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古代ローマの遺跡を巡る

 2011.4.14.〜4.21.

2011.05.10. 掲載
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目次
はじめに
ポンペイ遺跡
ナポリ国立考古学博物館
フォロ・ロマーノ
  遺跡を巡るコース
  コロッセオ周辺
  パラティーノの丘
  フォロ・ロマーノ
  カピトリーノの丘
  フォリ・インペリアーリ
現在も使われている古代ローマの建物
まとめ



はじめに

南イタリアへの旅でも書いたが、1972年の最初の海外旅行でポンペイ遺跡を訪れ、大きなショックを受け、人間は2000年程度の時間では全く進化しないという仮説を得た。それ以来海外旅行の目的の1つに、この仮説の検証が加わり、クレタギリシャのエーゲ文明、メキシコのマヤ文明古代エジプトなど優れた文明に接し、5000年の時間でも、頭脳の進化はほとんどないという仮説に発展した。

古代人をタイムマシーンで現代の世界に連れてくることができれば、科学技術を習得し、現代人と同じレベルの生活をすることができるだろうと思われる。逆に、現代人を古代の世界に置いた場合、科学技術が存在しないので、古代人のような生活を送ることはできないだろうことが容易に想像できる。

現代人と5000年前の古代人の違いは、文明の利器である科学技術と最新医療を持っているか否かであり、頭脳は現代人と変わらない。人類10万年の歴史の中で、2000年や5000年の間の進化は微々たるものであることを知った。

今回の旅行では、ポンペイ遺跡と、そこからの出土品が保存展示されているナポリ国立考古学館の訪問が含まれている。そして、最後の1日はローマで自由行動なのだ。そこで、私が大きな影響を受けたポンペイ遺跡をもう一度巡り、ローマでは、当時の古代ローマの遺跡をフォロオ・ロマーノを中心に訪れ、古代ローマの私なりのまとめをしたいと痛切に思った。

「ローマ人の物語」のような古代ローマの物語に惹かれたわけではない。古代ローマの盛衰から学ぼうという気持ちもさらさらない。2000年前の人間が、現代人と変わらぬ頭脳を持っていたことを教えてくれたことに感謝する気持ちでまとめた。私には大切な記録であるが、多くの方には面白くもない記録なのかもしれない。



図1.「古代ローマの遺跡を巡る」の舞台であるローマとナポリ (by Google Maps)



ポンペイ遺跡

ナポリ近郊にあるポンペイ遺跡は、古代ローマの地方都市と人々の生活ぶりを、ほぼ完全な姿で今に伝える貴重な遺跡である。西暦79年8月24日、ナポリ湾を見下ろすヴェスヴィオ火山が大噴火すると、南東10キロに位置したポンペイの町は6〜7mの火山灰に埋もれてしまった。その後、およそ1700年の時を経て始まった本格的な発掘により、古代都市の様子がまるで時が止まったかのように出現した。ポンペイ市民には悲劇であったが、そのおかげで、人類は貴重な歴史の証人を得ることができた。ここは繁栄の頂点で突然消えた古代ローマのタイムカプセルだからである。

発掘によって現れたポンペイの町は、整然と区画され、住居はもちろん、劇場や公衆浴場、下水道まで完備されていた。人口1万人以上と推定される町には、壁画やモザイク画、市民が記した落書きなどが当時のまま残され、ローマ帝国の市民たちの贅沢で、生活をエンジョイする姿を知ることができる。

1992年に訪れた時は8月中ごろの午後、焼け付くような暑さの中だったが、私は興奮し、夢中でビデオカメラを手にして走り回っていた。それは「君よ知るや南の国イタリア」のタイトルで、VHSから変換したDVDとして保存している。今回は、やや肌寒い4月17日の午前で、気持ち良くハイビジョン撮影を行った。これから表示する写真は、大部分がビデオから切り出したものである。

前回訪れなかった秘儀荘で、有名な大壁画をハイビジョンカメラで撮影できたことが最大の収穫である。



図2.ポンペイ遺跡周辺地図 左からナポリ、ヴェスーヴィオ山、ポンペイ (by Google Maps)



