愛と性(love and sex)
先に、『天国の階段』(「生死の問題」)における「愛」と「性」について取り上げました。
そうなれば、ほかの『ノッティングヒルの恋人』や『ラブアクチュアリー』においてはどうだったの、ということにも触れなくてはなりません。
ただ、『新しい人生のはじめかた』では、中高年の「恋愛」を描いていても、「性」はセリフ以外では出てきません。「その後、二人はどうなったの?」と想像をたくましくするほかなく、まあそれも作者たちの意図だったのだろう、「性」抜きでも、「愛」を語り合える関係をまずは描く、ということで。
『ノッティングヒル』では、ウィリアムとアナが「結ばれる」夜を詳しく描きます。ただ、きょうびの映画としてはおとなしめの描写で、まさしくアナが語ったように、ハリウッドの「契約」で、ここまで写っていい、この描写はダメ、等々縛られていたのかも知れず、まあ「子供にも見せられる」範囲です。「若い日のヌード写真をばらまかれた」アナにして、その肝心の「写真」は出てきませんしね。
一方で、ウィリアムのルームメイト・スパイクはやたらセックスに狂っていて、アナにもちょっかいを出そうとさえしますが、あくまで言動の範囲内、ウィリアムの妹・ハニーと婚約することになるという展開でも、二人がどういう関係であったのかは出てきません。むしろおとなしめの関係のようにさえ見えます(masturbating Welshと形容されていたんですが)。もっとも、ウィリアムが悲しい日々を送るシークェンスの中では、ハニーはほかの男と一緒にいて、そして時間の展開とともに「切れた」のがわかる仕掛けですけれどね。
物語の展開としては、いかにもという流れが出てきます。映画館でデイトののち、食事をしていた日本食レストランで、他の客たちのアナへの侮辱的なトークに怒ったウィリアムが文句を言う、一笑に付されたところへアナがダメ出しをし、連中を呆然とさせて二人で去る、これで二人の関係は盛り上がります。アナの泊まるホテルリッツに着き、これでお別れか、というところでアナは言います。「あがってく?」(You wanna come up?)、ウィリアムは戸惑いますが、彼女は繰り返します。ここでは明らかに、「上へ行って二人で珈琲でも飲みましょう」ではなく、「自分の部屋に入って、○○しましょう」のニュアンスなのであり、それはアナの表情に出ています。気分が「盛り上がった」(horny)のです。
しかし、あとからアナの泊まる部屋の戸を叩いたウィリアムは、とんでもない現実を突きつけられます。部屋には、「ボーイフレンドの」ジェフが待っていたのでした。米国から「サプライズ合流した」彼は、アナが喜んでくれるものと単純に信じています。もちろんウィリアムには、想像を絶する展開です。「帰って!」、「え?」、「ともかく今夜はダメ、帰って」、「どうしたというの?」「ボーイフレンドが来ているの」この奇妙なやりとりに、当のジェフが顔を出し、「誰なんだい?」と呑気に問いかけます。咄嗟にウィリアムは機転を利かせ、「ボーイです」とこたえ、何にも気づかないジェフは、「そうか、じゃあ何か頼もうか」という反応になります。アナを抱きしめ、「俺が来て嬉しいかい?」と無邪気に尋ね、ウィリアムにはたまらない展開になるわけです。
ジェフが部屋の奥に戻ったところで、アナは事態を説明します。「彼が来るなんて思いもよらなかった」「すまない」、じゃあ事態は「三角関係」なのか、でもそもそも、「彼氏」がいるのに、何で自分とデイトしたのか、その辺の説明抜きですが、まあハリウッド大女優なら、恋人の一人や二人いて、不思議もないわけで、ウィリアムはしょせんロンドンでの行きずりの男と、自覚させられざるを得ません。彼が精一杯で口にできるのは、「ハリウッドスターの屑籠を片付けるなんて、シュールな体験だよ」という皮肉めいたセリフでした。
なお、きょうび日本でも理解が広まりましたが、boy friendというのは「男友達」の意味ではありません。セックス込みのパートナー、「恋人」ないしは「同棲相手」ということです。映画の字幕でも、「彼氏」となっていたでしょう。「結婚」の意味が相対的に軽くなっている欧米では、それに代わりboy friend、girl friendが世にいっぱいいるわけで、間違っても「お友達」などと誤解したら、とんでもないことになります。
