3.憲法案作成スタッフの能力と期間を問題とする

 「押しつけ改正論者」が強調する主張に、

  1. GHQ案の作成スタッフには憲法学者は一人もいなかった
  2. しかも作成期間は10日間であった

というものがあります。

 憲法の制定過程についてほとんど知らない人か、あるいは、世の中で起きていることを表面的にしか受け止められず、あまりものごとを深く考えることができない人ほど、この主張を受け入れる傾向にあります。

 しかし、仮に制憲過程についての知識がなくても、多少なりとも現実感覚のある人ならば、こういう主張を簡単に受け入れることはないでしょう。それはおそらく

専門知識もなく、十分な準備もなくして作られたものが、40年も50年もさほど大きな破綻を見せなかったのは、どうしてだろうか?

という至極当然な疑問がおきて、直感的に「やはりなにか理由があるはずだ」と考えてしまうからです。

 さらに、ある程度、制憲過程について知識のある人ならば、このふたつの指摘はひどく皮肉なものに思えるのではないでしょうか。なぜなら、GHQが憲法案を作成することになったきっかけである当時の「政府案」を検討していた松本委員会こそ、

当時の我が国における最高水準の憲法学者を集めたものであり
少なくとも3か月間の検討期間があった

にもかかわらず、お粗末きわまりない改正案しかまとめられなかったという事実をご存じでしょうから・・・。

§

 「GHQ案の作成スタッフに憲法の専門家は一人もいなかった」ということをもって、だから現行憲法の質が悪いかのように主張する人がいます。そういう人に「おっしゃるような悪さが出ている具体的なところはどこですか?」と尋ねると、せいぜい「戦争放棄」条項をあげる程度で、その後に答えが続かないことが多いのです。不思議な話です。もっとたくさん例をあげることができてはじめて、「これほど問題が多いのは・・・」というのが論理的必然というものでしょうに。

 「憲法制定過程覚え書」(有斐閣:1979)の中で田中英夫は次のように書いています。

「・・・憲法の理論の研究ならば、専門の学者が秀れているのが当然である。しかし、憲法のドラフティングについては、必ずしもそうとはいえない。技術性が強く、細部までルールを設けなければならない分野とは異なり、国の統治の機構の大綱を定める憲法については、法律学の素養があれば、さまざまの文献を参照しながらドラフティングにあたることは、それほど至難事ではない。むしろ、そこで第一に要請されるのは、一国の今後のあるべき姿に対する洞察という、ステーツマンシップなのである。」

 長々と引用したのは、この節で扱っている問題以外にも関わる意味を持つと考えたからです。

 「GHQ案の作成スタッフに憲法の専門家は一人もいなかった」ということを云々する人に再度お尋ねしたいことがあります。

 
「帝国憲法の有力な起草者であった伊藤博文は憲法の専門家だったのでしょうか?」と。

§

 同様に、「GHQ案の作成期間はわずか10日間であった」ということも、本末を転倒した主張でしょう。「第何条のここと第何条のあそこの不具合は、GHQ案のここが原因で、それは検討期間がなかったせいだ」という指摘をしてはじめて主張できることを、「10日間で作られたのだから粗雑なはずだ」などと主張するようでは、「そういうあなたの頭の方が粗雑だ」といわれても文句は言えないでしょう。

 GHQ案を見てみれば、多少ともセンスのある人ならば、

  1. なにかベースになるものがあったのではないか
  2. ある程度事前の準備がしてあったに違いない

と疑うのが当然ではないかと思います。

 答えは、「イエス」です。

 帝国憲法制定の前にも民間にいくつかの憲法案があったように、この時も在野で新憲法案を検討する動きがいろいろあったのです。

 GHQは、これらをウォッチしつつ、中でも
鈴木安蔵・高野岩三郎らの憲法研究会が1945年12月26日に発表した憲法改正要綱に注目し、年内に英訳を用意し、翌年1月11日には内容を評価した内部文書をまとめていました。そして、これがGHQ案作成のベースとなったのです。

 事実を見ようとしない「押しつけ改正論者」には衝撃的かもしれませんが、
GHQ案は100%アメリカ製ではなかったのです。

 また、GHQ案作成スタッフのうち何人かは、いずれ提出されるであろう日本政府案をめぐるやり取りに備えて、日本の政治制度に関する調査を行っていました。たとえば、地方行政を担当したティルトンは、既に1945年10月末から東大の田中二郎教授の教室に週2回程度通ってレクチャーを受けていたといいます。

 このような背景と準備があって作成された憲法改正案であったからこそ、10年、20年、・・・の命を保ち、50年を経てさすがにほころびが見えるという現在を迎えたのです。

<この項終わり>

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