図3.79年のヴェスヴィオ山噴火による火山灰の被害地区(黒色部分)Neapolisはナポリの旧名 (by Wikipedia)



図4.ポンペイ遺跡全体の航空写真 赤丸は撮影場所で、右下は大劇場、左上は秘儀荘 (by Google Maps)



図5.ポンペイ遺跡中心地区の3D画像 画面中央はフォロ、その上端にジュピター神殿 (by Google Earth)



図6.大劇場の南にある広場(Quadriportico dei Teatri) この右側の柱は剣闘士の宿舎跡



図7.大劇場(Teatro Grande)



図8.大劇場観覧席の最上段から見下ろす



図9.アッボンダンツァ通り(Via dell' Abbondanza) ここはフォロから東に延びる目抜き通り



図10.交差点から見た道路



図11.公共泉水の水道蛇口 それぞれの道路に1カ所設けられている



図12.鉛の水道管が使われていた



図13.フォロ(Foro)全景 ここはポンペイの政治・経済・宗教の中心となる公共広場



図14.フォロの西側 西に延びる道路の入り口が見える



図15.フォロの西北側 背景はヴェスヴィオ山



図16.フォロの北側にあるジュピター神殿(Tepio di Giove) ポンペイで最も重要な神殿である



図17.フォロの東側



図18.ジュピター神殿の東側にある道路



図19.右奥にバジリカ(Basilica)が見える



図20.バジリカ ここは裁判や政治経済の討論の場所



図21.ここで発見された遺体の石膏像が展示されている



図22.フォロの公衆浴場(Terme del Foro)にある円形の浴槽



図23.男性用浴場の温浴室の壁に男像柱の装飾が残っている



図24.矩形の大理石浴槽



図25.温浴室の天井からの採光



図26.大理石の円形水盤



図27.玄関の床に描かれた幾何学模様のモザイク画



図28. 悲劇詩人の家(Casa del Poeta Tragico)玄関の床にある猛犬注意(CAVE CANEM)のモザイク画



図29.パン屋 左はパンを焼くためのオーブン、右は穀物を挽くための石臼



図30.パン焼き用オーブン



図31.居酒屋の大理石製L型カウンター 丸い部分にワイン用の壺が入る。黒眼鏡の女性は現地ガイド



図32.ポンペイの正門のエルコラーノ門(Porta di Ercolano) ここを通って秘儀荘へ向かう



図33.秘儀荘(Villa dei Misteri)の外観 大小60の部屋からなり、大広間にかの有名な壁画がある



図34.ポンペイの壁画の中で最も大きく、縦1.62m、周壁延長17mのフレスコ壁画。背景はポンペイの赤
通説では、豊穣の神ディオニソスの秘儀への花嫁の入信式とされている



図35.少年が儀式の作法を読み上げ、供物を運ぶ二人の女の隣に、式の順序を指示する祭尼がいる



図36.祭尼の右にいる老いた男が、七弦琴を弾きながら唱っている



図37.両手で預言の壺を持つ老いた男の右側に、壺を覗き込む男、その横に魔除けの仮面を持つ男がいる



図38.入信の女性を翼のある乙女が鞭打つ。次の場面では、バッカスの祭尼が裸で踊っている




ナポリ国立考古学博物館

ここナポリ国立考古学博物館には、ヴェスヴィオ山の噴火で埋もれたポンペイなどの古代都市からの出土品のうち、貴重な品々が保管展示されている。私はその中のモザイク画に圧倒された。中でも、アレクサンドロ大王の戦いのモザイク画は、1cm四方の小片150万個以上で作られ、342x592cmの巨大なもので、ポンペイのファウノの家の居間の床を飾っていたものである。この絵を西洋絵画とか世界史の書籍で見た記憶がある。

