三井の、なんのたしにもならないお話 その四十七

(2018.04オリジナル作成)



 
続なんにもない −カネと力もなかりけり


 
 齢七〇を超え、人生の総決算を意識せねばならず、また現実にも常勤職を退職し、まさしく「寂しい老後」に突入です。よくしたもので、身体の方もあちこち壊れだし、一挙ポンコツ状態を自覚せざるを得ません。

 
 ともかく、カネには縁のない人生であったと記しました。それは自分の懐に入る分だけの話しではなく、大学教員・研究者として「本業に」使えるカネでもそうです。37年の大学教員生活で、自分が中心となる研究プロジェクトにカネをとってくることができたのはただの一度だけです。ひとさまののお手伝いをする、そうした機会は何度かあり、それで地方調査から国外調査にも行かせて貰いました。だから贅沢言っちゃいけないし、またそもそも、研究生活の出発点では民間調査機関でかなりの勝手をやらせて貰ったので、トータルの決算で見れば、それなりのことやってるだろとされましょうが、いかにも大学のセンセイらしい仕事というのはほとんどなかったのです。

 

 大学教員というのは、授業を持って講義などする、学生指導する、大学運営にかかる「雑務」をするというほかに、ともかく研究をすることも職務のうちなので、大学から個人研究費というのも支給されます。しかし近年、国公立私立を問わず、そういうのはどんどん削られ、本もろくに買えないと嘆いている先生方珍しくない有様です。そういうカネがほしければ、「外部資金」とってこいという前提で、「競争的」であることがすべて絶対的に正しいという、不思議な論理が席巻しております。そのうちには、企業からの産学連携的研究資金提供や、額は少ないが、行政機関や民間団体との連携協働での諸事業などもありますし、金額的に大きいのは、科研費などの公的研究資金提供です。
 この科研費で、私を代表とするプロジェクトにお金を貰った経験は、37年間で一度きりです。何度かほかにも応募をしましたし、そうした外部資金応募を事実上義務化している国立大学では、いろいろ出したりもしましたが、一つ以外みんなはずれでした。申請書を書き上げる手間を考えるだけで、本当にバカバカしくなります。
 
 こうした「外部資金獲得」というのの実情を横目で見ていると、ほぼまちがいなく、優れた、長けた人たちが大学内にいます。その多くは、民間企業、行政機関、調査研究機関など大学外の世界で仕事をしてきたという経歴に重なります。なにより、書類の作成といったことが年中重要な仕事であったでしょうし、それを厭わないという姿勢にも現れています。一定に「通す」ためのマニュアル的な理解応用のコツもあるようです。私なんか根が怠惰我が儘なので(だからサラリーマンやらなかったのですが)、ともかくひたすら言葉・美辞麗句を並べ、数字や図を組み込み、もっともらしい形容表現にし、飽きるほどの項目と作文を積み重ねる、形式を整える、それだけで嫌気がさしてしまいます。ですから、カネ取れないのも当然だよと自分で納得するしかありません。

 そうした実務畑出身でもないが、かなりカネを使えている人たちは、こんどはもっと「おいしい」資金とのつながりのあるところで生きている、たとえば大学内「○○研究所」とか、「◇◇研究基金」とかいったおカネと研究事業の機会にあずかれる等々、別の予算枠や外部からの寄附などでの、恵まれた環境にもあるようです(学内○○裁量経費での研究応募なんていうのの選考はやったことがあります)。私、よその大学のそうしたところのお手伝いをさせて頂いたことも、上記のように何度かあるので、なにも言えませんが(それで自分の本の出版もさせて貰ってもいますが)、自分の勤めてきた大学内では、およそ縁がないか、あっても名前だけ、カネはほとんどなし、それにさえもかかわることはできませんでした。

 ユーメイ大学になると、外からどうぞお使い下さい、こういう事業をご一緒にやりましょうなどといった提案が降ってくるらしいのですが、なかったですねえ。自分の怠惰と努力不足もありますが。

 
 こうしたおカネに縁のない生活を続けてきた40年近い日々で、まあかなり大それたおカネを貰ったことが一度だけあります。EU欧州連合の政策をフォローしてきたおかげか、そちらからの委託で、国際比較調査の日本パートを請け負ったのです。ただ、これはかなりの人手も要したので、大学の研究センターへの委託調査というかたちにして貰い、ポスドクなどの人たちを動員しました。しかし、そうした人件費や管理経費に飛び、私自身は交通費も原稿料も含め、一文も貰うことはありませんでした。まあ、先方持ちでブリュッセルでの会議への旅費は別途負担して貰いましたが。しかも、調査結果自体は悪くなかったと思うものの、直後に大地震大災害で状況が一変してしまい、調査の意味が大部分なくなってしまった観です。

