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2007.08.21. 掲載
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いよいよニューヨークである。アメリカは、いろいろな意味で一番影響を受けた国でありながら、はじめて訪れる国であるのが我ながら不思議だ。ニューヨークを良くご存知の方は多く居られることと思う。このクルーズで2日間、私なりにニューヨークを楽しんだが、間違いのご指摘や、アドバイスをいただければありがたい。
また、ニューヨークは2日間をまとめて記録して置くことにした。時間的な経過を追うより、テーマごとにまとめる方がまとめ易いからである。テーマは、1.地理、2.入港、3.入国審査、4.徒歩観光、5.車窓観光、6.ショッピング、7.ミュージカル鑑賞、8.出港、9.まとめ、に分けたが、実際に歩いて体験した4.徒歩観光が中心になっている。
ニューヨークは、クルーズでは一番予習をしておいた都市で、見たい場所はできるだけ歩いて確かめ、ツアーバスの窓外見学で満足できない場所は、改めて別に歩いた。そのためにタクシーをフルに利用した。
ニューヨークの概略を理解するのに必要な最低限の地理をまとめてみた。
大西洋に面したスタテン島(西側)とロングアイランド(東側)の間を通って北に上ると、マンハッタン島がある。この島の西側をハドソン川、東側をイースト川が流れている。ニューヨーク(ニューヨーク市)は5つのブロックからなるが、中心はマンハッタン区(マンハッタン島)で、そのまた中心は、ミッド・タウンとローワー・マンハッタンである。
ニューヨークの道路は南北に走るAvenue(番街)と東西に走るStreet(丁目)に分かれ、Avenueは東から順に1番街(1st Ave.)から12番街(12nd Ave.)までの道路があり、Streetは南から北へ順に、1丁目(1st St.)から155丁目(155th St.)までの道路がある。この2種類の道路によって、ニューヨークはどこまでも整然と四角に区画されている。その街区を南東から北西に向けて斜めに貫いているのがブロードウエイ(Broadway)で、これはネイティブ・アメリカン(インディアン)の使っていた道である。
ミッド・タウンというのは、34丁目から59丁目を言い、ローワー・マンハッタンというのは、1丁目よりも南の東西に走るハウストン通り(Houseton Street)より南の地区を言う。ローワー・マンハッタンには、ウォール街やソーホーなどがある。摩天楼群はこれらの二つの地区に集中している。
飛鳥Uは6月2日午前5:40に、スタテン島とロングアイランドを結ぶヴェラザノ・ナローズ橋の下を通過し、6:00には左舷側に自由の女神像を見ながら、ハドソン川を北上し、7:00に90番埠頭(Pier 90)へ着岸した。ここは50丁目(50th St.)の位置に当る。
ダブリンを出てから、大西洋はおおむね曇りか雨で、3回も低気圧に襲われたため、あまり快適とは言えなかったが、ニューヨーク入港のころから晴れ間も見え始めた。自由の女神像、ウォール街の摩天楼群、さらには、ミッドタウンの摩天楼群を順に目にする度に、ニューヨークに来たという実感が湧いてくる。しかし、大いに感動するというほどではない。
米国の入国審査が厳しいことは、以前から何度も聞かされていたので、どのようなものか興味があった。飛鳥U乗船者は、上陸の有無に関わらず、全員入国管理官の対面審査と、生体認証を受ける必要がある。乗船客だけでも730名いるのだから、すべてが終了して、上陸できるまでに2〜3時間はかかるだろうとの予想が、船側から知らされていた。私たちは早めに並んだので、8時40分頃に審査は終了し、9時には上陸できた。
対面審査とは、入国管理官にパスポートを提出し、それをコンピュータのモニターでチェックされる。次に、生体認証として、まず左右の人差し指の先をガラス板の上に載せると、指紋が採取される。皮膚の乾燥している者は、湿潤用のクリームを付けさせられる。それが終わると、ゲゲゲの鬼太郎に出てくるお化けの目玉のようなカメラを向けられ、これですべてが終了する。予想していたよりも簡単で、あっけなかった。
1)メトロポリタン美術館
ニューヨークで真っ先に訪れたのがこの美術館である。膨大な展示物を短時間で見ることは不可能であり、ギリシャ・ローマ美術を観た残りの時間を、エジプト美術の鑑賞に費やした。ギリシャ・ローマ美術では、古代ギリシャの壷がルーブル美術館、大英博物館や以前訪れたアテネの考古学博物館のいずれよりも、はるかに多く展示され、それが素晴しくて圧倒された。
エジプト美術では、カイロ国立博物館、ルーブル美術館、大英博物館と比べて、大きな彫像は見られなかった。その代わり、精巧な、あるいは華麗な展示物が多く見られた。特に、エジプト壁画の数は、ここが圧倒的に多く、また上質で、思わず美しいと嘆声をあげることが多かった。贅を尽くして蒐集した美しいものを、美しく分かりやすく繊細に展示しているという印象だった。一度全部を見終ってから、特に気に入ったものを写真撮影した。
私がエジプト美術に魅せられた原点となる壁画をここで発見し、あ〜これだ!と感激した。どこかに書いたような気がするが、高校1年の美術の時間に、素焼きの湯呑み茶碗に絵を画いて、それを窯で焼いて湯呑みを制作する授業があった。私はその時ためらわず、その頃の美術書で見たエジプトの壁画を模写して、湯呑みに画いたのだった。それは、今も私の本棚に飾ってあり、私にとっては大切な思い出の宝物の一つである。その壁画に対面したのだ。あの絵がここにあったのだと知って、もう嬉しくって嬉しくって、しっかり写真に収めておいた。
世界一周クルーズでは、同じ対象について、印象が残っている期間内に比較鑑賞することができるという大きなメリットがあることを改めて認識した。
(補足)
帰国してこの湯呑みと比べてみたが、まさにこの壁画だった。下の部分に、9月27日 一年三組 N.Nと書いてある。この絵を何かの美術書で見つけ、模写をしたのだと思って、当時の書物を調べていたら、西洋美術:伊藤廉著、創元社1952年刊という64ページの小冊子の中の絵だった。それはカラーではなく、貧弱なモノクロ写真だった。
それでも、この絵を好きになったのは、今でもよく分かる気がする。シンプルで、装飾的で、それでいて動きがあり、曲線が美しい。55年前にも同じ気持でこの絵を好んだのだろう。モノクロの絵に自分で色をつけたようだが、今よりは地味なものを選んでいる。しかし、好みの色に違いはない。
私はエジプト文明が好きだが、その原点になったのはピラミッドやスフィンクスや巨大な彫像ではなく、エジプト壁画だったのだ。それを知ることができたこのクルーズに感謝している。
2)リンカーンセンター
メトロポリタン美術館の次も、迷うことなくリンカーンセンターを訪れた。ここには、メトロポリタンオペラハウスがある。ここで撮影されたオペラを何度か観たことがあり、観劇は無理だとしても、建物だけでもこの目で見ておきたかった。シンプルで近代的なこの建物は、中に入ってもモダンだった。それを取り囲んで劇場、音楽堂、少し離れてジュリアード音楽院がある。ここは音楽関係のメッカと言えるだろう。
3)セントラルパーク(ツアーの自由時間)
マンハッタンの中央部、ミッドタウンの北側にセントラルパークがある。東西約800m、南北約4kmの長方形をなしている。ここをツアーの自由時間に散歩した。中に入ると、思っていたよりも美しくはなく、こどもの遊園地を大きくした感じがしないでもない。ロンドンのハイドパークとは雰囲気が違う。良くも悪くも大衆の公園であった。もちろん、歩いたのは南東の端から北へ1kmばかりを往復しただけなので、もっと歩けばきれいなところに行けたのかもわからない。
1)カーネギー・ホール
私が若かったころ、カーネギーホールは音楽の殿堂だった。ところが、オヤッと思い始めたのが、確かアイ・ジョージが、ここでリサイタルを行なったころからだと思う。私は彼のファンで、歌の上手さは当時の歌手の中でも抜群だと思っていたが、その彼でも、カーネギーホールは格が違うと思っていたのだった。しかし、その後、まさかと思う歌手が、ここで歌うようになり、カーネギーホールの斜陽を感じていた。
タクシーが横付けしてくれたカーネギーホールは、思っていたよりもこじんまりした建物で、中に入るとチケットはいらないかという男に話しかけられた。ここには、かっては存在していたであろう栄光を感じることができなかった。日本の演歌歌手が歌って箔をつけるのに適当なホールというところかもしれない。
2)トップ・オブ・ザ・ロック(ツアー)
ロックフェラー・センターは、マンハッタンの中心部を占める19個の高層ビル群で、5番街から7番街、47丁目から52丁目という広大な面積を占めている。このビル群で働く人間の数が6万人というから、まさに「都市の中の都市」である。しかも、それが1930年代に既にできあがっていたのだから、驚異以外のなにものでもない。
このビル群の中心となる、RCAビルの70階の展望台より、マンハッタンを眺望した。セントラルパークもエンパイヤステートビルディングも間近に見ることができる。素晴しい。残念なことには、息子が一番気に入っているクライスラービルディングが「Metlife」という名前のついたビルに一部が隠されて、美しい尖塔の一部が見えないことだった。
3)セント・パトリック大聖堂
ダブリンで感動した一つがセント・パトリック大聖堂だった。ニューヨークでも同じ名の大聖堂があることを知って、5番街にあるこの建物の外観を見た。ニューヨークで一番大きな聖堂はパリのノートルダム寺院に似た雰囲気があり、美しいとは思ったが、ダブリンの大聖堂とは違ってあまり感動はなかった。それは、ニューヨークの雑踏の中を長時間歩いて疲れていたせいかも分からない。そこで、外観の写真撮影だけで済ませ、中に入ることをしなかった。
航海記をUPする度に、詳細な感想をメールで送ってくれる友人から、5番街の聖パトリック大聖堂は荘厳で立派だったので、訪れるようにとのアドバイスをもらったが、外観を見ただけで終えてしまっていた。あとで、この聖堂の内部に入った飛鳥Uの乗客から、内部が素晴しく、特にステンドグラスが見事だったと聞いたが、残念ながらあとの祭りだった。
友人のメールを読んだ夜、私はなんども目を覚まし、眠っている中でも、ダブリンで見た1m足らずの彫像群を思い出していた。ダブリンで、シャトルバスに乗って市内の中心部に向かう途中の川沿いに、その彫像群はひっそりと立っていた。これは、かって大飢饉があり、ダブリンの人口の3分の1が餓死したメモリアルだと現地の日本人ガイドの説明を受けた。このことは、観光ガイドのどこにも載っていない些細なことだが、たまたま信号待ちになったので話してくれたのだと思う。
その彫像群が気になって、ダブリンの歴史を調べて行くと、1845年にアイルランドで大飢饉があり、ここを征服していたイギリス政府の対応が悪く、数十万人の命が失われ、百万人以上がアメリカなどへ移住したことを知った。そのアイルランド人が、故国の守護聖人の名の付いたセント・パトリック大聖堂をニューヨークに建立したのだろう。
ダブリンに行って、私はすっかりアイルランドが好きになったしまった。映画「静かなる男」のジョン・フォード、ジョン・ウェイン、モーリン・オハラのいずれもがアイルランド系だった記憶があるが、間違っているだろうか?
