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三井の、なんのたしにもならないお話 その五十五

(2020.05オリジナル作成)



 
 1950〜60年代、「鉄道映画」全盛の時代 −『大いなる驀進』(東映・1960年) 


1.「鉄道映画」(レイルムービー)

 最近、テレビ放映で『大いなる驀進』というのを見ました。1960年公開、つまりいまからちょうど60年前の作品で、映画が娯楽の王様であり、また鉄道が交通の主役であった時代の象徴のようなものです。その前に同じ東映が作った『大いなる旅路』(1960年)の続編のようで、当時の世相を偲ばせます。監督も脚本も同じ関川秀雄、新藤兼人です。出演者も三國連太郎はじめ、かなりダブっています。
 
 こういった、鉄道の旅を舞台とする映画というのは、このころ世界中で作られていたと言えましょう。のちの「ロードムービー」の先駆けですが、鉄道である以上はRoad Movie では困るので、Rail Movieと呼びましょうか。『バルカン超特急』(The Lady Vanishes)、『見知らぬ乗客』(Strangers on a Train)といったヒッチコック作品などのスリラーにも多数ありますが、やはり旅のドラマというよりミステリーとして作られた『オリエント急行殺人事件』(Murder on the Orient Express、1974)など、代表的な列車上でのできごととなります。ハリウッド映画などは列車の旅と事件を結びつけるのが好きだったようです。

 1950年代の日本映画を代表する『東京物語』(1953年)も、見方によっては、尾道東京間の鉄道の旅の映画と言うこともできます。車上の場面は少ないのですが、のべ16時間半の夜行急行での長旅というものが、二つのまちの間の物理的時間的距離を象徴し、これをひたすら座って旅する老夫婦の労苦を表してくれていました。

 1970年の山田洋次監督『家族』は、長崎から北海道中標津までという、まさに日本列島を縦断する家族の3千キロの長旅の物語であり、正真正銘のレイルムービーと呼べましょう。もちろん、その間にいくつもの列車を乗り継ぎ、青函連絡船にも乗り、途中で何度も泊まり、多くの波乱と生死の出来事を経験する、オリジナル大ドラマなのですが。



 鉄道での「旅」の物語より、鉄道を仕事の場とする働くひとたちを主役にしたドラマも少なくありません。上記の『大いなる旅路』が日本での代表格でしょう。そして、明らかにこれから「インスパイアされた」テレビドラマシリーズが、NHK朝のテレビ小説『旅路』(1967年)と言えます。題名まで似てますね。平岩弓枝脚本、日色ともゑ、横内正主演で、かなりの視聴率をとりました。『男はつらいよ 望郷編』(1970年)でも、鉄道員がらみのお話になります。松山省二、井川比佐志がそれぞれ機関士の役で登場します。長山藍子、松山省二は『旅路』から乗り換えたかたちです。
 のちの『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年、降旗康男監督)は申すまでもないですね。浅田次郎原作で、生涯を北海道の駅員として生きた男の孤高の人生を高倉健が演じ、絶賛を受けました。鉄道で働くひとの物語といえば、これを思い起こすひとも少なくないでしょう。

 国外でも、1956年制作のイタリア映画『鉄道員』(Il Ferroviere)は題名通りに鉄道職員の家族の物語で、日本でもヒットしました。いろいろ影響を与えていることは間違いないでしょう。仕事一筋の特急運転士が、人身事故とその後の過失運転のできごとから職を奪われ、職場でも孤立し、家庭も崩壊していく悲劇的な物語です。末っ子を演じる子役の可憐な演技とともに、家族愛と友情が戻るクリスマスイブ夜半に、静かに息絶える主人公を演じた職人的監督俳優・ピエトロジェルミの存在感で知られています。

 

2.東京長崎間の寝台列車さくら

 さて、『大いなる驀進』は東京長崎間を走る寝台特急さくらの車中の物語です。東京駅を16:35に発車、終点長崎には翌日12:28着という、20時間ほどの長旅です(映画では途中の事故で30分余の延着になりますが)。基本は寝台特急で、寝ながら行かれるはずであるものの、映画中でも出てくるように座席車両もあり、そうなるとまさに修行の旅だったでしょう。ここに座る、主人公の一人望月君枝(佐久間良子)は、車内で長崎までの切符と特急券を買うと申し出、2970円と請求されます。彼女の貰っている給料が1万数千円と語られますから、まあいまのレート・物価相場では3万円以上の実感だったでしょうか。座っていくだけでこの値段、高くつく修行です。

 
 
 私自身は、寝台列車というのには殆ど乗ったことがありません。その時代、こうした長旅をする機会も余裕も乏しかったですし。そして、寝台でも眠れなかったことだけ覚えています。なんにもなりません。それを含めて、「周遊の旅行」以外で、列車での超長旅をした記憶は、北海道1往復(上野・苫小牧間)、九州1往復(東京・小倉間)、北陸1往復(上野・金沢間)、四国1往復(東京・高知間、ただし途中までは新幹線)くらいだったと思います。もちろん、それ以降は飛行機か、せいぜい新幹線となりました。北海道にはずいぶん行きましたが、上記以外すべて空路です。九州や四国も基本空路です。昨年、北九州での所用があった際に、久しぶりの経験で、新幹線で小倉往復しました(上記の乗車実績に加算すべし)が、相当に疲れました。乗り換えなしだからいいか、と思ったものの、1000キロあまり、5時間近くの旅は老体にはこたえますね。

 そういった我が身に置き換えれば、20時間の列車の旅というのはいくらなんでも、となります。けれども、ちょうど松本清張『点と線』(映画化は1958年)において、東京、福岡、札幌を結ぶ時間差のトリックで、飛行機乗り継ぎがアリバイ工作の盲点となったように、1960年代あたりまで、長旅に空路利用などというのは「一般大衆」の想定外、とんでもないことでした。1970年の映画『家族』でも、長崎から旅立つ精一一家を見送る友人が、「銭ためて、ジェット機で遊びに来てん」と励まします。飛行機で北海道と九州のあいだを旅するというのは、まだ贅沢のうちだったわけです。
 いま、誰でもちょっと長い距離を移動するには、まず飛行機を考える、まさに隔世の観ありですね。私も、いまさらに北海道や九州、四国に列車で行きたくはないですね。新幹線でさえも、二の次となりますから(唯一の例外は、北陸の金沢・富山です。以前は空路経由が便利だったのですが、新幹線開通後はそちらになりました)。

