idle talk40

三井の、なんのたしにもならないお話 その四十

(2015.02オリジナル作成)



 
 
ミャンマーという国に行ってきました

 
 
 自分の領域の一つは欧州とEUとしてきた私には、アジアへの行き来は、ただの旅行か、会議か、あるいは偶々の機会という程度であったゆえ、ミャンマー行ももちろん初めてのことです(タイとマレーシア、シンガポールにはそれぞれ二度行ってますが)。

 
 実に興味深い、面白い経験をさせてもらえました。

 
 そのすべてをきちんと記すのには時間の余裕もないので、記憶に残っていることだけ、断片的にあげていってみましょう。

 

 
「ビルマの竪琴」は遠く

 日本人の多くには、ミャンマー、旧国名ビルマの名が記憶に残っている理由の一つは、小説「ビルマの竪琴」(1948年)と、その映画化ゆえのことでしょう。

 
 そうは申しても、今回同行の方々には、ことさらに思い至ることもないようです。もうはるかな遠い過去の作品になってしまったのでしょう。背景となった第二次大戦と日本軍の英国領ビルマでの行動、インド侵攻をねらって失敗、悲惨を極めたインパール作戦とその後の転進敗残と潰滅の道、そしてその戦後を扱ったこの物語という設定は、70年前のことなのですから。

 
 しかし、あくまでもフィクションであった物語と、実際の現地とはそれこそ何のかかわりもないだろうという思いは、別の意味で裏切られました。

 
 宿舎にしていたヤンゴンのホテルのロビーには、毎朝演奏者が座り、竪琴と木琴の演奏を聴かせてくれるのです。その曲目も、「荒城の月」など日本の曲を多く取り入れ、いかにも日本人宿泊客を楽しませてくれる仕掛けでした。私には、ほんものの「ビルマの竪琴」を目の当たりにするだけで、感慨ひとしおであり、それだけでなく、これで日本の歌曲など演奏ができる、物語はまったくの空想の産物でもなかったのだ、そう実感させてくれただけでも貴重な経験の思いがしました。

 
 けれども、この演奏を楽しんだ同行の方々のほとんどが、「あれがほんもののビルマの竪琴なんだ!」「物語通りに日本の曲をこれで演奏できるんだ」とは感じなかったようです。私とはその意味、重ね合わされる記憶と経験というものはなかったのでしょう。エキゾチックな地元の楽器と演奏、それ以上の深読みの前提は共有されてはいませんでした。

 

 
 今ひとつは、最後の日程で寄った、ヤンゴン市内の繁華街、ボーヂョーアウンサンマーケットで見たものでした。翡翠や宝石やらを中心に並べる店が連なるここで、買いたいものもないし、怪しい客引きばかり寄ってくるし、私にはまったく不愉快な場所でしかなかったのですが(有料のトイレに寄ったら、みごとに金をごまかしてくれました、そんなことをするかなという思いを叶えてくれた、いやらしさ不愉快さだけでも貴重な経験だったと感じます、2ドルと引き替えに)、代わりに隣のデパートに入り、食品売り場での商品や値段などざっと眺めたくらいが収穫でした。そこから引き上げる途中、マーケット前の路上で、間違いなく日本映画「ビルマの竪琴」のDVDを並べているのを見たのです。同行の方々とバスに戻るところだったので、立ち止まって手に取るとか、買うとかできなかったのは残念でした。

 
 もちろん、海賊版でしょう。それにしても、ヤンゴンの真ん中で売られている「ビルマの竪琴」です。当然のことながら、これもほとんど日本人相手の商売なのだろうと思います。当のミャンマー人の方々が、この映画をどんな思いをいだいて見たのか、それは伺うすべもありませんでしたが。

 

 

 
 これをお読み頂いている方々も、肝心の「ビルマの竪琴」をご存じない可能性もあるので、少し説明をしましょう。原作は、竹山道雄が書いた小説で、半分「児童文学」的なものであったと記憶します。ビルマで終戦を迎えた日本軍井上部隊、その一員であった水島上等兵は英軍の要請で降伏を拒み抗戦する部隊の説得に向かい、そのまま戻らなかった、その後帰国する戦友達にあてられた水島の思いを伝える手紙を、井上部隊長は引揚船上で読み上げる、始まりと終わりだけで言えばこうした物語です。

