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三井の、なんのたしにもならないお話 その五十二

(2019.10オリジナル作成)



 
 完全リタイアの中での回想録 


5.スポーツダメです、いささかのコンプレックス


 おつむの方、またメンタルやアートなどの類いも何もなく、自ら「無芸小食」と称してきた私ですが、それ以上にフィジカルの方は得意ではありません。
 
 要するに、非スポーツマンなのです。何にもできない、やったことないわけではなく、「一通り」は経験あるのですが、どれもたいしたことなく、それゆえ得意・特技とはしません。
 
 昔の少年らしく、それこそ軟式野球、それに近いソフトボールは経験あり、です。昔々の駒沢は草っ原と砂漠でしたから、その一隅で悪友連中で遊んだことは少なからず記憶されています(ちなみに私は左打ち左投げです。そのことはまたいつか)。その後ももちろん、「学校体育」で、球技の類いも一通りやらされましたが、「やらされた」止まりでした。部活に入った経験なしです。
(中学の時、「高飛び」ができたことがあり、運動会でのクラス代表になりました。ただこれも、運動能力や筋力が優れていたわけじゃなく、体重の割に当時脚力があったこと、ベリーロールのような思い切ったフォームをひとより先に身につけられたことのみです。それも決勝では日頃の練習不足を露呈し、踏み切りが合わず、失格で終わりました記憶)

 「中高年の人気スポーツ」、ゴルフ、テニス、やったこと自体ありません。そんな機会もなかったですし。


 「やっただけ」のうちでも比較的好きだったのは、卓球でした。あまり体力筋力も要さないし、場所も道具もいりませんから。私の記憶では、確か父が卓球台を買ってくれ、実家の庭で結構遊んだ経験ありです。のちに、大学一年の「シーズンスポーツ」で、カナヅチは全員水泳選択が義務になるはずのところ、ごまかして卓球にし、けっこうやりました。真夏の体育館を閉め切っての球技は、汗だらだらでしたが、以来暑さにはつよい方になりました。
 ただ、これもずっとやっていません。マイラケットもとっくにどっかにいってしまったでしょうか。それに、昨年たまたまお手伝いした調査で、ニッタクに訪問見学する機会もありましたが、いまは「ペンホルダー」なんていうスタイルは絶滅したのだそうです。

 

 
 このことからもわかるように、私は基本泳げません。言い訳をすれば、貧しい教育環境だった小学校、中学校とも水泳プールなんかなかったのです。一時は校舎が足りずプレハブで授業、それどころか二部制なんていう状況でしたから、そんな贅沢ができるわけはありませんでした。高校に入るとさすがにプールはあり、体育授業で水泳というのもありました。私のごときカナヅチ組は、一から教えられ、一応浮いて、前に進むくらいにはなれましたが、それ止まりでした。夏休みに中学時代の悪友たちと、地元の体育大学のプールに行った経験もあるのですが、足が着かないところで一瞬恐怖を覚えた記憶もあるくらいで、特に上達したいという願望もなしに終わりました。
 多くの家族では、親が子にスポーツを仕込む、特に水泳など、海やプールに連れて行って、というものらしいのですが、そういう経験はゼロです。親に連れられてどこかに行ったという記憶自体ほとんどないし、だいたい山国育ちの父は泳ぎは得意じゃなかったろうし、です。

 あと、私が前前任校にいた80年代90年代は、「猫も杓子もスキー」の時代だったので、まったく初心者だった私も学生諸君にお付き合いし、雪山のスキー場で何度も「春合宿」をやり、見よう見まねでなんとか滑れるようになりました。でも、それからまた20年も過ぎてしまい、以来全然やらないので、今更かなり無理、骨折の恐れありでしょうね。
 いまはスキーブームも終わり、若者はゼニもなく、各地のスキー場は大ピンチのようです。インバウンド外国人だけが頼みの綱だそうで。

