第二巻 『天界の高地』 ザブディエル霊
GVオーエン(George Vale Owen)著
近藤 千雄(こんどう かずお)訳
潮文社発行
第1章 序説
第1節 守護霊ザブディエル
1913年11月3日 月曜日
守護霊のザブディエルと申す者です。語りたい事があって参りました。
―御厚意有難く思います。
ご母堂とその霊団によって綴られてきた通信(第一巻)にようやく私が参加する段取りとなりました。これまでに授けられた教訓を更に発展させるべき時期が到来したと言う事です。貴殿にその意思があれば、是非ともその為の協力を得たいと思います。
―恐縮に存じます。私にいかなる協力をお望みでしょうか。
ここ数週間にわたってご母堂とその霊団の為に行って来られた如くに、私のメッセージを今この時点より綴って欲しく思います。
―と言う事は、母の通信が終わり、あなたがそれを引き継ぐと言う事でしょうか。
その通りです。ご母堂もそうお望みである。もっとも、時にはその後の消息をお伝えする事もあろうし、直接メッセージをお届けさせようとは思っています。
―で、あなたが意図されている教訓はいかなる内容のものとなりましょうか。
善と悪の問題、ならびにキリスト教界および人類全体の現在ならびに将来に関わる神のご計画について述べたいと思う。もっとも、それを貴殿が引き受けるか、これにて終わりとするかは、貴殿の望むとおりにすればよい。と申すのも、もとより私は急激な啓示によっていたずらに動揺を来す事は避け徐々に啓発していくようにとの基本方針に沿うつもりではあるが、その内容の多くは、貴殿がそれを理解し、私の説かんとする論理的帰結を得心するに至れば、貴殿にとってはいささか不愉快な内容のものとなる事が予想されるからです。
―私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょうか。あのままで終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結果らしい結果はありません。
さよう終わりである。あれはあれなりに結構である。もともと一つのまとまった物語、あるいは小説の如きものを意図したもので無かったことを承知されたい。断片的かも知れないが、正しい眼識を持って読む者には決して無益ではあるまいと思う。
―正直言って私はあの終わり方に失望しております。余りに呆気無さ過ぎます。また最近になってあの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望はありのまま公表すると言う事でしょうか。
それは貴殿の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが…ただ、一言申し添えるが、これまで貴殿が受け取って来た通信と同様に、今回新たに開始された通信も、これより届けられる一段と高度な通信の為の下準備である。それをこの私が行いたく思います。
―何時からお始めになられますか。
今直ちにである。これまで通り、その日その日可能な限り進めればよい。貴殿には貴殿の仕事があり職務があることは承知している。私を相手とする仕事はそれに準じて行う事にしよう。
―承知しました。出来る限りやってみます。しかし正直言に申し上げて私はこの仕事に怖れを感じております。その意味は、それに耐えて行くだけの力量が私には不足しているのではないかと言う事です。
と言いますのも、今のあなたの言い分から推察するに、これから授かるメッセージにはかなり厳しい精神的試練を要求されるように思えるからです。
これまで同様に我らが主イエス・キリストの御加護を得て、私が貴殿の足らざるところを補うであろう。
―では、どうぞ、まずあなたご自身の紹介からはじめて頂けますか。
私自身の事に貴殿の意を向けさせることは本意ではない。それよりも、私を通じて貴殿へ、そして貴殿を通じて今なお論争と疑念の渦中にあり、あるいは誤れる熱意を持ってあたら無益な奮闘を続けているキリスト教徒へ向けた啓示に着目してもらいたい。
彼らに、そして貴殿に正しい真理を授けたい。それをさらに他の者へと授けてもらいたいと思う。その仕事を引き受けるか否か、貴殿にはまだ選択の余地が残されております。
―私は既にお受けしています。そう申し上げた筈です。私如き人間を使って頂くのは誠に忝い事で、これは私の方の選択よりそちらの選択の問題です。私は最善を尽くします。誓って言えるのは、それだけです。ではあなたご自身については何か。
重要なのは私の使命であり、私自身の事ではない。それはこれから伝えて行く思想の中に正直に表れることであろう。世間と言うものは自分に理解できない事を口にする者を疑いの目を持って見るものである。
仮に私が「大天使ガブリエルの顕現せる者なり」と言えば皆信じるであろう。聖書にそう述べられているからである。が、もし「“天界”にて“光と愛の聖霊”と呼ばれる高き神霊からのメッセージを携えて参ったザブディエルと申す者なり」と申せば、彼らは果たして何と言うであろうか。
逆に、ともかく私にそのメッセージを述べさせてもらいたい。私及び私の卒いる霊団についてはそのメッセージの中身、つまりは真実か否か、高尚か否かによって判断してもらいたい。
貴殿にとっても私にとってもそれで十分であろう。そのうち貴殿も私の有るがままの姿を見る日が来よう。その時は私についてより多くを知り、そしてきっと喜んでくれるものと信じる。
―結構です。お任せいたします。私の限界はあなたもご承知と思います。霊視力も無ければ霊聴力も無く、いかなる種類の霊能も持ち合わせていないと自分では思っております。
しかし、少なくともこれまで綴られたものについては、それは私自身とは別個のものであることは認めます。そこまでは確信しております。
ですから、あなたにその意思がおありであれば私は従います。それ以上は何も言えません。私の方から提供するものは何もないように思います。
それで良い。貴殿の足らざるところはこちらで補うべく努力するであろう。
今回はこれ以上述べない事にしよう。そろそろ行かねばなるまい。用事があるであろう。
主イエス・キリストの御加護のあらんことを。アーメン†
第2節 善と悪
1913年11月4日 水曜日
神の恵みと安らぎと心の平静のあらんことを。
これより述べていくことについて誤解なきを期するために、あらかじめ次の事実を銘記しておいてほしい。すなわち吾々の住む境涯においては、差し当たり重要でないものはしつこく構わず、
現在の自分の向上進化にとって緊要な問題と取組み、処理し、確固たる地盤の上を一歩一歩前進していくと言う事である。もとより永遠無窮の問題を心に宿さぬ訳ではない。
“究極的絶対者”の存在と本質及びその条件の問題をなおざりにしている訳ではないが、今おかれている界での体験から判断して、これより先にも今よりも更に大いなる恩寵が待ち受けているに相違ないことを確信するが故に、そうした所詮理解し得ない事は理解し得ない事として措き、そこに不満を覚えないと言うまでである。
完全な信頼と確信に満ちて修身に励みつつ、向上は喜ぶが、さりとてこれより進み行く未来についてしつこく求める事はしないと言う事である。それ故、これより扱う善と悪の問題においても、吾々が現段階において貴殿に明確に説き得るものに限る事にする。
それは、仮に虹を全真理に譬えれば、一滴の露ほどのものに過ぎぬし、あるいはそれ以下かも知れない事を承知されたい。
“悪”なるものは存在しないかの如く説く者がいるが、これは誤りである。もし悪が善の反対であるならば、善が存在する如く悪も又実在する。例えば夜と言う状態は存在しない。
―それは光と昼の否定的側面に過ぎない。と言う理屈が通るとすれば悪なるものは存在しない―実在するものは善のみである、と言う理屈になるかもしれない。が、
善も悪も共に唯一絶対の存在すなわち“神”に対する各人の心の姿勢を言うのであり、その一つ一つの態度がそれに相応しい結果を生むに至る必須条件となる。ならば当然、神に対する反逆的態度は其の反逆者への苦難と災害の原因となる。
神の愛は強烈であるが故に、それに逆らうものには苦痛として響く、流れが急なればなるほど、その流れに逆らう岩の周りの波は荒立つのと同じ道理である。火力が強烈であればある程、それに注ぎ込まれる燃料と供給される材料の燃焼は完全である。
神の愛をこうした用語で表現する事に恐怖を感ずるものがいるかも知れないが、父なる神の創造の大業を根源において支えるものはその“愛”の力であり、それに逆らう者、それと調和せぬ者には苦痛をもたらす。
この事は地上生活においても実際に試し、その真実性を確かめる事が出来る。罪悪に伴う悔恨と自覚の念の中でも最も強烈なものは、罪を働いた相手から自分に向けられる愛を自覚した時に湧き出るものである。
これぞ地獄の炎であり、それ以外の何ものでもない。それによって味わう地獄を実在と認めないとすれば、では地獄の苦しみに真実味を与えるものは他に一体何があるであろうか。
現実にその状況を目の当たりにしている我々は、神の業が愛の行為にあらざるものは無いと悟って悔恨した時こそ罪を犯した者に地獄の苦しみがふり掛かり、それまでの苦しみは本格的なものでなかったことを知るのである。
が、そうなると、つまり悪に真実味があるとなれば、悪人も又実在することになる。盲目はものが見えない事であるが、ものが見えない状態があると同時に、ものが見えない人も存在する。又ものが見えないと言う状態は欠如の状態に過ぎない。
つまり五感あるべきところが四感しかない状態に過ぎないが、それでもその欠陥には真実味がある。生まれつき目の見えない者は視覚の話を聞いて始めてその欠陥を知る。そしてその欠陥の状況について認識するほど欠如の苦しみを味わう事になる。罪もこれと同じである。
暗闇にいる者を“未熟霊”と呼ぶのが通例であるが、これは否定的表現ではない。“堕落霊”の方が否定的要素がある。そこで私は盲目と罪とを表現するに“無”と言わず“欠如”と言う。生まれつき目の見えない者は視力が無いのではない。欠如しているに過ぎないのである。
罪を犯した者も、善を理解する能力を失ったのではない。欠如しているに過ぎない。譬えてみれば災難に会って失明した状態ではなく、生まれつき目の見えない人の状態と同じである。
これは聖ヨハネが“真理を知る者は罪を犯すことを能わず”と述べた言葉の説明ともなろう。
但し論理的ではない。実際問題としての話である。と言うのは真理を悟って光と美を味わったものが、自ら目を閉じて盲目となる事は考えられないからである。
それ故に、罪を犯す者は、真理についての知識と善と美を理解する能力が欠如しているからである。
目の見えない者が見える人の手引きなくしては災害に遭遇しかねないのと同じように、霊的に盲目の者は、真理を知る者―地上の指導者もしくは霊界の指導霊―の導き無くしては罪を犯しかねないのである。
しかし現実には多くの者が堕落し、あるいは罪を犯しているではないか。―貴殿はそう思うかもしれない。その種の人間は視力の弱い者または不完全な者、言わば盲目にも似た者達でもある。つまり彼らはものが見えていても正しく見ることはできない。
そして何らかの機会に思い知らされるまでは自分の不完全さに気がつかない。色盲の人間は多かれ少なかれ視力の未発達な者である。そうした人間が道を誤らない為には“勘”に頼る他ない。それを怠る時、そこには危険が待ち受ける事になる。
罪を犯す者もまた然りであるが、貴殿は当惑するかもしれないが、一見善人で正直に生きた人間が霊界へ来て、自分を未発達の中に見出すことが実に多い。意外に思うかもしれないが、事実そうなのである。
彼らは霊的能力の多くを発達させることなく人生を終え、全てが霊的である世界に足を踏み入れて始めてその欠陥に気づく。知らぬこととは言え、永きにわたって疎かにしてきた事について、それから徐々に理解していく事になる。
それは盲目の人間が自分の視力の不完全さに気づく事無く生活しているのと同じである。しかも他人からもそうと知られないからである。
―何かいい例をお示し願いませんか。
生半可な真理を説く者は、此方へ来て完全な真理を説かねばならなくなる。インスピレーションの事実を知る者は実に多いが、それが神と人間とのごく普通の、そして不断の連絡路である事は認めようとしない。
こちらへ来れば、代わって自分が―資格が具われば―インスピレーションを送る側に回り、その時初めて自分が地上時代にいかに多くのインスピレーションの恩恵に浴していたのかを思い知る。
こうして彼らは自分に欠如した知識を学ばねばならない。向上とはそれからの事である。それまでは望めない。
さて悪は善の反対であるが、貴殿も知る通り双方とも一個の人間の心に存在する。そのいずれも責任をとるのはあくまで自由意思に関わる問題である。その自由意思の本質とその行動範囲については又の機会に述べるとしよう。
神のご加護のあらんことを。アーメン†
第3節 神への反逆
1913年11月8日 土曜日
これより暫しのあいだ貴殿の精神をお借りし、ひき続き悪の問題と善との関係について述べたいと思う。善と言い悪と言い、所詮は相対的用語であり、地上の人間の観点からすればいずれも絶対的と言う事はあり得ない。
双方の要素を兼ね備える者にはそのいずれも完全に定義することができないのが道理で、ただ単に、あるいは、主として、その働きの結果として理解するのみである。
又忘れてならないことは、ある者にとって善又は悪と思える事が必ずしも別の者からみて善又は悪とは思えないと言う事である。宗教的定義の違い、民族的思想や生活習慣の違いのある場合にはそれが特に顕著となる。
故に両者の定義の問題においてはその基本的真理の大要を把握することで足れりとし、そこから派生する細部の問題は地上生活を終えた後に託する事が賢明である。
さて、罪とは法則として働くところの神への反逆である。賢明なる者はその法則の流れる方角へ向けて歩むべき努力する。故意または無知ゆえにその流れに逆らう者は、たちまちにしてゆく手を阻まれる。そして、もしもなお逆らい続けるならばそこに不幸が生じる。
生成造化を促進する生命は破壊的勢力と相対立するものだからである。故に、もし仮にその強烈な生命の流れに頑強に抵抗し続けたとしても、せき止められた生命力がいずれは堰を切って流れ、そのものを一気に押し流す事になろう。
が、幸いにして、そこまで頑強に神に反抗する者、あるいは抵抗しうる者はいない。故に吾々神の子の弱さそのものが、実はそうした完全なる破壊を防ぐ安全弁であると言えるのである。
比較的長時間―往々にして地上の年月にして何千万年にも亘って頑固に抵抗し続ける者が居ないでもないが、いかなる人間も永遠にその状態を続け得る者はいない。
そこに父なる創造神が子等の内と外に設けた限界があり、一人として神より見離され永遠に戻れぬ羽目に陥らないようにとの慈悲があるのである。
そこでそうした神との自然な歩みから外れた生き方を見たからには、今度はその反対、すなわち全てが然るべき方向へ向かっている状態に目を向けよう。確かに悪は一時的な状態に過ぎない。
そして全宇宙から悪のすべてが拭いされるか否かは別として、少なくとも個々の人間においては、抵抗力を使い果たし時に悪の要素が取り除かれ、後は栄光より更に大いなる栄光へと進む輝かしい先輩霊の後に続くに任せる事になろう。
この意味において、いつかは神の国より全ての悪が清められる時が到来するであろう。
何となれば神の国も個々の霊より構成されているのであり、最後の一人が招き入れられた時は、今地球へ向けて行っているのと同じ様に別の天体へ向けて援助と救助の手を差しのべる事になろう。吾々の多くはそう信じるのである。
こうして地上に降り、今いる位置から吾々の世界と地上との間に掛るベールを透して覗いてみると、一度に大勢の人間が目に入る時もあれば、僅かしか見えない時もある。彼らは各々の霊格に応じてその光輝に差異がみられる。
神より吾々を通して地上界へ流れ来る霊的な“光”を反射する能力に応じた光輝を発していると言う事である。薄ぼんやりと見える者がいるが、彼らはこちらへ来てもそれ相応の、あるいはそれ以下の、薄ぼんやりとした境涯へと赴く。
それ故、そこにいる者は各自其の置かれた環境と雰囲気の中で極めて自然に映る事になる。そこがその人の“似合いの場所”なのである。例え話でもう少し判り易く説明しよう。
仮に闇夜に生きなり閃光が放たれたとしよう。暗闇と閃光の対照が余りに際立つ為に見る者の目に不自然に映る、閃光は本来そこに在るべきものではなかった。為に暗闇に混乱が生じ、全ての者が一瞬動きを止める。
暗闇の中を手探りで進みつつあった者は目が眩んで歩みを止め、目をこすり、暫くして再び歩み始める。夜行性の動物も一瞬ぎょっとして足を止める。
しかし同じ閃光が真昼に放たれたとしたらどうであろう。当惑する者は少なく、更にこれを太陽にむけて放てば陽光と融合して、そこに何の不調和も生じないであろう。
かくして強い光輝を発する高級霊はその光輝と調和する明るさを持つ高い境涯へと赴く。無論高級霊の間にもそれなりの差があり、各霊がそれ相応の界に落ち着く。
反対に霊的体質の粗野な者は、それに調和する薄暗い境涯へ赴き、その居心地良い環境の中で修身に励むのである。むろんそこが真の意味で“居心地良い”環境ではない。
ただ、より高い世界へ行けばその光輝と調和しない為に暗い世界より居心地が悪いと言うに過ぎない。そこに居心地良さを感じる為には、自分の光輝を強める他ない。
地上を去ってこちらへ来る者は例外なく厚い霧状の帳に包まれているが、その多くは既に魂の内部において高い界に相応しい努力の積み重ねがある。そうした者はいち早くより明るい境涯へ突入していく。
今遥か上方へ目をやれば、そこに王の道―地球の守護神の王座の坐(マシマス)聖都へ通じる道が見える。我らは其の道を一歩一歩進みつつある。そして一歩進む毎に光輝が増し、吾々も、そして我々とともに歩む同志達も、美と光輝とを増して行く。
其の中途において特別の許しを得て、それまで辿った道を逆戻りし、器官はその必要性によって異なるが、地上の者を吾々の辿って来た光と美の道へと導く仕事に携わる事が出来るのは、吾々の大いなる喜びとする所である。
貴殿の守護霊として私は、貴殿が現在に心の姿勢で臨んでくれる限り、吾々霊団と共にこの仕事を続ける所存である。
貴殿はそのつもりであると信じるが、よくよく心してもらいたい事は、勇躍この仕事に着手したものの、新しい真理の光に目がくらみ、猜疑心を抱いてより暗い道、つまりは己の魂の視力に相応しい段階へと逆戻りする者が多いことである。去る者は追わず。
我らはその者達を溜息とともに見送り、新たな人物、吾々の光輝に耐え得る人物を求める。惜しくも去れる者は、時の経過とともに再び目覚めて戻ってくるまで待つ他ないのである。
願わくば神の御力によって、貴殿が足を踏み外すことなく、又眼を曇らされる事もなく進まれる事を祈る。例え地上の言語で書き表せない事も、少しでも多くを綴ってもらうべく吾らとしても精一杯の努力をするであろう。
貴殿を通じて他の多くの者がそれを手中にし、そこに真理を発見し、なお勇気があれば自ら真理の扉を叩き、その光輝と栄光を手にする。其の縁となればと願うからである。†
第4節 統一性と多様性
1913年11月10日 月曜日
今この地上に立って見上げる私の目に、遥か上方まで、そして更にその向こうまでも、延延と天界が存在するのが見える。私はそのうち幾つかを通過し、今は第十界に属している。
これらの界は地上の“場所”とはいささか趣を異にし、そこに住む霊の生命と霊力の顕現した“状態”である。貴殿はすでにこうした界層についてある程度教示を受けている(第一巻六章)ので、ここではそれについて述べる事は控えたい。
それよりも私は別の角度からその光と活動の世界へ貴殿の目を向けさせたいと思う。これよりそれに入る。
善なるものには二つの方法によって物事を成就する力が滞在している。善人は、地上の人間であれ霊界の者であれ、自分の内部の霊力によって、自分より下層界の者を引きあげる事が出来る。
現実にそうしているのであるが、同時に自分より上層界の者を引き下ろすことも可能である。祈りによってもできるが、自分自身の霊力によっても出来ると言う事である。
さて、これは神の摂理と波長が合うからこそ可能である。と申すのも、神の創造した環境に自らを合わせる事が可能なだけ、それだけその環境を通しては働く事が出来る。つまり環境を活用して物事を成就することができると言う事である。
下層界を少し向上しただけの霊によってもそれは可能であり、その完成品がベールを通してインスピレーションの形で地上へ送り届けられた時、人間はその素晴らしさに感心する。
例を挙げよう。こちらには地球の存在自体を支える為の要素を担当する霊と、地上に繁茂する植物を受け持つ霊とがいる。ここでは後者の働きの説明となる例を挙げてみる。すなわち植物を担当する霊の働きである。
その霊団は強力な守護神の配下に置かれ、完全な秩序のもとに何段階にも亘って分担が存在する。その下には更に程度の低い存在が霊団の指揮のもとに、高い界で規定された法則に従って造化の仕事に携わっている。これがいわゆる妖精類(エレメンタル)で、その数も形態も無数である。
今述べた法則はその根源から遠ざかるにつれて複雑さを増すが、私が思うに、源流へ向けて遡れば遡るほど数が少なくそして単純となり、最後にその源に辿りついた時は一つに統合されている事であろう。
その道を僅かに辿ったに過ぎない私としては、これまでに見聞きしたものに基づいて論ずる他は無いが、敢えて言わせて貰うならば、全ての法則と原理を生み出す根源の法則・原理は“愛”と呼ぶのが最も相応しいものではないかと思う。何となれば吾らに理解の及ぶ限りにおいて、愛と統一は全く同一ではないにしても、差して相違がないと思えるからである。少なくても吾々がこれまでに発見した事が、私の属する界層を始めとして地上界へ至る全ての界層において、数々の地域と各種の境涯が生じていくそもそもの原因は最も厳格な意味における“愛”が何らかの形で欠如して行く事にある。
が、この問題は今ここで論ずるには余りに困難が多すぎる。と言うのは地上の環境に見る多様性の全てが、今述べた多様性の全てが、今述べた崩壊作用の所為(と私には思える)でありながら、尚且つ素晴らしくそして美しいのは何故かを説明するのは極めて困難である。それを愛の欠如と言う言い方をせず、統一性が一つ欠け二つ欠けして、次々と欠けていくと言う言い方をすれば、統一性が多様性と発展していくとする吾々の哲学の一端を窺い知ることができるかもしれない。
こうした下層界の活動の全てが法則によって規制されているのであるが、それなりの枠内における自由はかなりの程度まで存在する。これまた吾々にとって魅力のある事である。何となれば、貴殿も同意することと思うが、その多様性に大いなる美が存在すると同時に、植物的生命を活動させる霊の巧みさにも大いなる美が存在するからである。
精霊界及びその上あたりの界を支配する法則には私に理解しがたいものがまだまだ数多く存在する。中には理解し得るものもあるが、今度はそれを原語で伝える事が至難の業である。が少しばかり伝える事が出来るものがある。それ以上の事は貴殿自身こちらへ来てから、向上の道を歩みつつ学んでもらう事になろう。
その一つは、一旦ある植物群の発達の計画を立てた以上は、その主要構成分子と本質的成分はあくまでも自然の発達のコースを辿らねばならないと言う事である。群生する劣位種の影響もその不変の原則内に抑えなくてはならない。例えば樫の木が計画されると、あくまでも樫の木としての発達を遂げさせなくてはならない。亜種が発生するとことはあっても、樫としての本性を失ったものであってはならない―シダになったり海藻になったりしてはならないと言う事である。この原則はこれまで大体において貫かれている。
もう一つの原則は、いかなる霊も他の部門の霊に干渉し台無しにする事があってはならないと言う事である。足並みが揃わない事があるかもしれない。現にしばしばそういう事があるのであるが、なるべく一時的変異の範囲に留めるように努力し、多種の発達を完全に無視することがあってはならない。それは絶滅を意味する事になるからである。
故に、同じ科の二つの植物を交配すると、雑種又は混成種、あるいは変異種が出来るであろう。が別の科の植物と交配しようとしても成功しないが、いずれにしても絶滅と言う結果にはならない。
又樹木に寄生植物が絡みつく事がある。樹木はそれに抵抗し、そこに闘争が始まる。大抵の場合、樹木の方が痛められ敗北を喫するが、簡単に負けてはいない。延々と戦いが続き、時には樹木の方が勝つ時もある。が霊界において既成植物の概念を発想し、そして実施した霊が大局においては競り勝っていることが認められる。
こうして植物の世界においても闘争が続けられている訳であるが、これをベールのこちら側から観察していると実に興味深いものがある。
さてここで、先に少し触れたことで貴殿には受け入れ難いと見た事について述べておかねばならない。こうした生成造化における千変万化の活動の主な原則は全て私自身の界(第十界)より高い界において、高い霊格と強力な霊力を持った神霊が、さらに高い界の神霊の支配下に在ると言う事である。
私はいま“千変万化”と言う言葉を用い“対立的”とは言わなかった。これは高い神霊界においては対立関係と言うものが存在しないからである。存在するのは叡智の多様性であり、それが大自然の見事な多様性となって天界より下層界へと下り、ついに人間の目に映じる物的自然となって顕現しているのである。対立関係が生じるのは大源より発した叡智が自由意思を持つ無数の霊の存在する界層を通過する過程において弱められ、薄められ、屈折した界層においてのみである。
が、しかし、様々な容積を具え、幾つもの惑星を従えた星たちの世界を見て貰いたい。地球の自転と他の惑星の引力によって休みなく満ち引きする大海を見てほしい。また、その地表に押し寄せるエネルギーに反応して更に重い流動体を動かすところの、より希薄なエーテルの大気を見るがよい。更には、無数の形態と色彩をもつ草、植物、樹木、花、昆虫類、更に進化した小鳥や動物達の絶え間ない活動―他の種族を餌食としながらも互いに絶滅しないように配慮され、各種族が途上での役目を全うしていくその姿―こうした事や他の諸々の自然界の仕組みに眼をやる時、貴殿は創造神の配剤の妙に感嘆し、その感嘆は取りも直さずその配下の高い神霊の働きへの感嘆に他ならないことを認めずにはおれないであろう。
その神の御名において貴殿に祝福のあらんことを祈る。
第2章 人間と天使
第1節 暗闇の実在
1913年11月12日 水曜日
もしお互いが物事を同じ観点から眺める事が出来れば、今問題としている事も容易に説明が出来るのであるが、残念ながら貴殿は原因の世界と結果の世界の間に掛ったベールの向こう側から眺め、私はこちらから眺めているので、必然的に視野が対立する。
そこで何とか判り易くしようとすれば、どうしても私の方が見地を変えて出来る限り地上的見地に立たねばならなくなる。
そこで私は出来る限りそう努力しつつ、貴殿を吾々と共に高く創造の根源へ目を向けるよう呼び掛けたい。つまりは高き神霊の世界から発した思念が物的形態を取りつつ下層界へ至る、その自然な過程と流れを遡って見たいと思う。
界を遡ると、自然界の事物が下層界における時とは様相が違う事に気づく。いわば心理的影像へと変わり、内的視覚に訴えるようになる。が、太陽と日没後の薄明の関係と同じく、物質界の事物、あるいは更に上層界の事物との間につながりがある事はある。
まずその光の問題から始めれば、地上では光は闇との対照によって知らされる。つまり光の欠如した状態が闇であり、本質的には実態も価値も持たない。それ故、吾らが闇と言う時、目の網膜に外界の事物を印象付けさせるある種のバイブレーションが欠如した状態を意味する。
さてベールのこちら側における霊的暗黒地帯においても同じ事情が存在する。つまり暗黒の中にいる者は他の者が外界の事物を認識する際に使用するバイブレーションが欠如している。
其のバイブレーションが受け入れられない状態に在ると言う事である。霊的感覚に変化が生ずれば、鮮明度は別として、ともかくも見えるようになってくる。
然し同時に、そうした暗黒の下層界におけるバイブレーションは上層界に比して粗野である。その為に、暗黒界へ降りていく善霊にとっては、たとえその視覚は洗練されていても暗闇はやはり暗闇であり、彼らに映ずる光はぼんやりとしている。
それで理解が行くと思うが、霊と環境との間には密接な呼応関係があり、それが余り正確で不断で持続性がある為に、そこに恒久的な場が出来上がるのである。
この霊と環境との呼応関係は上級界へ上昇するに従って緊密となり、外界に見る光よりは完全により強烈になって行く。故に、例えば第四界に住む者が第五界へ突入しそこに留るには、第五界の光度に耐えうるまで霊性を高めなければならない。
そして首尾よく第五界に留れるようになりその光度に慣れきると、今度は第四界に戻った時に―良く戻る事があるが―そこの光が弱く感じられる。もっとも、事物を見るには不自由は無いが、更に下がって第二界第一界まで至ると、最早そこのバイブレーションが鈍重過ぎて事物を見るのが困難となる。地上時代と同じように見ようとすればそれなりの訓練をしなければならない。こうして地上へ降りて人間を見る時、吾々はその人間の持つ霊的な光輝によって認識する。
霊格の高い者ほど鮮明に見えるものである。もしも視覚以外に霊的鑑識力が具わっていなければ、吾々は目指す地上の人間を見出すのに苦労するものと思われるが、幸いにして他の数多くの能力を授かっている為に、こうして貴殿との連絡が取れ、使命に勤しむ事が出来るのである。
これで“いかなる人間も近づく事を得ぬ光の中に座す存在”という言葉の真意が理解できるであろう。地上に居る者に対して、数多くの界の彼方まで突入しうる者はいない。そして又、高い界より流れ来る光は余ほど霊性高き人間の目をも眩ませる事でしょう。
考えても見るがよい、この弥が上にも完全な光が天界の美について何を物語っているかを。地上には地上なりに人間の目にうっとりとする色彩が存在するが、ベールのすぐこちら側には更に多くの色彩が存在する。これが更に高い界へ進んで行けばどうなるか。
色彩一つにしても思い半ばにすぎるものがあろう。天界を僅かに昇って来たこの私が目にしたものですらすでに、今こうして述べている言語では僅かにその片鱗を伝え得るに過ぎない。
私にとっては地上の言語は今や外国語同然であり、同時に貴殿が蓄えた用語の使用範囲にも又限界がある。
が、喜ぶがよい。美を愛する者にとって美は無尽蔵に存在し、又光と神聖さとは常に相携えて行くものであるから、一方において進歩する者は他方において大いなる喜びを味わう事になる。
これぞ“聖なる美”であり、全ての人間的想像の域を超える。とは言えこれは熟考の価値ある課題である。熟考を重ねる者には地上の美しきものが天界のより大いなる美を真実味をもって物語ってくれるであろう。
天界において求めるものは生命の喜びのみである。それは貴殿が誤らず向上の道を歩み続けるならば、いずれの日か貴殿のものとなるであろう。†
第2節 天体の円運動の原理
1913年11月15日 土曜日
さて、もう一つ私の立場から見て貰いたいものがある。地上の科学者は天体について彼らなりに観察して、その結果をまとめ、他の情報と統合して推論を下し、それに在る程度の直感力と叡智とを加味して生成の原理を系統だてているが、その天体の生成過程に霊的存在と霊的エネルギーとがどうかかわっているかその真相について述べてみたい。
そもそも天体と言う用語には二重の意味があり、その理解も個人の能力と人間性の程度によって異なる。ある者にとってはそうした球体は物質的創造物に過ぎず、ある者にとっては霊的生命力の顕現の結果以外の何ものでもない。
が、その霊的生命力の働きについても皆がみな同じように理解している訳ではない。霊的生命力と言う用語を極めて曖昧な意味に使用している人もいる。“神が万物を創造した”と簡単に言う者がいるが、その意味するところは途轍もなく深遠である。
地上と言う薄暗い世界を超越して、より明るい世界を知る者にとっては、多分その言い方では真理を表現しているよりむしろ埋葬していると言いたいところであろう。もっとも偉大なもの、もっとも単純な叡智から生まれる。
絶え間なく運動を続ける天体の見事な連動関係(コンビネーション)も、最も基本的な幾何学的計算から生まれる。何となれば、一つの縺れもなく自由自在の使用に耐え得るものは、もっとも純粋にしてもっとも単純なものしかないからである。
其の至純にして単純な状態こそ恒久性の保証である。それは地球のみに限らない、遥か彼方の星たちの世界においても永遠に変わらぬ真理である。何となれば、完璧なる理法のもとに統制されているからである。