 水島はビルマ僧に救われ、自分も僧に扮してひとり帰還する途中、山河に骸を晒す友軍兵士達の数え切れない遺体に耐えられず、帰国するよりもこの地にとどまり、亡骸を葬り、供養を続けることを決心したのでした。水島はビルマの竪琴の演奏が得意で、音楽家の井上の指揮で「歌う部隊」となっていた戦友達の伴奏者、励みともなり、また斥候や連絡の合図代わりも務めていたのですが、いまは南部ムドンの俘虜収容所にいる戦友たちと行き会っても言葉を交わすこともなく、あくまでビルマ僧として行動する、そして収容所の鉄条網越しに「一緒に日本に帰ろう!」と呼びかける友たちに、その竪琴を抱え「仰げば尊し」を奏で、僧衣のまま無言で去っていく、これは映画化された「ビルマの竪琴」のクライマックスでした。

 
 映画は、市川崑監督で1956年作品です(三國連太郎・安井昌二主演)。国内外で評価が高く、賞も受け、海外版のDVDもつくられていますから、ヤンゴンの路上で売られていたのもそのコピーなのでしょう。

 市川監督は、ほとんど国内でしか撮影できないなどの制約の多かった当時の事情への悔恨からか、1985年に同じシナリオ・自分の手でリメイクをしています(石坂浩二・中井貴一主演)。

 


 実際にミャンマーの地に立ってみれば、たしかに映画の風景との差は間違いなく感じます。どうひいき目に見ても、あの背景は日本のものでしょう(場面によっては、現地撮影シーンのスクリーンプロセスが巧みに用いられています。それでも僧院の場面は明らかにヤンゴンのシュエダゴォンパヤーです)。しかしまた1985年のリメイクでも、ミャンマーでの撮影はできず、タイで撮られたのだそうです。山河や草木や人々の姿では、だいぶ現地に近づいてきたと言えましょうが、今回否応なく感じてしまったのは、寺院や仏像などがやはりミャンマーのものとは違っていることでした。中国の寺で撮っても、日本の仏閣に似て非なるものになるようなところでしょう。

*ただ、1956年の映画でも、いったん完成ののちに現地ロケが可能になり、水島上等兵役の安井昌二だけがビルマに入って一部を撮影したとされています。そのおおくはビルマの大地や川岸をひとり歩み、そして広い川縁に散る日本兵の遺体の山から目をそむけて駆け抜ける、しかしのちになって引き返し、遺体を埋葬すべく懸命に泥土を掘り続け、見やっていたビルマ人たちも次第に協力をする、それらの場面でした。背後に滔々と流れる、泥に濁った広大な川、こういったシーンは絶対に現地でないと撮影できなかったもので、終戦後わずか10年のモノクロ作品でも、強い印象を残しています。85年のリメイクも悪くはないのですが、上に記したような弱点もあるうえ、どうしても戦後まもなくのあの切迫感、厳しさ重さというものが出てきません。きれいなカラーだけに、観光映画的にもなってしまいがちです。 …… 少し「趣味的」話しですが

 
 竹山氏はむしろ、「誰が悪い、戦争責任だなんだと騒がれる世相に抗し、鎮魂の思いを抱き、黙してともに頭を垂れよ」という意図からこの小説を書いたと自ら語っています。その意味では、敗戦(終戦)後の「一億総懺悔」論の意図に通じるとしても、否定はできません。もちろん氏は現地に行った経験もなく、従軍して九死に一生を得たわけでもありません。本職はドイツ文学者です。小説はあくまで空想の産物なのです。しかし、作者の意図も超えて、この物語と映画は非常に大きな存在となり、多くのひとにとって、「ビルマ」の地名の代名詞ともなったのでした。

 
 そうした時代もはるか昔のことになってしまいましたが、私は戦後生まれながらまだ、「過去のもの」と彼方に押しやることはできない世代の人間です。そのひとりとして、ミャンマーの地を訪れたのでした。

 17年前に他界した父は、ビルマではありませんがボルネオの戦場に一兵卒として送られ、文字通り九死に一生を得て帰国しました。多くの戦友は彼の地に果てました。ボルネオで捕虜となり、収容所の生活を送り、マラリアにも罹り、本当に奇跡のような帰還でした。



 

寺院で


 ミャンマーは仏教国となっており、現在も男は若いうちに二度、出家して僧となり、寺で修行生活を経験することが事実上義務づけられているそうです。いたるところで、托鉢を抱え、裸足に衣だけで道を行く僧の姿を見ることができます。