このモザイク画の表現力のすごさを示す1例として、人間や馬の黒目に光点をつけていることで、2000年前に、モザイクでこれを表現していることに感動した。

その他にも、2mm程度の小片(tessera)で描かれた精巧なモザイクとか、遠近法が使われていると分かる3D的なモザイクなど、信じられないような技術が使われている。遠近法はブルネレスキが15世紀に発見したとされているが、2000年前に既に存在し、その後忘れられていたのかもしれない。

モザイクとは、小片を寄せ合わせ埋め込んで、絵や模様を表す装飾美術の手法である。石、タイル、有色無色のガラス、貝殻、木などが使用され、建築物の床や壁面、あるいは工芸品の装飾のために施される。古くからある技法だが、ここまで完成され、それがポンペイの普通の家の床や壁を飾っていたことを知り、驚愕した。

もうひとつ、この博物館で目を見張ったのは、古代ローマのカラカラ浴場で出土したファルネーゼのヘラクレス(Ercole Farnese)とファルネーゼの雄牛(Toro Farnese)と呼ばれる2つの大理石像であった。ポンペイからの出土品ではないが、同じ時期の古代ローマの作品であり、ここに取り上げた。



図39.ナポリ国立考古学博物館(Museo Archeologico Nazionale di Napoli)の正面



図40.メナンドロスの喜劇(Commedia di Menandro)のモザイク。43x41cmで、作者の署名入り
2mm四方程度の小片を使って仕上げられている。現地ガイドの顔と比べるとその精巧さが分かる



図41.2羽の鶏のモザイク



図42.メメント・モリ(Memento mori)の名前のモザイク。ラテン語で「死を忘れるな」という意味
メメント・モリは中世に使われた警句と思っていたが、2000年前から使われていたことを知った



図43.アルコーブと錯覚するモザイク画。影の濃淡だけでなく遠近法も使われている



図44.このモザイク画には球状の奥行き感が感じられる。遠近法は2000年前に存在していたと思われる



図45.アレクサンドロ大王の戦い(Battaglia di Alessandro Magno)。




図46.アレクサンドロ大王(アレクサンドロス3世)の部分図



図47.ペルシャ王ダリウス3世の部分図



図48.アレクサンドロ大王の目と鼻の部分。 小片は1cmx1cm程度の大きさである




図49.ダリウス3世の目と鼻の部分。図46や図47の黒目に付けられた光点の仕掛けが分かる




図50.ファルネーゼのヘラクレス(Ercole Farnese) 16世紀にローマのカラカラ浴場で出土



図51.ファルネーゼのヘラクレス。両下腿をミケランジェロが作り、完成させた



図52.後で出土した下腿の部分 結局こちらは使われなかった



図53.ファルネーゼの雄牛(Toro Farnese) これもカラカラ浴場で出土



図54.ファルネーゼの雄牛。高さは4mあり、古代彫刻としては最大の大理石像



フォロ・ロマーノ

古代ポンペイ遺跡は古代ローマ人の生活をタイムカプセルで教えてくれる貴重な記録である。古今東西、このような遺跡は存在しない。しかし、当時のポンペイはローマ帝国の属国であり、人口約1万人、ローマ人の余暇地として栄えた。

それに対して、ローマ帝国の首都ローマの当時の人口は約100万人、世界最大の都市であった。ポンペイでさえ、現代人に近い生活を送っていたのを知ると、当時のローマの人々の生活、文明のレベルが非常に高度であったことは容易に想像できる。現代人との違いは、科学技術と最新医療のあるなしだと言えるかもしれない。

古代ローマの遺跡フォロ・ロマーノは、ポンペイのように1日で埋没されたものでなく、476年にゲルマンの傭兵隊長オドアケルにによって西ローマ帝国が滅亡して以来、長い年月をかけて廃墟と化して行ったものだ。19世紀に考古学的発掘が行われるまで、ここがローマ帝国の中心であったことさえ、忘れ去られていたのである。

だから、保存状態が良くないのは仕方ないが、それでも建造技術が素晴らしく、2000年を過ぎた今も、当時の威容を想像することができる。

今回のツアーのスケジュールでは、ローマは1日自由行動の日なので、フォロ・ロマーノを中心に、フォリ・インペリアーリ、パラティーノの丘、カピトリーノの丘など古代ローマの遺跡を効率よく巡ることにした。