さて、それら天体組織の各軌道は二種類の原理によって定められているといっても過言ではない。すなわち直線と曲線である。否、根源的にはたった一つの原理すなわち直線から出来上がっていると述べた方がより正確かも知れない。
つまり全ての天体は本来直線軌道上の上を直進している。ところが突き進むうちに例外無く曲線を描く事になる。その道理の説明は地上の天文学者にも出来るであろう。が、一つだけ例を挙げて説明しておこう。
地球を例にとり、それが今軌道上を発進したとしよう。するとまず直線を辿るそれが本来の動きなのである。ところが間もなく太陽の方向へ曲がり始める。
そしてやがて楕円状に働いている事が判る。結果的には直線は一本もない。曲線の連続によって楕円を描いたのであり、それが地球の軌道なのである。
一方太陽の引力は決して曲線状に働いた訳ではない。やはり一直線なのである。
結局地球の軌道を直線から楕円に変えたのは二種類のエネルギーの直線的作用―地球の推進力と太陽の引力だったのであり、その中には多種類の曲線の要素が入り、それが完全な楕円をこしらえたのである。
実はこれには他にも多くの影響力が働いているが、貴殿の注意力を逸らさぬよう、一つの原理に絞っている。これを定義づければこうなることであろう…二本の直線的エネルギー作用が働き合って楕円軌道を形成する。と。
太陽の引力も地球の推進力も完全な理法に沿って働き、そこには美しさと驚異的な力がある。物体が自ら働くと言う事自体が驚異と言うべきであり、真実、驚異なのである。その両者が互いに働きを修正し合い、又大なるものが小なるものを支配しつつ、しかも小なるものの本来の力と自由を奪うことなく、連動作用により―明らかに対立した動きをしながらも―二本の直線よりも遥かに美しい楕円を画く。これはまさに親と子の関係にも似ている。
貴殿はまさか両者が対立する運動をするからにはこの機構は誤っており“悪”の根源より出たものである、等とは思うまい。考えても見るがよい。この両者は虚空の中を来る日も来る日も変わることなく連繋運動を幾星霜となく続け、今なお続けている。
それを思えば侮辱どころか畏敬と崇敬の念を抱くべき事柄である。美しさと偉大さとを併せ持つ叡智の存在を示している。これを考案された神への讃仰の念を抱かずにはおれないであろう。
偉大なる叡智と偉大なる力とを兼ね備えた存在であるに相違ないからである。むべなるかなである。
人間は神の御業をこのように理解せず、見た目に映じた皮相な見解の基に神及び神の働きを安易に疑い過ぎる傾向がある。人間生活の中に先の例の様な対立関係を見ると、すぐに神が不完全で在るかの如く言う。もっと良い方法がある筈であると思い、神の叡智と愛を疑う。
人間生活の画く大きな軌道の僅かな曲線のみを見て、あたかも全てが破滅に向かっているかの如く思いつめる。そうまで思いつめなくても、少なくても全てが直線的、つまりは悲劇もなく苦難も無いコースこそが正しい人生であると思い、対立的勢力の連動作用によって軌道を修正される事を好まない。
もとより、過程の問題とすればそれ以外の働き方もあるかもしれない。が、もしそうなれば、神がその霊力によって実現させた所の、かの完璧な星たちの働きには及びもつかないものとなるであろう。
人生における軋轢や悩み事や苦痛を感じさせるところの対立関係は、地球を無事軌道上に運行させているエネルギーの対立関係と同じなのである。完全なる全体像を見通す神の目から見ればそれで良いのであり、その成就へ向けて忍耐強く待つのである。
吾々とて全てが判る訳ではなく、これから辿る道もさして遠い先まで見通せる訳でもない。ただ貴殿よりは遠くが見える。少なくても現在自分のおかれた事情に得心し、同じ道を歩む同胞に援助の手を伸ばし、これより先いかに遠く進もうと、全てが上手く出来ていると言う信念を持って向上へ励むのである。
と言うのも、こうして地上の霧に包まれ視野を閉ざされた状態においては、吾々はその道程についてしつこくその詮索をすることをせず、天界に戻って煌々たる光の中において全体を眺める。その高き視野より眺めると、完成へ向けて進む人生の軌道は実に見事なものである。
余りに見事である為に吾々はしばしば愛と叡智の神の尊厳と驚嘆と畏敬の念を覚え、思わず足を止めるのである。その威容の前にひれ伏す時の讃仰の念は最早私の言葉では表現できない。ただ魂の憧れの中に表現するのみである。
アーメン。私からの祝福を。勇気を持って恐れることなく歩まれるがよい。先の事は私が全て佳きに計らうであろう。†
第3節 ヤコブと天使
1913年11月17日 月曜日
「汝の見る所を書に著せよ」―これはパトモス島にいたヨハネに天使が語った言葉である。彼は可能な限りその命に従い、書き記したものを同志に託した。その時以来、多くの人間がその解釈に苦心してきた。
そして彼らはああでもないこうでもないと思案の末に、よく判らぬ、と兜を脱ぐのである。が彼らが解釈に戸惑うのは実は自業自得なのである。
何となれば、もし幼子の如く素直な心を持って読めば容易に真理の扉を開く合鍵はあったのであり、神の王国に入り、素直な人間の素直な言葉を受け取るものを待ち受ける天界の美を見る事を得た筈なのである。
ところが人間はいつの時代にも、“複雑”を好む。そして複雑さの中に真理の深遠さと奥行きとを求める。が、それは無駄である。何となれば、それはいわばガラスの表面を見て、反射する光の眩しさに目が眩むにも似た行為であり、その奥を見透し、そこに潜む栄光を見るべきだったのである。
かくして人間は複雑さに更に複雑さを加え、それを知識と呼ぶ。が、知識には本来複雑さは無い。知識を欠くことこそ複雑さを生む要因である。故にもし私が貴殿に、そして貴殿を通して他の者に何かを説明せんとする時、その説明のうわべだけを見てはならない。
自動書記という通信方法に拘ってはならない。つまり用語や言い回しに貴殿自身のものに酷似したものがあるからと言って、それを疑って掛ってはならない。
それはいわば家屋を建てる為に使用する材料に過ぎず、その為には貴殿の記憶の層に蓄えられたものを借用するしかないのである。
更に言えば、貴殿のこれまでの半生は一つにはこの目的の為の監督と準備の為に費やされてきた。すなわち、こうした自動書記の為に貴殿を使用し、さらに又、地上界とのつながりを深める上で吾々の及ばざるところをそちらから援助してもらうためである。吾々が映像を見せる。
それを貴殿が文章として書きとめる。かくして“汝が見るところの事を書き記し”それを世に送る。この受け止め方は各人の受容力の程度によると同時に、持てる才覚が霊的真理を感識得るまでに鋭さを増しているか否かに関わる問題である。
各々それで佳しとせねばならない。さ、吾らとともに来るがよい。出来る限りのものを授けよう。
―吾々と言う言い方をされますが、他に何人かいられるのでしょうか。
吾々は協調によって仕事を推進する。私と共にこの場に居合わせるものもいれば、それぞれの界にあって必要な援助を送り届けることのできる者もいる。又そうするより他に致し方ない性質の援助もある。
それは海底のダイバーの為に地上から絶え間なく空気を送り込まなければならないと同じで、吾々がこうしている間中ずっと援助を送り届けてくれる必要がある。あたかも海底に居る如く、
普段摂取している空気は乏しく光は遥か上の方に薄ぼんやりと見える、この暗く息苦しい地上界に在っては、そうした種類の援助を得る事によって高き真理を幾分なりとも鮮明に伝える事が出来るのである。
この点を考慮に入れ、吾々の事もその点に鑑みて考えてほしい。そうすれば吾らの仕事について幾分なりとも理解が行くであろう。
かく申すのも、天使は何故曽てほど地上へ訪れなくなったのかという疑問を抱く者がいるからである。この僅かな言葉の中に多くの誤解が存在するが、中でも顕著なのが二つある。まず第一は、高い霊格を具えた天使が大挙して地上を訪れる事は絶対にない。
永い人類の歴史の中においても、あそこに一人此処に一人と、極めて稀にしか訪れていない。
そしてその僅かな事象が驚異的な出来事の年代記の中において大きく扱われている。天使が地上へ降りてその姿を人間に見せることは、よくよく稀にしか、それも特殊な目的のある場合を除いて、まずあり得ない。
万が一そうするとなれば、先に述べた吾々の仕事の困難さをさらに延長せねばならない。つまり、まず暗く深い海底へ潜らねばならない。次にその海底で生活している盲目に近い人間に姿を見せるための諸々の条件を備えなければならない。
それはあり得ない事である。確かに吾々は人類の為の仕事に携わり、人類と共に共存するが、そういう形で訪れる事はしない。其々の仕事により規則があり方法も異なる。
そこに又、第二の誤解が存在する。確かに吾々の身は今人間界に在り、繰り返し訪れているのであるが、この、訪れると言う言葉には、言葉だけでは表せない要素の方が実に多いのである。
ベールのこちら側に居る者でも、あるいは吾々の界と地上界との中間の界層に居る者でも霊の有する驚異的威力とその使用法については、向上の過程において以外に僅かしか理解していないものであるが、この問題はこれまでにして、次に別の興味ある話題を提供しよう。
例のジャボクにおいてヤコブが天使と会い、それと格闘して勝ったと言う話(創世記32)―貴殿はあの格闘をどう理解しているであろうか。そして天使が名前を教えなかったのは何故だと思われるであろうか。
―私はあの格闘は本当の格闘であったと思います。そしてヤコブが勝たせて貰えたのはパダン・アラムでの暮らしにおける自己との葛藤が無駄でなかったことを悟らせる為であったと思います。
つまり己に勝ったと言う事です。そして天使が名前を明かさなかったのは肉体に宿る人間に天使が名を明かす事は戒律(オキテ)に反く事だったからだと思います。
なるほど最初の答えは良く出来ている。後の答えはいま一つと言うところである。何となれば考えても見よ、名を明かさなかったのはそれが戒律に反むく行為であるからと言うのなら、では一体なぜそれが戒律に反く事になるであろうか。
さて例の格闘であるが、あれは真実みと現実味とがあった。もっとも、人間が行うような生身と生身との取り組みではなかった。もし天使に人間の手が触れようものなら、天使は大変な危害を被るであろう。
確かにヤコブの目に映ずるほどの形態で顕現し、触れれば感触が得られたであろう。が、手荒に扱える性質のものではなかった。天使の威力はヤコブの腰に触れただけで足の関節が外れたと言う話でも想像がつくであろう。
では、それほどの威力のある天使を組み伏せた程のヤコブの力は一体何であったのか。実は天使はヤコブの念力によって組伏せられたのである。と言って、ヤコブの念力が天使のそれを凌いだと言うのではない。天使の謙遜の徳と特別な計らいこそがそこにあったのである。
天使が去ろうとするところをヤコブが引きとめると、天使はそれに従ったが、是非帰らせてほしいと実に慇懃に頼んでいる。
貴殿はこの寛恕の心の偉大さに感嘆するであろう。がそれも、イエス・キリストが地上で受けた恥辱を思えば影が薄くなるであろう。慇懃は愛の表現の一つであり、それは霊性を鍛える永い修行において無視されてはならない徳の一つである。
こうして天使はその謙遜の徳ゆえに引きとめられた。が、それはヤコブが勝ったことを意味するものではない。新たに自覚した己の意思の力と性格が、しばし、ケチくさい感情を圧倒し、素直に天使に祝福を求めた。天使はすぐに応じて祝福を垂れたが、その名は明かさなかった。
名を明かす事が戒律に背くと言う言い方は必ずしも正しいと言えない。名を明かす事もあるのである。ただ、この時は明かされなかった。それはこう言う理由による。すなわち名前と言うものにはある種の威力が秘められていると言う事である。この事を良く理解し明記して欲しい。
何故なら、聖なる名を過って使用し続けると不幸が生じる事ことがあり、それに驚いてその名の主が忌み嫌われる事になりかねないからである。ヤコブが天使の名を教えてもらえなかったのは、ヤコブ自身の為を思っての事であった。
祝福を喜んで求めた。がそれ以上に余り多くを求めすぎぬようにと戒めがあったと言う事である。ヤコブは天使の偉大なる力を殆ど直接(ジカ)に接触するところまで体験したが、その威力を無闇に引き出す事は戒めなければならない。
そうしなければ其の後に待ち受ける奮闘は己の力によるものではない事になるからであった。
今、貴殿の心に疑問が見える。吾々に対する浅はかな要求が聞き入れられる事があるかと言うことのようであるが、それは可能であるのみならず、現実にひっきりなしに行われている。
不思議に思えるかもしれないがその浅はかな要求を吾々が然るべき形にして上層界へ送り届けるが、往々にしてその結果は、当人自身の力をふりしぼらせ、そうする事によって霊界からの援助に頼るよりも一層大なる力を発揮させるべきであると言う事になる。
地上に人間が必死にあるものの名を呼べば、それは必ず其の者に届く。そして可能な限り、そして本人にとりて最良の形で世話を焼き活動してくれる。
思うにヤコブは兄エサウとの闘争、息子達との諍い、そして数々の試練によって自己の人間的威力を否応なしに発揮させられることで、たびごと天使の援助を頼りとした場合より飛躍的進歩を遂げた事であろう。
彼の要求はしばしば拒否され、それが理解できない為に信仰に迷いを生じ当惑した事であろう。又時には援助が授けられた事であろうが、それは歴然とした形で行われたであろうから、理解するには努力は要らず、従って進歩も必要としなかった事であろう。
この問題はこれ以上続けぬ。ヤコブの例を引いたのは、吾々の姿は見えず声も聞こえないからと言って、それだけで貴殿が吾々から遠く離れている訳でもなく、また吾々が貴殿から遠くに居る訳でもない事を示す為でもあった。
吾々が語り、貴殿が聞く、しかしそれは聴力で聞くよりも更に深い、貴殿自身の内奥で聞いている。貴殿の目に映像が見えるが、それは視力で見るより更に内奥の感覚にて見ている。貴殿は何一つ案ずるには及ばない。
吾々も少しも案じてはいない。そしてこれ以降も貴殿を使用し続けるであろう。故に平静さとキリストを通じての神への祈りの気持を持ち続けて欲しい。吾々はキリストの使者であり、キリストの名のもとに参る者である。†
第4節 神とキリストと人間
1913年11月18日 水曜日
地上の全存在の創造が完了した時、最後一つだけ最も偉大なものが未完のまま残された。それが人間である。人間はその後の発達に任された。
驚異的な才能を賦与されていたからこそ向上の進化の道を啓示され、その道を自ら辿るにまかされた。一人ぼっちではない。天界の全政庁が、人間がいかにその才能を駆使していくかを見守っていたのである。
今ここで地上の学者の説く進化論や神学者の説く堕罪と昇天について改めて述べるつもりはない。それよりももっと広い視野に立って人間本来の向上心と現状について述べてみたい。
又、我々にも人間の未来を勘案し神の子全ての前途に横たわる、奥深くそして幅広い天界のその少し先くらいは覗き見る事は許されているのである。
又その考察に当たっては、地上で行われている神学的ドグマに捉われる事がない事も承知されたい。神学の世界は余りにも狭隘(キョウアイ)であり、又余りにも束縛が多い為に、広い世界に永く暮らしていた者が不用意に手を伸ばせば、取り囲む壁に当たって傷を負いかねない。
更に広く旅せんとしても、もっと苦しい災難が降りかかるかもしれないとの不安の為に、つい躊躇してしまうのである。
良く聞くがよい。神学の教え方をあたかも身体にとっての呼吸の如く絶対的と思い込む者には、衝撃が余りに大きく恐るべきものに思えるかもしれないが、吾々にとっては、道を誤らぬ為に神より賦与されている人間本来の意思と理性な自由な行使を恐れ、ドグマと戒律への盲従をもって神への忠誠であるかの如く履き違えている姿を見る事の方が、よほど悲劇に思えるのである。
考えても見よ。神の不機嫌に恐れおののかねばならぬとは、一体その神と人間とはいかなる関係であろうか。自らの思考力を駆使して真摯に考え、その挙句にたまたまドグマから逸れたからと言って、神がその者を無気味な笑みを浮かべて待ち受け網を持って捕えんとしているからとでも言うであろうか。それとも“汝は生ぬるいぞ。冷たくもなく、さりとて熱もない。
よって汝の願いは却下する”と述べたと言うのはこの神の事であろうか。自由闊達に伸び伸び生き、持てる才能を有難く敬虔な気持ちを持って存分に使えば良いのである。そしてたまたま過ちを犯しても、それは強情の故でもなく故意でもなく、善なる意図から出た事である。
両足を正しくしっかりと踏まえ、腕を強くふりしぼって矢を射よ。一度や二度的を真ずれたとて少しも戸惑う事は無い。恐れてはいけない。神が却下されるのは自ら試みてしくじる者ではなく、勇気をもって挑もうとせぬ臆病者である。
この事は自信を持って断言する。私はその二種類の生き方を辿った人間が地上からこちらへ来た暁に置かれる場所、更には高級界へと進み行く門を探し求める経緯(イキサツ)を見て、その真実性を十分に得心しているのである。
さて天界の大群の一員としての貴殿によくよく心して聞いてほしい事がある。改めてこう申すのも、これから私が申し上げる事の中には貴殿の意にそぐわない事があるかもしれからである。願わくば私の伝えるままを記してもらいたい。
キリスト教徒の中にはキリストを神と認めない者が多くいる。実はその問題に関しては地上のみならずベールのこちら側に来ても軽々しく論じられている。と言うのも、地上に限らず、吾々の世界でも、真理を知るためには自ら努力して求めなければならないと言う事情があるのである。
吾々には啓示の奇跡は与えられず、と言って自由な思考が上級界より抑制される事もない。人間と同様に吾々も導きを受けるが、あれこれと特定の信仰を押し付けられる事は無い。それ故に吾々の世界にもキリストは神にあらずと説き、そう説く事で万事終われりとする者が大勢いる事になる。
この度の私の目的はそれを否定して真相を説く事ではない。それを絶対に者として説くつもりは更にない。それよりも私はまずその問題の本質を明らかにしたい。そうすることで、用語の定義付けを疎かにしてはこの種の問題が理解できない事を説きたいと思う。
ではまず、第一に一体“神”とは何を意味するかと言う事である。“父なる存在”を想う時の、一個の場所に位置する個人、つまり人間の様な一人物を意味するのであろうか。もしそうだとすれば、キリストが神ではない事が明らかである。
さもないと、それは二重の人物つまり二個の人物が区別付かない状態で一体となった存在を創造する事になる。キリストが“私と父とは一つである”と言ったのはそういう意味で述べたのではない。対等の二人の人物が一体となる事は考えられない事であり、理性が即座に反発する。
それともキリストは父なる人間として顕現したと言う意味であろうか。もしそうだとすれば、貴殿もそうであり、わたしもそうである。何故なら神は全存在に宿り給うからである。
あるいはキリストにおいて父なる神の全てが統一体として其のまま宿ったと言う事であろうか。もしそうだとすれば、これ又、貴殿にも私にも同じ様に神は完全なる形で宿っている事になる。なぜなら、神は不可分の存在だからである。
しかしそれを神の全てがキリストに宿り吾々には宿っていないと言う言い方をすれば、それは単なる一個の俗説に過ぎず。それ以上の価値は無い。これは非論理的でもある。
何となれば、もしも神がそっくりキリストの中に宿るとすれば、キリストがすなわち神となって両者の区別がつかない事になるし、必然的にキリストに宿る神が神自身の中には宿らぬという妙な理屈にもなる。これでは理性が納得しない。
それ故吾々が第一に理解しなければならぬ事は“父”と言うのは神について吾々が考える限り最高の要素を差す為の名称に過ぎないと言う事である。もっとも吾々にはそれすら本当の理解は出来ていない。何故なら正直に申して、父なる神は吾々の理解を超えた存在だからである。
私には父なる定義することはできない。未だ一度もそのお姿を拝したことがないからである。それより以下の存在にその全体像が見える道理がないのである。私が排したのはその部分的顕現であり、それがこれまで私に叶えられた最高の光栄である。
ならばキリストと父との一体性の真意もまた、吾々の理解を超えた問題である。キリスト自身が吾々より上の存在だからである。キリストは吾々に思考しうる限りの事を述べておられるが、吾々にはまだその多くが理解できていない。
地上においてキリストは父なる神を身をもって証言しておられた。つまり人間の身体によって顕現し得る限りの神の要素を吾々に示されたと言う事である。それ以上の事は判らぬ。が、謙譲の徳と敬虔なる愛が深まるにつれて知識も深まりゆくことであろう。
キリストが父と一体であるのと同じ意味において吾々はキリストと一体である。“人間性”と呼ぶものと“神聖”と呼ぶものと融合したキリストの中に存在する事によって、吾々は父なる神の中に存在する。
キリスト自身が述べておられるように、父はキリストより偉大なる存在である。が、どれほど偉大であるかは語られなかった。例え語られたとしても、吾々には理解し得なかったであろう。
さて以上の説を読まれて、これで私は人間が組み上げてきた足場組を徒(イタズラ)に取り払うのみで、しかも結局は建物すら見えないではないかと言う者もいるであろう。が、私の目的は頭初に述べたように、建物を構築することではない。
今何よりも必要なのは確固たる基礎づくりである事を指摘する事であった。脆弱な基礎の上に建てたものは、見ているうちにも、あるいは早晩必ず崩壊して多くの労力が徒労に終わることは必定である。実は人間はまさにそれに等しい事をこれまで延々と続けてきたのである。
そして自らは其れに気づいていない。明確であるべき多くの事が曖昧模糊としている原因はそこに在る。“良くは知らぬ。がしかし…”というセリフで始めて断定的な事を述べるのは賢明とは言えない。高慢は得てして謙虚な心の美しさを見えなくする。
又深遠な問題に対して即座に応える者が叡智に溢れていると思うのも誤りである。何となれば、確信は得てして傲慢と相通じている事があり、傲慢から真実は生まれず、又愛すべきものでもないからである。
貴殿と、守護霊としての私とは、永遠なるキリストにおいて一体である。キリストの生命の中において吾々は互いに相見え祝福し合う。では私から祝福を述べる事にしよう。そして貴殿から届けられた厚意に深く感謝する。†
第5節 第十界の住居
1913年11月19日 水曜日
そういう次第であるから、私が語る言葉は多くの者にとって受け入れ難いものであろう。が、この事だけは知っておいてほしい。キリストの祭日には東からも西からも大勢に信者がキリストの神性の真相を知らぬまま参列する。が、その人間的優しさと愛ゆえにキリストに愛を捧げる。
少なくてもそこまでは理解できるからである。が、その神性の本質を理解する者は一人としていない。そこでこれより話題を変えて、まず肉体に宿る人間がキリストによって示された向上の道を歩む上において心すべき事を取り上げてみよう。
何よりもまず人間は“愛する”事が出来なければならない。これが第一に心がけることであり、又最大のものである。難しいのはこれを持続することである。
互いに愛し合うべきであると言えば、誰しもその通りであると言う。が、これを行為で示す段階に至ると、悲しいかな能書き通りにはいかない。しかし、愛なくしてはこの宇宙は存在し得ず、
崩壊と破滅の道を歩むであろう。宇宙が今あるべき姿に保ち続けているのは神の愛あればこそである。その愛は、求める者ならば至るところに見出す事が出来る。
ものごとを理解する最上の方法はその対照を求める事である。愛の対象は崩壊である。何故なら、崩壊は愛の行使の停止から生じる憎しみも愛の対象である。もっとも、本質的には対立したものではない。憎しみは往々にして愛の表現を誤ったものに過ぎないからである。
人間について言える事は其のまま教義や動機についても言える。他の主義、主張を嫌うその反動で一つの主義に傾倒すると言う者が数多くいるものである。
愚かしくもあり誤ってもいるが、必ずしも悪とは言えない。が人間は他を憎む時、憎むが故に愛する事が出来ない事になり、ついには何ものをも愛する事が出来ない事になる事を知らねばならない。
これが実はこちらの世界でも面倒を増幅する種の一つなのである。と申すのは、誰しも憎まずにして全てを愛する事が出来るようにならない限りは、愛がすなわち光を意味するこの世界においての進歩は望めず、愛する事を知らぬ者は暗き世界において道を見失い、その多くが身も魂も生気をなくし、ついには真理の鑑識力までが外界と同じく朦朧(モーロー)としてくるのである。
一方には一つ一つの石材までが光輝を放つ“天界の住処”が無数に存在し、辺り一円、遥か遠き彼方まで光を放っている。その光はそこに住む者の愛の純粋さが生み出すのである。
―そうした住居と、そこに住む人々について具体的にお教え願いませんか。その方が一般的な叙述より判り易いと思うのですが。
それは容易なことではない。その困難さはいずれこちらへ来て見れば判る。例え要求に応じても、貴殿が得るものは結果的には真実からずれる―少なくとも不適切なものになる。
その事もいずれ理解が行く事と思うが、たつての要求とあらば、何とか説明してみよう。何か特別に叙述して欲しい事があれば申すがよい。
―ではあなたご自身の住まいから。
第十界においては低級界の存在しない事情、特に地上では全く見られぬ事情がある。
例え貴殿をその十界まで案内したところで、貴殿の目には何も映らないであろう。霊的状態が其の界の状態にそぐわないからである。
せいぜい見えるのはモヤの如き光―それも其の界のどの地域であるかによって程度が異なる。九界そして八界と下ればより多くのものがみえるであろうが、やはり全ては見られない。しかも目に映じたものをすみずみまで理解する事は出来ないであろう。
仮に一匹の魚を盛ったガラスの器に入れて街中を案内したとしよう。その魚には、まず第一にどれほどのものが見え、第二にそれがどれほど理解できるであろうか。
思うに、魚にはその住処―水つまり魚本来の環境からせいぜい二、三インチ先しか見えないであろう。貴殿の顔を魚の見える位置に持って生き、次に手を見せてやるがよい。魚にはその二つのものがどう映るであろうか。
人間が吾等の界へ来た時もそれと同じである。内在する霊的能力を活性化し、楽に使用できるようになるにはただ“鍛錬”のみである。さて、話を更に進めて、例えばその魚にウエストミンスター寺院を説明するとなったらどうするか。
村の教会でもよい。それを魚の言語で説明しなければならない。その話を聞いた魚が貴殿の言う事が不合理であると言ったところで、それは魚の能力の限界の為に貴殿の思うに任せぬからに過ぎない。
もし村の教会やウエストミンスター寺院の様なものがある訳がないと魚が言ったところで、それは貴殿の説明がまずいのではなく、魚の方の理解力に原因がある事をどうすれば納得させる事が出来るであろうか。が
たつての要望であれば、これより私の住居、私の寛ぎの場について出来るだけの説明を試みてみよう。が終わって見れば多分貴殿はもっと何とかならないものかと思うであろうし、いっそうの事何も語らずにいた方が良かったと言う事になるかもしれない。
吾らが住居を建立している国は数多くの区域にまたがっており、それぞれの区域からはその特質を示す無数の色彩が発散され、それが私と共に住む者たちの霊性とほぼ完全に一致している。
それらの色彩のほとんどは貴殿の知らぬものばかりであるが、地上の色彩も全て含まれており、それが無限と言えるほどの組み合わせと色調を持っている。我らが携わるその時その時の仕事によって調和の仕方が異なり、それが大気に反映する。
又吾等の界へ届けられる様々な思念と願望にたいしても、その住居が反応を示す。それには下層界からの祈りの念もあれば上層界からの援助の念もあり、その最下層に地上界が存在する。
音楽も放送される。必ずしも口を使う事とは限らない。大抵は心から直接的に放送し、それが近隣の家々に反響する。これも吾らによる活性化の一端である。
周囲の樹木、花等の全ての植物もその影響を受け、反応を示す。かくて色彩と音楽と言う本来生命の無い存在が吾らの生命力を受けて意識に反響する事になる。
家屋の形は四角である。が、壁は四つだけでなく、また壁と壁とが向き合っているのでもない。全てが融合し、又内と外とが壁を通して混ざり合っている。
壁は保護の為に在るのではなく、他に数々の目的がある。その一つはバイブレーションの統一の為、つまり吾等の援助を必要とし、又その要請のあった地域へ意念を集中する時に役たてる。
かくて我々は地上からの祈りにも応えて意念を地上へ送り、他の諸々の手段を講じて援助を授ける事になる。
同じく上層界からの意念が吾々の界へ届けられ、それが吾々の家屋を始めとして他の用意した幾つかの作用によって吾々の感覚に反応するものに変えられ、それを手段として高級神霊との連絡を取り、吾々を悩ませる問題についての指導を受ける事もある。
更には、反対に下層界から使命を帯びて吾々の界へ訪れるものにこの界の環境条件に慣れさせ、滞在中の難儀を軽減するために霊力を特別に授ける時も、この家屋を使用する。
又、吾々と話を交わし、吾々の姿を見せ、声を聞く事が出来るようにして上げるのにも、その家屋にそなわっている作用が活用される。それなくしては彼らは使命が全うできないのである。
私の家を外部より眺めた様子を、地上に近い界の一住民による叙述によって紹介しよう。彼は私に家を見た時に“隠し得ぬ光に包まれし丘上の都”(マタイ5・14)と言う言葉を思い出したと言う。
見た時の位置は遥か遠くであったが、その光に思わず立ち止り地面へ降下した。(そこまで空中を飛行していたのである)そこで暫し彼は眼を覆った。それから徐々に遠くに輝くその建物が見えるようになったのであった。
例の塔(第一巻参照)も見えたが、その青い光が余りに強烈で、何処まで光輝が届いているか見分けがつけなかったという。天上へ向けて限りなく伸びているかに思えたのである。
それから例のドームも…赤色のもあれば黄金色のもある…その光輝が余りにも眩しく、何処で終わっているのか、その全体の規模を見る事が出来なかった。
門も外壁も同じく銀色、青、赤、スミレ色に映え、眩いばかり光で丘全体と周囲の森を覆い尽くし、それを見た彼は、そこへいかにして入り、そして無事その光に焼き尽くされずに戻れるだろうかと思ったとの事であった。
が、彼らは既に其の者の姿は見えていた。そこで使いの者を派遣ししかるべき処置を施させたのであった。無事使命を終えて吾らに別れの挨拶をしに見えた時彼はこう述べた。
「今お別れするに当たって私の心に一つの考えが付きまとっています。それは、私が戻れば仲間の者から私が訪れた都はいかなるところであったかと聞かれる事でしょうが、一旦自分の本来の界層に帰り、再び元の限りある能力での生活に戻った時、この光栄をどう語れば良かろうかと言う事でございます」
私は答えた「これ以降、あなたは二度と嘗てのあなたに戻る事は無いでしょう。何となればあなたの中にこの界の光と感受性とが幾らかでも残る筈だからですあなたの記憶に残るものは仲間に告げ得るものより遥かに大きいことでしょう。
何故なら、例え告げても理解してもらえないでしょうし、告げようとすればこの界の言語を使用せざるを得ないからです。
それ故あなたは彼らにこう告げられるが宜しい…より一層の向上に鋭意努力する事です。そうすれば自ら訪れて、語ってもらえないものを自ら見る事が出来るでしょう。と」
聞き終わると、彼は大いなる喜びの内にこの界を後にした。同じ事がいずれ貴殿の身の上にも訪れる日が来るであろう。彼に告げた最後の言葉を此処で貴殿にも与える事にしよう。†
第3章 天上的なるものと地上的なるもの
第1節 古代の科学と近代の科学
1913年11月21日 金曜日
読むのが速い者が必ずしも正しく読み取っているとは限らない。そういう者は、見た目に重要に思えない事柄は落ち着いてじっくり考える余裕をもたないものだからである。
表面的な事以外は眼に留らないのである。であるから、通信が判り易く書かれていると、大部分が軽く読み流されてしまい、そのメッセージの重要性が眼に留らない事になる。
この事は人間が自然と呼んでいるもの、つまり霊力が物質を通して活動しているその表面的な現象に書かれている教訓についても言える。又人間なり、民族なりが、その本来の性格を基礎として繰り拡げる運命の働きについても同じ事が言える。
更にこの事は、程度こそ異なるが、いわゆる科学の発見においても言える事である。ではこれより、この発見の問題を取り上げ、ざっと目を通すだけで深く読もうとしない大方の人間よりも深く踏み込もうとする者に対して深く暗示されているものを観てみよう。
歴史も同じ様に科学も又繰り返す。が、決して全く同じことを繰り返す訳ではない。知識の探求にも常におおよその原理と言うものが支配しており、その原理が一定の役割を果たすと、