 
 スキーとは違いますが、まったく何にもできない、というわけでもないと自称できるのは、山歩きです。ま、足を前に出して歩いて行けばいいのですから、何の技術も要りませんしね。若かりしころは結構あちらこちらと歩きました。生まれ故郷であり、のちに父が山荘を建てたあたりは正真正銘の山国ですから、かなりあちこちへ、そこからも行きました(だいたいその山荘というのも山の中腹なので、車のない私は駅前に買い出しに行き、バスで麓のバス停まで戻り、そっから荷を背負って直登だったのです)。記録できるのは、八ヶ岳(峰の大部分)、南アルプスの白鳳三山、甲武信ヶ岳、北アルプス常念岳、尾瀬至仏山などなどです。学友を誘って登ったりしました。学部合宿で、大先生を無理に妙高山頂上に連れて行ってしまった記憶もあります。父の山荘の裏山であった入笠山には、いろいろなルートで結構登りました。道なき藪をよじ登ったりもして。

 結婚した妻はもともと山好きでもあったので、一緒にあちこち遠征しました。大雪山旭岳、東北栗駒山、伯耆大山、伊豆天城山、信州霧ヶ峰など記憶されます。丹沢や箱根、三浦富士くらいは数にも入らないでしょう。欧州でもスイスアルプスを歩き、英国湖水地方の峰をたどったりもしました。
 
 断崖絶壁をよじ登るとか、厳冬の山を極めるなどはとてもとてもできませんが、このくらいならば、まあ足が人並みに動けば、そして人並みの体力あれば、可能でしょう。そして、山に限らず町中でも、歩くのは好きだったのです。出張でも何でも、訪れたところはまずあちこち行ってみる、それが楽しみでした。

 ところが、近年その足がダメになってきてしまったのがわかってきました。誠に情けないことです。使わなくて弱ってきたというより、ご多分に漏れず膝がいけないのです。そこまで老いぼれてしまったのか、という絶望感とともに、焦りも感じます。ですから、もう山には登れないかも知れないが、街歩きくらいはと、無理してでも歩こうとします。
 一年前、たまたま金沢に行く機会を得て、懸命に歩き回りました。金沢は何度も訪れたところですが、それだけに、あそこにも、ここにも「まだ行かれる」と確かめたかった感です。

 

 
 そうした、「まだ歩ける」を実感確信するためもあって、実はえらいことを始めているのです。いや、人並みには全然たいしたことじゃないのですが、人生70年以上生きていて、「生まれて初めて」自分から運動のまねごとを始めたのです。学校の部活でも、勤務先や社会人の「運動部」でもやったことのない私が、です。

 なにたいしたことじゃありません。完全リタイアのタイミングに合わせるように、近場に新しくスポーツジムがオープンしたのです。もともと長年営業の大型スーパー店舗だったのが競争に敗れ、老朽化もあって取り壊し閉店となる、その跡地の半分をマンションに売り、残りの土地に再度店を建てる、そこにスポーツジムが入居するというビッグニュースでした。もちろんいまのご時世ですから、もうあちこちにジムがあり、厳しい競争を展開しています。しかし、ここは新しいだけじゃなく、なんと温泉付が売りなのです。
 温泉といったって、横浜の街中に「源泉掛け流し」の湯が出るわけはなく、地下深くから湧出する「色つきの水」を沸かしているのではありますが、もともとここのそばには温泉付を売りにした公衆浴場もありました。そちらは廃業してしまいましたが、水脈はあるのでしょう。
 
 というわけで、このスポーツジムがオープンした、本年7月から、私は会員となって通っているのです。
 
 スポーツジム通いといっても、このようにスポーツやらない歴70年の私が今更、筋トレだ、エクササイズだ、ストレッチだ、ホットヨガだなどとやる気にはなれないし、まるでついて行けず、身体も動かず、恥ずかしいだけでしょう。ですから、この3ヶ月、日々やっているのは、ランニングマシンで歩く、バイシクルをこぐ、それに尽きます。言い訳をすれば、ともかくダメになってきてしまった足をなんとかよみがえらせたい、街中歩き回り位したい、その願望です。でも、膝を使うマシンはまだダメです。とたんに堪えます。
 
