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三井の、なんのたしにもならないお話 その五十三

(2020.5オリジナル作成)



 
「ハリソンフォード似の間男」 −『ハノーバー・ストリート』


 映画の主題、描かれているものの意図や構図を、あまりに狭くかつ「主観的」にとらえるのは、決して妥当な見方ではないし、作り手の意思を犯すことにもなるでしょう。ひところ、「映画批評」と称して、そうした「裏読み」を極端に広げ、どう考えても映画の主題や内容をまったく外れたことを堂々主張し、「どうだ!」とふんぞり返るような論調が蔓延していた時代もありましたが、さすがに近年は聞かなくなりました。相手されなくなったようです。
 
 かといって、映画がひとつの表現手段であるとともに、客観的な創造物として現実の社会の一部を構成してくる以上、それをどのように理解し、解釈するのかについては、依然相当の余地があることも否定できません。「作り手」の意図や表現目的はさておき、「観客」の側の視点、受け止め方にはひとさまざまなものがあって当然でもあります。
 
 『ノッティングヒル』などの映画に、「英国対米国」の構図を持ち込むというのも、そうした意味で、無理線という批判の余地はありましょう。しかしまた、作者たちにそういった構図のなかでの人間同士のすれ違いや感情のもつれ、物語の波乱などを描き出そうという意図がなかったとも言い切れません。この構図は200年以上の歴史のなかでの避けがたい現実でもあるのですから。
 

 たとえば、英国男性ウィリアム・タッカーと、米国のスター、アナ・スコットの関係というだけではありません。あくまでセリフのなかだけで語られる、ウィリアムの前妻の存在、結婚の破綻という大きな人生の波乱にも、「読める」ところが見え隠れしています。彼女は「ハリソンフォード似の」男と駆け落ちしてしまったと、彼の口から語られます。その苦い経験、手痛い打撃が、ウィリアムを恋愛や結婚に対し臆病にさせているのです。

 「ハリソン・フォード似」と聞いて、思いつくお話はないでしょうか。1979年、つまりそれから20年前のアメリカ映画『ハノーバー・ストリート』(Hanover Street)じゃないですか。この中で、若き日のハリソン・フォードが演じるデビッド・ハロラン中尉は、第二次大戦まっただ中の英国に駐屯する米軍の機長で、ドイツ占領下フランスへの危険な爆撃行に従事していますが、休みの日、ロンドンの街角で出会った英国人女性、軍病院にいま勤務しているマーガレットと恋に落ちてしまいます。しかし彼女は人妻、小学生の娘もいるのです。さらにびっくりなのは、マーガレットの夫ポール・セリンジャー大尉は英軍の情報将校で、敵中の諜報活動という危険な任務遂行のために、ハロランの操縦する機でフランスに降下するという、とんでもない巡り合わせになります。しかも、闇夜ながら対空砲火を浴びたB25 機は炎上、直撃弾でほとんどが即死、生き残って脱出できたのはセリンジャーとハロランだけになり、二人は相携え、地上で危険極まりない敵中突破を試みる運命となります。
 もう、確率的に「ありえねー」数百乗のお話ですが、負傷していたポールはハロランだけを逃がそうとするも、彼は全力でポールを助け、危機一髪で二人とも生還帰還を遂げられるのです。もっとあり得ないお話ですが、この危険な逃避行のなかで、ハロランは自分とともにいる、命をかけた同士の相手が、マーガレットの夫であることに気がつきます。「それでもなお」、彼の命を救い、生還し、そしてロンドンの軍病院でマーガレットに再会する、それは二人の別れでもあった、という結末になる次第。
 
 元の鞘に収まるのなら、あの二人の「燃える恋愛」はなんだったんだ、という疑問は当然起こります。映画では二人がなぜかひかれあうことになってしまう、その上、折から激しい爆撃を受け、ロンドンの街は炎上、死にそうになるなかで抱き合ってしまう、という強引な展開ですが、彼女に強く惹かれたハロランの求めで、マーガレットは密会に応じ、情事を重ねるのです。かといって、ハリウッド伝統的に、夫が妻を、家族を顧みない、そういうことはない、厳しい軍務のなかでもあくまで家族思いのポールなのですね。そして妻の気持ちの変化に気づいてしまう、その複雑な心情を抱いたまま、決死の降下潜入行に志願するのです。

 ずいぶん気の毒なポール、身勝手なマーガレット、既存の関係や仕組み無視、自分の感情だけで突っ走るハロランという構図、まああれもこれも戦争だから、明日のいのちも知れない極限状況の導く刹那的な心理ということなのでしょうか。この三角関係のなかで、命がけの敵中逃避行、恋敵同士の運命共同体化、ハッピーエンド的な終わりの苦い結果。ストーリーからはなんともはやの映画です。冒頭の、戦時下ロンドンの街頭の場面、バス待ち行列と駆け引き、一転してのすさまじい爆撃と火災、燃え、崩れる建物、爆音と悲鳴、死体の山、その中でつよく抱き合う二人と、その辺の描写はリアリティ満点で、つかみは十分なのですが。

 