図55.イタリア全図(by Google Maps)


遺跡を巡るコース

古代ローマの遺跡の中で、自分が見たい場所や建造物を、できるだけ多く、短時間で、効率良く巡るためには、コースの設定が肝要である。そのため、これに相当の時間をかけた。これまでの海外旅行で、コース設定にこれほど時間をかけた記憶はない。

ローマ市内の観光案内は数えきれぬほどあるが、古代ローマの遺跡巡りとなると、ガイドは極端に少なく、内容も乏しい。その中で、「CG世界遺産 古代ローマ」と「地図を旅する 永遠の都ローマ物語」はかなり参考になった。しかし、それ以上に、「Google Maps」と「Google Earth」が役に立った。

設定したコースは図56である。あらましは、コロッセオから始まり、パラティーノの丘に上り、下ってティトゥスの凱旋門からフォロ・ロマーノに入り、セヴェルスの凱旋門横を抜けて、カピトリーノの丘に上り、下ってマルケルス劇場を見たあと、ヴィットリアーノを通って、トラヤヌスのフォロからフォーリ・インペリアーリをネルヴァのフォロまで見て、フォーリ・インペリアーリ通りを進み、コロッセオに戻るというコースである。

これはガイドブックには書かれていないコースで、フォロ・ロマーノは推薦コースの逆周りになったが、結果的には、これがベストであったと思っている。



図56.フォロ・ロマーノ関連の遺跡を巡るコース(by Google Maps マイマップ)

「Google Maps」を使って自分が作った地図であるマイマップは、Webサイトで公開することができる。公開された地図は、サイトを訪れた人が自由に使い操作することができる。これは作者と読者が共通の地図を自由に使えるということで、どちらにとっても便利である。

私が計画した古代ローマの遺跡を巡るコースを、図56のGoogle Mapのマイマップにを書き込んでいる。それぞれのポイントの詳細は下記の通りである。順路は青色の直線で示している。

このマイマップを操作して、移動、拡大縮小、航空写真、地形図表示、3D表示が可能である。3D表示は[Earth]ボタンを使って行うが、Internet Explorer ではフリーズすることが多く、ブラウザは、GoogleのChromeを使う必要がある。これを使って切り出した地図を載せておいた。私はこのように使ったという一つの見本である。(図58、図59、図64、図75、図76、図86、図125、図130、図131)


◆コロッセオ周辺
 01:コロッセオ(Colosseo)
 02:コンスタンチヌスの凱旋門(Arco di Constantino)

◆パラティーノの丘(Monte Palatino)
 03:サン・グレゴリー通り(Via di S.Gregorio)の切符売り場
 04:スタディオ(Stadio)
 05:皇帝宮殿ドムス・アウグスターナ(Domus Augustana)
   クラウディウスの水道橋(Acquedotto Claudio
 06:チルコ・マッシモ(Circo Massimo)
   ドムス・フラヴィア(Domus Flavia)
 07:アウグストゥスの家(Casa di Augusto)
   リヴィアの家(Casa di Livia)

◆フォロ・ロマーノ(Foro Romano)
 08:ティトゥスの凱旋門(Arco di Tito)
 09:マクセンティウスのバジリカ(Bsillica di Massenzio)
   聖なる道(Via Sacra)
 10:ロムルスの神殿(Tempio di Romolo)
 11:ヴェスタの巫女の家(Casa delle Vestall)
 12:ヴェスタの神殿(Tempio di Veste)
 13:アントニヌスとファウスティーナの神殿(Tempio di Antonio e Faustina)
 14:カストルとポルックスの神殿(Tempio di Castore e Polluce)
 15:エミリアのバジリカ(Basillica Emilia)
 16:ユリウスのバジリカ(Basilica Giulia)
 17:クーリア(Curia)(元老院)
 18:フォカスの記念柱(Colnna di Foca)
 19:ロストリ(Rostri)(演壇)
 20:セヴェルスの凱旋門(Arco di Settimio Severo)
 21:サトゥルヌスの神殿(Tempio di Struno)
   ヴェスパシアヌスの神殿(Tempio di Vespasiano)

