1.帝国憲法からの継続性(現行憲法の合法性)を問題とする論考

 本来、こういう論考が最初に来るのはおかしなことなのです。前ページのたとえを繰り返せば、

「彼の仕事のやり方は間違っている。まず、・・・というやり方は、・・・の点でお客さんの要求に答えていないし、・・・というやり方も、・・・の点でいまの経済状況にもあっていない」

・・・と続いた後で、

「まあ、だいたい、彼は妾腹だからさ、無理ないけどね」

と落とすのが、よくある順序ですものね。

 しかし、「押しつけ改正論」では、この話が最初に来るのです(相原良一「憲法正統論」展転社:1996などを見よ。この本、あの「神皇正統記」まで持ち出すのですから、格調高くて、思いっきり、嗤えます)。後に続く「押しつけ改正論」の不毛性は推して知るべしというものです。

 現行憲法はGHQの「正式な命令」を受けて強制的に作らされたものではありません。つぎに述べるような事情の当然の結末として、GHQの案を受け入れざるをえなくなり、結局これをベースとした憲法改正案を作成し、他でもない我が国政府の責任のもとに、帝国憲法に定められた所定の手続きを踏んで成立させたものです。形式上の正当性には何の問題もないと考えるのが妥当でしょう。

 帝国憲法の枠組みの中で、天皇が裁可して公布する手続きを取った以上、現行憲法は、形式上は、欽定憲法であって民定憲法ではありません。(このことは憲法の一番はじめ、「上諭」という部分に明示されています)

上諭」は注目されることの少ない部分なので、この機会に書き写しておきましょう。

 朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

 国民主権を内容にうたう憲法が欽定憲法だというのはなにかおかしな気がするかもしれませんが、それが歴史とか社会制度の継続性ということなのかもしれません。

 強制的なものではなかったと書くと、きっと多くの異論がでるでしょう。正式の命令こそなかったが、GHQは自ら案文を作成してそれをベースに憲法改正を迫ったではないか、それが強制でなくて何だというのだと。あるいは、いわゆる「松本案」ができていたにも関わらずGHQはそれを一顧だにすることなく自分たちが作ったものを押しつけた、「聞く耳持たぬ」というその姿勢こそ占領者の強制のあらわれではないかと。

 しかし、1945年10月から1946年2月に至る間の日本政府とGHQとのやり取り、そして、いわゆる「松本案」なるものの中味について虚心に調べるならば、あまりに愚かな我が国政府関係者とあまりに貧弱な憲法改正論議を知って、これならばGHQによる憲法改正案提示という屈辱の事態の招来は必然だったと判断される方の方が多いと思います。

 詳しいことは、前のノートに上げた参考文献や、それらの本に上げてある参考文献をお読みいただきたいのですが、これらを読むときに、あらかじめ頭に入れておくと理解しやすいかなと考えられることのみ、箇条書きしておきます。

  1. ドイツの占領がアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国によって分割管理されたのに対し、日本の占領は連合国の共同管理という枠組みで行われた。これはドイツ占領が分割管理の故にソ連の大幅な介入につながったと考えたアメリカが、当初から主導権を維持することを念頭にソ連の日本進駐を拒否するかわりに選択した枠組みだったといわれている。
    「名を捨てて実をとる」やり方ではあったが、形式上とはいえこの共同管理のためにGHQの上部に置かれた「極東諮問委員会」が、GHQにとって煙たい存在であったことは間違いない。
    そして、この極東諮問委員会は1945年の暮れにモスクワで開催されたアメリカ・イギリス・ソ連3カ国の外相会議により、翌年2月には、より権能を強化した「極東委員会(FEC)」になる。当時の政治状況を考える場合には、日本政府・GHQに加えて、このFECも視野に入れなくてはならない。

  2. ポツダム宣言の論理的帰結として憲法改正は不可避であったが、憲法改正はGHQにとって前項の事情により表だった動きのとりにくいデリケートな側面を持っていたため正面切った指令は発せられなかった。