 松本清張つながりで言えば、映画『張込み』(野村芳太郎監督、1958年)では、佐賀市に立ち回る可能性があるという強盗殺人事件の容疑者を追い、警視庁の刑事2人(大木実、宮口精二)が列車で移動、張り込みに入るという展開でした。この旅は夜行列車(急行さつま *警視庁刑事だから、当然「サツマノカミ」はしなかっただろうと、時代遅れすぎのジョーク)で、しかも満員状態、岐阜・京都を過ぎてようやくに座席を確保し、2人はアンダーシャツ一枚になり、かたい座席でうたた寝しながら目的地に向かいます。エアコンもない蒸し暑さいっぱいの車内、目的地に到着すればすでに日は暮れ、その苦労が画面からうかがえます。なにせ「さつま」の鹿児島終着は、「翌々日の」朝だったそうですから。
 

 さて、本題に戻れば、それに比べ、寝台特急さくらの方がずっと楽、となるのでしょうが、相当の難業であるのは、いま見ると否定できません。実際、「お話しを作るために」列車走行中にいろいろおこるのですから、寝台車でもおちおち寝ていられない始末です。寝台車と言っても、コンパートメントで完全プライバシー確保などとはかけ離れた、カーテン一枚あるだけでの二段三段ベッドが大部分なので、そこに留まっているだけでも難業修行のうちですね。うるさい、落ち着かないだけじゃなく、寝台内でも喫煙OKなのです。主要登場人物のひとり、政府与党の大物幹部(上田吉二郎演)は着流しのうえに羽織、ステッキを持ち、車内を闊歩し、浴衣に着替えた寝台の中でもずっと葉巻を燻らしています。個室ではなかったようです。非喫煙者のほかの乗客にはたまったものじゃないですね。

 この大物政治家氏は、長崎での演説会に出るため、秘書同伴でさくらに乗っています。つまりこのころまで、大物といえども、一般大衆とともにこういった旅を列車でするのはごく当たり前の姿だったわけです。もっとも停車駅ごとに、動員された地方組織の一行がホームで出迎えをし、大物氏も外に出て万歳三唱を受ける、なんとも牧歌的でした。最後は長崎駅で大歓迎陣です(この顔、映画の製作者でもあった東映社長の大川博にも似ていたのはご愛敬か)。

 
 この映画は当時の日本國有鐵道の総力を挙げての協力で撮影されたそうなので、フツーでは撮れないような場面が多々出てくるうえに、国鉄PRの趣も色濃く出ています。そもそも、寝台特急さくらを舞台に据えたこと自体、大きなプロモーションキャンペーンだったわけです。こんな設備でも、ゆっくり寝ながら九州まで行けますよ、というのは目玉的売りだったのでしょう。また、かなり立派な食堂車がついています。そこで、夕食と翌日の朝食が供されます。乗っている乗客数に比べてどうにもテーブルの座席の数が足りないのは、多くは自席で駅弁を食するのが前提だったのでしょう。それでも朝食時などかなり混み合っていました。

 食堂車という存在自体が贅沢な旅の象徴であったのは、まさに隔世の観ありです。いまでは新幹線を含め、食堂車というものは通常運行列車から絶滅してしまいました。かく申す私自身、食堂車で食事などという経験は殆どありません。新幹線の「ビュッフェ」でビール飲んだ経験くらいはありますが。正直、もっと選択肢はあった方が、とも思うものの、自分自身が使わないんなら、意味はないわけです。ただ、このごろは車内販売もなくなってしまった上に、へたをすれば座席で弁当など食していると、「食い物飲み物の匂いが不愉快だ、車内での飲食禁止にしろ!!」などという自粛チュウが横行し、飲まず食わずで座席におとなしくしていなければならないということにさえなりかねません。まあ、旅は昔も今も、難行苦行ということで。



 だいぶ脱線しました。映画の中のさくら食堂車には、当時のことですからウェイトレスもコックも大勢います。そのひとりが松本芳子(中原ひとみ)で、彼女は物語の主人公、列車給仕の矢島敏夫(中村嘉津雄)に片思いしているのですが、始めから終わりまで、片思いのまんまです。彼の事実上の婚約者である望月君枝が列車に乗り込んできて、あわやとなるものの、最後までなにもおこりません。このへん、ドラマとしては起伏なさ過ぎです。深夜食堂車で、遅い夕食がてら業務のまとめを行う敏夫と専務車掌の松崎に接客するが、ツンケンしている、そんなくらいでしか感情表現できません。

 一方で、敏夫と君枝はかなり長いつきあいなのに、二人の仲は危機に瀕しています。冒頭、列車に乗る前、丸の内界隈(いまでは想像もできない牧歌的な風景)を二人で歩きながら、口論になります。二人は結婚したい、でも給仕の安月給じゃそれは無理、もう2年もこんな状態、だから敏夫はこの乗務限りで鉄道をやめ、もっと給料のいい職に転じようと考える、彼女はそれに反対、そしてあげくに、見送りに来たホームから発車するさくらに飛び乗ってしまう、こういう波乱の仕掛けです。ただ、この辺深掘りないので、敏夫君枝それぞれの心情はいまひとつわからないまま、旅はどんどん進んでいきます。理屈をこねれば、敏夫は二人の将来のために、経済的安定を望んでいるのであり、それはいまの勤務のままでは実現しないと考えているわけです。実際、君枝の家庭は経済的に苦しく、彼女の乏しい収入で病気の父親らを支えているような状態です。ですから、もともと結婚を待ってくれと言ったのは彼女の方でした。それを、「自分が働いてみなを支える」と健気に、敏夫は言ってきたのです。でもいまの給仕の給料では到底無理、だからもっと稼げる仕事に転じたいと。