 で、結局は想定通り、温泉につかって養生するにとどまります。ただ、これも想定通りなのですが、ジムで身体を動かしもせず、もっぱら温泉につかりに来ているじいさん連中もかなり目立ちます。ジムの会則で、そういうのは駄目ですとはなってない、「温泉もありますよ」をうたい文句にしているくらいですから、会費を払ってくれればいい、というわけでしょう。前記のように、私は申し訳のごとく、身体を動かしてから、汗を流しに入浴しているはずですが。
 私の冴えないダジャレは、「真珠湾攻撃」です。すなわち、「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍とセントウ状態に入れり」、と。もっぱらセントウとおんなじ、というわけで。
 私は幼少のころから、銭湯に入ったことはほとんどないので、まあこれも体験ではあります。ただ、私は温泉で長湯するというようなのが趣味ではなく、そこにひたすらこだわっているつもりはありません。そうでない方も多いようですが。
 
☆セントウ体制のじいさま方らの中には、浴室からあがったそのまんまで、ロッカールームにまで出てこられる人も少なくないんですな。浴室入り口にはちゃんとした脱衣場があり、そこの棚に脱いだ衣類などおけるのですが。なんか勘違いしているんじゃないのと言いたくなりますが、よっぽど貴重なもの、高価な衣服下着など身につけておられ、脱衣場なんかにおいておけるか、ロッカーに全部しまい込むんだよとお考えなのか。ま、ロッカールームを堂々、○○を振りながら闊歩するというのも当たり前の光景化しております。じいさま方だけじゃなく、若い人でもいるんで、それがもう世の常識化しているのかも。



 
 「セントウ状態」に入ると、今更のように私の原点的コンプレックスを実感させられます。早い話が、私の身体は「人並み」じゃないのです。それでも今でこそ、体重60kgをずっと超えているので、人並みに近いと思い込みもできるのですが、いまから40年以上前には、体重は50kgをずっと下回っていました。身長は変わらない(当たり前)ので、どんな体型だったか、誰でも想像がつきましょう。肋骨がうき出て、手足も細くて、「ほとんど死にそう」な姿だったのです、掛け値なしに。
 こんな貧弱そのものの身体で生きてきたことに、コンプレックスを感じない方がおかしいでしょう。そんなガリガリの身体で、またしょっちゅう体調を崩していて、胃痛やら痛めつけられていました。もちろんそれなのに、喫煙飲酒、自ら痛めつけており、また当時食も細かったのです。不規則というよりめちゃめちゃな暮らし、ともかくいまにして思えば、「よく生きていたよ」です。
 
 それは私だって「人並みの身体」に憧れもあったし、羨ましくもありました。筋骨隆々、厚い胸板、太い腕、がっちりした脚、それらの真逆のわが貧相な身体に、恥ずかしい以上のものがありました。海やプールに行かない、銭湯や温泉に行かないのも、それもあったでしょう。
 
 転機を迎えたのは、結婚し、一応世帯を構え、また定職を得て、暮らしも安定してきたこと、そして煙草をやめたことでした。以来、徐々に体重も増え、体力もつき、病気もしなくなりました(もっとも、こんなひどいからだと暮らしでも、大病をしたことはないのです。これまで72年の人生で、「入院」の経験はありません)。それでも新しい暮らしと仕事の毎日から、体調を崩し、医者にかかったこともありますが、その際医者は私のあまりの貧弱な身体から「結核の疑い」を診断され、大病院に行って検診を受けるようにされました。もちろん疑いは晴れたのですが。
 
 後々、50代くらいになると「中年太り」の季節がやってきます。ただ、私の場合それはもっぱら腹に出て、ますますみっともないくらいの体型になりました。服も次々着られなくなり、体重も60kg台後半に突入しました。でも、腹以外はあまり変わらなかったので、まったくもってみっともないどころじゃない、漫画的姿に至ったのです。
 