4)タイムズ・スクエア
タイムズ・スクエアというのは、もとニューヨークタイムズ社のビルがあった広場で、ブロードウエイと7番街が交差する地点にある。ここは、現在「ブロードウエイ・ミュージカルの中心地」であり、「最新のファッションのショーウインドウ」でもある。いかにもアメリカらしい、派手な巨大広告がひしめき合って、これ以上目立つことはできないと思わせる場所だ。ここを、44丁目から46丁目まで歩いた。ゴタゴタした活気溢れる街だった。
5)クライスラービル
クライスラービルでタクシーを停めてもらったが、真横では良く分からないので、少し離れて見上げて見たら、道路を挟んだ向かい側のビルだった。ビルが周りに立ち並んでいて、全体を見通せる場所がない。一応、他のビルに一部を隠されながら、あの特徴的な尖塔のある部分を写真に収めた。後で観光ガイドに載っているこのビルの写真を調べたが、他のビルに隠されずに全体が写っている写真はなかった。
このビルに入ると、入ったすぐのところに綱が張ってあり、これ以上の進入は禁止との表示に苦笑い。写真撮影は禁じてないようなので、内部を写真撮影しておいた。
6)国連本部(ツアー)
エンパイヤー・ステート・ビルや、RCAビルの70階の展望台に登るにも、セキュリティーチェックはあったが、国連本部の内部に入るには厳しいセキュリティーチェックを受けなければならなかった。通常の手荷物検査だけでなく、ズボンのベルトに付いている金属バックルも駄目だというので、男性はほとんどベルトを抜き、不安定な状態のズボンを気にしながら順番を待つことを余儀なくされた。
内部に入ると、移動できる範囲で、これほど厳重な警戒が必要な場所はどこかなのかと思ったが、テロリストにとっては、国連本部の一部でも爆破するということは、宣伝効果があるのかもしれない。
シャガールのステンドグラスが有名のようで、一応写真に収めておいたが、私の好みではない。歴代の国連事務総長の肖像が並べられている。妻が好きなアナン事務総長のポートレートの横に立たせて、記念撮影をした。ショップでも欲しいものは余り無く、お笑い召さるな、「First Encyclopedia of Our World」という小学生向けの図解たっぷりの本を購入した。クルーズでは、小学生程度の地球に関す知識が必要なことが多く、知識のおさらいと確認のために重宝しそうだ。
国連本部の向かいにはニューヨーク・ヤンキースの松井選手が家賃月140万円で住んでいるという高層アパートが聳え立っている。1階部分には金が貼り巡らされていて、趣味が良いとは言えない。
7)エンパイヤー・ステート・ビル
エンパイヤー・ステート・ビルの展望台に上がるには、3時間待ちだと聞いていたので、外観だけを撮影するつもりでいた。しかし、中に入ってみると案外空いているようなので、上がることにした。結局は1時間くらいで展望を終えることができた。
80階の展望台は、ガラス越しでなく直接眺望できるので、写真撮影に適しているが、観光客が群がっていて、自由に位置を変えて360度撮影するのは困難である。そこで120階に登った。ここはガラス越しの眺望であるが、観光客が非常に少なく、また尖塔部分に当るので面積が少なく、360度の移動が簡単で、撮影し易い。
ここからニューヨーク全体がよく観察できる。ニューヨークの下調べをかなりしてきたので、説明がなくてもほとんどが理解できた。夜にここへ登った飛鳥Uの乗客は、待ち時間ゼロで、夜景がきれいだったと話していたが、私としては、ニューヨークの俯瞰図が分かり、それを記録できた昼間の方が良かったと思っている。もちろん、それは何を求めるかという個人の問題になるのだが、、、
1)サウス・ストリート・シーポート(ツアー)
ウォール街の東側の海べりに、サウス・ストリート・シーポートがある。古い港の町並みをそのまま残し、ウォーターフロントとして再開発された街で、帆船が係留され、ショッピングモールの建物がある。神戸のモザイクに似ていると思った。ここからは、イースト川を挟んで対岸のブルックリン地区が良く見えるので、日本人ガイドは絶好の写真撮影場所だというが、そんな風にも思えない。ただ、ブルックリン橋やその上流にあるマンハッタン橋を写すのには向いている。
ここで昼食となったが、イタリアにいるかと陰口を叩きたくなるほどのスローテンポで、ボリュームタップリの典型的なアメリカ料理が提供され、デザートはないというので、呆れてしまって腹も立たなかった。
2)ブルックリン橋(ツアーの自由時間)
日曜日のため交通渋滞がなく、予定より早くサウス・ストリート・シーポートに到着したため、1時間の自由行動時間が与えられた。そこで、私たちはブルックリン橋を渡ることにした。ガイドは往復1時間くらい必要だというが、橋のたもとまで到着するのにもかなり時間がかかりそうなので、時計を見て途中で引き返すより仕方がない。1882年にこの橋が完成した時には、世界で最長(1825m)、最高(83m)だったという。この橋は、両側が自動車専用、中央が自転車用と歩行者用の3つに分かれている。
橋のたもとから、川までの陸上部分の距離は川幅以上に長い。橋の中央近くまで来たところで時計を見て引き返した。人が歩いているところを通ったが、北側半分を歩く人が少ないので、そちらを歩いていると、自転車が私たちを避けてくれる。しかし、間もなく自転車に乗った若い女性に怒鳴られてしまった。それによって、北側が自転車専用であることを理解した次第。以前ドイツに旅行した時、自転車道の上で立ち止まっていて、自転車に乗った男性に厳しく叱られたことを瞬間思い出した。
後で現地ガイドに、ブルックリン橋の途中まで渡ってきたことを話したら、ニューヨークの人間でもこの橋の渡り方をあまり知らないと感心された。
3)バッテリー公園(ツアー)
マンハッタンの最南端にあるバッテリー公園で、トイレ休憩をした際に、前方に見える自由の女神像などを撮影した。ここからは自由の女神像のあるリバティー島行きのフェリーが出ているが、乗船客が長蛇の列をなして並んで、公園を埋め尽くすほどだったのには驚いた。アメリカ人にとって、それほど人気があるということなのだろう。
1)ロックフェラーセンター(ツアー)
ここはニューヨークの「心臓」に当る広場だ
2))グリニッジ・ビレッジ(ツアー)
作家や芸術家が多く住んでいる街
3)ソーホー(ツアー)
アートとファッションが楽しめるオシャレな街
4)チャイナタウン(ツアー)
中華街特有の活気が感じられる街
5))トリニティー教会(ツアー)
ニューヨーク最古の教会、ダブリンに同名の教会がある。アイルランド人には聖パトリック大聖堂とともに大切な教会
6)グラウンド・ゼロ(ツアー)
2001年9月11日に崩壊した世界貿易センター跡地。建設工事が進行中である。
ニューヨーク徒歩観光をすることにしている上陸初日には、最初に私が行きたいところを歩き、最後は妻の一番好むショッピング街の散策をする予定を立てていた。それをほぼ守ることができたので、夫婦ともにかなり満足している。
1)5番街
5番街は、マンハッタンの中央を南北に走り、世界の一流ブランドが最も多く出店している、華やかな目抜き通りである。私たちは、タイムズ・スクエアから、46丁目を東に歩いて5番街に達し、そこから5番街の46丁目を北に上り、61丁目まで歩いた。その間、妻の望むショップには、全部付き合って入店した。大阪では、妻のウインドウショッピングに付き合うことは全くと言って良いほどないのだが、今回は、最初が私本位の行動だったので、最後は妻に妥協をしたというのが正直なところである。61丁目から、東に歩いてマジソン街に至り、ここを57丁目まで南下して、そこから西に向かい、再び5番街を54丁目まで散策した。
2)マジソン街
5番街の東側を並行して南北に走るマジソン街は、5番街とともに高級ブランド店が集中していて、両方を合わせて「ブランド通り」と呼ばれるほどだ。ここを61丁目から57丁目まで歩いた。
5番街とマジソン街を散策し、ブランド店に入った印象では、大阪の北のハービスエントやヒルトンウエストにあるブランド店の方が、大きく豪華であると思った。妻も同じように感じたらしい。それは、アメリカ系のブランドである「コーチ」とか「コール・ハーン」でも同じだった。そこから推量したことは、日本人のブランド志向がどれほど大きいか、その程度をこれは表しているのではないかとということだった。
上陸初日の夜、ミュージカル「美女と野獣」を観た。数年前に、劇団四季の演ずるこのミュージカルを観た時には、華やかで美しいおとぎ話と感じた記憶があるが、本場ブロードウエイ・ミュージカルでは、どう演じられるのか興味津々だった。また、ロンドン・ミュージカルの「レ・ミゼラブル」は、これまで観たミュージカルの中で最高のものだったので、ロンドンとブロードウエイとの違いも知りたかった。
劇場「ラント・フォンテーン」はロンドンの劇場より少し広く、座席は前から15列目の中央で、それほど悪くはない。観客の落ち着きがなく、ざわつく感じがするが、気になるほどではない。
ミュージカルは華麗で、歌も演技も演出も上手かったが、感動は少なかった。これはアメリカのミュージカルだと思った。野獣までもコミカルで、観客の爆笑、苦笑を絶えず呼び、コメディーでないかと思うほどだ。観客もそれを大いに楽しんでいるが、行儀も悪い。私たち夫婦には少々期待外れであったが、非常に良かったと興奮している飛鳥Uの乗客もいて、人さまざまだと思った。良くも悪くもアメリカのミュージカルだった。
この劇場を昼間のタイムズ・スクエア散策の際に見ているが、ミュージカルを終えて見たこの劇場は、これが同じ劇場かと思うほどきらびやかで、その変貌ぶりに目を見張ってしまった。周辺もそれ以上の変わりようで、電光きらめく不夜城の様相を呈していた。
出港は23:00、輝くように点滅する摩天楼群の夜景を見たかったが、あいにく激しい雨で視界が悪く残念だった。ミッドタウンの摩天楼の光が少なかったのは日曜だったせいもあるかも知れない。それに比べて、ローワー・マンハッタンの摩天楼は光の量が多かった。雨に濡れながら、写真とビデオを撮り続けた。雨のニューヨークの夜景にも、これまでに見てきたニューヨークの夜景とは違ったおもむきがあり、それはそれで良いものだった。
ニューヨークは期待していた以上のものでも、期待していた以下のものでもなかった。大いなる感動、驚きがあったわけでもない。しかし、時代を思うと深い感動がこみ上げてきた。1811年に、現在の12のAvenueと155のStreetからなる街区(ブロック)が作られ、1930年に、クライスラービルとエンパイヤー・ステート・ビルが建設され、「都市の中の都市」ロックフェラーセンターも、1930年代には、現在のスカイラインが出来あがっていたのだ。私が生まれる前に、既に現在のニューヨークの主要なものが完成されていたことを思うと、これもまた、人類の叡智のひとつであると思う。
◆投稿 シブチンスキー | 2007年6月 6日 (水) 23時19分
10年近くを過ごしたわが第二の故郷であるニューヨークをBOWさんがどのように見られるかと楽しみにして毎日覗いていました。詳しい分析と僅かな日数で効率よく回られたなあと感心しました。
BOWさんの感想と私が持っている感覚は非常に似ていると思います。ブランドショップが日本のそれほど完璧なセットアップになっていないところがアメリカ式だろうと思うのです。昔の感覚ですが、ニューヨークの夜景は白っぽく、日本の夜景はネオンで赤が多いという印象でした。BOWさんは夜景の色合いをどうご覧になったでしょうか?
今週末は「ユニトピアささやま」へ研修に行ってきます。家庭麻雀、つまり中国語の研修会です。
◆投稿 BOW | 2007年6月 7日 (木) 11時35分
シブチンスキーさん、早速のコメントありがとうございます!
10年もニューヨークに居られた方のご感想私も楽しみでした。今回は初めて計画的に観光してきました。同じ感覚であるというのは、若いころを同じ神戸で過ごしたことも関係しているのではないかと、ふと思いました。如何でしょう?
ニューヨークの夜景が白っぽく、日本のそれが赤っぽいとのご指摘は、その通りだと思います。私は、日本の赤の多い夜景も好きです。中之島の夜景をご覧に入れたいです!