 もっとも、これも一回に一週間程度の「修行」なのだそうで、よく見ると、なんとなく「合宿と教練」のような雰囲気も感じます。そうでなければ、受け入れる寺も大変でしょうし、世の中も大混乱に陥りましょう。


 その総本山たる、またヤンゴン最大の観光地、シュエダゴォンパヤーにも行きました。100mを超える、堂々たる黄金のパゴダが中央にそびえる広大な寺院です。多くのミャンマーの人々が参拝に訪れ、身を投げ出して仏像に祈りを捧げています。規則に従って裸足ではありますが、群れをなす物見遊山気分の外国人観光客たちと、不思議な調和を醸し出しています。また、修行中の身のはずの少年僧達が、整列してパゴダを背景に記念写真を撮っているなどとなると、やはり合宿か修学旅行の観もぬぐえません。スマホを手にした僧もいましたし。


 訪れる観光客も多くが、方位にしたがってパゴダのまわりに順に配置された、八曜日の守護像の祠に詣り、仏像に水をかけ、頭を垂れ合掌して祈りを捧げています。今回の同行の方々もまじめにしたがっています。それぞれの生年月日によって曜日が定められているのだそうで、ガイド氏から私は月曜日・寅であると告げられました。



 守護像めぐりも終わりの方になった月曜日の祠で、私も同じならいをしました。するとなぜか、手を合わせながら、心の中で祈る言葉が出てきました。道中の無事、おのが健康と平安を恵んでください、妻、病の床にある母、兄、妹はじめ、みなの健やかであることを祈らせてくださいと。



 ミャンマー行のだいぶ以前より喉と鼻の調子が悪く、いっとき回復したと思ったのに、出発前からまた悪化、そのうえヤンゴンでは乾期で本当に空気が乾いており、町にあふれる車、赤茶けた土埃などさんざんで、咳に苦しめられました。そんな不調がどうしても心許なさを覚えさせたのでもありましょう。そのうえ、おのれもこの歳ですから。高齢の母はもう一年間寝たきり状態です。



 それでもなお、信仰心というものを持たない私が、生まれて初めて「祈る」という行為にいたったのは、やはり不思議な気がします。自分も弱気になったなという苦い気持ちよりも、祈る対象がほしくなった、それもひとの心のありようなのかといういささかの安堵感かも知れません。ミャンマーにはやはりそんな雰囲気があるのでしょうか。煌びやかで賑やかなこの寺院に、否応なく祈りを捧げさせる荘厳な権威を感じたわけでもないのですが。









ニッポン企業への熱い期待

 今回ミャンマーに行った本来の目的は、ミャンマー経済・投資センター主催の「中小企業セミナー」、主には日本企業の事業展開を支援するミッションでした。


 それで、1月29日には連邦政府工業省の建物(ここにミャンマー工業省中小企業開発局がある)で、今回のミッションに参加した日本企業や団体関係者と、ミャンマーの企業側とのビジネスマッチングが開かれたのです。開会にあたり、ミャンマー政府工業省中小企業開発局のアイアイウィン副局長、またセンターの米村紀幸理事長が挨拶しました。

 ありがちなことで、直前まで詳しい予定やマッチング参加者などが決まらない等の事態、我が方も朝のラッシュでホテルからのバスが容易にすすまない、会場に着かないなど、大丈夫かという趣だったのですが、いざ始まりますと、文字通り押すな押すなの大盛況、すごいことになりました。順番待ちで、名前を呼ばれるまで1時間もかかる人たちも多数でした。


 おかげで、各テーブルに着いた日本サイドの方々は、もうつきっきりの状態になり、のべ5時間以上は次々に来訪着席するミャンマーの企業経営者らとの話し相手を続ける事態でした。昼食休憩以外、席を立つ暇もなかったでしょう。ともかく、皆さん非常に熱心で、懸命に自分の考えを語り、また日本側の説明に耳をそばだてているのです。最終的に、ミャンマー側の参加企業は延べ141社、このうちに今後の交渉に合意したところも5件生まれたと発表されました。、大変な成果だったと言えましょう。




 言うまでもなく、これは「開放政策」後のミャンマーで、外国からの投資と事業展開が切望されており、諸方面の熱い期待が集まっていることを如実に示しています。ミャンマーの人口は約5千万人余、その大部分が農業に従事しており、一人あたり年間GDPは1千ドルに満たないのですから、近代化産業化と雇用機会の拡大が焦眉のものです。お隣のタイは一人あたりGDPが6千ドル近いのです。

