英国ロンドンの街と暮らし、そしてその背景にある微妙な英米関係などといった話題では、いまおのれの生きている現実から目を背けているという、自責の念を拭うことはできません。
この歳にもなれば、おのれ自身が、「何があってもなくても」生死の問題を否応なく突きつけられています。それ以上に、あまりに多くの、不条理なまでのひとの死に向き合わなくてはなりませんでした、そこから目を背けることはできないと、今更ながら自分に問い続けてきている日々です。
そうした重い心と、英米の間の関係に横たわる,兄弟間の争いのような長い歴史、文化的精神的なずれの微妙さ、そこに時に噴出する「異質性」へのこだわり、これは先に見たように、映画の物語というなかにも少なからず流れている骨格であり背景です。その典型的な展開の作品と呼べるのが、1946年作品のA Matter of Life and Death、邦題『天国への階段』です。第二次世界大戦において、枢軸国の攻勢にさらされ、甚大な損害損失を被り、一時は「孤立状態」に置かれた英国=United Kingdom、結局は米国United States of Americaの軍事的物質的支援なしには勝てなかったその英国で、戦後まもなくにこんな映画が堂々作られたということ自体、なんともはやというか、すごいと言うかの展開でしょう。
この映画を作った人々の思いは、「ひとは死んでどこへ行くのか」という問にあるのだろう。大戦という、あまりに多くの人間たちが相次いで死んでいったときに、彼ら家族、友人たちらが突然にいなくなってしまう、二度と言葉を交わすこともできない、では彼らはどこへ行ったのだろう、そう問わずにはいられなかったのだろう。
そこで気がつくのは、「生死の境目」というのはこんなにもはっきりしているのに、こんなにも曖昧で簡単なものでもあるという「現実」である。ひとは一瞬のうちに境目を越えて去ってしまう。それを「運命」などと理解するのはたやすいが、それではとうてい納得できない、むしろ神の気まぐれか何かの間違いではないかと考える方がまだましである。そして、「向こう側」に行ってしまった人々も「この世」とほとんど連続している「世界」に「生きて」いる。
こうした生死観を映像にしたとき、もはやそれは宗教とははるかに遠いものになってしまった。「向こう側」の裁きはあまりに人間世界くさい法理と政治と論争となり、そして陪審員の評決を決めたものは「愛」であった。「この世」と「向こう側」をつなぐ階段は、二つの世界の連続性を象徴している。
米英、兄弟国民でありながらこれだけ違う国民性、誰よりもブリティッシュである機長ピーター・カーターの、燃えるランカスター機内・生死の境目でのユーモア、「生まれながらには保守党、世の経験を経ては労働党」と語るあまりに日常的な政治性、それがいい加減な「向こう側の使い」を挟んで、建国以来の対立を笑顔一つなく演説する検察官と対極をなしている。一方で、ピーターの命を救うために自ら命を落とすリーブス医師には死の不条理が象徴されている。
ピーターを守る婦人義勇兵の恋人の名がジューンであるのも、二人の出会う砂浜の裸の少年とともに、やはり何かを象徴しているのだろう。
あまりに美しく面白く、あまりに幻想的かつ現実的で、そしてあまりに実は重い映画である。 |

この感想は、いまに至るまで変わることはありません。ただ、さまざまな情報手段の普及のおかげで、映画を細部に至るまで、詳しく丁寧に見ることができるので、あらためて追ってってみたいと思います。
まず、邦題はあまり頂けません。確かに映画の重要な場面は、天国と地上とを結ぶ、巨大にして荘厳な長い移動階段で展開されます。ただ、この題名だけだと、いったいなにを表現するお話しなのか、ほとんど想像できないし、またのちには、これをそのまま頂いた、韓流ドラマや日本のテレビドラマも作られ公開されたので、なおのこと、この映画の存在を影に追いやってしまっています。それは映画のインパクトがあまりに大きかった副産物なのかも知れないわけですが、「この世の天国と地獄」をめぐるジェットコースタードラマでは決してありません。正真正銘、あの世とこの世をめぐる物語なのであり、また現実には僅か数日間のお話し、そこでのひとりの人間の生死の境目で起こる不思議な出来事、まさしく「生死の問題」を描いたのでした。
この邦題は米国公開時でのStairway to Heavenからとったともされています。そうしたポスターの画像もあるので事実なのでしょうが、映画の描きたかった対象に関して、生と死、個人と社会、宗教的世界観と現世に関して、映画の意図そのまま、英国と米国の理解の差が誠に皮肉なくらい出てしまったとも言えましょう。
ここにも言及したように、映画は本来、いま見ても鮮やかなテクニカラーで撮られています。けれども、なぜか「天国の場面」はモノクロになり、天国での裁判と、地上での脳手術の場面が同時進行するクライマックスになると、めまぐるしく入れ替わってしまうのです。それだけに、鮮やかな色彩はいやが応にも目立ち、当時ほとんどモノクロ映画しか見ることのなかった観客には、なおのこと鮮烈な印象を与えたに相違ありません。「天国はモノクロの世界である」、昇天した魂は、そこで無限の時間を過ごす、なんと皮肉を込めた描き方でしょうか。
このモノクロの天国とカラーの地上との対比は、ハリウッドミュージカル映画『オズの魔法使い』(The Wizzard of Oz, 1939)の逆をいったのだというのがいまは定説になっているようです。そちらでは、主人公ドロシー(ジュディ・ガーランド)の暮らすカンザスの農村はモノクロで、嵐に飛ばされてたどり着いたオズの国は極彩色になる、そこでお話が展開するが、終わりに故郷に戻ればまたモノクロ、となるわけです。時代柄、意識されているでしょうね。
物語を追いましょう。長くなりますが、今日ではあまり知られていない映画です。詳しく紹介するのも意義ありましょう。
まず、はじめの10分が重い映画です。詳しく見ていくと、冒頭、宇宙の遙か彼方から、太陽系へ、地球へと次第にカメラは近づいていきます。大変なカメラパン、どうやら「天国」はこの宇宙の別の果てにあるらしいのです。それとは対照的に、地球のうえ、欧州大陸では炎が、火花が立ち上り、いま戦争のまっただ中であることが示唆されます。まわりの海には霧が立ちこめています。