  3. これらの事情は当然のことながら日本政府にはいっさい伝えられることはなかった。
    また、彼我の情報を分析しこのような事情を推測した上で、我が国の立場の改善を画策するほどの「人物」は、当時の日本政府高官にはいなかった。
    それどころか、GHQから「正式な命令」が発せられなかったことを安易に解釈し、憲法改正は焦眉の課題ではないとさえ判断していた。 このことは、政府が憲法改正に関する検討のためにおいた委員会の名称を「憲法問題調査委員会(委員長、松本丞治の名をとって松本委員会と呼ばれる)」とし、なおかつその委員会も閣議了承による設置という「非公式の機関」としたことにうかがうことができる。

  4. この消極性(GHQ命令がないから現状でよいとする判断)こそが、日本人の手による憲法改正案の政府による作成の自主性を摘みとってしまった。
    松本委員会は、憲法学者や政府内の法律専門家というそうそうたるメンバーを集めながら、「必ずしも憲法改正を目的とするものではなく、調査の目的は、改正の要否および改正の必要があるとすればその諸点を明らかにすることにある(松本委員長談話)」という程度の認識でスタートし、ついに時代の要請に耐えられないお粗末きわまりない改正案しかまとめえぬという醜態を演ずることになる。(この責任の大半は松本丞治という尊大にして無能な人物にあるといってよい)

  5. 注意深く当時の全体像を押さえたいという人には、次の2点を見落とさぬようにして欲しい。

    これらは、もしきちんとした評価がなされていたならば、GHQ案のお世話になることなく日本人の手で憲法改正がなし得た可能性があったことを示すものとして記憶にとどめるべきことであると思うからです。

 いずれにしても、日本政府は結局のところ、ポツダム宣言の正確な理解ができずに、自力で憲法改正にたどり着くことはかないませんでした。GHQ案の提示はいわば松本委員会の不始末が招いた結果です。したがって、GHQによる改正案文の作成を非難するのなら、まず身内のだらしなさを認識してからでなくてはならぬということをお忘れなく。

 さて、タイトルの「帝国憲法からの継続性」あるいは「現行憲法の合法性」の件ですが、もし、ここに問題があるとするなら、考えられることとしては、

  1. GHQ案の受け入れに際して、なんらかの「脅迫]があったか、否か
  2. 改正作業を進めた当時の日本政府なり、国会に法的正当性があったか、否か

ということでしょう。

 1は、なかなか難しい問題だと思います。なぜなら、複雑な当時の政治状況を総合的に把握しなければ、この問題には答えられないからです。このノートでは、末尾に、これらの一切に関わらず、いわゆる「押しつけ憲法論」が成り立ち難い理由を述べる予定ですので、この問題には立ち入らないことにします。

 興味のある方には、このあたりについてかなり精緻な検討を行っている田中英夫の「憲法制定過程覚え書」(有斐閣:1979)に収められた一連の論考をおすすめします。(田中の結論は、「脅迫はなかった」というもので、非常に説得力があります。わたしは、説得されてしまいました(^_^))

 2は、比較的簡単に判断できると思います。GHQが直接統治権を留保しながらも、原則的には、日本の統治機構を利用する間接統治方式を採用したことを知らぬ人はおりますまい。そのような権力構造であった以上、GHQによるコントロールという制約はあったとしても、政府と国会の権能は停止されていなかったことは明らかでしょう。

 あまり出来のよくないサンプル(ここ −> いまは削除)に、現行憲法の帝国議会における審議と可決の有効性を疑う部分があります。これは、当時の政治制度に対する知識の欠如から来るものだと考えられます。

 間接統治方式を採用した以上、たとえGHQの決定であっても、日本政府のなんらかの法的な強制力を背景とすることなくしては、有効に実行されることはないことは、だれの眼にも明らかでしょう。

 その機能を果たしていたものが、1945年9月20日に発せられた「ポツダム緊急勅令」でした。そして、同様に「ポツダム緊急勅令」が有効であるのに「明治憲法は停止されていた」と考えることは、スジの通らない話だということも、だれにでも明らかなことですね。

<この項終わり>

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