◆カピトリーノの丘(Monte Capitolino)
 22:ローマ市庁舎(Palazzo Senatorio)
 23:カピドーリオ広場(Piazza dei Campidoglio)
 24:マルケルス劇場(Teatro di Marcello)アポロ神殿(Tempio di Apollo)

◆フォーリ・インペリアーリ(Fori Imperiali)皇帝たちのフォロ
 25:ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂(M. a Vittorio Emanuele II)
                   通称ヴィットリアーノ(Vittoriano)
   フォーリ・インペリアーリ通り(Via dei Fori Imperiali)
 26:トラヤヌスの記念柱(Colonna Traiana)
 27:トラヤヌスのフォロ(Foro di Traiano)
 28:トラヤヌスのマーケット(Mercati Trauanei)
 29:カエサルのフォロ(Foro di Cesare)
 30:アウグストゥスのフォロ(Foro di Augusuto)
 31:ネルヴァのフォロ(Foro di Nerva)


図57.フォロ・ロマーノ関連遺跡巡り基本地図(図56 から[地図]を使って切り出した)



図58.コロッセオから眺めた遺跡巡りコースの3D画像(図56 から[Earth]を使って切り出した)



コロッセオ周辺

円形闘技場コロッセオ(Colosseo)は紀元70年にヴェスパシアヌス帝が建設を始め、10年後に息子のティトゥス帝が完成させた。5万人収容可能。コロッセオの西側にはフォロ・ロマーノ(Foro Romano)やフォーリ・インペリアーリ(Fori Imperiali)がある。

コロッセオの南西には、315年に建てられたコンスタンチヌスの凱旋門(Arco di Constantino)がある。この凱旋門はローマで最も大きい。その先にはパラティーノの丘(Monte Palatino)がある。

また、コロッセオの南約1000mのところにはカラカラ浴場(Le Terme di Caracalla)跡があるが、他の場所から離れているので時間的に無理があり、訪れなかった。



図59.コロッセオ周辺の遺跡巡りコースの航空写真(図56 から[写真]を使って切り出した)



図60.早朝のコロッセオ(Colosseo)



図61.コロッセオとコンスタンチヌスの凱旋門(Arco di Constantino)



図63.コンスタンチヌスの凱旋門(Arco di Constantino)



パラティーノの丘

パラティーノの丘(Monte Palatino)はフォロ・ロマーノ(Foro Romano)の南側にある丘陵で、皇帝や貴族たちが住んでいた住宅地である。最近、初代皇帝アウグストゥスの家が発掘され、ポンペイスタイルの美しいフレスコの壁画が知られている。近くには、アウグストゥスの妻のリヴィアの家(Casa di Livia)がある。

この丘の南側のふもとには、巨大な戦車競技場チルコ・マッシモ(Circo Massimo)がある。

パラティーノの丘への入り口は、サン・グレゴリー通りとフォロ・ロマーノのティトゥスの凱旋門の西側の2カ所である。



図64.パラティーノの丘(Monte Palatino)の航空写真 (図56 から[写真]を使って切り出した)



図65.サン・グレゴリー通り(Via di S.Gregorio)にある入場券売り場 ここからパラティーノの丘へ入る



図66.左端がカピトリーノの丘、右端がコロッセオ、その間にフォロ・ロマーノがある
フォロ・ロマーノの上にフォーリ・インペリアーリ、下にパラティーノの丘、その下にチルコ・マッシモ



図67.スタディオ(Stadio) 馬場として使用されたと言われている



図68.ドムス・アウグスターナ(Domus Augustana) ドミティアス帝の私邸



図69.パラティーノの丘のはずれで見つけたクラウディウスの水道橋(Acquedotto Claudio)