◆投稿 Ikeda | 2007年6月 7日 (木) 13時19分
もうメキシコに向かって航行中だと思いますが、ニューヨークについて綿々と綴られているのに驚きました。私がニューヨークへ行ったのは昭和45年と63年の事で、それも仕事の途中で寄っただけですから、今回、紹介されている所は殆ど行っていません。
特に最初の時は、まだ1ドル360円の時代ですから、ショッピングどころではなく、有名店など入る気もおきませんでした。それでギンブル百貨店へ入りましたが、エスカレータが木製のガタガタ動く旧式だったのに驚きました。逆に日本の商社があるパンナム・ビルへ行った時、まだ日本には高層ビルがない時代だったので、エレベータのスピーードにビックリした事を思いだします。あまり調べていなかったので、休日には適当な行き場所が解らず、地下鉄に乗ってシェイ球場へ野球を見に行ったのが思い出になっています。
2度目の時は変動為替になっていましたから、有名店でも平気で入れるようになり、日本より安いなと感じました。同僚が有名店で革ジャンが安いと言って買いましたが、後で良く見たら韓国製で、大笑いした事があります。
> 素焼きの湯呑み茶碗に絵を画いて
私も会社の旅行で益子焼で有名な栃木県の益子へ立ち寄った時、 素焼きの湯呑みに書いた事があります。とっさの事で、何を書いたら良いか解らず、能のない話ですが、「ちゃわん」と書いた事があります。少し欠いてしまいましたが、まだ持っています。無事の航海を祈ってます。
◆投稿 BOW | 2007年6月 8日 (金) 09時08分
Ikeda様、コメントありがとうございました。
360円時代は大変だったでしょうね。昭和45年の百貨店のエスカレータが木製とは驚きました。私は日本でも記憶がありません(笑)。
「ちゃわん」と書かれた湯呑みをまだお持ちとのこと、わかる気がします。私以上にメモリアルになるものを大切にしていらっしゃるのではないかと思っているからです。
◆投稿 T-baba | 2007年6月 7日 (木) 14時56分
ニューヨーク紀行、拝読しました、いつものように細かな観察と感性による記述はすばらしく、心楽しく読ませていただきました。
昔、ミュージカル「キャッツ」を観に行っての帰り道、夜更けの町をバッグを抱えて走ってホテルまで戻ったことを思い出しました。エレベーターの前で、ボーイに「シーキィ!シーキィ!」と言われて、あわてて部屋の鍵を取り出して見せた事も思い出しました(笑)
ヘリコプターの夜間飛行を試してみましたが、その頃はオレンジ色のイメージが強かったように思いました、ニューヨークは暖かい色で燃え立つよう、日本は冷たく白っぽい色だとそれからは思ってきましたが、大阪「中之島」は、たしかに「赤」が素晴らしいですね。
◆投稿 | 2007年6月 8日 (金) 09時16分
T-baba 様、コメントありがとうございました。
「キャッツ」をブロードウエイで観られたのですね、ショーが終わるのが11時を過ぎ、大急ぎで走っていらっしゃる姿が目に浮かびます。深夜にホテルに入れてもらうには部屋の鍵が要るのですね!
そのころのニューヨークが暖かい色で日本が冷たい白というのは、白熱灯と蛍光灯の違いだったのではないかと思いますが、如何でしょう?今は日本人も白熱灯を好む人が増えて来ましたが、当時は蛍光灯が新しく、明るく、経済的で好んで使われたような気がします。今では蛍光灯にも白熱色が普及してきましたが、、、
◆投稿 モナリサ | 2007年6月 8日 (金) 01時09分
世界の首都・ニューヨークの観光楽しく拝見しました。あれだけの場所を1泊2日で回られたのにはびっくりです。以前私達がニューヨークを旅したときも同じような場所を回りましたが3泊4日はかかったような記憶があります。但しブルックリン橋は歩きませんでした。シーポートからB・M・Wの橋をバックに写真を撮っただけです。マンハッタンへの移動もタクシーはいつも橋を通らずに地下道を通るので橋を渡ったという感じはしませんでした。
同じ所を訪ねても「少々期待外れであると感じる人」と「非常に良かったと感じる人」がいる。“人様々だな〜”という意見に全く同感です。感じ方は相対的な評価ですので〜
さてさて、BOWさん世界経済を牽引しているアメリカの中心ニューヨークを肌で感じてどう思われましたか?強いアメリカは今後も世界の中心でいそうですか?それともそろそろピークは過ぎた感じでしたか?かってのローマ帝国・大英帝国の様な文化遺産を残すことが出来そうですか
◆投稿 BOW | 2007年6月 9日 (土) 12時46分
モナリサさん、コメントありがとうございます。
>強いアメリカは今後も世界の中心でいそうですか?それともそろそろピークは過ぎた感じでしたか?
ニューヨークを訪れたからというわけではないですが、アメリカが今しばらくは世界の中心でいるように私は思います。それに代わる国がないからです。
ニューヨークは落ち着いていると感じました。初めての訪問者に違和感を与えず、民族の違いを気にしないで済むように思いました。かって、荒れていたタイムズ・スクエア周辺、地下鉄、セントラルパークなどが安全で、活気がありました。ソーホーのように新しい街づくりも成功しているようです。だから、ニューヨークからは、ピークを過ぎたとは感じられなかったです。
>かってのローマ帝国・大英帝国の様な文化遺産を残すことが出来そうですか どちらも植民地を持った帝国ですが、アメリカはそれがほとんどなく、広大な新世界に他民族が集まり作り上げた人類最初の実験的な国というのが文化遺産ではないかと私は思います。これは後にも先にもありえないことで、成功失敗は別として、人類のひとつの文化遺産だと思います。
◆投稿 musi | 2007年6月 8日 (金) 14時46分
今日はメキシコですね。船酔いもなくお元気で楽しんでいらっしゃるお姿にカンパイ!
ニューヨーク、いつもの事ながら詳しくわかり易く書いて下さり楽しく拝読いたしました。musiに業を煮やしたDr.GOはとうとう世界地図を持参、昼休みの講義としてブログを読みながら詳しく状況を説明して下さってます(^^)
◆投稿 BOW | 2007年6月 9日 (土) 12時49分
musiさん、お久しぶり!
Dr.GOの直接講義を受けられたのですか!私も帰ったら講義を受けてみたいです。よろしくお伝えくださいね。
◆投稿 musi | 2007年6月 9日 (土) 21時34分
Dr.GOも地図上?ブログでクルーズを楽しんでいらっしゃるようです(^^) 「な、ここで誕生日を迎えはって、、、ここが海賊が、、今はここで、明日はここや、、、」と。musiは居残り組みで補習を受けているようなモノです(^^:) 更新を楽しみにされていま〜す。もっちmusiもです。
◆投稿 BOW | 2007年6月10日 (日) 06時25分
musi さん、DrGOの講義ぶり教えて下さりありがとうございました。ちょっと、小難しいニューヨーク繁栄の理由の考察を書いてみました。お読みくださいね。
◆MH | 8 Jun 2007 11:36:18
*ニューヨーク
30年前の我が縄張りにようこそ。
1.地理
Streetは原則、交互に一方通行です。道を間違えてもすぐ修正できます。運転しやすいです。アメリカの道路標識は世界一です。標識の通りに走れば目的地につきます。最悪は我が日本。ロシアの方がましでした。
3.入国審査
生体認証なる手続きが出来たのですね。中国人や韓国人はどう対処しているのでしょう。日本にだけ文句を言うのは彼等のお家芸でしょうか。
4.A セントラルパーク周辺
この辺り美術館と博物館のオンパレードです。私は自然史博物館によく行きました。目当ては各種恐竜の骨格標本で、どでかい奴がずらりと並んで壮観でした。子どもは面白くないと行くのを嫌がりましてね、なだめては付いて来てもらいました。
往き帰りにジョン・レノン、オノ・ヨーコ、それに息子のマイケル?の三人連れによく出会いました。すれ違いざまに「こんにちわ」というと彼らも「こんにちわ」と返します。何度か出会う内に向こうも覚えてくれたようです。ソ連駐在中に事件を知り言葉を失いました。セントラルパークの東側には有名人のアパートが並んでいます。ジャックリーヌ・ケネディも住んでいたと記憶します。
3)セントラルパーク
仰せの通りハイドパークに比してがさがさしていますね。ニューヨーク滞在中の30年ばかり前には物騒な場所でもありました。ジュリアーニ市長が治安回復に辣腕を振るい、セントラルパークは安全な場所になったようです。
B.ミッドタウン
1)カーネギーホール
木造の故に消防法に引っかかって改造すら出来ないそうです。確かにチャチですね。次第に他のホールに競い負けしているのでしょう。ここでカラヤン指揮ベルリンフィルでベートーベン三番と九番を二日連続で聞きました。九番の合唱はウィーン国立歌劇場合唱団でした。カラヤンの格好よかったこと。興奮しましたよ。
2)ロックフェラーセンター
三菱地所がここを買占めました。後で売って大損を出しました。一番高いGEビルのてっぺんにレストランがあります。食事していたらカメラを持った美女が来ましてね。お一つ如何というのです。背景にマンハッタンの夜景を入れた写真を撮ってくれましたが高かったですね。写真はいつの間にかなくしました。美女のカメラがスピグラだったのを記憶しています。
3)聖パトリック大聖堂
五番街を歩いて行くと突然この聖堂が出現します。いきなりのゴシックに一寸違和感を覚えますね。1845年、ジャガイモに病気が広がり大飢饉です。移民がニューヨークへ殺到し底辺の仕事を引き受けました。彼らは乏しい給料から1セント、2セントを献金してこの聖堂を建てたそうです。日本人はアイルランド人とウマが合うようですね。「静かなる男」は日本人好み、私も大好きな映画です。ジョン・フォード、ジョン・ウェイン、モーリン・オハラ全員アイルランド系です。ビング・クロスビーもアイリッシでしょうね。「我が道を行く」はよかったですねぇ。
5)クライスラービル
疑いもなくマンハッタン随一の美人です。頂上部分のあの鱗模様は昼見て良し、夜照明が入ると又何とも綺麗です。しかしビルの中に入った事がないのです。残念。
6)国連本部
30年前にもセキュリティーチェックはありました。余りうるさくなかったです。アナン前事務総長は女性に人気がありますね。日本人女性にもファンが大勢居ます。立派な男ですね。社会に出てすぐの頃、ウ・タント事務総長の甥と大阪で知り合いました。愉快な男で日本人女性と結婚していました。おじさんは偉すぎて役に立たんとこぼしていました。
7)エンパイヤーステートビル
このビルは金がかかっていますね。エレベーターホールの大理石などこれでもかという感じでもう呆気にとられます。尖塔に飛行船が繋留された絵がありましたね。ツェッペリンでしょうか。ニューヨークに事務所を設けた外国企業が次に狙うのがエンパイヤーステートビルです。ここに入れるとまあ業態も落ち着いたことになります。一時期、日本企業のラッシュでした。その後は韓国企業。今は誰でしょうか。
C.ローワー・マンハッタン
2)ブルックリン橋