 そもそも単なる近代化は果たして皆を幸福にするのかとか、実際にその過程で国内の矛盾が拡大、タイにおいては南北や階層間の政治的対立と軍事クーデターを招いているなどの現実も無視はできません。しかしミャンマーでは長年軍が政治の実権を握り、閉鎖的な体制を築いてきました。それがようやくこの数年、国内政治の民主化と開放政策に舵を切って動き出したのです。周辺のASEAN諸国がこの間国外からの直接投資を誘致し、輸出主導の産業化をすすめ、成長を実現しているのを横目で眺め、その流れに乗ろうかという段階にさしかかったところなのです。


 こうした場に訪れるミャンマー国内の中小企業者らには、日本との関係が元々ある人々が少なくないようです。たとえば、このマッチングに来た中に、日本留学の経験者で、帰国後に日本のラーメン店チェーンと契約し、ヤンゴンに店を出している、今後は製品の向上と事業拡大をめざし、麺の自家製造をはじめたいのだがと相談に来たひともいました。この例のように、日本とのつながりを広げていきたい、あるいはまたすぐにマッチングパートナーを得ると言うより、取りあえずは情報収集と相談、そういった意図で来られた人たちが多いようです。


 一方ではこれらの場に、すでにミャンマー国内での事業を営んでいる日本企業の経営者らも参加しておられました。繊維関係の工場をスタートさせ、着々と事業を拡大しているなどのお話を聞けました。ただ、これまたいずこの国でも同じなのですが、いろいろな規制やインフラ整備の問題などとともに、人材の育成が大きな課題となっているようです。ミャンマーの教育水準は低くなく、また概して勤勉で、日本に対する親しみを感じている人も多いのですが、もちろんそれだけで、日本企業の期待するようなマネジメントが順調に進むわけでもありません。課題はまだこれからでしょう。


 このマッチングイベントには、日本留学経験者の組織などが協力してくれ、通訳のボランティアも多数参加していました。若い学生達が目を輝かせ、日本サイドの参加者の話に聞き入り、また双方の対話の進展を助けようと懸命になっている姿には、この国の未来の社会のありようへの希望を抱かせるものがありました。


 翌日のセミナーとあわせ、このイベントは現地メディアの注目の的であり、記者やTVクルーなどが多数取材に来ていました。実際、翌日の現地英字紙の一面写真入りで、マッチングの様子が報じられていましたし、もちろんミャンマー語紙でも詳しく報道されたことでしょう。


日本ミャンマー「中小企業セミナー」

 1月30日には、ミャンマー商工会議所連盟UMFCCIのミンガラホール会議場で、日ミャンマー共催の「中小企業セミナー」が開かれました。


 会場は、ホテルからも近い、ヤンゴン繁華街そばの11階建てビルで、ここにはJICAの人材開発センターなども入っています。

 またも少々遅れ気味のうちに、セミナーが始まりました。まず、ウーゾウミンウィン・ミャンマー商工会議所連盟副会頭の開会挨拶です。同氏はミャンマーでの中小企業実態と政策に関する影響力大きいひとで、このセミナーのまとめにも立ちました。

 米村理事長のスピーチののち、歓迎の挨拶に立った日本大使館の丸山公使は、原稿もなしに流暢なミャンマー語でスピーチをし、会場を沸かせました。日本の外交の先頭には、こうした人が立つことがますます必要でしょう。


 ミャンマー商工会議所連盟の常務委員会委員ダウチョティリマウン氏が、ミャンマーの中小企業の現状と可能性に関して、詳しい説明をされました。なにより注目できるのは、ミャンマー政府が「中小企業法」の制定を準備中であることです。



 そのあとには私が、「日本の中小企業と中小企業政策」に関して喋りました。

 今回のセミナーでは、ミャンマー語・日本語の逐語通訳が入り、どちらにもわかりやすいものとなっていますが、そのぶん実質的に喋る時間は半分で、前日に中小企業開発局でビジネスマッチングのかたわら行われた事前打ち合わせでも、悩ましいところでした。しかも迂闊にも私は、そのときまで、pptの資料もスピーチも英語だと思い込んでいたのでした。