ということで、目の前で餌を取り上げられた、「さかりのついた」雄犬状態になったウィリアムは一人寂しく帰宅します。それだけじゃなく、以後寂しい暮らし、これに気を遣ったマックスらは、次々相手を引き合わせてくれるのですが、彼の心は動きません。そのあとに、「ヌード写真流出!」の大事件が起こるわけです。まあでも、セリフだけでも、二人の心の動き、「性欲」の盛り上がりを描いていましたですね。そしてのちにはアナは、ジェフと別れることになるわけです。
『ラブアクチュアリー』では、「愛のかたち」をたくさん、オムニバスで並べるわけですから、「性」は抜きにはできません。いちばんすごいのは、すでに取り上げたように、「アメリカでセックス三昧」の遠征に出撃するコリンのハチャメチャぶりです。ただ、このえげつなさ一〇乗くらいのお話しで、実際の「描写」は窓に映る男女の影のみ、意外におとなしめです。おとことおんなたち、セリフと表情で、見せてますですな。
対照的に、ベッドの上で「邪魔が入る」サラとカールのお話しは、悲劇的であり、こんんなかたちで引き裂かれてしまう愛に、誰もが同情を覚えずにはいられません。クリスマスイブのパーティの後で盛り上がった二人のチャンスに、どうにも断ち切れない肉親の関係が立ちはだかる、悲しすぎますよね。サラを演じるLaura Linneyの胸がちらと写りますけれど。
作者たちの皮肉を込めた意図が明白にあるのは、ポルノ映画のスタンドインを演じさせられるジョンとジュディのコンビです。明らかに「売れない」俳優の二人(ジョンは、「Seven Years in Tibet」で、ブラッドピットのスタンドインをやったと語っていますが)は、裸になってからむ場面のリハーサル、カメラテストをやる役どころです。ジュディ(Joanna Page)はさっさと服を脱ぎ、上半身を曝します。撮影助手が彼女の乳房に露出計をかざし、光の具合を図ります。さらに、二人がからんで、「もっと動いて!」などの指示も飛びます。しかし、二人はこういった指示や自分たちの肉体の動きとはかけ離れた、なんとものどかな会話を重ねていきます。リハーサルなのですから、「本気出す」演技は要りません。ジョン(Martin Freeman)は「実に礼儀正しく」挨拶を交わし、世間話をし、ジュディへの気遣いを見せます。
ジョンとジュディの撮影風景場面は何度か出てきます。いろんな「体位」でまさにセックスそのものを演じながら、それとあまりに場違いな会話を重ねる(この映画撮影では「本番」はないよう、いろんな意味で)、その対比を明らかに作者たちは楽しんでいます。そして、なんとも「純情な」ジョンとジュディの会話・やりとりと共感ののち、二人はクリスマスイブに出会い、仲を深めていくという展開になります。まさしく「クリスマスだから、」というセリフにふさわしく。
これに近い展開となるのは、結婚した友人の相手に片思いするマーク(Andrew Lincoln)の行動です。友人ピーター(Chiwetel Ejiofor)は、ともにアート関係の仕事をしているようですが、彼は教会でジュリエットと式を挙げ、その後の披露パーティを含め、大いに盛り上がります。ジュリエットを演じたのはメジャーになる前のキーラ・ナイトレイ(Keira Knightley)で、1年前の『ベッカムに恋して』を含めて主役ではなく、また超美人・グラマーというよりも、ちょっと顎の出た、また痩せぎすの女の子という印象、男の子に間違われるくらいで、『パイレーツオブカリビアン』などで一挙大スターになる様子はまだなかった時代でした。でも、ここでも何か心に残る、ボーイッシュだが愛らしい女の子、という雰囲気があふれています。その彼女に、マークは実は片思いしているのです。
彼女にも、またピーターにも親しみを感じているマークとしては苦しい立場、教会での結婚式の「仕掛け」を牧師とともに演出しますが、パーティーを含め、ジュリエットには話しかけず、もっぱらビデオカメラを回しています。だから、式後新婚旅行から戻った彼女は、マークに不審の念を抱きます。「ピーターと話してばっかりで、どうして私には口をきいてくれないの?」、それで彼はゲイではないかという噂も流れます。
