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三井の、なんのたしにもならないお話 その五十三

(2019.12オリジナル作成)



 
「愛の物語」の陰にある、「愛の重さ・苦さ」


 『ノッティングヒルの恋人』『ラブ・アクチュアリー』『新しい人生のはじめかた』、これらの三作品は、大方からは、「ロンドンを舞台にした、軽いラブロマンス」、「中高年者の心をくすぐる」できすぎのお話しくらいにしか見られないでしょう。
 そのこと自体を私も否定はしませんが、実際には意外に「重い」のです、どれも。人間関係と、「愛のありよう」が。とりわけ、一方では愛の不安と緊張に背を向けずにはいられない、心の定まらぬ苦しさとして、他方では現代の「家族」、「肉親」を巡る、免れえない愛の十字架の、あまりの重さとして。

 

. 『新しい人生のはじめかた』


 『新しい人生のはじめかた』はそもそも、離婚して独身生活長いハーヴェイ・シャイン(ダスティン・ホフマン)が、娘の結婚式に出るためにロンドンに飛び、そこで自分が、娘を含めた「家族」からもうよそ者になっていることをあらためて思い知らされる、再婚した妻の相手こそ、娘の「父親」として広く認知されていると実感させられるのです。その上に、NYで長年従事してきたCMミュージック作曲の仕事も切られそうになる、文字通り四面楚歌の状況、そこをどう乗り越えられるか、というストーリーで、老いの迫る身として、誠に厳しいものがあります。もちろんいまの米国などでは、こうした「家族」解体・再構築の状況はごくありふれたシチュエーションでしょう(ですから私は、『クレイマー、クレイマー』の後日談のよう、と初見の印象を記しました。それは制作翌年のインフライトムービーでだったので、日本ではどんな扱いだったのか、想像は容易です)。

 しかも、言い方は語弊ありますが、ダスティン・ホフマンです。現代アメリカ映画界きっての演技派であり、数々の作品に出て、世界中の賞賛を受けてきていますが、決して「美男子」ではないでしょう。見かけももちろん、かっこいいわけではありません。『真夜中のカーボーイ』での、片足引きずる肺病病みのホームレス男、ラッツォから誰もが連想するじゃないですか、主役の「カウボーイ気取り」、マッチョの青年ジョー(ジョン・ボイト)と対照をなす存在として。
 そのまた対照的存在になるのが、ここでステップファーザーのブライアンを演じるジェームス・ブローリンです。相当に歳を取り、頭は銀髪になっているとはいえ、かつて『面影』(Gable And Lombard)(1976)でクラーク・ゲーブルを演じた二枚目です。どこに出ても堂々として目立つ存在、いやが応にも、ハーヴェイとは大違いになるじゃないですか。まさに花嫁の父然としていることを、彼も認めざるを得ないのです。


 対するケイト・ウォーカー(エマ・トンプソン)は、いわゆる「オールドミス」です。空港での「顧客調査」の仕事をしていて、そこでハーヴェイと出会うことになります。自身恋愛の経験もあり、「中絶もした、若いころの過ちで、後悔している」という告白がのちに入ります。そのため、今さら色恋なんてという「引いた」構えが身につき、傷つくのはいや、そんなくらいならずっと一人で結構という姿勢が繰り返し語られます。前段には、友達が「仕組んだ」パブでの「お見合い」に臨むけれど、相手の男性とあまり話も弾まないうちに、その知人たちがたまたま来店し、仲間内で勝手に盛り上がってしまい、ケイトは完全に存在の場を失って、一人そっと店を出るのです。こんなことこれまでにもあったわと思い起こしながら。まあ、相手の男もひどいですけどね。

 そんな彼女とハーヴェイとの「出会い」は、ちょっと無理線ではあります。娘の結婚前夜の宴席に出て、すっかり疎外感を味あわされた彼は、危うくなった仕事確保のために、ともかく翌日昼のフライトで戻るつもり、なんとか教会での挙式に出たのち、そのまま空港にタクシーで駆けつけるのですが、道路の渋滞ですっかり遅くなってしまいます。駆け込んだカウンターではにべもなく搭乗を拒否され、代わりの便も翌日しかないと知らされ、しかも前日来のNYのエージェントとの電話のやりとりも、ここで「あんたはもう要らない」という最後通告になります。何もかも失ってしまったという手ひどい打撃を受け、空港内のすいたパブでひとりスコッチのグラスを傾け続けるハーヴェイ、同じ店で読書にふけるケイトと出会うことになるのです。