 
 まあ、国鉄もよくこんな設定を許しましたね。あるいは「どうせ結婚もできない安月給」と居直ったのかな。また、君枝はそうした心情は自分のためなのだ、と理解もせず、「仕事を続けるべきだ」と彼に迫るのみなのでしょうか。なんとも矛盾しています。
 話しをくみ取れば、敏夫は結婚できないような安月給の身に嫌気がさしている以上に、4年間続けてきたといういまの仕事自体にやりがいを感じられないのでしょう。寝台列車の給仕というのは、主に走行中の車内での寝台の組み立て整備、寝台使用終了後の折りたたみと座席の整備、車内の清掃や乗客の案内、荷物運びや身の回りの世話といった業務を担当しているようで、白服を着用し、ホテルの部屋係のような存在です。「ボーイ」とも呼ばれています(腕章にも書かれています)。これが一列車に10人ほども乗務しているのですな。あまり鉄道マンといった雰囲気にはなく、給料も安かったのでしょう。
 だから、その辺の心情の危うさに君枝は不安を感じ、説得を試み、そしてドラマの進行とともに、敏夫は鉄道勤務の誇りを自覚するようになる、こういった持ってきようなのでしょう。後でも触れるように、かなりの無理線なのですが。

 この二人、中村嘉津雄と佐久間良子の「演技」についてはなにも言わないことにしましょう。そういうことを云々するような映画じゃないのだ、という理解で。まあ、のちに佐久間良子の演技力が広く好評を博す時代に比べて、この頃あまりにこき使われすぎでしたから。東映映画に年間10本以上も出されていたのです。



3.国鉄マンの誇りここにあり

 敏夫と対照的に、冷静沈着で、仕事に生き甲斐を覚えているのが、専務車掌の松崎義人(三國連太郎)です。制服姿が板についており、列車の出発から終点到着まで、さまざまな所定の業務をこなすとともに、車中でおこる出来事にテキパキと対処をしていきます。運転運行は機関車内の機関士の職責なのでしょうが、それ以外のあらゆることに対処する責任を負っています。検札や次駅案内だけではなく、車内の問題について運転所と連絡を取り、また車内に適宜放送案内をするのも、個々の乗客からの訴えに対応するのも、松崎の役割です。門司駅での殺し合いをとめ、とばっちりで手に怪我もしました。でも、騒ぐこともなく乗務を続けます。それゆえ、上司としてまた先輩として、若い敏夫に指導と指示をし、また人生についても、それとなく諭す役割となり、まさにいいとこどりです。

 ただ、そうした意味では役者三國連太郎の本領発揮とは言えないような感もしなくはありません。前作『大いなる旅路』で、40年近くにわたり鉄道員・機関士として、多くの波乱と困難、危機や事故を乗り越えてきた人生を演じきった迫力・存在感とは距離があります。三國連太郎といえば、実に幅広い、硬軟、善悪さまざまな役を演じてきた、まさに日本の映画俳優の第一人者と呼ばれるにふさわしい存在でしょうが、それに比べて役が型にはまりすぎでした。『飢餓海峡』での逃亡犯人犬飼太吉、『神々の深き欲望』での孤島の土着民、『襤褸の旗』での抵抗者田中正造、『あゝ野麦峠』での田舎の工場主、『息子』での実直堅物な父親、そして下っては『釣りバカ日誌』シリーズでの社長スーさん、まさに変化自在の役を熱演してきているのです。
 

 しかしこの列車内には、怪しい人物も満載です。いちばん怪しいのは、一目でそうわかる若い殺し屋サブ(曽根晴美)と、彼に狙われる暴力団幹部の時定(波島進)でした。サブは大阪から乗車し、東京から乗っている時定をねらい、たびたび車内をうろついて機会をうかがい、ついに下関で下車した彼をホームで襲います。時定による、その前におこった殺人事件の容疑者密告逮捕という裏切りの事態の「決着をつける」ためでした。取り押さえようとした松崎は刃物で手に怪我をします。それでも、殺し屋は駆けつけた公安官に引き渡され、時定は病院に運ばれます。このサブというのは、服装「愚連隊」風、顔も歌舞伎役者と見まがうばかりの悪漢チンピラ風で、浮きまくっていたのはどういうつくりなのでしょうか。時定の方は、冷静に密告を実行、いかにもそれなりの地位のある人間にも見える、大物、真のワルでしたが。

 
 寝台車に乗っていた時定は護身用に拳銃を隠し持っていました。これも恐ろしいですね、武装テロリストが乗車しているのですから。ただ、下関駅ホームで襲われた際、彼は拳銃を撃てません。弾が入っていなかったのです。ま、実弾が撃たれれば、ほかの乗客らにあたって大惨事となる危険もありました。その弾を盗んだのは、名うてのスリのプロ、「カメレオンの松」(花沢徳衛)の仕業でした。撃ち合いを防ごうとしたのか、そこは説明ありません。松はその前に、政権党幹部の懐から懐中時計を盗み、焦らせます。「あの時計は総裁から頂戴したものだ!」と、それで秘書は車掌にねじ込みますが、どうにもなりません。けれども終着直前に、時計は「出てくる」ことになります。犯人の松の気がどうして変わったのか、それは説明なしでした。「落ちていた時計を見つけた」ふりをしたので、被害者から感謝される、まあそういった勢いっぱいの皮肉でしょうか。
 
 ほかにも、盛りだくさんのエピソードを抱えた乗客たちです。新婚旅行のカップルもいれば、身分差を越えて駆け落ちした男女、九州の実家の母危篤の知らせで東京から帰宅を急ぐ娘、長崎大医学部に血清を緊急輸送する役を担う大阪の看護師(久保菜穂子)、とりわけ大騒動を起こすのは、経営にいきづまった九州の炭鉱主(小川虎之助)で、車内で服毒自殺を図り、大変なことになります。連絡を受け、岡山駅で医師(小沢栄太郎)が乗車、走る列車内で胃洗浄を施し、生き返らせます。医師は下関で下車し、引き返そうとしますが、ホームの殺し合いで、引き留められ、時定の手当をせねばならない羽目になります。自殺未遂の炭鉱主の方はすっかり元気になり、車掌や医師に深く感謝するので、これも違和感ありですが。

