4.元号名はどこからとられているか?・・・おもに漢籍からとられている

 日本の元号名は初期の例をのぞくと、ほとんど漢籍からとられているといいます。またその読み方も音読みです。

  もっとも、元号の読み方に関する記録はなく、仮名遣いも元号亡者が主張するほど、きちんと確立したものではなかったため、確定的なことはよく分からないというのが実情です。明治の初め頃に、文部省がまとめた「年号読例」という本があるそうですが、「皇紀」の定め方などを望見するかぎり天皇制イデオローグの「ゴマカシ」と「インチキ」が紛れ込んでいる可能性は高いでしょう。

 元号名の出展となった漢籍のベストテンを紹介すると、


    書経・易経・後漢書・文選・漢書・晋書・旧唐書・詩経・史記・芸文類聚

といったものが並びます。

 ちなみに、今の元号「平成」は「史記」と「書経」が出典ということは、後に総理になった小渕某が読み上げたとおり。

わたしは「平成」という元号を聞くたび、臭くて鼻をつまみたくなるのです、「屁ェーせェい」なんて尾籠この上ない。ちっとはましな音にして欲しかったものです。(ブー、ブー、ブー、放屁論は平賀源内の著作)

 さて、元号維持論者はよく「元号は我が国の文化」みたいなことを主張しますが、素朴に考えるとこんな疑問がわいてきます。

 「ねぇ、なぜ、漢籍(中国の古典)から元号名を選ぶの?」

 この答えは、わたしには、よく分かりません。所氏の本にも、この至極当然の疑問の答えは見あたりません。

 論理的に考えられる答えは、たった一つです。

 「中国ではそうしていたから。」

 呵々。結局のところ、猿真似そのもの、猿真似を一歩も出てないんだァ・・・。

 わたしは、猿真似を文化、しかも我が国固有の文化だなんて思いたくありません。

§

5.昔から代始改元は即日実施だったのだろうか?・・・そうではなかった

 結論から書くと、日本でも、本家中国でも、代始改元(代替わりの改元)は即位の翌年に行う(踰年−ゆねん−改元という)のが一般的だったのです。


 これには二つほどの理由があります。一つ目は、もし、新しい天皇(皇帝)が即位してすぐに改元すると、先代の天皇(皇帝)の最後の年を掠め取ることになり、子が親の領分を侵すのは「不孝」にあたるという儒教的な考え方によるもの、二つ目は、当年改元を行うと、臣民は同一年に二君にまみえることになり「不忠」にあたるというものです。

平安期の古書には「践祚の明年改元の事あり。年内の改元は非礼、誤りなり」などの文言がある由。

 実際、てもとの紀年対照表を見ると、明治天皇の即位は1867年(慶応3年)1月9日で、明治に改元されたのはその翌年68年の9月8日であることが分かります。(踰年改元は、必ずしも、正月一日に行われたわけではありません)

 今の即日改元というのは、長い歴史で見ると、明治までは異例に属するものだったが、1889年制定の旧皇室典範で一世一元とともに採用されたということです。

  ところで、現在、元号の根拠となっているのは1979年に制定された、たった3項(**条というのがない、おそらく現行法令中一番軽薄にして短小な法律)からなる元号法ですが、これには
「A 元号は、皇位の継承があった場合に限り定める。」とあって、なんとなく、即日改元のようになっています。

 「昭和」から「平成」への切り替え時はかなりの混乱がありました。あの年は一年間、カレンダーには「昭和64年」が踊っていましたっけ。

 なにより、あのばかばかしい自粛騒動のあった88年の下半期、全国のカレンダー屋さんの多くは戦々恐々としていたものでした。昭和天皇が年内に亡くなったら、昭和64年と印刷したカレンダーはどうなるのだろうか・・・と。(大正天皇が亡くなったのは、1926年12月25日のことで、これは大正16年を擦り込んだカレンダーと日記類に影響を与えたようです)

<この項終わり>

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