 映し出すppt資料はいずれかの言語ですと、どちらかがまるでわからないことになるので、英語であるのは妥当だったのですが(ミャンマーではエリート層は英語が堪能です、一時期は英国植民地だったので)、両語の通訳がいる以上、英語で喋ってもどちらのためにもならないわけです。それからまた、一晩で日本語の原稿を仕上げました。プリンターは持参しているので、これを翌日事前に通訳の人たちにも渡すことができました。またいつものやり口です。


 そういうわけですから、持ち時間20分といっても、実質10分程度しかありません。それで日本の中小企業の定義と現状、歴史的な役割、戦後の中小企業政策、今日の課題、特に地域創生と中小企業と喋るというのは、欲張りすぎであるのは我ながら否定できません。それゆえ、私が話し始めると、客席前列にいて進捗に気を配る米村理事長は気が気ではなくなり、「早く早く」とサインを送り、ついには「もうおしまい」と求める始末、でも私的には時計を見ながら喋っているので、まあこの辺かな、というところで悠々と終えました。こういう場ではみんなそれほどに時間予定を守るものでもなく、あまりバカ正直にやると損をするという経験も多いので、居直った観もありますが、米村理事長には申し訳ないところです。でも、全体の進行の邪魔にはならなかったものと理解しております。



 その後には、中小企業基盤整備機構の中島氏、商工中金の石黒氏がそれぞれ、日本での中小企業基盤整備機構の役割と国際化支援との関連、中小企業金融と国際的事業等に関して語られました。


 これに続き、ミャンマー政府工業省中小企業開発局の副部長ウーネイウィントゥト氏が、中小企業開発局の具体的な支援活動に関して詳しく説明されました。同氏は、行政界の若手のホープという観です。そのあとには、JICAミャンマー事務所の安藤氏が、ミャンマーの中小企業支援のために、JICAがすすめるプロジェクトの概要を説明しました。その中では、2ステップローンや、商工会議所のビル最上階に入っているミャンマー日本人材開発センターのことなども紹介されました。




 休憩を挟み、米村理事長の司会で、午後にはミャンマー・日本の企業経営者からの経験発表にもとづくパネルディスカッションが行われました。パネリストはSBSホールディングスの渋谷社長、アライズ社の小池社長、そしてミャンマー商工会議所連盟常務委員のダウシンシンセット氏、ミャンマー青年企業家協会書記のダウキンセットマウ氏(いずれも女性)の4人です。




 この、のべ5時間に及ぶ長丁場のセミナーの終わりには、ウーゾウミンウィン氏が再びたち、全体の議論を紹介、検討総括し、今後日本とミャンマーの協力によって、中小企業の持てる力を生かしていくことが十分可能になってきていると強調しました。米村理事長はこれを受け、日本からの積極的な展開と支援の意義を示し、謝辞を述べました。最後には、米村氏に記念品が贈呈されました。


 全プログラムが終わったのち、ようやく昼食となったので、かなりしんどい日程ではありました。



 ホテルに戻って、さすがに疲れて(体調もよくなかったので)少し眠り、その後皆さんと一緒の夕食に出発、現地からの参加者や2日間サポートしてくれた留学生協会関係者の方々らと懇談、その夜寝る前に、たまたまTVをつけたら(日本のNHKBsが入ります)、現地の英語放送のニュースで、このセミナーのことを報じていました。米村理事長の談話がちゃんととりあげられましたが、私も壇上でちらと写り、恥ずかしいことでした。まあ、中味の方じゃなく、私の服装のせいだったのでしょう。

 乾期で涼しい、そのうえ建物は冷房ガンガンなので、日本の参加者も皆さん背広にネクタイ姿です。ネクタイはやはり礼装なのだそうで、ロンジーに上着・ネクタイという姿の方々もいます。私もジャケット持参でしたが、ベージュの夏向きトロピカルだかコロニアルだかの雰囲気にしたので、ちょっと目立ってしまったのでしょう。これなら日本から冬服のままでも来られました。外歩きは無理でしょうけれど。


 私の好きなハーフスリーブの上下スーツを愛用されているセンタースタッフの方もいたので、その雰囲気にも合わせたかったのですが、室内では半袖は無理な温度でした。



 なお、ダウチョティリマウン氏やウーネイウィントゥト氏の説明で気になったのは、ここでの「中小企業」(SME)というのはあくまで、企業として登録された、一定の規模と体裁を整えたものだけを指しているのであり、それゆえ,企業数4万といったような単位で,その存在が認識され、議論されているのです。ちなみに、ミャンマーでは中小企業法自体未制定ですが、現在は従業員数300人以下、資本金額10億チャット以下という基準が主に用いられています(業種によって上限は異なります)。

