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三井の、なんのたしにもならないお話 その三十四

(2013.05オリジナル作成/2024.3サーバー移行)



 
 
私のカメラ遍歴(その一)


 
 人間いい歳になると、「懐古趣味」にのめり込み、またマニアックに「お道具自慢」を始める、これはweb上を眺めていればすぐに気がつくことです。
 
 そこを私めも、「昔使ったカメラ」回顧談を並べるようになっちゃあ、同じような古い年寄り横並びと笑われるのが関の山ではありますが、ここんとこ言い張っていることのルーツ・理由はここにあるのよと、いくらか自己主張をしたくなりました。もっとも、「自慢」になるようなものは一つもなく、「独自の主張」を正当化する、ちょっとひねたもののオンパレードではあります。
 
 
1.まさにスタート、「スタート35」

 人生最初にいじったのは、「スタート35」といういまは珍品、しかしよく考えると相当なボロ、カメラもどきであります。それでも60年前の少年たちにはあこがれの品でした。もちろん私が自分で買ったわけでさえなく、兄が買った(小遣いを貯めてのことでしょうか)のを、私もいじらせて貰ったというか、勝手にいじったというか、そういう次第です。

 この現物は60年を経て、いま私の手元にあるんですな。兄が知ったら怒りましょうか。いまも使えるのか、試したこともありませんが、「壊れ」そうなところもないくらいちゃちなものではあるので、ことによると動くのかも知れません。でも、まず無理なのは、フィルムが特殊、「ボルタ判」というよくわからないヤツであるからで、35mmフィルムと同じ大きさだけどパーフォレーションがなく、裏紙付で巻くというブローニーフィルムの出来損ないのようなフィルムを使用しました。裏蓋の窓で、裏紙に書かれたコマの位置を確認しながらノブを巻くのです。もちろんこんなフィルム、いまどき絶対に手に入りません。マニアのうちには、35mmフィルムを自分で加工し、裏紙をつけて、スプール軸に巻いて使用するなんていう曲芸をこなす方もあるようですが、当然ながら私めには、そんな器用さも手間暇もやる気もない、したがってスタート35の現物は化石としてずっと眠っている次第です。
 
 レンズは単玉F8/42mm、シャッターはBとIのみ(Iとは1/30secくらいということらしい)、あとは絞りのようなもの(SとW)がついているだけという超シンプルさ、これで写真が撮れちゃうのであれば、後世のあらゆる技術進歩は否定されることになりますが、まあ撮れなくはないのですよ。レンズなんかなくっても、ピンホール写真というのが現にあるくらいですから。
 
 この素晴らしい原始的「カメラ」で、私がシャッター押した写真がネガとともにいまも残っているのです。おそらく、10歳くらいの頃のでしょう。当然これが「写った」と言えるのかどうか、相当に疑問のできばえですが、ともかく間違いなく「記念」にはなります。裏窓式のおかげで、二重写しもやりました。まあ、兄も私もこれを実際にいじった期間はかなり短かったかも。
 
 なお、1960年代にはこのちゃちなスタート35をはじめとするボルタ判カメラはかなり使われていたようで、現像済みネガはそれ専用の紙ケースに収まっています。一方で、「ボルタ判フィルムは35mmのをそのまま裏紙に載せただけだった!」なんて大発見のような情報をもっともらしく画像付きで振りまいている人もいますが、とんでもありません。このネガケースの中身を見れば、パーフォレーションもない棒状のフィルムに、22×22mmという小さなスクエア画面が記録されています。この人は後世、ボルタ判フィルムが手に入らなくなり、うえのように35mmフィルムを加工して代用した、それをどっかで見つけて「大発見」のように思い込んだのでしょう。この手のピンぼけ誤報が、インターネット時代のおかげで大手を振って横行するようになる、恐いことです。
 
 

2.「ゼノビアフレックス」

 兄はその後、奮発して「本物のカメラ」を買いました。それが当時大流行の二眼レフである、「ゼノビアフレックス」というヤツなんです。私の撮ったスタート35の写真のうちに、兄がこの二眼レフを肩から提げ、得意げな表情なのもあるので、かなり早い時期のことでしょう。兄がなんでこれを選んだのか、とっくの昔に忘れましたが、よく言われるように、当時は「AからZまで」のメーカー名の二眼レフが売られていた時代で、もちろん「ゼノビア光学」は掉尾を飾っていたわけです。この企業、以前は「第一光学」であったと、その道の専門家のひとの解説に書かれています。