他の原理にもその場を譲って裏側へ回り、新たな原理が人類の注目を世界中で集中的に受ける事になる。が、時の経過とともにいつしか前の原理が再び表に出てきて…順序は定まっていないが…新しく人類の注目を集める。かくして人類進化の行進が続けられる。
発見そのものの種類も又、失われては新たに発見される事を繰り返す。全く同じものではない。外観が変わり、新たな特徴が加わり、同時に古い特徴が失われている、と言う事がしばしば見られる。
以上述べた事を更に判り易くする為に、例を挙げて細かく説明しよう。嘗ては科学そのものが今日の科学とは異なる意味をもった時代がある。つまり科学にも心があり、物質的現象は二次的な意味しか持たなかった。
錬金術がそうであり、星学がそうであり、工学ですらそうであった。当時すでに地上世界が霊的世界によって支配され、無数の霊団が自発的に…但し上層界から偉大な霊力と崇高な権威によって規制された限度内で…監督に当たっている事が知られていた。
そして当時の人間はそうした霊的支配者の程度や階級、及び自然界と人間界の各部門における彼らの役割、更には各階級から行使される霊力の量まで知ろうとする研究がおこなわれていたのである。
事実彼らはおびただし数の事実を発見し、分類した。ただ、そうした事実や法則、規制、事件などが地上的なものではなく霊的なものであったが為に彼らは止むなくそれを通常の言語とは別の形で表現した。
これが関心の異なる別の世代が台頭してくると先祖が伝統承話の形に込めた知識のなんたるかを考慮することなく、これは単なる譬え話であり、抽象的なものに過ぎないと断定してしまう。そう断定することで裏に秘められた事実が輪郭を失い。やがて真実味まで失っていく。
様々な民族における霊力の研究成果がそうした経過を辿り、これがヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語を生み出すことになった。それらは、まぎれもなく古代の科学があるものを付加され、あるものを抜き取られ、様々に歪められながら生き残れる姿なのである。
が、そうした物語を今述べた事に照らし、その本質と近代に至ってからの潤色とを選り分けて読めば、その底に、あたかも幾世紀もの間土砂に埋もれたエジプトの古代都市の如く、太古の科学すなわち霊的観点より考究した知識を見出すことができる。†
―何か例を挙げて頂けませんか。
「ジャックと豆の木」と言う物語がある。まず名前を見るがよい。ジャックはJohnの愛称であり、このジョンを最初に用いたのは例の「黙示録」の著者(ヨハネ、英語読みでジョン)である。
豆の木は「ヤコブのはしご」(創成期)すなわち霊界の上層界へ辿りつく為の階段の翻案である。物語の意味は、天界に辿りつけばそこは現実の国であり、様々な地域があり、自然の風景があり、家々があり、素晴らしい知識がある。
天使はその全てを人間に授けるつもりはないのであるが、時に大胆で能力のある人間が侵入して地上へ持ち帰る事がある。
天使は其れを取り戻そうとし、人間がそれ以上に大胆になる事によって獲得する所有権を奪おうとするのであるが、人間は生来の機智を弄してそれを妨げる事が出来ると言うのである。
さてこれはなかなかな面白い話ではあるがその深い意味を理解せぬ者によって幾世紀も語り継がれてきたために、話の筋が奇妙で滑稽にさえなっている、たとえば、もし信の意味が理解されておればジャックと言う軽々しい愛称は用いられなかったであろう。
があのジャックのおなじみの衣装を見れば判る通り、ジャックと言う俗称に変わったのは神聖なものや霊的なものが霊視された時代のものである。当時は霊的存在を理解する事が出来なかったのである。
悪魔に衣服を着せ、刃物のような耳や尻尾を付けたりしたのも同じ理由からである。すなわちそうしたものは当時ではあくまで神話の世界だけの存在だったのである。従って悪魔の性格も神話的な架空のものに過ぎなかった。
この物語は数多多く存在する物語の一つに過ぎない。「パンチとジュディ」と言う物語も救いがたき極悪人としてピラトとイスカリオテ(ユダ)風刺したものである(*)が、この宗教的にして且つ恐ろしき事実を扱うその手法にも、当時の時代的軽薄さが歴然としている。
(*「パンチとジュディ」はパンチと言うせむし男が子供を絞殺したり妻のジュディを苛め殺したりする古い英国の人形芝居であるが、これはイエスの処刑を命じた残虐非道のローマ総督と、イエスを裏切ったユダを風刺したものとされる)
まさに軽薄であり、これまで常にそうであった。が、今の時代に至って霊的なるものがようやく人間世界に戻り、その位置を見出しつつある。
必ずしも正当な位置を得ているとは言えないが、少なくとも過去幾世紀かにおける扱われ方に較べれば、より大きな考慮を払われていると言えよう。
かくして外面的には様相を変えているものの、内面的にはかのエジプト星学を支配した一般的原理、ならびにモーゼが学びそして活用した叡智に類似したものが今日再び人間界に戻りつつある。
それが人間の意識を高め、生命力の産物…貝殻、石、化石…をいじくりながらその生命力の根源の存在を認めようとせぬ過去の唯物思想に存在意識を賦与しつつある。
嘗ての唯物科学は大自然の法則の秩序ある働きを説いた。…にも関わらず、その秩序と働きの背後の唯一絶対の霊的始原の存在を否定した。
大自然の美を謳った…なのに、その美も人間に“霊”が宿ればこそ感識し得るものである事、そしてその霊も永遠なる神の生命が存在すればこそ存在することを忘れていた。
吾等は常に人間を見守っている。そして赦される限り好機の与えられる限りにおいて導いている。もし人間が吾等の働きかけに忠実に応えてくれれば、今まさに過ぎ去りつつある時代よりも更に多くの光と愛と生命の美に溢れる時代が到来する。
吾々は人間はきっと応えてくれるものと確信する。何となれば、新しきものは古いものに優るのが必定であり、更に、吾等が地上へ向けて働きかける時、背後にさらに高い世界から叡智と霊力とが澎湃として迫りくることを感じるのである。
そして吾等は、これぞ上層界の意図であり要望である事を確信するものを実行に移す。
吾々とて、あまりに遠き未来まで覗き見する事は出来ない。それにはそれなりの特別の部門があり、それは現在の吾々の霊団の任務には組み入れられていない。が、
吾等はその努力が多くの人間に首尾よく反応を示してくれる事に喜びを感じ、時の経過とともにより多くの機会を得て人間にとって吾等がいかに身近な存在であるか、また、人間が常に謙虚にして冷静さ保ち、最高の規範としてキリストを目指し、吾等の教説の中にたとえ走り読みにせよ見出せるであろう聖なる美を体現すべく努力をしておれば、いかに大きな仕事を成就する潜在力を秘めているかを示す事が出来る…そう期待しているのである。
それと言うのも、キリストの霊的生命は、それをひと目見れば、美とは何かを知る者は恍惚の境へと誘われるほどのものだからである。
キリストの名において吾等は愛し、キリストに向けて吾等は崇拝の念を捧げる。常にキリストの安らぎのあらんことを。アーメン。†
第2節 守護霊と人間
1913年11月24日 月曜日
更に言えば、いついかなる時も吾等の存在を意識することは好ましいことであり、吾等にとって何かと都合がよい。事実吾等は何時も近くに居る。もっとも、近くに居る形態はさまざまであり意味も異なる。
距離的に近くに居る時は役に立つ考えや直感を印象付けるのが容易であり、又仕事が楽に、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序良く配慮する事が出来る。
吾等の本来の界に居る時でも、人間の心の中及び取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いが其のまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。
こうして接触を保ちつつ吾等は監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないように警戒を怠らない。
それが出来るのも吾等の界、及び吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張り巡らされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。
更にその方法と別に、吾等の如き守護の任に当たる者が本来の界に留ったまま、ある手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。
これで理解が行くと思うが、創造主の原理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは一つとしてなく、人間が地上において行う事は天界全体に知れ亘り、それが守護霊と心の思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼす事になる。
されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、眼に映じ手を触れることのできる人々に対してのみならず、
目には見えず手を触れる事さえできないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大な影響を及ぼすからである。
それのみではない、地上から遠く離れた界層にて守護の任に当たる霊にも影響を及ぶ。私の界においても同じである。
この先更にどこまで届くかそれは敢えて断言する事は控えたい。が、しいて求められれば、人間のおこないは七の七十倍の勢い(*)を持って天界に知れ亘る、とでも応えておこう。其の行きつく先は人間の視野にも天使の視野にも見届ける事は出来ない。
何となれば、其の行きつくところが神のみ胸である事は疑いの余地は無いからである。(マタイ18・22計り知れないの意)
故に、常に完全を心掛けよ。何となれば天に坐します吾等が父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列する事を許されないのである。
では善と美を愛せぬ者の住む界層はどうなるのか。実は吾等は其の界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。縁が薄いと言うのみであって決して断絶している訳ではないからである。
其の界層の霊達も彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただし其の界の雰囲気は地上より暗い…ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾等の弟であり妹でもある訳である。
人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾等は援助の手を差し伸べる。そうした暗黒界の事情については貴殿はある程度の事を知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第一巻三章)にここで少しばかり付け加える事にしよう。
すでにご存じの通り、光と闇とは魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び続ける時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾等は使者を派遣して手引きさせるが、その方角は原則として本人の希望に任せる。
つまりいきなり光明界へ連れてくる事はしない。そのような事をすれば去って苦痛を覚え、眼が眩み、何も見えない事になる。
そうではなく暗黒の度合いの薄れた世界、魂の耐え得る程度の光によって明るさを増した世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留る事になる。
暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿りついた当初は、以前に比べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。
その環境が魂の内的発達程度に調和しているからであるが、尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。
やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び声を叫びあげる。それに応えて神の使者が訪れ、更に一段光明界に近い地域へと案内する。
そこは最早暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくして彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。それより先の向上の道は最早苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に喜びへ、栄光から大いなる栄光へと進むのである。
ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでにいかに永き年月を要することか。苦悩と悲痛の歳月である。そしてその真に絶え間なく思い知らされる事は、己の魂が浄化しない限り再開を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まなければならないと言う事である。
が、私の用いる言葉に意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐など断じてない。
「神は吾等の父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種蒔きと刈入れを司る因果律によって定められているのである。
吾々の界…驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。
全ての摂理が“愛”に発するものである事は、地上時代とは異なり、今の吾々には痛いほどよく解る。嘗てはただ信じるのみであった事を今では心行くまで得心出来る事も、憚ることなく断言できる。が、因果律と言うこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。
が、吾々は其れが少しずつ明かされていくのを待つ事で満足している。それと言うのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られている事を信じるに足るだけのものを既に悟っているからである。
それが暗黒界の者さえいつの日か悟る事であろう。そして彼等がこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化してくれる事が吾々にとって何よりの慰めであり、又是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。
そしてその暁には万事があるがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものである事を認め、そして満足する事であろう。
吾々はそう理解しているのであり、その事だけは確信を持って言える。そして私も救済に当たる神の使者の一人なのである。
私が気付いている事は、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験の無い吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られない事である。些かも見られぬのである。
と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の前の光にひれ伏して神への祈りをささげた折の事であるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けているものが何ものかがある事に気付いたのである。
そこで思わず、私もそれにあやかりたいとものと望みをかけて、ようやく思い止まったことであった。
それは許されぬ事であろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内に在るものを嘉納されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美わしく、愛が其の美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実実を味わうのである。
神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何一つ恐れるものはない。†
第3節 種の起源
1913年11月25日 火曜日
人間に少しでも信仰心があれば、こうして貴殿の精神と手を使って書き記したものを理解できるであろうが、残念ながら物事の霊的真相を探りそれを真実であると得心し得る者は多くは見当たらない。これまでの永い人類の歴史においてそうであり、これからの遠き未来までそうであろう。
それは事実であるが更にその先へ目をやれば、吾々の眼には遠い遠い未来において人間世界が今日より遥かに強い光の中を歩みつつあるのが見える。
その時代において吾々と人間とがいかに身近な関係に在るかについて、書物の中のみならず実際の日常生活の中において理解し得心する事であろう。差し当たっては、警戒と期待の内に吾々の力の及ぶ限りの努力をし、例え吾々の望み通りの協調関係が得られず、
無念の思いを断ち切ることが出来ずとも、一歩一歩理想の関係に近づきつつあり、万事が佳きに計らわれていると確信を抱くのである。
さて貴殿との仕事の事であるが、吾々としてはなるべくならば物事が活発に進行しているこの“昼”の時代に多いに進行させたい。何となれば“夜”の時代が到来すれば貴殿は明日の時代を思うであろうが、その明日は最早今日とは異なる。
いろいろと可能性は秘めてはいても、今と同じような事が出来るとは限らない。故に現在のこの良い条件の整っている時期に出来る限りの事をしようではないか。そうすれば吾々二人により広き界層が開かれた暁に更に良い仕事が為し得る事になろう。
人間が理解している科学は吾々の理解している科学と軌を一にしているものではない。何となれば霊的根源へ向けて深く探求の手を伸ばすからである。地上の科学は今やっと霊的根源を考慮し始めたばかりである。
吾々はようやく近づきつつある訳である。と言うよりは、地上の現象の意味を探るものの中に、吾々の手引きによって、より高くそしてより深い意味へと近づきつつある者がいると述べた方が正しかろう。
この事を吾々は有難き事と思う。そしてその事がこれまでの道を更に自信を持って歩ませてくれる。吾々は人間がきっとついてきてくれるとの確信を持っており、それだけに賢明にそして巧妙に手引きせねばならないのである。
さて私はこれより、人間が“種の起源”と呼んでいるところのものについて、その霊的な側面を少しばかり説いてみたいと思う。が結論から申せば動物的生命の創造の起源は物質界にあらずして吾々の天界に存在する。
此方へ来て我々が学んだことは、宇宙が今日の如き形態の構成へ向けて進化の道を歩み始めた時、その監督と実践とを受け持つ高き神霊が更に高き神霊界より造化の方針を授かり、その方針に基づいて彼らなりの知恵を働かせたと言う事である。
その時点においてはまだ天界には物的表現としての生命の形態と知能の程度に多様性があったと想像される。そして結果的にはその発達を担当すべく任命された神霊の個性と種別を反映させていく事に決定が下された。そしてその決定に沿って神の指示が発せられた。
なぜかと言えば、計画が完了した時、総体的にはそれで結構であるとの神の同意が啓示されたのであって、その時点ですでに完璧と言う事ではなかったのである。
ともかくも宇宙神が認可を下され、更に各神霊が其々の才覚と能力に従って神の意思を反映させていく自由を保障されたと言う事である。
かくして動物、植物、鉱物の様々な種と序列、そして人類の種族と民族的性格とが生まれた。そしていよいよ造化が着手された時、宇宙神は改めて全面的是認を与えた。聖書風に言えば神がそれを“なかなか結構である”と仰せられたのである。
が、造化に直接携わる神霊はいかに霊格が高いとはいえ全知全能の絶対神には劣る。そして宇宙の経綸の仕事は余りに大きく、余りに広いが故に僅かな不完全さが造化の進展に伴って大きくなって行った。
それが簡単な知能、特に人間の如き低い階層の知能にはことさらにして莫大にして巨大に見えたのである。何となれば、小さくそして未発達な知性には善と悪とを等しく見る事が出来ずにむしろ邪悪の方が目にとまり易く、善なるものが余りに高尚にそして立派に思えて、その意義と威力を掴みかねるのである。
が、人間が次の事を念頭に置けば、その不完全さの中にも驚異と叡智とが渾然として存在することが容易に納得する事であろう。それはこう言う事である。海は海洋動物だけの為に造られたのではない。空は鳥たちだけの為に造られたのではない。
それと同じで宇宙は人間だけの為に創造されたのではないと言う事である。人間は宇宙にも空にも侵入し、そこをわが王国のように使用している。それは一向に構わない。
魚や鳥たちのものと決まってはいないからである。より強力な存在が支配するのは自然の理であり、地上では人間がそれである。人間は自他共に認める地上の王者であり、地上を支配する。神がそう位置付けたのである。
が、宇宙には人間より更に偉大な存在が居る。そして人間がその能力と人間性の発達の為に下等動物や植物を利用する如く、更に偉大なる存在が人間を使用する。
これは自然であり、かつ賢明でもある。何となれば大天使も小天使も、更にその支配下の諸々の神霊も所詮は絶対神の支配下に在り、更に発達と修養を必要としている点は人間と同じだからである。
その修養の手段と中身は、人間の霊格の差に応じて、人間が必要とするものとは本質と崇高性においておのずと差がなければなるまい。人間であろうと天使であろうと、内部に宿す霊力に応じて環境が定まり構成されていく点は同じなのである。
人間はその点を良く銘記し、忘れぬようにしなければならない。そうすれば自由意思と言う生得の権利の有難さを一層深く理解する事であろう。これは天界のいかなる神霊といえども奪う事は出来ない。仮に出来るとしても敢えて奪おうとはしないであろう。
何故なら自由意思を持たぬ人間では質的に下等な存在になり下がり、向上進化の可能性を失う事になるからである。
さてこうした教説を読んで、これでは人間が上級界の神霊が己の利益の為に使う道具に過ぎないのではないかと思う者もいるであろうが、その考えは誤りである。その理由はいま述べた事にある。
すなわち人間は自由意思を持つ存在であり、これより先も常にそうあらねばならぬと言う事である。それのみではない。上級界において神に仕える者を鼓舞する一大霊力が“愛”と言う事もその理由である。彼らを血も涙もない暴君と思ってはならない。
威力と言うものを圧力と並べて考えるのは地上での話である。天界に在っては威力は愛の推進力の事であり、威力あるものはその生み出す愛も強力となるのである。
更に申せば、悪との戦いの熾烈にして深刻な者にはその試練を経た暁に栄光と高き地位(クライ)とが約束されている事を教えてやるがよい。
何となれば、その闘いの中にこそ、人類が天界の政庁における会議への参列が赦され、造化の仕事の一翼を担い、開闢頭初に定められた方針に沿って全宇宙の救済の大事業に参加する資格の確かな証しが秘められているからである。
その仕事は勇気ある人間ならば喜び勇んで取り組む事であろう。何となれば其の物は次のことぐらいは理解するであろうからである。
すなわちその者は高き神霊が天界において携わるのとまさに同じ仕事に、この地上において、そしてその者なりの程度において携わっていると言う事である。そうと知ればさぞ心躍る事であろうし、意を強くする事であろう。
更に又、その者の仕事は吾々の仕事と一つであり、吾等の仕事がすなわちその者の仕事である事を知り、互いに唯一の目的すなわち地上の全生命全存在の向上へ向けて奮闘している事を知れば、いざと言う時に思慮深く適度な謙虚さと素直な信頼心を持って援助を求めれば、吾々はすぐにそれに応じる用意がある事に理解が行く事であろう。吾々はそういう人間…悪との闘争の味方であり宇宙の最前線における同志…を援助する事に最大の喜びを覚えるからである。
この真理の大道を惜しくも踏み外せる者達のその後の見るも哀れな苦しみは、吾々は貴殿より多く見ている。が、吾等は絶望はしない。この仕事と意義と目的とが貴殿達より鮮明に見えるからである。
その視野から眺めるに、人間も何時の日か其々の時を得てこの高き霊界へと至り、恵まれた環境の中にて更に向上し続ける事であろう。
その時はその者たちも修身の道具として今我々が使用している人材…その者達がいまその立場に在るのだが…を使用する事になるであろう。その時は他の人間が現在のその者達の立場に在り、その者達が指導霊の立場に回る事であろう。
キリストはかく述べている…“悪に勝てる者は我が座位(クライ)に列することを許さん。我が勝利の時、父と共にその座位に列した如くに”(黙示録3)と。心するがよい。神の王国は強き者のものであるぞ。首尾よく悪を征服せる者にして始めてその地位を与えられるであろう。
以上である。この度はこれにて終わりにするが、これはこのメッセージにてはとても尽くせぬ大きな問題である。神の許しがあれば、いつか再び取り上げるとしよう。
では健闘と無事を祈る。強くあれ。その強さの中より優しさがにじみ出る事であろう。吾々の界においてはもっとも強い者こそ最も優しくそして愛らしさに満ちているものである。
この事を篤と銘記されたい、そうすれば人間を惑わす数々の問題がおのずと解ける事であろう。つまずく事のなきよう、神の御光が常に貴殿の足元を照らし給わんことを祈る。†
第4章 天界の”控えの間”-地上界
第1節 インスピレーション
1913年11月26日 水曜日
語りたい事は数多くある。霊界の組織、霊力の働き…それが最上階から発し吾々の界層を通過して地球に至るまでに及ぼす影響と効果、等々。其の中には人間に理解できない者がある。又、例え理解でき出来ても信じて貰えそうにないものもある。
それ故私は、その中でも比較的単純な原理と作用に限定しようと思う。その一つがインスピレーションの問題である。ところが吾々と人間との間でどの様な作用をしているかを述べよ。
ところでインスピレーションなる用語は正しく理解すれば実に表現力に富む用語であるが、解釈を誤ると逆に実に誤解を招きやすい用語でもある。例えばそれは吾々が神の真理を人間の心に吹き込むことであると言っても決して間違ってはいない。が、
それは真相のごく一部を述べているに過ぎない。それ以外の者…向上する力、神の意思を成就する力、それを高尚な動機から成就しようとする道義心、その成就の為の叡智(愛と渾然一体となった知識)等々を吹き込んでいるからである。
故に人間がインスピレーションを受けたと言う場合、それは一つの種類に限られたことではなく、又例外的なものでもない。
いかに生きるべきかを考えつつ生きている者…全く考えぬ者はまずいないであろうが…は何らかの形で吾々のインスピレーションを受け援助を得ているのである。
が、その方法を呼吸運動に例えるのは必ずしも正しいとは言えない。それを主観的に解釈すればまだしも良い。人間が吸い込むのは吾々が送り届けるエネルギーの波動だからである。
人間は山頂においては深呼吸し新鮮なる空気を胸いっぱいに吸い込み爽快感を味わうが、吾々が送り届けるエネルギーの波動も同時に吸い込んでいるのである。が、
これを新しい神の真理を典雅なる言葉で世に伝える人々、あるいは古い真理を新たに説き直す特殊な人々のみに限られた事と思ってはならない。
病を得た吾が子を介抱する母親、列車を運転する機関士、船を操る航海士、その他諸々の人間が黙々と仕事に勤しんでいるその合間をぬって、時と場合によって吾々がその考えを変え、
あるいは補足している。たとえ本人は気付かなくても良い。大体において気づいていないが、吾々は出来る範囲の事をしてそれで満足である。邪魔が入らぬ限りそれが可能なのである。
その邪魔にも数多くある。頑なな心の持ち主には無理して助言を押し付けようとはしない。其の者にも自由意思があるからである。また吾々の援助が必要と見た時でも、そこに他の勢力が入り込み、吾々も手出しが出来ない事がある。
悪に陥れんとする邪霊の餌食となり、その後の哀れな様は見るも悲しきものとなる。
其々の人間が、老若男女を問わず、意識すると否とに拘らず、目に見えぬ仲間を選んでいると思えば良い。
当人が吾々霊魂(スピリット)がこの地上に存在している事、つまり目に見えぬ路の世界からの影響を受けていると言う事実を嘲笑ったとしても、善意と正しい動機に基づいて行動しておれば、それは一向に構わぬことである。それが完全な障害となる気遣いは無用である。
吾々は喜んで援助する。なぜなら当人は真面目なのであり、いずれ自分の非を認める日も来るであろう…いずれ遠からぬ日に。ただ単に、その時点においては吾々の意図を理解するほどに鋭敏で無かったと言う事に過ぎない。
人間が吾々の働きかけの意図を理解せず、結果的に吾々が誤解される事は良くあることである。
水車は車輪に油が適度に差されている時は楽に回転する。これが錆びつけば水圧を増さねばならず、車輪と車輪との摩擦が大きくなり、動きも重い。
又新たに船長として迎えた人がまったく知らない人間であってもその指示には一応忠実に従うであろうが、より知り尽くした船長であれば、例え嵐の夜であっても命令の意味をいち早く理解してテキパキと動くであろう。
互いに心を知り尽くしているが故に、多くを語らずして船長の意図が伝わるからである。それと同じく、吾々の存在をより自然に、そしてより身近に自覚してくれている者の方が、吾々の意図を正しく把握してくれるものである。
それ故一口にインスピレーションと言っても意味は広く、その中身は様々である。古い時代の予言者は…今日でもそうであるが…其の霊格の鋭さに応じて霊界からの教示を受けた。霊の声を聞いた者もおれば姿を見た者もいた。いずれも霊的身体に具わる感覚を用いたのである。
又直感的印象で受けた者もいる。吾々がそうした方法及び他の諸々の方法によって予言者にインスピレーションを送るその目的はただ一つ…人間の歩むべき道、神の御心に適った道を歩む為の
心掛けを、高い界に居る吾々が理解し得た限りにおいて、地上の人間一般へ送り届けることである。元より吾々の教えも最高ではなく、又絶対に誤りが無いとも言えない。が、
少なくとも真剣に、そして祈りの気持ちと大いなる愛念を持って求める者を迷わせる事は絶対にならない。祈りも愛も神のものだからである。そしてそれを吾ら神の使途は大いなる喜びとして受け止めるのである。
又それを求めて遠くまで出向く事も不要である。何故なら地上がすでに悪より善の勢力の方が優勢だからである。そして其の善と悪の程度次第で大いに援助できる事もあれば、行使能力が制限される事もある。
故に人間は、各自、次の二つの事を心しなければならない。一つは天界にて神に仕える者の如くに地上に在りても常に魂の光を灯し続けることである。吾々が人間界と関わるのは神の意思を成就するためであり、その為に吾々が携えてくるのは他ならぬ神の御力だからである。
人間の祈りに対する回答は吾ら使徒に割り当てられる。つまり神の答えを吾々が届けるのである。故に吾々の訪れには常に油断なく注意しなければならない。
実は吾々は、かのイエスが荒野における誘惑と闘った時、又ゲッセマネにおける最大の苦境に在った時に援助に赴いた霊団に属していたのである。
(もっともあの時直接イエスと通じ合った天使は私より遥かに霊格の高きお方であるが)
もう一つ心しなければならない事は、常に“動機”を崇高に保ち、自分の為で無く他人の幸せを求める事である。吾々にとっても、己自身の利益より同胞の利益を優先させる者の進歩がもっとも援助し易いものである。吾々は施す事によって授かる。
人間も同じである。イエスも述べた如く、動機の大半は施すことであらねばならない。そこにより大きな祝福への道があり、しかもそこに例外と言うものは無いのである。
イエスの言葉を思い出すがよい。「私はこの命を捨てるに吝かではない。が、私はそれを私の子羊の為に捨てるのである」と述べ、その言葉通りに、そして、いささかの迷いもなく、潔く生命を捨てられた。が、捨てると同時に更に栄光ある生命を持って蘇られた。
ひたすら同胞への愛に動かされていたからである。貴殿も“我”を捨てることである。そうすれば、施す事の中にも授かることの中にも喜びを味わう事であろう。