その辺の疑念を含め、彼女はマークの仕事場に押しかけます。ねらいは、パーティーでのビデオ画像、自分たちの用意したのはピンボケばっかりでダメ、マークがずっと撮っていたんだからそれが見たいと。マークはうろたえ、ごまかします。どっかに行っちゃった、見つからないとか、ビデオテープに上書きしてテレビドラマを録画しちゃったとか。でも彼女はさっさとテープを見つけ出し、ビデオデッキで再生にかけます(このビデオ映像が「撮れすぎ」「編集されすぎ」なのは、先に記しました)。「よく撮れてるわ!」と喜んだものの、そのうちにあることに気がつきます。写っているのはジュリエットの姿ばかり、ピーターは終始完全にフレームの外なのです。そこに込められたマークの思いに、彼女は動揺を隠せず、そしてマークはすっかりばつが悪くなり、「ランチの約束があるから」と言い訳して、仕事場を抜け出してしまうのです。
このあまりに純情なマークの片思いには、クリスマスイブでの結末が待っています。その晩、ピーターとジュリエットの住まいの戸をたたく訪問者が、彼女が出てみると、なんとマークでした。彼は「聖歌隊だと言ってくれ」と記した紙を示し、持参したCDラジカセをスタートさせます。ピーターに気づかれないまま、聖歌を戸口で歌っている風を装い、マークは次々に紙に記された台詞を流していきます。ある意味、片思いの精一杯の告白として。「クリスマスイブなんだから、ホントの気持ちを言いたい」、「あなたは最高だ」、サイレントで思いの言葉を流していく彼に、ジュリエットも悪い気持ちはしません。告白を終え、静かに去って行くマークを追いかけ、頬寄せてキスします。「Enough!」「enough」と独りごちし、歩き去るマーク、なにか切ない、寂しい男のクリスマスですね。
マークのその後はどうなるんだろうか、ジュリエットへの思い断ちきれないまま、寂しい年月を送っていくのか、それとも彼女に告ったついでに「決意表明」したように、きっと素敵な女性を見つけてみせるとなったのか、ちょっと気をもませたままでお話は終わってしまいます。ジョンとジュディのこれからには「お似合いのカップル」という夢が与えられたのに、寂しいお話の結末です。
これに対し、社長ハリー(Alan Rickman)と妻カレン(Emma Thompson)、そして秘書のミアの「三角関係」の物語は相当に危ういものとなります。夫婦ふたりの過ごした歳月はもうかなりのもので、「倦怠期」気味なのが見えています。これは中年男ハリーの浮気心と言うより、カレンが否応なく自覚している、自分が老けてしまい、もう魅力あるおんなでいられなくなっている、そこに生じる焦りと、夫への疑い、不信、憤りとして吹き出してくるのです。
一方で、いつもダブルベッドで寝ている夫婦ですが、妻の方がモーションをかけ、夫が応じてくれない、ないしは「おざなりに」済ませた、そう暗示する展開が描かれます。はだかのまま毛布をかぶっているカレンは、背を向けて寝ている夫に対し失望と悲哀を抱きしめている、というような描写になります。
これに対し、職場で秘書のミア(Heike Makatsch)は露骨なまでに、ボスに迫っていきます。かなりセクシーシンボル的な彼女の色香に、ハリーはまんざらでもなく、気持ちの動揺を自分で楽しんでいるような流れになって行ってしまいます。社内のクリスマスパーティでの「告白」と「言い寄り」、そのあけすけな態度は、社長夫人で出席していたカレンにも当然わかるのですが、ミアは気にもせず、チークダンスの中でボスにおねだりをするのです。そして、「代わりに何でもあげるわ」とね。
乗ったハリーは妻に隠れて、高価なプレゼントを物色します。一度は、ローワンアトキンソン演じる店員の、お馬鹿なほどの「過剰包装・サービス」のおかげで、買い損ねるのですが、のちには別途買い求め、プレゼントに備えるも、妻に見つかってしまいます。カレンはハリーのコートのポケットから見つけた金のブレスレットを、自分への高価なプレゼントと思うものの、いよいよクリスマスイブ前になって、子らとともに自分へのプレゼントとして手にしたのはジョニ・ミッチェルのCDでした。これは相当なショックで、彼女は部屋に引っ込み、溢れる涙を抑えることができません。自分以外の女性に、こんな高価なプレゼントを用意していた、それは間違いなく夫の浮気心であり、その相手がミアであることもわかります。ハリーの裏切りだけではなく、その裏返しとして、自分はもはや夫に魅力ある女性ではなくなってしまったと、否応なく悟らされるのです。