 それから若干の逆リバウンドも経て、いまの姿にほぼ落ち着いております。健康になったのではなく、徐々にあちこち壊れ、迫り来る慢性的危機からただ目をそらしているだけですが、まあ今更ながら「裸の自分」の姿を突きつけられると、情けない、恥ずかしい人生を思い起こされるのみです。
 先月には体調も崩し、寝込んで、他人様にご迷惑をかける始末になってしまいました。「ジム通い」も効果乏しいとせねばなりません。今回は、医者から「誤嚥性肺炎」の疑いをかけられましたが、呼吸器系の医院でレントゲンを撮って、疑いは晴れました。
 
 
 てな訳で、なにより私の薄い胸、その真ん中にはくぼみがあるのです。これは物心ついてから70年間ずっとそうなんで、どうにもなりません。他人様の身体と比べると、そんなひとないのですな(男性に限りますが)。これだけでもみっともないばかりですが、見えないところもひどいもので、いちばんは歯です。若かりしころのひどい暮らしもあって、歯はボロボロになり、その後ダメになったのも含め、私の口の中は大部分人工物なのです。10年近く前、義歯を宣告された際には、さすがの私も落ち込みました。もう30年以上お世話になっている歯科で、「いろいろいじってもここはもうダメです、義歯に置き換えるしかありません」と告げられ、まあ一種の身体障害じゃないのとがっくりしました。でも、仕方ないので、「部分入れ歯」を作ってもらいました。
 この歯科には30年通い、近年は月一の診察に通っています。それもあってか、これ以上の崩壊はなんとか食い止めております。
 
 かようにうちもそとも、どうにもこうにも状態なので、まさしく「裸の自分」をさらけ出すなんざ、恥の上塗りにしかならないのですが、70過ぎて今更みっともないもないものでしょうと居直り、セントウ状態に臨んでいる毎日です。
 
 
 肉体がこんななら、手足の代わりにクルマ、それが世間の相場でしょうが、私はクルマ運転できません。免許とったことありません、です。そちらの事情はまた別途。




食べるに困ったわけじゃありません


 こんな貧弱な身体であったのは、別に小食であったわけではありません。もちろん「喰うに事欠いた若い頃」などと誤解されたら、それこそあの世で親に詫びる言葉もありません。
 ただ、10代あたりは食が細かったとは言えましょう。偏食、好き嫌いが激しかったわけではないものの、食べることにあまり興味なかったし、美食家でも大食家でもありませんでした。貧血気味でもありました。20代では、誠に「不規則極まりない」生活もあって、身体を痛めていた可能性大です。まあ、妹に言わせると、「家ですき焼きという夕べになると、なぜかお兄ちゃんが帰っていた」というのですが、それは完全なデマですな。あり得ないことでもあります。


 同じ一家で、父は背は低かったのですが、かなり太めでした。太っているとは言えないでしょうが、ずんぐりで私とは対照的な体型です。母は中肉中背の方でしょうが、体調を崩してかなり痩せていたこともありました。一方兄はずっと背が高く、若い頃からしっかりとした体型で、これは兄の子にも受け継がれて、やはり背が高いのです。妹は背は伸びませんでしたが、ピアノ専業という体力勝負を続けてきたので、体つきはがっちりしているようです。
 ですから私だけ、背も高くはなく、ガリ痩せでした。



 しかし、職について生活も安定した30代40代以降は、結構食べたと思います。海外在住や旅行となると、食べなきゃ損と頑張りました。記憶鮮明なのは、ブリュッセルに行くたび、レストラン街でムール貝のワイン蒸しを注文、あの、皿や鍋というよりバケツのような入れ物いっぱいのを「欧米人に負けてなるものか」と頑張って完食しておりました。アムステルダムのホテルのレストランで、壁に貼られたステーキの大きさ記録に挑んだこともありました。記録には届きませんでしたけれどね。アイルランドゴールウェイでは、「ゴールウェイオイスター」という特産のを味わい、記憶に残っています。丸いかたちなのです。