 それとは別に、個人的な関係でやはり欧州から委託された調査も後にしたことがありますが、その経費が英ポンドで振り込まれたのは、なんと2016年6月!直後にブレクジットがおこり、ポンド暴落、一挙に三分の二以下に目減りしてしまいました。あまりにいまいましく、また実際これでは経費をカバーできないので、以来銀行の外貨口座に塩漬け状態のままです。私がいかにゼニ儲けに向いていないかの見事な証明です。


 

 
 ゼニのないのとほぼ比例しているのが「力」、それも大学の諸制度や組織体制、教育体系、運営などといった大それたところにはなにもできないのも当然とはいえ、大きい声では言えないが、大学教員のふるえる力のうち、いちばん下世話に有意義なところは、ヒトに対する力、「人事」です。平たく言えば、昇格や所属、担当、役職などもかかわるけれど、かなめは「採用」です。誰を大学教員にするのか、それは「今のところ」専門家集団たる大学教員の自治にゆだねられています。もちろんそれを怪しからんとする攻撃は半世紀続いており、まあ攻撃が成功すれば、大学教員はお笑いと「タレント」、名の知られた「評論家」、あとはせいぜい「予備校のカリスマ講師」で占められるようになりましょうが、さすがにまだそこまで世の中は進歩していません。それでもたまには、学校経営者一族の縁故やコネでもって「大学の先生になる」ようなところ、上級官庁やスポンサーからの「天下り」がルール化しているところもあるようですが、まだ少数です。

 
 では、そこで「採用」はどのようにすすめられるのか、これもいろいろのかたちや流れがありますが、現実的には、はっきり言って「あの人を採用しよう、来て貰おう」ということを「誰かが」決めているのです。もちろん個人の独断や勝手で決まるものではなく、規則と慣行にもとづく、一定のルールはあります。基本は研究業績、専門分野と「科目適合性」といったところです。近ごろはさらに、「教育能力」や諸分野での「経験」も関わります。特に、各大学及び各学部といった自治の単位の判断決定だけでは決められない場合もあります。新設大学や学部等で文科省の設置審にかかるものとなると、別の判断もかかわるので、それを前提にすすめねばなりません。しかしなお、どのようなケースや手順でも、最終的には「あの人」という固有名詞になるのですから、それは誰がどのように決めているの、というのは重要な事柄です。
 
 で、端的には、37年間で私、一度として「あの人を採用する」ということに直接かかわったことはありませんでした。すんごいですね。もちろん、そうした採用人事にかかる手続過程に自分として関与したことは何度かあります(非常勤講師の採用委嘱くらいは、手を挙げて個人的に推薦したこともありますが)。「公募人事」の応募者の選考、非公募だが候補者の業績審査など。しかし、まあ人間世界のことですから、「実権を持つ」、「声の大きい」ひとの意向が程度の差こそあれ反映されるのはまちがいないところでしょう。そもそも、「どの科目担当の、どういう研究領域、どういった業績や経歴の人を新規採用するのか」ということを定める瞬間から、固有名詞まではいかないにせよ、人事は動き出しているのです。例えば、ある科目担当の専任の先生が定年退職する、だから自動的に同じ科目の次期専任者の人事をすすめることになるとはいかず、その科目がどこまで必要なのか、時代に合わせた科目編成や教育体系の「見直し」や「シフト」は要らないのか、専任者が要るのか、対象科目の位置づけや研究教育領域をいま時点でどう理解するべきか、そしてそれに対する適任者というにはどういう人をあてるのが妥当か、等々です。そうした「人事の発議」段階に私がかかわったことは、まちがいなく37年間に一度もありません。

 

 某大学においては、新規人事に関しても「学部執行部」がその発議をしておりました。私は「執行部」(学部長と各学科主任で構成)に入ったことはないうえ、どうも「関連領域」担当教員には、あれこれ内々の相談等あったようですが、まったくお呼びではありませんでした。公募人事の選考段階でも、「この科目の公募ですから、関連領域として○○先生、▽▽先生に選考委員になって頂き、業績審査を行います」との報告でお終い、それで私にも選考の委員としてお声がかかったのは20年間でただの二度きりでした。
 
 選考委員の機会にあっては、大勢を「ちゃぶ台返し」した経験もありますが、まあ公平公正に審査にあたったと自分では考えております。でも、そもそもこうした科目の人事を行おうとか、専任教員が必要とか、教授レベルの大物に来て貰う、あるいは若手を登用するとか、どういう研究領域と位置づけるとか、そういった「意思決定」自体に関わる機会は皆無だったということです。

 
 