そこからいきなり場面は炎上しながら飛ぶ爆撃機内に移ります。操縦席の主人公は一人取り残されたままで、無為茫然としながら無線交信を続けています。後方席の無線士・ボブは仰向けになり、すでに息絶えています。「Request your position現在位置は?」「Come in, Lancasterランカスター、応答どうぞ」、英国内の無線基地からの問い、主人公はこれを聞き取り、返信することができるのです。満身創痍の機内で無線は生きています。英国内の基地から送信するのは米女性軍人(WAC)のジューン(キム・ハンター)、答えるのは機長のピーター・カーター少佐(デビッド・ニーヴン)、彼は生き残った他の乗員たちを脱出させたものの、燃える機内でまさに死に瀕しています。しかし、いささかも、逆上も絶望も感じさせない態度で、自己紹介とともにジューンとのやりとりをしていくのです。ウォルターローリーの詩句を暗唱、「辞世の句としたい」などとするピーター(後で述べられますが、彼は若くして著書もある詩人なのです)の落ち着きように戸惑ったジューン、でも彼女の方は状況を知るなかで、唖然とし、言葉に詰まります。機はエンジンに被弾炎上中、着陸装置は壊れ、自分のパラシュートはないと。彼は自分の母親に最後の言葉の連絡を頼むとともに、会話を続け、彼女に愛の告白をします。お互い見たこともない、たった数分間の無線会話だけですが、心が通じ合う、会いたいと言う、でもあまりに過酷な彼の運命に、ジューンは涙します。「パラシュートはないが、もうすぐ翼が貰える」、「あの世はどんなところなんだろう」、このピーターの言葉が、全編の伏線になります。
死を覚悟して、濃霧の英仏海峡の暗闇に飛び降りるピーター、そして陽の昇った朝の海岸の波打ち際に彼は漂っています。そこから彼の頭の中の幻想のように、「天国」の場面に切り替わっています。「天国」には戦死した将兵たちが次々に到着し、ホテルのごとくに「記帳」と「登録」を受け、それぞれの「落ち着き先」を指示されます。「天国」の住み心地は悪くなさそうで、米兵たちはコーラの販売機に歓声を上げます。それらの新入りのなかにボブがいますが、彼はピーターを待ち続けます。「ちょっと遅れてくるはず」と。しかし彼の姿は現れず、表情を変えない制服姿の天国の受付嬢(演じるのはキャサリーン・バイロン、『黒水仙』(Black Narsissus)で、恋心に狂う修道女を鬼気迫る演技で演じました)と顔を見合わせることになります。
天上の世界から地上に戻ると、潮の引いた朝の海岸に横たわっているピーターの姿になります。気がつき、周りの様子を見渡し、立ち上がり、重い装備やジャケットを脱ぎ捨て、自分の影があるのを確かめながら、陸地に歩いて向かいます。
海岸にたどり着き、砂浜を歩いて行くと、不思議な光景に出会います。裸の少年が座って、笛を吹いているのです。山羊飼いとおぼしき少年に、この場所を尋ね、すぐそばに空軍基地があることを知ります。それでひらめいた、いま向こうの道を自転車で走っていく軍服の女性がジューンに相違ないと。砂丘を駆け下り、彼女に近づいたピーター、そしてジューンも、瞬時に相手のことを覚るのです。まだ会ったこともない、声を聞いただけなのに。ジューンには一瞬、ピーターに担がれたような気もしますが、二人はこの奇跡の巡り会いに感動し、抱きあい、口づけを交わします。
この奇跡の展開と出会い、そこに映画のエッセンスが込められています。あり得ないような運命、それが正真正銘「あり得なかったこと」になっていってしまう、この世と天国との間の大いなる矛盾というか、ズレが、時間軸のうえで相争い、以後の波乱に繋がっていくわけです。その意味で、砂浜で笛を吹く少年、連れている黒犬、山羊たち、これらにも象徴的な意味が込められたはずと想像されるのですが、映画の米国公開当時では、裸の少年というのが「不道徳」だと、このくだりがカットされてしまったそうな。なんという無神経さでしょうか。さすがアメリカです。
互いの初めての「再会」に喜ぶピーターとジューンをよそに、天国では騒動が持ち上がっています。天国の「登録事務所」で、インボイスと「登録者数」のズレに気づいた「担当天使」(ジョアン・モード)は、事態の究明を図ります。ボブの証言で、ピーター・カーター少佐は当然「戦死し」、ここに来るはずだった、しかし案内役であった使者(conductor)71号は、あまりの濃霧で彼の姿を見失ってしまった、ここに連れてこれなかったと釈明をします。
71号はフランス人で、かなりいい加減、怪しい英語を操り、三枚目風にしゃべりまくります。フランス革命で首をはねられた貴族と自己紹介します。演じたマリウス・ゴーリングは主に舞台で活躍した俳優で、英国生まれなのですが、何か一癖ある役どころです。
使者71号は、天使の厳命で地上に舞い降り、ピーターを連れ戻しにかかります。そこで画面はまたカラーになり、71号の名台詞が出ます。「地上はいいな、テクニカラーだ」と。彼はその18世紀フランス貴族のままの服装で、突然にピーターの前に出現します。そこから以後、天国のものたちが地上に現れ、ピーターと対話するたびに地上の時間が止まってしまうのです。ほかのひとは動きを止め、風も吹かず、木々も揺れない、その設定のなかで、71号とピーターは会話し、言い争い、動き回ります。
20時間も前の定めに「書かれているとおりに」、天国に連れて行くという使者71号の求めを頑として拒んだピーターは、「異議申し立て」をすると述べます。前代未聞の抗弁に当惑した71号は、協議のためにいったん姿を消します。その間をなにも知らないジューンは、傍らにいた彼の身になにが起こっているのか理解できません。以後、こうした時間のズレが物語の曲折を紡いでいきます。そして、それを説明できないピーターは、自分の身に起こったことは「奇跡」であるばかりか、すべてが負傷した頭の中での幻覚、何かの錯覚ではないのかと自分を疑い始めます。パラシュートなしで飛び降り、いま生きていること自体が確かに理解を超えている事実です。混乱する彼のために、ジューンは地元の医師で、脳神経科医であるフランク・リーブス医師(ロジャー・リヴシー)のところに相談に行きます。
リーブス医師はジューンの求めに応じ、ピーターを診察することになります(この前後、リーブスが室内から村中を観察できるレンズ投影鏡を用いているとか、ピーターを連れて行くジューン運転のジープを、バイクのリーブスが追い越すとか、まさに視覚効果を狙ったようなシーンが続きます。後者は、バイクを操る運転者の大写しをとらえ、『アラビアのロレンス』の冒頭シーンを彷彿とさせます)。部隊の駐留する館の大広間で、チェスをする二人をリーブス医師が訪れ、専門的見地からの質問を重ねますが、彼の病状といったものははっきりしません。そこで、リーブスは自宅に二人を招きます。