 ハーヴェイは彼女の顔に記憶がありました。着いた日、空港内の通路でアンケートへの回答を求められますが、「時間がない!」と断ったという記憶でした。もちろんケイトの方はおおぜいの「対象者」の一人に記憶もないものの、彼は酔った勢いで、ひとと言葉を交わさずにはいられず、読書に励むケイトに絡み始めます。普通ならいささか困った「関係」構図になるところですが、そんなに嫌味でもなく、そのなかで、彼の絶望的な現状が語られ、ケイトもいささか同情を覚えた様子があります。「娘の結婚式にはるばる来たのに、ひとりのけ者状態」、「帰りの飛行機に乗り遅れ、しかも戻る必要もなくなってしまった」、「仕事はおしまい、見通しなし」と。なんとなく、ダメージ比べごっこのような様相で、彼女も話に乗り、一緒に軽食もとります。

 ケイトは仕事のあとに通っている「創作教室」に出ると言い、いったん二人は空港駅で別れます。でも都心に向かう列車の中で、ハーヴェイはまた彼女のもとに出現します。「空港近くのホテルはうるさそうなんで」という言い訳とともに。でも、明らかに彼女の方に関心あり、別れたくないという意図が見えており、彼女もまんざらでもありません。列車がパディントン駅に着き、それからハーヴェイは今夜のホテルを決めますが(手荷物は空港カウンターでゴミ箱に入れてしまったので、もうないらしい)、そのうえに彼女の「教室」にもついていく、本を持ってあげよう、外で待っていると、いささか図々しくもなります。二人でテムズの歩道橋を渡り、サウスバンクに向かいます。


 小一時間のセミナーののち、二人は河畔を散歩します。レトロなロックンロールバンドの街頭実演が印象的な仕掛けになります。こんどはいろいろなことを語り合ううちに、ケイトは、今夜もたれているはずの娘の結婚披露宴に、父親としては行くべきだと主張します。躊躇いを見せていたハーヴェイは、「君が一緒に行ってくれるのなら」という珍条件を持ち出します。「なんで私が!?」と戸惑う彼女に、君と一緒でなければ行かない、君は僕のガーディアンだ、という押しの一手、「だって、こんな普段着なのよ」という反論にも、「それって、ドレスを買ってくれということ?200ポンドまでなら、だよ」という返し、彼女もこの押しに負けてしまいます。

 ケイトのドレスを買って、タクシーでグロブナーハウスのダイニングルームに乗り込んだ二人の出現は、披露宴会場をいささか戸惑わせますが、ウェディングドレスの娘スーザンはこの上なく喜びます。そして、宴のしめで「花嫁の父」スピーチに指名され立ったメインテーブルの義父ブライアンに対し、ハーヴェイは敢然と「僕に喋らせろ」と求めます。予定外の展開に一瞬しらけかかった会場ですが、そのあとの彼の言は感動的なものであり、満場は静かに聞き入ります。家庭を顧みなかった自分への後悔、それにもかかわらずしっかりと、自立した女性に成長した娘スーザンへの祝福、彼女の心を射止めたサイモンへの感謝、そして誰より、前妻ジーンとブライアンへの詫びと感謝、これらが一言一言噛みしめられるように語られます、そして最後に、「乾杯の音頭はブライアンに譲りたい」と締めくくられます。



 祝宴のあとは大ダンスパーティとなり、ハーヴェイもケイトも皆とともに踊りまくります。もちろん、彼には娘と踊れたことが一生一代の喜びでした。パーティは盛り上がり、深夜まで続き、そろそろ疲れも出てきたとき、ケイトはそっと会場を出ようとします。もう自分の居場所はないんじゃないのかと思って。それを目にしたハーヴェイは別室でピアノを弾き出し、音色が彼女を引きつけます。「なによりジャズピアニストになりたかったんだ」、「でも、そこまでの才能はなかったな」、素直に自分を語る彼に、ケイトはいっそう心寄せるようになります。


 もう夜が明けた初秋の倫敦、二人は外へ出て、街を歩き、サマーセットハウスの中庭に向かいます。休日の明るい日差しの下の噴水周辺ながら、まだひともまばらですが、ハーヴェイはケイトに、今日また昼にここで再会することを求めます。別れがたい思いが、二人にはそれぞれ高まってきていました。



 けれども昼、住まいに戻り着替えてきたケイトがいくら待っても、彼は姿を現せず、ついに彼女はあきらめてその場を立ち去ります。つよく乞われ、娘の結婚披露宴にともに出て、親しくなったハーヴェイが翌日の約束の時間に現れない、ああまたこんなかたちなのだな、と諦め、心を閉ざしてしまう、その後かかってきた彼からの電話にも出ない、その辺の心理に、彼女の屈折した人生観が浮かび上がってきます。