 4万という数字は、人口5千万の国でいくら何でも少なすぎで、当然ながら、ヤンゴン市内各所の小商店や小工場などはほとんど含まれていないでしょう。ややこしいのは、工業省中小企業局のほかに、協同組合省がマイクロ企業を管轄してきているのだそうで、行政面からも、また政策のめざすものとしても、今後のミャンマー経済を支える主役として期待されている成長性ある企業群と、日本で言えば「生業的」な小商工業者などとは,まったく別のものと考えられているとせねばなりません。そして、町中でも農村部でも至る所にある露天商などは、まさしく「インフォーマルセクター」として、政策的考慮の対象にもなっていないでしょう。


 経済社会の「近代化」の入り口にある国々にとっては、世界や国内の市場で「競争優位」を発揮し、存立発展していける企業、しっかりした経営を進め、国や国際機関の融資や指導に応じていける企業、さらには外国企業の取引先に指定されるような企業に関心が集まるのがやむを得ない面はあると言えます。しかし、経済全体の均衡ある発展と安定した経済社会の確立、雇用就業の機会確保のうえでは、マイクロ企業なども射程に入れ、またそれらの性格に配慮した枠組みと政策対応が必要であるというのが、近年の世界的なトレンドであり、日本もその流れに加わっているのです。しかも、どの国でも企業の圧倒的多数はこうしたマイクロ企業(日本では「小企業」)なのです。

 露天商などのインフォーマル・マイクロ企業と、経済社会のメインストリームとは隔絶していない、というユニークな実証研究もあります。現在チェンマイ大学講師・日本研究センター副所長の水上祐二氏による、タイバンコクのインフォーマルセクターに関する研究は、まさにそこを指摘しているのです。


 ミャンマーにおいて、そこまで関心と視野が広がっていくには、ある程度の時間がかかるかも知れません。




ティラワ工業団地へ

 今回のミャンマー訪問は日本からの投資促進の一環でもありましたので、JICAの紹介で、ヤンゴン近郊に建設中のティラワ工業団地(SEZ経済特別区)を1月31日に訪れました。


 ヤンゴン中心地からバスで1時間余、ヤンゴンの外港の性格にあるティラワの郊外の広大な土地に建設中の工業団地、まさしくミャンマーの経済開発と外国企業誘致のシンボルのようなものであり、日本の経済援助が相当に注ぎ込まれています。




 現地に着けば、大きな看板が出ているだけ、いま建設工事の真っ最中という次第ですが、遥かに広がる土地は大きくとも、なにより周辺インフラの整備の遅ればかり実感させられます。



 ともかく、ヤンゴン市内をはじめ、いたるところ車の洪水、交通渋滞ばかりなのです。「開放政策」のおかげで、自動車、それも日本などからの中古車が大量に流れ込み、もうえらいことです(漢字かな文字の塗装のままの日本車をよく見かけますが、ハングルのも増えている観です)。市内の幹線道路は、キャパシティが限界のうえに、昔ののんびりした街のつくりのままなので、交通信号が少ない、うまく機能していない(故障かと思うほど、間隔長すぎ)、また主な交差点は英国植民地の名残の「ラウンドアバウト」方式で、こんなに増えた交通量にまったくマッチせず、待てど暮らせど動かない、動けない車の列がどんどん延びるのみなのです。もちろん車の洪水の中の歩行者の横断は命がけです。せめて交通警官をもっと増やし、整理をすればと思うのですが。


 特に驚くのは、市内繁華街では、片側3車線分も道幅がある立派な道路の両側に斜め駐車の車の列、そしてさらにその外に止まる車という具合になっていて、実質片側1車線がやっとの状態なのです。「広い道路を狭く使う工夫」と皮肉を言いたくなりました。もちろん駐車場も少ないので、もう混乱は限界に近づいています(ジャカルタの方がもっとすごいそうですが)。



 郊外に出ればましかと言えば、到底そうではありません。ティラワとの境界になる大河・ヤンゴン川の橋の両岸、取っつきのところで渋滞になっています。鉄道橋兼用で相当の幅のある橋(中国の経済援助でつくられたそうな)で、長さもかなりですが、その手前で大渋滞になってしまい、容易にすすまないのです。ティラワに入ってからも、実質片側1車線の舗装ながら、道の両側いっぱいに露店などが並び、あれこれ物やら置かれ、バイクはあちこち疾走中、おまけにこの訪問日には寺のお祭りなのだそうで、町の中心部には人と車と露店があふれています。まあ正直に申して、工業団地として求められる物流を支えられるような状態とはかけ離れています。


