(2019.12オリジナル作成)
. 『新しい人生のはじめかた』
『新しい人生のはじめかた』はそもそも、離婚して独身生活長いハーヴェイ・シャイン(ダスティン・ホフマン)が、娘の結婚式に出るためにロンドンに飛び、そこで自分が、娘を含めた「家族」からもうよそ者になっていることをあらためて思い知らされる、再婚した妻の相手こそ、娘の「父親」として広く認知されていると実感させられるのです。その上に、NYで長年従事してきたCMミュージック作曲の仕事も切られそうになる、文字通り四面楚歌の状況、そこをどう乗り越えられるか、というストーリーで、老いの迫る身として、誠に厳しいものがあります。もちろんいまの米国などでは、こうした「家族」解体・再構築の状況はごくありふれたシチュエーションでしょう(ですから私は、『クレイマー、クレイマー』の後日談のよう、と初見の印象を記しました。それは制作翌年のインフライトムービーでだったので、日本ではどんな扱いだったのか、想像は容易です)。
しかも、言い方は語弊ありますが、ダスティン・ホフマンです。現代アメリカ映画界きっての演技派であり、数々の作品に出て、世界中の賞賛を受けてきていますが、決して「美男子」ではないでしょう。見かけももちろん、かっこいいわけではありません。『真夜中のカーボーイ』での、片足引きずる肺病病みのホームレス男、ラッツォから誰もが連想するじゃないですか、主役の「カウボーイ気取り」、マッチョの青年ジョー(ジョン・ボイト)と対照をなす存在として。
そのまた対照的存在になるのが、ここでステップファーザーのブライアンを演じるジェームス・ブローリンです。相当に歳を取り、頭は銀髪になっているとはいえ、かつて『面影』(Gable And Lombard)(1976)でクラーク・ゲーブルを演じた二枚目です。どこに出ても堂々として目立つ存在、いやが応にも、ハーヴェイとは大違いになるじゃないですか。まさに花嫁の父然としていることを、彼も認めざるを得ないのです。
対するケイト・ウォーカー(エマ・トンプソン)は、いわゆる「オールドミス」です。空港での「顧客調査」の仕事をしていて、そこでハーヴェイと出会うことになります。自身恋愛の経験もあり、「中絶もした、若いころの過ちで、後悔している」という告白がのちに入ります。そのため、今さら色恋なんてという「引いた」構えが身につき、傷つくのはいや、そんなくらいならずっと一人で結構という姿勢が繰り返し語られます。前段には、友達が「仕組んだ」パブでの「お見合い」に臨むけれど、相手の男性とあまり話も弾まないうちに、その知人たちがたまたま来店し、仲間内で勝手に盛り上がってしまい、ケイトは完全に存在の場を失って、一人そっと店を出るのです。こんなことこれまでにもあったわと思い起こしながら。まあ、相手の男もひどいですけどね。
そんな彼女とハーヴェイとの「出会い」は、ちょっと無理線ではあります。娘の結婚前夜の宴席に出て、すっかり疎外感を味あわされた彼は、危うくなった仕事確保のために、ともかく翌日昼のフライトで戻るつもり、なんとか教会での挙式に出たのち、そのまま空港にタクシーで駆けつけるのですが、道路の渋滞ですっかり遅くなってしまいます。駆け込んだカウンターではにべもなく搭乗を拒否され、代わりの便も翌日しかないと知らされ、しかも前日来のNYのエージェントとの電話のやりとりも、ここで「あんたはもう要らない」という最後通告になります。何もかも失ってしまったという手ひどい打撃を受け、空港内のすいたパブでひとりスコッチのグラスを傾け続けるハーヴェイ、同じ店で読書にふけるケイトと出会うことになるのです。
ハーヴェイは彼女の顔に記憶がありました。着いた日、空港内の通路でアンケートへの回答を求められますが、「時間がない!」と断ったという記憶でした。もちろんケイトの方はおおぜいの「対象者」の一人に記憶もないものの、彼は酔った勢いで、ひとと言葉を交わさずにはいられず、読書に励むケイトに絡み始めます。普通ならいささか困った「関係」構図になるところですが、そんなに嫌味でもなく、そのなかで、彼の絶望的な現状が語られ、ケイトもいささか同情を覚えた様子があります。「娘の結婚式にはるばる来たのに、ひとりのけ者状態」、「帰りの飛行機に乗り遅れ、しかも戻る必要もなくなってしまった」、「仕事はおしまい、見通しなし」と。なんとなく、ダメージ比べごっこのような様相で、彼女も話に乗り、一緒に軽食もとります。