1882年に出来上がったのですね。よくもこれだけのものを作ったと感心します。しかし寄る年波には勝てず、ワイヤーのメンテが大変と聞きました。歩いて渡った事はありません。ブルックリンでは赤身のマグロを買うとトロを只でくれました。よき時代です。
6.ショッピング
1)五番街 2)マジソン街のブランド店意外に大したことないでしょ。大阪のほうが店が大きくて豪華なはずです。ブランド品は私も好きです。品質が安定しています。不都合があれば何処で買ったかを問わず修理してくれます。少々高いのは安心料と割切っています。
7.ミュージカル
三年間の滞在中、ミュージカルを観たのはたったの一度です。仕事をサボってでも観るべきでした。惜しい事をしました。お客さんを案内して劇場の前までは何度も行きました。昼のくすんだ感じは夜一変します。本当に変わります。驚きました。
9.まとめ
マンハッタンのアウトラインは我々の生まれた頃には既に出来ていたのですね。アメリカが当時いかに急成長したかが窺えます。今、マンハッタンはチャンスを求めてやって来る人間全部に等しい機会を与える街になりました。私も恩恵に与りました。大好きな街です。こういう街は世界のどこにもありませんね。
1.入港
2.メトロポリタン美術館
3.リンカーンセンター
4.セントラルパーク
5.カーネギー・ホール
6.トップ・オブ・ザ・ロック(ロックフェラー・センター)
7.聖パトリック大聖堂
8.タイムズ・スクエア
9.クライスラービル
10.国連本部
11.エンパイヤー・ステート・ビル
12.サウス・ストリート・シーポート
13.ブルックリン橋
14.バッテリー公園
15.5番街のブランド・ショップ
16.ミュージカル鑑賞
17.出港
ニューヨークを出港したあとバハマへ向かう大西洋は、ハリケーン崩れの熱帯性低気圧の影響で、またも船の揺れが大きく、曇天である。この日はニューヨーク観光のまとめに追われた。
ニューヨークを2日間観光したあとで、なぜニューヨークがこれほど繁栄することになったのか、気になったので、私なりにまとめてみた。充分な資料の裏づけがあるわけではないので、間違いも多いとは思うが、一応私はこのように理解した。間違いのご指摘をいただければありがたい。
ニューヨーク繁栄の理由について、A.地の利、B.人智、C.時代に分けて考えてみた。
A.地の利
1)ヨーロッパに近い
かって、人々はヨーロッパから船でアメリカへ渡っていたので、大西洋を越えてヨーロッパに近いということは重要な要素だったに違いない。
2)自然の防波堤
ニューヨークの地理を地図で調べていて、マンハッタン島が、スタテン島とロングアイランドの二つの島によって、防波堤のように大西洋の荒波から守られていることを知った。港が重要な時代には、安全で穏やかな港は重要だっただろう。
3)ハドソン川
マンハッタン島の西側をハドソン川が流れている。ボルドーやアントワープを観光して、かっては川が港として重要であったことを知ったので、大型船が航行可能で、その長さが約500kmもあり、五大湖まで運河でつながるというこの川の価値は大きかったと思われる。
4)縦長の大き過ぎない島
マンハッタン島は玄関口にあたる港から、縦長の構造になっている。間口が狭く奥行きが深いのは、都市が徐々に発展して行くのに都合が良い。事実、ニューヨークはその最南端のウォール街のある地区から発展して行った。また、次のB.人智のところで取り上げる区画設定(街区)でも、12番街と155丁目は分かりやすい。これが155番街で155丁目では、何が何だか分からなくなる。このように、縦長の大き過ぎない島ということも有利に働いたと考えるべきだろう。
5)岩盤
摩天楼が1930年代に生まれ、それがそのまま残っているというのは、強固な地盤でなければ成り立たない。マンハッタン島は岩盤でできているのであろう。砂上の楼閣に近い都市ピサでは、建物は、それぞれが勝手な方向に傾いていた。また、阪神淡路大震災で、山のふもとにある高層ビルの多くは倒壊を免れたが、これは地盤が岩盤でしっかりしていたからだといわれている。このことから、マンハッタン島は地盤に恵まれていたことが幸いしているのだろうと推定できる。
B.人智
1)区画設定(街区)
1811年に、現在の12のAvenueと155のStreetからなる街区(ブロック)が作られたというのは、やはり英知だと思う。もちろん過去に、長安、平城京、平安京などのように碁盤の目のように土地を区画した例はあるが、マンハッタンの場合、それが効率よくなされたのだと思う。実際、地図があれば、簡単に間違いなく、その場所に行くことができる。これほど分かりやすい都市を他には知らない。ヨーロッパでは都市は教会が中心になったためか、放射状の道路が多かった。その、最も完成された形がパリの凱旋門広場の12の放射状道路だろう。これは形としては美しいが、分かり難い。また、セントラルパークのような公共の公園を当時から策定したことも英知だと思う。
2)荒廃したニューヨークの再建
一時期ニューヨークの地下鉄、タイムズスクエア地区、セントラルパークの荒廃ぶりをTV報道で見て、「ニューヨークは怖いところ」というイメージを持ったことがあったが、ジュリアーニ市長などによって、それらが一掃され、安全で健全な街が再建された。
3)SOHO地区などの変革の努力
かっての倉庫街に、芸術家やファッション関係者が住むようになり、アートとファッションのオシャレな街に変貌しているように、意図的かどうかは別として、ニューヨークでは変革の努力が続けられている。
4)多民族共存
ニューヨークを歩いたり、ショップに入ると、身構えることなく、日本と同じような感覚でいることができる。これは、多民族を受け入れ、共存しているためだと思う。アメリカのほかの都市でも同じなのかどうかは知らないが、ニューヨークでそう感じられた。
5)良循環
何ごともそうだが、いったん良循環に入ると、ますます、それが加速される。悪い部分が現れれば、それを取り除き、良い部分を加えることができるなら、良循環を続けることが可能だ。ニューヨークは、少なくともこれまでは、それが行なわれてきたのだと思う。それが行なわれなくなった時は、ニューヨークの衰退の時であろう。
C.時代
1930年代に、現在のマンハッタンの重要な摩天楼群ができていたということは、その頃のアメリカが急速発展期であり、高層ビルが建築可能な技術革新の時期であったことも大きく影響していると思われる。
◆投稿 T-baba | 2007年6月11日 (月) 17時43分
ニューヨークに関する記述は、船の上という制約を感じさせないBOW総括論、納得しながら読みました。王政のなかった歴史の浅い国でありながら、大きな繁栄を得ることが出来たのは、民衆の賢い選択力におうところがおおいのでしょうか。ただ、少し踏み込むと、人種的差別はまだまだあるように感じます。
あと少しでパナマ運河ですね!太平洋とカリブ海を繋ぐ長い運河ですから、水位や閘門のこと、1999年の返還のこと、それに周辺環境のこと等、詳しいことをUPして下さるのだろうと、期待しています。
パナマ運河を通過して、メキシコからいよいよ西海岸、ゴールドラッシュの終点サンフランシスコですね!ご感想を伺うのが、特に楽しみな所です。(セーターを一枚、夜は冷えます)
◆投稿 BOW | 2007年6月12日 (火) 08時07分
T-baba 様、コメントありがとうございます。
>大きな繁栄を得ることが出来たのは、民衆の賢い選択力におうところがおおいのでしょうか。
そう思いますね
>少し踏み込むと、人種的差別はまだまだあるように感じます
そうなんでしょうね
>ご感想を伺うのが、特に楽しみな所です。(セーターを一枚、夜は冷えます)
猛烈なプレッシャーを感じます(ウソですよ〜!)どんなところか興味津々、いつもの通り感じたままを書くことになりますが、それが楽しいのです(笑)
◆投稿 シブチンスキー | 2007年6月13日 (水) 07時26分
BOWさんのニューヨーク分析を興味深く読ませて戴きました。同感するところが多々あります。彼我の違いを私が一番感じるのは住所表示の点で、日本はブロックごとに住所があり、ニューヨークを含めて外国はほとんどが道路名に従って住所を定めている。これだと場所をつきとめるのに便利で、タクシーは必ずズバっと指定住所の真ん前に横付けしてくれる。日本の道はほとんど名前がない。生涯を通じて「何とかならんのか」と思い続けている少数派です。
◆投稿 BOW | 2007年6月13日 (水) 23時18分
シブチンスキー さん、コメントありがとうございます。
>日本の道はほとんど名前がない。生涯を通じて「何とかならんのか」と思い続けている少数派です。
同感です。初めての海外旅行でフィレンツェの街を徒歩で歩いて回った時にそのことを実感しました。
◆MH | 12 Jun 2007 09:12:58
マンハッタンの繁栄は本当に奇跡の面がありますね。ご指摘の通り、自然条件(地理・地質など)と社会条件がうまく作用してあれだけの街を作り上げたのでしょう。
マンハッタンでは人種や宗教による差別が昔から緩やかだそうです。人種や宗教を思い煩うことなく、唯一の目的 ー金儲けー にいそしめた街であったからでしょう。ここまで野放図な街は今でも世界中に見当たりませんね。香港が似ていると思っていましたが、共産党の支配下になりこれで終わりでしょう。
暑いでしょうね。どうか体調に気をつけてください。
ニューヨークを出港した飛鳥Uは、フロリダ半島の南東、西インド諸島北部にあるバハマの首都、ナッソーに07:00入港した。バハマには700の島があるが、人の住んでいるのは40ばかりで、人口約30万人のうち、首都のあるニュープロビデンス島に20万人以上が住んでいる。このバハマを訪れた観光客が、2005年は500万人だったというから驚きだ。
半日観光のツアーで見た限りでは、見るべきほどのものはなく、目抜き通りに免税店は数多く並んでいるが、それにもあまり魅力はない。500万人もの観光客をひきつけるものはなにかと調べたら、アメリカから最も近いカリブ海のリゾート地で、ゴージャスなリゾートホテルが多数あり、ダイビングやフィッシングを楽しめ、タックス・ヘイヴン(tax haven)の国として、免税品のショッピングを楽しめることがその理由のようだ。
このナッソーには、10万トンクラスの客船が5隻着岸可能で、この日も飛鳥Uを含めて3隻が停泊していた。この島の向かいにあるパラダイス・アイランドという島には、スイート1泊300万円のアトランティス・ホテルがあると聞いて、出港までのわずかな時間を利用して、それを見て来た我ら夫婦は、立派なミーハーである。スイートの部屋は、二つの建物の間をつなぐ部分にあり、正面、裏面はもちろん真下も海が見える場所だと聞いた。1ヶ月で1億円にもなる部屋を利用するのはどんな人間なのだろう。そのような人間のいることが信じられない。
天候も曇り気味で、カリビアン・ブルーというには程遠い海の色と言い、ナッソーは期待はずれだった。しかし、リゾート地の玄関口を見て廻るだけという行程からすれば、それは当然のことだろう。ここは長逗留をして、レジャーを楽しむところなのだ!