 
 けれども最大の山場は、台風の来襲と線路土砂崩れです。列車の発車前から、四国中国地方への台風接近は報じられていますが、予定通りに出発してしまいます。まずここから、いまどきあり得ない事態ですね。そして、岡山で機関車をEF58からC62に付け替えたのち、さくらはもろに台風のまっただ中に進んでいくことになります。次第に激しくなる風雨、そして三原近くのトンネル入り口脇の崖が崩れ、線路に土砂が落ちているのを機関士が発見、直前で急停車するという緊急事態です。この真夜中の急停車で起こる車内の混乱などは、なかなかの迫力です。
 危機一髪のところですが、ここからが突っ込みどころ満載の有名な展開になります。停まった列車から、松崎らが運行本部や次駅、保線区などに連絡を取ろうとしますが、なかなかうまくつながりません。通信線が切れたところもあるようです。そうすると、機関士や助手、そして松崎ら乗務員は列車前方の崩落箇所に行き、状況を確認するだけでなく、土砂降りの風雨の続く中、自分たちで土砂岩石を取り除こうとするのです。これに、敏夫ら給仕、食堂車のコックらも加わり、白い制服を泥まみれにして、手作業で懸命になります。さらに食堂車のウェイトレスら、そして信じられないことに、君枝ら女性乗客らもこれに加わります。
 こうした皆の懸命の努力、泥まみれずぶ濡れの奮闘で、列車は30分ほどの遅れで、現場から出発することができます。その前に、保線区からの緊急要員らも道具を携え、現場に到着していました。

 

 でもこれ、現代の運行基準、安全基準から言えば、あり得ないことだらけですね。

 まず、台風接近の予報があれば、全線で運行停止、運休措置がとられるだろう。特に近年は、大都市部でも「全線事前運休」の措置がたびたびとられます。危険承知で列車を動かすなどということはあってはならないとされています。
 
 そうした対応が遅れても、台風接近、暴風雨が目前に迫れば、大阪、神戸ないし岡山あたりで列車は停止、運転見合わせとなるだろう。しかしさくらはそのまま広島に向かうのです。
 
 それでもなお、土砂崩れ現場にまで列車が到達してしまった際、乗務員でも勝手に列車を降り、現場を見に行ってはいけない。それは保線要員の仕事である。まして、自分たちで崩落土砂撤去作業などはじめてはいけない。そうした訓練や判断を委ねられてはいないのだし、独断で作業にかかるのは危険極まりない。だいいち、道具も土木機もなにも持っていない。
 
 まして「乗客まで加勢する」など、絶対にあってはならないことである。乗客の生命と安全の確保は至上の命題のはずである。乗客全員には車内に留まって貰い、身の安全を図って貰う、乗務員はそれを保護するのが当然の使命だろう。
 
 たとえ「崩れた土砂が取り除かれた」としても、現場の機関士らの判断で列車を動かすことなどできるわけがない。その先にどのような状況があるのか、まだわからない。そして現場の土砂を除いても、安全運行可能な線路の状態なのかどうかは、当然ながら乗務員ではなく、保線関係の判断によるのであり、それに基づき、運行本部が決めることである。
 
 こういった当然の物差し無視での、「お話し」で事態が進んでしまうのは、いくらなんでもやり過ぎではないかと思わざるを得ません。

 それでも「国鉄の全面協力」というのでは、いかがなものかと思いますけどね。当時の国鉄の基本姿勢としては、「乗客を、どのような条件下でも目的地に送り届ける」、それが第一であり、「台風を衝いても」列車を走らせ、困難を乗り越えることが素晴らしいとされていたということでしょうか。そのための、乗務員らの犠牲的貢献と尽力が美しいお話になった、そんな理解をされていいのでしょうかね。
 
 ともかく、この列車運行再開に乗客らは拍手し、感謝します。松崎らは全身ずぶ濡れ、泥だらけで、服は絞るほど、それを食堂車で着替え、また勤務に戻ります。そして敏夫も白い制服を真っ黒にし、この成果にあらためて鉄道マンとしての誇りを実感し、ともに汗をかいた君枝と思いを共有できるようになります。「俺、辞めないよ」、「でも、着いたら結婚しよう」と。この心境の変化は、大げさな道具仕立ての割に、心理描写にはなっていないので、なんかいかにも「芝居じみている結果」の印象は拭えません。
 一方でびしょ濡れになった君枝は、恋敵であるはずの芳子から着替えを提供されます。彼女はこの女性乗客が、敏夫への自分の思いのライバルであることにずっと気がついているのですが、むしろ自分の気持ちに逆らって、二人を助ける側になります。それは最後、終着駅で二人を見送るところまで、悲しげなまなざしのまま変わらないので、なんとも純情な奥手ぶりです。逆に言えば、物語の波乱にならないままです。うーん、ですね。台風突破の大活劇展開とは対照的すぎて。

 

4.懐かしの鉄道車両群

 「鉄道映画」としては、マニアックに車両等のことが話題になります。なにせ60年前ですから。この映画は国鉄全面協力であり、国鉄寝台特急の宣伝臭もあるため、その辺は充実しており、多くの場面が、実物の寝台特急(いわゆるブルートレイン)、あるいはそれに見立てた車両で撮影されています。走行シーンでは、実際に映画撮影のために仕立てられた列車編成を、各地で走らせて撮ったようです。また列車の着くホームの場面だけでなく、車内場面も大部分、実物車両を撮影に使ったのでしょう。夜行列車なので、車窓からのそとの風景はほとんど写らなくてよいのも撮りやすかったでしょう。さもないと、窓の外にスクリーンプロセスで、飛びゆく風景映像を写さないといけませんから。ただ、実際に線路上を走行している車内で撮影をした場面は少ないように思われます。そうすればかなりの揺れがあり、また走行音などが画面に入ってしまうのは避けられませんので(音は、アフレコで後からセリフを入れることもできますが)。