 鉄道も走ってはいるものの、誠に頼りないローカル線で、現状では定期運行列車で行くより車の方がまだ早く着くそうな。ただ、終点のティラワ港駅周辺には貨物や石油のほかに輸入中古車があふれ、埃にまみれ錆び付いています。貿易と外貨規制などの問題から、一時期輸入中古車を運び出して売ることが実際上できなくなったのだそうです。また、ちらと見えたのですが、終点近くの線路には日本のブルートレインがこれまた放置され、朽ちるに任されていました。


 道路が整備され、また港湾も活用されれば、ティラワ港に近い、広さ2400haもある工業団地は立地条件がよいものになるかも知れません。もっともティラワ港は川から流れ込む土砂のおかげで水深が浅く、大規模な浚渫工事も要するのだそうです。

 


 交通インフラさえできれば、ともいかないのがミャンマーの現実です。最大の問題は電力供給で、ヤンゴンでも停電はしょっちゅう、泊まっていたホテルでも夜中に停電していました。大きなホテルなどでは自家発電装置も備えているのだそうで、すぐにそれに切り替わった模様です。ティラワから戻り、昼食に入っていたレストランでも停電、地下の個室だったので、いきなり真っ暗になってしまいました。


 これも電力供給が需要に追いつかない、送電設備も不十分のせいなのでしょうが、そうなるとティラワ工業団地も心配です。電気が止まってばかりでは仕事になりません。もちろんそれを十分に考慮し、JICAの円借款援助で団地独自の電力設備が整備される予定なのだそうですが。



 経済の発展の速度に公共財供給が追いつかないというのは、世界のあちこちで見られる現象と言わざるを得ないでしょう。特にミャンマーの場合、この数年でものすごい変化が起こっているのですから。




 ただ、そこからつくづくと思うのは、戦後日本の経済発展における「恵まれた状況」です。裏を返せば、その時代、私たち国民は「恵まれて」いませんでした。復興と成長のために、我慢のし通しでした。まあ、一部の先進国を除けば、エアコン、家電、マイカー、そんなものには世界中みな縁がなかったのです。いくら蒸し暑い夏でも、窓をいっぱいに開けて風を通し、せいぜい扇風機を動かし、うちわ片手に裸同然で過ごすしかない、満員の電車に乗ってうだるような暑さに耐え、流れ落ちる汗を手ぬぐいで拭きながら必死に通勤通学するしかない、そういう生活を当たり前と我慢していたのでした。電話でさえ、多くの個人の住まいにはなかったのです。電話の架設の費用が高い(電電債券なんていうのまで強制的に買わされた)だけじゃなく、加入を申し込んでも一年も二年も待たされたのですよ。


 しかしいま、ミャンマーでもいたるところにエアコンが入っています。一般の家庭にまでは無理かも知れませんが、ホテルやレストラン、役所などでは冷房効き過ぎじゃないか、肌寒いと思うほどです。露店に集う人々、高校生や坊さんにいたるまで、ケータイスマホご愛用です。そしてあふれるマイカー、そこまで手のでない人たちは街中ではバスやトラック改造乗合に行列して乗り、郊外ではバイクで疾走していますが。


 この21世紀の時代に、もっと経済の発展がすすむまでみんな我慢しろとか、贅沢せずに節約節電に努めろとか、お金は貯金しろとか(日本はそうして集めた郵便貯金などを財政投融資の財源にしました)、そんなことを説いても、誰も耳を貸しはしないでしょう。グローバリゼーションのもうひとつの側面なのです。ケータイを生み出したような技術の進歩普及に加えて、「消費の欲求」は世界同時化しており、「情報」は瞬時に共有されますから。欲望の普遍化は止められず、実際に商品はいくらでも入り込み、「手に入れられるもの」として目の前にあり、「我慢のすすめ」は無理になっているのです。