 某々大学では、やはり人事には学部(部局)執行部の意向が主ですが、学際的な大所帯でもあったので、各シマの意向対応と調整が重要であったようです。しかもそのポスト自体が国から割り当てられた、決まった数の椅子(人事定員数)の取り合いでもあるので、きわめて難しい調整と裁量が迫られたようです。で、私はシマの一つの長(教育組織)を2年間務めたのですが、これにはどうも人事権はなかったようで、「研究組織」のシマの長あたりでないと口は出せない慣行らしい様子でした。しかも、ここでは退職者のポストをそのまま後釜では埋めない、いったん部局・大学召し上げとし、一年以上経過したら、各シマのあいだの配分、科目自体の継続などを含めて検討の後に、再度同科目の人事もあり得るとなるという不文律で、それによって「前任者が後釜を指名する」というような事態を避ける仕組みになっておりました。ですから、見かけ上「大先生が人事に権力を行使する」ようなことはないという理屈ですが、そうはいっても自然科学系など、専門分野が非常に細分化しているので、だいたい「流れは読める」ようなものと感じました。いまいる直弟子が「後継者」になるようなことはなくても、同門や仲間・研究のうえでの知己の方々のうちから次の教員が決まることはさして珍しくないような印象です。当然、一定の研究業績や教育経験、社会実践経験などが必要ではあるものの、「誰に」決まるかとなれば、そういった「情」なり「人間関係」などがまったく関わらないとは、ヒトの社会では断言はできないでしょう。信頼性というより、「研究領域・対象」判断や「業績」を評価する基準においてすらです。そとめの印象では、自然科学系などでは依然「講座制」的な仕組みと組織が生きており、その中での「研究室」単位の存在と研究蓄積なのであって、関係する専任教員が入れ替わろうとも、同じような研究の継続発展が大前提であるのではないでしょうか。まあそうでないと、研究成果の甚大な損失になりましょうし、備えられた設備・機器なども無駄になってしまうでしょうから。

 社会科学系などでははるかに「個別性」「流動性」は高いのですが、「結果論」だけで言えば、ある程度これも流れは見えなくもありません。やはり基本的な問題意識なり方法哲学・背景理論なりと科目分野の性格・位置づけから、さもありなんということになっているわけです。特に「完全公募」でなければ、当然「信頼の置ける」「研究業績顕著である」知人関係は物言うでしょう。ただ概しては、かなりの大学では、固有名詞で人事の候補が出ても、選考や諸手続の中で、一定の基準なり条件なりをクリアーできない、最終的には人事決定権ある教授会等で規定上の基準(全構成員の2/3以上の同意とか)を満たせない、ないしは満たせる見通しがないと、「流れる」ことも決して珍しくはありません。ハードルが低いわけではないのです。

 その意味、そもそも私がそこで科目を持ち、仕事をすることになったこと自体、かなりイレギュラーに感じられ、実際どうしてなのか、自分でもよくわかりませんでした。別に書いたように、そういった誘いの電話をくれたひとは、私のまったく存じ上げない方だったので。こんどは私が定年でやめたあとも、科目は存続し、もちろん私の関与などなしに、適任の若い人が継いだので、そのことには私としては不満はありません。ただ、逆に私が他の科目の後任なり改廃設置なりに関与する機会もありませんでした。

 
 おしまいの私立大学にあっては、私は「部局長」を3年間勤めたはずなのですが、人事どころか何にも権限もなく、もちろんカネもありませんでした。そんな話自体がありえず、まったくもって「判子押し係」であったと実感します。まあ、自分の努力不足能力不足に加え、巡り合わせの悪さもあり、私はあくまで大学院創設や拡充の段階を担ったのではない(私自身がそれで「呼ばれた」わけですが)ことも現実でした。新たに組織を作るとなると、白紙に近い状態で、内外からひとを集めなくてはならない、だからここでかなりの人事が一挙にすすめられるわけです。それに対し私の立場はいわば中継ぎで、そのうえに折から創業者一族にまつわる財政問題が露呈、世の非難を浴び、補助金もカットされる事態、空前の経営困難に陥った3年間だったのです。新規人事どころじゃない、いかにしてひとを減らすかが至上命題となり、そこに「大学院の将来のために、今後を担う大学院担当教員を新たに採用してほしい」などととうてい言い出せる状況ではありませんでした。
 それでも、教員「若返り」の維持は必要だ、欠かせない科目担当者が要る等々で、学部教員の新規採用はある程度すすめられました。もちろん私は完全に蚊帳の外でした。学部の運営に関しては、私として赴任以来、自分が責任をもって対応できない件である以上、口を出さない方針でもあったので。