 
 知られているように、映画『家族』での列車旅行の場面は大部分、実際の列車内に撮影機材を持ち込み、俳優たちがそこに座って演技をしていました。それだけ、撮影機材を小型化簡易化したこともありましょうし、ドキュメンタリー的な雰囲気での画面づくりを意識したせいもあるでしょう。実際、見ていると、「たまたま」列車に乗り合わせた乗客たちの会話、その人たちと出演者たちの対話のようにさえ見える場面もあります(ただ、「鉄道映画」を取り上げる某氏のblogでは、代表的作品のひとつに『遙かなる山の呼び声』があげられ、しかし『家族』の名はありませんでした。たしかに『遙かなる』のラスト場面は、網走刑務所に護送される耕作(高倉健)の乗る冬の列車内での、劇的なドラマ展開でしたが、「鉄道映画」としてははるかに『家族』でしょう。何か勘違いしたんじゃないのかと想像されます)。それに比べ、『大いなる驀進』での車内場面は、ほぼスタジオ内並みの撮り方になっており、リアルさ重視ではありません。あくまでお芝居であり、そのための背景・大道具としての鉄道車両です。ただ、上記のように実物車両を多用しての撮影でした。そこは贅沢な撮り方になっています。走っている車内の迫力は欠きますが。

 

 それでも、映画をあらためて注意深く見てみると、映画序盤にさくらが東京駅を発車し、夕方の東海道を下っていくところでの展開は、大部分が走行中の列車内で演技しているともとれます。窓外の流れていく景色の光が車内の壁に反射し、走行音が相当に響き、振動も伝わってきて、かなりリアルです。この辺の撮影は相当に力が入っていたのでしょう。駆け込み乗車してしまった君枝に敏夫が「帰ってくれ」と車内で迫る場面は、明らかにセットないしは固定した車両内での撮影でしたが、そののちも、走行中の車内で撮ったと思われる場面は何度も出てきます。このあたりのつなぎ方はなかなかでした。

 
 
 当時の特急さくらの編成は、20系客車12+1両が基本であったと概して記されています。いわゆるブルートレインの先駆けで、当時としては贅を尽くした車両群でした。1958年、東京博多間の寝台特急「あさかぜ」用に導入され、人気車両群になりました。なにより大きかったのは、基本固定編成で「冷暖房完備」だったことでしょう。いまでは通勤列車も当たり前にエアコン完備で窓も開かない、それで困ることさえ起こる始末ですが、1950、60年代あたりでは、「こだま」のような新鋭専用車両以外では、冷房が入るというのは特別なことでした。その一方で東京オリンピックに合わせて開業した東海道新幹線は、ゼロから構築した「新幹線」ですから在来線との関係は一切なし、従来の常識を越えた高速走行、ために窓も開かないのでエアコン完備は当然、固定編成・密閉車両の構造で、むしろ航空機の発想を取り入れたものでした。

 「こだま」は東京大阪間の電化が1956年に完成したのにあわせ、電車特急という当時の新構想で、全面的に新しく設計開発製造された固定編成専用車両群です。1958年に登場し、東京大阪間を6時間半で走る速度と、斬新な外観デザインとともに話題を集めました。その後の列車構想の範となりました。これに対し当時は他の多くの路線が非電化で、動力車プラス客車のかたちが基本であり、大都市近郊の電化区間を走る通勤電車以外は、特急も急行も各停も、この編成以外考えられませんでした(「準急」もかなり走っていましたが)。のちにはディーゼルエンジンの気動車特急編成も登場し、地方路線で活躍することになりますが、だいぶ後のことです。

 
 『大いなる驀進』の撮影当時も、東京岡山間は当時最強のEF58電機が牽引します。しかしそれからの山陽路では非電化区間なので、岡山駅で付け替え、九州内を含め、蒸気機関車C62、C59、C61が相次いで列車を牽引しています。関門トンネルだけは専用の電機EF10になっています。これだけ頻繁に機関車を付け替えるのは、当時のSLでは一回の石炭補給で走れる距離が限られていたせいもありましょう。長距離の鈍行列車や貨物では、途中で石炭やボイラー水の補給停車を行う光景もあったのですが、それじゃあ特急になりませんし。まあ、撮影の都合で機関車が次々入れ替わっただけなのかも。

 C61は戦後のD51改造の旅客列車用機で、つくられた数が少ないので、この映画での登場は貴重なものとされているようです。これに対し山陽路をメインで走るC62 はよく知られた、最強最後の国鉄SLで、幹線での特急や急行を牽引するのに活躍し、いまも保存されている車両も少なくありません。C59は戦前戦後の旅客列車用機関車の主力機のひとつで、山陽本線の主役だったようです。

 
 三原付近の土砂崩れ現場では、上り線を来る列車をさくらの給仕が発煙筒をたいて非常停止させます。その列車はD52が牽引していると読めます。こちらは貨物列車だったのでしょう。


 こうした機関車プラス客車という旅客列車編成のなかで、客車のアメニティを向上させる障害のひとつは電源・熱源の問題でした。長年使われてきた客車車両では、車内などの照明には床下に蓄電池を設置し、これに充電して電灯をつけていました。暖房については、蒸気機関車の蒸気の一部をスチームパイプで流し、車両を暖める工夫が用いられていました。もちろん、機関車連結前では暖房はなし、走行中もいろいろな加減で寒かったり暑かったりもします。のち、SLではない電気機関車やディーゼル機関車が登場してくると、暖房用の蒸気は別途必要になりますから、「暖房車」などという車両をわざわざ連結し、蒸気供給の役に当たらせました(私もそういった暖房車付の列車に乗った経験があります)。さらにのちには機関車のなかに、電気で湯を沸かす暖房用ボイラー(蒸気発生装置)を設置、客車に供給するというかたちにもなりました。

 まあ、こんな面倒なこと、車両間の接続や暖房操作調節も大変、またどうも温度加減も怪しいことを続けるのもなんですから、電化区間では当然、客車でも電熱で暖房をするようになります。電気機関車が客車にも電源電力を供給し、車内の照明とともに電熱暖房を支えるようになります(電車の場合は言わずもがなです)。けれども、それで暖房はできますが、「冷房」までは無理です。

 そこで、ブルートレインなどの長距離旅客列車は思い切った方法をとりました。「電源車」を編成に組み込んだのです。列車内の照明や冷暖房はもとより、水回りの管理、食堂車の電熱源などを一手に担う、電気を供給するだけの車両で、なかには大きなディーゼル発電機が鎮座している、贅沢なものですね。20系寝台特急ではカニ21型が代表的な電源車で、車両記号から分かるように半ばは荷物車ですが、さらに発電機と変電制御装置も積んでいるのです。のちには小型化されたディーゼル発電機を客車自体に搭載し、冷暖房電源を供給するようにもなりましたが、この電源車連結は当時は画期的だったでしょう。客も乗せない車両なのですから。カニ22型はさらにパンタグラフもつけ、電化区間では架線から集電した電気でまた発電機を回すようになっていました。