 
 レンズはF3.5/73.5mm、シャッターは手動チャージながらB・1〜1/500までと本格的であり、一応「カメラらしい」仕事もできました。ものの本には「ローライコードのコピー」とも書かれているようですが、そっちの方をさわったこともない私としてはよくわかりません。これまた私は兄から借りて、修学旅行などに持ち出した記憶があります。それで撮った写真はいまもちゃんと残っており、まあ記念写真などにはなります。奈良公園の鹿を撮った「傑作」もありました。もっとも、シャッター速度など当初からかなり怪しかったですが。

 
 兄はきちんとした皮ケースも備えるなど、かなり丁寧にゼノビアフレックスを使っていたはずですが、これもまたなぜかいまは私の手元にあるんですな。もちろんもうウン10年も使っていません。引き出してみても、前面皮がはがれるなどボディの老朽化著しく、メカの動作もまず無理そうで、「クラシックカメラ」としていじってみるのはまったく不可能に見えます。実際にこれで写真を撮ったというのは、5年間くらいのことだったのではないでしょうか。

 いつの間にか終わった二眼レフブームで、今どきもう見かけることも稀れ、その一方で訳のわからん「イチガン」ブームの起こっていることは、別のところに書きました
 それはともあれ、私には二眼レフは忘れられないものなので、なんと70年代末に買ったりしたのです。その顛末はまたあとで。




 
 

3.オリンパスペンD

 まさしく「ペン」であります。一世を風靡した大ヒットシリーズ、そのかなりあとの頃の製品ですが、これは父のものでした。ハーフサイズ、完全手動ながら、当時破格のF1.9レンズをつけ、シャッターは1/500まで、露出計も内蔵していて、相当に「時代の先端を行っていた」製品であったはずです。もちろん露出計で「自動に」適正露出になるわけじゃなく、絞りとシャッター速度リングをそれぞれいじり、セレン露出計のメーターが示すLV値と、リングの窓の表示を一致させるという、当時としてはすすんでいたのか、えらく面倒なやり方でした。しかし、この頃の高級カメラの主流であった「35mmレンジファインダー」の行き方とは真逆に、ピント合わせのメカは全然ないのです。オリンパスペンは固定焦点で「ピント合わせ不要!」が元来売りだったのですが、F1.9レンズではさすがにそれは無理、しかし合わせるのは「目測」なのでした。被写体をにらんで、「だいたい3mくらいだろう」と勝手に決め、ピントリングを指標に合わせる、それ以外要りません、できません。

 

 これでもちゃんと写るんですよ。その当時、私はこのペンDをかなりいろんな場に持って行っていたですね。高校の遠足やら教室でのスナップなんていうのもいまも残っています。よく父が黙っていたなといまは思うけれど、当時父は大変に多忙で、まあ子供がカメラを活用していれば悪くもないと黙認していたかも。
 ともあれ、時々外れるけれど、こんな目測ピントでもまあ写るのです。ですから以来、私はフォーカス方面にはあまり気を遣わない癖です。のちに華々しく登場した「オートフォーカスカメラ」にはどうも信用ならない思いがしました。もちろん、花にクローズアップでなんていう際にはヤマカン目測では外れるのが常ですが。

 
 このペンDはかなり長い期間活躍してくれたはずですが、独特の(ちゃちな)リアギアフィルム巻き上げ方式に無理があったか、そのへんがいかれて、アウトになりました。ですから「遺影」も残っていません。それでも、カメラの扱いの基本は大部分、このペンDのおかげで学んだような記憶です。いまもハーフサイズ画面を刻んだネガフィルムがストックされています。まあ、ハーフサイズのカメラで、横長画面を撮るにはカメラを縦位置に構え直さないといけない、その不自然さはつきまとっていましたし、フィルム巻きつけの甘さもあって、高校修学旅行の際には大部分の画像が撮れていなかった、そんな初歩的失敗の苦い想い出も作ってくれたものです。小さくてハンディなのを別とすれば、あまり使いよいカメラとも言えなかったのですが。







 
 

4.コニカV

 オリンパスペンDより先に、父が自分の趣味用に買っていたのが、当時は高級カメラの部類だった小西六製のコニカV(L)というものでした。当時で言う「距離計連動式・ブライトフレームファインダー」で、F2/48mmの明るい大口径レンズ、セイコー製のMXLレンズシャッター(このころは、X接点があるというだけで高級のあかし)、独特のレンズ横のコッキング(プッシュ)レバー二回フィルム巻き上げ式等々、マニアの心をくすぐるユニークかつ仕上げのよい製品でした。その辺、50年以上たっても変わりません。ですから、父もこれをだいじに仕舞っていて、子供なぞには触らせてくれなかったものです。