 
 てなわけで、大学院の長の責務としては、誰であれ、どんな科目であれ、私自身のような老人に代える担当教員人事をすすめ、中長期的存続を図りたいわけですが、それを果たす条件もないまま、現職の学部担当教員のなかから「一本釣り」で「大学院やりませんか」と働きかけ、志願者を募るという方法しか実行できなかったのです(それでさえ、学園当局者から足を引っ張られ、「財政難の折り、大学院の設置科目が多すぎる」など妨害されました。ために、最後には私は自分が辞める、そして自分の担当科目など廃止にして、新たに大学院担当になるひとたちのための道を開いたくらいです)。そうした志あるボランティアの方々の「資格審査」は何度かやりましたが、それが私が「人事」に関わったただ一つの機会でした。

 

 生臭く、さもしいことで言えば、「長」としてのゼニの関わることにも機会ゼロでした。そもそも、人事給与規程では「長」には手当が付くことになっているらしいのを、やめる直前の「給与見直し」提案と議論のなかで発見したくらいです。手当などどうあれ、いろいろな長などの役職の方々は、学生募集や広報活動、連携先との折衝や交流などで、旅費交通費を貰って出張したりすることもあるらしく、学園財政が困難に陥っても、それらは続けられた様子ですが、私が「長」として対外活動に出たのは、「光風会」(同窓会)の年次総会(都内)に行って、大学院のPRに努めた三回だけです。それも、はじめは手ぶらで行って、卒業生らの会費で飲み食いしては申し訳ないと実感し、次からは祝い金を持参したので、せこい申しようですが「持ち出し」です。ほかに何にもありませんでした。自分から、「広報活動に行きたいので、学園持ちで出張させてくれ」と言えば、なにか出たのかな。
 
 せこい話し書き出しちゃった勢いで書くと、私は研究科長としての立場とは別に、前研究科長の黒瀬教授をサポートし、大学院の必修科目「ライブケース」授業のゲスト登壇者の依頼や立ち会い・コーディネートもしてきました。その中で、「自腹を切る」経験もしました。特には、三年ほど前にこの時間に登壇されたある社長さん、終わった後に大変不機嫌なメイルを下さり、もう二度と行く気もしない等々ということなのです。なにか不始末不行き届きなどあったかと焦りましたが、ご立腹の原因は、前年度のうちに出講の依頼として正式にいった内容が、あとから変わってしまった、要は依頼段階では謝金○○であったのが、こんどは「◇◇円に」切り下げられてしまった、その金額がもちろん多い少ないの問題ではなく、実に事務的な連絡のついでに記されていたかたち自体、不快であったということでした。企業経営に日々苦労されているお立場からすれば、カチンと来るものがあったのでしょう。その事情は、上記の学園を揺るがす問題とそれに伴う財政ピンチで、諸経費諸出費の見直しが急遽行われ、この「ライブケース」外部講師の謝金も1/3くらいに切られてしまったのです。

 多忙のなかせっかくお越し頂いた同社長に不快な思いのみ残ったのではどうにもいけませんので、急ぎ謝罪がてら、私は同社に訪問し、事情の説明とともに、頭を下げて参りました。同社長は快く理解して下さり、社内など詳しくご案内説明を下さいました。

 このために、私は些少ながら交通費を使い、また手ぶらでお詫びにでも様にならないので、手土産も持参しました。それ以外にも、この「ライブケース」の出講依頼や事前打ち合わせなどで、直接訪問したところは何カ所もあります。それらももちろん私にもよい勉強の機会でもあり、なにも不満にも思うところなどないのですが、ともかくすべて自腹を切ったことは事実です。特にこの謝金カットは私の知らぬところでの、経営サイドの判断と対応の結果であって、私はその尻ぬぐいだけをさせられたことになります。なんの相談も連絡もありませんでした。そこで僅かばかりの支出を「節約」し、大学の実社会での評判を落として、どうなるというのでしょうか。学生の就職に響いたらなどと、想像もしないのでしょうか。ま、私は判子押し係、頭下げ係だったということで。


 細かい銭勘定などさておくとしても、結局「人事権」などかすりもしなかった3年間でした。唯一できたことは、自分が辞めて、文科省・設置審の「改善意見」である、「博士後期課程の研究指導教員が高齢化している」に改善対応をしただけです。それも一年遅れましたが。

 
 

 私には、「弟子」とできる、大学院で指導担当をし、のちに大学教員になった人が10人近くいます。けれどもだれひとり、私が公式非公式の「人事権」ないし「人事への影響力」を行使し、そういった職に就けさせたわけでもありません。自ら公募の機会に挑戦し、評価を得て採用された、あるいはせいぜい、このような経歴業績のひとがいると名前を紹介した、それ止まりです。まさしくひとりひとりの研鑽と自助努力のたまものでして、誠に小先生の面目躍如とせねばなりません。おまけに、研究するためのゼニも取ってこられないんですから、先生と呼ばれるのもおこがましいでしょう。自分自身はまあ気楽でいいか、なんにもできないがなんにも責任負わないし、と割り切れたのですが。