 『大いなる驀進』では、出発時にこの電源車カニ21が最前部についているのがわかります。もっともこの辺怪しいので、途中で編成が変わっている可能性もあります。少なくとも、ナハネフ(B寝台緩急車)が先頭車になっていたシーンもあります。それどころか、九州に入ったのちの場面では、C61牽引の先頭車がパンタグラフ付のカニ22になっていたのは、いかがなものでしょうか。さらに、博多駅到着時はC59が牽引してますしね。C61牽引で長崎到着後、回送される際にはまた、カニ21がついていました。

 

5.終盤と撮り方と

 さて、台風一過の朝焼け晴天下、車内では寝台の片付けとともに食堂車の朝食サービスが始まり、広島を過ぎ、徳山を前に旅は順調に進みますが、他方では時定とサブの駆け引きが続きます。時定は命を狙われていると気づいていました。このへんでの二人の表情、扮装と行動、そしてカメラワークや照明はフランスフィルムノアールのマネの感がします。そして下関のホームで、ついに殺し合いになるわけです。

 
 この一大椿事を経て、半日以上の長時間の走行ののち、さくらは九州に入ります。関門トンネルを専用電機EF10で抜け、上記のようにC61 、C59という「変遷」はあるものの、博多駅に到着します。当時の博多駅というのは、いまでは想像もつかないようなローカルな雰囲気でした。駅のホームで博多人形も売っているのはご愛敬でしょう。ここで何人もの登場人物が下車、物語は終盤にさしかかります。海沿いに長崎本線を下り、列車は定刻30分遅れで長崎駅のホームに入ります。

 
 長崎駅到着の場面は、鉄道映画らしい画面に溢れていました。まず車内後部から窓外の進行方向に向けカメラを構え、動く景色、近づく駅と走る車体を長回しでとらえます。窓から身を乗り出しているような実感(この逆が、『旅情 Summertime』でのエンドシーンです。走る列車の窓から身を乗り出した主人公から、ベニス駅のホームと見送るレナートの姿が遠ざかっていきます)。そしてこんどは、入線する列車を正面ななめ前から、(たぶん別の車両に乗せて)隣の線路上を移動するカメラで、一緒に移動して撮すのです。カメラパンではありません。出迎えらが並ぶホームの背景が流れ、さくらが動いていきます。それぞれ30秒ほどのショットであるものの、これらの場面を撮るには大変な準備と打ち合わせ、テスト、そして本番作業を要したことでしょう。「鉄道を撮った映画」らしいシーンに、鉄道マニアが感涙にむせぶ決めどころが最後に待っていました。

 

 細かいことを書きましょう。これだけモダンな寝台特急さくらであっても、ドアは自動開閉じゃありません。専務車掌松崎や給仕の敏夫も、頻繁に飛び乗りをします。たとえば岡山駅では、自殺を試みた社長の救護で、停車中に呼ばれた医師が乗りこみます。しかし下ろすことができないため、医師にもそのまま乗っていって貰う羽目になりました。この間医師の求めで、往診鞄を取りに行った敏夫は、動き出した列車にかろうじて飛び乗ることになります。これ、雨中のシーンでもあり、実際にはどこで撮ったかわからないものの、なかなかの迫力がありました。演じた中村嘉津雄も大変だったことでしょう。ほかにも、車掌の松崎は頻繁に、すでに動き出した列車にドアから飛び乗るのです。こういうのは、もちろんいまの自動ドア車両ではできるわけありませんし、車掌室の扉であっても、いまは原則飛び降り飛び乗り禁止なはずですね。安全第一です。

 ちなみのちなみで言うと、鉄道創始の地・英国の鉄道では、かなり最近まで、特急列車でもドアは自動ではありませんでした。というか、長年列車の扉の開閉、特に開いているドアを閉じるのは、駅員の仕事だったのです。しかも、昔の客車はコンパートメントごとにドアがあり、凄い数でした。これを閉めるのは車掌でも、乗客でもなく、駅員の務めだったということ、歩いてバタバタと締めて回る、古き英国を描いた映画などでよく出てくる場面でしたね。その「伝統」で、特急列車でもドアは手動原則でした。一応、列車走行中はロックされるようなのですが、駅に着いても自動で開いてはくれません。どうするかといえば、降りる乗客は開いた窓から身を乗り出し、ドアノブに手をのばし、回して自分で開けるのです。まあ、車内からも操作できないことはないのでしょうが、もちろん発車時も、自動で閉まってはくれないので、「誰かが」閉めてやらないといけません。

 こういうつくりでしたから、動き出した列車への飛び乗りというのもできなくなかった印象(もちろん試みたことはありません)でしたが、「保守的」というより、ともかく古すぎた、新しい技術や車両を投入する力がなかったということなのでしょう。いまはもっとましでしょうが。もちろん転落事故などで、死傷者もかなり頻繁に出ていたもようです。

 

 
 最後に、気がついた妙なエピソードを一つ、この映画の中で何度か歌われるのがロシア民謡「仕事の歌」(Дубинушка)という曲です。東京駅で乗り込む新婚夫婦の見送りに駆けつけた同僚友人らが声を合わせて歌い、さらに途中の静岡駅のホームでも、おそらく同じ社内の連中がホームに並んで二人を見送り、やはり「仕事の歌」を歌うのです。また、映画の終わりの方では、勤務をおえようとする松崎も口ずさんでいました。当時、そんなに「流行って」いたのでしょうか?いまは知るひとも少ないでしょうが、かつては「労働歌」「うたごえ」の類で歌われた曲です。でも、ロシア民謡だけあって、短調で、歌詞も仕事のつらさを歌ったもの、少なくとも新婚旅行のカップルを送るにふさわしい曲とは、どうしても思えませんね。
  悲しい歌 嬉しい歌
 たくさん聞いた 中で
 忘れられぬ ひとつの歌
 それは 仕事の歌
 