 それでなお、「経済発展の各段階」を一歩ずつ歩んでいくようなシナリオは、いまどきに実行可能なのでしょうか。まさしく「生産と消費の(逆)矛盾」ですな。





☆なお、私のこの「旅行記」は私家版です。

 ミャンマー経済・投資センターの方では、公式の「報告」を公開しております。






2017年8月15日の「同時代史」


 2017年8月15日、「終戦記念日」の放送として、日本映画専門チャンネルでは『ビルマの竪琴』新旧2作を放映しました。もちろん、TVでの放映はこれまでにも何度もあります。ただ、今回はNHKでの「インパール作戦」ドキュメントの放送と同じ日になっただけに、話題性もあったようです。

 そんなこともあり、この放送のことを私もFacebookでシェアし、ここへのリンクも記しました。


 そういったきっかけもあって、あらためて小説や映画「ビルマの竪琴」が、現地ミャンマーの人々にどう理解されるのかということを問い、「上映実験」まで行った社会学者の人の、文章を目にすることができました。

「ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか(前編)」(『少年育成』1996年3月号)

「ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか(後編)」(『少年育成』1996年4月号)


 これらを記しているのは、関西学院大学で文化社会学を専門とする山中速人という方です。専門の立場から、ある意味徹底的な日本人の観点で創作された小説「ビルマの竪琴」、そしてそれを現実の戦争の歴史のなかの映像物語とした映画「ビルマの竪琴」、それらの明白な「現実離れ」を確認しながら、それでは、この映画を現地の人々が見ればどう受け止めるか、実際に実験しているのです。もう20年も前の試みですから、大変なことです。


 その結果では、水島の僧形や仕草等から、ダメ出しの嵐になった、あるいはニッポンびいきのおばあさんの日本語達者ぶりがあり得ない、他方で僅かばかりの果物と引き替えに貴重な衣料品などを巻き上げるあこぎぶり、そういったところに拒否反応に近いものがあったようです。まあ、映画は1985年のカラーリメイク版であったこと、そこで当然のことに、タイロケの結果としてのずれぶりに不満の声が多々あったことも避けられなかったでしょう。もちろん、全編ではなく、延べ25分ほどのダイジェスト上映、日本語はわからずのままというのも問題ではありますが。


 しかし、著者によると、バレバレの日本軍敗残兵である水島に、現地の人々が寛大かつ親切に接するというのはむしろ当然と理解されたようです。僧形にあればそう接するのが、ミャンマーの人々の当たり前の生活の一部、日常感覚なのだからと。これまた当然ながら、この実験時からでも50年も前の戦中戦後の苛烈な出来事に、被験者としてのひとびとの共通体験はないわけですが。


 他方で、映画「ビルマの竪琴」は、日本人の多くにとってはあたかも現実の歴史の一部であるかのように、体験認識されています。あくまでフィクションであっても、「そんなことが戦中戦後本当にあったのだろう」と受け止められ、そしてそれに近い人生を送った人を「探し出す」試みさえあったのです。山中氏はそうした「セミドキュメンタリー化」、「伝説化」に至る、歴史体験の創造とも言うべき過程にも詳しく言及しています。



 しかしまた、言うまでもなく山中氏の関心、実験と論稿から早20年、「現実」の移り変わりも驚くべきものです。私が2015年初めにヤンゴンで見聞したことは、「こうした、言うなればフジヤマゲイシャ的な創作小説と映画が現地で受け入れられ、理解されるはずもない」当時との大きな様変わりでした。

 ホテルのロビーで、ビルマの竪琴がニホンの曲を奏でる、街中の屋台で、映画「ビルマの竪琴」の海賊版DVDさえ売られている、それらの様変わりは、現在のミャンマーの「開放政策」、外国人歓迎の流れの産物であることは言を俟たないでしょう。ニホンから来る観光客をもてなすには、多くの日本人の頭の中にある「ビルマの竪琴」のイメージを大いに活用するにしくはない、そういう発想があってなんの不思議もありません。それを「迎合」だなどと白い目で見たりするのは、あまりのうえから目線そのものでしょう。じゃあ、いま「インバウンド」で押し寄せる観光客に、いかにもの安っぽい、ケバい浴衣など売りつける、それは怪しからんのでしょうか?「オモテナシ」などと称して、ウラ見え見えの商売っ気で臨むのは厭らしい根性なのでしょうか?

 ただ、そうしたさまざまな留保条件をつけても、やはりここではさまざまな意味での「グローバリゼーション」のもたらすファクトを、どのような社会の一隅からも見いださざるを得ないでしょう。


 いずれにしても、山中氏には20年ぶりの現地「実験」とインタビュー調査をぜひにやっていただきたいものです。いや、そんなことを口にする私がやらねばならないのでしょうが。





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