リーブス医師の住まいで、ピーターは書斎に入り、膨大な蔵書に目を通しながらうとうとします。ジューンとリーブスは中庭で卓球に興じ、盛り上がります。そこへ天国の使者がまた現れる、そのため二人の動作は完全停止してしまうのです。この場面、またそののちなど、大部分が実写のなかで、ピーター以外が静止状態を演じていると分かる撮り方なので、その素朴さがよく注目されます。CG全盛の今どきなど、想像もできない映画技法ですね。俳優たちも演技大変だったでしょう。
使者71号は、ピーターの「抗告」が天国の法廷で認められ、裁判が開かれると伝えます。ただ、その相手の検察官は手強いぞとも教えるのです。これは映画後半の法廷シーンで遺憾なく発揮されます。目覚めたピーターはことの経過を二人に説明します。
現実世界での進行はピーターの開頭手術です。軍病院ながら、立派な設備と専門脳外科医がいます。リーブス医師からの説明を受け、ピーターの妄想症状を生み出す脳の障害箇所への手術が準備されます。彼は科学的に脳障害と妄想の関連性を語りながら、ピーターの説明に沿い、なにがなんでも今夜の天国での「法廷」に間に合わせる必要があるとも主張し、医師らを戸惑わせます。一方で「妄想の世界」では、天国に繋がる無限に続く階段を、ピーターと使者71号が登っていくシーンに転じます。もちろんモノクロ、しかもこの階段はエスカレータのようで、歩く必要がありません。その脇には、歴史上の偉人や哲学者の像が聳えています。71号はその中から、ピーターの弁護人を選ぶように勧めますが、彼の主張したいところは、高邁な理論ではなく、予定された死から免れた一日足らずのうちにジューンとの本物の恋愛に落ちた、その愛の無上の価値を主張しようというものでした。それにかなう人材はなかなか思い当たりません。
ここから、ピーターの意識は天界と地上とを行き来します。リーブス医師とジューンはなんとしても彼を天上の裁きで勝たせたい、地上では手術を成功させたいと願うのですが、折からサンダーストームが襲来し、電話は不通、彼を軍病院に運ぶはずの救急車もやってきません。リーブスは一人でバイクを出し、風雨の中を連絡に向かいます。そこに悲劇の予感がします。
視界の悪いなか飛ばしていたリーブスのバイクは、救急車と衝突しそうになり、転倒炎上してしまいました。救急隊員はそれでも、ピーターとジューンを乗せて予定通りに病院に向かいます。車中で、彼はリーブスの死を聞かされます。その悲嘆の想いを表す間もないまま、救急車は病院に着き、担架のうえの彼の視線で、手術室への長い廊下の天井がたどられます。
手術が始まり、ピーターの視界に見えるものは天井の無影手術灯、そして麻酔吸入器のマスクが視界を覆います。その不思議な世界は、そのまま雲上の天国の法廷に転じていきます。
天界の法廷前には、膨大な数の傍聴人が集まっています。戦死した軍人兵士や市民ら、歴史上の人物ら、その中に「来たばかり」のリーブス医師もいます。担当天使は彼を、ピーターの弁護人に任じると告げ、リーブスは喜んで応じます。
ここで、映画は天界と地上とをまた行き来します。軍病院の手術室の作業が停止し、窓の外から見やるジューンも、手術医や看護師らもみな動かないなか、ピーターは身を起こし、天国からやってきた71号とリーブス医師、証人に予定されたボブと再会することになります。71号は完全にピーターの味方になっています。ここで、リーブスは「証拠を用意する」と提案、それは動かないジューンの目にたまった涙でした。そのひとしずくを、71号の胸に挿した薔薇の花に受け、四人はまた天国に戻ります。
この戦争を含め、数百年の歴史のなかの数多くの戦死者はじめ、膨大な傍聴人たちが待つ法廷に、いかめしい法衣・鬘の裁判長(エブラハム・ソフィー)が現れ、中央の高い席に着きます。裁判長の説明で、この控訴審の意味が示され、陪審員、そして検察官が紹介されます。くだんの検察官は、まさに独立戦争時代の軍服姿のエブラハム・ファーランで、鋭い目には、英国に対する怨念がはじめから満ちていました(これは歴史上おの実在人物ではないようです)。演じるのがレイモンド・マッセィですから、米国映画界を代表する性格俳優です。これに相対する弁護人がリーブス医師、あとで見るように、一般に「英米の関係」を描こうとする図式的な構図とはある意味真逆の配役になります。
検察官ファーランのあげる論点は、第一にピーターは当然天国に召されるときが決まっていたが、手違いで地上の時間を与えられてしまった、その責任は誰にあるのか、第二に、その間にアメリカ人女性と彼は恋に落ちた、これは真実なのかどうか、第三に、わずか20時間余の間で真の愛などが二人の間に築かれるのか、と。ここでは彼はしきりと、米国と英国の違いを強調します。そして、この間200年のあいだの英国の政治、外交、社会、文化などの批判を展開するのです。
ここから、検察官と弁護人は、互いの今日の「大衆文化」を暴露する非難合戦になります。リーブスの持ち出した「現代アメリカのポップミュージック」には、ファーランも鼻白みます。ここは引き分け、というところで、地上の手術の場面に戻ります。酸素吸入器の動作が不規則になり、見やるジューンを心配させますが、すぐ正常になりました。他方で、検察官ファーランは英国の住まいや暮らしまで非難し、その落としどころは、この法廷には英国に怨みと反感を抱く人間が多数いるからだと胸を張りますが、これは逆効果になりました。人種・民族・政治的立場などを越えて選ばれたはずの陪審員が、戦争や植民地支配を通じての英国への怨念組ばかりであることが、図らずも示されてしまうのです。弁護人リーブスは敢然と、陪審員の交替を要求します。
ファーランはアメリカの自然と町、社会と人権、自由な精神、成熟した国民を賞賛し、これに乗ったリーブスは「アメリカ人を陪審員に」と提案します。ただし、「現代の市民」と添えて。そこで呼び入れられた交替の陪審員たちは、「アメリカ市民であっても」いずれも先のメンバーに重なる人種・民族を受け継いでいるのです。リーブスは、単なる法や制度ではなく、個人としてのピーターとジューンの存在、尊厳と愛に言及し、薔薇の花のうえにとどめられたジューンの涙に示される、彼らの関係の真実性を法廷が確かめて欲しいと提案します。