◆投稿 シブチンスキー | 2007年6月14日 (木) 07時42分
1泊300万円のスイートとは驚きですね。それを見物に行ったミーハーぶりには若さを感じます。若さと言えば蚊が寄ってくるのも若さゆえにと言えるかも知れませんね。血の甘い幼児を蚊が追っかけるのですから奥様、まだまだお若いです。
高価なホテルと言えば思い出すのがフランクシナトラが愛顧していたGolden Nuggetsのこと。できたばかりの頃に誰かが料金を問い合わせしたら「問い合わせするような方々にはお泊り戴きません」と言われたと雑誌か何かで読みました。いずれにしても私などはそんな高額なところでは一睡もできないに違いありません。
◆MH | 15 Jun 2007 00:46:35
*ナッソー(バハマ)
アメリカ人が喜んで行くところですね。一泊300万円のスィートとはいやはや。自分で働いた我々には縁がありません。でもしっかり覗いたのは大兄らしくて、いいですね。今度の散髪は男性理容師ですか。折角ならもう一度お世辞を聞けば良いのにと思うのは小生だけか知らん?船の中での散髪代金はどうなるのですか。京都の料亭のように後日請求書が来るのでしょうか。その都度支払うのではちょっと目まぐるしいですからね。
今日は散髪の予約がとれたので、男の理容師に散髪をしてもらった。前回は予約が取れず、美容師に整髪してもらって、白髪をほめられ喜んだが、妻に「美容師さんは女性が相手だから、お世辞も仕事のうちよ」と一笑された。なるほどと思って、今度は早めに理容師による散髪の予約をとった次第。
理容師さんは若い小柄の男性で、ベッカムのようなヘアスタイルでニコニコと愛想が良い。話し上手で、理髪の作業中もほとんど会話が続いた。ていねいに扱ってくれて、今まで経験したことがないような不思議なこともしてくれる。散髪が終わっても、理容店特有の匂いが頭に残っていない。すっかり気に入って、次回も彼にお願いしたいと思った。もちろん、彼も他の理容師と同様、私の白髪を褒めるということはしなかった。それがあたり前なのだ。美容師の女性にほめられて喜んだが、女性に整髪してもらうのは、気恥ずかしく、会話もほとんどできないので、やはりこれからも理容師にお願いしようと思う。
本日はプラヤデルカルメンから、メキシコのユカタン半島に上陸し、チチェン・イツア遺跡を訪れた。寄港地案内で、ユカタン半島は、所により蚊大量発生することがある。蚊に刺されるとデング熱を発症する可能性があるので、虫除けスプレーを準備するようにとの注意があった。心配しいの妻は、持参したスプレー以外に医務室で4本も購入してきた。虫嫌いな妻は虫に好かれやすく、以前から、一緒にいても蚊に刺されるのは決まって妻だった。
キャビンにも2個のベーブが配られ、停泊中はこれを使用するようにとか、ドアも開放するなとか、脅かすことを並べてくれるので、妻はパニック状態に近い。チチェン・イツアは30度を越える暑いところだというのに、完全武装で、スカーフで頬被りまでしようとするのだから、農家の女性そっくりになってしまった。それでも構わない、カッコより安全だという。私にまでそれを強要するが、拒否をすると、露出部すべてに虫除けスプレーを振り掛け塗りつけられた。
チチェン・イツア遺跡は、このクルーズで見たいと思ったベスト5に入るかもしれない。マヤ文明の名残りをこの目で確かめたかったし、それを自分の満足できる写真とビデオで記録して置きたかった。そのため、いくら暑くても良いから、快晴であって欲しいと願ったが、その願いは叶えられた。片道3時間のバスが通る高速道路は、ほとんどが一直線で、両側には絶えることなくジャングルが続く。ジャングルと言っても、3m程度の潅木がが密集しているだけなので、本当はブッシュというべきだろう。
チチェン・イツア遺跡は、メキシコのユカタン半島にあるマヤ文明後期(900〜1100頃)の都市遺跡である。「チチェン・イツア」とは、マヤ語で「イツア族の泉の湧き口」を意味する。この遺跡は、カスティージョと呼ばれるピラミッド、球戯場、神殿など石造りの建造物群からなり、メキシコ中央部のトルテカ文明の影響も受けているといわれる。1988年に世界文化遺産に登録された。
スペイン語でカスティージョ(城)と呼ばれるピラミッド型神殿は、底辺約55m、高さ約30mで、マヤ文明の数多い建造物の中でも、最も均整の取れた美しいピラミッドだと言われている。四方にある階段の数が各91段で、91×4=364。これに頂上の1段を加えると太陽暦の1年=365日になる。また、ピラミッドの基層は9層で、階段の左右の基層を合わせて9×2=18は、マヤ歴の1年の月数を表す。
また、このピラミッドの北側の階段下の両脇に、蛇の頭の彫像がある。毎年春分と秋分の夕刻には、基層の凹凸の影が階段に映り、ちょうど尾をピラミッドの頂上にあげた形の、蛇の姿が現れる巧妙な仕掛けになっている。メキシコ在住30年という日本人ガイドに、その写真を見せてもらったが、確かにそのように写っていた。いずれも、当時のマヤ文明に高度の天文学が存在したことを示している。
私にとってラッキーだったことを付け加えておく。それは、今回このピラミッドへ登ることが禁止されたのだ。経験者によると、ここの階段の傾斜は急峻で、登るのは良いが、降りる際には足がすくんでしまうとのことだった。もし、今までどおり登ることが許されていたら、登らざるを得まい。それは、高所恐怖症の私にとって、この上ない苦痛である。それを免れることができた上、このピラミッドに群れ登るゴミを写さなくて済み、美しい映像が得られたのだ。
マヤ遺跡には球戯場欠かせないらしい。チチェン・イツアの球戯場は大きく、120m×30mもある。両側が壁で囲まれており、両方の壁の中央付近には、直径約20cmくらいの石のリングがある。ボールをこのリングに通すのだが、バスケットのように手で入れるのではなく、サッカーのよう足で蹴って入れるのだと現地ガイドは説明してくれた。また、競技ではなく、豊作を願う儀式のようなものだっだらしい。判定結果を全体に伝えるため、壁は上部がやや内部に傾けてあり、音が両側の壁に何度か反響し、拡大して伝わるように工夫されている。実際にその中央で手を叩いて、その効果を確かめることができた。
ピラミッドに近い側の球戯場の壁に隣接して、ジャガー神殿がある。マヤ文明では、ジャガーは神の化身のようなものだったらしい。神殿の前にはジャガーの石像が置かれている。
ピラミッドやジャガー神殿、球戯場が点在する広場から少し離れたところに、セノーテと呼ばれる聖なる泉がある。直径66m、地上から水面まで22mあり、覗き込むのが怖くなるほど深い。水面は澱んだ緑色だ。ここは、雨乞いや豊作を願って生け贄を捧げる場所だったらしく、1911年の調査では、21体のこども、13体の成人男子、8体の女性の人骨が見つかり、同時に金のメダルや翡翠などの宝石類も発見されたとのことだ。
チチェン・イツア遺跡を訪れ、マヤ文明は生贄文明であることを知った。神なるものはジャガーやワシの姿をしている。神に願いを叶えてもらうためには、生贄が必要で、当時マヤ地区には家畜はなく、そのため生贄は人間であったということだろう。当時は、しかたがないことだったのだろうが、なんとも痛ましい。それはそれとして、快晴のもとで素晴しいマヤ文明の遺跡をこの目で確かめ、写真とビデオに収めることができたことを嬉しく思っている。
ユカタン半島のツアーの後では、例年下痢症状を訴える参加者が出るので、生水はもちろん、野菜サラダ、氷の入った飲み物、などを摂らないようにとの注意があった。今回は注意をしたせいか、エジプトの時のように、下痢になることはなかった。
ユカタン半島のプレアデルカルメンから、地元のボートに乗って、飛鳥Uが停泊しているコズメルに渡った。午後7時を過ぎてやや薄暗くなり始めているが、港の海の色はコバルトブルーで、澄みきっていて底までが見える。この美しいカリブの海を充分楽しむことはできなかったが、チチェン・イツアは、私にとってそれに勝るものであった。
◆投稿 Ikeda | 2007年6月12日 (火) 13時53分
いよいよコスタ・リカに寄ってパナマ運河ですね。私はメキシコを初め、中南米へは行ったことがないので、興味があります。それにしても、この辺は、殆ど初めて聞く地名が多いです。個々には観光地として行かれた人もあると思いますが、これだけあちこち寄るのは流石クルーズだと思いました。
それにしてもバハマ諸島へ行くのが珍しいのと思います。ここだったら、すぐ近くのキューバへと思いますが、矢張り無理なのでしょうね。私は行ったことはありませんが、仕事で同僚が2,3回行っていて、「ジタン」という両切りの煙草を土産に頼んでいました。
チチェン・イツア遺跡にも興味がありますが、緯度も大分下がって暑いでしょうし、虫に弱い人は余計、大変ですね。私は割合平気ですが、昔インドへ行っていた時に、寝るときには蚊帳を吊っていた事を思いだしました。
なお、地名がスペイン語ですが、クルーズの寄港地らしい名前が多いのが当然とは言え面白いです。お聞きになっているかもしれませんが、プラヤ・デル・カルメンの「Playa」は「Beach」ですから、さしずめ「カルメン浜」と言うことになります。
これから行かれるコスタ・リカは「Coast Rich」で、プエルト・リモンの「Puerto」は「Port」です。またカボ・サン・ルーカスの「Cabo」は「Cape」という意味ですから、「聖ルーカス岬」と言うことになりましょうか。
いずれもスペイン語なので地形が、そのまま地名に転用されたのではないかと憶測しています。私がスペイン語に詳しい訳ではないので間違っていたら訂正していただきたいと思います。
◆投稿 BOW | 2007年6月13日 (水) 23時08分
ikeda様が面白いことを教えて下さったので、スペイン語はまったく知らないのですが、調べてみました。お陰でちょっとスペイン語に親しみが湧きました。ありがとうございました。
・プラヤ・デル・カルメン
Playa del Carmen = Beach of Carmen カルメンの浜辺
・コスタ・リカ
Costa Rica = Coast Rich 裕福な海岸
飛鳥IIクルーズのガイドブックによると、コロンブスの最後の航海でこの地に上陸したら、出会った先住民が金の装飾品を身につけていたので、裕福な海岸と呼ぶようになったとのことです。
・プエルト・リモン
Puerto Limon = Port Lemon レモン港
・プエルト・リコ
Puerto Rico = Port Rich 裕福な港、豊かな港
プエルト・リモンから、同じプエルトの付く国名が頭に浮かびました。
・カボ・サン・ルーカス
Cabo San Lucas = Cape St.Luke 聖ルカ岬
◆投稿 yakky | 2007年6月13日 (水) 08時59分
偶然の放映に吃驚です。
チチェン・イツア遺跡 NHKhi 放映されました
6月12日 PM8時〜9時30分
http://www.nhk.or.jp/inca-maya-aztec/ja/02-mayan/chichen-itza/what.html
驚きの都市に感心させられました。9世紀〜12世紀まで栄えた大都市が繁栄出来たのは。都市の地表に、雨水が浸みこまないように石灰岩を利用した漆喰(しっくい)で塗り固められていた。しかも地面には0.76度という微妙な傾斜がつけられ、雨水はその先にある貯水池に導かれていた。生け贄・王様のミイラー・ヒスイの首飾りなど等、必見でしたよ。
プロローグ
「空から見たインカ・マヤ・アステカ ?悠久の古代文明紀行?」
2007年6月11日(月)午後10:00?10:50 BShi
第1話「密林の王国と湖上の帝国 ?マヤ・アステカ?」
2007年6月12日(火)午後8:00?9:30 BShi
第2話「マチュピチュ天空に続く道 ?インカ?」
6月13日(水)午後8:00?9:30 BShi
第3話「アンデスミイラと生きる」
6月14日(木)午後8:00?9:30 BShi
再放映も有ると思います。
◆投稿 BOW | 2007年6月13日 (水) 23時13分
yakky様、コメントありがとうございました。
偶然か必然?かNHKハイビジョンでチチェン・イツア遺跡が放映されたのですね!!