 
 そのため、このコニカVLで私自身が写真を撮った記憶はないのですが、父が相当入れ込んで、フラッシュ(ストロボじゃない)やセコニック製の露出計まで買い込んでいたことを覚えています(露出計はついてなかったので)。ですから、父が自分で撮った傑作もあるのかも知れませんが、私にはわかりません。そして、これもなぜかいま私の手元にあるのです。やはりフィルムを入れて写してみたことはないものの、触ってみると、出来の良さがよくわかり、十分に動作するようです。外観もきれいです。

 ちなみに「L」とつくのは、当時はやりの「ライトバリュー」表示のメカを備えていたからでしょう。「ライトバリュー」というのは、絞りとシャッター速度(実際にはその逆数)の積が、その状態での適正露出値として一定になるという関係を用いた指標で、あのころは露出計もこの値を表示するようになっていたと記憶します。まあ絞り値やシャッター速度というのはこの関係をもとにして設定されたのですから、当たり前ではありましょう。これによって、シャッター速度をいじる、あるいは絞りをいじる、それに応じ適正な絞り値やシャッター速度が決まってくる、コニカVLの場合はレンズまわりのリングにライトバリュー値が示され、これをまずあわせておけば、「自動的に」適正露出になるわけです。正確には、シャッター優先に近いのでしょう。この方式がなぜなくなっちゃったのか、おそらくカメラがみんな露出計を搭載するだけでなく、そのデータで自動的に適正露出も制御してくれるので、「値を読む」必要自体なくなっちゃったからでしょう。その間に、LVではなくEVという同様の数値の方が主流になったせいもあるようで、EVはいまも生きてはいるわけです。こっちは、フィルム感度なども計算に入れた、使い勝手のよい設定だそうな。

 
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 まあそういうわけで、このあたりまでは実は私には「自分のカメラ」というのはありませんでした。その後、「マイカメラ」はどうなったのか、これは続編で。

 それにしても面白いのは、こういった古い時代のカメラの情報確認のために、古いカメラ雑誌をひっくり返していたら(そんなのは当時から手元にそなえ、とってあった)、「カメラの将来」なんていう特集座談会の記事を見つけました。「もっと電子化がすすむ」などとは予想されても、誰一人「フィルムがなくなっちゃう」とは想像もしていないのですな。これが70年代末のことです。




 

☆これにも、それぞれの画像の説明を載せます。

        
Start35<調査中> <調査中>
Zenobiaflex奈良公園の鹿
PenD奥多摩御岳





返しました


 2016年、うえのスタート35ゼノビアフレックスを、「本来の持ち主」である兄に送り返しました。兄にとっては、おそらく半世紀ぶりの再会でしょうか。
 昨年に母が他界し、私たちの世代の「身辺整理」の一環と言うより、兄自身が諸般の事情を機に、「回想記」など書き始め、第一稿を私も見たら、幼かりし頃のカメラ話、その記述が間違い、ですから私も、「手元にあるんです」と伝えねばならなくなったのです。もちろん別に兄に隠していたわけではなし、兄がこの「話し」を見ていたら、すぐに明らかになったはずなのですが。


 しかしそうなれば、当然「兄のものは兄に」返さなくてはなりません。実のところ、兄自身が自分の買ったこれらのカメラが半世紀後にも「ある」というのを想像してもいなかったようなので、それはそれ、悪いことでもないでしょう。


 スタート35もゼノビアフレックスももう、動く、使用できるというのは望み薄ですが、ついでに、父の買ったコニカVも兄に渡すことにしました。こちらは「兄のもの」とも言えないものの、兄の「回想記」には、コニカVも使ってだいぶ撮ったという記述も出てくるので、やはり「誰にとって懐かしい存在なのか」と考えれば、それが順当なところでしょう。

 ただ、この機会にコニカVを手に取ってみると、「いまでも撮れる」はずであったのが、残念ながらシャッターの動きが妙です。8枚羽根のレンズシャッターの動作が緩慢で、ゆっくり開く、ゆっくり閉まるという状態、やはり老化して、スムースに動かなくなってしまったのでしょう。カメラ修理を趣味とするひとのwebサイトではよくある、潤滑油の劣化硬化などによって、シャッター羽根同士がくっつく、動作が妨げられている、そういうトラブルに思われます。

 これは分解修理可能なはずなのですが、そこまで今どきするか、兄の判断に任せました。


 ともあれ、これでこのページに載っていた四台はいずれも、私の手元からは姿を消しました。





(2024.2)

☆その兄の息子である、わが甥昌志は「フォトグラファー」で生計を立てていますが、彼はおそらく、フィルムカメラをほとんど手にしたことがないはずです。完全なデジカメ世代、まあそういう時代なのですね。

 当然、相当にいいデジカメをいじっているはずですが、デジカメどころか須磨甫圧倒の当世には、逆に貴重な「プロの証」なのかも。


その二へ