図70.パラティーノの丘の北東にコロッセオ(Colosseo)が見える



図71.パラティーノの丘の南側に、戦車競技場だったチルコ・マッシモ(Circo Massimo)が見える



図72.ここで映画「ベンハー」の戦車競争場面が撮影された。収容人員15万人



図73.アウグストゥスの家(Casa di Augusto)は閉まっていて入れなかった。ここだけが予定はずれだった。



図74.初代皇帝アウグストゥスの妻のリヴィアの家(Casa di Livia)。ここは以前から閉館中である。



フォロ・ロマーノ

フォロ・ロマーノ(Foro Romano)は、周りをパラティーノの丘、カピトリーノの丘に囲まれた、古代ローマの中心で、市民の集会や裁判、政治討論や商業活動の場として設けられた公共広場である。476年に西ローマ帝国が滅んで以来、ここは度重なる蛮族の侵入で破壊され、中世には放牧の原となり、19世紀になって考古学的発掘が行われるまで、ここがローマ帝国の中心であったことさえ忘れ去られていた。



図75.フォロ・ロマーノ(Foro Romano)の航空写真 (図56 から[写真]を使って切り出した)



図76.フォロ・ロマーノ(Foro Romano)の3D画像 (図56 から[Earth]を使って切り出した)
左上は市庁舎、その右に元老院、左下はティトゥスの凱旋門、左中はマクセンティウスのバジリカ



図77.ティトゥスの凱旋門(Arco di Tito)はフォロ・ロマーノの出口 左側はパラティーノの丘への入り口



図78.ティトゥスの凱旋門 上部をズームアップ



図79.ティトゥスの凱旋門の天井部分に施された精巧な装飾



図80.ティトゥスの凱旋門横から眺めたコロッセオ



図81.フォロ・ロマーノから眺めたパラティーノの丘(南方向)



図82.フォロ・ロマーノから眺めたパラティーノの丘(南西方向)



図83.フォロ・ロマーノから眺めたパラティーノの丘(西南西方向)



図84.マクセンティウスのバジリカ(Bsillica di Massenzio) ティトゥス凱旋門の北西にある



図85.聖なる道(Via Sacra) ティトゥス凱旋門からセヴェルス凱旋門までの間の参道



図86.フォロ・ロマーノ(Foro Romano)の3D画像 (図56 から[Earth]を使って切り出した)
左上は市庁舎、その右に元老院、左端はマクセンティウスのバジリカ



図87.ロムルスの神殿(Tempio di Romolo)



図88.ロムルスの神殿 正面像



図89.ヴェスタの巫女の家(Casa delle Vestall)敷地跡の南東端に建つ巫女の像



図90.ヴェスタの巫女の家跡の北北東 左うしろにロムルスの神殿 右うしろにマクセンティウスのバジリカ



図91.ヴェスタの巫女の家跡の北東 左うしろにロムルスの神殿 右うしろにマクセンティウスのバジリカ



図92.ヴェスタの巫女の家跡の北側にある巫女の像。6人の処女の巫女がヴェスタ神殿の「聖なる火」を守った



図93.ヴェスタの巫女の家跡北側 後ろは左からアントニヌスとファウスティーナの神殿
中央にロムルスの神殿、右にマクセンティウスのバジリカが見える



図94.ヴェスタの巫女の家跡 後ろ左にアントニヌスとファウスティーナの神殿、右にロムルスの神殿




図95.ヴェスタの巫女の家跡北西 左からカストルとポルックスの神殿、市庁舎、アントニヌスとファウスティーナの神殿



図96.ヴェスタの巫女の家跡西方向 左からカストルとポルックスの神殿、市庁舎、元老院



図97.左にヴェスタの神殿(Tempio di Veste)
後ろは左から市庁舎、サトゥルヌスの神殿、ヴェスパシアヌスの神殿、セヴェルスの凱旋門



図98.ヴェスタの神殿(Tempio di Veste) ヴェスタの巫女たちがこの神殿の「聖なる火」を守っていた



図99.補修工事中のアントニヌスとファウスティーナの神殿(Tempio di Antonio e Faustina)