     ………

 ロシア人は 歌をうたい
 自ら 慰める

 
 どうです、なんともはやでしょう。

 これは、脚本を書いた新藤兼人氏に是非に聞いてみたいところですが、いまとなってはそれも叶いません。単純に考えれば、嵐も土砂崩れもものともせず、どのような障害も越え、列車を走らせ乗客を守るという、国鉄職員の「勤労精神」と「働くものたちの連帯」の象徴だったのでしょうか。もっともそれならば、ほかにもうちょっとふさわしい曲は、少なからず当時もあったと思いますが。

 ただ、1960年という時代性が現れているのは否定できないでしょう。そうした「政治の嵐」には一切触れもしないこの映画ですが、「働くものたち」の健気な意気込み、不屈の精神と仕事を主題にしたという行為自体、時代性を象徴していたとも言えましょう。そしてそれとは対照的に、横柄傲岸なだけの与党政治家、取り巻き連中に持ち上げられている存在、というカリカチュアを構図にしたと、読めるのではないでしょうか。
 これが1960年の鉄道映画です。

 それよりだいぶ昔に、国鉄労働組合が映画を作ったというお話し、また別の機会に。

 私見では、月並みながらここでの若い二人の門出に、職場の同僚らが歌って送るにふさわしい曲は『しあわせの歌』(石原健治作詞・木下航二作曲)だったのではないかと想像します。アップテンポでマーチ風の軽やかなメロディーで、盛り上がること必定だったでしょう。

  しあわせはおいらの願い
  仕事はとっても苦しいが
  流れる汗に未来を込めて
  明るい社会を作ること

  みんなと歌おう
  しあわせの歌を
  ひびくこだまを
  追って行こう



 実際にそうした機会で多々歌われたはずですよね(「こだま」じゃなくて「さくら」に乗っていたんだといった突っ込みはなしで)。
 正直、陰々滅滅としたロシア民謡で送り出されたんじゃあ、新婚の二人もずっこけてしまうでしょう。



「大いなる」題名のつけ方


 映画談義としては、「ロードー歌」云々で終わるのもなんです。
 それよりも、『大いなる驀進』なる、大いに大げさな題名のことです。

 こういうなんとも古めかしいというか、背伸びしすぎというかの題名、今どきもう絶滅したと思うのですが、この当時は結構あったのですな。映画の、特に洋画の邦題といったものは相当にいい加減、時々の「流行」で、同じようなものがゴロゴロ出てきたりもします。原題を知るものとしては顔から火というか、あまりに映画を作ったものたちの意思を無視しすぎというかと思われるのですが、どうやら洋画輸入元としては、安直な方法であるとともに、似たような題名をつけることで、混乱した人たちがまた見に来てくれる、続編と思い込む錯覚も期待される、そこねらいの意図が感じられるのです。

 先に私が取り上げた、『新しい人生のはじめかた』(2008)なんていうのも、原題Last Chance, Harveyとあまりにかけ離れすぎで、ひどいんじゃないのかと思われます。原題まんま、『ラストチャンス』の方がまだしもと思うのですが、ショーバイの立場はまるで違うようです。
 この封切りの前後には、「(人生の)○○方」といった邦題の映画が多々公開されました。『素敵な人生のはじめ方』(10 Items or Less)2006、『最後の恋のはじめ方』(Hitch)2005、『恋の終わりのはじめ方』(Suburban Girl)2007、『最高の人生の見つけ方』(The Bucket List)2007、『忘れた恋のはじめかた』(Love Happens)2009、『最高の人生のはじめ方』(The Magic of Belle Isle)2012、そして上記の「新しい人生のはじめかた」と来りゃあ、もう邦題だけでは混乱必定、区別不可能ですな。どれが「始まり」だか分かりませんが、もちろんそれを意識的に狙ったものと見なさざるを得ません。



 「大いなる」とついた映画で、メジャーに知られたものがいくつかあります。古くは、『大いなる幻影』(1937)、この1950年代なら『大いなる西部』でしょう。前者の原題はLa grande illusion、後者はBig Countryです。もっともこれを遡れば、チャールズ・ディケンズの小説Great Expectationsは、以前から日本では「大いなる遺産」と訳され、その映画化、代表的にはデビッド・リーンの1946年作品はもちろん、日本では『大いなる遺産』の題名で公開でした。レイモンド・チャンドラー原作の『大いなる眠り』(Big Sleep)1978というのもあったようですが、これも原作の翻訳の題名の方が先でしょう。しかし、ボガート主演の1946年映画化の方の邦題は『三つ数えろ』で、むしろ「大いなる」じゃあ受けんと考えられたようです。

 ほかに、そんなにメジャーじゃなかったものも加えれば、いっぱい出てきます。『大いなる希望』(潜水艦潜航せず)(La grande speranza)1954、『大いなる夜』(The Big Night)1951、『大いなる野望』(The Carpet Baggers)1964、『大いなる砲火』(The Long Ride Home)1967、『大いなる男たち』(The Undefeated)1969、『大いなる決闘』(The Last Hard Men)1976とかね。この辺に下ると、原題全然「大い」じゃないので、にほんの輸入元の「あやかり」商法が見え見えです。
 こうしたじゃっかんの歴史を見ると、「大いなる」などという、あまり日常の日本語になじまない、古めかしい文語的表現は、本来はGreatとかGrandといった語に一応相対するもののようです。Bigでは、いまの感覚だと、かなり日本語形容の中に入り込んでいるので、今さらに「大いなる」訳では気が引ける気もしますが、単に「大西部」では迫力を欠きすぎでしょう。

 ただ、洋画の輸入邦題だと、なんでも「大いなる」乱発の傾向はやはり否定できません。「はじめ方」に似てきましょう。要するにインパクトあり、そしてあえて古典的名作やヒット作に連想をさせ、紛れ込ませる意図と。「あざとい」「流行狙い」「柳の下のなんとやら」の観が見え隠れしています。
 でも、これに比べて、純粋日本映画で「大いなる」のは意外に少ないのです。「大いなる遺産」や「大いなる幻影」など、乗っける(乗っかる)相手があまりに偉大すぎて、気後れするというか、下手にやると逆効果の感もあり得ましょう。そもそも、「大いなる」なんていうのは文学的に過ぎ、日常会話などに今どき出てきっこないのが明らかでもありますし。