陪審員からの声で、裁判長は提案を受け入れ、法廷を休廷とし、ピーターとジューンに対して直接の尋問を行うと表明、陪審員や検察官、弁護人を始め、膨大な数の傍聴者らを引き連れ、宇宙空間から下界へつながる天国の階段を下ります(ここで天国の遠景はひとつの星雲のように見えます)。地上に着けばテクニカラーの世界が展開され、天界のものたちにも生き生きとした表情がよみがえります。一行は軍病院の手術室に直行しますが、この辺の描写はスクリーンプロセスでの合成ですね。そして、地上の手術の進行と天界のものたちの動きがはじめて同時に進み始めます。
ここで検察官の求めにより、ピーター・カーター自身が呼ばれます。彼は再び、パラシュートベルトを着けた飛行服姿です。つまり、「死」の直前に戻されています。検察官は彼に、二人の「愛」が真実である証拠を示せと迫ります。「命をかけると断言できるか?」,これは明らかにトリッキーな論法です。命をかけるとは、まさにピーターがこの世を去ることになるのですから。検察官はさらに「証人」の喚問を求めます。それはほかならぬジューンでした。彼女も、「愛の真実」を証明せよと迫られました。「どうすれば?」、検察官は自分と同郷出身の同胞である彼女を追い詰めます。「命をかけられるか?」、もちろんジューンはイエスと即答しました。二人の愛を守るために、この世で生きながらえたい、しかしそれを立証するにはどちらかが「あの世にいく」しかない、究極の矛盾です。ピーターは激高し、検察官は目をむいて怒ります。
このトリッキーな状況を打ち破ろうと、リーブスが仕掛けます。「君がこちらに来れば、ピーターは生きながらえられる」、「それが愛が本物であるという唯一の証明だ」、この言葉にためらうことなく、ジューンは天国に向かって足を踏み出します。怒り、絶望するピーターには拘束令が出され、身動きできません。「グッバイ、ダーリン」、そう呼びかけて天国に歩むジューンの目には、大粒の涙が溢れていました。そこで、エスカレーターがとまり、リーブスが宣言します。「宇宙では法の支配がすべてだが、地上では愛に勝るものはないのだ」、そしてジューンは階段を駆け下り、ピーターと固く抱き合います。
「陪審員諸君」、裁判長は呼びかけ、ウォルタースコットの詩を引用、愛に勝るものはないと告げ、評決を求めます。満場一致で「無罪」、ピーターの控訴は認められ、天国の記録は訂正されると裁判長は宣告しました。この判決文に、検察官ファーランは「寛大すぎるかも」としながらも、異議は示せません。
物語は再び手術室の場面に戻ります。難しい手術は成功裏に終わり、医師たちは手術着を脱ぎ、ピーターの顔から酸素吸入器が外されます。ここで写る、マスクを外した執刀医の顔は「裁判長」と同一なのです。その意図はよく分からないのですが、ともかくピーターは術後の病室で意識を取り戻し、開けられたカーテンからさす陽の光のなかで、「お帰り」を言い合い、ジューンとともに「裁判」に勝利したことを確認、抱き合い頬寄せ合ってって物語は終わります。
この映画の根底には、英米という、外からは似ているように思われがちな「同盟国」「兄弟国」の間の微妙な立ち位置の違いへのこだわりが明確にあります。うえにも見たように、その米国の全面支援抜きに、英国はこの戦争を戦い抜き、勝利できなかったことは客観的な事実なのですから、あえてそこにひびを入れようとする映画などというものが、当時大変なことであったのは否定できないでしょう。でも、そこにこだわることなしには、英国人たちの心は収まらなかったのかも知れません。ともあれ、米英の差については、映画の端々にも出てきますし、後半のクライマックスに向け、手術台上のピーターのもとにリーブス、71号、ボブが集うた際にも言及されていました。そして、もちろんクライマックスは、天国の法廷での、米国人検察官と英国人弁護人の、火花を散らす論戦です。ここでは真っ向、それぞれの哲学と論理がぶつかり合います。
この映画の展開に、多くの米国人は不満かも知れません。公開題名が変えられたのも、そのせいもありましょう。個人と個人の愛が無上のものであり、法や規則を超えるというのは、むしろアメリカの基本思潮であるはずと。でもそれを強く主張するのは、.ピーターを弁護する英国人リーブス医師なのです。個人の愛の客観的実在を疑うのみか、それと法と規範、とりわけ天国の掟を対置させ、極めて強権的な姿勢を取るのは、米国独立運動の士、検察官役のファーランなのです。これでは逆ではないのかと。
ファーランの主張は、独立した個人と民族の多様性・開放性を誇りとしながら、国家と社会はこれを法と規範でまとめるというのが普遍的な原理だ、というものに聞こえます。そこからの逸脱は許されない、許さない(もちろん天国にあっても)といった論理なのです。これを敷衍すれば、アメリカこそが「自由の国」であり、「個人主義」の国(選択の自由?)だという、通俗的な理解を覆していることになります。
これに対し、長い伝統と格式、固定的な社会構造を維持してきたと思われがちな英国ですが、よく考えてみれば、もともと「法」の支配は弱い国なのです。たとえば、英国には「憲法」もありません。長年の間の議会の決議、法令や判例を寄せ集めたものを、総称しているに過ぎず、いわゆる「慣習法」(common law)の仕組みに沿うものと理解されています。例えば、国王(いまは女王)は議会開会にあたり、施政方針演説を行うのが事実上の決まりですが、現代においてはその内容は首相の作文によるもので、王が勝手に一言一句付け加えたり変えたりはできません。大昔の王権絶対の時代から、議会の権力がこれを圧倒規制してきた歴史がそのまま反映されてきているのです。ある意味面倒な国ですね。
ですから、英国にあっては、個々人と国家との関係といったものも相当微妙です。社会的な規範、個人の生き方と生活に対する国家の法的制度的関わり方も、理屈をこねればいろいろあり得ることになります。もちろんその一方で、全くの個人の自由が制度的慣習的に保証されているのかどうか、実体的には問題は多々あり得ます。世界大戦にあっては、当然徴兵が行われ、当人の意思にかかわらず戦場に駆り出され、死に追いやられたことは間違いないのですから。そうした現実を認めたとしても、個人を真に尊重する社会は、我々の方だ、すべて法が優先するなどと杓子定規に考えない、個人の自由意思を一方的に抑圧しないのが英国の伝統なのだ、と言いたいのでしょう。