 ハリソン・フォードのデビッド・ハロラン中尉の相手、マーガレットはレスリー・アン・ダウン、ポール・セリンジャー大尉はクリストファー・プラマーが演じます。その時彼女は25歳、軍服姿が板について、確かに色気は十分、若い男はのぼせ上がりそうな印象を醸し出します。ですから、歳より上の人妻役に収まっていますが、クリストファー・プラマーはもう50歳なので、どうもかなりの年上夫という印象は拭えません。それも映画の設定のうちだったのでしょうか。
 彼自身はカナダ生まれで、多くのハリウッド映画にも出ていますし、「英国人」を代表するとするのも無理はあります。ロンドン生まれの彼女とはだいぶ違います。ただ、『空軍大戦略』(1969)で、主役格の英空軍戦闘機乗りハーヴェイを演じ、『ワーテルロー』(1970)では英軍を率いるウェリントン将軍を演じていますから、まあ英国人でありでしょう。
(この映画にはヒュー・フレイザーも出ているということ、確認をしていて知りました。気がつきませんでした。『ポワロ』シリーズでの、ポワロの右腕・へースチングス大尉役で世界に知られましたが、ここでも爆撃隊の機長の一人、でもちょい役で全然目立ちません)

 映画は純粋アメリカ映画、コロムビア映画の製作であり、監督は、『カプリコン・1』『2010年』『エンドオブデイズ』などを手がけ、アメリカらしい冒険活劇物で知られるピーター・ハイアムズ、ここでは脚本も書いています。前半は不倫の愛を描くメロドラマ、後半は敵中突破の大活劇、「一粒で二度おいしい」映画などとも揶揄されますが、この無茶ぶりをジョン・バリーの哀愁に満ちたタイトルミュージックがカバーしている、しかしまた、いかにもハリウッドという設定だから、『ノッティングヒル』で揶揄されているのかも。

 なお、戦時下のロンドンの街角場面など、大部分ハリウッドのスタジオでのオープンセットで撮った印象、朱塗りのダブルデッカーバスとクラシックカーを走らせれば、それらしく写るという観は否めません。ちなみに式で言えば、ロンドンに「ハノーバーストリート」という地名は少なく、LondonA-Z StreetFinderで探すと、都心部リージェントストリートから曲がったところにあるくらいです。実はその先がハノーバースクェアで、こちらは観光名所でもあり、よく知られています。JAL、日本人観光客向けショップなどもありました。「ありそうな名前」で架空の物にした、と言う意図が現れていますね。もちろん「ハノーバーストリート駅」はありません。
 
 「ちなみに」のちなみで言えば、この映画の影の主役は米軍のB-25"Billy Mitchell"爆撃機です(ビリー・ミッチェルは空軍の重要性をいち早く説き続けた軍人で、その伝記も、映画『軍法会議』The Court-Martial of Billy Mitchell(1955)になり、ゲーリー・クーパーが主役を演じています)。ハロラン中尉はこの爆撃隊の一員で、なんども出撃します。B-25を主役にした映画はそんなに多くはなく、ほかには"Catch-22"くらいでしょうか。どだい、欧州戦線での戦略爆撃の主役は米軍のB-17やB-24、英軍のAvro Lancasterなので、双発小型のB-25は戦略爆撃に用いられたことはないともされています。その意味、セリンジャー大尉を深夜密かに降下させるといった場面が本業だったのかも。

 ただ、B-25は日本には忘れられない機体です。1942年4月、太平洋上の空母ホーネットを離艦した16機のB-25「ドゥーリトル爆撃隊」が東京を空襲、その後中国大陸に向かう片道行で、与えた損害は軽微でした。けれども日本軍には一大衝撃で、米軍の反撃能力をいまだ侮れないと痛感、ために同年6月のミッドウェー海戦を仕掛け、これに大敗し、太平洋での戦局の一挙逆転を招いた、とされるわけです。「イライザの親父」は侮れません(単なるジョーク)。

 このドゥーリトル爆撃隊のお話は、映画『東京上空三十秒』(Thirty Seconds over Tokyo, 1944)というのになりました。もちろん、戦中の戦意高揚映画で、大部分はそのために、出撃時に撮影された記録映像を用いているようです。当たり前ですが、日本で公開されたのは戦後だいぶ経ってからのことでした(私は見てないのですが)。

 映画としては、戦後30年以上も経っての『ハノーバー・ストリート』に実機のB-25が登場、離着陸や飛行シーンも含めて多々写されますので、そこは貴重でしょう。もっとも、いまではCGのおかげで、実機が一機も一度も登場しない「第二次大戦空戦もの」映画などというのも堂々登場する時代ですので、こんなことをことさら取り上げても、誰も感心もしないかも。私はこうした「CGだけで作った」映画というのは基本アニメだと理解します。「アニメらしく」描くか、「本物のように」見せるかだけの違いで。

 
 ともかく、平たく言えば「英国人の男が妻を寝取られる」映画なのです。最後に元の鞘に収まるのですが、「ハリソン・フォード似」じゃなく、「ハリソンフォードに」妻をもってかれる夫という意味では、ウィリアムの境遇と同じじゃないですか。そちらでは米国人とは言っていないけれど。これは絶対、『ノッティングヒル』の作者たちが意識していますね。
 ただ、20年のちのことですから、ウィリアムから前妻を奪ったのは「インディージョーンズ似」とも紹介されますけど。まあ、ハロラン中尉似では殆ど誰も理解できないでしょう。

 
 このお話、続く





 

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