 
 大学の教師なんてみんなそんなものかと思えば、そうでないことは多々見聞してきました。自分の「弟子」を後釜にする、どこかに押し込む、そこで一族郎党や「研究仲間」が大いに力を発揮する「好循環」が生まれる、大きな研究や事業をさらに組織する、そうであってこそ「大先生」です。そこまで行かずとも、「弟子」に限らず、自分の知人や後輩、職場の同僚らを「引っ張ってくる」というのは、現実にはごく当たり前のことのようです。私は37年間も教師やっていて、そうした方法も身につけられなかった次第。

 
 モノはもとより、ゼニカネも、そしてヒトへの「力」もない、それがわが人生の総決算です。

  



 早速に、批判めいたご意見も頂きました。「要するに、大学の教員人事というのは個人的なコネなのか」というお考えです。私はそうは申していないつもりで、実際には「公募」であればとりわけ、応募の機会は広く開かれ、その方々の研究業績や研究教育経験などをはじめ、量的にも質的にも厳正公平な審査を致します。特には、やはり研究業績としての代表的な著作なり論文なりを客観評価するのが中心になります(某々々大学では、連携先との関係で「来て頂く」ひとにも、さらに非常勤講師で新たに委嘱するひとにさえも、「資格審査」をやっているのには仰天しました。そこまではやりすぎ、あまりないんじゃないの、と)。他方でうえにも書いたように、「科目適合性」というのも見落とせません。たとえば、このひと「理論経済学」ではよく勉強し、優れた論文等を公にしているが、募集している担当科目は「経営戦略論」ですよとなれば、科目不適合は誰にも否定できないでしょう。最近はさらに、「教育」も重視されます。大学教員はやはり教師なんだから、しっかり、効果的な教育をしてくれなければ困る、というわけで、教育に対する理念や方針、また授業の「シラバス」を作成して貰う、授業や実験実習等の進め方に新たな方法を用いる計画を示す、さらには「模擬授業」を実演して貰う等々です。すでに、非常勤で授業を持っているなどの経験も当然留意されます。

 ただ、ここには一種の自己矛盾があります。これから大学教員になろうというひとにも、ある意味「既経験」を求めることになるのですから、それでは経験のないひとにはいつまでも機会が与えられないことになってしまうではないか、という結果を免れないですよね。それには皆留意すべきですが、実態としては否定できません。それだけ、大学と教員の「教育力」が問われている現実があります。

 近年はまた、さらに社会的な活動や企業等での「現場」実践経験も重視されます。大学の先生は研究者教育者だ、ということだけでは通らず、「仕事」と社会経験豊富な実務家などの人材を教壇に立たせるべきだ、というのがこのクニの「教育政策」で、現実にもそうした人たちのおかげで学生の「キャリア教育・指導」、要するにシューカツに効果があがる、学生の関心を呼べ、モーティべーションがあがる、期待すべき人材だということになるわけです。もちろん上記のように、大学の社会連携、産学連携等にはいまや欠かせない存在でしょう。大学とは学生にとって、「学問研究の場」とは意識されず、「社会への出口」という方が実態に近いともせざるを得ません。そこで、「大学でなにを学んだか」なんて二の次三の次以下のこの国では、どのようなかたちと中味が「最適解」なのか、自ずと決まってしまいましょう。私もそうした現実に目をつぶりはしないし、また多様な経験経歴を持つ人たちにもっと大学内でも活躍してほしいとは思うものの、「学問の府」というのをそれほど安直に考えられてもいかがなものかと、古典的大学観は容易に捨てられません。豊かな経験や経歴自体を、理念・理論と方法ある「学問」として理解し、それを学生に語れるというのが望ましいと思うのです。まあ、そのへんは私自身にも30年越しの課題ですが。


 すべての大学教員人事が「公募」というわけではありません。「完全公募」と称していても、実態「出来レースに近い」というのもあるように聞きますし、個人的な人脈などで教員採用したから、「大学教員任用公正法違反だ」などとはなりません。特に、以前にも記したように、新設大学や部局となると、適格性ある相当の人数を集めることから始めねばならず、人脈が第一の頼りになります。ただ、そうした場合でも候補者の履歴書、業績調書、代表的な研究業績等は必要であり、それらにもとづいて選考の手順を踏むことが多々あります。前記のように、一定の手続きと選考で候補となっても、教授会等で承認されないこともあり得ます。まあ、「誰それセンセイからの推薦だから」、それでそのままOKなどとしたらきわめて不公平であり、ましてや外部の設置審など通りません。