でも,大英帝国は世界を支配し、その中に生まれたのも植民地アメリカであったのはまがいもない歴史的事実です。英国民の自由や権利と、自由意思とは離れたところに、多くの帝国植民地がありました。ですから、第二次大戦後、インドやマレー、ケニアを始め、いずれも悲願の独立を達成しました。ここに、「帝国」への批判はないのでしょうか。「勝った、勝った」の1946年では無理からぬところでしょうが。
この世界大戦のとき、確かに英国はドイツの侵攻の危機にさらされ、猛爆撃を受けて人的物的損害は甚大だったわけです。これから祖国を守ろうというのが「バトルオブブリテン」の戦いであったのですが、長い歴史の中では、この「裁判」の陪審員の顔ぶれからわかるように、英国は逆に全世界に軍を送り、侵略支配を拡大してきたのが紛れもない事実です(ためにのちには、「ズールー戦争」での大敗北を認める映画も作られています)。 第二次大戦にあっても、ドイツに侵略され、その支配と暴虐に対して戦いを挑んだ、多くの地域の住民たちの命をかけた行動を描くのとは、どうしても同じというわけにもいかないはずです。それは英国の映画人たちも自覚をせざるを得ないだろうと思うのですが。
ために、米国映画にあっては、自国を離れて欧州の戦争に参戦し、支援をする、また日本の太平洋での侵攻攻撃、米国への脅威に対抗する、これが第二次大戦の基本的な意味であり、それを戦争映画のお話しにしてきたわけです。ただ、戦後においては、逆に世界各地に軍を送り、攻撃をしているのが米軍であることも明らかなため、ハリウッド映画人たちには誠に都合の悪い真実に向かい合わざるを得なくなりました。そのなかで、現実には敗走であったベトナム戦争=第二次インドシナ戦争に関しては、侵略と殺戮の現実を描かざるを得なくなったのです。
しかし、「正義の戦争」の看板を下ろすのにはどうしても我慢できない一部の連中は、事もあろうに、米国本土が「侵略された」というトンデモフィクション(ハクション)を造り上げ、これに「果敢に抵抗する」青年たちの勇気ある戦いという物語を描き出しました。ここまでいくと、「天上の世界」どころじゃあない、妄想の極致と言うしかありません。
まあ、武装殺人の自由が公認され、何億もの兵器が全土に散らばっている国からすれば、「いつでも内戦」とも言えるのだから、まったくの空想譚とも言えないのかも知れません。危険な疫病蔓延に対し、外出禁止、営業停止など厳しい規制措置をとった州政府に対し、「自由を認めろ」と、市民は武装してデモしたそうですから、まさに年中武装蜂起の国ですね。
それだけではない、メジャーな放送チャンネルには出てこないが、衛星放送のマルチチャンネルを見ていくと、アメリカ製の戦争物がいまも溢れています。それも80年前のお話し、過去の「歴史」などではなく、いま行われている戦争、アフガン、イラク、中東、果てはバルカン半島などで、「アメリカ兵たちは勇敢に戦っている」お話しの洪水であることがわかります。そのなかでの、「持続できる」戦意高揚映画(sustainable war sentiment movies)の数々なのです。まさしく、「アメリカとはなにか」のよき見本を示してくれるものでしょう。他方で、警官による殺人に対し全米で抗議デモが起こると、大統領令により実際に連邦軍が動員され、「首都防衛にあたる」くらいなので、「いつでも、どこでも」戦場のクニは、映画で空想をたくましくしなくても、いま、そこにあるのです。
そうした英米の政治的軍事的位相と、それぞれの社会のなかの思潮、慣習といったものを極力客観的に描くなどというのは、映画にとっても至難の業、ないものねだりになることは否定できないでしょう。同じ視点は、「日本映画」にも否応なく問われましょう。ただ、英米それぞれ微妙に違う個人観、社会的な規則規範と個人の生き方に対し、相当にチャレンジングな問いを、『天国への階段』はあえて投げかけた、という理解も許されるものと思います。もちろん、上記のように、「帝国」と支配されたものたちの関係、また今日的には、「個人の自由」のみならず、個人と家族といった伝統的理解を超えた、その共同性のうえにある社会と協働的互酬的関係にも、視点は広がらざるを得ないでしょうが。
「自己犠牲」とはなんなのか
映画『天国への階段』のクライマックスは、ピーターの主張を認めるべきかをめぐる、天国の法廷での白熱したやりとりでした。そしてそれを決めたのは、リーブス医師の弁護以上に、ジューンのためらうことない自己犠牲の発露でした。恋人ピーターをこの世に生かさせるためには、自分が代わりに「天国に行く」、つまり命を捨てても構わない、という決心が、裁判長や陪審員らを動かしたのです。
「平時」においてなら、このジューンの行為はあまりにも矛盾に満ちており、もちろんジューンとともにいたいと「生」を望んだピーターにとってはまったくありえない展開です。でも、考えてみれば、戦争における数々の死というのは、「おのれが命を捨てて、誰かを生かす」という「自己犠牲」の膨大な積み重ねでもあるのですね。それは、直接にはおのれの家族、友、同僚やさらには同国人、ひいては「人類全体の為」ということで、正当化され、おのれを納得させるものになるわけです。
そもそもは、兵士以外の人々は「遠い故国、故郷にいて」、命を脅かされる危険のない中世や近世の戦争では、それは直接の動機ではなく、おのれの功名心や出世欲に駆られ、戦場に赴いていたはずですが、そこでも「無辜の市民らが」巻き込まれ、時には徴用されて戦場に駆り出され、死に瀕する危険はあったわけです。ましてや「近代国家」での国民皆兵、徴兵制下にあっては、当人の意思や意欲願望にかかわらず、有無を言わさず戦場に送られ、ただ一つ、かけがえのない命を投げ出さなくてはならなくなるのです。それを自己正当化出来る根拠、理由を誰しも求めざるを得なくなるのが自然の感情でしょう。ひとときの「昂揚」や興奮に終わらない、生存の本能を断ち切る「意思の力」が必要です。
もちろん、戦場にあっては、「殺さなければ敵に殺される」という、ギリギリの状況に追い込まれるので、ひとを殺しに行く意思のあるなしにかかわらず、戦わなければならない羽目になるのも間違いないでしょう。「戦争映画」通常の場面設定です。その一方で、「うまくいけば」死なずに済むかも知れませんが、その確率は高いものではなく、なにより恐ろしい上官の、指揮官の、そしてそれらのうえに君臨する皇帝や王や首領や首相やらの絶対的な権威と命令に「背く」こと自体が考えられません。実際背けば、逃げれば、「軍法会議」で銃殺です。下手をすれば、その場で撃たれ、斬られるでしょう。どっちに転んでも助からないのです。