そのバックに、ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」(Both Sides, Now)が流れるのは、なかなか効果的でした。人生の表と裏、光と闇、得たものと失ったもの、愛と失われた愛、さまざまな現実に心迷う日々、そうした青春の思いを、半世紀近くの後にふたたび、スローバラード調として歌った、それは同時代の人間たちにとって、身にしみて実感させられる人生模様と年月と喜怒哀楽そのものの表現と言えましょう。映画の中では、カレンとハリーの対話のうちで、彼女の好きだったジョニ・ミッチェルのことが話題になり、それで彼は新盤CDをプレゼントに用意したのだと、お話がつながっています。でもそれは、結果としてあまりにも深く、彼女の心の傷をなぞるメロディになったのでした。
半裸のミアが金のブレスレットを得意そうにまとっている映像、これは「事実」なのか、カレンの妄想と想像の産物なのか、よくわからないシーンが出てきます。高価なプレゼントと引き換えに、若い肉体を夫ハリーが頂いている、まあその後の展開からすると、そこまではいかなかったのでしょう。彼女は涙を拭い、平静を装って、夫とふたりの子と、外食に出かけます。子供たちの「出かける」準備が予想外に早かったのを驚いたふりをしながら。
さて、このハリーとカレンの夫婦は何歳くらいなのでしょうか。クリスマス学芸会に出る子供らのことを考えれば、まだ五〇代前に思えるのですが、見かけは五〇代後半の雰囲気です。その辺は曖昧になっています。
ともあれ、クリスマス合同学芸会・「キリスト生誕劇」での海老役で子どもたちが出た後、帰り支度で、カレンははっきりと夫を問い詰めます。「どういう関係なの?」「あれはセックスの代償?それとももっと深いもので?」、「夫がほかの女性にこっそり高価なプレゼントをする、それで妻はどう振る舞えばいいの?」バレバレのハリーは、ひたすら口ごもり、首を振るしかありません。「それで、これからどうするつもり?」「何もなかったように、装って家族を続けるのかしら?」、カレンは相当に思いつめています。「悪かった……」、ハリーには、一時のアバンチュールを楽しむ以上の思いはなく、ここでおおごとになってしまうのは何としても避けたい、でも言い訳はできない、ただひたすらそこにすがっています。舞台裏から出てきた子らに、「さあ、家に帰りましょう、パパとね」と声をかけ、カレンは勝ち気に引っ張っていきます。
ことはクリスマスから一ヶ月後にまで引きずります。空港でのさまざまな再会と出会いの人間模様というエピローグの中で、カレンは子どもたちと夫を出迎えるのです。さすれば、ハリーはこの間一人で国外に行っていたことになります。「仕事」の出張だったのか、「冷却期間」で一人旅をしていたのか、その辺は一切説明ありません。ただ、この再会で、二人の関係がなんとなく元に戻ったかのような、なにごともなかったかのような、そういった曖昧な描き方で、お話しを閉じるのは、作者たちの深謀なのでしょう。世の夫婦家族なんてそんなものなのだよ、と。
この、かなり痛い、重いエピソードにちょっとケチをつけるとしたら、ハリーとカレン家族と、ミアとの「地理的関係」です。一家はワンズワースの通りに住んでいる、それはカレンの兄である宰相デヴィッド(Hugh Grant)の言葉から示されているので、思いを寄せるナタリー(Martine McCutcheon)の住まいと、カレンの家は同じ通りだ、と理解しているのです。そこでクリスマスイブ、ワンズワースの通り沿いにデヴィッドは一軒一軒訪ねて回る、するとそのうちの一軒にはミアがいて、かなりセクシーな服装で「ナタリーはお隣よ」とこたえる展開です。つまり、ミアとハリー・カレン一家は「ご近所」となるわけですな。実際、一家とナタリーの家族とは、合同学芸会で一緒する結末になるのです。