ハイビジョンなら素晴らしい映像だと思います。肉眼で快晴のもとしっかり目に焼き付けてきましたし、デジカメ、ハイビジョンビデオで映像もバッチリ収めてきたつもりです。帰国して確かめるのが楽しみです。
◆MH | 15 Jun 2007 00:46:35
*蚊
ユカタン半島の蚊はデング熱を運ぶとか。穏やかではありませんね。日本では蚊が急速に少なくなりました。小生の生まれた田舎では今の時期、ワーンという蚊のコーラスが聞こえました。その癖刺された覚えがないので男声合唱だったのかも知れませんね。蚊が集まってくる人は確かに居ます。こういう人は当然虫嫌いであることが多いです。野村家も「蟲愛づる姫君」とは行かないようですね。
*チチェン・イツア遺跡
春分と秋分に蛇の形が階段に凸凹の影となって現れる神殿はTVで見た覚えがあります。ここだったのですか。急な階段だったですよ。天文と建築をあわせた知識と技術は大したものですね。一年が365日だったのを知っていたのはエジプトも同様でしょうが、エジプトが多方面で花開いた文明であったに対して、マヤは天文とか建築など限られた分野の文明が突出したように思えますが如何でしょうか。
所で、当地では6月1日〜10日に日没直後、水星・金星・土星が並んで同時に見えるチャンスでした。残念ながら見逃しました。特に水星は本当に足が速くて一寸油断するとあっという間に見えなくなります。泥棒の守護神の所以ですが、ビジネスマンの守護神でもあるそうです。どちらも逃げ足が早い、或いは早くあるべきとか。かくてビジネスマンは泥棒と親戚関係にある所以のお粗末でした。
終日洋上で、本日のドレス・コードはフォーマル。これで5回目のフォーマル・ナイトである。私は白のタキシードに赤の蝶ネクタイ、妻は第一回のフォーマル・ナイトのイブニング・ドレスを着用したが、もうメンドクサイというのが私の正直な気持である。こんなものは、何年かに1度着ればよいのだ(笑)。
今夜は「カリビアン・ディナー」と銘打って、リド・デッキのプールサイドで、ビュッフェ・スタイルのディナーを楽しむ企画である。私は他の人と並んで、自分で食べ物を選び、テーブルに運ぶビュッフェ・スタイルが大嫌いだ。その上、リド・デッキは730名の乗客に対しては狭すぎて、座る場所も確保し難いし、食べたいものを手に入れるのに苦労することを、これまで数回経験している。だから、今回はこのプールサイドのディナーには参加しないつもりでいた。
ところが、知人から、「マウロ・カルデロンというメキシコのテナーが、プールサイド・ステージで歌う。昨夜リサイタルで聴いたが、すばらしかった」と言われた。最近聴いたコンサートが、3回ばかり続けて期待はずれだったので、昨夜は最初から行かなかったのだが、それを教えてもらったので、プールサイドへ出かけた。
食事は予想通りだったが、マウロ・カルデロンの歌は本当に素晴しかった。圧倒され、感動しっぱなしだった。ビデオ撮影が許されているので、一緒に唄いたくなるのを必死でこらえて、ハイビジョンにしっかり収めることができた。これほど歌のすごさを感じたことが、これまであっただろうか? 誰もが乗りに乗って聞き惚れ、踊っている。ほんとうに良い歌だった。
マウロ・カルデロン(Mauro Calderon)は、「現在メキシコで最も才能のあるテノール歌手」と称されていると紹介されたが、それが偽りでないことを実感した。
◆MH | 16 Jun 2007 21:49:43
1.マウロ・カルデロン
大兄のレポートでは大変才能のあるテナーのようですね。ある日突然どこかかに出てくるでしょうから、名前を覚えておきます。
本日の寄港地プエルト・リモンはコスタリカという国の港町の一つである。まったく知らない国、知らない港だった。寄港地ガイドでは、コロンブスが最後の航海でこの地を訪れた時、先住民が金の装飾品を身につけていたので、Costa Rica=裕福な海岸と呼ぶようになったと書いてある。ツアーの内容は、熱帯雨林とナマケモノ保護センターだけが、他と変わっているところで、それも私たちには魅力がない。だから、一番興味のない寄港地だった。
しかし、寄港前日に配られたコスタリカ政府監修の紹介パンフレットを読んで、俄然この国に興味が湧いてきた。例えば、1821年:スペインから独立、1949年:軍隊制度の廃止、1980年:国連平和大学創設、1983年:永世非武装中立宣言、に驚いていると、エコーツーリズムを世界に向けて提言したエコーツーリズム発祥の国でもある。
一番愉快だったのは、むかし、この国が米国に先駆けて、独伊日枢軸国に宣戦布告をした時、ヒットラーは「コスタリカ?どこの国だ?」と世界地図を調べさせたら、とまっていた蚊が1匹飛び立った後の地図に、コスタリカが現れた、という話だった。それほど小さな国が、大国に宣戦布告をしたのが、なんとも面白い。
コスタリカという国に興味を持ったが、寄港地プエルト・リモンは見るべきものもなく、市内半日観光のツアーを選んでいた。寄港前日キャビンにツアーの集合時間変更の案内が入っていた。それを見ると、「熱帯雨林リバークルーズ」となっている。熱帯雨林も嫌なら、川をクルーズするのも、ワニが出たり、水がかかってカメラをいためる可能性があるのでマッピラだった。
だから、そんなはずはないとオプショナルツアー参加証という名前のチケットを確かめてみたが、間違っていなかった。そこで慌ててキャンセルをしたが、1日前だから50%のキャンセル料は必要だった。オプショナルツアー参加証を予めチェックしておけば、そのような失敗をしなくて良かったのだが、それでも、当日ではなかったので被害は半分で済んだことを喜ぶべきだろう。
ツアーをキャンセルしたので時間が充分あり、プエルト・リモンの街に出かけてみた。ものすごく蒸し暑い。スーパーで試飲したコスタリカ・コーヒーと、この国の特産品と言うコーヒー・リキュールを購入して、船の近くまで帰ってきたら、買ったはずのコーヒーがない。スーパーに置き忘れてきたのだが、もう無くなっているだろうとあきらめた。いつものように、ドジはドジを呼ぶ。
しかし、良いこともあった。息子の土産に妻がハンモックを買いたいというので、プエルト・リモンの街を探して歩いて、一番気に入ったものを買えたのだ。息子はハンモックで寝るのが好きという変わった趣味を持っている。毛虫や蚊に襲われるだろうし、ゆらゆら揺れるのも気持が悪く、私たち夫婦の趣味ではない。最近使っていたハンモックが切れたと聞いた記憶があるので、これなら喜んでもらえるだろうと思うと嬉しい。綱が太くて、身体に食い込まないし丈夫だと、コズメルでハンモックを買った人にほめられたし、黒、白、赤の組合せがオシャレだから気にいってくれるだろう。
飛鳥Uがプエルト・リモンに寄港する理由の一つを思いついた。それは飲料水の補給ではなかろうか?ニューヨークを出てパナマ運河を越えるまでに飲料水を入手できるところは他にはなさそうだ。メキシコは川もない国で、乾燥して水が少ない上、ここの水を飲むと下痢をする者が多いと言う。その他の寄港地になりそうなところは島であるため、これも不適当だろう。プエルト・リモンは1年中雨の多い「熱帯雨林気候」で、水は豊富であり、汚染の危険もなく、また、コストが安いと想像できる。
事実、この港に着岸と同時に大きな給水タンク車が2台横付けになり、飛鳥Uに給水を始めた。街のショッピングから帰ると、3台目の給水タンク車が給水を行なっていた。その他にも食料などの仕入れ、ゴミや廃棄物の処理などのためにも、この地が重要なのだろう。
プラヤ・デル・カルメンについて、面白いコメントをいただいたので、それをまとめてコメント欄に載せた。しかし、本文に書いておく方があとで見つけやすいので、こちらに再掲しておくことにする。このコメントのお陰で、まったく知らなかったスペイン語に少し親近感を持つようになった。
・プラヤ・デル・カルメン
Playa del Carmen = Beach of Carmen カルメンの浜辺
・コスタ・リカ
Costa Rica = Coast Rich 裕福な海岸
飛鳥Uクルーズのガイドブックによると、コロンブスの最後の航海でこの地に上陸したら、出会った先住民が金の装飾品を身につけていたので、裕福な海岸と呼ぶようになったとのことだ。
・プエルト・リモン
Puerto Limon = Port Lemon レモン港
・プエルト・リコ
Puerto Rico = Port Rich 裕福な港、豊かな港
プエルト・リモンから、同じプエルトの付く国名が頭に浮かんだ。
・カボ・サン・ルーカス
Cabo San Lucas = Cape St.Luke 聖ルカ岬
◆投稿 Kei | 2007年6月17日 (日) 03時38分
こんばんは(こんにちは?)
無事に旅を続けているようですね。こちらも変わりはありませんよ。 ハンモック、有難う。先日、庭の大規模な剪定をしたので、光の通りが良くなりました。最近は庭の管理が行き届いているので(笑!)ケヤキが育ちまくり森状態でしたから!今は紫陽花が満開で、ハーブ園も花盛り、シャラの木もグングン伸びてます。あ、去年張った芝生も、すっかり緑の絨毯状態です。
僕の記憶が正しければ、ハンモックは中南米が本場のはずです。それに、コスタリカ産とは驚き。コスタリカは地理で学んで知っていましたが、あまりなじみの無い国でしたが、一挙に身近な国になりました。
ハンモックが楽しくないと書いていたので、帰ってきたら、是非一度体験して見て下さい。ガーデンパーティーでもしながら!勿論、蚊のいない時間帯でね。風を浴びながらまどろむのは気持ちの良い物ですよ。では、楽しい船旅を!
◆投稿 BOW | 2007年6月18日 (月) 07時19分
Dear Kei,
留守番ありがとう。ハンモックを気に入ってもらったようで、嬉しいです。明日カボサンルーカスでメキシコ製椅子つきハンモックの良いのがあれば、買うつもりです。こちらは小柄な人向きのものをと思っています。主が変わると庭も変わる、緑の絨毯とはオドロキ(笑)。
◆MH | 16 Jun 2007 21:49:43
2.コスタ・リカ
ヒットラーと蚊の話には噴出しました。西洋人はこの手の話を作るのが上手ですね。ここの熱帯雨林は今や日本でも有名で、大兄のお嫌いなワニを見に日本発のツアーさえあります。TVでも時々鳥とか爬虫類の番組を見かけます。
コスタ・リカと言えば中南米での美人国の一角でしょう。よく美人国ABCと言います。Aのアルゼンチン、Bのブラジルは衆目の一致するところですが、はてCは? ある人はコロンビアと言いますが軍配はどうやらコスタ・リカのようです。大兄は如何ご覧になりましたか。
*ハンモック
旧海軍はハンモックで寝ていたそうですね。気持ち良さそうですね。庭の木に吊るしたら確かに面白いでしょうね。
*給水
船会社はどこで給水すればよいか良く知っていますね。メキシコには「モンテスマの呪い」と言うのがあります。16世紀の始めスペイン人に敗れたアステカ王国の皇帝モンテスマは「無念じゃ」とメキシコに来る外国人に取り付いては下痢を起こさせるのだそうです。これを「モンテスマの呪い」と呼びます。
今日は私にとってクルーズ最大の関心ごとであるパナマ運河通峡を体験できる。午前5時15分にリモン湾のクリストバル堤防を通過すると、前日の船内放送でキャプテンが話したので、期待でわくわくして、午前4時半には起きていた。パナマは前の寄港地プエルト・リモンから逆方向の東にあるため、時差調整がこれまでと違って1時間進めることになり、実質は午前3時30分である。
それから、午後5時近くに運河を通り抜けるまでの12時間は、ビデオとデジカメを持って大忙しであった。キャプテンにとっても、絶えず運河に関する情報を伝えるために、スエズ運河通過の時以上に忙しい一日だったことだろう。
今回は、この運河の知識を整理して持っておく方が理解し易いので、私なりにまとめて、ニューヨークの時のようにテーマ別に記録しておくことにした。テーマは、地理、歴史、構造と機能、飛鳥Uの通峡、疑問の5つに分けた。構造と機能の部分は、私自身が非常に興味があり、図解なしでも理解できるように工夫をしたつもりだ。
パナマ共和国は北アメリカ大陸と南アメリカ大陸のつなぎ目に当る位置にあり、東西に長細く、その中央をほぼ南北に通るパナマ運河が、この国を2分している。パナマ運河は、大西洋(カリブ海)と太平洋との最も狭い境界部分を開削して作られ、全長は約80kmである。
1534年にスペインのチャールズ五世がパナマ地峡を通る運河の建設の調査を命じたが、北米大陸分水嶺がそれを阻み、それから300年以上が過ぎて、1878年に、スエズ運河を拓いたフランスのレセップスが建設を開始した。しかし、難工事の連続に加えて、黄熱病とマラリアの蔓延で3万人の作業員が死亡し、資金難も重なり、10年後には倒産して工事を放棄した。
その後、このパナマ運河地帯を重要視する米国によって1903年から建設が進められ、1913年に完成し、1914年8月15日に開通した。この運河地帯には米国の軍事施設がおかれ、南米におけるアメリカの軍事拠点となっていたが、パナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなり、1999年12月31日にパナマへ正式に返還された。現在、パナマ運河の運営、機能、維持管理等すべての責務をパナマ運河庁(ACP)が担当している。
1.閘門式運河
スエズ運河は水平式運河だが、パナマ運河は閘門(こうもん)式と言って、水位差のある水面間で船を就航させる方式になっている。この閘門ということばは、英語の lock の日本語訳だが、なんとも分かり難い。「閘」を漢字辞典で調べると、水を封じてとめる水門、門をあけたりしめたりすることと書いてあるので、それほど間違いではないのだろう。しかし、「閘門」は「水位差のある水面間で船を就航させるための構造物」を指すにも関わらず、それに付随する水門を連想させ、また、間違ってそのように使っている解説文もある。
