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三井の、なんのたしにもならないお話 その三十二(2013.05オリジナル作成/2024.3サーバー移行)
いまは亡き先生方 −二人の「山崎先生」
私が生涯のうちで「師」と呼ばせていただくことのできる、3人の先生、いずれもが他界されました。3人も師がいるというのは今どき幸いきわまりないじゃないかという評価もできましょうが、いずれの先生にも誠に不肖の弟子でしかなかった私としては、そのように自称することさえもはばかれることは事実です。
そして2013年春、大学院での指導を担当され、実に9年間も辛抱強くつきあいを下さった黒川俊雄先生が、89歳で亡くなられました。
佐藤先生を別とすれば、飯田先生、黒川先生いずれのもとでも、ご専門の「社会政策」「労働問題」「賃金論」などには結局からむことなく、筋違いの方向に転じてしまった私ですから、正真正銘不肖の弟子です。もちろんいずれの先生の門下からも、その道を継ぐ研究者が多数育っていますので、一人くらい道を外れたとて、お怒りにもなっていないだろうと、勝手に納得をしております。特に、黒川先生に教わったことは、結局酒の飲み方であったような気もしており、事実先生出入りのいくつかの店で、院生らが勝手に飲み、相当の損害を及ぼしたことも間違いなく、いまにして誠に身のすくむ思いです。
もちろんそれだけじゃああまりのあまりですから、両先生に習った、文献の読み方、比較研究の考え方、「現地調査」「面接調査」を含む徹底した実証研究の姿勢など、私は私なりに会得をしてきたつもりではあります。
私には、このほかにも「教わった」と呼ばせていただきたい何人かの先生がおられます。そのうちに、二人の「山崎先生」がいらっしゃいます。
お一人は、山崎俊雄先生でした。科学史技術史のご専門で、当時は東工大教授のかたわら、私の在学中に大学院に出講されておられ、研究科は違いますが、「生産管理特論」の名称での授業に参加させていただきました。まあ、これも反省材料そのものの、大学院在学中にいろいろ首を突っ込み、どれもこれも虻蜂取らずであったその傳で、こんなところにも顔を出していた次第です。温厚な学究という雰囲気の山崎先生は、いろいろな経験や研究経歴を語って下さり、かたわら独語の資料を読むように院生に命じられ、大汗かいて「翻訳」のようなものをなんとか仕上げた記憶が、いまも頭の片隅に残っております。一緒に技術の資料館に見学に行ったときの記念写真も残っています。
そんなこんなで、「技術論」「技術史」も囓ってみたりした私でした。もちろんなにもものになってはおりませんが、山崎先生の教えから、そちらの研究に入っていった人もいたように記憶をします。
もう一人の山崎先生は山崎功先生です。いまはお名前を知るひとも少ないでしょうが、かつては日本でもブーム的に注目された、イタリアの「構造改革路線」を現地の目線で語れる、貴重な研究者の一人でした(『グラムシ選集』などの監訳者として著名)。正確には、山崎功先生は長くジャーナリスト・著述業であり、いわゆる大学などの研究者になったことは一度もありません。「読売新聞ローマ特派員」の肩書きが長く用いられていましたが、ご本人の話からは、ずっとイタリアにいたんで、たまたま頼まれて「特派員」というのを引き受けたのだそうです。
1960年代の日本の社会で、山崎先生ほど長きにわたりイタリアに滞在、その政治や社会の姿をあらゆる角度から知り尽くした人は他に類を見なかったはずなので、この筋書きもむべなるかな、というだけではなく、実際に先生の口から、ムッソリーニ政権の崩壊と「ローマ脱出記」まで語られたのですから、文字通りの歴史の生き証人そのものでした。
学部の授業で、「イタリア労働運動史」「欧州労働運動史」を担当され(当時、『イタリア労働運動史』青木書店、という大著を著されておりました)、服装、雰囲気どころか顔つきまでイタリア人そのものじゃないのと思わせる山崎先生、授業中もひっきりなしに煙草をくゆらせ、私ども質の悪い学生もそのマネをさせてもらったものです。今どきなら、絶対にあり得ない風景でした。
授業が終わると、「おい、コーヒーでも飲みに行くか」と気軽に声をかけて下さり、延長戦で楽しい思い出話など伺うことができました。イタリアの暮らし、イタリア人気質、歴史的な事件などこれはもういまとなっては貴重なお話ばかり、どうして記録しておかなかったのかと悔やまれるところです。もちろん、イタリア語など一言もわからない私には、ひたすら遠い世界のおとぎ話のようではありましたが、ああ、いつかはそういったかたちで外国に滞在、そこの社会など学んでみたいものだ、という思いは高まっていきました。
山崎先生のこれらの授業は、私の在学中に打ちきりになり、それを聞いた私は学部当局に異議を申しました。こんな貴重なお話の数々をなんともったいないと。しかし、「これらの特殊講義はテンポラリに置いたものだ」と押し切られ、線香花火のような「異議申し立て運動」もそれきりとなってしまいました。こんなささやかなことにも、山崎先生は感謝を示され、そのためか、私の手元には山崎先生の公刊された著作だけでなく、自費出版的な「詩集」(『遠き草笛』1968年)さえ、サイン入りでいまも残っています。
いま、同門でイタリア労働運動史を専攻された先輩もおり、さらに最近はイタリア社会などに長期滞在、現地からの実地調査と一次資料の数々で貴重な研究成果をあげる若手のひとも続出しています。それぞれ大変なものと、「グローバル化」時代のフロンティア的研究の意味を実感させられますが、いまから数えれば80年以上も前、1930年代40年代からのイタリア社会を縦横無尽に実感経験され、ご自分の語り口で述べられた山崎功先生の格好いい勇姿は、いまも鮮明に目に焼き付いています。
山崎 功 (1907-1983)
黒川俊雄 (1923-2013)
飯田 鼎 (1924-2011)
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