ケイトは仕事のあとに通っている「創作教室」に出ると言い、いったん二人は空港駅で別れます。でも都心に向かう列車の中で、ハーヴェイはまた彼女のもとに出現します。「空港近くのホテルはうるさそうなんで」という言い訳とともに。でも、明らかに彼女の方に関心あり、別れたくないという意図が見えており、彼女もまんざらでもありません。列車がパディントン駅に着き、それからハーヴェイは今夜のホテルを決めますが(手荷物は空港カウンターでゴミ箱に入れてしまったので、もうないらしい)、そのうえに彼女の「教室」にもついていく、本を持ってあげよう、外で待っていると、いささか図々しくもなります。二人でテムズの歩道橋を渡り、サウスバンクに向かいます。
小一時間のセミナーののち、二人は河畔を散歩します。レトロなロックンロールバンドの街頭実演が印象的な仕掛けになります。こんどはいろいろなことを語り合ううちに、ケイトは、今夜もたれているはずの娘の結婚披露宴に、父親としては行くべきだと主張します。躊躇いを見せていたハーヴェイは、「君が一緒に行ってくれるのなら」という珍条件を持ち出します。「なんで私が!?」と戸惑う彼女に、君と一緒でなければ行かない、君は僕のガーディアンだ、という押しの一手、「だって、こんな普段着なのよ」という反論にも、「それって、ドレスを買ってくれということ?200ポンドまでなら、だよ」という返し、彼女もこの押しに負けてしまいます。
ケイトのドレスを買って、タクシーでグロブナーハウスのダイニングルームに乗り込んだ二人の出現は、披露宴会場をいささか戸惑わせますが、ウェディングドレスの娘スーザンはこの上なく喜びます。そして、宴のしめで「花嫁の父」スピーチに指名され立ったメインテーブルの義父ブライアンに対し、ハーヴェイは敢然と「僕に喋らせろ」と求めます。予定外の展開に一瞬しらけかかった会場ですが、そのあとの彼の言は感動的なものであり、満場は静かに聞き入ります。家庭を顧みなかった自分への後悔、それにもかかわらずしっかりと、自立した女性に成長した娘スーザンへの祝福、彼女の心を射止めたサイモンへの感謝、そして誰より、前妻ジーンとブライアンへの詫びと感謝、これらが一言一言噛みしめられるように語られます、そして最後に、「乾杯の音頭はブライアンに譲りたい」と締めくくられます。
祝宴のあとは大ダンスパーティとなり、ハーヴェイもケイトも皆とともに踊りまくります。もちろん、彼には娘と踊れたことが一生一代の喜びでした。パーティは盛り上がり、深夜まで続き、そろそろ疲れも出てきたとき、ケイトはそっと会場を出ようとします。もう自分の居場所はないんじゃないのかと思って。それを目にしたハーヴェイは別室でピアノを弾き出し、音色が彼女を引きつけます。「なによりジャズピアニストになりたかったんだ」、「でも、そこまでの才能はなかったな」、素直に自分を語る彼に、ケイトはいっそう心寄せるようになります。
もう夜が明けた初秋の倫敦、二人は外へ出て、街を歩き、サマーセットハウスの中庭に向かいます。休日の明るい日差しの下の噴水周辺ながら、まだひともまばらですが、ハーヴェイはケイトに、今日また昼にここで再会することを求めます。別れがたい思いが、二人にはそれぞれ高まってきていました。
けれども昼、住まいに戻り着替えてきたケイトがいくら待っても、彼は姿を現せず、ついに彼女はあきらめてその場を立ち去ります。つよく乞われ、娘の結婚披露宴にともに出て、親しくなったハーヴェイが翌日の約束の時間に現れない、ああまたこんなかたちなのだな、と諦め、心を閉ざしてしまう、その後かかってきた彼からの電話にも出ない、その辺の心理に、彼女の屈折した人生観が浮かび上がってきます。
そして、映画のラストエピソードで、引いた心でハーヴェイから去ろうとし、でも「ニューヨークには帰らない」という彼の真剣な語りと、巧まざるユーモアに心揺れ、そこへ「いつものように」母からかかってきた電話に、「いまはダメ!」の一言で切ってしまうという行動に、ケイトは出ます。「それは、僕と話していたいっていうこと?」という彼の返しに、思わず微笑まざるを得ません。電話のエピソードが、最後の決めになるのです。
*ケイトの父は秘書と逃げたそうですが、『ラブ・アクチュアリー』では、エマ・トンプソン=カレンの夫であるハリー(アラン・リックマン)は、秘書からのモーションにふらつきながらも、結局妻と家族のもとに戻ります。そういった「裏読み」は御法度でしょうが、5年後の『新しい人生のはじめかた』の制作者たちは、そこまで読んで遊んでいたのかもね。 |
『ノッティングヒル』のウィリアム(ヒュー・グラント)も、頻繁にかかってくる母からの電話に悩まされています。この母は、最後の結婚披露パーティでちらっと出てくるだけ、その姿からは元気だし、息子の世話焼きが好きそうな中年女性としか見えないのですが、ともかく、「あっちが痛い」とか、「足が青黒く変色してきた」とか、なにかと息子に電話をかけ、理由を作って自分の住まいに寄らそうと企むのです。「いっしょに昼食の約束、忘れないように」とかもね。父親のことは一切出てこないので、やはり女一人暮らしなのでしょう。
このお話、続く