 その晩の「創作教室」の会場外に、ハーヴェイは待っています。この事態は急病のせい、いわば事故だったのだ、という彼の弁解にも、身も心も引いてしまうケイト、約束を破った彼を責めるよりも、「これでよかったの、所詮こうした二人だったのよ」「あなたが来なければいいと、ずっと思ってた」、「いつかきっと別れることになるでしょう、私はまた傷つきたくないの」と済まそうとする悲しさ、身についてしまった「自衛本能」でしょう。一方で、懸命に彼女の心に語りかけようとするハーヴェイ、そして、「とても楽しかったわ」、「あなたのこと好きよ」、「でも、それだけなの、夢物語は終わり」と否定するケイト、ラストの展開は二人の俳優の演技の見せ所でした。「これは現実じゃないのよ」、「あなたのことをよく知らない」と心揺れ、ついにはベンチに座り込んで涙するケイト、「あきらめて生きる方が楽なの」、その表情に、彼女の揺れる思いの底にあるものが見えてきます。ハーヴェイは彼女をずっと見やっています。「もうニューヨークには戻らない、ここに留まる」という彼の決意、ラストチャンスへの賭け、おしまいには二人の心がまた寄り添い、絆が戻ってくる、そしてケイトは、自分より背の低い彼に合わせようと、ハイヒールを脱いで手に持ち、裸足でともに歩き出す、身の丈を合わせ、一緒に生きていこうという決心を象徴するところで終わりになります。

 
 このように、恋愛や結婚生活に疲れ、臆病になってしまっている中年の二人のあいだの「愛」のささやかな奇跡を、声高な台詞や所作もないまま、ほとんど対話だけで、ごく淡々と描いていくところに、この映画の懐の深さ、印象の重さが、余韻として残るのです(ちなみに、ハーヴェイが急病で行かれなくなったのなら、当然ケータイで彼女に連絡を取るだろう、彼はNYと頻繁に対話していた位なんだから、という「批評」も目にしました。確かに、「ケータイ番号を交換していない」などというのはありそうにないことでしょう。ただ、この辺の経過をよく見ると、ホテルに朝帰りしたハーヴェイが、階段を上ろうとして心臓発作を起こし、救急車で病院に運ばれる、だからその後の診断や治療が続く中では、おそらくケータイを取り上げられてしまったのではないかと想像できます。心臓に悪いものナンバーワンとされても不思議はないし、「絶対安静」の扱いになったでしょうから)。

 


 それとともに、ケイトの家族との関係にも、現代の社会での「家族と愛」のあり方が、ほろ苦く象徴されています。彼女は仕事中も、「お見合い」デイトのときにも、頻繁に母親からかかってくる電話にケータイで対応しなくてはなりません。母親は、(秘書と逃げたという*)夫と離別し、いまは一人暮らし、しかも癌を患い、手術を経ているといった身の上がケイトの口から語られます。老いて女一人の暮らしの心細さ、病み上がりの心理的な不安、それを癒やせるのは彼女との会話しかなく、彼女も頻繁に母の住まいに寄っています。その上に、電話ものべつ幕なしで、ケイトはそうした母の相手に疲れる、というよりも、もう自分の使命は母を見守り、安堵させることしかないのか、という諦めの境地でもあります。
 映画の展開の中では、この母の隣人のポーランド人が、殺人鬼ではないのかという「疑惑」を巡る騒動がストーリーを画しています。まあ、結局は豚をまるごと燻製にし、ハムを作っていた、ケイトの母もお裾分けに預かるという「笑い話」で終わるのですが。

 そして、映画のラストエピソードで、引いた心でハーヴェイから去ろうとし、でも「ニューヨークには帰らない」という彼の真剣な語りと、巧まざるユーモアに心揺れ、そこへ「いつものように」母からかかってきた電話に、「いまはダメ!」の一言で切ってしまうという行動に、ケイトは出ます。「それは、僕と話していたいっていうこと?」という彼の返しに、思わず微笑まざるを得ません。電話のエピソードが、最後の決めになるのです。

 
*ケイトの父は秘書と逃げたそうですが、『ラブ・アクチュアリー』では、エマ・トンプソン=カレンの夫であるハリー(アラン・リックマン)は、秘書からのモーションにふらつきながらも、結局妻と家族のもとに戻ります。そういった「裏読み」は御法度でしょうが、5年後の『新しい人生のはじめかた』の制作者たちは、そこまで読んで遊んでいたのかもね。



 『ノッティングヒル』のウィリアム(ヒュー・グラント)も、頻繁にかかってくる母からの電話に悩まされています。この母は、最後の結婚披露パーティでちらっと出てくるだけ、その姿からは元気だし、息子の世話焼きが好きそうな中年女性としか見えないのですが、ともかく、「あっちが痛い」とか、「足が青黒く変色してきた」とか、なにかと息子に電話をかけ、理由を作って自分の住まいに寄らそうと企むのです。「いっしょに昼食の約束、忘れないように」とかもね。父親のことは一切出てこないので、やはり女一人暮らしなのでしょう。