これを完全に遂行する事は確かに至難の業である。が、それが品来の正しい道であり、是非歩まねばならぬ道なのである。それを主イエスが身を持って示されたのである。
花の導管は芳香を全部放出して人間を楽しませては、すぐ又補充し、そうした営みの中で日々成就へ近づく。心優しき言葉はそれを語った人のもとに戻ってくる。
かくして二人の人間はどちらかが親切の口火を切る事によってお互いが幸せになる。又、優しき言葉はやがて優しい行為となりて帰ってくる。かくて愛は相乗効果によって一層大きくなり、その愛と共に喜びと安らぎとが訪れる。
また施す事に喜びを感じる者、その喜びゆえに施しをする者は、天界へ向けて黄金の矢を放つにも似て、その矢は天界の都に落ち、拾い集められて大切に保存され、それを投げた者(死後)それを拾いに訪れた時、彼は一段と価値を増した黄金の宝を受け取ることであろう。†
第2節 一夫婦の死後の再会の情景
1913年11月27日 火曜日
前回述べた事に更に付け加えれば、地上の人間は日々生活を送っている其の身の周りに莫大な霊力が澎湃として存在することに殆ど気づいていない。
すぐ身の回りに犇く現実の存在であり、人間が意識するとせぬに拘らず生活の中に入り込んでいる。しかもその全てが必ずしも善なるものではなく、中には邪悪なものもあれば中間的なもの、すなわち善でもなければ悪でもない類のものもある。
よって私がエネルギーだの影響力だのと述べる時、必然的にそこにはそれを使用する個性的存在を想定してもらわねばならない。
人間は孤独な存在ではなく、孤独ではあり得ず、又単独にて行動する事も出来ず、常に何らかの目に見えない存在と共に行動し、意識し、工夫している事になる。その目に見えぬ相手がいかなる性質のものとなるかは、意識するとせぬとに拘らず当人自身が選択しているのである。
この事実に鑑みれば、当然当人はすべからくその選択に慎重であらねばならない事になるが、それを保証するのは“祈り”と“正しい生き方”である。崇敬と畏敬の念を持って神を想い、
敬意の念を持って同胞を思いやることである。そして何を行うも常に守護・指導に当たる霊が自分の心の動き一つ一つを見守り注視している事、今の自分、及びこれより変わりゆく自分が其のまま死後の自分である事。
其の時は今の自分にとって物的であり、絶対であり、真実と思える事も最早別世界の話となり、
地球が縁無き存在となり、地上で送った人生も遠い昔の旅の思い出となり、鐘も家財道具も庭の銘木も、その他今の自分にはかけがえのない財産と思えるものの一切が自分のもので無くなることを心して生活することである。
こちらへ来れば地上と言う学校での成績も宝も知人もその時点で縁が切れ、永遠に過去のものとなる事を知るであろう。
其の時は悲しみと後悔の念に襲われるであろうが、一方においては言葉に尽くせぬ光と美と愛に包まれ、その全てが自分の思うがままとなり、先に他界した縁故者がようこそとばかりに歓迎し、霊界の観光へ案内をしてくれる事であろう。
では、窓一つない狭き牢獄の様な人生観を持って生涯を送ったものには死後いかなる運命が待ち受けていると思われるか。そういうものの面倒を私は数多く見てきたが、彼らは地上で形作られた通りの心を持って行動する。
すなわちその大半が自分の誤りを認めようとしないものである。そういう者ほど地上で形成し地上生活には都合の良かった人生観がそう大きく誤っている筈は無いと固く信じ切っている。
この類の者はその委縮した霊的視野に光が射すに至るまでには数多くの苦難を体験しなければならない。
これに対し、この世的な財産に目もくれず、自重自戒の人生を送ったものは、此方へ来て抱えきれぬほどの霊的財産を授かり、更には歓迎と喜びの笑顔を持って入れ替わり立ち替わり訪れてくれる縁故者等の霊は、一人一人確かめる暇もないほどであろう。
そしてそこから真の実在の生活が始まり、地上より遥かに祝福多き世界である事を悟るのである。
では以上の話を証明する実際の光景を紹介してみよう。
緑と黄金色に輝き、色とりどりの花の香りが心地良く漂う丘の中腹に、初期の英国に見る様な多くの小塔とガラス窓を持った切妻の館がある。それを囲む樹木も芝生も、又麓の湖も、色とりどりの小鳥が飛び交い、さながら生を楽しんでいる如く見える。地上の景色ではない。
これもベールの彼方の情景である。こちらにも地上さながらの情景が存在する事は今更述べるまでもあるまい。ベールの彼方には地上の善なるもの美なるものが、その善と美とを倍加されて存在する。
この事実は地上の人間にとって一つの驚異であるらしいが、人間がそれを疑う事こそ吾々に取りて驚異なのである。
さて、その館の櫓の上に一人の貴婦人が立っている。身に纏いる衣服がその婦人の霊格を示す色彩に輝いているが、其の色彩が地上に見当たらぬ故に何色と言う事が出来ない。黄金の深紅色とでも言えようか。が、これでもほとんど伝わらないのではないかと思われる。
さて婦人は先ほどから湖の水平線の彼方に眼をやっている。そこに見える低い丘は水平線の彼方から来る光に照り映えている。婦人は見るからにお美しい方である。姿は地上のいかなる夫人にも増して美しく整い、その容貌は更に更に美しい。
眼は見るも鮮やかなスミレ色の光輝を発し、額に光る銀の星は心の変化に応じて様々な色調を呈している。その星は婦人の霊格を表象する宝石である。言わば婦人の霊的美の泉であり、その輝き一つが表情に和みと喜びを増す。
この方は数知れぬ乙女の住む其の館の女王なのである。乙女たちはこの婦人の意思の行使者であり、婦人の命に従って引きも切らず動き回っている。それほどこの館は広いのである。
実はこの婦人は先ほどから何者かを待ちこがれている。其の事は婦人の表情を一見すれば直ちに察しが付く。
やがてその麗しい目からスミレ色の光輝が発し、それと同時に口元から何やら伝言が発せられた。其の事は、婦人の口のすぐ下から青とピンクと深紅色の光が放射されたことで判った。その光は、人間には行方を追う事さえできまいと思われるほど素早かった。
すると間もなく水平線の右手に見える樹木の間をぬって、一隻のボートが勢い良くこちらへ向けて進んでくるのが見えてきた。オールが盛んに水しぶきを立てている。
金箔を着せた船首が散らす水しぶきはガラス玉の様な輝きを見せながら、あるいはエメラルド、あるいはルビーとなって水面へ落ちて行く。やがてボートは船着き場に着いた。着くと同時に眩いばかりに着飾った一団が大理石でできた上がり段に降り立った。
其の上がり段は緑の芝生へ通じている。一段は足取りも軽やかに上がってきたが、中にただ一人、ゆっくりとした歩調の男が居る。その表情は喜びに溢れて入るが、その目はまだ辺りを柔らかく包む神々しい光に充分に慣れていないようである。
その時、館の女王が大玄関より姿を見せ一団へ向かって歩を進めた、女王はほど近く接近すると歩を止め、その男に懐かしげな眼差しを向けられた。男の目がたちまち困惑と焦燥の色に一変した。すると女王が親しみを込めた口調でこう挨拶された。「ようこそジェームス様。
ようやくあなた様もお出でになられましたね。ようこそ。本当にようこそ」が彼は尚も当惑していた。確かに妻の声である。が昔と大分違う。それに妻は確かに死んだ時は病弱な白髪の老婆だった筈だ。それがどうした事だ。今目の前にいる妻は見るからにして素敵な女性である。
若すぎもせず老い過ぎもせず、優雅さと美しさに溢れているではないか。
すると女王が言葉を継いだ。「あれよりこの方、私は陰よりあなた様の身を御守りし、片時とて離れた事がございませんでした。たったお一人の生活でさぞお寂しかったことでしょう。が、
それはもはや無過去の事。かくお会いした上は孤独とは永遠に別れをつげられたのでございます。此処は永遠に年を取る事の無い神の常夏の国。息子たちやネリーも地上の仕事が終わればいずれこちらへ参る事でしょう」
女王はそう語る事によって自分が嘗ての妻である事を明かさんと努力した。そしてその願いはついに叶えられた。彼はその麗しくも神々しい女王こそまさしく我が妻、吾が愛しき人である事を判然と自覚し、そう自覚すると同時に感激に耐えかねて、どっと泣き崩れたのである。
再び蘇った愛はそれまでの畏敬の念を圧倒し、左手で両目を押さえ、時折垣間見つつ、一歩二歩と神々しい女王に近づいた。
それを見た女王は喜びに顔をほころばせ、急いで歩み寄り、片腕を彼の方に掛け、もう一方の手で彼の手を握り締めて確かな足取りで彼と共に石段を登り、その夫の為に用意しておいた館の中へ入って行ったのであった。
さようその館こそ実に二人が地上で愛の巣を営み、妻の死後その妻を弔いつつ彼が一人寂しく暮らしたドーセット(英国南部の州)の家の再現なのである。
私はその家族的情景を、天界なるものが感傷的空想の世界ではなく、生き生きとして実感あふれる実態の世界である事を知ってもらう為に綴ったのである。
家、友、牧場…天界には人間の親しんだ美しいものがすべ存在する。否、此方へ来てこそ、地臭をすてた崇高なる美を発揮する。
この夫婦は素朴にして神への畏敬の念の中に、貧しき者にも富める者にも等しく交わる良き人生を送った。こうした人々は必ずや天界にてその真実の報酬を授かる。その酬いはこの物語の夫婦の如く、往々にして予想もしなかったのである。
この再会の情景は私が実際に見たものである。実は私も其の時の案内役として其の館まで彼に着き添った者の一人であった。その頃の私はまだ其の界の住民だったのである。
―第何界での出来事だったのでしょうか。
六界である。さて、これにて終わりとしよう。私はしみじみ思う…愛の発する行為を行い、俗世での高き地位よりも神の義を求める、素朴な人間を待ち受ける栄光を少しでも知らせてあげたいものと。
そうした人間はあたかも星の如く、辺りの者がただ側にいるだけでその光輝によって一段と愛らしさを増す事であろう。†
第3節 “下界〟と自縛霊
1913年11月28日 金曜日
人類の救世主、神の子イエス・キリストが“天へ召されるものは下界からも選ばれる”と述べている事について考察してみたい。下界に見出されるのみならず、その場において天に召されると言う。
その“下界から選ばれる者”はいずこに住む者を言うのであろうか。これにはまずイエスが“下界”という用語をいかなる意味で用いているかを理解しなければならない。
この場合の下界とはベールの彼方において特に物質が圧倒的影響力を持つ界層の事を指し、その感覚に浸るものは、それとは対照的世界すなわち、物質は単に霊が身にまとい使用する表現形態に過ぎぬ事を悟るものが住む世界とは、霊的にも身体的にも全く別の世界に生活している。
それ故、下界と言う時、それは霊的な意味において地上に近き界層に居るものを指す。時に自爆霊と呼ぶ事もある。肉体に宿るものであろうと、すでに肉体を捨てた者であろうと、同じ事である。身は霊界にあっても魂は地球に鎖でつながれ、
光明の世界へ向上して行く事が出来ず、地球の表面の薄暗き界層にたむろする者同士の間でしか意思の疎通が出来ない。完全に地球の囚われの身であり、彼らは事実上地上的環境の中に存在している。
さてイエスはその“下界”より“選ばれし者”を天界へ召されたと言う。その者達の身の上は肉体を纏ってはいても霊体によって天界と疎通していたことを意味する。その後の彼らの生活態度と活躍ぶりを見ればその事実に得心がいく。
悪のはびこる地上を止むを得ぬものと諦めず、悪との戦いの場として厳然と戦い、そして味方の待つ天界へ帰って行った彼ら殉教者の不屈の勇気と喜びと大胆不敵さは、その天界から得ていたのであった。そして同じ事が今日の世にも言えることである。
これとは逆に地上の多くの者が襲われる恐怖と不安の念は自爆霊の界層から伝わってくる。その恐怖と不安の念こそがそこの住む者たちの宿業なのである。肉体は既になく。さりとて霊的環境を悟るほどの霊格も芽生えていない。が、
それでも彼らは其の界での体験を経て、やがては思考と生活様式の向上により、それに相応しい霊性を身につけて行く。かくて人間は“身は地上に在っても霊的にはこの世の者とは違う事があり得る”と言う言い方は事実上正しいのである。
これら二種類の人間は、此方へ来ればそれ相応の境涯に落ち着くのであるが、いずれの場合も自分の身の上については理性的判断による知識は無く、無意識であった為に、おかれた環境の意外性に驚く者が多い。
この事を今少し明確にする為に私自身の知識と体験の中から具体例を紹介してみよう。
嘗て私は特別の取り扱いを必要とする男性を迎えに派遣された事がある。特別というのは、その男は死後の世界について独断的な概念を有し、それに備えた正しく且つ適切な心掛けはかくあるべしという思想を勝手に抱いていたからである。
地球圏より二人の霊に付き添われて来たのを私がこんもりとした林の中で出迎えた。二人に挟まれた格好で歩いてきたが、私の姿を見て目が眩んだのか見分けのつかないものを前にしたような当惑した態度を見せた。
私は二人の付き添いの霊に男を一人にするようにとの合図を送ると、二人は少し後方へ下がった。男は初めのうち私の姿が良く見えぬようであった。そこで、此方から意念を集中すると、ようやく食い入るように私を見つめた。
そこでこう尋ねてみた。「何か探しものをしておられるようだが、この私が力になってあげよう。その前に、この土地へお出でになられてどれほどになられるであろうか。それをお先ずお聞かせ願いたい」
「それがどうもよく判りません。外国へ行く準備をしていたのは確かで、アフリカへ行くつもりだったように記憶しているのですが、ここはどう考えても想像していたところではないようです」
「それはそうかも知れない。ここはアフリカではありません。アフリカとは随分遠く離れたところです」
「では、ここは何と言う国でしょうか。住んでいる人間は何と言う民族なのでしょうか。先ほどのお二人は白人で、身なりもきちんとしておられましたが、これまで一度も見かけたことのないタイプですし、書物で読んだ事もありません」
「ほう、貴殿ほどの学問に詳しい方でもご存じない事がありますか。が、貴殿もそうと気づかずにお読みになった事があると思うが、ここの住民は聖人とか天使とか呼ばれている者で、私もその一人です」
「でも…」
彼はそう言いかけて、すぐに口をつぐんだ。まだ私に対する信用がなく、余計な事を言って取り返しがつかぬ事にならぬよう、私に反論する事を控えたのである。
何しろ彼にしてみれば全くの見知らぬ国であり、見知らぬ民族に囲まれ、一人の味方もいなかったのであるから無理もなかろう。
そこで私がこう述べた。「実は貴殿は今、かつてなかったほどの難問に遭遇しておられる。これまでの人生の旅でこれほど高く分厚い壁に突き当たった事はあるまいと思われます。これから私がざっくばらんにその真相を打ち明けましょう。
それを貴殿は信じて下さらぬかもしれない。しかし、それを信じ得心がいくまでは貴殿の心の平和は無く、進歩もないでしょう。貴殿はこれから為さねばならない事は、今までの一切の説を洗いざらいひっくり返して、その上で自分は学者でも科学者でもない、
知識の上では赤子に過ぎない事、この土地について考えていた事は一顧の価値もない…つまり完全に間違っていた事を正直に認めることです。酷な事を言うようですが、事実そうであれば致し方ないでしょう。
でも私の事を良く見つめて頂きたい。私が正直な人間で貴殿の味方だと思われますか。それともそうとは見えぬであろうか」
男はしばし真剣な面持ちで私を見つめていたが、やがてこう述べた。「あなたのおっしゃる事は私にはさっぱり理解できませんし、何か心違いをしている狂信者のように思いますが、お顔を拝見した限りでは真面目な方で私を思って下さっているようにお見受けします。で、私に信じて欲しいとおっしゃるのは何でしょうか」
「死について聞かされたことでしょう。」
「さんざん!」
「今私が尋ねた様な口調であろう。なのに貴殿は何もご存じない。知識と言うものはその真相を知らずしては知識とは言えますまい。」
「私に理解できる事を判り易くおっしゃってください。そうすればもう少しはTみ込みが良くなると思うのですが…」
「ではズバリ申し上げましょう。貴殿は所謂“死んだ人間”の一人です」
これを聞いて彼は思わず吹き出し、そしてこう述べた。
「一体あなたは何とおっしゃる方ですか。そして私をどうなさろうと考えておられるのでしょうか。もし私をからかっておられるのでしたら、それをいい加減にして、どうか私を行かせてください。この近くの何処か食事と宿を取る所がありますか。少しこれから先の事を考えたいと思いますので…」
「食事を取る必要は無いでしょう。空腹は感じておられないでしょうから……宿も必要もありません。疲労は感じておられないでしょうから……。それに夜の気配がまるでない事にお気づきでしょう」
そう言われて彼は再び考え込み、それからこう述べた。
「あなたのおっしゃる通りです。腹がすきません。不思議です。でもその通りです。空腹を感じません。それに確かに今日と言う日は記録的な長い一日です。分けが判りません」
そういって再び考え込んだ。そこで私がこう述べた。
「貴殿はすでに死んだ人間であり、ここは霊の国です。貴殿は既に地上を後にされた。此処は死後の世界で、これよりこの世界で生きてゆかねばならず、より多く理解していかねば、これより先の援助する訳には参りません。暫く貴殿を一人にしておきましょう。
良く考え、私に聞きたい事があれば、そう念じてくれるだけで馳せ参じましょう。それに貴殿を此処まで案内してきた二人が何時も付き添っています。なんなりと聞かれるが宜しい。
答えてくれるでしょう。ただ注意しておくが、先ほど私の言い分を笑った様な調子で二人の言う事を軽蔑し喋笑してはなりません。謙虚に、そして礼儀を失いさえしなければ二人のお伴を許しましょう。
貴殿はなかなか良いものを持っておられる。が、これまでも同じ様な者が多くいましたが、自尊心と分別の無さも又度が過ぎる。それを二人へ向けて剥き出しにしてはなりませんぞ。
その点を篤と心して欲しい。と言うのも、貴殿は今、光明の世界と影の世界との境界に位置しておられる。そのどちらへ行くか、その選択は貴殿の自由意思に任せられている。神のお導きを祈りましょう。それも貴殿の心掛け一つに掛っています」
そう述べてから二人の付き添いの者に合図を送った。すると二人が進み出て男の側へ立った。そこで三人を残して私はその場を離れたのであった。
…それからどうなりました。その男は上を選びましたか下を選びましたか。
その後彼からは何の音沙汰もなく、私も久しく彼のもとを訪れていない。根がなかなか知識欲旺盛な人間であり、二人の付き添いがあれこれ面倒を見ていた。が、
次第にあの土地の光輝と雰囲気が馴染めなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に優るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛く屈辱の体験でもあった。
しかし彼は勇気のある魂の持ち主で、ついに己に克った。その時点において二人の付き添いに召されて再び始めの明るい界層へと戻った。
そこで私は前に迎えた時と同じ木陰で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで安易に人を軽蔑する事も無くなっていた。私が静かに見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの事を思い出し恥辱心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私を嘲笑った事を偉く後悔しているようであった。
やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。嗚咽で肩をふるわせているのが判った。
私はその頭に手をおいて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうした事は良くあることである。†
第4節 天使の怒り
1913年12月1日 月曜日
暗黒の中にあって光明を見出す者はすくなく、その暗黒の何たるかを理解するものも又多くは無い。暗黒は己の魂の状態の反映に他ならない。其の中にあって真理を求める者には、吾々の界よりその者の魂の本性と能力に応じて然るべき援助を授ける。
それは今に始まった事ではない。天地の創造以来ずっとそうであった。何となれば神は一つだからである。本性において一つであるのみならず、その顕現せる各界層を通じての原理においても一つなのである。
神は現在のこの物的宇宙を創造した時、直接造化の事業に携わる神霊に、企画遂行に要する能力を授けると同時に、すでに述べたように、その能力の行使に一定範囲の自由をも授けた。が、
万物を支配する法則の一つとして、その託された能力の行使において自由から生まれる細々とした変化と、一見すると異質に思える多様性の中においても統一性と言うものが主導的原則として全てを律し、究極において全てがその目的に添わねばならない事になっている。
この統一性と一貫性の根本原理は造化の大業の事実上の責任者である最高界の神霊にとっての絶対的至上命令であり、絶対に疎かにされた事は無い。
それは今日においても同じである。人間はその事実を忘れ、吾ら天界の者が未発達の人間世界に関与し、こうして直接交信し、教えを説き導くと言う事実を否定し、それに関わる者を侮辱する。
同時に又、これに携わる者がこれに躊躇し、霊と口をきくことは悪と思い、救世主イエスの御心に背く事になると恐れることこそ吾らには驚異に思える。
実はイエスが地上へ降りたそもそもの目的は、その大原理すなわち霊的なものと物的なものとは神の一大王国の二つの側面に過ぎず両者は一体である事を示す為であったのだが……
イエスの教えを一貫して流れるものもこの大原則であり、皮肉にも敵対者達がイエスを磔刑に処したのもそこに理由があった。
つまり、もともと神の王国がこの地上のみに限られるものであったならば、イエスは彼らの敵対者達の地上的野望も安逸と豪奢な生活も批判する事は無かったであろう。が、イエスは、神の国は天界に在り地上はそれに至る控えの間に過ぎない事を説いた。
そうなれば当然、魂の気高さを計る尺度は天界のそれであらねばならず、俗世が求める低次元の好き勝手は通じない事になる。
しかし、人間はその大真理を説くイエスを葬った。そして今日に至るも、先に述べたように、キリスト教界と一般社会の双方の中にそれに似通った侮辱的感情を吾らは見ている。
人間が吾ら霊魂による地上との関わり合いを認識し、神の王国の一員としての存在価値を理解するに至るまでは、光明と暗黒の差の認識において大いなる進歩は望めないであろう。
地上には盲目の指導者が余りに多過ぎる。彼らは傲慢なる態度で吾々の仕事と使命を軽蔑し、それが吾々の不快を誘う。現今のキリスト教の指導者達は言う…
…「当時の人間がもし真実を知っていたら栄光の主イエスを葬る事はしなかったであろう」と。まさにその通りであろう。が、現実には葬ったでは無いか。
同じくその様に嘆く者達が、もしも吾々のようにこうして地上へ降りてくる者が彼らの言う天使であることを認識すれば、吾々と地上の烏合の衆より一頭地を抜くものとの交霊を悪しざまに言う事もあるまいに、と思う。
しかし現実には吾らと関わりをもつ者達を悪しざまに言っているではないか。そして主イエス・キリストを葬った者達と同じ趣旨の申し聞きをして、己の無知と盲目を認めようとしないではないか。
・・・おっしゃる事はまさにその通りで、間違ってはいないと思います。ただ、おっしゃる事に憤怒に似たものが感じられます。それに、イエスを葬ったユダヤ人を弁護したのはペテロであってユダヤ人自身ではなかったのではないでしょうか。
よくぞ言ってくれた。私は今確かに怒りを込めて語っている。が、怒りも雅量のある怒り、すなわち愛に発する怒りがある。吾々が常に平然として心を動かされる事が無いかに思うのは誤りである。吾らとて時には怒りを覚える事がある。が、
その怒りは常に正しい。と言うよりは、そこに些かでも邪なものがあれば明晰な目を持って吾らを監視する上層界の霊によってすぐさま修正される。が、復讐だけは絶対にせぬ。
この事だけは良く覚えておいてほしく思う。そして又よく理解しておいて欲しく思う。但し、公正の立場、そして又、吾々の地上の協力者である地上の同志への愛の立場から、不当なる干渉をする者へは吾々がそれ相当の処罰を与え、義務の懲罰を課す事はある。が、
どうやら貴殿は私の述べる事に賛同しかねている様子が窺える。そこで一応その気持ちを尊重し、この度はこの問題はお預けといたそう。が、私が述べた事に些かも誤りは無いし、何か訴えるものを感じる者にとっては熟考するに値する課題であることを指摘しておく。
ペテロの弁護の問題であるが、確かに弁護したのはペテロであったが、もう一つ次の事を忘れてはならない。私はベールのこちら側より語り、それを貴殿はベール越しに地上において聞いていると言う事である。
人間と同じく吾々の世界にも歴史の記録…ベールのこちら側の歴史…があり、それは詳細を極めている。その記録より判明するに、彼らイエスを告発した者達は、此方側へ来て其の迷妄を弁明せんとしたが、大して弁明になってはいない。
光明も彼らにとっては暗黒であり、暗黒が光明に思えた。何故なら、彼らは魂そのものが暗黒界に所属していたからである。イエスの出現を光明と受け止めなかったのも同じ理由による。無理からぬ事であった。彼らはまさに真理に対して盲目であり理解できなかったのである。
かくて死後の世界においては盲目とは外の光を遮断する事による結果ではなく魂の内部に起因する。外的で無く内的なのであり、霊的本性を意味する。故に真理に盲目なる者はそれに相応しい境涯へと送られる…暗闇と苦悶の境涯である。
今は光明界の強烈な活動の時代である。地上の全土へ向けて莫大なエネルギーが差し向けられている。教会も教義も、その波紋を受けないところはまずあるまい。光が闇へ向けて差し込みつつある。修養を心掛ける者にとっては大いに責任を問われる時代である。
すべからく旺盛な知識と勇気とを持ってその光を見つめ我がものとしなければならない。これが私からの警告であり、厳粛なる思いを込めて授けるものである。
と申すのも、私が語る事の多くは、物的脳髄を使用するより遥かに迅速に学ぶことのできる、この霊界と言う学校における豊富な体験を踏まえているからであ。この種の問題についての真相を人間はすべからく謙虚に求め、自ら探しださねばならない。
真理を求めようとせぬ者に対しては、吾々はあえて膝を屈してまで要求しようとは思わない。其の事も彼らにしかと伝えるのが良い。吾々は奴隷が王子へ贈物を差し出すが如き態度で真理を授ける事はしない。
地上のいかなる金銀財宝によっても買う事の出来ない貴重な贈り物を携えて地上へ参り、人間のすぐ近くに待機する。そして謙虚にして善なる者、心清らかな者に、イエスの説いた真理の真意を理解する能力、死後の生命の確信と喜び、地上のあるいは死後の受難を恐れぬ勇気、
そして天使との交わりと協調性を授ける。
本日はこれにて終わりとする。これまでと比べて気の進まぬ事を書かせた事については、どうか寛恕を願いたい。こちらにそれなりの意図があっての事だからである。又の機会により明るいメッセージを述べることでその穴埋めをする事にしよう。
心に安らぎと喜びを授からんことを。アーメン†
第5章 天界の科学
第1節 エネルギーの転換
1913年12月2日 火曜日
今夜はエネルギーの転換に関連した幾つかの問題を取り上げてみましょう。ここで言うエネルギーとは上層界の意念の作用を人間の心へ反映させていく為の媒体として理解して頂きたい。吾々が意図することを意念の作用を利用して、いわゆるバイブレーションによって中間界を通過させて地上界へと送り届けるよう鍛錬している訳である。私がエネルギーと呼ぶのはこのバイブレーションの作用の事である。
さてこうして地上の用語を使用する以上は、天界の科学を正確に、あるいは十分に表現するには不適当な手段を用いていることになることを理解していただかねばならない。それ故、当然、その用語の意味を限定する必要が生じる。私がバイブレーションという用語を用いる時は、
単なる往復振動のことではなく、時には楕円運動、時には螺旋運動、更にはこれらが絡み合い、それに他の要素が加わったものを意味するものと思われたい。
この観点からすれば、最近ようやく人間界の科学でも明らかにされ始めたバイブレーションの原子的構造は、太陽系の組織、更には遥か彼方の組織と同一なのである。太陽を巡る地球の動きも原子内の素粒子の動きも共にバイブレーションである。その規模は問わぬ。つまり運動の半径が極微であろうが極大であろうが、本質的には同じものであり、規模において異なるのみである。
が、エネルギーの転換はいかなる組織にも変化をもたらし、運動の性質が変われば当然その結果にも変化が生じる。かくて我々は常に吾々より更に高級にして叡智に富む神霊によって定められた法則に従いつつ、意念をバイブレーションの動きに集中的に作用させて質の異なるバイブレーションに転換し、そこに変化を生じさせる。
これを吾々は大体において段階的にゆっくりと行う。計画通りの質的転換、大きすぎもせず小さすぎもしない正確な変化をもたらすである。
我々が人間の行為並びに自然界の営みを扱うのも実はこの方法によるのである。それを受け持つ集団は鉱物・動物・人間・地球・太陽・惑星の各分野において段階的に幾層にも別れている。更にその上に星たちの世界全体を経綸する神庁が控えている。
混沌たる物質が次第に形を整え、天体となり、更にその表面に植物や動物の生命がたんじょうするに至るのも、すべてこのエネルギーの転換による。が、これで判っていただけると思うが、いかなる生命も、いかなる発達も、すべて霊的存在の意志に沿った霊的エネルギーの作用の結果なのである。
この事実を掌握すれば、宇宙に無目的の作用は存在せず、作用には必ず意図がある。一定範囲の自由は赦されつつも、規定された法則に従って働く各段階の知的にして強力な霊的存在の意図があることに理解がゆくであろう。
さらに物質自体が実は霊的バイブレーションを鈍重なものに転換された状態なのである。それが今地上の科学者によって分析されつつあり、物質とはバイブレーションの状態にあり、いかなる分子も静止しているものはなく、絶え間なく振動しているとの結論に達している。
これは正解である。が、最終結論とは言えない。まだ物質を究極まで追跡していないからである。より正確に表現すれば、物質がバイブレーションの状態にあるのではなく、物質そのものが一種のバイブレーションであり、より精妙なバイブレーションの転換されたものである。その源は物質の現象界ではなく、その本性に相応しい霊界にある。
これで貴殿も、いよいよその肉体を棄てる時が到来した時、何に不都合もなく肉体なき存在となれることが理解できるであろう。地上の肉体は各種のバイブレーションの固まりに過ぎず、それ以上のもので無いのである。
有難いことに今の貴殿にも肉体より一層実体のある、そして耐久性のある別のバイブレーションでできた身体が備わっている。肉体より一段と精妙で、それを創造し維持している造化の根源により近い存在だからである。その身体は、死後、下層界を旅するのに使用され、霊的に向上するにつれて、更に恒久性のある崇高な性質を帯びた身体へと転換される。この過程は延々と限りなく繰り返され、無限の向上の道を栄光よりもさらに高き栄光へと進化していくのである。
そのことは又、死後の下層界が地上の人間に見えないのと同じく、下層界の者には通常は上層界が見えないことも意味する。かくて吾々は一界又一界と栄光への道を歩むのである。
まさしくそうである。貴殿もいつの日かこちらへ来れば、このことをより一層明確に理解するであろう。と申すのも、今述べたバイブレーションの原理も貴殿は日常生活において常時使用しており、他の全ての人間も同じく使用しているにも拘らず、その実相については皆目理解していないからである。
我らは持てる力を神の栄光と崇拝のために使用すべく、鋭意努力している。願わくば人間がその努力と一体となって協力してくれることが望ましい。一丸となれば、善用も悪用も出来るその力が現在の人間の知識を遥かに超えたものであることを知るであろう。蠅や蟻の知能を凌ぐほどに。
吾々は、ありがたいことに、知識と崇高さにおける進歩が常に対等であるように調整することができる。完璧とは言えないが、ある範囲内・・・広範囲ではあるが確固とした範囲内において可能である。もしも可能でないとしたら地上は今日見る如きものではあり得ず、また今ほどの秩序ある活動は見られないであろう。
もっとも、これも人類に対する吾々の仕事の一側面に過ぎない。そして人間の未来に何が待ち受けているかは私にも何とも言えない。霊的真理の世界へこれより人類がどこまで踏み込むかを推測するほどには、私は先が見えない。まだその世界への門をくぐり抜けたばかりだからである。