 ですから、『大いなる旅路』『大いなる驀進』はむしろ貴重な題名なのかも知れません。そして、以後もほとんど類題では出てこないのです。むしろパロディになっちゃいそうな雰囲気ですね(筒井康隆原作の『文学賞殺人事件 大いなる助走』1989年なんてね)。


 


(2020.6.6)

「松本清張と鉄道の旅」


 ちょうどいいタイミングのテレビ番組が放送されました。  NHKBs2での『新日本風土記』です。自然や町並みなどとともに、土地の文化や民俗、信仰などをとりあげ、長年放送されているドキュメンタリー紀行番組ですが、それで「松本清張 鉄道の旅」というのが、2時間のスペシャルで、2020年5月に放送されたのです。折りから世界的なパンデミックで、「外出自粛」、みな仕事にも行けず、観光旅行などもってのほかという非常事態下、ある意味絶妙のタイミングでした。


 松本清張自身、鉄道での旅が好きで、時刻表をいつも見ていた、そしてさまざまな土地を訪れ、そこでの見聞や経験を元に、小説を練ったというのは有名な話しです。ですから番組でも、かの『点と線』、そこで用いられた東京駅でのトリック、寝台特急あさかぜ、さらには「事件現場」となった福岡市香椎海岸などが詳しく取り上げられていました。香椎駅から海岸のあたりは、映画で描かれた頃とはまるで違ってしまったことも示されました。
 ただ、映画化された『点と線』(1958年、小林恒夫監督)では、列車や車内の様子はあまり出てきません。かなり低予算で製作された節がありますし、東京駅や香椎の現場などでの撮影に力が入っていた観があります。ですから「レイルムービー」とは呼びがたいものです。あさかぜ最後の運転で食堂車の主任を務めた人の、長年にわたる鉄道愛のお話しなどは面白かったのですが。



 映画での実写撮影を含めて紹介されたのは、『ゼロの焦点』です。この小説の映画化(1961年、野村芳太郎監督)では、新婚の夫の消息を求め、金沢から羽咋へ、そして北陸鉄道能登線で終点三明まで乗るという、主人公鵜原禎子(久我美子)の旅が描かれます。そこからまた連絡バスに乗り、行き着いたところが富来で、そこで見つかったという遺体の検案をするのですが、それは、行方不明の夫・憲一ではありませんでした。
 物語はそこから急展開します。金沢に戻った禎子のもとへ、憲一の兄宗太郎がやってきて、兄は弟の健在を確信しており、禎子の心配を一笑に付します。しかしそのあと、宗太郎は鶴来町の旅館で毒殺されます。事態は急転、兄の死に絡んでいたかも知れない田沼久子という女性のあとを追いますが、彼女は姿をくらましてしまいました。その住所も富来町、内縁の夫が先日亡くなったという、この符合から貞子は別の投身自殺事件のことを思い出し、再び金沢を、そして富来を訪れます。久子の住まいには誰もいませんが、ここで夫憲一が別の名で久子と暮らしていたことを確信、近くの海岸・能登金剛の絶壁に立ちます。憲一が投身自殺を遂げたと想像される、吹雪混じり、荒れる冬の海を眼下にする、荒涼たる風景のなかに立ち尽くして。


 というわけで、『新日本風土記』では、こうした鉄道や列車内のシーン、そして能登金剛の絶壁から海を見下ろす禎子の姿といったところをかいつまんで写していました。お話しの中心は、1972年には全線廃止になってしまったという北陸鉄道能登線、もとの能登鉄道の短い歴史です。地元の名家、資産家、事業家らが出資して造られ、輪島まで結ぶことを目標に、1927年には羽咋・三明間25キロを運転しましたが、経営は不調で、1943年には北陸鉄道に吸収され、29年後にはなくなってしまいました。
 この映画は、能登線の気動車、その車内などを撮した貴重なものになっています。番組ではいまの能登線あと、駅や線路の痕跡をたどりますが、殆どおもかげもありません。線路脇に広がっていた松並木も大半枯れてしまったと示され、さみしいばかりです。


 鉄道のことが詳しく出るのは、先日廃止されたばかりの札沼線、その基礎となった北海道月形町と樺戸集治監についてでした。これも清張の『不運な名前』の舞台です。いまひとつには、あまりに有名な木次線亀嵩駅、『砂の器』の舞台であり、島根県にありながら、東北訛りのような方言のある奥出雲地方の町です。「カメダ」の地名とともに、有名なトリックのもととなりました。
 ただ、おかしかったのは、映画『砂の器』(1974年、野村芳太郎監督)が撮られた際、この駅でのロケ撮影は断念されたという事実、当時から亀嵩駅はそばや兼業の経営て、映画のイメージを描けないとなったのだそうな。そば屋はいまも続いており、小説ファンらの来客で繁盛しているとか、駅長兼そば店主の言です。


 清張と鉄道のいまひとつのメインは、やはり『張込み』(1958年)でした。何といっても冒頭の、東京から佐賀へ(正確には、大木実と宮口精二扮する両刑事は、横浜駅で動き出した急行に、ホームギリギリのところで飛び乗るのです、この場面もどうやって撮ったのか)の夜行列車での苦行の旅が、約7分間に及ぶ鉄道場面として、映画の実シーンとともに紹介されます。番組自体ではその後の、佐賀市でのロケの大騒動を中心に取り上げていました。当時めったにないことで、撮影現場には一万人もの見物が押し寄せたとか、主演の大木実や高峰秀子、野村芳太郎監督らが泊まった古い歴史ある宿も、これまたえらいことだったとか。


 このほか、門司市の和布刈神社(『時間の習俗』に登場)、さらに清張の個人的親交があった大分県安心院(『陸行水行』の舞台)、東京の深大寺(『波の塔』の一舞台)、島根県大田市の中村プレイス社など、盛りだくさんの対象・エピソードが番組では綴られました。中村プレイスには、「清張の記した色紙を勝手に石碑にした」のが立っているそうです。清張公認となったようで。和布刈神社の二千年近く続く秘事の神事など、いかにも『新日本風土記』好みですね。
 というわけで、鉄道と映画は、やはり切り離せない存在ですね。




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