そこで、この紛らわしく難解な「閘門」ということばを避け、本来の「ロック(lock)」を使うことにした。キャプテンの船内放送でも、ロックを使っていた。「ロック」は、水位差のある水面間で、水位を上下させ、船を就航させるための構造物で、上流端と下流端に扉(lock gate)を持つ天井のない巨大な長方形の部屋で構成されている。両方の扉を閉めて水位を昇降させたのち、一方を開いて船を進める。この発明により水位差のある地点間に運河を設けることが可能になった。
ロックの両端の扉を「水門」と訳しているが、これも「ロック・ゲート(lock gate)」と英語のままで呼ぶ方が、この「ロック」の両端にある観音開きの扉という特殊な水門を表現できると思う。また、ロック・ゲートが閉じられてできる部屋を「チェンバー(chamber)」と呼んでいる。
チェンバーの大きさは、幅110フィート(33.5m)、長さ1000フィート(305m)である。パナマ運河通過最大許容サイズをパナマックス(Panamax)といい、船幅:32.3m、全長:294.1m、喫水:12mと決められているが、船幅と全長はこのロック・チェンバーの大きさによる。飛鳥Uは船幅:29.6m、全長:241m、喫水:7.5mなので、この基準をクリアしている。
パナマ運河には、ロック(閘門)が3ヶ所あり、並行に2組ずつあるため、両方向への航行が可能である。カリブ海側に3つのチェンバーを持つガトゥン・ロック(Gatun Locks)、太平洋側には、1つのチェンバーを持つペデロミゲル・ロック(Pedro Miguel Locks)と、2つのチェンバーを持つミラフローレス・ロック(Miraflores Locks)の3つのロックがある。
ロック・ゲートは頑丈な鋼鉄製で、40組あり、そのすべてが建設当初からのものだという。いずれも、観音開きの扉で、大西洋側からも太平洋側からも運河側へ開くようになっている。そのうちで一番高い扉は、ミラフローレス・ロックの太平洋側の扉で、高さ25m、重さ730トンもある。これは、太平洋側の潮の干満が大きいためである。
ロックの働きを順に書くと、1)船舶をチェンバーに入れる、2)入ってきた側のロック・ゲートを閉じる、3)チェンバーの底から水を入れるか、水を抜き、求める水位にする、4)次のチェンバーと水位が同じになると、出て行く側のロック・ゲートを開く、5)次のチェンバーに船舶を入れる。以下、2)〜5)をくり返し、最終水位のところで、湖や海に進む。
この水位昇降に使う水は、海水を使わず、運河流域の湖の水を利用し、水の移動は重力を利用している。ロックを1回動かすのに約1億9700万リットルの淡水が必要で、最終的にこの水は海に流される。もしも、淡水の代わりに海水を使うとすれば、運河の水面が海抜26mの高さにあるため、ポンプで汲み上げなければならない。この場合、ポンプの設置と運転、整備にコストがかかるだけでなく、ロック(閘門)の装置が塩分によって傷み、まわりの植物も枯れてなくなる。ポンプを使わず、湖の水を重力で移動させ、その調節はバルブで行なうというパナマ運河のメカニズムはなんとも素晴しい。
飛鳥Uの寄港地ガイドでは、「水門で仕切ったドックに海水を注入、排水して水面の高さを調節して進んでいく閘門式運河と呼ばれている。」と書かれているが、まったくの間違いである。
2.人工湖
パナマ運河は、海水面より26m高い水面にあるガツン湖(Gatun Lake)へ、船舶を3段階のロックで持ち上げ、ここを航行した後、船舶を3段階のロックで海水面にまで降ろすことで成立している。このガツン湖は天然のものと思い込んでいたが、これはパナマ地峡を開削した際に、人工的に作られた湖であることを知った。その面積は420平方kmもあり、琵琶湖の670平方kmの60%の広さを占める。
現在のガツン・ロック(Gatun Locks)の場所とペデロミゲル・ロック(Pedro Miguel Locks)の2ヶ所を閉鎖し、そこへ自然の降水を貯めることで、このような広大な人工湖が誕生したとは、何ともスケールの大きな話である。それを可能にしたのが、1年中雨の多い「熱帯雨林気候」であろう。
この人工湖があり、その貯水を利用して、ロック式運河が成立できたのである。また、このガトゥン湖の水面レベルを調節するため、放水用と貯水用のダムが作られ、主役はそれにふさわしい裏方を従えている。もう驚嘆するばかりだ。
3.カット
「カット(cut)」とは掘削して作られた人工水路を指し、これを「水路」と訳すと、あいまいになるので、英語のまま使うことにした。パナマ運河建設工事で最も困難だったのが、大陸分水嶺を分断する掘削工事で、これによって作られたのがゲイラード・カット(Gaillard Cut)である。ゲイラード(Gaillard)は、この工事の責任者だった人の名前である。このカットの部分の長さは12.6kmで、運河全体の距離の15%を占めている。このカットは、ガトゥン湖のガンボア(Gamboa)からペデロ・ミゲル・ロック(Pedro Miguel Lock)まで続き、その間にパナマ地峡の大陸分水嶺を切り抜けている。
運河建設工事では、1億5000立方mの土砂と岩が掘り出されたが、その大半がこのゲイラード・カットで掘削されたもので、その土石を貨車に積むと、貨車の列は地球を4回廻る量だった。想像を絶する大工事だったことが良く分かる。
4.船体の移動
船舶は自力で運河を航行するが、ロック(閘門)内では、専用の電気機関車が船舶を牽引し、チェンバー内を安全に移動させる。運河の両側に線路が敷設され、両側の機関車がそれぞれワイヤー・ロープで引っ張って、船を水路の中央になるように保ちながら牽引する。機関車の数は、船舶の規模により両側合わせて4台から8台が使われるが、飛鳥Uの場合は6台だった。この機関車には、日本の東洋電機製造製の車両が使用されているとのことだ。
飛鳥Uは、水のエレベーターといわれるロック(閘門)に乗って、カリブ海から海抜26mの高さにあるガツン湖に昇り、ここを航行して、ゲイラード・カットという狭い水路を通過し、第2のロックで小さなミラフローレス湖(Miraflores Lake)にまで降り、ここを通ったのち、第3のロックによって海面まで下降して太平洋に出た。その間に見たことや感想などを順に書いておくことにする。
1.リモン湾
リモン湾へ5:15に入る予定だったが、雨と霧のため、前を走る貨物船が遅れたため、6:30にまで延びてしまった。ここは長い防波堤で守られていて、広い湾になっている。左手に着岸用岸壁と乗船客用の建物が見える。それをさらに南下して行くと、はるか前方を航行する貨物船が視界に入ってきた。
2.ガツン・ロック(Gatun Locks)
7:30にガツン・ロックに到着した。ここは左右2個のロックが並行してあり、先の貨物船は既に左側のロックに入っていて、後の観音開きのロック・ゲートは既に閉じている。飛鳥Uは右側のロックに入ることになる。30分くらいの間に貨物船が約8m持ち上がると、前方のロック・ゲートが進行方向に開き、貨物船は次のチェンバーに移動して行った。移動が終わると前のロック・ゲートは閉じられ、チェンバー内の水面はかなり早いスピードで下がる。
左側の貨物船が最初のチェンバーを出たころに、飛鳥Uは右側のロックのチェンバーに入った。後のロックゲートは開いていて、前方に見えるのは前のロック・ゲートである。両脇の壁が迫っていて余裕がなく、到底自力で進入することはできないことが分かる。そのため、飛鳥Uは両側各3台の電気機関車にワイヤー・ロープで牽引されて移動する。電気機関車が合図の警報音を何度も発するのに合わせて、何か操作を行なって前進しいるようだった。
飛鳥Uが最初のチェンバー内に完全に入ると、後のロック・ゲートは閉じられ、チェンバーの底から水がかなり早いスピードで流入し、飛鳥Uはそれに伴い上昇する。この水は次の第2チェンバーの水が底から重力で最初のチェンバーの方へ移動したものである。上昇が止まった時点で、前のロック・ゲートが手前に開き、飛鳥Uは次の第2チェンバーへ電気機関車に牽引されて移動する。
第2チェンバーに移行する箇所の電気機関車のレールは急勾配になっているが、平気で登って行く。レールの中央には、櫛の目状の切れ目の入った第3のレールが通っていて、その上を歯車が回転しながら登っていく。ケーブルカーに似た仕掛けだと思った。
以下同じようにして最後の第3チェンバーに入り、それが終わると、いよいよガツン湖に進入したが、時間は9:45だった。
3.ガツン湖(Gatun Lake)
ガツン湖に入り、しばらく航行したところで、運河管理当局からの指示により投錨して30分待ちとなった。どうも、南行船、北行船の調整をしているようだ。本日の南行船と北行船は各20隻、合計40隻で、飛鳥Uは南行船の2番手、自動車貨物船の後に続くことになっているとキャプテンの放送があった。しかし、どういうわけか、約10分後には、抜錨し、南へ向かって航行した。
ここが人工湖であることを知って眺めると、元はいろいろの高さの山々が連なっていたことが想像できる。小島が点在したり、奇妙な形の島が現れたりして見飽きることがない。どれも熱帯林の小さなジャングルのようだ。すれ違う北行船が多く、10隻近くあったように思う。すべて大型貨物船だった。
突然遠くに木の枝らしいものを発見、近づいたところでよく見ると、確かに枝をつけた木の先で、若芽らしいものも付いている。その少し離れたところに、杭のようなものを見つけたが、これにもいくつか若芽がついている。木の数は何千分の1にも足らず、湖の大きさは何千倍も大きいが、その時、上高地の大正池を思い出した。
4.ゲイラード・カット(Gaillard Cut) 13:00に、ゲイラード・カットに入った。ここは運河の内で最も狭い。岩肌が段々畑のように削られ、草も生えずに残っている姿を見ると、困難な掘削工事をして作られた水路であることが良く分かる。左舷側にゲイラード・カットでの最高峰、海抜180mのゴールド・ヒルが見えた。この部分が最も困難な掘削工事だったのだろう。間もなく、2005年にパナマ運河に架けられたセンティニアル橋(Centennial Bridge)が現れ、しばらく航行して、ペデロ・ミゲル・ロックに到達した。なお、2001年にこのカットの拡張工事が行なわれ、船舶のすれ違いができるようになったとのことだ。なお、ゲイラード・カットは建造当時はクレブラ・カット(Culebra Cut)と呼ばれていた。
5.ペデロミゲル・ロック(Pedro Miguel Locks)
15:00にペデロミゲル・ロックに到着した。ここからのロックは水面を下降させるように働く。前を航行していた貨物船は、こんどは右側のロックのチェンバーに入った。すこし遅れて、我が飛鳥Uは左側にのチェンバーに入る。後のロック・ゲートが閉じられると、底から水が抜かれ、その水は前方の小さなミラフローレス湖に流れ込む。チェンバーの水位がこの湖と同じ高さになると、前のロック・ゲートが開かれ、船舶は湖に進む。
6.ミラフローレス湖(Miraflores Lake)
ミラフローレス湖は小さな湖で、飛鳥Uは自力航行して、16:00には、次のミラフローレス・ロックに到達した。
7.ミラフローレス・ロック(Miraflores Locks)
ミラフローレス・ロックの最初のチェンバーの左手に5階建てのビルがあり、各階は鈴なりの見物客で、こちらを見て手を振っている。どこからこれだけの人が集まるのか?、パナマ運河のロックのメカニズムを見るためか?、それとも客船飛鳥Uを見たいためなのか?、などの疑問が湧いてくる。後で調べたところ、この場所へは、パナマ・シティーから車で20分くらいで来ることができるらしい。ということは、大部分がパナマ・シティーの市民ということだろう。
このミラフローレス・ロックは最後のロックで、2つのチェンバーからできている。最初のチェンバーに入るまでは天候も良かったが、第2のチェンバーに移動してから、突如電光と雷鳴が鳴り響き、猛烈な雨が降ってきた。熱帯のスコールというのがこれなのだろう。瞬く間に視界はゼロとなってしまった。デッキから部屋に戻る人が続出し、残っている者は1割くらいに減ってしまった。
しかし、私は雨の中で、カメラを濡らさないように気をつけながら撮影を続けた。パナマ運河通峡の最後まで見届けた上、写真とビデオに収めておかないと気がすまない性分というのは難儀なものである。
このスコールが3〜40分続いたところで、雨は止み、視界もかなり良くなってきた。そして、飛鳥Uは第2のチェンバーを抜け、太平洋に出た。
8.バルボア通過(Balboa)
バルボアはパナマ運河の太平洋側出入口にある町で、この町を左舷に見ながら16:45に通過した。しばらく進んでアメリカ橋(Bridge of the Americas)の下を通過すると、また左舷側にこんどは摩天楼が出現した。マンハッタンがここに移動してきたのかと思うほど多数の高層ビル群である。地図で調べると、パナマ・シティーに当る。パナマは急速に発展してきているのだろうか?
9.感想
私にとって、パナマ運河は世界一周クルーズの中のハイライトになるだろう。クルーズでしか味わうことのできない体験だった。パナマ運河は20世紀の土木工事の中で最も偉大なものであり、これもまた人類の叡智を示すものだと思った。ふり返ってみて、私にとって旅が重要なのは、人間がどのように生きてきたかを教えてくれたり、考えさせてくれるからだという気がする。そして、その原点となったポンペイを思い出している。
ここでパナマ運河について思った疑問をいくつか書き出してみた。
1.飛鳥Uの通峡費用
スエズ運河の通行費用が3000万円と知って驚いたが、それよりも何倍も複雑なパナマ運河の通行費用はもっと高いだろうと考えた。そこでレセプションで尋ねてみたところ、2000万円ほどであると教えてくれた。スエズが高いのか、パナマが安いのか、なぜそのような違いがでるのだろうか?