 ロンドン在住ののべ2年半の間には、さまざまな料理を楽しみました。「英国料理ほどまずいものはない」とも言われますが、そうじゃなくて、世界の味覚を楽しめばいいのです。フレンチ、イタリアン、インド、ロシア、中華などなど。ロンドンの中華街にはよく行きました。欧州一人旅しても、せっかくのご当地料理にチャレンジしました。また、ロンドンでは牛肉の安さに感激し、よく買ってきて住まいでステーキを焼いていました。それで後々、「狂牛病の恐れ」に認定される条件に該当、「輸血禁止」の立場に入れられてしまいました。自家製ビールも造り、ホームパーティを開きました。いや、違法じゃないですよ。

 うえのブリュッセルのムール貝とともに記憶されているのは、コペンハーゲンの中華に一人で入ったときのことです。「spring role」というのを注文したら、まあ我々の常識の10倍近い大きさの、オムレツのお化けのような巨大なものが皿にのって出てきました。さすがに食べきれませんでしたね。イタリアのコモ湖畔のレストランで昼食をとったら、出るわ出るわで、日が傾くころまで続き、その支払いにも苦労しました。手持ちのリラが底をつく、しかしクレジットカードは使えないというので。イタリアはやはり気をつけませんと。


 ロンドン滞在中に出会ったのが、住まいの近くの「マレー料理」というので、これは未経験とチャレンジしましたが、何か日本のおでん種みたいな練り物が煮込んであるとかそういった代物で、感動しませんでしたですね。
 ところがその後、マレーシアには何度も行っておりますが、こんなのには一度としてお目にかかったことがありません。どういうことなのか、いまだ不明です。

 アジアなどでももちろん食は楽しみの一つです。韓国ソウルでは、「宮廷料理」も食べに行きました。タイでは道ばたの安い飲食店にも入りましたが、結構いけました。オーストラリアではオージービーフのしゃぶしゃぶも味わいました。


 30代から50代、こうして世界の味覚を楽しみ、酒も飲み、若い頃に比べればかなりの「安定成長路線」となりました。それには年齢のせいもありましょうが、煙草をやめたためでもありそうです。間違いなく、これは健康のもとであり、食と酒を味わえるきっかけにもなりました。それがどうしてであったのか、実はいまも鮮明に覚えているのです。ただ、かなり恥ずかしい理由でもあるので、いまもひとには秘しております。まあ、煙草はやめた方がいいと、ひとにも勧めますね。


 というわけで、食べて太ってもこれ止まりですから、もうどうにもならない現実です。



外見でごまかす安直な知恵


 「食」のついでには「衣」です。

 この情けない貧弱な身体をいくらかでも「装う」という潜在意識からか、私は衣類を結構持っているのです。自分ではそんなつもりもなしにこれまで暮らしてきたのですが、いよいよ人生「総整理期」に入り、身辺を見直していくと、確かに衣類がかなり出てきます。通勤生活も終え、私用も含めて出かける機会が少なくなると、そんなに着るものは要らないのは間違いないし、クリーニングマークをつけたまま、一年過ぎてしまったものも出てきます。着る機会なく、歳月ばかり過ぎたという証拠です。「断捨離」という言葉は好きではありませんが、着ないもの要らないものを抱え込んだままの暮らしというのも、まちがいなく無駄ではあります。