が、大いなる叡智をもって油断なく見守る天使によっても、こののちも万事よきに計らわれるであろう。天使の支配のある限り、万事うまくいくことであろう。
第2節 〝光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず〟
1913年12月3日 水曜日
昨日取りあげた話題をもう少し進めて、私の言わんとするところを一層明確にしておきたい。改めて言うが、エネルギーの転換についてこれまで述べたことは用語の定義であり本質の説明ではないことをまず知ってほしい。
貴殿の身の周りにある精神的生命の顕現の様子をつぶさに見れば、幾つか興味深いものが観察されるであろう。
まず人間にも感覚が具わっているが、これも外部に存在する光が地球へ向けて注がれなければ使用することはできまい。が、その光もただのバイブレーションに過ぎず、しかも発生源から地上に至るまで決して同じ性質を保っているのではない。と言うのも、人間は太陽を目に見えるものとしてのみ観察し、
各種のエネルギーの根源としてみている。が、光が太陽を取り巻く大気の外側へ出ると、そこに存在する異質の環境のために変質し、いったん人間が〝光〟と呼ぶものでなくなる。その変質したバイブレーションが暗黒層を通過し、更に別の大気層、例えば地球の大気圏に突入すると、そこでまたエネルギーの転換が生じて、再び〝光〟に戻る。
太陽から地球へ送られてきたのは同一物であって、それが広大な暗黒層を通過する際に変質し、惑星に突入した時に再び元の性質に戻るということである。
「光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず」(ヨハネ福1・5)この言葉を覚えているであろう。これは単なる比喩にはあらず、物質と霊のこの宇宙における神の働きの様子を述べているのである。しかも神は一つであり、神の王国もまた一つなのである。
光が人間の目に事物を見せる作用をするには或る種の条件が必要であることが、これで明らかであろう。その条件とは光が通過する環境であり、同時にそれが反射する事物である。
これと同じことが霊的環境についても言える。吾ら霊的指導者が人間界に働きかけることが出来るのはそれなりの環境条件が整ったときのみである。ある者には多くの真理を、それも難なく明かすことが出来るのに、環境条件の馴染まぬ者にはあまり多くを授けることができないことがあるのはそのためである。かくて物的であろうと霊的であろうと、物ごとを明らかにするのは〝光〟であることになる。
この比喩をさらに応用してお見せしよう。中間の暗黒層を通過して遥か遠方の地上へと届くように、高き神霊界に発した光明が中間の階層を経て地上へと送り届けられ、それを太陽光線が浴びるのと同じ要領で浴びているのである。
が、さらに目を別の方角に向けてほしい。地球から見ることのできる限りの、最も遠い恒星のさらに向こうに、人間が観察する銀河より遥かに完成に近づいた見事な組織が存在する。そこにおいては光の強さは熱の強さに反比例している。と言うことは、長い年月にわたる進化の過程において、熱が光を構成するバイブレーションに転換されていることを暗示している。
月は地球より冷たく、しかもその容積に比例して計算すれば、地球より多くの光を反射している。天体が成長するほど冷たくなり、一方光線の力は強くなってゆく。吾々の界層から見る限りそうであり、これまでの結論に反する例証をひとつとして観察したことは無い。
曽てそのエネルギーの転換の実例を私の界において観察したことがある。
ある時、私の界へ他の界から一団の訪問者が訪れ、それが使命を終えてそろそろ帰国しようとしているところであった。吾々の界の一団・・・私もその一団であった・・・が近くの大きな湖まで同行した。訪れた時もその湖から上陸したのである。いよいよ全員がボートに乗り移り、別れの挨拶を交わしている時のことである。
吾々の国の指導者格の一人がお付の者を従えて後方の空より近づき、頭上で旋回し始めた。私はこの時の慣習を心得てはいるものの、その時は彼ら・・・と言うよりは天使・・・の意図を測りかねて何をお見せになるつもりであろうかと見守っていた。この界においては来客に際して互いに身に付けた霊力を行使して、その効果を様々な形で見せ合うのが慣習なのである。
見ていると遥か上空で天使の周りを従者たちがゆっくりと旋回し、その天使から従者へ向けて質の異なる、したがって色彩も異なるバイブレーションの糸が放たれた。天使の意念によって放射されたのである。それを従者が珍しい、そして実に美しい網状のものに編み上げた。
二本の糸が交叉する箇所は宝石のような強力な光で輝いている。またその結び目は質の異なる糸の組み合わせによって数多くの色彩に輝いている。
網状の形体が完了すると、まわりの従者は更に広がって遠くへ離れ、中央に天使が一人残った。そして、出来上がった色彩豊かなくもの巣状の網の中心部を片手で持ち上げた。それがふわふわ頭上で浮いている光景は、それはそれは美しいの一語に尽きた。
さて、その綱は数多くの性質を持つバイブレーションの組織そのものであった。やがて天使が手を放すとそれがゆっくりと天使を突き抜けて降下し、足元まで来た。そこで天使はその上に乗り、両手をあげ、網目を通して方向を見定めながら両手をゆっくりと動かして所定の位置へ向けて降下し続けた。
湖の上ではそれに合わせて自然発生的に動きが起こり、ボートに乗ったまま全員が円形に集合した。そこへ網目が降りてきて、全員がすっぽりとその範囲内におさまる形で覆い被さり、更に突き抜けて網が水面に落ち着いた。そこでその中央に立っている天使が手を振って一団に挨拶を送った。するとボートもろとも網がゆっくりと浮上し、天高く上昇して行った。
かくて一団は湖上高く舞い上がった。吾ら一団もその周りに集まり、歌声と共にぢょう中の無事を祈った。彼らはやがて地平線の彼方へと消えて行った。
こうした持てなしは、他の界からの訪問者に対して吾々が示すささやかな愛のしるしの一例に過ぎないもので、それ以上の深い意味はない。私がこれを紹介したのは・・・実際には以上の叙述より遥かに美しいものであったが・・・強力な霊力を有する天使の意念が如何にエネルギーを操り質を転換させるかを、実例によって示すためであった。
目を愉しませるのは美しさのみとは限らない。美しさは天界に欠かせぬ特質の一つに過ぎない。例えば効用にも常に美が伴う。人間が存在価値を増せば増すほど人格も美しさを増す。聖は美なりとは文字通りであり真実である。願わくば全ての人間がこの真理を理解してほしい。
第3節 光と旋律による饗宴
1913年12月4日 木曜日
いささか簡略過ぎた嫌いはあるが、天界においてより精妙な形で働いている原理が地上に置いても見られることを、一通り説明した。そこで次は少しばかり趣を変えて話を進めようと思う。
本格的な形では吾々の世界にしか存在しない事柄を幾ら語ったところで、貴殿には理解できないであろうし、役にも立たないであろうが、旅する人間は常に先へ目をやらねばならない。これより訪れる世界についての理解が深ければ深いほど足取りも着実になるであろうし、到着した時の迷いも少ないことであろう。
しからばここを出発点として・・・物質のベールを超えて全てが一段と明るい霊的界層に至り、まず吾々自らがこの世界の真相を学ぶべく努力し、そしてそれを成就した以上・・・その知識をこの後の者に語り継ぐことが吾々の第一の責務の一つなのである。
他界後、多くの人間を当惑させ不審に思わせることの一つは、そこに見るもの全てが実在であることである。そのことについては貴殿は既に聞かされているが、それが余りにも不思議に思え予期に反するものである様子なので、今少し説明を加えたいと思う。
と申すのも、そこに現実に見るものが決して人間がよく言うところの〝夢まぼろし〟ではなく、より充実した生活の場であり、地上生活はそのための準備であり出発点に過ぎないことを理解することが何よりも大切だからである。何故に人間は成長しきった樫の木より苗木を本物と思いたがり、小さな湧水を本流より真実で強力と思いたがるのであろうか。地上生活は苗木であり湧水に過ぎない。死後の世界こそ樫の木であり本流なのである。
実は人間が今まとっている肉体、これこそ実在と思い込んでいる樹木や川、その他の物的存在は霊界にあるものに比して耐久性がなく実在性に乏しい。なぜなら、人間界を構成するエネルギーの源はすべて吾々の世界にあるのであり、その量と強烈さの差は、譬えてみれば発電機と一個の電灯ほどにも相当しよう。
それ故人間が吾々のことを漂う煙の如く想像し、環境をその影の如く想像するのであれば、一体そう思う根拠はどこにあるのかを胸に手を当てて反省してみよと言いたい。否、根拠などあろうはずがないのである。あるのは幼稚な愚かさであり、他愛なき想像のみなのである。
ここで私はこちらの世界における一光景、ある出来事を叙述し、遠からぬ将来にいずれ貴殿も仲間入りする生活の場を紹介することによって、それをより自然に感じ取るようになって貰いたいと思う。この光あふれる世界へ来て地上を振り返れば、地上の出来事の一つ一つが明快にそして生々しく観察でき、部分的にしか理解し得なかったこともそれなりの因果関係があり、それでよかったことに気付くことであろう。が、
それ以上に、こうして次から次へと無限なるものを見せつけられ、一日一日を生きている生活も永遠の一部であることを悟れば、地上生活が如何に短いものであるかが分かるであろう。
さて、すみれ色を帯びたベールの如き光が遠く地平線の彼方に見え、それが前方の視界をさえぎるように上昇しつつある。その地平線と今私が立っている高い岩場との間には広い平野がある。その平野の私のすぐ足元の遥か下手に大聖堂が見える。これが又、山の麓に広がる都の中でも際立って高く聳えている。
ドームあり、ホールあり、大邸宅あり、ことごとく周りがエメラルドの芝生と宝石のように輝く色とりどりの花に囲まれている。広場あり、彫像あり、噴水あり、そこは花壇を欺くほどの美しさに輝き、色彩の数も花の色を凌ぐほどの人の群れが行き交っている。その中に他を圧するようにひときわ強く輝く色彩が見える。黄金色である。それがこの都の領主なのである。
その都の外郭に高い城壁が三箇所に伸び、あたかも二本の角で都を抱きかかえるような観を呈している。その城壁の上に見張りの姿が見える。敵を見張っているのではない。広い平地の出来事をいち早く捉え、あるいは遠い地域から訪れるものを歓迎するためである。
その城壁には地上ならば海か大洋にも相当する広大な湖の波が押し寄せている。が、見張りの者にはその広大な湖の対岸まで見届ける能力がある。そう訓練されているのである。その対岸に先に述べたベールのような光が輝いており、穏やかなうねりを見せる湖の表面を水しぶきを上げて行き交う船を照らし出している。
さて私もその城壁に降り立ち、これより繰り広げられる光景を見ることにした。やがて私の耳に遠雷のような響きがそのすみれ色の光の方角から聞こえてきた。音とリズムが次第に大きくなり、音色に快さが増し、ついに持続的な一大和音となった。
すると高く聳える大聖堂から一群の天使が出て来るのが見えた。全員が白く輝く長服をまとい、腰を黄金色の帯で締め、額に黄金の冠帯を付けている。やがて聖堂の前の岩の平台に集結すると、全員が手を取りあい、上方を向いて祈願しているかに見える。実は今まさにこの都へ近づきつつある地平線上の一団を迎えるため、エネルギーを集結しているのであった。
そこへもう一人の天使が現れ、その一団の前に立ち、すみれ色の光の方へ目をやっている。他に較べて身体の造りが一回り大きく、身につけているものは同じく白と黄金色であるが、他に比して一段と美しく、顔から放たれる光輝も一段と強く、その目は揺らぐ炎のようであった。
そう見ていた時のことである。その一団の周りに黄金色の雲が湧き出て、次第に密度を増し、やがて回転し始め一個の球体となった。全体は黄金色に輝いていたが、それが無数の色彩の光からなっていた。それが徐々に大きくなり、ついには大聖堂も見えなくした。それから吾々の目を見張らせる光景が展開したのである。
その球体が回転しつつ黄金、深紅、紫、青、緑、等々の閃光を次々と発しながら上昇し、ついには背後の山の頂上の高さ、大聖堂の上にまで至り、更に上昇を続けて都の位置する平野を明るく照らし出した。気が付いてみると、先ほど一団が集合した平台には誰一人姿が見当たらない。
その光と炎の球体に包まれて上昇したのである。これはエネルギーを創造するほどの霊力の強烈さに耐えうるまでに進化した者にしかできぬ業である。球体は尚も上昇してから中空の一点に静止し、そこで閃光が一段と輝きを増した。
それから球体の中から影のようなものが抜けでてきて、その球面の半分を被うのが見えた。が、地平線上の例のスミレ色の光の方を向いた半球はそのままの位置にあり、それが私には正視できぬほどに光輝を増した。見ることを得たのは、スミレ色の光から送られるメッセージに応答して発せられ平地の上空へ放たれたものだけであった。
そのとき蜜蜂の羽音のようなハミングが聞こえてきた。そしてスミレ色の光の方角から届く大オーケストラの和音と同じように次第に響きを増し、ついに天空も平野も湖も、光と旋律とで溢れた。天界では、しばしば、光と旋律とは状況に応じて様々な形で融合して効果をあげてゆくのである。
既にこの時点において、出迎えの一団と訪問の一団とは互いに目と耳とで認識し合っている。二つの光の集団は次第に近づき、二つの旋律も相接近して見事な美しさの中に融合している。両者の界は決して近くはない。天界での距離を地上に当てはめれば莫大なものになる。
両者は何億マイル、あるいは何百億マイルも遠く離れた二つの恒星ほども離れており、それが今その係留を解いて猛烈なスピードで相接近しつつ、光と旋律とによって挨拶を交わしているのに似ている。
これと同じことが霊的宇宙の二つの界層の間で行われていると想像されたい。そうすれば、その美しさと途方もなく大きな活動は貴殿の想像を絶することが分かるであろう。
そこまで見て私はいつもの仕事に携わった。が、光はその後もいやがうえにも増し、都の住民はその話で持ち切りであった。この度はどこのどなたが来られたのであろうか。前回は誰それが見えられ、かくかくしかじかの栄光を授けてくださった。等々と語り合うのであった。
かくて住民はこうした機会にもたらされる栄光を期待しつつ各々の仕事に勤しむ。天界では他界からの訪問者は必ずや何かをもたらし、また彼らも何かを戴いて帰り住民に分け与えるのである。
それにしても、その二つの光の集団の面会の様子を何とかうまく説明したく思うのであるが、それはとても不可能である。地上の言語では到底表現できない性質のものだからである。実はこれまでの叙述とて、私にはおよそ満足できるものではない。
壮麗な光景のここを切り取りあそこを間引きし、いわば骨と皮ばかりにして何とか伝えることを得たに過ぎない。仮にその断片の寄せ集めを十倍壮麗にしたところで、なお二つの光の集団が相接近して会合した時の壮観さには、とてもお呼びも付かぬであろう。天空は赫々たる光の海と化し、
炎の中を各種の動物に引かれた様々な形態の馬車に乗った無数の霊(スピリット)が、旗をなびかせつつ光と色の様々な閃光を放ちつつ行き交い、その発する声はあたかも楽器の奏でる如き音色となり、それがさらにスミレ色の花とダイヤモンドの入り混じった黄金の雨となって吾々の上に降り注ぐ。
なに、狂想詩?そうかもしれない。単調極まる地上の行列・・・けばけばしい安ピカの装飾を施され、それが又、吾々の陽光に比すればモヤの如き大気の中にて取り行われる地上の世界から見れば、なるほどそう思われても致し方あるまい。が、心するがよい。そうした地球及び地上生活の生ぬるい鬱陶しさのさ中においてすら、貴殿は実質的には本来の霊性ゆえに地上のものにはあらずして、吾々と同じ天界に所属するものであることを。
故に永続性の無い地上的栄光を嗅ぎ求めて這いずり回るような、浅ましい真似だけは慎んでほしい。授かったものだけで満足し、世の中は万事うまくとり計らわれ、今あるがままに素晴らしいものであることを喜ぶがよい。ただ私が言っているのは、この低い地上に置いて正常と思うことを基準にして霊界を推し量ってはならないということである。
常に上方を見よ。そこが貴殿の本来の世界だからである。その美しさ、その喜びは全て貴殿の為に取ってある。信じて手を差し伸べるがよい。私がその天界の宝の中からひとつづつ授けて参ろう。心を開くが良い。来たるべき住処の音楽と愛の一部を吾々が吹き込んで差し上げよう。
差し当たってはあるがままにて満足し、すぐ前の仕事に勤しむがよい。授からるべきものは貴殿の到来に備えて確実に、そして安全に保持してある。故にこの仕事を忠実にそして精一杯尽くすがよい。それを全うした暁には、貴殿ならびに貴殿と同じく真理のために献身する者は、イエスのおん血(ヘブル書9)を受け継ぐ王としてあるいは王子として天界に迎えられるであろう。
聖なるものを愛する者にとってはイエスのおん血はすなわちイエスの生命なのである。なぜならイエスは聖なるものの美を愛され〝父〟の聖なる意志の成就へ向けて怯むことなく邁進されたからである。人間がそれを侮辱し、それ故に十字架にかけたのであった。
主の道を歩むが良い。その道こそ主を玉座につかしめたのである。貴殿もそこへ誘われるであろう。・・・貴殿と共に堂々と、そして愛をもって邁進する者もろともに。
主イエスはその者たちの王なのである。
第4節 第十界の大聖堂
1913年12月8日 月曜日
前回に述べた事柄について引き続き今夜も述べてみたい。
前回はスミレ色の光の一団と吾々の界の一団とが融合して繰り広げられた人間の想像を絶する壮麗な光景を叙述した。その栄光が都の上に降り注ぎ、建物も樹木も住民も、すべてがそのスミレ色と黄金色の雨の洗礼を受けて一段と輝きを増したのであった。
貴殿には理解が行くと思うが、その一団は吾らの界より一段と高い界からの訪問者であり、こうした際には例外無く贈り物として何らかの恩恵を残していくものなのである。かくして彼らが去った後吾らは更に一段と向上するための力を授かり、都全体がそれまでとはどこか異なる崇高さに輝くのであった。
さてその時私はたまたま大聖堂への用事があったので、山道を通って行った。長い上り坂となっていたが、私はこうした時の常として、これから向かう準備の為、瞑想しつつ一歩一歩ゆっくりと進んだ。
沿道の少し奥まったところに地上に見るのと同じような拝殿がそこここにあった。その一つ一つの前に少し離れて立ち、両手で目を蔽って瞑目し、主イエスの道を歩む者としての御力を授かるべく、主との霊的交わりを求めた。それが終わってふと振り返ると、一見して私の界の者ではなく、より高い界の者と思われる、光り輝く二人の人物を見た。私はすぐに頭を垂れ、目を地面に落とし、所要を言いつけられるのを待った。
ところが暫くしても何のお言葉もない。そこで思い切って顔をあげ、まず腰のあたりに絞められた帯へ目をやった。そして即座にそのお二人がその日の訪問団のリーダーに付き添った方であることを見て取った。貴殿らの言う将官付武官のようなものであった。
二人は尚も黙しているので、私はついにそのお顔に目を移した。笑みを漂わせた光り輝くお顔であった。愉しささえ感じられた。その時初めてしっかり見つめた。と言うのも、それまではお顔から発せられる光輝の為に顔立ちまで見極めることができず、従って自分の知っている方であるか否かの判断がつきかねていたのである。が、
こうした時の手段としてよく行うのだが、そのお二人から霊力をお借りして、ついにはっきりと見極めることができた。そこで判った。実はお二人は私が地上近い界層での仕事に携わった時の僚友であった。暗黒界から多くの魂を救出し光明界へと案内した時にお二人の補佐役として仕えたのであった。
私の目にその記憶が蘇ったのを見て、お二人は近づいて両脇からそれぞれ手を取って下さって坂道を登った。そして大聖堂へ近づく途中でまず両頬に口づけをし、続いて、それから同行と会話の為にさらに霊力を授けてくださったのである。
ああ、その道中の会話の喜びと愉しさ。曽て手を取りあって活躍した時の話題に始まり、その日私の界を訪れるまでの話、そして間もなく私が召れるであろう一段と明るく栄光に満ちた世界についての話を聞かせてくれるのであった。
やがて大聖堂についた。その道中はお二人の美しさと大いなる栄光の話に魅せられて、いつもよりはるかに短く感じられたことであった。
実はお二人はその大聖堂の管理者へのメッセージを携えていた。それは間もなく彼らのリーダーがその都の領主を伴って訪れ、大聖堂の表敬と礼拝を行い、同時に従者並びにこれよりしばし逗留する都の為に礼拝を捧げるというものであった。
・・・その大聖堂を説明していただけませんか。
私に駆使できる範囲の言葉で説明してみよう。
聖堂の前面と断崖との間には何の仕切りも見当たらない。それ故、都の城壁から少し外れた平地からでもその全容を拝することが出来る。岩場の平台に切り立つように聳え、アーチが下部から上方へ見事な調和(ハーモニー)を為し、その色彩が上部へ行くほど明るくなっていく。
中心的色彩は何と呼ぶべきか、地上に同じものが見当たらないために言うことが出来ない。強いて言えば、ピンクとグレーの調和したものとでも言うほかはない。それでも正確な観念は伝わらない。が、一応外観はその程度にして、続いて構造そのものの叙述に入ろう。
地上の大聖堂には大きな柱廊玄関が一つついているのが普通であるが、それには五つある。一つ一つの構造が異なり、色調も異なる。それには実は礼拝者への配慮があるのである。もし全員が一つの玄関から入れば、霊力の劣る者が礼拝の為のエネルギーを奪われる恐れがある。
そこで五つの出入り口を設け、拝廊において一旦霊力を整え、そこで最初の誓いと礼拝を行う。そのあと更に奥の聖殿の大ホールへと進み、そこで全員が合流する。その時はもはや霊力の弱い者も不快感を伴わなくなっているという次第である。
大ホールの上方は四角の塔になっており、天井がなく、空へ突き抜けている。そして上空には光輝性の雲状のもの、ユダヤ教で言うシェキーナつまり〝神の御座〟に似たものが動めいており、時折建物全体及び礼拝堂にキリストの生命と祝福を垂れる。
この大ホールの更に奥にもう一つ、特別のネーブが設けてある。そこは特別の招待を受けた者が天使の拝謁を受ける場所である。そこにおいて招待者は天使より上級の界の秘奥についての教えを受けるが、
それを許されるのは余程進化した者に限られる。なぜなら、そこで教わることは神の属性に関する極めて高度なものだからである。しかもそれは僅かずつ授けられる。無節操に炎を求める蛾が身を亡ぼす如く、神の高度な叡智は一度に多くを手にし、あるいは授かると、魂が危害を被ることにもなりかねないからである。
私自身はまだその聖殿の内部を覗いたことは無い。霊的進化がまだそこまで至っていないからである。その時が至ればいつでもお呼びがあることであろう。十分備えが出来るまでは召されぬであろう。が、次の界へ進化する前には是非ともそこで教育を受けねばならないし、それ以外にはないのである。目下私はそれに向けて鋭意奮闘しつつあるところである。
以上その巨大な神殿をいくらかでも描写したつもりであるが、それも大いなる躊躇をもってようやく為し得たことである。何となれば、その時実相は余りに荘厳過ぎて人間の言葉では到底尽くせないのである。黙示録のヨハネが同志たちに語り聞かせたのも同じ光景であった。が、彼が伝え得たのは宝石と真珠と水晶の光のみであり、それ以上のものは語り得なかった。今の私がまさにそれである。ためらいを禁じ得ぬのである。
そこで私は、残念ではあるが、これにて大聖堂の叙述は終わりとする。どう足掻いたところで、この第十界の山頂に聳える心理と叡智と霊力と祝福の大聖堂に漲る燦然たる壮観を述べ尽くすことはできない。そこはまさに、それらすべての根源であるキリストへ向けての進化において必ず通過しなければならない関門なのである。
・・・ザブディエル様、私はあなたによる連日の要請が些か苦痛となってまいりました。出来れば一日置きにしていただければと思うのですが、このまま毎日でもやって行けるでしょうか。・・・
貴殿の思うままにすれば良い。ただこのことだけは明記しておいてほしい。すなわち今は霊力が滞りなく働いているが、この後どうなるかは測り知ることが出来ない。私は許される限りにおいて貴殿の支えとなる所存であるが、それがもし貴殿の限界所以叶えられないことになれば、もはや何もなし得ない。が、
今の受容的精神状態を続けてくれる限り、この通路を可能な限り完璧なものに仕上げる所存である。しかし貴殿の思うようにするがよい。もしも毎日続けることに意を決したならば、その時は貴殿の教会の信者並びに関係者への必要最小限の書き物以外は控えてもらえたい。
必要と思えば運動と気分転換のために戸外へ出るがよい。後は私が力の限り援助を授けるであろう。が、受ける側の貴殿よりも与える側の私のほうが能力が大である。それ故、書けると思えば毎日、あるいは職務の許す限りにおいて、私の要請に応じてくれればよい。これまでは一日として計画が挫折したことは無い。そして多分この後も続け得ることであろう。
第6章 常夏の楽園
第1節 霊界の高等学園
1913年12月9日 火曜日
私の望み通り今宵も要請に応じてくれた。ささやかではあるが、これより貴殿を始めとして多くの者にとって有益と思えるものを述べる私の努力を、貴殿は十分に受け止め得るものと信じる。例え貴殿は知らなくても、貴殿にそれを可能ならしめる霊力が吾々にあり、それを利用して思念を貴殿の前に順序よく披瀝してゆく。いたずらに自分の無力を意識して挫けることになってはならない。
貴殿にとってこれ以上と思える段階に至れば、私の方からそれを指摘しよう。そして吾々も暫時(サンジ)ノートを閉じて他の仕事に関わるとしよう。
では今夜も貴殿の精神をお借りして引き続き第十界の生活に付いて今少し述べてみようと思う。ただ、いつものように吾々の界より下層の世界の事情によってある程度叙述の方法に束縛が加えられ、更には折角の映像も所詮は地上の言語と比喩の範囲にせばめられてしまうことを銘記されたい。
それはやむを得ないことなのである。それは恰も一リットルの器に10リットルの水は入らず、鉛の小箱に光を閉じ込めることが出来ぬのと同じ道理なのである。
前回述べた大聖堂は礼拝のためのみではない学習のためにも使用されることがある。ここはこの界の高等学院であり、下級クラスをすべて終了した者のみが最後の仕上げの学習を行う。ほかにもこの界域の各所に様々な種類の学校や研究所があり、それぞれに独自の知識を教え、数こそ少ないがその幾つかを総合的に教える学校もある。
この都市にはそれが三つある。そこへは〝地方校〟とでも呼ぶべき学校での教育を終えたものが入学し、各学校で学んだ知識の相対的価値を学び、それを総合的に理解していく。この組織は全世界を通じて一貫しており、界をあがる毎に高等となって行く。
つまり低級界より上級界へ向けて段階的に進級してゆく組織になっており、一つ進級することはそれだけ霊力が増し、且つその恩恵に浴することができるようになったことを意味する。
教育を担当する者はその大部分が一つ上の界の霊格を具えた者で、目標を達成すれば本来の界へ戻り、教えを受けた者がそのあとを継ぐ。その間も何度となく本来の上級界へ戻っては霊力を補給する。かくて彼らは霊格の低い者には耐えがたい栄光に耐えるだけの霊力を備えるのである。
それとは別に、旧交を温めるために高級界の霊が低級界へ訪れることもよくあることである。その際、低級界の環境条件に合わせて程度を下げなければならないが、それを不快に思う者はまずいない。そうしなければ折角の勇気づけの愛の言葉も伝えられないからである。
そうした界より地上界へ降りて人間と交信する際にも、同じく人間界の条件に合わせなければならない。大なり小なりそうしなければならない。天界における上級界と下層界との関係にも同じ原理が支配しているのである。
が、同じ地上の人間でも、貴殿の如く交信の容易な者もあれば困難な者もあり、それが霊性の発達程度に左右されているのであるが、その点も霊界において同じことが言える。例えば第三界の住民の中には自分の界の上に第四界、第五界あるいはもっと上の界が存在することを自覚する者もおれば、自覚しない者もいる。それは霊覚の発達程度による。自覚しない者に上級界の者がその姿を見せ言葉を聞かせんとすれば、出来るだけ完璧にその界の環境に合さねばならない。現に彼らはよくそれを行っている。
もとより、以上は概略を述べたに過ぎない。がこれで、一見したところ複雑に思えるものも実際には秩序ある配慮がなされて居ることが分かるであろう。地上の聖者と他界した高級霊との交わりを支配する原理は霊界においても同じであり、更に上級界へ行っても同じである。
故に第十界の吾々と、更に上級界の神霊との交わりの様子を想像したければ、その原理に基ずいて推理すればよいのであり、地上に置いて肉体をまとっている貴殿にもそれなりの正しい認識が得られるであろう。
・・・判りました。前回の話に出た第十界の都市と田園風景をもう少し説明していただけませんか。
良かろう。だがその前に〝第十界〟と言う呼び方について一言述べておこう。吾々がそのように呼ぶのは便宜上のことであって、実際にはいずれの界も他の界と重なり合っている。
ただ第十界には自らその界だけの色濃い要素があり、それをもって〝第十界〟と呼んでいる迄で、他の界と判然と区切られているのではない。天界の全界層が一体となって融合しているのである。それ故こそ上の界へ行きたいと切に望めば、いかなる霊にも叶えられるのである。
同時に、例えば第七界まで進化した者は、それまで辿って来た六つの界層へは自由に行き来する要領を得ている。かくて上層界から引きも切らず高級霊が降りてくる一方で、その界の者もまた下層界へ何時でも降りて行くことが出来るのであり、その度に目標とする界層の条件に合わせることになる。
またその界におりながら自己の霊力を下層界へ向けて送り届けることも出来る。これは吾々も間断なく行って居ることであって、すでに連絡の取れた地上の人間へ向けて支配力と援助とを放射している。貴殿を援助するのに必ずしも第十界を離れるわけではない。もっとも必要とあれば離れることもある。
・・・今はどこにいらっしゃいますか。第十界ですか、それともこの地上ですか。
今は貴殿のすぐ近くから呼びかけている。私にとってはレンガやモルタルは意に介さないのであるが、貴殿の肉体的条件と、貴殿の方から私の方へ歩み寄る能力が欠けているために、どうしても私の方から近づくほかないのである。そこでこうして貴殿のすぐ側まで近づき、声の届く距離に立つことになる。こうでもしなければ私の思念を望みどおりには綴ってもらえないであろう
では私の界の風景についての問いに答えるとしよう。最初に述べた事情を念頭に置いて聞いてもらいたい。では述べるとしよう。
都市は山の麓に広がっている。城壁と湖の間には多くの豪邸が立ち並び、その敷地は左右に広がり、殆どが湖の近くまで広がっている。その湖を船で一直線に進み対岸へ上がると、そこには樹木がおい繁り、その多くはこの界にしか見られないものである。その森にも幾筋かの小道があり、すぐ目の前の山道を辿って奥へ入っていくと空地に出る。
その空地に彫像がたっている。女性の像で天井を見上げて立っている。両手を両脇に下げ、飾りの無い長いロープを着流している。この像は古くからそこに建てられ、幾世期にも亘って上方を見上げてきた。
が、どうやら貴殿は力を使い果たしたようだ。この話題は一応これにて打ち切り、機会があればまた改めて述べるとしよう。
その像の如く常に上へ目を向けるがよい。その目に光の洗礼が施され、その界の栄光の幾つかを垣間見ることが出来るであろう。
第2節 十界より十一界を眺める
1913年12月11日 木曜日
前回の続きである。
彫像の立つ空地は実は吾々が上層界からの指示を仰ぐためにしばしば集合する場所である。これより推進すべき特別の研究の方向を指示するために無数の霊の群れを離れて我々を呼び寄せるには、こうした場所が都合が良いのである。そこへ高き神霊が姿をお見せになり、吾々との面会が行われるのであるが、その美しい森を背景として、天使のお姿は一段と美しく映えるのである。
その空地から幾筋かの小道が伸びている。吾々は突き当りで右へ折れる道を取り、更に歩み続ける。道の両側には花が咲き乱れている。キク科の花もあればサンシキスミレもあり、そうした素朴な花が恰もダリア、ボタン、バラ等の色鮮やかな花々の中に混じって咲いていることを楽しんでいるかのように、一段と背高に咲いているのが目に止まる。この他にもまだまだ多くの種類の花が咲いている。と言うのは、この界では花に季節がなく、常夏の国の如く、飽きることなく常に咲き乱れているのである。
