれて初めて」日本のそとに出る、「在外研究」の機会を得られた際には、まさしく「西も東も分からない」私に、多々お世話と紹介をいただくことができた。「籍を置く」研究先の紹介、さらにロンドンでの寄寓先自体、池田先生が先に滞在された貸家なのである。まさに、池田先生のお力なしにはなにもできない身であった。ロンドン生活の生活の知恵なども多々ご伝授をいただいた。

 このときの寄寓先であるMrs.Williamsの貸家(flat)は、ロンドン郊外の住宅地の一角で、一階でご夫婦が暮らし、二階を貸家にしていた。地下鉄駅から徒歩10分ほどで、買い物も至便であり、当時はこのあたりに日本人居住者も多く、日本食品店もあった。池田先生ご夫妻はこの貸主Mrs.Williamsと懇意にしており、二つ返事で受け入れてもらえた。


 研究生活の上でなによりありがたかったのは、池田先生があちこち紹介の労を執ってくださり、ケンブリッジ大学応用経済学科(Department of Applied Economics, University of Cambridge)のビジターになることができたことである。のちの時代であれば到底考えもできなかったことだが、当時は英国の大学もまだ牧歌的で、私のような者も二つ返事で受け入れてくれたのである。もちろんここに毎日ロンドンから通うわけにはいかないので、やはり池田先生の紹介で、別途LSE(London School of Economics and Political Sciences)のビジターにも登録したが、こちらはかなり事務的で、一定の条件と登録料と引き換えに、受け入れてもらえる、というものであった。こちらには日々図書館に通うなどしていた一方、ケンブリッジには毎週か隔週一回くらい通い、ライブラリーを利用する程度ではあったが、のちにはここをベースにしたpostal surveyを実施することができ、その際にはケンブリッジの名が大いに役立った感である。
 
 一年半、この池田先生紹介の寄寓先で暮らす間に、池田先生ご自身がロンドンに見えられる機会はなかったが、お嬢さんが勉強がてら来られるということで、空港までお出迎えし、一晩泊まってもらった。この経験や噂話のなかで、池田先生はじめ「一つ上の」世代の諸先生方がいかにパイオニア的な仕事を外国でされてこられたのか、いくらかなりとも実感ができた思いはある。まさに「中小企業研究の国際化」を切り拓かれていたのである。私など、敷いて頂いたレールの上を歩んでいったに過ぎないが、おかげさまで、とても充実した一年半を異国で過ごすことができた。
 

 いま、私の「仕事場」のデスクの前の壁には、池田先生作成の「児童文学ゆかりの地を訪ねて −スイス」と題されたカレンダーがかかっている。近年、先生はこうした児童文学のルーツ探しや比較研究に没頭され、講演なども重ねられ、数々の訪問地で収められた写真を蓄えて、それらの画像を用いたこうした作品を出されていた。これも「手製」といったレベルではなく、立派な印刷物で、画像も鮮やかである。7月は「アロイス・カリジェの生まれたトゥルン」となっており、アルプスの山並みを背景としたのどかなスイスの村の教会が写っている。こうした作品を、お手紙とともに半年前に頂いていた。

 佐藤先生は生前、福沢諭吉の言を引用し、「一身にして二生を経るが如し」という時代の激変の中に生きた意味を、現代に説かれた。その意図を我田引水させて頂けば、池田先生は中小企業の研究、とりわけ日本的な「下請関係」を世界の中でとらえ直し、かっては「遅れたもの」扱いであった「下請中小企業」の存在を、自動車産業などの全体像、またサプライヤシステム・マネジメントの比較研究として発展させ、折りから世界的に進んだ「ジャパナイゼーション」の流れのうちで位置づけられた。そうした研究での各国「現地」における詳細な現場調査、諸論の比較検討などにおいて、文字通り先陣を切られたのである。私などはまさしく、そのあとを追ったものであった。

 
 時代の歯車はいままた、さらに大きく回り、「ジャパナイゼーション」どころか、「日本的なもの」はダメだ、という代名詞にされ、「日本は中小企業が多すぎるので半分にしろ」などという珍論暴論が大手を振ってまかり通っている。一代のうちに「二生」どころか「三生」も経験している実感である。こうした時代にこそ、池田先生の丁寧な調査と研究にもとづく議論を伺いたかった思いも新ただが、先生はまさしく「第二の生」として、児童文学などの研究に打ち込まれ、現地訪問や資料収集を重ねられたのである。ここでも「現場を第一にする」姿勢がよく見て取れる。先生ご自身の計画では、八〇代のうちにはさらに訪問や資料整理、現地撮影などすすめ、カレンダーも引き続き作られるおつもりであったようだが、世界的パンデミック下に思うに任せぬ状況のまま、静かに生涯を終えられた。



*池田正孝先生が生前、中央大学の情報に載せられた稿(おそらく今年のもの) 「児童文学への招待」


 うえの記述、早々に訂正が要ることに気がつきました。

 池田正孝先生は日本中小企業学会の副会長を歴任されてはおりません。
 自分の記憶ではそう思い込んでいたのですが、学会のサイトの記録<歴代会長・副会長>では、池田先生のお名前がありません。この記録の原型の作成には私が関与していたはずなので、世話はないものです。

 池田先生当然、学会三役を歴任されていた、という思い込みがありました。それだけ存在感が大きかったような印象のみあります。



 人間年取ると、記憶も曖昧になるだけでじゃなく、あとから思い起こされる事柄も少なくありません。

 池田先生とは様々な機会でもご一緒をさせていただきましたが、相当大きな意味を持っていたのは、勤務先である中央大学経済研究所の調査研究プロジェクトに入れていただいたことでした。当時の私の勤務先校では研究環境が整備されていたとはとても言えない状況でもあったので、他大学のこうした研究事業に参加する機会を得られたのは、誠にありがたい限りだったのです。中央大学経済研究所関連では、池田先生だけではなく、M先生が主役のプロジェクトにも入れていただいており、そのおかげで英国内の日系メーカーの現地生産状況の調査に駆け回ったりすることもできました。しかもM先生の運転付き、こんなありがたいことはありません。

 そういうことで、中央大学の八王子校舎、また駿河台の中央大学会館(旧校舎跡地)にはずいぶん通いました。ただ、結局このように同大学からいただいた特段の恩恵におこたえをする機会はないままだったので、申し訳ない思いがいまもあります(研究成果等は刊行*していますけれど)。池田先生の名を世に知らしめた研究の一つが、中央大学経済研究所編『中小企業の階層構造 −日立製作所下請企業構造の実態分析』(1976年)であったことを思えば、かなり忸怩たる思いを拭えませんが。

*三井『EU欧州連合と中小企業政策』白桃書房、1995年、三井編『日本的生産システムの評価と展望』ミネルヴァ書房、1999年、等。