 そんなになんで衣類を持っているんだとおのが行動を反省してみれば、かなりの程度、この身体を外見でごまかしたいという潜在意識に起因しているのを否定できないのですな。別に「オシャレ」とか、「ファッションマインド」とか、「贅沢・着道楽」といったものではありません。それゆえ、何か見かけのごまかしに貢献してもらえそうなものを見つければ、ついつい似たようなものも買い込んでしまう、という行動です。高いもの、高級なものはほとんどありません。20年近く前にはオーダーでスーツを造ったりもしたし、英国から帰国する際にはバーバリーやアクアスキュータムのコートを買って帰ったりもしました(私は背丈や体格の割に腕が長いので、こういった欧米製品は結構合うのです。ほかにもM&Sのジャケットやシャツなど買っております。ただ、安いスーパーの製品はトンデモでしたですね。ポケットの中が縫ってないとか、ボタンが糸どころか布地ごと取れるとか、文字通りの「安物」がいくらでもありました。他方で、バーバリーやアクアスキュータムのトレンチコートなどは健在ですが、ともかく重いことが老身にはこたえます。マッキントッシュの防水防寒コートなども)。でも、いまはほとんど着ることがないし、オーダーも遠い昔の話です。


 そういった潜在意識とは別に、30代ころまでの服はほとんどすでに捨てました。上記のように、「安定成長路線」に入ったので、みんな着られなくなってしまったのです。ということは、いまもある衣類は大部分40代以降に買ったものとなります。それをいまだ多く持っているというのは、確かに賢い生き方ではありません。トータルの購入費はそれほど高くはないはずですが。



 私の「外見ごまかし」衣類の代表的なものは、ダブルの上着です。いまはなぜか非常に少なくなり、ダブルのジャケットや既製のスーツなどまず店頭に見当たりませんが、20年くらい前までは結構あったと思いますね。ですから、その頃までに私が注文したスーツは基本ダブルです。こういったか細い身体は、むしろダブルを着ると、意外に様になるというのを発見したのでした。いまも大部分残っており、始末に悩んでおります。


 もう一つは、外見ごまかしにはあまり貢献しないものの、真夏用の上着です。私は劣等感の裏返しか、真夏にシャツだけというのは、少なくともフォーマルなかたちではないという信念をずっと貫いてきております(それに、財布など入れるポケットも必要です)。つまり、半袖の上着です。これも大昔には「サファリジャケット」「省エネルック」などと称して結構世に出ていたものの、現在は完全に絶滅危惧種です。どうなったかと見れば、世の中、真夏はせいぜいワイシャツ、そして長袖の上着を抱えて歩くという珍風景で、私には理解ができません。さすがにネクタイ着用はいまどきないですが。

 ワイシャツというのは本来下着でしょう、という私なりのへそ曲がり的「信念」もあります。ですから、日本の真夏には東南アジアに学ぶべしと思うのですが、なぜかそっちには向かわず、それどころか、「真夏に半袖シャツもおかしい」などと言い張る人たちも出てくる始末です。ことさらに長袖をまとい、さらに腕まくりするというのは奇妙に思わないんでしょうか(花森安治流には「腕まくりして喧嘩かい」というところ)。
 ていうわけで、絶滅危惧種保護として、半袖のジャケットを見つけ次第に買い込んできました。それのスーツというのもあったと記憶しますが、うえの「安定成長路線」のおかげか、もう私の手元にはありません。ですから、ジャケットだけででも、のべにして20枚くらいいまもあると思われます。もうそんなに要らないですよね。

 まあ、この半袖ジャケット持参で、代表的東南アジアの暑い国に行ったら、現地の方々はほどんど、背広上下か、長袖上着か、という不可解な経験もしましたけどね。それでも私は信念を貫いております。

 でも、家の中でこんなのを着ているわけじゃないし、近所に出るのに要るのも数枚なので、いよいよ過剰在庫そのものです。夏に着れば、たっぷり汗を吸い込んでいるので、洗わずに仕舞うわけにも行きません。もう捨てるしかないか。自分としては愛着と未練たっぷりなのですが。


 というわけで、もう断捨離の覚悟を決めませんと、箪笥やクローゼットや棚を占領する衣類の山に押しつぶされそうです。もちろんクリーニング代など無駄な出費の筆頭になりますし。





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