 といった具合で、「大学教員人事」の諸手続は粛々と進むのであります。ただ、その「はじめ」と「終わり」はなかなかわかりにくいところだろうというお話しでありまして。



(2019.4.17)

最後の最後、わが懐からあえてなけなしのゼニを出す

 2019年度になり、私はすべての職を退きました。
 そうしたら、「カネも力もない」実態をあらためてこれ以上ないほどに味あわされました。
 「退職して、給料貰えない」年金生活の身になったからじゃありません。それは既定のことだし、世の中ほとんどの方々は同じ身になるわけで、そこに何も特別なことはありません。

 「カネ」は貰えなくなりますが、少々の蓄えはあります。どうにも暮らせないような額面ながら、ともかく年金というものも貰え、隔月15日、郵便局の行列に並んでおります。
 その一方で、出て行くカネになかなか歯止めがかかりません。今日、出版社から請求書が届きました。107,654円!もちろんそれは当然支払うべきものです。こんど「最後の仕事」として出した、拙編著『21世紀中小企業者の主体形成と継承』の、著者買取分の代金です。
 これは著者として寄贈送付した冊数分の代金で、ほとんどが過去に私自身献本を頂いた方々に、いわば「お返し」として謹呈申し上げるものです。ある意味当然の「交際費」のようなものでしょう。

 そういった意味で、この負担支出に何の不満もないし、それを前提に、出版社には刊行を引き受けて貰うようなものですから、もう当たり前のことになっております。過去にも記したように、出版というのはいまどきそういった存在なのです。

 ですから、有り体に言えば、いまどきのこの手の出版というのは、なかば「自費出版」のようなものです。一応「商業出版」で、ISBN番号を貰い、書店店頭にも並ぶ(はず)なので、そう言い切ってしまうと語弊があり、せっかく出版を引き受けてくれた出版社にも申し訳ないのですが、ともかくそれだけの現実の負担をしているのです。「印税収入」どころじゃないのは、先に記しました。



 ただ、こんどの出版は「嘉悦大学大学院叢書」という形を取り、そのように付記しているので、手に取られた方々から、甚だ不本意な誤解を受ける恐れもあります。「大学から出版補助、研究補助といったものを貰っているんじゃないの」と。一文も出ておりません
 この出版の許可は貰っておりますが、それだけです。もちろん、そういった出版補助の制度があるわけではなく、私が勝手に進めた出版企画に、「大学院叢書」のお墨付きを出して貰っただけなので、別に誰を恨むものでもないのは当然です。ただ、過去にはこういった「大学院叢書」にカネの出たこともあったらしいのですが。その後の学園の教学・財政危機と混乱のもとでは、逆さに振ってもそれは出てこないでしょう。


 一文も出ないのも承知で、あえて「大学院叢書」という形を選んだのは、無論私なりの思いと理由があります。
別のところにも記したように、私の嘉悦大学大学院での7年間の研究教育生活の締めくくり、その「成果」として、博士後期課程をおえた人たちとともに出版をする、そこに最大の意義があったからなのです。ですから、かなりの時間的無理も承知で、「2019年3月31日発行」とすることも必要でした。正真正銘、私が嘉悦大学大学院の教員であったこと、その最後の日にこの書を出した、嘉悦大学大学院叢書というかたちで、と。

 結果からすれば、私が自分の懐で(ほかの執筆者の方々もそうですが)、「嘉悦大学大学院」の名を広めるべく努めたことになります。客観的に見れば馬鹿馬鹿しい、アホみたいともされましょう。お人好しにも過ぎましょう。

 けれども、私自身には自分の人生と教育研究活動の締めくくりを記す意味とともに、正真正銘、この大学との関係の終了を明確にする思いもあったのです。

 「カネと力はなかりけり」の「力」の方では、「最後の一撃」がありました。まさしく、私とこの大学との関係の終わりを見事に描いてくれました。そのことはまた。




(2020,8,11)

これは言わなくちゃならない、「やめてくれ」と言われた終幕の顛末

 だいぶ時間も過ぎたので、少し暴露話をしましょう。
 品がないとか、人間関係に差し障るとか、そういった世間的配慮はこの際後回しにします。もうそういった世知を働かせる必要もありませんし、この先自分の命がどれだけあるかも怪しくなってきたので、「最後っ屁」的言い草も自己満足になる頃合いです。