そこここに更に別の種類の花が見える。直径が一段と大きく、それが光でできた楯の如く輝き、辺りは恰も美の星雲の観を呈し、見る者に喜びを与える。この界の美しさは到底言語では尽くせない。既に述べたように、すべてが地上に見られぬ色彩をしているからである。それは地上のバイブレーションの鈍重さのせいであると同時に、人間の感覚がそれを感識するにはまだ十分に洗練されていないからでもある。
このように・・・少し話がそれるが・・・貴殿の身の回りには人間の五感に感応しない色彩と音とが存在しているのである。この界にはそうした人間の認識を超えた色彩と音が満ち溢れ、それが絢爛豪華な天界の美を一段と増し、最高神の御胸において至聖なる霊のみが味わう至福の喜びに近づいた時の“聖なる美”を誇示している。
やがて吾らは小川に出る。そこで道が左右に分かれているが、吾々は左に折れる。その方角に貴殿が興味を抱きそうなコロニーがあり、是非そこへ案内したく思うからである。その川から外れると広い眺めが展開する。そこが森の縁なのであるが、そこに一体何があると想像されるか。ほかでもない。そこは年中行事を司るところのいわば“祝祭日の聖地”なのである。
地上の人間はとかく吾々を遠く離れた存在であるかに想像し、近接感を抱いて居ないようであるが、ツバメ一羽落ちるのも神は見逃さないと言われるように、人間の為すことの全てが吾々に知れる。そしてそれを大いなる関心と細心の注意をもって観察し、人間の祈りの中に一滴の天界の露を投げ入れ、天界の思念によって祈りそのものと魂とに香ばしい風味を添えることまでする。
このコロニーには地上の祝祭日に格別の関心を抱く天使が存在する。そうして毎年めぐり来る大きい祝祭日において、人間の思念と祈願を正しい方向へ導くべく参列する霊界の指導霊に特別の奉納を行う。
私自身はその仕事に関わっていない。それ故あまり知ったかぶりの説明はできないが、クリスマス、エビファーニー、イースター、ウィットサンデー(*)等々に寄せられる意念がこうした霊界のコロニーにおいて強化されることだけは間違いない事実である。
(*これらはすべて霊界の祝祭日の反映であり、従って地上の人間の解釈とは別の霊的意義がある。それについてはすティートンモーゼスの霊界通信『霊訓』が最も詳しい)
又聞くところによれば“父なる神”をキリスト教とは別の形で信仰する民族の祝祭日にも、同じように霊界から派遣される特別の指導霊の働きかけがあるということであるが、確かにそういうこともあり得よう。
かくて地上の各地の聖殿における礼拝の盛り上がりは、実はこうして霊界のコロニーから送られる霊力の流れが、神への讃仰と祈願で一体となった会衆の心に注がれる結果なのである。
貴殿はそのコロニーの建物について知りたがっているようであるが、建物は数多く存在し、そのほとんどが聳えるように高いものばかりである。その中でも他を圧する威容を誇る建物がある。数々のアーチが下から上へ調和よく連なり、その頂上は天空高く聳え立つ。祝祭日に集まるのはその建物なのである。その頂上はあたかも開きかけたユリの花弁が何時までも完全に咲き切らぬ状態にも似ており、それに舌状の懸花装飾が垂れ下がっている。
色彩は青と緑であるが、そのヒダは黄金色をしたような茶色を呈している。見るも鮮やかな美しさであり、天空へ向けて放射される讃仰の念そのものを象徴している。それは恰も芳香を放出する花にも似て、上層界の神霊並びに、すべてを超越しつつしかもすべての存在を見届け知りつくしている創造の大霊へ向けて放たれてゆく。
吾々はこの花にも似た美しい聖殿が恰も小鳥がヒナをその両翼に抱き、その庇護の中でヒナたちが互いに愛撫し合うかのような、美しくも温かき光景を後にする。そして更に歩を進める。
さて小川の上流へ向けて暫し歩き続けるうちに、道は登坂となる。それを登り続けるとやがて山頂に至り、そこより遥か遠くへ視界が広がる。実はそこが吾々の界と次の界との境界である。どこまで見渡せるか、またどこまで細かく見極め得るかは、開発した能力の差によって異なるが、私に見えるママを述べよう。
私は今、連なる山々の一つの頂上に立っている。すぐ目の前に小さな谷があり、その向こうに別の山があり、更にその向こうに別の山が聳えている。焦点を遠くへやるほど山を包む光輝が明るさを増す。が、その光はじっと静かに照っているのではない。あたかも水晶の海が電気の海にでも浸っているかのように、ゆらめくかと思えば目を眩ませんばかりの閃光を発し、あるいは矢のような光線が走り抜ける。これは外から眺めた光景であり、今の私にはこれ以上のことは叙述出来ぬ。
川もあれば建物もある。が、その位置は遥か彼方である。芝生もあれば花を咲かせている植物もある。樹木もある。草原が広がり、その界の住民の豪華な住居と庭が見える。が、私はその場へ赴いて調べることはできない。ただ、こうして外観を述べることしかできない。
それでも、その景色全体に神の愛と、えもいわれぬ均整美が行きわたり、それが私の心を弾ませ足を急かせる。なぜなら、その界へ進みゆくことこそ第十界における私の生活の全てだからである。託された仕事を首尾よく果たした暁には、その素晴らしき界の、さる有難きお方(*)からの招きを受けるであろう。その時は喜び勇んで参る事であろう。
(*ザブディエルの守護霊のこと。その守護霊にも守護霊がおり、そのまた守護霊がおり連綿として最後は守護神に至る)
が、このことは貴殿も同じことではなかろうか。私とその遥か遠き第十一界との関係はまさに貴殿と他界後の境涯と同じであり、程度こそ違え素晴らしいものであることにおいては同じである。
この界につきてはまだ僅かしか語っていないが、貴殿の心を弾ませ足を急かせるには十分であろう。
ここで再び貴殿を先の空地へ連れ戻し、あの彫像の如く常に目をしっかり上方へ向けるよう改めて願いたい。案ずることは何一つない。足元へ目をやらずとも決して躓くことは無い。高きものを求める者こそ正しい道を歩む者であり、足元には吾々が気を配りことなきを期するのであろう。
万事は佳きに計らわれている。さよう、ひたすらに高きものを求める者は万事は佳きに計らわれていると思うがよい。なぜなら、それは主イエスに仕える吾らを信頼することであり、その心は常に主と共にあり、何人たりとも躓かせることはさせぬであろう。
では、この度はここまでとしよう。地上生活はとかく鬱陶しく、うんざりさせられることの多いものである。が、同時に美しくもあり、愛もあり、聖なる向上心もある。それを少しでも多く自分のものとし、また少しでも多く同胞に与えるがよい。そうすれば、それだけ鬱陶しさも減じ、天界の夜明けの光が一層くっきりと明るく照らし、より美しき楽園へと導いてくれることであろう。
第3節 守護霊との感激の対面
1913年12月12日 金曜日
背後から第十界の光を受け、前方から上層界の光を浴びながら私は例の山頂に立って、その両界の住民と内的な交わりを得ていた。そしてその両界を超えた上下の幾層もの界とも交わることができた。
その時の無上の法悦は言語に絶し、賢覧にして豪華なもの、広大にして無辺のもの、そして全てを包む神的愛を理解する霊的な目を開かせてくれたのである。
ある時私は同じ位置に立って自分の本来の国へ目をやっていた。眼前に展開する光の躍動を見続けることが出来ず、思わず目を閉じた。そして再び見開いた時の事である。その目にほかならぬ私の守護霊の姿が入った。私が守護霊を見、そして言葉を交わしたのは、その時が最初であった。
守護霊は私と向かい合った山頂に立ち、その間には谷がある。目を開いた時、あたかも私に見え易くするために急きょ形体を整えたかのように、私の目に飛び込んできた。事実その通りであった。うろたえる私を笑顔で見つめていた。
きらびやかに輝くシルクに似たチュニック(首からかぶる長い服)を膝までまとい、腰に銀色の帯を締めている。膝から下と腕には何もまとっていないが、魂の清らかさを示す光に輝いている。
そしてそのお顔は他の箇所より一段と明るく輝いている。頭には青色の帽子をのせ、それが今にも黄金色へと変わろうとする銀色に輝いている。その帽子にはさらに霊格の象徴である宝石が輝いている。私にとっては曽て見たこともない種類のものであった。石そのものが茶色であり、それが茶色の光を発し、まわりに瀰漫する生命に燃えるような、実に美しいものであった。
「さ、余のもとへ来るがよい」ついに守護霊はそう呼びかけられた。その言葉に私は一瞬たじろいだ。恐怖のためでは無い。畏れ多さを覚えたからである。
そこで私はこう述べた。
「守護霊様とお見受けいたします。その思いが自然に湧いてまいります。こうして拝見できますのは有難い限りです。言うに言われぬ心地よさを覚えます。私のこれまでの道中ずっと付き添って下さっていたことは承知しておりました。私の歩調に合わせてすぐ先を歩いてくださいました。
今こうしてお姿を拝見し、改めてこれまでのお心遣いに対して厚く御礼申し上げます。ですが、お近くまで参ることはできません。この谷を下ろうとすればそちらの界の光輝で目が眩み、足元を危うくします。これでは多分、その山頂まで登るとさらに強烈な光輝の為に私は気絶するものと案じられます。これだけ離れたこの位置にいてさえ長くは耐えられません」
「その通りかもしれぬ。が、この度は余が力となろう。汝は必ずしも気付いておらぬが、これまでも何度か力を貸して参った。また幾度か余を身近に感じたこともあるようであるが、それも僅かに感じたに過ぎぬ。これまで汝と余とはよほど行動を共にしてまいった故に、この度はこれまで以上に力が貸せるであろう。気を強く持ち、勇気を出すがよい。案ずるには及ばぬ。これまで度々汝を訪れたが、この度、汝をこの場に来させたそもそもの目的はこうして余の姿を見せることにあった」
こう述べた後暫しあたかも彫像の如くじっと直立したままであった。が、やがて様子が一変し始めた。腕と脚の筋肉を緊張させているように見えはじめたのである。ゴース(蜘蛛の糸のような繊細な布地)のような薄い衣服につつまれた身体もまた全エネルギーを何かに集中しているように見える。両手は両脇に下げたまま手の平をやや外側へ向け、目を閉じておられる。その時不思議な現象が起きた。
立っておられる足元から青とピンクの混じりあった薄い雲状のものが湧き出て私の方へ伸びはじめ、谷を超えて二つの山頂に橋のようにかかったのである。高さは人間の背丈とほぼ変わらず、幅は肩幅より少し広い。それが遂に私の身体まで包み込み、ふと守護霊を見るとその雲状のものを通して、すぐ近くに見えたのである。
その時守護霊の言葉が聞こえた。「参るが良い。しっかりと足を踏みしめて余の方へ向かって進むが良い。案ずるには及ばぬ」
そこで私はその光輝く雲状の柱の中を守護霊の方へと歩を進めた。足元は厚きビロードのようにふんわりとしていたが、突き抜けて谷へ落ちることもなく、一歩一歩近づいて行った。守護霊が笑顔で見つめておられるのを見て私の心は喜びにあふれていた。が、
よほど近づいたはずなのに、なかなか守護霊まで手が届かない。相変わらずじっと立っておられ決して後ずさりされた訳ではなかったのであるが・・・
が、ついに守護霊が手を差し出された。そして、更に二、三歩進んだところでその手を掴むことができた。するとすぐに、足元のしっかりした場所へ私を引き寄せて下さった。見ると、はや光の橋は薄れていき、私の身体はすでに谷の反対側に立っており、その谷の向こうに第十界が見える。私は天界の光とエネルギーでできた橋を渡って来たのであった。
それから二人は腰を下ろして語りあった。守護霊は私のそれまでの努力の数々に言及し、あの時はこうすれば尚もよかったかも知れぬなどと述べられた。褒めてくださったものもあるが、褒めずに優しく忠告と助言をしてくださったこともある。決してお咎めにはならなかった。
またその時の二人の位置していた境界についての話もされた。そこの栄華の幾つかを話してくださった。更に、そのあと第十界へ戻って仕上げるべき私の仕事において常に自分が付き添って居ることを自覚することが如何に望ましいかを語られた。
守護霊の話に耳を傾けているあいだ私は、心地よい力と喜びと仕事への大いなる勇気を感じていた。こうして守護霊から大いなる威力と高き清純さを授かり、謙虚に主イエスに仕え、イエスを通じて神に仕える人間の偉大さについてそれまで以上に理解を深めたのであった。
帰りは谷づたいに歩いたのであるが、守護霊は私の肩に手をまわし力をお貸しくださり、ずっと付き添って下さった。谷を下り川を横切り、そして再び山を登ったのであるが、第十界の山を登り始めた頃から言葉少なになっていかれた。思念による交信は続いていたのであるが、ふと守護霊に目をやるとその姿が判然としなくなっているのに気付いた。とたんに心細さを感じたが、守護霊はそれを察して、
「案ずるでない。汝と余の間は万事うまく行っている。そう心得るがよい」とおっしゃった。
そのお姿は尚も薄れて行った。私は今一度先の場所に戻りたい衝動にかられた。が、守護霊は優しく私を促し、歩を進められた。が、そのお姿は谷を上がる途中で完全に見えなくなった。そしてそれっきりお姿を拝することはなかった。しかしその存在はそれまで以上に感じていた。
そして私がよろめきつつも漸(ヨーヤク)く頂上へ辿り着くまでずっと思念による交信を保ち続けた。そうして頂上から遠く谷超えに光輝溢れる十一界へ目をやった。しかし、そこには守護霊の姿は既に無かった。が、その場を去って帰りかけながら今一度振り返った時、山脈伝いに疾走して行く一個の影が見えた。先程まで見ていた実質のある形体ではなく、ほぼ透明に近い影であった。
それが太陽の光線のように疾走するのが見えたのである。やっと見えたという程度であった。そしてそれも徐々に薄れて行った。が、その間も守護霊は常に私と共存し、私の思うこと為すことの全てに通暁しているのを感じ続けた。私は大いなる感激と仕事への一層大きな情熱を覚えつつ山を下り始めたのであった。
あの光輝溢れる界から大いなる祝福を受けた私が、同じく祝福を必要とする人々に、ささやかながら私も界の恵みを授けずにいられないのが道理であろう。それを現に同志と共に下層界の全てに向けて行っている。こうして貴殿のもとへも喜んで参じている。自分が受けた恩恵を惜しみなく同胞へ与えることは心地よいものである。
もっとも私の守護霊が行ったように貴殿との間に光の橋を架けることは私にはできない。地上界と私の界との懸隔が今のところあまりにも大すぎるためである。しかしイエスも述べておられるように、両界を結ぶにも定められた方法と時がある。イエスの力はあの谷を渡らせてくれた守護霊よりはるかに大きい。
私はそのイエスに仕える者の中でも極めて霊格の低い部類に属する。が、私に欠ける清純さと叡智は愛をもって補うべく努力をしている。貴殿と二人して力の限り主イエスに仕えていれば、主は常に安らぎを与えてくださり、天界の栄光から栄光へと深い谷間を超えて歩む吾々に常に付き添って下さることであろう。
第4節 九界から新参を迎える
1913年12月15日 月曜日
さて私は、何れの日か召されるその日までに成就せねばならない仕事への情熱に燃えつつ、その界を後にしたのであったが、ああ、その環境並びに守護霊から発せられた、あのいうに言われぬ美しさと長閑(ノド)けさ。仮にそこの住民がその守護霊の半分の美しさ、半分の麗しさしかないとしても、それでもなお、いかに祝福された住民であることか。私は今その界へ向けて鋭意邁進しているところである。
しかし一方には貴殿を手引きする義務がある。もとよりそれを疎かにはしないつもりであるが、決して焦ることもしない。大いなる飛躍もあるであろうが、無為にうち過ごさざるを得ない時もあるであろう。然し私が曽て辿った道へ貴殿を、そして貴殿を通じて他の同胞を誘う上で少しでも足しになればと思うのである。
願わくば貴殿の方から手を差し伸べてもらいたい。私に為し得る限りのことをするつもりである。
私は心躍る思いの内にその場を去った。そしてそれ以来、私を取り巻く事情についての理解が一段と深まった。それは私が重大な事柄について一段と高い視野から眺めることが出来るようになったということであり、今でも特に理解に苦しむ複雑な事態に立ち至った折には、その高い視野から眺めるように心がけている。つまりそれは第十一界に近い視野から眺めることであり、事態はたちどころに整然と片付けられ、因果関係が一層鮮明に理解できる。
貴殿も私に倣うがよい。人生の縺(モツ)れがさほど大きく思えなくなり、基本的原理の働きを認識し、神の愛をより鮮明に自覚することであろう。そこで私に、今置かれている界について今少し叙述を続けてみようと思う。
帰りの下り道で例の川のところで右に折れ、森に沿って曲がりくねった道を辿り、右手に聳える山々も眺めつつ平野を横切った。その間ずっと瞑想を続けた。
そのうち、その位置からさらに先の領域に住む住民の一団にであった。まずその一団の様子から説明しよう。彼らのある者は歩き、ある者は馬に跨り、ある者は四輪馬車ないし二輪馬車に乗っている。馬車には天蓋はなく木製で、留め具も縁飾りも全て黄金でできており、更にその前面には乗り手の霊格と所属を示す意匠が施されている。
身にまとえる衣装は様々な色彩をしている。が、全体を支配しているのは藤色で、もう少し濃さを増せば紫となる。
総勢三百人もいたであろうか。挨拶を交わしたあと私は何用でいずこへ向かわれるかと尋ねた。
その中の一人が列から離れて語ってくれたところによれば、下の九界からかなりの数の一団がいよいよこの十界への資格を得て彼らの都市へ向かったとの連絡があり、それを迎えに赴くところであるという。
それを聞いて私はその者に、是非お供させていただいて出迎えの様子を拝見したく思うのでリーダーの方にその旨を伝えてほしいと頼んだ。するとその者はにっこりと笑顔を見せ、「どうぞ付いてきなさるが宜しい。私がそれを保証しましょう。と申すのも、あなたはそのリーダーと並んで歩いておられる」と言う。
その言葉に私はハッとして改めてその方へ目をやった。実はその方も他の者と同じく紫のチュニックに身を包んでおられたが何の飾りつけもなく、頭部の冠帯も紫ではあるが宝石が一つついているのみで、他に何の飾りも見当たらなかったのである。他の者たちが遥かに豪華に着飾り、そのリーダーよりも目立ち、威厳さえ感じられた。
その方と多くは語らなかったが、次第に私よりも霊格の高い方で私の心の中を読み取っておられることが判って来た。
その方は更にこうおっしゃった。「新参の者には私のこのままの姿をお見せしようと思います。と申すのは、彼らの中にはあまり強烈な光輝に耐えられぬ者がいると聞いております。そこで私が質素にしておれば彼らが目を眩ませることもないでしょう。あなたはつい最近、身に余る光栄は益よりも害をもたらすものであることを体験されたばかりではなかったでしょうか」
その通りであることを申し上げると、更にこう言われた。「お判りの通り私はあなたの守護霊が属しておられる界の者です。今はこの界での仕事を仰せつかり、こうして留まっているまでです。そこで、これより訪れる新参者が〝拝謁〟の真の栄光に耐えうるようになるまでは気楽さを味わってもらおうとの配慮から、このような出で立ちになったわけです。
さ、急ぎましょう。皆の者が川に到着しないうちに追いつきましょう」
一団にはわけもなく追いつき、一緒に川を渡った。泳いで渡ったのである。人間も、馬車も、ワゴンもである。そして向う側に辿り付いた。そこから私の住む都市を右手に見ながら、山あいの峠道にきた。そこの景色がこれまた一段と雄大であった。
左右に堂々たる岩がさながら大小の塔、尖塔、ドームの如く聳え立っている。遠く大地が広がっているのが見えてきた。そこにも一つの都市があり、そこに住む愉快な人々の群れが吾々のほうを見下ろし、手を振って挨拶をし、愛のしるしの花を投げてくれた。
そこを通り過ぎると左右に広がる盆地に出た。実に美しい。周りに樹木が生い茂った華麗な豪邸もあれば、木材と石材でできた小じんまりとした家屋もある。湖もあり、そこから流れる滝が、吾々がたった今麓を通って来た山々から流れてくる川へ落ちて行く。そこで盆地が終わり、自然の岩でできた二本の巨大な門柱の間を一本の道が川と並んで通っている。
その土地の人々が〝海の門〟と呼ぶこの門を通り抜けると、眼前に広々とした海が開ける。川がそのまま山服を落ちて行くさまは、あたかも色とりどりの無数のカワセミやハチドリが山腹を飛び交うのにも似て、様々な色彩と光輝を放ちつつ海へ落ちて行く。吾々も道を通って下り、岸辺に立った。
一部の者は新参者が到着を見届けるために高台に残った。こうしたことはすべて予定通りに運ばれた。
それと言うのも、リーダーはその界より一段上の霊力を身に付けておられ、それだけこの界の霊力を容易に操ることが出来るのである。そういう状態で吾々が岸辺に降り立って程なくして、高台の残った者から、沖に一団の影が見えるとの報が大声で届けられた。その時である。
川を隔てた海岸づたいに近づいて来る別の女性の一団が見えた。尋ねてみるとその土地に住む人達で、これから訪れる人々と交流することになっているとのことであった。迎えた吾々も、迎えられた女性たちも、共に喜びにあふれていた。
丸みを帯びた丘の頂上にその一団の長が立っておられる。頭部より足まですっぽりと薄い布で包み、それを通してダイヤモンドか真珠のような生命力あふれる輝きを放散している。その方もじっと沖へ目をやっておられたが、やがて両手で物を編むような仕草を始めた。
間もなくその両手の間に大きな花束が姿を現した。そこで手の動きを変えると今度はその花束が宙に浮き、一つなぎの花となって空高く伸び、さらに遠く沖へ伸びて、ついに新参の一団の頭上まで届いた。
それが今度は一点に集まって渦巻きの形を作り、グルグルと回転しながらゆっくりと一団の上に下りて行き、最後にぱっと散らばってバラ、ユリその他のさまざまな花の雨となって一団の頭上や身辺に落下した。私はその様子をずっと見ていたが、新参の一団は初め何が起きるのであろうかと言う表情で見ていたのが、最後は大喜びの表情へと変わるのが分かった。その花の意味が理解できたからである。
すなわちはるばると旅して辿り着いたその界では愛と善とが自分たちを待ち受けていることを理解したのであった。
さて彼らが乗って来た船の様子もその時点ではっきりしてきた。じつはそれはおよそ船とは呼べないもので筏のようなものに過ぎなかった。どう説明すればよかろうか。確かに筏なのであるが、何の変哲もないただの筏でもない。寝椅子もあれば柔らかいベッドも置いてあり、楽器まで置いてある。その中で一番大きいものはオルガンである。
それを今三人の者が一斉に演奏し始めた。その他にも楽しむものがいろいろと置いてある。その中で特に私の注意を引いたのは、縁の方にしつらえた祭壇であった。詳しい説明はできない。それが何の為に置いてあるのか判らないからである。
さてオルガンの演奏と共に船上の者が一斉に神を賛歌する歌を歌い始めた。すべての者が跪づく神、生命の唯一の源である神。太陽はその生命を地上へ照らし給う。天界は太陽の奥の間・・・愛と光と温もりの泉なり・・・太陽神とその配下の神々に対し、吾々は聖なる心と忠誠心を捧げたてまつる。そう唱うのである。
私の耳にはその讃美歌が妙な響きをもっているように思えた。そこで私はその答えはもしかしたら例の祭壇にあるかも知れないと思ってそこへ目をやってみた。が、手掛かりとなるものは何も見当たらなかった。私になるほどと得心が行ったのは、すっと後のことであった。
が、貴殿は今宵はもう力が尽きかけている。ここで一応打ち切り、明日またこの続きを述べるとしよう。今夜も神の祝福を。では、失礼する。昼となく夜となく、ザブディエルは貴殿と共にあると思うがよい。そのことを念頭に置けば、様々な思念や思い付きがいずこより来るか、得心がゆくことであろう。ではこれまでである。汝は疲れてきた。ザブディエル
第5節 宗派を超え
1913年12月17日 水曜日
前回に引き続き、遠き国よりはるばる海を渡って来た一団についての話題を続けよう。はるばるながい道程を辿ったのは、新しい界に定住するにあたっての魂の準備が必要だったからである。
さて、いよいよ一団は海岸へ降り立った。そして物見の塔の如くそそりたつ高い岬の下に集合した。それから一団の長が吾々のリーダーを探し求め、やがて見つかってみると顔見知りであった。以前に会ったことのある間柄であった。二人は温かい愛の祝福の言葉で挨拶し合った。
二人は暫し語り合っていたが、やがて我々のリーダーが歩み出て新しく来た兄弟たちへおよそ次のような意味の挨拶を述べられた。
「私の友であり、兄弟であり、唯一の父なる神のもとに置いては互いに子供であり、それぞれの魂の光によってその神を崇拝しておられる皆さんに、私より心から歓迎の意を表したいと思います。
この新たな国を求めて皆さんははるばるお出でになられましたが、これからこの国の美しさを見出されれば、それも無駄でなかったことを確信されることでしょう。私は一介の神の僕に過ぎず、私どもがお出迎いに上がった次第です。
これまでの永い修行の道ですでに悟られたこととは思いますが、あなた方が曽て抱いておられた信仰は、神の偉大なる愛と祝福を太陽に譬えれば、その一条の光ほどのものに過ぎませんでした。その後の教育と成長の過程の中でそのことを、あるいはそれ以上のことを理解されましたが、一つだけあなた方特有の信仰形態を残しておられる・・・あの船上の祭壇です。
ただ、今見ると、あの台座に取りつけられた独特の意匠が消えて失くなっており、また、いつも祈願の時に焚かれる香の煙が見えなかったところを見ますと、どうやら私には祭壇が象徴としての意義を殆ど、あるいは全く失ってしまったように思えます。これからもあの祭壇を携えて行かれるか、
それともそのまま船上に置いて元の国へ持って帰ってもらい、まだ理解力があなた方の及ばない他の信者に譲られるか、それはあなた方の選択にお任せします。では今すぐご相談をなさって、どうされるかをお聞かせいただきたい」
相談に対して時間はかからなかった。そしてその中の一人が代表してこう述べた。
「申し上げます。あなたのおっしゃる通りです。曽ては吾々の神を知り祈願する上で役立ちましたが、今ではもう私どもには意味を持ちません。いろいろと教えを受け、また自分自身の瞑想によって、今では神は一つであり人間は生れや民族の別なくその神の子であることを悟っております。愛着もあり、
所持しても邪魔になるものでもないとは言え、自と他を分け隔てることになる象徴を置いておくのはもはや意味のない段階に至ったと判断いたします。そこであの祭壇は送り返したいと思います。まだまだ曽ての自分の宗教を捨てきれずにいる者がおりますので。
そこで皆様のお許しをいただければ是非これよりお供させていただき、この一段と光輝溢れる世界及び、これより更に上の界における同胞関係について学ばせていただきたいものです」
「よくぞ申された。是非そうあって頂きたいものです。ほかにも選択の余地はあるのでしょうが、私も今おっしゃった方法が一番よろしいように思います。では皆さん、私についてお出でなさい。これよりあの門の向こうにある平野、そして更にその先にあるあなた方の新たなるお国へご案内しましょう」
そうおっしゃってから一団の中へ入り、一人一人の額に口づけをされた。すると一人一人の表情と衣装が光輝を増し、吾々の程度に近づいたように私の目に映った。そこへ更に別の女性ばかりの一団の長が降りてきて、吾々のリーダーと同じことをされた。女性の一団は吾々との邂逅を心から喜び、吾々もまた喜び、近づく別れを互いに惜しんだ。吾々が門の方へ歩み始めると長が途中まで同行し、
いよいよ吾々が門をくぐり抜けると、その女性の一団による讃美歌が聞こえてきた。それは吾々への挨拶でもあった。吾々は一路内陸へ向けて盆地を進んだ。
さて貴殿は例の祭壇とリーダーの話が気になることであろう。
・・・遮って申し訳ありませんが、あなたはなぜそのリーダーの名前をお出しにならないのですか。
是非にと言うのであれば英語の文字で綴れる形でお教えしよう。が、その本来のお名前の通りにはいかない。実はそれを告げることを許されていないのである。とりあえずハローレンHarolenとでも呼んでおこう。三つの音節から成っている。本当の名前がそうなのである。これで良かろうと思う。では話を進めよう。
一隊が盆地を過ぎ、川を渡り、その国の奥深く入り行くあいだ、ハローレン様はずっとその新参の一団のことに関わっておられた。その間の景色は私はまだ述べていないであろう。私がハローレン様と初めてお逢いしたのはそのずっと先だったからである。そのあたりまで来てハローレン様にゆとりが見られたので、私は近づいてその一団のこと、並びに海辺で話された信仰の話についてお尋ねした。
すると、一団は地上では古代ペルシァ人の崇拝した火と太陽の神を信仰した者たちであるとのことであった。
ここで私自身の判断によって、そのことから当然帰結される教訓を付け加えておかねばならない。人間が地上生活を終えてこちらへ来た当初は、地上にいた時とそっくりそのままであることを知らねばならない。いかなる宗教であれ、信仰厚き者はその宗教の教義に則った信仰と生活様式とをそのまま続けるのが常である。が、
霊的成長と共に〝識別〟の意識が芽生え、一界又一界と向上するうちに籾殻が人握りずつ捨て去られて行く。が、そのなかにあっても、いつまでも旧態依然として抜け切らない者もいれば、さっさと先へ進みゆく者もある。そうして、その先へ進んだ者たちが後進の指導のために戻ってくることにもなる。
こうして人間は旧い時代から新しい時代へ、暗い境涯から明るい境涯へ、低い界から高い界へと進み、一歩一歩、普遍的宇宙神の観念へと近づいて行く。同じ宗教の仲間と生活を共にしていても、すでに他の宗派の思想、信仰への寛怒の精神に目覚め、自分もまた他の宗派から快く迎えられる。かくしてそこに様々な信仰形態の者の間での絶え間ない交流が生まれ、大きく膨らんでいくことになる。
が、しかし、すべての宗派の者が完全に融合する日は遠い先のことであろう。あのペルシャ人たちも古いペルシャ信仰に由来する特殊なものの見方を留めていた。今後もなお久しく留めていることであろう。が、それでよいのである。何となれば、各人には各人特有の個性があり、それが全体の公益を増すことにもなるからである。
例の一行は海上での航海中にさらに一歩向上した。と言うよりは、すでにある段階を超えて進歩したことを自ら自覚したと言うべきであろう。私が彼らの船上での祈りの言葉とその流儀に何か妙な響きを感じ取りながらも、それが内的なものでなく形の上のものに過ぎなかったのはそのためである。
だからこそ、ハローレン様から選択を迫られたとき潔く祭壇を棄て、普遍的な神の子として広い同胞精神へ向けて歩を進めたのであった。こうして人間は、死後、地上では何ものにも変え難い重要なものと思えた枝葉末節を一つ一つかなぐり捨ててゆく。裏返して言えば、愛と同胞精神の真奥に近づいて行くのである。
どうやら貴殿は戸惑っているように見受けられる。精神と自我とがしっくりいっていないのが私に見て取れるし、肌で感じ取ることも出来る。そのようなことではいけない。よく聞いてほしい。いかなるものにせよ、真なるもの、善なるもののみが残る。そして真ならざるもの、善ならざるもののみが捨て去られて行く。貴殿が仕える主イエスは〝真理〟そのものである。
が、その真理の全てが啓示された訳ではない。それは地上で肉体に宿り数々の束縛を余儀なくされて居る者にはあり得ないことである。が、イエスも述べているように、いつの日か貴殿も真理の全てに誘われることであろう。それは地上を超えた天界に置いて一界又一界と昇って行く過程の中で成就される。
そのうちの幾つかがこうして貴殿に語り伝えられているところである。それが果たしていかなる究極を迎えるか、崇高な叡智と愛と力がどこまで広がっていくかは、この私にも分からない。
ただこの私・・・地上で貴殿と同じくキリスト神とナザレ人イエスを信じつつ忠実な僕としての生涯を送り、今貴殿には叶えられない形での敬虔な崇拝を捧げる私には、次のことだけは断言できる。すなわち、そのイエスなる存在はこの私にとっても未だ、遥か遥か彼方の遠い存在であるということである。
今もしその聖なるイエスの真実の輝きを目の辺りにしたら、私は視力を奪われてしまうことであろうが、これまでに私が見ることができたのは黄昏時の薄明かり程度のもの過ぎない。その美しさは知らないではない。現実に拝しているからである。が、私に叶えられる限りにおいて見たというに過ぎず、その全てではない。それでさえ、
その美しさ、その見事さはとても言葉には尽くせない。その主イエスに、私は心から献身と喜びを持って仕え、そして崇敬する。
故に貴殿はイエスへの忠誠心にいささかの危惧も無用である。吾々と異なる信仰を抱く者へ敬意を表したからと言って、イエスの価値をいささかも感じることにはならない。なぜなら、すべての人類はたとえキリスト教を信じないでも神の子羊であることにおいては同じだからである。イエスも人の子として生まれ、今なお人の子であり、故に吾ら全ての人間の兄弟でもあるのである。アーメン†