図100.北東方向から見た、補修工事中のアントニヌスとファウスティーナの神殿



図101.補修工事前のアントニヌスとファウスティーナの神殿 (by Gpogle Maps)



図102.左から双子神カストルとポルックスの神殿(Tempio di Castore e Polluce)、ヴェスタの神殿
うしろ左から市庁舎、サトゥルヌスの神殿、ヴェスパシアヌスの神殿、フォカスの記念柱、セヴェルスの凱旋門



図103.双子の神 カストルとポルックスの神殿(Tempio di Castore e Polluce)



図104.カストルとポルックスの神殿 3本の大理石の柱は紀元前6年にアウグストゥス帝が修復した時のもの



図105.エミリアのバジリカ(Basillica Emilia)の右に、工事中のアントニヌスとファウスティーナの神殿



図106.エミリアのバジリカ(Basillica Emilia)は紀元前179年にエミリア一族によって作られた



図107.エミリアのバジリカ バシリカとは会堂の意味で、天気が悪いときに使われる公共建築



図108.エミリアのバジリカ 火災に遭い、アウグストゥス帝の時代に再建された



図109.エミリアのバジリカ 左にセヴェルスの凱旋門と元老院の建物が見える



図110.ユリウスのバジリカ(Basilica Giulia) エミリアのバジリカの向かい側にある



図111.フォロ・ロマーノの広場左からの眺め 左からサトゥルスの神殿、市庁舎、フォカスの記念柱
ヴェスパシアヌスの神殿、セヴェルスの凱旋門、元老院、エミリアのバジリカ



図112.左はクーリア(Curia)(元老院)、右はフォカスの記念柱(Colnna di Foca)



図113.左にセヴェルスの凱旋門(Arco di Settimio Severo)、右にクーリア(Curia)(元老院)



図114.フォーリ・インペリアーリ通りから見たクーリア(Curia)(元老院)左はパラティーノの丘



図115.手前にロストリ(Rostri)(演壇)、フォカスの記念柱(Colnna di Foca)、右背後はパラティーノの丘



図116.左からセヴェルスの凱旋門、元老院、演壇、フォカスの記念柱



図117.左からサトゥルヌスの神殿、市庁舎、ヴェスパシアヌスの神殿、フォカスの記念柱、セヴェルスの凱旋門



図118.左はフォカスの記念柱、右はセヴェルスの凱旋門(Arco di Settimio Severo)



図119.セヴェルスの凱旋門 凱旋門は通れず、右横の階段を上ってカピトリーノの丘に上る



図120.サトゥルヌスの神殿(Tempio di Struno)とヴェスパシアヌスの神殿(Tempio di Vespasiano)、うしろは市庁舎



図121.サトゥルヌスの神殿とヴェスパシアヌスの神殿



図122.サトゥルヌスの神殿 ここは古代ローマの最も聖なる場所の一つ



図123.サトゥルヌスの神殿



図124.左からユリウスのバジリカ、聖なる道、サトゥルヌスの神殿、フォカスの記念柱、凱旋門、元老院



カピトリーノの丘

カピトリーノの丘(Monte Capitolino) はフォロ・ロマーノの南東にある丘陵で、現在はカンピドーリオの丘(Monte Campidoglio)と呼ばれている。古代ローマでは、神殿、国の文書館、国庫、造幣局など国家の重要な建物が存在した。現在、国の文書館の土台の上にローマ市庁舎が建ち、その前にはカンピドーリオ広場がある。



図125.カピトリーノの丘(Monte Capitolino)周辺の航空写真(図56 から[写真]を使って切り出した)



図126.カンピドーリオ広場(Piazza dei Campidoglio)の奥にローマ市庁舎(Palazzo Senatorio)がある



図127.ローマ市庁舎側から見たカンピドーリオ広場 ミケランジェロがこの広場を設計した



図128.マルケルス劇場(Teatro di Marcello)の右にアポロ神殿(Tempio di Apollo)
ローマ初の本格的劇場としてカエサルが企画し、アウグストゥスが完成させた。1万5千人収容可能