 2017年後半だったか、嘉悦大学大学院ビジネス創造研究科長であった私に、当時の学長がこう言い放ちました。「あなた、やめてもらえませんか」とね。
 まあ、職を辞さなくてはならない不祥事や不始末をした覚えはないので、主には当時の学園の直面していた困難、入学者減少による経営危機と、これに輪をかけた創立者一族による財政の私物化・浪費で、文科省の補助もカットされ、この先どうなるかという事態、それを乗り切るにはリストラがいるというのは、まあコンセンサスではありました。
 それに、先にも書いたように、文科省の要請にこたえるには、ロ−トル教員を切って若返りを図らねばならず、その先頭に私が立たねばならなかった次第なのです(学長が持ち出したのは、主にこの理由でしたが)。



 私は前任校の定年退職後再雇用という形でこの学園に雇われ、当初は二年契約、後には年度契約で特任教員となっておりました。そのつど、勤務条件や処遇に関する契約書を交わしておりました。ですから、学園側として、「あなた来年度要りません」と言われれば、はいそうですかとなるのは、不当でもなんでもありませんし、それでもなお「使ってください」「生活に困ります」などとするのは、私の信念にそぐいません。実は私、若き日のあれこれのシューカツや、その結果大学の常勤職を得た1981年の機会を除き、自分から「採ってください」「使ってください」などとお願いしたことはないのです。頼まれれば、私のような者でもなにかの役に立つのならば、原則お断りなどせずに引き受ける、そういうスタンスできております。ですから、おかみのご用であろうが、どこぞでの調査プロジェクトであろうが、講演依頼やはたまた大展示会イベントの実行委員長に至るまで、お引き受けして参りました。


 だから、「やめてください」と言われれば、わかりました、です。文科省からの要請のみならず、この学園では慣行的に、ギリギリ70歳までが雇用の限界という理解もあったようなので、このときすでに70歳になっていた私として、身を引くにためらう理由はありませんでした。ただ、まだ指導担当の院生が前期、後期各課程に一名ずついる、その責任を果たさねばならない、それは非常勤で登校し、次年度授業をしてほしいというのが、学長と事務担当者の考えで、これに私も異存ありません。ただし、諸事情を考えるに、非常勤講師が研究指導担当というのはいかにも外聞が悪いし、文科省から突っ込まれる恐れもあります。そこで、以前に作った「客員教員規程」というのを思い出しました。「客員教授」には研究指導や授業等委嘱することもできる、これつかえるじゃないの、そうなれば外聞悪くないだろうしと。もちろん自分がその立場になるなどと、全然想定もしていなかったことですが。

 ということで、2018年度は名目「客員教授」、実質非常勤講師で、一年間週一授業を持ち、院生指導を継続しました。学部の授業からは外れましたが、大学院の講義授業もやりました。2019年3月、当人たちの努力で、前期、後期各一名の院生も無事修了を迎え、まあ後顧の憂いなくすべてを終えられたわけです。前年春に専任教員をやめるについて研究室も撤収しており、ここですべてをおしまいとする、そのついでに「嘉悦大学大学院叢書」共著も残した、万事滞りなくおしまい、掉尾を飾ったつもりでした。


 でも、すんなりと割り切れないものが、それから1年半近く過ぎたいまも残っています。かなり込み入った、少々修羅場になりそうな問題を後回しにして言えば、結局この足かけ7年間の私学教員生活ってなんだったの、という、今ひとつ素直に感情的に割り切れない思いです。あなたやめてください、もう要りませんと学長から言われる、そんなだったんでしょうか。

 当初から、大学院新設に伴い、そちらメインでやってくださいという当時の加藤学長の命だったので、学部学生諸君の十分な満足と教育成果を得られたどうかは確信ないものの、努力はしました。「事業創造論」という場で、学生プロジェクトチームのビジネスプラン発表コンテストもしました。大学院の授業でも同じような手法も取り入れ、だいぶ盛り上がりました。前任校の経験を生かし、「エイゴによる授業」も試みました。なにより、指導担当下、前期課程延べ7名、後期課程3名の修了を迎え、学位を出せました。

 この中からは、修了後大学教員になった人も2名います。うえに記したように、私が「コネで押し込んだ」りしたわけではまったくなく、もっぱら本人たちの努力のたまものですが、この7年間は無駄に給料を食み、学園の存在価値と役割発揮の足を引っ張ったつもりはありません。

 研究科長になったのも、もちろん望んでのことでもなく、学内の諸般の事情からその責を引き受けた経緯です。しかもこの「長」、これもうえに書いたように、ヒトモノカネ、何の実権もなく、何もできずでした。いろいろ「絵には描いて」みましたものの、それでおしまい。でも、大学院教員としての職責は果たしたつもりではいるのですが、んなもの、世の中では限りなくゼロに近い意味しかないのでしょう。