さすれば、せめてなにか自分の命と引き換えにできる、おのれ自身の存在のルーツである「共同体」の存続と継承への犠牲となることができる、そういったなにかの「理屈と感情」をおのれの心の内に整えておきたい、それが多くの人々の自然な心根になるものでしょう。か弱いホモサピエンス=人類存在が自然の猛威や天災と闘い、生き延びるすべを求め続けてきた歴史そのものを、いまふたたびなにかの関係と構図に置き換え、自分の犠牲の持つ意味を説明可能にしようとする感情のはたらき、そこに答えがありましょう(もちろん、自然界だけではなく、『七人の侍』の百姓たちのように、限られた生存条件をめぐり、異なる「人間集団」との存在をかけた闘いも、有史以前から続いています)。言い換えれば、姿が見えているのかどうかにかかわらず、「誰かの為に」命を投げ出す、それはおのれの求めるもの、生きる意味に通底しているのだという、使命感としての「自己犠牲精神」への融合です。
シンタローの「君のためにこそ死にに行く」に象徴化されるように、それは目の前にある「君」=第二人称という特定の人物存在に置き換えることができるのなら、いちばんわかりやすく、またいつの時代でも、「平時」でも、自己犠牲の発露としておのれを納得させられます。突然、猛獣や凶悪危険な暴漢・犯罪者に相対することになったとき、わが家族を、子らを、妻や恋人を、そして友を守る為には、わが命をかけてもいい、それがおのれが生きている意味の証明でもあるのだと、ためらいもなく信じることはさしてむずかしくもないでしょう。
しかし、それは本来、愛する相手、家族、友人らといった関係性のうえでのみ意味を持っているはずです。実際の近代戦は、そんな牧歌的で素朴な心情のうえにあるわけではありません。「君」は不特定多数でさえもありません。大日本帝国にあって「君」とは「おおきみ」なのでありまして、帝国をまとめる大君の存在と命令以外の何物でもないのです。まさに「大君の辺にこそ死なめ、かへりみはせじ」なのです。ただ、これが大日本帝国の作り上げた精神構造であっても、他の国々、「総統や首領のため」の国であろうが、「民主主義的国家」であろうが、そんなに大きな違いがあるわけではありません(大日本帝国では、民は天皇の「赤子」であるという、生殺与奪、絶対服従の序が用意されていました)。「国家」が「愛国」理念を掲げ、巨大にして堅固、そしていかなる抵抗も逃亡も許さぬ強大な暴力装置として君臨機能していれば、そして個々人をその一部分、単なる部品の一つに位置づけ、私的な関係を抑圧し、その意思を踏みにじることができれば、どのようなシンボルとルール・統治と権力を働かせるかにかかわらず、個人の不服従、反抗逃走を許してくれはしません。「俺はここで死にたくないから、俺が死んでも家族らに何にもならないから」、「君のために生きていたいので」やめます、武器を置いて家へ帰ります、などとはいかないのです。
これに、「どうせ限りある命、大義のために、英雄として戦い、死にたい」、「逃げて卑怯者になるよりは勇敢に戦い、手柄を立てれば誰でも英雄」といった安直なヒロイズムで色づけされ、おだてられれば、お膳立ては整います。勲章の類の数々と、顕彰出世昇進が、兵たちの「敢闘精神」をくすぐる道具になるわけです。そういった心理状況と極限の前線を描いたのが、サムペキンパーの『戦争のはらわた(Cross of Iron)』でした。「英雄」の言葉は麻薬の作用を発揮するのです。殺人暴力装置としての軍隊と、英雄の顕彰・勲章とは切っても切れません(ドイツ第三帝国国防軍に限らず、ソビエトロシア赤軍をはじめとして)。
このように、個人を「国」に(時にはそれに「信仰」が色づけされ)すり替える論理あってこそ、戦争は正当化され、クニは個々人に死を強制できるわけです。それは今日まで続いています。しかしなお、ひとは「人間」全般という位置づけを棄却できないものです。おのれの主体的な意思と生存の本能があればこそ、です。人間全般の全体像と自分自身との関係を明確に認識するのはむしろ容易なことではない以上、人間全般から具体的な人格、対象に認識を絞り、切り替え、そのひとに対置される自分の犠牲を理解可能なものとする、まことにあり得る心の動きではないでしょうか。それゆえ、絶えず「そのひとのために」おのが命を投げ出す、という心情と行為を、映画などは描き続けてきているのです(代表的には、1943年映画『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls)』ラストでの、重傷を負った主人公ロバートが、迫り来る敵軍の前でひとり機銃を構える場面でしょう。世のため、味方のためでもなく、誰よりもマリアのためにいのちを投げ出して戦う、我が身を盾にして助けると、薄れる意識の中でおのれに言い聞かせるのです)。その一つの頂きが、1946年映画『天国への階段』であると言えそうです。ただそのため、まさにお話は空に浮遊していってしまったのです。「愛する人のために命を投げ出す」ジューンの犠牲的行為に、天は免じてふたり共を助け、この世に生かしてくれるという、有り難い、しかしまた有り得ない結末をつけて。
その意味いちばん傑作な映画の中の台詞は、『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』(1976年)のなかで、不治の病に冒されている名家の奥様・柳生綾(京マチ子)の問いかける「ひとはなぜ死ぬんでしょうか」への、寅の名答でしょう。「いやー、ひとがみんな生きていると、地面のうえは満員になっちゃって、おしくらまんじゅうで、「おい押すなよ」「やめろよ」とか押し合いで、そのうち海に落っこちて、死んじゃったりして、だから、じゃないでしょうかね」と。
