いわゆる「押しつけ憲法論」について

 現行憲法はGHQが提示したものの直訳であるなどという極端な主張ではなくとも、占領軍の押しつけによってできたものだから、改正すべきだとする論議があります。

 結論から先に書くと、
こういう議論のほとんどは不毛なものです。それは、なぜか?

 
それは、現行憲法の現在の問題を取り上げるのでなく、過去の問題を取り上げているからです。過去にのみ拘泥し、現在の問題を取り上げない社会制度論議は、不毛なものにならざるを得ないのです。

 ある憲法の解説書にこんな意味の言葉がありました。「押しつけを理由に現在の憲法を非難する人々は出生の事情を問題にしている。しかし、憲法がどのように育ったかこそが問題なのだ」というようなものと記憶しています。

 あらためて、あなたに、お尋ねします。

 あなたは、出生の事情で、その人の価値を判断する人ですか?

 あなたは、部下の出身大学がどこかということだけで、部下の仕事に対する能力を判断する人ですか?

 それとも、その人がどのように生きてきて、いまどのようなパーソナリティを持っているか、あるいは何を大学で学び、どのような仕事のキャリアを経て、現在はどのようなスキルを持っているか、そういうことこそが大切なのだと考える人ですか?

 あなたは、どちらでしょう?

 「氏が大事」派ですか、「氏より育ち」派ですか?

 「学歴尊重」派ですか、「実力尊重」派ですか?

 あなたが「いま」が大切なのだと即座に答える人ならば、「押しつけ憲法であるから改正すべきだ」という「押しつけ改正論」を支持することはないと思いますが、いかがでしょうか。

 しかし、世の中、すべてあっさりと割り切れるものではないことも、また、事実。また「過去」が将来を考えるよすがとなることも事実。以下は、そういうパースペクティブにたったときの話。

§

 「押しつけ改正論」の指摘は、

  1. 帝国憲法からの継続性(現行憲法の合法性)を問題とする
  2. GHQの憲法案作成権限の有無を問題とする
  3. 憲法案作成スタッフの能力と期間を問題とする

などです。

 もっとも、敗戦による特殊な状況を考え合わせると、「だからなんだっていうの、それしかなかったからこうなった。それでいま、不都合だっていうのなら、そこを直せばいいことでしょ」って気がしないでもありません。

 たしかにもっと深くこの国のありようを考えるためには、
敗戦の特殊性の中にすべてを解消したり、ごまかしたりせずに、問題を原点に立ってとらえ直す努力は必要だと、わたしも考えます。しかし、その場合には、多少困難なことでも、事実をきちんと調べ直して、自分なりに再構成するという姿勢がなくてはならないでしょう。

 はじめに結論があって、その結論にあうものだけを拾ってきて「ハイそれで終わり」とするお手軽な態度・姿勢に終始したり、その結論のために事実さえ無視するというのなら、最初からやめておく方がかえって誠実というものです。

<この項終わり>

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