 妹ハニーもいるのですが、彼女はあまり母親と仲がよくないようです。妹と母の話題は終始出てきません。その代わりに、店にも頻繁に電話がかかってきており、前記のように、アナ(ジュリア・ロバーツ)が訪れ、再び愛を乞うという決定的瞬間も、ウィリアムは邪魔をされる羽目になります。
 
 『ノッティングヒル』の時代には、まだみながケータイを持ち歩くというほどのではありませんでした(私が映画制作前年にロンドンにいたころ、もちろんケータイは持っていませんでしたし、「例によって」列車が大幅に遅れた際に、携帯電話持参の客にほかの客がカネを払い、借りて緊急連絡をする光景が見られたくらいです)。ですから、ウィリアムにも、どこにいても、いつでもお構いなく母からの電話がかかってくるという訳ではなかったのですが、こうした親子関係のもとで、彼の立場、人生の先行きへの不安と動揺が象徴されていることは否定できません。
 
 自身も離婚経験者で、「愛のかたち」に不安と苦悩を背負ってきているウィリアムには、肉親との関係に悩まされるというのも、半ば宿命的であるとともに、内向きな心理を容易に拭えない無意識の要因を担っていると感じさせます。いつまでも煩わしい母親に厳しくし、新しい恋人の存在に新たな自分の道を見いだし、そこを全力疾走するというより、どこかためらい、抑制的になってしまう、そんな姿勢でしょうか。自分への自信のなさを含めて。ケイトと同じように、「また傷ついたらもう立ち直れない」と語り、いま目の前に立っているアナからの愛の告白にも、あえてノーと言わせてもらう、苦渋の選択をするのでした。
 
 

 『ラブ・アクチュアリー』はオムニバス形式の物語展開なので、「さまざまな愛のかたち」がそれぞれに展開され、異なる物語を紡ぎ上げていくことになるのですが、なかでもいちばん酷いかたちで、「肉親の愛」の重さ、苦しみを描いたのが、精神障害の弟を抱えたサラの物語です。デザイン会社勤務の彼女は、社長のハリー(アラン・リックマン)から、若いデザイナー・カール(ロドリーゴ・サントロ)に恋をしていると見抜かれます。ローラ・リニー演じる彼女は、特別の美人でも目立った存在でもなく、またそろそろお歳も隠せない雰囲気を醸し出していますが、一途に一人の男性に想いを寄せ続けていることが、誰の目にも分かってしまうような純情女性なのです。

 でも、そうした内気以上に、サラの足かせとなっているのは、施設に入院している弟の存在です。弟の行動や言動からすると、統合失調症なのでしょう。そして、実に頻繁に姉のケータイに電話をかけてくるのです。仕事中でも、どんなときでも、社内クリスマスパーティで盛り上がり、ようやく思いを遂げ、カールとベッドインしたときでさえ、この電話ですべてが断ち切られてしまうのです。ただ、姉と話したい、というだけでなく、ときに危ない言動に走り、彼女は施設に駆けつけ、弟の相手を務めなくてはなりません。暴力的衝動に脅かされそうになることさえあります。
 
 一途の恋がようやく実ろうとしたのに、この弟の妄想と衝動でぶちこわしになり、それでもサラは怒りも、絶望もせず、そして最後には、施設の中で、ともにクリスマスの扮装をし、歌い、抱き合う姉弟の姿で、エピソードが閉じられるのです。表情も乏しい、動作もぎこちない弟、でもどんなであっても、どこまでも実の姉弟同士として、生きていくと。これは、あまりに切ないですね。
 
 何かの事情で、二人には両親はいないのでしょう、あるいは頼ることができないとでも。そのために、サラは自分の恋の想いも、自分自身の人生の幸せすらも、犠牲にしなくてはならない、これまでも、これからも、と予見させるのです。誰も助けても、身代わりになってもくれません。でも、彼女はそこから逃れようともしません。血のつながった姉と弟と、そこまでも重い、断ち切れない「肉親の愛」というのには、見るものの言葉を失わせる無限の力があります。それが、現代の社会に生きる私たちの眼前にある、苦しい「現実」なのです。
 <補足> 映画を何度目か見直して、サラがベッドでカールに、「両親は亡くなった」と説明しているのに気がつきました。姉弟で支え合っていくしかないのは、やはり説明されているのです。



 
 このようにこの3本の映画は、「夢のような」愛礼賛の物語というだけではなく、その愛の裏側の重い、苦い「人間関係」の真実を、ともに物語の一部としているという意味でも、意外なほどに「つながっている」のです。



  このお話、続く