さあ、そうすればかなりやばい関係ですね。物語では、あくまで社長と秘書の関係、そこで社内で、また会社のクリスマスパーティで危ないことになっていく、そういう持ってきようなのですが、そこに留まらないじゃないですか。ご近所同士なんですよ。でも、そこは説明なしでした、これは突っ込みどころですね。
ボーイフレンドのジェイミー(Colin Firth)を裏切り、こともあろうにその弟と通じていた彼女、体調不良を装ってベッドに留まりながら、彼が結婚式に出かけていた隙に弟を連れ込み、さあこれからというところにジェイミーが戻ってきたという最悪の展開、具体的な描写はありませんが、「コンドームがあったわ、彼が戻る前に一発」というえげつないセリフを語らせます。それをジェイミーは聞いてしまうわけで、これは演じる立場(Sienna Guillory)ではかなりのヒールになってしまいますね。
他方、老いぼれロックシンガービリー(Bill Nighy)の、色気丸出しのパフォーマンスやセリフの数々は、これもかなりえげつなく、もはや老醜に近く、ひたすら笑いをとるにあてられていまして、「愛と性」を語るにはふさわしいエピソードでもありません。ただ、彼がクリスマスイブを過ごす最高の相手というのが、長年マネージャーを務めてきた中年デブのジョー(Gregor Fisher)だったというオチ、これはなかなか心に滲みるところです。「俺がいちばん愛していたのは、結局お前だったよ、今夜気がついた」、それは愛とか性とかの感情と関係を越えた、人間同士のつながりそのものということでしょう。裏を返せば、ある意味寂しい中年男二人なのですが。不器用にハグし合ったのち、二人で酒を飲み、ポルノビデオを見るというイブとして。
終わりに、「愛と性」とは切り離せない、「結婚式と葬式」について語りましょう。人の誕生を重視すれば、これに「生誕式」というのも加えたいところですが、そういうのはないので、まあ月並みには「誕生日」でしょう。お話しをつくりやすいのは否定できなくても、これらに対し、リチャードカーティスとロジャーミッチェル、マイクニューエルらがことさらのつよい関心とこだわりを持っているのは明白です。『ノッティングヒル』では、前半のヤマが妹ハニーの誕生日パーティであり、エピローグはウィリアムとアナの野外結婚披露パーティから展開します。なにより、1994年の、リチャードカーティス脚本・マイクニューエル監督『フォーウェディング』(
Four Weddings and a Funeral)は、結婚式と葬式そのものが主題です。スコットランドでの結婚式後の大パーティで、大ノリだったガレス(Simon Callow)は騒ぎすぎ、発作を起こして倒れ、そのまま息絶えてしまい、こんどは彼の葬式の描写になるという展開でした。ゲイのパートナーのマシュー(John Hannah)の、心にしみる弔辞、と言うより絶望的な悲しみと別れの言葉が述べられました。
『ラブアクチュアリー』でも、一方ではピーターとジュリエットの結婚式と披露パーティが詳しく描かれ、他方では妻を失ったダニエル(Liam Neeson)の、葬儀での言葉が重要な位置を占め、しかもこれらが連続して描かれるのです。かなり思い切った物語展開ですね。妻の葬儀で挨拶に立ったダニエルは、彼女の遺言にもとづき、ベイシティローラーズの「バイバイベイビー」を流して、涙をこらえながら締めくくるのです。棺を担ぐ彼の姿、それに被さって会場に響く同じ曲が、こんどはピーターとジュリエットの結婚披露パーティで流され、二人は抱き合って踊っています。ビートルズのLove Is All You Needを織り込んだ、演出満点の二人の教会結婚式のシーンはその前にあるので、結婚から葬儀、これらを連続的にとらえるという、かなり大胆な物語構成ですね。
愛と性、生と死、こういった人生の「区切り」と喜びと悲しみと、恍惚と苦悩と、また快楽と苦痛と、それらは常につながっており、表と裏なのだ、そんなことは誰しもが常々意識させられる現実、この世の実相なのですが、あらためて正面から描くとなれば、決して容易なことではありません。ある意味、BCRとジョニミッチェルの音楽に、作者たちは触発されるもの大だったのでしょうか。出会いと別れという、多くの物語に共通するモチーフとともに。
次へ