2.飛鳥Uがパナマ運河を通らず日本に帰る場合
飛鳥Uがパナマ運河を通らず、喜望峰周りで日本に帰る場合の時間と費用はどうなるかをレセプションで尋ねたら、距離にして2040kmあり、巡航速度19ノット(約35km/時)で航行して、24日間かかる。その間の燃料使用量が3840トンで、1億6千万円に相当するとの回答を得た。パナマ運河通行費用として2000万を払っても、燃料費だけでも大幅に安くつく。
3.大西洋と太平洋を直接つなぐ運河について
かってナポレオンがスエズ地峡に運河を建設しようと学者たちに検討させた際、計測の誤りか、計算の誤りのため、紅海と地中海の海面の高さに違いがあるので運河建設は不可能と進言し、ナポレオンは運河を断念したという話を聞いたことがある。
パナマ地峡では、太平洋側の海面は大西洋に比べて24cm高いことが分かっている。
1)なぜ、両大洋の水位が違うということが起きるのか? 2)この海面の水位の違う両大洋を直結した場合、どのような現象が起るのだろうか? 3)太平洋から大西洋に絶えず海水が流入し、激しい流れとなるのだろうか? 4)流入が続けば、いつかは両大洋の水位が同じになるのだろうか?5)現代の科学はこれらの疑問にどこまで正しく答えることができるのだろうか?
◆投稿 Ikeda | 2007年6月16日 (土) 13時16分
ハンモックを買われたとの事ですが、ご子息がお好きだからとは言っても、珍しい買い物ですね。私も好きではありませんが、熱帯地方では地面近くに寝るよりは安全ですし、何より手軽に寝床が作れるの点で、よく利用されるのだと思います。
ハンモックの良さは私がインドで感じた事があります。私がいた所は、乾期には日中の気温が50度近くにも上がる所でしたが、それでも人間が生きていられるのは、湿度がほとんどゼロに近かったからです。夜、映画館に入って、見ているときは、あまり暑く感じませんでしたが、立ち上がったら椅子に接触していたお尻の部分がびっしょりだった事がありました。同じ事で、夜ベッドに入っても、背中が暑くて、これならハンモックの方が良いなと思いました。中米では、この効用は少ないと思いますが、これは私が汗の効用を、正に肌で感じた例です。
パナマ運河については、大体の知識はあったものの、これだけ詳しい事を解説していただいて良くわかりました。有り難うございました。
最後の疑問点ですが、大西洋よりも太平洋の水位が高い理由は、太平洋の方が降水が多く蒸発が少ないためのようです。そのため喜望峰の南の海流で大西洋に向かって常時、海水が流れこんでいます。従って、パナマ運河を完全に切り開けば海水が大西洋に流れていくと思いますが、水位差はそのまま保持されると思います。その流速については、水位差が24cmでしたらさほどの速さではないと思いますが、私は専門家ではないので良く解りません。
◆投稿 BOW | 2007年6月18日 (月) 07時05分
Ikeda様、コメントありがとうございました。
ハンモックのことも、よく分かりましたが、パナマ運河についての私の疑問に早速クリアカットなご回答下さり、ありがとうございました。さすが、長年水を専門に扱って来られた方だと感心しました。同じ疑問を持った乗客に教えてあげました。
◆投稿 SACHI | 2007年6月16日 (土) 18時53分
いつも興味深深の航海記 (^_^)v 親子といえども気になるところが全く違うようで・・・私が飛鳥世界一周を楽しむために BOWさんのページに出会えたのだと思っています。
ちょうど堺の実家に帰る時に「大阪の北のハービスエントやヒルトンウエストにあるブランド店」を読み「時間に余裕があったら覗いてみよう」とちょっと旅行気分で出掛けることが出来ました。(残念ながら素通りでしたが。)
メキシコも是非行ってみたいと思っていましたが・・・奥様と同じく虫嫌い!その様子がまるで私の行動で笑い転げました。
キャンプや旅行先でしか叶いませんが主人はハンモックが大好き!お土産に頼むと良かった・・・とか
また訪れる都市の知識の豊富さで全く違うものが見えてくることに感激してます。よって 私の今後のガイドブックにさせていただきます。 (^^♪
・・・いろんな事を思いながら読み進んでいます。父もカメラを持っては行きましたがBOWさんとは違うものを捕らえ、違うものを感じ帰ってくることと思います。母はたまに飛鳥のフォトエッセイに写真で登場し、お友達とワイワイおしゃべりを楽しんでいる様子です。同じ飛鳥でも全く違う生活、違う旅を楽しむことが出来るのですね。
父が記していった世界地図では そろそろ日本が見えてきそうに。。。アッ! 夢の世界から現実に戻してはいけなかった m(__)m
また次のお話 楽しみにしています。村上和雄先生の「遺伝子からのメッセージ」に出会えたことも感謝です。この春から末娘が医療系の大学で学んでいます。話題が増えました。
◆投稿 BOW | 2007年6月18日 (月) 07時11分
SACHI様コメントありがとうございます。
コスタリカで買い物をしている時に、ご両親とお会いして、美味しいコーヒーを売っているスーパーを教えて頂いたのです。その時に写真を撮っていただき、写真を昨日頂きました。コーヒーを忘れてきたことをお話したら大笑いされました(笑)。
お嬢様が医療系の大学に進学されていらっしゃるのですか、楽しみですね!
◆投稿 musi | 2007年6月17日 (日) 16時57分
BSで「ニューヨーク72時間」を放映、時間の許す限りみました(@_@) 後で気がつくなんとやらで、録画しておけば良かったと。ブログに登場した地名、建物などなど、興味深く見ることが出来ました。
何を隠そう、、、musiも虫はだっ嫌い!なんです。誰といても噛まれるのはmusiだけで、なんで好かれるのかと?野外コンサートに行くのは二度とごめん!の経験者です。奥様の防御策よーくわかります。
圭先生のハンモック好き、で兄を思い出しました。スケジュール表も残り一枚となりました。今度はHPでのUPを超楽しみにしております。あっこれってプレッシャーかなぁぁぁぁぁ(^^)
◆投稿 BOW | 2007年6月18日 (月) 07時25分
musiさん、コメントありがとうございます。
なんと「musiも虫はだっ嫌い!なんです」か!!面白いですね、そして虫には好かれる、我が家の奥様と同じですね!!
>今度はHPでのUPを超楽しみにしております。あっこれってプレッシャーかなぁぁぁぁぁ
私も、写真たっぷりたっぷりのものに書き換えたくて今からウズウズしています。プレッシャーなんかでは絶対ありません。張り切りすぎて、老体がダウンすることだけが心配です(笑)
◆投稿 団野迪昭 | 2007年6月18日 (月) 23時57分
お元気で世界一周を楽しんでおられるようですね。6月16日に阪大一外30年会があり内藤先生、堀口先生、浜中先生にお会いしました。いつになく盛会でした。私は相変わらずで毎週ペインクリニックに通っています。娘が眼科クリニックをオープンしますので、孫の面倒を家内が見たいと申しますので20日に和歌山に転居します。残りの旅お元気でお過ごし下さい。
◆投稿 BOW | 2007年6月19日 (火) 07時06分
団野迪昭先生、お久しぶりです。コメントありがとうございました。
30年会、盛会だったとのこと、良かったですね! 昨年は幹事をして大失態で冷や汗をかきました(笑)。毎日ペインクリニック通いは大変ですね、早く良くなられることを祈っております。
世界一周クルーズも残りわずかとなりました。何とか楽しくやっております。お元気で!!
◆投稿 シブチンスキー | 2007年6月20日 (水) 13時18分
蚊が飛び立ってくれたお陰で地図上にコスタリカを見ることができたというヒトラーのお話はオフィスで大いに受けました。
パナマ運河通行料の2000万円と利用しないで日本へ帰る場合のコストの差も面白く、通行料はそちらから逆算して設定しているのではないかとさえ疑えますね。
四半世紀前に私が見学したパナマ運河もミラフローレスロックからだったに違いありません。あの頃は日本の貨物船に日本人が乗っていて声をかけたら手を振ってくれました。いろいろと勉強のおすそ分けをありがとう。お元気で紀行をお続けください。
雑誌「選択」に「政界スキャン」というコラムを担当されている某氏が飛鳥Uに乗っておられてマルタ島の城壁のことを書いておられました。いろんな方が乗船されているようですね。
◆投稿 BOW | 2007年6月21日 (木) 01時38分
シブチンスキーさん、コメントありがとうございます。
ヒットラーと蚊の話、面白いですね、私も爆笑しました。けなげな国だとも思いました。貴兄は4半世紀前にパナマ運河を通っていらっしゃるのですね!
いろんな方が乗っていらっしゃるのは確かです。あまり、プライバシーに関することは書かないように気をつけています。
◆投稿 シブチンスキー | 2007年6月21日 (木) 22時07分
パナマ運河を通った訳ではなく、パナマの銅鉱山の視察に行ったときにパナマ市内から運河の見学に行ったというだけのことです。
◆投稿 BOW | 2007年6月22日 (金) 01時29分
シブチンスキーさん、ごめんなさい
書いた後で、気がついたのですが、まあいいかと、訂正をしなくて、ご迷惑をおかけしました。あの熱狂的に手を振ってくれていた観客と同じ場所に居られたのですね。
>パナマの銅鉱山の視察
非鉄金属の殺菌作用について貴兄の講義を受けたことを思い出しています(笑)
◆MH | 16 Jun 2007 21:49:43
3.パナマ運河
始めから終りまで圧倒されました。何も言う事はありません。後で映像を見せてください。巻末のなぞなぞは小生にも判りません。太平洋と大西洋のどこかで水が低い方へ音を立てて流れているのかも知れませんぞ。
◆MH | 20 Jun 2007 00:45:51
パナマ運河の項を繰返し読みました。パナマ運河の資料は方々にありますし、また百科事典での記載は詳しいのですが判り難いのが通例です。飛鳥Uの寄港地ガイドが間違っているのも無理はありません。
大兄のご労作ではパナマ運河が系統的且つ具体的に書かれていて、小生も始めて知る事が方々にあります。(例えば淡水を使ってバルブ操作のみで水位の調整を行う、ロックの両側で船を曳く機関車が丘を登る etc,.何よりもパナマ運河は熱帯雨林の多雨地帯だから運営が出来る。)
これに映像が加われば、パナマ運河を全く知らない人も極めて短時間で全貌を知る事になります。小生がもし現役で社員教育の任にあったならば大兄に講演を依頼したと思います。
*今回の読後の感想
アメリカがパナマ運河を20世紀が終るまで領有した理由が改めてよく判りました。一口に言えば国の安全保障でしょう。流石の大国も財政的に太平洋・大西洋の両方に戦艦を配置できず、一旦事が起きるとパナマ運河を通じて戦艦を融通するのが基本戦略だったのでしょう。そのためかアメリカの戦艦は艦幅をロックの幅に制限され、日本の戦艦に比して細長い艦型です。舷側から主砲をぶっ放す時、艦幅が広いほど艦は安定します。一方で幅が広すぎるとスピードが出ません。二律背反ですがアメリカの戦艦はそれでも細長すぎると思います。
20世紀が終る頃、アメリカは戦艦の時代の終わりを確認してパナマに運河を返す決心をしたと思います。キューバのグアンタナモを未だ返さない国です。この辺り事が一旦安全保障となった時のアメリカの非情さが際立ちます。引き続きの旅程が平安でありますよう祈ります。
1.カリブ海→ガツン・ロック
2.ガツン・ロック
3.ガツン湖
4.ゲイラード・カット
5.ペドロミゲル・ロックとミラフローレス・ロック
ガツン湖からゲイラード・カットを通ってペドロミゲル・ロックに達した船舶は、ここで1段階水位を下げて、ミラフローレス湖を移動して、ミラフローレス・ロックに到達し、ここで2段階水位を下げて、太平洋にまで降りる。
6.ミラフローレス・ロック→太平洋
7.牽引用電気機関車のまとめ
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