ジョーダンの類はさておき、「戦争とおのがいのち」を正面からとらえ、「あり得なさそうな」設定・物語展開でもあえて描いたのは、シナリオ作家倉本聰の生涯をかけた渾身のTVドラマ『やすらぎの刻』(2019年度)でした。そのなかの劇中劇・「道」の描く戦前・戦中・戦後の激動の展開で、甲斐の山村に暮らす根来一家、その従兄で猟師兼炭焼きを業とする鉄兵は、「オレは生きるために獣を殺すが、なんの必要もなく人を殺すのは性に合わん」と断言、赤紙を破り捨て、山中に逃亡します。軍・警察・自警団総出の山狩りでも見つからず、死んだものとされるも、戦後50年近くもたって、山から下りてくるのです。根来の三男、三平はなんとしても人を殺すことはできない、でも鉄兵兄ちゃんのように逃げるすべを知らないし、それでは一家はえらいことになると追い詰められ、召集の前夜に毒を飲んで自ら命を絶ちます。恋人しのを絶望させても。物語の主人公でもある四男公平は、どんなにしても生き延びたい、新妻しのと生まれた幼子のためにと、足を車に轢かせて重傷を負い、兵役を免れます。
これらの壮絶な「生き様」はあまりに例外的、どれほどのリアリティがあったのかという疑問を残しますが、もちろん根来の兄弟がみんなそこまで兵役と戦争を忌避したのではありません。次男公次は自ら海軍に志願し、航空隊の戦闘機乗りになり、南方戦線で戦死を遂げます。その魂は、遠く海を越え、一家に会いに来ました。そして長兄公一までも戦争末期には召集され、戦地で非常な苦労を重ね、シベリア抑留を経て三年後に帰郷します。しかし温厚冷静な公一はすっかり変わってしまっていました。特に中国で、無辜の農民を殺してしまったこと、それに対する罪悪感が拭えないまま、家を出て、世捨て人のような暮らしで余生を送ります。
これらはあまりに絵空事だ、無理線だといった批判があっても、作者倉本聰の信念は揺るぎないでしょう。そこまで、戦争という殺し合いに距離を保ち、忌避しようとする精神こそ、真に人間的なのではないかと、現代の世界に問いかけているのです。戦後まもなくの映画であり、「反戦の思いあふれる傑作」とされる壺井栄原作・木下恵介監督脚本の『二十四の瞳』(1954年)では、島の分教場の同級の男子は全員徴兵され、軍歌と日の丸に送られて出征し、生還し漁師に戻った吉次、負傷盲目になって除隊した磯吉以外皆帰ってこなかったという展開になります。女子にも、貧困、病などの苦難が襲いかかり、ついには大石先生の夫も戦死の報が届きます。ここでは、大石先生の密かな嘆きの言葉以外、どのような「抵抗」も「逃亡」も、苦悩もありません。もちろんそれが日本の銃後の実態そのものであり、倉本聰の物語は無理線だ非現実的だとするのが妥当ではありましょう。でも、ではなぜ、皆が易々と戦場に連れて行かれ、命を落とすことになったのか、そこに疑問を差し挟むのも、創作されたお話しとしての映画やドラマの役割ではないでしょうか。 |
「愛」の普遍的な意味を大上段に問うこの映画で、その愛のかたちというのは、意外に表現されていません。ピーターとジューンの会話、ラストシーンを含めて抱きあい、口づけし合う、そこまでです。もちろん、自らの命を捨ててまで、二人のために天国の法廷の弁護人として立ったリーブス医師の人間愛などは別として、まさに「おとことおんな」の愛を無上のものと主張した当人たちの、からだの実際行動は意外に乏しいのです。
まあこれは、1946年という時代の制約とともにあったとせねばならないでしょう。ですから、ジューンは終始一貫米軍の軍服姿のままで、平服を着る場面さえもありません。ピーターの方は、救出時の飛行服姿では不都合でしょうが、「原隊復帰」してないせいか、あとは平服、ジャケット姿で過ごしています。で、もちろん服を脱ぐところなど出てきません。
のちの時代になれば、たとえば『空軍大戦略』(
Battle of Britain, 1969)のなかで、ともに英軍将校であるハーヴェィ少佐(クリストファー・プラマー)とマギー(スザンナ・ヨーク)は夫婦なのですが、激しい戦いのもとで顔を合わせる機会もないなか、なんとか時間を作ってロンドンのホテルに泊まります。そこでベッドのなか性の営みにいそしむのものの、ドイツ軍の爆撃に邪魔されます。
米国映画ですが『戦う翼』(
The War Lover, 1962)で、英国駐屯米軍のB17爆撃機副操縦士エド・ボーランド中尉(ロバート・ワグナー)は現地で知り合った英女性ダフネ(シャリー・アン・フィールド)と恋人同士になり、ベッドをともにします。「ことのあとの」二人、髪を梳かす彼女、それをベッドから見やる彼が描かれます。これに機長のバズ・リクソン大尉(スティーブ・マックィーン)が割り込もうとするドラマ展開になりました。
前にあげた、ハリソン・フォード主演の『
ハノーバーストリート』はもう言うまでもないですね。夫ある身のマーガレット(レスリー・アン・ダウン)に恋し、誘い出して、郊外のコテージで逢い引きを重ねます。ここはモロの描写で、二人のセックスが描かれ、彼女の胸も丸出して写ります。燃え上がる不倫の性愛の激しさが、戦時下の、明日をも知れぬ二人の恋心をさらに高めるのです。○ルノ映画じゃないですけど。
これらに比べ、あまりにも慎ましやかすぎの『天国への階段』での、二人の関係です。映倫規制のせいだとするのなら、場面はないけどトーゼン、二人は身体を求め合い、セックスしているんでしょうね。何かの間違いで与えられてしまったこの世の時間を、花を眺めたり、おしゃべりしたりゲームしたりして過ごしました、せいぜいキスだけですなんて、そんな子供だましのようなことはあり得ないでしょうね。でも,当時の映画にしても、それを画面の外で匂わせるような描写もセリフも全くないなんていうのが、ちょっと解せないところです(森の中で草上に寝転び、語り合う二人のところへ突然使者71号が訪れ、この世の時間が止まってしまうという場面は、「これからいいところ」のはずだったと暗示しているという説もありますが)。
無理矢理サービスシーンを入れろとは申しませんが、「愛」をこれだけ語る映画に「性」がなさ過ぎ、というのはどういうこと、と思いますけどね。「性」がなければ、人類子孫繁栄にはならないんですが(愛はなくてもセックスはできますけど)。それに、冒頭登場する、ピーターの出会った山羊飼いの少年が全裸であったのは、何なんでしょうか。それは性的感覚とは無関係なんでしょうか。
ここでは、生、生きること、生きて人間同士が支え合い、愛し合い、暮らしていくことへのこだわりがとことん描かれるのに、「死」に対しては、死んでも天国で永遠のいのちを得られるという、そうした意味での生死の境目でしかありません。先に私が指摘したように、世界大戦という、あまりにも多くの無残な死を経験し、それが日常化していた世界にあって、「死」の向こうにあるものを楽観視したいという思いも分かりましょう。死んで向こう側に行ってしまった人々も、それぞれの「人生」があると思いたいわけです。でもその結果、死そのものを語るところが映画のなかでまるでなくなってしまいました。「死んだ」姿で写るのは、冒頭の燃えるランカスター機内で操縦席のピーターのかたわら、目を見開いたまま息絶えているボブだけでした。死を現在進行形で経験するリーブス医師にして、それがピーターの生への弁護の役割を果たすためであり、無残な事故死の実相は描かれもしません。