フォリ・インペリアーリ

フォリはフォロの複数形、フォリ・インペリアーリ(Fori Imperiali)は皇帝たちの公共広場の意味である。人口の増加によりフォロ・ロマーノが手狭になっため、カエサルは54年にカエサルのフォロ(Foro di Cesare)を作った。これがフォリ・インペリアーリの始まりで、続いてアウグストゥスをはじめとする歴代の皇帝が、フォロを作り、フォリ・インペリアーリができた。

中世には土で覆われていたフォロは19世紀から発掘が始められたが、1936年にムッソリニーがフォーリ・インペリアーリ通り(Via dei Fori Imperiali)を建設したため、フォロの多くが再び埋め戻されてしまった。最近また発掘作業が行われ、現在では50%まで遺構を見ることができる。



図129.ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂、通称はヴィットリアーノ(Vittoriano)
イタリア統一記念を祝って1911年に完成した。古代ローマとは関係ないが、ローマのランドマーク的存在



図130.ヴィットリアーノ側から見た古代ローマ遺跡巡りの3D画像(図56 から[Earth]を使って切り出した)



図131.フォリ・インペリアーリの航空写真 (図56 から[写真]を使って切り出した)



図132.トラヤヌスの記念柱(Colonna Traiana)とトラヤヌスのフォロ(Foro di Traiano)



図133.記念柱はトラヤヌス帝の墓として建てられた



図134.トラヤヌスのマーケット(Mercati Trauanei)



図135.トラヤヌスのマーケット 2世紀はじめに作られ、半円形にカーブしている



図136.カエサルのフォロ(Foro di Cesare)



図137.カエサルのフォロ フォーリ・インペリアーリの始まりとなったフォロ 紀元前46年に完成



図138.アウグストゥスのフォロ(Foro di Augusuto)



図139.ネルヴァのフォロ(Foro di Nerva)



図140.フォーリ・インペリアーリ通り(Via dei Fori Imperiali)



図141.フォーリ・インペリアーリ通りはヴィットリアーノとコロッセオを結ぶ直線道路



図142.ムッソリニーは1936年にフォーリ・インペリアーリ通りを作った




現在も使われている古代ローマの建物

2000年以上の長きにわたって使い続けられてきた古代ローマの建造物がいくつかローマに存在する。
ここでは2003年の旅行の際に撮影した2つの建物を紹介する。



図143.パンテオン(Pantheon) は最もよく残った古代建築で、アウグストゥスの時代に建てられた



図144.パンテオン中央に唯一の窓 このドームを上回るドーム建築は19世紀まで世界に存在しなかった



図145.サンタンジェロ城(Castel S.Angelo)はハドリアヌス帝が自分と後継者の廟として建設した




まとめ

1972年の最初の海外旅行でポンペイ遺跡を訪れ、2000年程度の時間では、人間の頭脳は全く進化しないという仮説を得た。そして、古代ローマ人と現代人との違いは、科学技術を持っているかいないかであると考えた。この「古代ローマの遺跡を巡る」は、このような仮説を思いつかせてくれたことに感謝し、それを教えてくれた映像を、自分が納得できる形でまとめたものである。幸い天候に恵まれ、当初予想していた以上の映像を得ることができた。

これをまとめるに当たって、現代人がいかに恵まれた環境にあるかを痛感した。手のひらに入る小さな薄いデジカメで、ハイビジョンビデオが撮影できるばかりか、それから簡単にスティル写真を切り出すことができる。また、Webでいろいろな情報を入手できる。中でも、 Google Maps と Google Earth の威力には、感嘆するばかりであった。

しかし、このような素晴らしい科学技術を持った代わりに、危機的な未来を持つことになった。科学技術を使いこなす面では頭脳を使ってきたが、それ以外の面では頭脳を使うことが少ない。廃用性萎縮という生物特性から考えて、現代人は古代ローマ人よりも頭脳は退化している可能性がある。

進化していない、むしろ退化したと考えられる頭脳で、人間は危機的未来にどう対処するのだろうか?


<2011.5.10.>

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