ホーム > サイトマップ > 音楽 > 音楽エッセ > > 私にとっての歌


私にとっての歌

2010.10.06. 掲載
このページの最後へ

私にとって、歌はかけがえのないものである。公に残っている記録を調べてみても、95年の交野市医師会会報第1号の自己紹介で、一番したいこととして、「歌と思い出」を書き、三番目は「歌のインデックス」を作ることと書いている。それらはいずれも済ませ、さらに発展させて来た。

それなのに、私にとって歌とは何なのかということを、あらためて考えてみたくなった。それは、これまで、このサイトに掲載してきた音楽関係の記事よりも、もっと原始的で、本能的な、しかし、私にとって大切なことを抜かしていることに気づいたからだ。

私は人間の欲求を、基本的欲求、受動的欲求、能動的欲求に分けて考えてきたが、歌は私にとって基本的欲求であり、空気、水、衣食住に次ぐものである。生まれたときから母の歌を絶えず聴き、少なくとも3〜4歳ころから、私も歌ってきた。1年の内で鼻歌の出ない日は数えるほどしかない。頭で歌っていることのない日は皆無だろうと思う。

鼻歌や頭で歌う歌なども歌の喜びではあるが、大声を張り上げ、自己陶酔の快感の時間こそが、私にとっての歌の醍醐味である。中学・高校時代は、オペラのアリアやカンツォーネ、シューベルトの歌曲などを、SPレコードに合わせて歌うのが喜びだった。歌を真似するのではなく、一緒に歌うことで、自分がその歌手と同じように歌えていると錯覚しているのだが、それはほんとうに気持が良かった。私にとって、この自己陶酔こそが歌の最大の喜びである。

大学に入って2年間、男声合唱団でコーラスに熱中した。講義は必要最低限しか受けず、もっぱら、歌を歌うために大学に通っていた。全学部から集まった男声合唱団の音楽のレベルは高く、私はここで読譜力を身につけた。それから55年以上過ぎた今も、読譜力はそのまま残っている。やはり、若いときに熱中したことは残るという一つの見本であろう。

コーラスの楽しさは経験したが、それよりも、声を思い切り出して歌う自己陶酔の方が、はるかに楽しいということもあり、医学部の専門課程に進むと同時に、コーラスを止めた。

開業して交野に住むと、家の三方が田んぼで、ここでは、大きな声を出しても近所迷惑にならず、好きなときに、好きなだけ歌う生活が30年以上続いた。リビングでも、食堂でもよく歌ったが、浴室が一番多かった。ここはエコーがかかり、適度な湿度があって、自己陶酔には最高の環境である。長風呂は好みでないが、歌っていると30分以上になることもあった。

中学・高校時代は、SPレコードに合わせて歌うことが多かったが、それ以後は専らアカペラだった。カラオケはリズムを規制されるので、好みでない。ただ、一時期、CDに合わせて歌ったことがある。それは、ミレーユ・マチューを知ったときで、車に乗れば必ずCDに合わせ、彼女と一緒に歌うのが6年以上続いた。

開業を息子夫婦に引継いでからは、大阪市内のマンションで暮らすようになった。引継ぎや転居のごたごたで、しばらく歌う気分にならずにいたが、何ヶ月ぶりかで歌ってみてショックを受けた。声量が落ち、声が響かないのだ。

すぐ思い出したのは、私が40歳の頃、ビング・クロスビーの70歳の誕生パーティーの記念録音LPを聞き、70歳でも声の衰えがほとんどないことを知って嬉しくなったことだった。やはり、私はクロスビーではない、69歳で声量は落ちてしまった、まあ、それも仕方がないか、そんな思いだった。

3年ばかり前、ある人にコーラスへの参加を誘われたが、コーラスでは時間も歌い方も規制されるのが嫌なので、見学をした上でお断りするつもりだった。それが、見学30分も経たない間に、このコーラスに入れていただこうという気になってしまった。それは、指導してくださる先生のレッスンが楽しく、素晴らしかったからだ。

このコーラスのレッスン室は、防音設備が完璧で、音の反響がほとんどない。音が吸い込まれてしまうような感じで、音量は減る。マンション内での音の減衰などの比ではない減りようだ。マンションは防音壁だけでなく、天井も交野の家に比べて30cm以上低いので、余計に音響効果が悪いのだろう。

そのことを知ってから、自分の声量が落ちたと思ったのは、ハヤトチリであることが分かり、声に自信が戻って、マンションでも、また声を張り上げるようになった。現在74歳になるが、声量は昔と比べてそれほど衰えていないのではないかと思っている。

私の自己陶酔の犠牲となった人間は、結婚43年になる妻であることは間違いない。「もう、いい加減にして!」ということばを聞いた記憶がないのは、何でも自分に都合の良いように記憶する私の性格によるのか、妻が寛大なのか、その両方かも分からない。

その次は、やはり息子だろうが、こちらは時間的に見て、妻の半分も満たないのではなかろうか? それに、学生時代からロックバンドにいて、暴音に慣れているので、私の歌くらいは可愛いものかも分からない。その次は、ぐっと下がって、亡くなった母、もっと下がって弟だろう。

歌うのが好きな人は、人に聴いてもらうことが好きな人と、人に聴いてもらうのを好まない人に、大きく分けることができる。これは程度問題だが、私は後者だ。人に聴いてもらいたいと思ったことはほとんどない。私にとっての歌は自己陶酔である。ただし、歌のほかは自己陶酔の世界を持っていない。

また、私はこれまで一度も声楽専門家に指導を受けたいと思ったことはなかった。それは、自己陶酔に必要ではなかったということもあるが、何ごとにつけ、手とり足とりで教えてもらうのが嫌いだからである。今コーラスで指導を受けているが、それが目的でコーラスを続けているわけではない。ここでのコーラスが楽しいからだ。

今回、思わぬことから、ずぶの素人でありながら、ミュージカルに出演することができた。その幸運に感謝しているが、もうこれからは、自己陶酔の世界に戻りたく思う。

最後に、自己陶酔でなく、人前で独唱した場面を、今思い出して書いておく。

 1.小学校4年庄野学級の昼休み「オー・ソレ・ミオ」「帰れソレントへ」「からたちの花」ほか多数
 2.小学校5年の学芸会「椰子の実」
 3.友人の結婚披露宴で「四葉のクローバー」
 4.妻の兄(私の友人)の結婚披露宴で「人を恋うる歌」
 5.自分の結婚披露宴で妻に「愛の讃歌」
 6.妻の従兄弟の結婚披露宴で「愛の讃歌」
 7.私の従兄弟の結婚披露宴で「オー・ソレ・ミオ」
 8.妻の姪の結婚披露宴で「あなたの隣を歩きたい」
 9.エーゲ海クルーズで新郎新婦に「ハワイの結婚の歌」
10.ミュージカルらくだのダンスで「美しき国・美しき人」

こう並べてみると、昼休みに庄野先生が、「野村君、何か唄って聞かせてちょうだい」と仰って、教室で歌ったことが、人前で歌った最初であることが分かる。その庄野先生の米寿のお祝いが、今月12日に東京であり、教え子13名が参加する。ミュージカル出演と、この文を、私からの米寿のお祝いとしたい。喜んでいただけることを願っている。


<2010.10.6.>

ホーム > サイトマップ > 音楽 > 音楽エッセ > > 私にとっての歌    このページのトップへ