まさに、「生死の違いはこんなにはっきりしている」(モノクロかカラーかを含めて)のに、死の実相や経過や意味を真正面からは描かない、ですから多くの「戦争映画」に出てくる、敵弾にあたりばったり倒れる兵士とか、瀕死の傷を負い、血まみれで苦悶する姿とか、動かなくなった数々の死体とか、そういったありがちな表現は一切出てきません。かの、古くは『西部戦線異状なし』(All Quiet on the Western Front, 1930)で、独軍の塹壕に突撃してくるフランス兵たちに機銃掃射が浴びせられ、身体は吹き飛び、手の指だけ鉄条網に引っかかって残る場面とか、スピルバーグの『プライベートライアン』(Saving Private Ryan, 1998)、ノルマンジーの海岸で、上陸した米兵たちの身体が砲撃銃撃で千切れ飛ぶ、血が吹き出すなんていう場面とは大違いです。また、肉親を、家族を、友人を失い、悲しみ嘆く「残されたものたち」の姿もありません。
その逆をいった表現こそ、1946年製作のこの映画の意図なのでしょうか。
ただ、それでもなお、天国には英兵米兵はじめ、歴史的な過去を含めて多くの軍人兵士らが呉越同舟しているが、そこには第二次大戦の敵対国、ドイツイタリアや日本の兵らの姿はないのです。つまり「死後」も国境はあり、戦争は続いていることになります。もちろん、すざましい憎しみあいと殺し合いの連鎖の続いた日々から一年で、「みんな仲良く」などという描写のあり得ないことも、自明だったのでしょうが。
その裏返しで、この物語では、天国に行った兵士たちは地上同様に軍隊として集団で過ごしているようで、「家族のもとに」行って再会する機会もないらしいのです。軍隊生活が永遠に続くとは、なかなかつらい天国ですね。「一緒に死んだ」=天国に着いたタイミングということもあるようですが。
デビッド・ニーヴン David Niven 前後多くの映画に出演、代表的な英国軍人などの印象。大戦中は軍人だった。ただ、アレック・ギネスほどにまじめ一本槍には見えない、洒落者の役どころ。『八十日間世界一周』『旅路』『ナバロンの要塞』『ピンクの豹』『大頭脳』『ナイル殺人事件』など、ジェームスボンドを演じたこともある。私は『好敵手』で、典型的イタリア人アルベルト・ソルディと張り合う役が好き。
キム・ハンター Kim Hunter ビビアン・リーと共演した『欲望という名の電車』でアカデミー助演賞を受けるなど演技派だったが、ハリウッドレッドパージにあい、不遇の時代を送る。『猿の惑星』のジーラ役で注目され、『泳ぐひと』『キンドレッド』など70年代から80年代活躍した。
レイモンド・マッセイ Raymond Massey 戦前戦後ハリウッドの代表的演技派俳優。日本では『エデンの東』での父アダムの役で知られる。『摩天楼』で、ゲーリー・クーパーの主人公と対峙する新聞社社長、このほか『ハリケーン』『カンサス騎兵隊』『北大西洋』『失われた心』『裸者と死者』『七匹の無法者』等々、史劇、西部劇ものや戦争物多数に出演、名脇役格で、またリンカーン役を何度も演じている。
デビッド・ニーヴンと同じ日になくなったのだそうで、あまりにできすぎの巡り合わせ、因縁。
ロジャー・リヴシー Roger Livesey 戦前は舞台、戦後はTV出演の多い英国の俳優。『渦巻』など。二枚目役だが、『老兵は死なず』で、一将校の青年時代から老人までを演じた離れ業を見せている。
マリウス・ゴーリング Marius Goring やはり戦前戦後、長く活躍した英国の性格俳優。日本ではあまり知られていないが、『赤い靴』『かくてわが恋は終わりぬ』『将軍月光に消ゆ』など。TV出演も多い。
脚本・監督:マイケル・パウエル(Michael Powell)・エメリック・プレスバーガー(Emeric Pressburger) 戦前戦後の英国映画界をリードした名コンビ 『老兵は死なず』『カンタベリー物語』『黒水仙』『赤い靴』『戦艦シュペー号の最後』など。プレスバーガーはのちに、スペイン戦争のかっての英雄の最後の戦いを描く、フレッド・ジンネマン監督の映画『日曜日には鼠を殺せ』(Behold a Pale Horse, 1964)の原作も書いている。
*これらのスタッフ、キャストの皆が、もはやこの世にはいない。映画製作から75年近くが過ぎていれば、無理もない(山羊飼いの少年役は健在かも知れない)。彼らは、来世がこのような天国であることを信じていたのだろうか。
おまけのおまけ
誠に余談ながら、この映画を取り上げたblogで、冒頭のセリフを「Come on, Lancaster」と理解しているのがある。onとin、一字の違いでも、まるで意味・ニュアンスが異なる。「Come on」では、まあ「かかって来い」か、せいぜい「さあどうだ!」位の感覚だろう。言葉を感覚で理解できないのは喜劇的である。
この映画で登場するのは、長距離の夜間爆撃の主役であったRAF英空軍のアブロ・ランカスター機であった。これはハンドレページ・ハリファックス機とともに、ドイツ本土爆撃などを敢行し、その中には「ダム・バスターズ」、ルール工業地帯のダムを跳躍爆弾で攻撃破壊した「戦果」もあり、これは『暁の出撃』( The Dam Busters, 1955)として映画化されている。一方で昼は重武装の「空飛ぶ要塞」B17やB24を擁する米軍航空隊が主役だったが、それだけに空中戦や対空砲火での損害も大だった。映画『頭上の敵機』( Twelve O'clock High, 1949)、前述の『戦う翼』、『メンフィス・ベル』( Memphis Belle, 1990)などに描かれている。
ただ、『天国への階段』では、機体の飛行シーンなどはほとんど出てこない。他方で、天国での法廷場面では(CGなしで)膨大な人数のエキストラが写っており、その人数だけではなく、軍服や古典的礼服,はては植民地の民族衣装など、衣装を揃えるだけでも大変なことであっただろう。もっとも、第二次大戦中の英米の航空兵たちの服装は、容易に揃っただろうが。
|
このお話、続く
次へ