 もちろんこの7年間だけではなく、前任校の11年間もいちおう大学院中心の責務だったので、それにこたえるべく努力は重ねたつもりです。前期課程でのべ13名が修了、後期課程では9名が在学単位取得(うち学位取得修了者は3名ですが)しました。博士学位取得者をもっと出せればよかったという悔いはあるものの、この9名のうちから、大学教員になったひとは6名います。修士修了を含め、専門的な職業従事や企業経営の後継者のひとも多数います。まあ、自分としては、使命をかなり果たせたのではないかと実感するところです(前前任校駒澤大学を含めれば、大学教員になったのは延べ10名)。


 で、そういった自己満足だか、充実感だかでおしまいでした。
 嘉悦大学退職、それきりです。
 万一お声がかかっても、やる気あったかどうか、内実相当疑わしいのですが、何にもないというのもかなり寂しいものであることを否定できません。


 大学教員なんたって、70歳過ぎればみんなお払い箱だよ、何を贅沢言っているんだといった非難の声があちこちから飛んできそうですが、みんながみんな、そうでもないんですな、この世間でも。
 私と同年代、ないし前後の年代でも、後々「なんとか長」といった肩書きを重ね、重責を担われているひとも何人もいます。かって、
日本の中小企業研究の重鎮であった大先生方は、のちに大学学長、副学長といった職を務められたのが珍しくありません


 しかし、これは声を潜めて申さざるを得ないのですが、私の長年の知己であり、いまも大学運営の要職を務め、活躍されている方々など横目で拝見するに、こう申してはなんですが、「学界の重鎮」「学問の権威」といったひととは到底思えないお名前が大部分なのです(そうした意味で一目置かねばならないひとも勿論おられますけど)。

 ただ、おそらく間違いないことは、そうした方々は大学や学校経営の面で手腕を発揮し、まさに「経営者」たり得たという実績・実力の持ち主であることです。今の時代は、そうした方々の労をいとわぬ、また諸方面を動かせる本領発揮が求められているのですね。そうでなくて、言い方悪いけど「お飾り」の価値あるノーベル賞級大学者大先生など、今日日でもそうはいませんし、それだけでは大学も持ちませんから。


 書類作ったりするだけでうんざりする、実際ほとんど、カネや組織構成や教育内容、人選などの成果につながったこともないような私めでは、組織運営や経営の才などみじんもないこと、すでに世間様はよくご存じなのかも知れません。


 他方で、ユーメイ大学に長年勤務し、おそらく定年時にはあちこちからお声がかかったはずなのに、あえて再就職しなかった、潔い方々もおられます。まあ、「宮仕えはもう結構」という思いもありましょうし、それで困らない経済的環境を整えておられるのでしょう。

 私?正直困っています。ずっと前から見えていたことだったのに。でもそれ以上に、体がいうことを聞かなくなっています。いよいよ「詰み」でしょうか。「カネも力もなかりけり」の人生は、職もなし、それにふさわしい終幕になりそうです。

 もっとも最近、私に「クビ」を宣告した学長は、学内(再?)クーデターだか革命だかで、任なかばでその座を追われたそうです。別に個人的憾みがあるわけじゃないので、座間ーなどとは思いません。もともと学界とは無縁、企業経営者のひとだったですし。


 さもしさ承知で言えば、20年前にやめた前前任校からはいまも広報誌が送られてきます。もう形式的な関係は一切ないのですが。前任校では「名誉教授」にして貰ったので、年に一度の懇談会へのご招待もあります(本年は中止ですが)。広報物等も来ます。本来は、「パーマネントアドレス」を貰っていたはずなのに、これは「諸事情から」、なくなってしまいました。
 さて嘉悦大学からは、昨年四月以降、なんの情報もありません。まさに「手のひら返し」です。誠にすっぱりと、一切切れました。それも、望むところでもありますけどね。上記の「学長解任」など、あくまで風の便りです。



 まあ早速にご意見ありまして、「やめてくれ」と言われてやめたから、いま空前の世界的パンデミック、コロナ禍、非常な社会不安のもとで、大学は授業できない、会議会合も開けない、キャンパス・校舎は閉鎖、授業はみんなリモート実施、自宅でパソコン相手の苦しい作業、これをみんなせずに済んでるんじゃないの、とね。確かにそれはそうです、いま私がそうした責を担わされたら、たまったものではありません。ひととひとが顔付き合わせ、対話議論できる状況抜きに、いかなる「教育」があるのか、はなはだ疑問であり、そんなことはやりたくありません。3年前に「やめてくれ」と言われたおかげで、こんな事態いま免れているんだとは、結果論としてはそうです。もちろん、誰もそんな未来を想像していたわけではないでしょうが。

 現役教員の方々の非常なご苦労とご心痛を多々耳にするなか、私はおのれの僥倖を喜ぶべきなのでしょうか。

 そして、あっとおどろく「箝口令」の現実バクロ





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