第6節 大天使の励まし
1913年12月18日 木曜日
吾々が通過した土地は丘陵地で、山と呼ぶほどのものは見当たらなかった。いずこを見ても丸い頂上をした丘が連なり、そこ此処に住居が見える。が、進みゆくうちにハローレン様の様子が徐々に変化し始めた。表情が明るさを増し、衣装が光輝を発し始めた。左手にある森林地帯を通過した頃にはもう、その本来の美しさを取り戻しておられた。その様子を叙述してみよう。
まず頂上に光の表象が現れている。赤と茶の宝石をちりばめた王冠のようなもので、キラキラと光輝を発し、その光輝の中に更にエメラルドの光輝が漂っている。チュニックは膝まである。腕も出ている。腰のあたりに黄金の帯を締め、それに真珠のような素材の宝石が付いている。色は緑と青である。帽子も同じく緑と青の二色からなり、露出している腕には黄金と銀の指輪がはめられている。
そうしたお姿でワゴンに立っておられる、そのワゴンは茶と金属でできた美しい二輪馬車でそれが白と栗毛の二頭の馬に引かれている。私が受けた感じでは全体に茶の色彩が強い。際立つほどではないが、ワゴンの装飾も、見えることは見えるが派手に目立たぬようにと、茶色で抑えられている感じである。
霊界では象徴性(シンボリズム)を重んじ、なにかにつけて活用される。そこで、そうした色彩の構成の様子から判断するに、ハローレン様は元来は茶色を主体とする上層界に属しておられ、この界では使命の為にその本来の茶を抑え、この界でより多く見られる他の色彩を目立たたせておられると観た。
使命達成のためにこの界に長期に滞在するには、そうせざるを得ないのである。が、その質素にしてしかも全体として実に美しいお姿を拝して、私はその底知れぬ霊力を感じ取った。その眼光には指揮命令を下す地位に相応しい威厳をそなえた清純さがあり、左右に分けたこめかみのあたりでカールした茶色の頭髪の間から覗く眉には、
求愛する乙女の如き謙虚さと優しさが漂っている。低い者には冒し難い威厳をもって威圧感を与え、それでいて心疚(ヤマ)しからぬ者には親しさを覚えさせる。喜んでお慕い申し上げ、その保護とお導きに満腔の信頼のおける方である。まさしく王者であり、王者としての力と、その力を愛の中に正しく行使する叡智を具えた方だからである。
さてわれわれは尚も歩を進めた。大して語り合うこともなく、ただ景色の美しさとあたりに漂う安らぎと安息の雰囲気を満喫するばかりであった。そしてついに新参の一団が環境に慣れるために休息しなければならないところまで来た。休息した後はさらに内陸へと進み、その性格に応じてあの仕事この仕事と、神の王国の仕事に勤しむべく、その地方のコロニーのいずれかに赴くことになる。
そこでハローレン様から〝止まれ〟のお声があった。そしてその先に見える丘の向こうに位置する未だ見ぬ都へ案内するに際し、一言述べておきたいことがあるので暫し静かにするようにと述べられた。
吾々は静寂を保った。すると前方の丘の向こうのある地点から巨大な閃光が発せられ、天空を走って吾々まで届いた。吾々は光の洪水の中に浸った。が、一人として怖がるものはいない。何となればその光には喜びが溢れていたからである。そしてその光輝に包まれたワゴンとそこに立っておられるハローレン様は、見るも燦爛たる光景であった。
ハローレン様はずっと立ったままであった。が、辺りを包む光が次第にハローレン様を焦点として凝縮していった。そしてやがてお姿がそれまでとは様相を変え、言うなれば透明となり、全身が栄光で燃え立つようであった。その様子を少しでも良い、どうすれば貴殿に伝えることが出来るであろうか。
純白の石膏でできた像に生命が宿り、燦爛たる輝きを放ちながら喜悦に浸っているお姿を想像してもらいたい。身に付けられた宝石と装飾の一つ一つが光輝を漲らせ、馬車までが炎で燃え上がっていた。
そのあたり一面が生命とエネルギーの栄光と尊厳に溢れていた。二頭の馬はその光輝に浸りきることなく、それを反射しているようであった。ハローレン様の頭部の冠帯はそれまでの幾層倍も光度を増していた。
私の目にはハローレン様が今にも天に舞い上がるのではないかと思えるほど透明になり、気高さを増されたが、相変わらずじっと立ったまま、その光の来る丘の向こうに吾々には見えない何ものかを見届けておられるような表情で、真っ直ぐにその光の方へ目を向けられ、その光の中にメッセージを読み取っておられた。
しかし、次にお見せになった所作に吾々は大いに驚ろかされた。別に目を見張るような不思議や奇跡を演じられたわけではない。逆である。静かにワゴンの上で跪かれ、両手で顔を覆い、じっと黙したままの姿勢を保たれたのである。吾々にはハローレン様がその光を恐れられる方ではなく、むしろそれを、否、それ以上のものを思うがままに操られた方であることを知っている。そこで吾々は悟った。ハローレン様はご自分より霊格と清純さにおいて勝れる方に頭を垂れておられるのである。そう悟ると、吾々もそれに倣って跪き、頭を垂れた。が、そこに偉大なる力の存在は直感しても、いかなるお方であるかは吾々には判らなかった。
そうしているうちに、やがて美しい旋律と合唱が聞こえてきた。が、その言葉も吾々には理解できない種類のものであった。尚も跪きつつ顔をだけあげてみると、ハローレン様はワゴンから降りられ吾々一団の前に立っておられた。そこへ白衣に身を包まれた男性の天使が近づいてこられた。
額の辺りに光の飾り輪が見える。それが髪を後頭部でおさえている。宝石はどこにも見当たらないが、肩の辺りから延びる数本の帯が胸の中央で交叉し、そこを紐で締めている。帯も紐も銀と赤の混じった色彩に輝いている。お顔は愛と優しさに満ちた威厳をたたえ、いかにも落ち着いた表情をされている。
ゆっくりと、あたかもどこかの宇宙の幸せと不幸の全てを一身に背負っておられるかのような、思いに耽った足取りで歩かれる。
そこに悲しみは感じ取れない。それに類似したものではあるが、私にはどう表現していいか判らない。お姿に漂う、全てを包み込むような静寂に、それほど底知れぬ深さがあったのである。
その方が近づかれたときもハローレン様はまだ跪かれたままであった。その方が何事か吾々に理解できない言葉で話しかけられた。その声は非常に低く、吾々には聞こえたというよりは感じ取ったというのが実感であった。声をかけられたハローレン様は、見上げてそのお方のお顔に目をやった。
そしてにっこりとされた。その笑顔はお姿を包む雰囲気と同じくうっとりとさせるものがあった。やがてその天使は屈み込み、両手でハローレン様を抱き寄せ、側に立たせて左手でハローレン様の右手を高々とお上げになり、吾々の方へ目を向けられ、祝福を与え、これから先に横たわる使命に鋭意邁進するようにとの激励の言葉を述べられた。
力強く述べられたのではなかった。それは旅立つ我が子を励ます母親の言葉にも似た優しいもので、それ以上のものではなかった。静かに、そしてあっさりと述べられたのである。が、その響きは吾々に自信と喜びを与えるに十分なものがあり、全ての恐怖心が取り除かれた。実は初めの内は、ハローレン様さえ跪くほどの方であることにいささか畏怖の念を抱いていたのである。
そう述べたままの姿で立っておられると、急にあたりの光が凝縮し始め、その方を包み込んだ。そしてハローレン様の手を握り締めたままそのお姿が次第に見えなくなり、やがて視界から消えて行った。光もなくなっていた。あたかもその方が吸収して持ち去ったかのように思えた。
そこでハローレン様はもう一度跪かれ、しばし頭を垂れておられた。やがて立ち上がると黙って手で〝進め〟の合図をされた。そして黙ってワゴンにお乗りになり、前進を始めた。吾々も黙ってそのあとに続き、丘を廻り、その新参の一行が住まうことになる土地に辿り着いたのであった。
第7章 天界の高地
第1節 信念と創造力
1913年12月19日 金曜日
「神はあなた方の信念に応じてお授けになる」・・・このイエスの言葉は当時と同じく今もなお生きている。絶対的保証をもってそう断念できる。まず必要なのは信念なのである。信念があれば必ず成就される。成就の方法は様々であろう。が、寸分の狂いもない因果律の結果であることに変わりはない。
さて、これは地上生活に限られたことではない。死後の向上した界層、そしてこれ以後も果てしなく向上していく界層においても同じである。
吾々が鋭意努力しているのは、実際に行為の中において確信を得ることである。確信を得れば他を援助するだけの霊力を身に付け、その霊力の行使を自ら愉しむことも出来る。イエスも述べたように、施されることは喜びであるが、施すことの方がより大きな喜びであり愉しみだからである。
が、信念を行使するにあたり、その信念なるものの本質の理解を誤ってはならない。地上においては大方の人間はそれを至って曖昧に・・・真実についての正しい認識と信頼心の中間に位置する。何やら得体のしれないものと受けとめているようである。が、何事につけ本質を探る吾々の界層においては、
信念とはそれ以上のものであると理解している。すなわち信念も科学的分析の可能な実質のあるエネルギーであり、各自の進化の程度に応じた尺度によって測られる。
その意味をより一層明確にするために、こちらでの私の体験を述べてみよう。
ある時私は命を受けて幾つかの施設を訪ね、各施設(ホーム)での生活の様子を調べ、必要な時は助言を与え、その結果を報告するようになった。さて一つ一つ訪ねて行くうちに、森の外れのこじんまりしたホームに来た。
そこには二人の保護者のもとで大勢の子供が生活をしている。お二人は地上で夫婦だった者で死後もなお手を取りあって向上の道を歩みつつある。彼らが預かっているのは死産児、つまり生まれた時すでに死亡していたか、あるいは生後間もなく死亡した子供たちである。こうした子供たちは原則として下層界にある〝子供の園〟にはいかず、彼ら特有の成長条件を考慮して、この高い界層へ連れてこられる。
これは彼らの本性に地臭がないからであるが、同時に、少しでも地上体験を得たもの、あるいは苦難を味わった子供に比べて体質が脆弱であるために、特殊な看護を必要とするからでもある。
お二人の挨拶があり、さらに二人の合図で子供たちが集まってきて、歓迎の挨拶をした。が、子供たちは一様に恥ずかしがり屋で、初めの内は容易に私の語りかけに応じてくれなかった。それと言うのも、ここの子供たちは今述べた事情のもとでそこへ連れてこられているだけに性格がデリケートであり、
私もそうした神の子羊に対して同情を禁じ得なかった。そこでアレコレと誘いをかけているうちに、ようやくその態度に気さくさがみられるようになってきた。
そのうち可愛らしい男の子が近づいてきて腰のベルトに手を触れた。その輝きが珍しかったのであろう。物珍しげに、しげしげと見入っている。そこで私は芝生に腰を下ろし、その子を膝に抱き、そのベルトから何かを取り出してみようかと言ってみた。するとはじめその意味が良く分からない様子であった。そして次に、ほんとにそんなことが出来るだろうかと言う表情を見せた。
が、私がさらに何か欲しいかと尋ねると、「もしよかったら鳩をお願いします」と言う。中々丁寧な言い方をしたので私はまずそのことを褒めてやり、更に、子供が素直に信じてお願いすれば、神様が良いことだとお許しになったことは必ず思い通りになるものであることを話して聞かせた。
そう話してからその子を前に立たせておき、私は一羽の鳩を念じた。やがて腰のベルトを留めている金属のプレートの中に鳩の姿が見え始めた。それが次第に姿を整え、ついにプレーターからはみ出るほどになった。それを私が取り出した。
それは生きた鳩で、私の手のひらでクークーと鳴きながら私の方へ目をやり、次にその子の方へ目をやり、どちらが自分の親であろうかと言わんばかりの表情を見せた。その子に手渡してやると、それを胸のところに抱いて、他の子供たちのところへ見せに走って行った。
これは実は子供たちをおびき寄せるための一計に過ぎなかった。案の定それを見て一人二人と近づいてきて、やがて私の前に一団の子供たちが集まった。そして何かお願いしたいがその勇気が出せずにいる表情で、私の顔に見入っていた。が、私はわざと黙って子供から言いだすのを待ち、ただニコニコしていた。と言うのは、私は今その子たちに信念の力を教えようとしているのであり、そのためには子供の方から要求してくることが絶対必要だったのである。
最初に勇気を出して皆の望みを述べたのは女の子であった。私の前に進み出ると、その可愛らしくくぼみのある手で私のチュニックの縁を手に取り、私の顔を見上げて少し臆しながら「あの、できたら…」と言いかけて、そこで当惑して言いそびれた。そこで私はその子を肩のところまで抱き上げ、さあ言ってごらん、と促した。
その子が望んだのは子羊であった。
私は言った。今お願いしてあるからそのうち届けられるであろう。なにしろ子羊は鳩に較べてとても大きいので手間が掛る。ところで、本当にこの子に子羊が作れると信じてくれるであろうか、と。
彼女の返事は至ってあどけなかった。こう答えたのである。「あの…皆で信じてます」私は思わず声を出して笑った。そしてみんなを呼び寄せた。すると翼の付いた鳩が作れたのだから毛の生えた子羊も作れると思う。と口々に言うのである。(もっとも子供たちは毛のことを毛と言っていたが)
それから私は腰を下ろして子供たちに話しかけた。まず、〝我らが父〟なる神を愛しているかと尋ねた。すると皆大好きです、この美しい国を拵え、それを大切にすることを教えてくださったのは父だからです。と答えた。そこで私がこう述べた。父を愛する者こそ真の父の子である。
子供たちが父の生命と力とを信じ、賢くそして善いものを要求すれば、父はその望み通りのものを得るための意念の使い方を教えてくださる。動物もみんなで作れるのであろうから私が拵えてあげる必要な無い。但しはじめてにしては子羊は大きすぎるから今回はお手伝いしてあげよう、と。
そう述べてから、子供たちに心の中で子羊のことを思い浮かべ、それが自分たちのところへやってくるように念じるように言った。ところが見たところ何にも現れそうにない。実は私は故意に力を抑えめにして置いたのである。暫く試みた後一息入れさせた。
そしてこう説明した。どうやら皆さんの力はまだ十分ではないようであるが、大きくなればこれくらいはできるようになる。ただし祈りと愛をもって一心に信念を発達させ続ければのことである、と。そしてこう続けた。
「あなたたちにもちゃんと力はあるのです。ただ、まだまだ十分ではなく、小さいものしか作れないということです。では私がこれから実際にやって見せてあげましょう。後はあなた方の先生から教わりなさい。あなたたちにはまだ生きた動物を拵える力はありませんが、生きている動物を呼び寄せる力はあります。このあたりに子羊はおりますか?」
この問いに皆んな、このあたりにはいないけど、ずっと遠くへ行けば何頭かいる。つい先ごろそこへ行ってきたばかりだという。
そこで私は言った。「おや、あなたたちの信念と力によって、もう、そのうちの一頭が呼び寄せられましたよ」
そう言って彼らの背後を指さした。振り向くと、少し離れた林の中の小道で一頭の子羊が草を食んでいるのが目に入った。その時の子供たちの驚きようは一通りでなかった。唖然として見つめるのみであった。が、そのうち年長の何人かが我に帰って、歓喜の声をあげながら一目散に子羊めがけて走って行った。子羊も子供たちを見て、あたかも遊び友達ができたのを喜ぶかのように、ピョンピョンと飛び跳ねながら、これまた走り寄ってきた。
「わぁ、生きているぞう!」先に走り寄った子供たちはそう叫んで、その後からやってくる者に早く早くと言う合図をした。そして間もなくその子羊はまるで子供たちが拵えたよう物のように、もみくしゃにされたのであった。自分たちが拵えたものだ、だから自分たちのものだ、と言う気持ちをよほど強く感じたものと察せられる。
さて、以上の話は読む者の見方次第で大して意味がないように思えるかも知れない。が、重要なのはその核心である。わたしは自信を持っていうが、こうして得られる子供たちのささやかな教訓は、これから幾星霜(イクセイソウ)を重ねた後には、どこかの宇宙の創造にまで発展するその源泉となるものである。
今宇宙を支配している大天使も小天使も、その原初はこうした形で巨大な創造への鍛錬を始めたのである。私が子供たちに見せたのが実に〝創造の〟一つの行為であった。
そして私の援助のもとに彼らが自ら行ったことはその創造的行為の端緒であり、それがやがて私がやって見せたのと同じ創造的行為へと発展し、かくして信念の増加と共に、一歩一歩、吾々と同じくより威力あるエネルギーの行使へ向けて向上進化して行くのである。
そこに信念の核心がある。人間の目に見えず、また判然と理解できなくとも、その信念こそが祈りと正しい動機に裏打ちされて、自らの成就を確実なものとするのである。貴殿も信念に生きよ。但し用心と用意周到さと大いなる崇敬の念も身に付けねばならない。
信念こそ主イエスが人間に委ねられた、そして吾々にはさらに大規模に委ねられた、大いなる信託の一つだからであり、それこそ並々ならぬイエスの愛のしるしだからである。
第2節 家族的情愛と弊害
1913年12月22日 月曜日
子供の為の施設と教育についてはこの程度にして、引き続きその見学旅行での別の話題に移るとしよう。
そのあと私は数少ない家がそれなりの小さな敷地をもって集落を作っている村に来た。そうした集落が幾つかあり、それぞれに異なった仕事を持っているが、全体としてはほぼ同程度の発達段階にある者が住んでいる。その領土の長が橋のたもとで私を迎えてくれた。
その橋のかかった川は村を一周してから、すでに話の出た例の川と合流している。挨拶が終わると橋を渡って村に入ったが、その途中に見える庭と家屋がみなこじんまりしていることに気づいた。
私はすぐその方にその印象を述べた。
・・・その方の名前を教えてください。
Bepel(べぺル)とでも綴っておくがよい。先を続けよう。ところがそのうち雰囲気に欠ける一軒が目にとまった。私はすぐにその印象を述べその理由(わけ)を訪ねた。と申すのも、この界層においてなお進歩を妨げられるにはいかなる原因(わけ)があるのか判らなかったからである。
べぺル様は笑顔でこう話された。「この家には実は兄と妹が住まっておられる。二人はかなり前に八界と九界から時を同じくしてこの界へ来られたのですが、それ以来、何かと言うと四界へ戻っている。そこに愛する人達、特に両親がおられ、何かと向上させようという考えからそうしているのですが、
最近どうも情愛ばかりが先行して、やってあげたいことが環境のせいもあって思うに任せなくなってきています。両親の進歩が余りに遅く、あの調子ではこの界へ来るのは遠い先のことになりそうです。そこで二人は近頃はいっそのこと両親のいる界へ降り、一緒に暮らすことを許す権限を持つ人の到来を待ち望んでいるほどです。常時側に居てあげる方が両親の進歩の為に何でもしてあげられると考えているようです」
「お二人に会ってみましょう」・・・私はそう言って二人で庭に入って行った。
こうしたケースがどのような扱いを受けるか、貴殿も興味のあるところであろうともかくその後のことを述べて、みよう。
兄は家のすぐ側の雑木林の中にいた。私が声をかけ、妹さんはと尋ねると、家の中にいると言う。そこで中へ入らせてもらったが、彼女はしきりに精神統一をしている最中であった。第四界の両親との交信を試みていたのである。と申すよりは、正確に言えば援助の念を送っていたと言うべきであろう。なぜなら、〝交信〟は互いの働き掛けを意味するもので、両親には思念を〝返す〟ことはできなかったからである。
それから私は二人と話を交わし、結論としてこう述べた。「様子を拝見していると、あなた方がこの界で進化するために使用すべき力がその下層界の人達によって引き止められているようです。つまり進歩の遅い両親の愛情によってあなた方の進歩が遅らされている。もしもあなた方がその四界へ戻られ、
そこに定住すれば、少しは力になってあげられても、あなた方が思うほど自由にはならない。なぜかと言えば、いつでもあなた方が身近にいてくれるとなれば尚のこと、今の界を超えて向上しようなどと思う訳がないからです。ですから、そういう形で降りて行かれるのは感心しません。
しかし愛は何より偉大な力です。その愛がお二人とご両親の双方にある以上、これまで妨げになって来た障害を散り除けば大変な威力を発揮することでしょう。そこで私から助言したのは、あなた方は断じてこの界を去ってはならない。それよりも、これから私と領主のところへ行って、現在のあなた方の進歩を確保しつつ、しかもご両親の進歩の妨げにならない方法を考えて頂くことです」
二人は私について領主のところまで行った。まず私が面会してご相談申し上げたところ、有難いことに大体において私の考えに賛同してくださった。そして二人をお呼びになり、二人の愛情は大変結構なことであるから、これからは時折この界より派遣される使節団に加わらせてあげよう。
その時は(派遣される界の環境条件に身体を合わせて)伝達すべき要件を伝える。その際は特別に両親にもお二人の姿が見え声が聞こえるように配慮して頂こう。こうすれば両親も二人の我が子がいる高い界へ向上したいという気持ちを抱いてくれることにもなろう。ということであった。
これに加えて領主は、これには大変な忍耐力がいることも諭された。何故ならば、こうしたことは決して無理な進め方をすべきではなく自然な発達によって進めるべきだからである。二人はこうした配慮を喜びと感謝を込めて同意した。そこで領主はイエスの名において二人を祝福し、二人は満足して帰っていった。
このことから察しが付くと思うが、上層界においても、地上界に近い界層特有の事情を反映する問題が生じることがあるのである。また、向上の意欲に欠ける地上の人間がむやみに他界した縁故者との交信を求めるために、その愛の絆が足枷となりいつまでも地上的界層から向上できずにいる者も少なくないのである。
これとは逆に、同じく地上にありながら、旺盛な向上心をもって謙虚に、しかし聖なる憧れを抱いて背後霊と共に向上の道を歩み、いささかも足手まといとならぬどころか、かけがいのない援助(チカラ)となる者もいる。
これまでに学んだことに加えて、この事実を篤と銘記するがよい。すなわち地上の人間が他界した霊の向上を促進することもあれば足手まといとなることもあり得る、否、それが必然的宿命ともいうべきものであるということである。
この事実に照らして、イエスがヨハネの手を通して綴らせた七つの教会の天使のこと(黙示録)を考えてみよ。彼ら七人の天使はそれぞれが受け持つ教会の特性により、あるいは罪悪性により、自らが責任を問われた。イエスが正確にその評価を下し、各天使に賞罰を与えたのである。
それは人の子イエスが人類全体を同じ人の子として同一視し、その救済をご自分の責任として一身に引き受けられているように、各教会の守護天使はその監督を委ねられた地域の徳も罪も全て我が徳、わが罪として一身に責任を負うのである。共に喜びともに苦しむ。我がことのように喜び、我がことのように悲しむのである。イエスの次の言葉を思い出すがよい。
曰く、「地上に罪を悔い改める者が居る時、天界には神の御前の手喜びに浸る天使がいる」と。私は一度ならず二度も三度も、否、しばしばその現実の姿を見ているのである。
そこで、それに私からこう付け加えておこう。・・・明るき天使も常にお笑いになっているのではない。高らかにお笑いになるし、よくお笑いになる。が、天使もまた涙を流されることがある。下界にて悪との戦いに傷つき、あるいは罪に陥る者を見て涙を流し苦しまれることがある、と。
こうしたことを不審に思う者も多いことであろう。が、構わぬ。書き留めるがよい。吾々がもし悲しむものが無いとすれば、一体何をもって喜びとすべきであろうか。†
第3節 霊界の情報処理センター
1913年12月23日 火曜日
神に仕える仕事において人間と天使とが協力し合っている事実は聖書に明確に記されているにも関わらず、人間はその真実性が容易に信じられない。その原因は人間が地上的なものに心を奪われ、その由って来たる起源に心を向けようとしないからである。物質に直接作用している物理的エネルギーのことを言っているのではない。
ベールの彼方においてあたかも陶芸家が粘土を用いて陶器を拵えるように、そのエネルギーを操って造化に携わっている存在のことである。それについては貴殿もすでにある程度の知識を授かっているが、今夜はベールのこちら側から見たその実際を伝えてみようと思う。
こちらのどの界においても、すべての者が一様に足並みそろえて向上するとは限らない。ある者は早く、ある者は遅い。前回の兄弟などはこの十界においては最も遅い部類に入る。ではこれより、それとは対照的に格別の進化を遂げた例を紹介しよう。
その兄と妹の住む村を離れてさらに旅を続ける途中で、私は他の居住地を数多く訪ねて回った。その一つに次の第十一界が始まる区域へ連なる山の中に位置しているのがあった。私が守護霊と対面した場所とは異なる。高さは同じであるが、距離的にはかなり離れた位置にある。
連山の中に開けた大地へ曲がりくねった小道を行ったのであるが、昇り始めた頃から緑色の草の鮮やかさと花々の大きさと豊富さとが目についた。
紫色の花は影に包まれた森の中を通るビロードのような道の周りには小鳥のさえずりも聞こえる。また多くの妖精たちが明るい笑顔で、あるいは戯れあるいは仕事に勤しんでおり、私の挨拶に気持ちよく応えてくれた。
そのうち景色が変わり始めた。樹木が彫刻のようなどっしりとした姿になり、数も少なく葉の茂りも薄くなっていった。花と緑の木陰に包まれた空地に代わって今度は円柱とアーチで飾られた堂々たる聖堂が姿を現した。光と影の織りなす美は相変わらず素晴らしかったが、その雰囲気がただの木陰とは異なり聖域のそれであった。通る道の両側の大部分は並木である。
その並木にも下層界のそれとは異なり、瞑想の雰囲気と遥かに強力な霊力が感じられる。
そして又、登りがけに見かけた妖精とは威厳と清純さにおいて勝る妖精たちの姿をみかけた。更に頂上へ近づくと景色が一段と畏敬の念を誘うものへと変わっていった。それまでの田園風の景色が消え、白と黄金と赤の光に輝く頂上が見えてきた。それは上層界から降下して来た神霊がその台地でそれぞれの使命に勤しんでいることを物語っていた。
かくて目的地に辿りついた。そこの様子を可能な限り叙述してみよう。目の前に平坦な土地が開けている。一D3四方もあろうかと思われる広大な土地で、一面に大理石(アラバスター)が敷かれ、それが炎の色に輝いている。その様子はあたかも炎の土地にガラスの床が敷かれ、その上で炎の輝きが遊び戯れ、
更にガラスを通して何百ヤードも上空を炎の色に染めている感じである。無論炎そのものが存在しているのではない。私の目にそのように映じるのである。
その中に高く聳える一個の楼閣がある。側面が十個あり、その各々が他と異なる色彩と構造をしている。数多くの階があり、その光輝を発する先端は周囲の山頂・・・遠いものもあれば近いものもある・・・の上空へ届けられる光をとらえることが出来る。
それほど高く、まさに天界の山脈に譬える望楼の如き存在である。その建物が平坦地の八割ほどを占め、各々の側面に玄関(ポーチ)がある。と言うことは十個の入り口が付いているということである。まさに第十界の中で最も高い地域の物見の塔である。が、ただ遠くを望むためのものではない。
実は十個の側面はその界に至るまでの十個の界と連絡し、係の者が各界の領主と絶え間なく交信を交えているのである。膨大な量の要件が各領主との間で絶え間なく往き来している。
資料の全てがその建物に集められ統一的に整理される。強いて地上の名称を求めれば〝情報処理センター〟とでも呼べばよかろう。地上圏と接する第一界に始まり、第二界、第三界と広がり、ついには第十界に至る途方もなく広大な領域内の事情が細大漏らさず集められるのである。
当然のことながらその仕事に携わる霊は極めて高い霊格と叡智を備える必要があり、事実その通りであった。この界の一般の住民とは違っていた。常に愛と親切心に溢れる洗練された身のこなしをもって接し、同胞を援助し、喜ばせることだけを望んでいる。が、
その態度には堂々とした絶対的な冷静さが窺われ、接触している界から届けられるいかなる情報に対しても、いささかの動揺も見せない。全ての報告、情報、問題解決の要請、あるいは援助の要請も完璧な冷静さをもって受け止める。普段とは桁外れの大問題が生じても全く動じることなく、それに対処するだけの力と誤ることの無い叡智に自信を持ってその処理に当たる。
私は第六界と接触している側面の玄関内に腰かけ、その界の過去の出来事、その出来事の処理の記録を調べていた。すると肩越しに静かな声で「ザブディエル殿、もしその記録書で満足できなければどうぞ中へお入りになって吾々のすることをご覧になられたら如何ですか」と言う囁きが聞こえた。振り向くと、物静かな美しいお顔をされた方が見つめておられた。私は頷いてその案内に応えた。
中へ入ると室内は三角形をしており、天井が高い。それが次の界の床(フロア)である。壁のところまで行ってみると床と壁とは直角になっている。案内の方が私にそこで立ったまま耳を傾けているようにと言う。すると間もなく色々な声が聞こえてきたが、その言葉が逐一聞き分けられるほどであった。
説明によると、今の声は五つ上の階の部屋で処理され得たものが次々と階下へ向けて伝達され、吾々のいる部屋を通過して地下まで届けられたものであるという。その地下にも幾つもの部屋がある。私がその原因を聞くとこう説明された。その建物の屋上に全情報を受信する係の者がいて、
彼らがまず自分たちに必要なものだけを取り出して残りをすぐ下の階へ送る。その過程が次々と下の階へ向けて届けられ、私のいる地上の第一階に至る。そこで同じ処理をして最後に地下へ送られる。各階には夥しい数の従業員が休みなく、しかも慌てることなく、手際よく作業に当たっている。
さて貴殿はこれをさぞかし奇妙に思うことであろう。が実際はもっともっと不思議なものであった。例えば私が言葉を聞いたと言う時、それは事実の半分しか述べていない。実際はその言葉が目に見えるように聞こえたのである。地上の言語でどう説明したものであろうか。こうでも述べておこう。
例の壁(各種の貴金属と宝石をあしらっており、その一つ一つが地上で言う電気に相当するものによって活性化されている)を見つめていると、どこか遠くで発せられた言葉が目に見えるように私の脳に感応し、それを重要と感じた時は聴覚を通じて聞こえて来る。
この要領でその言葉を発した者の声の音質を内的意識で感得し、更にその人の表情、姿、態度、霊格の程度、携わる仕事、その他、伝えられたメッセージの意味を正確に理解する上で助けとなるこまごましたものを感識する。
霊界におけるこうした情報の伝達と受信の正確度は極めて高く、特にこの建物においては私の知る限り最高に完璧である。そこで私が見たものや聞いたことを言語で伝えるのはとても無理である。なぜなら、全ての情報は地上からこの十界に至るまでの途中の全階層の環境条件の中を通過して到達しており、従って一段と複雑さを増しており、とても私には解析できないのである。そこで案内の方が次の如く簡単に説明してくださった。
例えば、あるとき第三界で進行中の建造の仕事を完成させるために第六界から援助の一行が派遣された。と言うのは、その設計を担当したのが霊格の高い人達であったために、建造すべき装置にその界の要素ではうまく作れないものが含まれていたのである。
これを分かり易く説明すれば、例えばもし地上の人間が霊界のエーテル質を物質へ転換する装置を建造するとなったら、一体どうするかを考えてみるとよい。地上にはエーテル質を保管するほど精妙な物質は見当たらないであろう。エーテル質はいわゆる物質と呼ぶ要素の中に含有されているいかなるエネルギーにも勝る強力かつ驚異的エネルギーだからである。
第三界においても幾分これと似通った問題が生じ、如何にすればその装置の機能を最大限に発揮させるかについての助言を必要としたのであった。これなどは比較的解決の容易な部類に入る。
さて、これ以上のことは次の機会に述べるとしよう。貴殿はエネルギーを使い果たしたようである。私の思う通りを表現する用語が見当たらぬようになってきた。貴殿の生活と仕事に祝福を。確信と勇気をもって邁進されよ。†
第4節 宇宙の深奥を覗く
1913年クリスマス・イブ
以上私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿に取りましてはさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆ど理解できぬ性質のものだからである。無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えた後別の話題へ進もうと思う。
あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこではまた引きも切らぬ作業の連続で、夥しい数の人が作業に当たっていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。
様々な色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮き彫り細工が施されている。全てが科学的用途を持ち、常に監視され、操作の一つ一つが綿密に記録され検討を加えられたうえで初期の目標へ送り届けられる。
案内の方が屋上へも案内してくださった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が昇って来た森が見える。その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くキラキラと輝いて見える。その峰の幾つかは辺りに第十一界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第十界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。
そうした霊は第十一界から渡来し、第十界の為の愛の仕事に携わって居ることが判った。それを思うとわが身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが百万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。
こうして言うに言われぬ美を暫し満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。
「あれに見えるのが〝天界の高地〟です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。あなたは今あなたの現時点で到達し得る限りの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹しえない境涯を発見されたはずです。
しかし私たちは聖なる信託として、そしてまた、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことができます。如何ですか。あなたもしばしその間その力の恩恵に浴し,これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか」
私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞きしたものですら私にとってやっと耐え得るほどの驚異だったからである。しかし、暫く考えた挙句に私は、全てが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、〝すべてお任せいたします〟と申しあげた。その方も〝そうなさるがよい〟と仰せられた。
そう言うなり、その方は私を置き去りにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そして暫し(私の推察では)祈りを捧げられた。
やがて出てこられた時はすっかり変身しておられた。衣装はなく、肩のあたりに宝石をちりばめた輪を着けておられるほかは何一つ身に付けておられない。あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈して来た。私はその眩しさに思わず下を向き、光線を遮ったほどであった。
その方がすぐ近くまで来るようにと仰せられた。言われるままに前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射し始めた。
その光はまず私の身体を包み、更に左右が平行に延びて、それが遠方の峰からでている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。
その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を超えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことはできなかった。そこで背後から声がして〝空間をよく見ているように〟と言われた。見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開し始めた。
その二本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、その周りに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動き回っている。更に神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。その十字架の横棒の両端に一人ずつ童子が立っており、
一人はバラ色の衣装をまとい、もう一人は緑と茶の衣装をまとっている。その二人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終わると二人とも胸に手を当て、頭を垂れて祈った。
次に右方向を見るように促されて目をやると、今度は別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に〝玉座”が見えたのである。光と炎が混じりあった赫々たる光輝の中に女性の天使が坐し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が、
頭上にはスミレ色に輝く者が浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れさがり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。
その周りと玉座のたもとにも無数の男女の列の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私より明るいが、優雅な落ち着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。
お顔に目をやってみた。それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心使い漂い、その目は高き叡智と偉力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両足にも力強さが漂っていたが、そこには母性的優しさが程よく混じっていた。
その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。
それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に乗って虚空へ飛翔する一団もいる。流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧の如きもので身を固めた者もいる。男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、
男女が入り混じった一団もある。それら各霊団が一斉に天空を翔けてゆく時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。
こうして私の前に扇方に伸びる光が地平線を一周して照らし出してゆくと、何れの方角にも必ず私にとって新しい光景が展開された。その一つ一つが性格を異にしていたが、美しさは何れ劣らぬ見事なものであった。こうして私は、曽てみてきた神の仕事に携わるいかなる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せて頂いた。そのうち、その光が変化するのを見て背後にいた案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみこんでしまった。吾々が下層界の為に働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要の為に心を砕いて下さっている様子を目のあたりにしたのであった。
かくして私が悟ったことは、下界の全階層は上層界に包含され、一界一界は決して截然と区別されておらずどれ一つとして遠く隔離されていないということである。私の十界には下層界の全てが包含され、同時にその第十界も下層界と共に上層界に包含されているということである。
この事実は吾々の界まで瞭然と理解できる。が、更に一界一界進むにつれて複雑さと驚異を増していき、その中には、僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心が行き秘密を明かして頂ける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいと思う。
さあ、吾らが神の驚異と美と叡智、私がこれまで知り得たものをもって神の摂理の一欠けらに過ぎぬというのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。
天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難の業である。が、それでよいのである。秘法はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。
万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世期にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身に染みて得心したのである。
佳きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。†
第5節 霊格と才能の調和
1913年12月27日 土曜日
さてこうして私の界を遥かに超えた上層界の驚異を目の当たりにすることを許されたことは、実にあり難き幸せであった。私はその後いろいろと思いをめぐらせた。そして私にその体験をさせた意図と動機をある程度まで理解することができた。が、目の当たりにした現象の中にはどうしても私一人の力では理解できないものが数多くあった。その一つが次のような現象である。
二つの壁によって仕切られた扇形の視界の中に展開したのは深紅の火焔の大渦であった。限りなく深い底から巨大な深紅の炎が次から次へと噴出し、その大きなうねりが互いに激突し合い、重なり合い、左右に揺れ動き、光の壁に激突して炎のしぶきを上げる。世紀末的大惨事はかくもあろうかと思われるような、光と炎の大変動である。その深紅の大渦のあまりの大きさに私の魂は恐怖におののいた。
「どうか目を逸らせてください。お願いです。もう少し穏やかなものにしてください。私にはあまりにも恐ろしくて、これ以上耐え切れません」
私がそうお願いすると、背後からこういう返答が聞こえた。
「今しばらく我慢するがよい。そのうち恐ろしさが消えます。あなたが今見ておられるのはこの先の上層界です。その最初が第十一界となります。この光が第何界のものであるかは、後で記録を調べてみないことには、私にも分かりかねます。その記録はこの施設にはなく、もう一つ、ここから遠く離れたところにある別の施設にあります。今あなたが恐怖をもって眺めておられるこの光は第十三界かも知れないし第十五界かも知れない。それは私にも判りません。ただ一つだけ確かなことは、主イエス・キリストが在しますのは実にあの光の中であり、あなたの目に映じている深紅の光彩は主と、主に召された者との交わりの栄光の反映であるということです。しっかりと見つめられよ。これほど見事に見られることは滅多にありません。では私がその更に奥の深いところを見させてあげましょう」
そう言い終わるなり、背後からエネルギーが強化されるのが感じられ、私もその厚意に応えるべく必死に努力をした。が、空しい努力に終わった。やはり私の力の及ぶところではないことを悟った。
すでに叙述したもの以外に見えたものと言えば、その深紅の光の奥に何やら美しい影が動めくのが見えただけだった。炎の人影である。ただそれだけであった。私は目を逸らせてほしいと再度お願いした。もう哀願に近いものとなっていた。そこでようやく聞き入れて下さった。
(光が変化したと述べたのはその時である)。それ以後、何も見えなくなった。見たいと言う気持ちも起きなかった。あたりはそれまでとは対照的に、くすんだ静けさに一変している。
それを見て私はひそかに、あの世界へ行かれぬ自分、さぞかし美と生の喜びに満ち溢れていることであろう世界に生きる神霊の仲間入りができない自分を情けなく思ったことであった。それから次第に普段の意識を回復した。そして案内の方が至聖所から普段のお姿で出てこられた時には、私のような者にこれほどの光栄を賜ったことに厚くお礼を述べられるほどになっていた。
さて、その高い楼閣での仕事について述べられるものとして、他に一体なにがあるであろうか。と言うのは、貴殿もよく心得てほしいことであるが、吾々の仕事と出来事で人間に理解できることは極めて僅かしないのである。それ故貴殿に明かすものについては私は細心の注意を払わねばならない。
つまり貴殿の精神の中において何とか再現し、地上の言語で表現できる者に限らねばならないのである。
その驚異的現象が終わった後も二人は暫し屋上に留まり、下方の景色へ目をやった。遥か遠く第九界の方角に大きな湖が見える。樹木の生い茂った土地に囲まれそこここに島々が点在し、木陰に佇む家もあれば高く聳え立つ楼閣もある。岸に沿った森の中のそこここに小塔が聳えている。
私は案内の方にそこがいかなる居住地(コロニー)であるかを尋ねた。その配置の様子が見事で、如何にも一つのコロニーに見えたからである。
するとこういう返答であった。実はかなり昔のことであるが、この界へ到来する者の処遇にちょっとした問題が生じたことがあった。それは皆が皆、必ずしもすべての分野で平均的に進化しているとは限らない。
・・・例えば宇宙の科学においては無知な部門もある。・・・いや、どうもこういう説明のすっきりしない。もう少し分かり易く説明しよう。
魂に宿された才能を全てまんべんなく発達させている者もいれば、そうでない者もいる。もとよりいずれ劣らぬ高級霊である点に置いては異存はない。だからこそこの第十界まで上昇してきたのである。が中には、もし持てる才能をまんべんなく発達させておれば、もっと速やかにこの界へ到達していたであろう者がいるということである。
更に、そうした事情のもとでようやく到達したこの界には、それまでの才能では用をなさない環境が待ち受けている。それ故、何れは是が非でも才能をまんべんなく発達させ、より円満にする必要性が生じて来るのである。
先のコロニーの設立の必要性を生ぜしめた問題はそこにあった。あそこにおいて他人への援助と同時に自己の修養に励むのである。貴殿にはなぜそれが問題であるのか不審に思えるかも知れないが、そう思うのは、この界を支配する諸条件が地上とは比較にならぬほど複雑さを持った完全性を具えているからにほかならない。
あのコロニーの住民の霊格はある面ではこの十界の程度でありながら、他の面ではすでに十一界あるいは十二界の程度まで進化していることもある。そこで次のような厄介な問題が生じる。すなわち霊力と霊格においてはすでに今の界では大きすぎるものを具えていながら、さりとて次の界にはいかれない。
無理していけば発達の遅れた面が災いして大失策を演じ、それが原因で何界も下層へ後戻りせざるを得なくなるかもしれない。そこはそこで又、居づらいことであろう。
以上の説明で理解してもらえるであろうか。例えば魚が自ら出されて陸(おか)に置かれたら大変である。反対に哺乳動物が森から水中へ入れられたら、これまた死ぬに決まっている。両生類は水と陸の両方があって初めて生きていける。陸地だけでは生理に異常を来すし、水の中だけでもやはり異常を来す。
無論あのコロニーの生活者がこれと全く同じ状態であると言う訳ではない。が、こうした譬えによって彼らのおかれた特殊な境遇について大よその理解が行くであろう。彼らにとって第十界にいることは、あたかも籠に入れられた小鳥同然であり、さりとて上層界へ行くことは炎の中へ飛び込む蛾も同然なのである。
・・・結局どういう扱いを受けるのでしょうか。
自分で自らを律していくのである。私の信じるところによれば、彼らは今まさにその問題点に関する最高の解決策を見出しつつあるところであろう。首尾よく解決した暁には、彼らはこの十界に対しても貢献したことになり、その功績はこの後の為に大切に記録されることであろう。こうしたことが各種の分野において行われており、思うに、彼らは今でも自分の得意とする能力に応じて組み分けされ、一種の相互補完のシステムによって働くことが可能となっているであろう。
つまり各クラスの者が自分たちの所有している徳と霊力とを、それを欠く他のクラスの者に育ませるように努力するということである。全クラスが其々に沿う努力し、そこに極めて複雑な協調的教育が生まれる。
極めて入り組んだ教育組織となっているため、高地に住む者でさえ分析不可能なほどである。いずれそこから何ものかが生み出され、機が熟せば、この界の霊力と影響力とを増すことであろう。それも多分、極めて大規模な形で寄与することになるものと私には思えるのである。
かくして相互的な寄与が行われる。進化の真の喜びは自らの向上の道において同胞を向上の道に誘うことの中にこそ味わえるものである。そうではなかろうか。
第8章 祝福される者よ、来たれ!
第1節 光り輝く液晶の大門
1913年12月29日 月曜日
例の高地での体験についてはこれ以上述べない。地上近くで生活する人間や景色について地上の言語で述べるのは容易であるが、上層界へ行くほど何かと困難が生じて来る。私の界は天界においても比較的高い位置にある。そして今述べたことはこの界の更に高地での話題である。
それ故、前に述べたように、この界の景観も栄華も極めて簡略に、従って不十分な形でしか述べることしかできない。そこでこれからさしあたり今の貴殿にとって重要であり参考となる話題を取り上げてみようと思う。
これは私が十界の領主の特命を受けて第五界へ旅立つことになった時の話である。その説明をしよう。
私はその界の首都を訪ね、領主と面会し、そこで私の訪問の要件を聞かされることになっていた。領主はすでに私の界の領主からの連絡が届いていたのである。また、私一人で行くのではなく、他の三人のお供をつけて下さった。
五界へ到着してその首都を見つけるのは至って簡単であった。曽てその界の住民であった頃によく見聞きしていたからである。それにしても、その後の久しい時の経過と、その間に数々の体験を経た今の私の目に、その首都は何と変わって映じたことであろう。考えてもみよ。五界を後にして六界へ進み、さらに向上を続けてついにこの十界に至って以来、こうして再び五界へ戻るのはその時が初めてだったのである。
その途中の界層の一つ一つに活気あふれる生活があり、そこでの数々の体験が私を変え発達を促してきた。そして今、久方ぶりにこの界へ戻ってきたのである。この界での生活は他の界ほど長くはなかったとはいえ、今の私の目には一見して全てがもの珍しく映る。が、同時に何もかもが馴染みのあるものばかりである。
物珍しく映るのは、私が第四界よりこの界へ向上して来た頭初、あまりの栄華に圧倒され目を眩まされた程であったが、今では逆にその薄暗さ、光輝の不足に適応するのに苦労するほどだからである。
四人は途中の界を一つ通過する毎に身体を適応させて下りてきた。六界までそれを素早く行ったが、五界の境界内に入った時からは、そこの高地から低地へゆっくりとした歩調で進みつつ、その環境に徐々に慣らしていった。と申すのも、多分この界での滞在はかなりの長期に及ぶものと見て、それなりの耐久性を身に付けて仕事に当たるべきであると判断したからである。
山岳地帯から平地へ降りて行くのも、体験としては興味あるものであった。行くほどに暗さが増し、吾々は絶えず目と身体とを調整し続けねばならなかった。その時の感じは妙なものであったが不愉快なものではなかった。そして少なくもと私にとっては全く初めての体験であった。
お蔭で私は、明るい世界から一界又一界と明るさが薄れて行く世界へ降りて行く時の、霊的身体の順応性の素晴らしさを細かく体験することとなった。
貴殿にもしその体験が少しでも理解できるならば、ぜひ想像の翼を広げて、こうして貴殿と語り合うために、そうした光明薄き途中の界層を通過して地上へ降りてくることがいかに大変なことであるかを理解してほしいものである。それに理解が行けば、人間との接触を得るために吾々がさんざん苦労し、その挙句に全てが無駄に終わることが少なくないと聞かされても、あながち不思議がることもあるまい。貴殿がもしベールのこちら側より観察することが出来れば、そのことを特別不思議とは思わないであろうが・・・吾らにとってはその逆、つまり人間が不思議に思うことこそ不思議なのである。
では都市について述べよう。
位置は領主の支配する地域の中心部に近い平野にあった。大ていの都市に見られる城壁は見当たらない。が、それに代って一連の望楼が立ち並んでいる。更に平野と都市の内部にもうまく配置を考えて点在している。領主の宮殿は都市の縁近くに正方形に建てられており、その城門は特に雄大であった。
さて、これより述べることは吾々上層界の四人の目に映った様子ではなく、この界すなわち第五界の住民の目に映じる様子と思って頂きたい。
その雄大な門は液体の石で出来ている。文字どうりに受け取っていただきたい。石そのものが固くなくて流動体なのである。色彩も刻一刻と変化している。宮殿内での行事によっても変化し、前方に広がる平野での出来事によっても変化し、更にその平野の望楼との関連によっても変化する。
その堂々たる門構えの見事な美しさ。背景の聖殿と見事に調和し、色彩の変化と共に美しさも千変万化する。
その中で一箇所だけが変わらぬ色彩に輝いている。それが要石で、中央や上部に位置し、愛を象徴する赤色に輝いていた。その門を通って中へ入るとすぐに数々の広い部屋があり、各部屋に記録係がいて、その門へ寄せられるメッセージや作用を読み取り、それを判別して然るべき方面へ届ける仕事をしている。吾々の到着についてもすでに連絡が入っており、二人の若者が吾々を領主のもとへ案内すべく待機していた。
広い通路を通って奥へ進むと、行き交う人々がみな楽しげな表情をしている。このあたりでは常にそうなのである。それを殊更書くのは、貴殿が時折、否、しばしば心の中では楽しく思ってもそれを顔に出さないことがあるからである。吾らにとっては、晴れの日は天気が良いと言うのと同じほど当たり前のことなのであるが・・・
それから宮殿の敷地内の本館へ来た。そこが領主の居場所である。
踏み段を上がり玄関(ポーチ)を通ってドアを開けると、そこが中央広場になっている。そこも正方形をしており、大門と同じ液状石の高い柱でできている。それらが又大門と同じように刻一刻と色調を変え、一時として同じ色を留めていない。全部で二十二本あり、その一本一本が異なった色調をしている。
全てが同じ色を見せることは滅多にない。それがホール全体に快い雰囲気を与えている。それが天上の大きな水晶のドームの美しさと融合するように設計されており、それが又一団と美しい景観を呈するのであった。これは貴殿の創造に俟つよりほかはない。私の表現力の限界を超えているからである。
吾々はそのホールで待つように言われ、壁近くに置かれている長椅子に腰を下ろして色彩の変化妙味を楽しんでいた。見ているうちにその影響が吾々にもおよび、この上ない安らぎと気安さを覚え、この古く且つ新しい環境についてすっかり寛いだ気分になった。
やがてそのホールに至る廊下の一つに光が閃くのを見た。領主が来られたのである。吾々の前まで来られるとお辞儀をされ、私の手を取って丁寧な挨拶をされた。彼は本来は第七界に所属するお方であり、この都市の支配の為にこの界の環境条件に合わせておられるのであった。
至ってお優しい方である。吾々の旅の労をねぎらったあと、謁見の間へ案内してくださり、ご自分の椅子に私を座らせ、三人の供のものがその周りに、さらにご自分はその近くに席を取られた。
すぐに合図があって、女性ばかりの一団が白と青の可憐な衣装で部屋へ入ってきて丁寧な挨拶をし、吾々の前に侍(ハベ)った。それから領主が私と三人の供に今回の招待の主旨を説明された。女性たちは吾々上層界の者の訪問ということで、ふだん身につけている宝石を外していた。が、その質素な飾りつけの中に実に可憐な雰囲気を漂わせ、その物腰は数界の隔たりのある吾々を前にした態度の相応しい、しとやかさに溢れていた。
私はそれに感動を覚え、領主に話を進める前に許しを乞い、彼女たちのところへ降りて行って、一人一人の頭に手を置き祝福の言葉を述べた。その言葉に、そうでなくてもおずおずしていた彼女たちは一瞬戸惑いを見せたが、やがて我々を見上げてにっこりとほほ笑み、寛ぎの表情を見せた。
さて、その後の会見の様子は次の機会としよう。この度はこの界層の環境と慣習を理解してもらう上で是非告げておかねばならないことで手一杯であった。この度はこれにて終わりとする。私はその女性たちにやさしい言葉を掛け手を触れて祝福した。そして彼女たちも喜び溢れた笑顔で私を祝福してくれた。
吾々はこうして互いに祝福し合った。こちらではそれが習慣なのである。人間もかくあるべきである。これは何よりも望ましいことである。
そこで私も祝福をもって貴殿のもとを去ることとする。礼の言葉は無用である。何となれば祝福は吾々を通して父なる神から与えられるものであり、吾々を通過する時にその恩恵の幾許かを吾々も頂戴するからである。そのこともよく銘記するがよい。他人を祝福することは、その意味で、自分自身を祝福することになることが分かるであろう。†
第2節 女性ばかりの霊団
1913年12月30日 火曜日
前回の続きである。
女性の一団は私の前に立っていた。そこで私がこの度の訪問の目的を述べようとしたが、私自身にはそれが分からない。そこで領主の方へ目をやると、こう説明してくださった。
「この女性たちは揃ってこの界へ連れてこられた一団です。これまでの三つの界を一団となって向上してきた者たちです。一人として他の者を置き去りにする者はおりませんでした。進歩の速すぎる者がいると、遅れがちな者の手を取ってやるなどして歩調を合わせ、やっとこの界で全員が揃ったところです。そして今この界で修養を終えて、さらに向上していく資格もできた頃と思われるのですが、その点についてはザブディエル様の判断をお聞かせいただきたい。彼女たちはその判断のために知恵をお借りしたいのです。と申しますのも、十分な資格なしに上の界へ行くと却って進歩を阻害されることが、彼女たちもこれまでの体験で判ってきたのです。」
この詳しい説明を聞いて私自身も試されて居ることを知った。私の界の領主がそれを故意に明かさないで置いたのは、こうして何の備えもなしに問題に直面させて、私の機転を試そうという意図があったのである。
これはむしろ有難いことであった。なぜならば、直面する問題が大きいほど喜びもまた大きいというのがこちらの世界の常であり、領主も、私にその気になれば成就する力があることを見抜いた上での配慮であることを知っておられるからである。
そこで私は速やかに思慮をめぐらし、すぐさま次のような案を考え付いた。女性の数は十五人である。そこでこれを三で割って五人ずつのグループに分け、すぐさま都市へ出て行って各グループ一人ずつ童子を連れてくる事。その際にその子がぜひ知っておくべき教訓を授け、きちんとそれが述べられるようにしておく、と言うものであった。
さて、話は進んで、各グループが計三人の童子を連れて帰ってきた。男児二人と女児一人であった。
全員がほぼ時を同じくして入って来たが、全く同時ではなかった。そのことから、彼女たちが途中で遭遇することがなかったことを察した。と言うのは、彼女たちの親和力の強さは、いったん遭遇したら二度と離れることが出来ないほどのものだったからである。
私は三人の子どもを前に立たせ、まずその中の男の子にこう訊ねた。
「さあ坊や、あの方たちから僕がどんなことを教わったか、この私にも教えてくれないだろうか」
この問いにその子は中々しっかりとこう答えた。
「お許しを得て申し上げます。ボクは地球というところについて何も知らずにこちらへ来ました。お母さんがボクに身体を地上に与える前にボクの魂を天国へ手離したからです。それでこのお姉様方が、ここへ来る途中でボクに、地球がこちらの世界の揺りかごであることを知らねばならないと教えて下さいました。地球には可哀想な育てられ方をしている男の子が大勢います。そしてその子たちは地球を去るまではボクたちのような幸せを知りません。でも、地球もこの世界と同じように神様の王国なので、あまり可哀相な目にあっている子や、可愛そうな目に遭わせている親の為に祈ってあげないといけません」
この子は最後の言葉を女性たちから聞かされてからずっと当惑していたのか、そのあとにこう付け加えた。「でも、ボクたちは何時もお祈りをしています。それがボクたちの学校の教科の一つなのです」
「そうだね、それは中々よい教訓だね」・・・私はそう言い、さらに、それが学校の先生以外の人から教えられても同じように立派な教えであることを述べて、今の返答が中々よく出来ていたと褒めてあげた。
それからもう一人の男の子を呼び寄せた。その子は私の足元へ来て、その足を柔らかい可愛らしい手で触ってから、愛敬のある目で私の顔を見つめ「お許しを頂き、やさしい顔の天子様に申し上げます」と述べ始めた。が私は、もう感動を押えきれなくなった。私は屈みこんでその子を抱いて膝に置き頬に口づけをした。
私の目から愛の喜びの涙が溢れた。その様子はその子は素直な驚きと喜びの入り混じった表情で見つめていた。私が話を続けなさいと言うと、下におろしてくれないと話しにくいと言う。これには今度は私の方が驚いて慌てて下してあげた。
するとその子は再び私の衣服の下から覗いている足に手を置き、ひどく勿体ぶった調子で、先の言葉をきちんとつないで、こう述べた。
「天使のおみ足は見た目に美しく、触れた手にも美しく感じられます。見た目に美しいのは天使が頭と心だけでなく、父なる神への仕え方においても立派だからであり、触れた手に美しいのは、優しくそっと扱われるからです。過ちを犯した人間が心に重荷を感じている時にはそっとお諫めになり、悲しみの中にいる人々をそっと抱いてこの安らぎと喜びの土地へお連れになります。ボクたちもいつかは天使となり、子供でなくなります。大きく、強く、そして明るくなり、たくさんの叡智を身に付けます。そうした時にそうしたことを思い出さないといけません。
なぜなら、その時は霊格の高いお方が、勉強と指導を兼ねてボクたちを地上へ派遣されるからです。ボクたちのように早くこちらへ来た者には必要のないことでも、地上にはそれを必要とする人が大勢いるのです。お姉様方からそのように教わりました。教わった通りであると思います」
童子の愛らしさには私はいつもほろりとさせられる。正直を申して、その時もしばし頭を下げ、顔を手でおおい、胸の高まりと苦しいほどの恍惚状態に身を任せていたのである。それから三人の子供を呼び寄せた。三人とも顔は喜びつつも足は遠慮がちに近づいてきた。そして二人の男の子を両脇に、女の子を膝の前に跪かせた。三人に思いのたけの情愛を込めて祝福の言葉を述べ、可愛らしくカールした頭髪に口づけした。
それから二人の男の子を両脇に立たせ、女の子を膝に乗せて、お話を聞かせてほしいと言った。
「で・は・お・ゆ・る・し・を・い・た・だ・い・て」と言い始めたのであるが、一語一語切り離して話しますので、私は思わず吹き出してしまった。と言うのも、先の男の子の時のように、私が感激のあまり涙を流して話が中断するようなことにならないように、〝優しいお顔の天使さま〟と言った言い方を避けようとする心遣いがありありと窺えたからである。
「お嬢ちゃん、あなたはお年より身体の大きさよりも、ずっとしっかりしていますね。きっと立派な女性に成長して、その時に置かれる世界で立派な仕事をされますよ」
私がそういうと、怪訝な顔で私を見つめ、それから、まわりで興味深くその対話を見つめている人たちを見まわした。私が話を続けるように優しく促すと、先の男の子と同じようにきちんと話を継いでこう話した。
「女の子はその懐で神の子羊を育てる母親となる大切なものです。そして身体が大きくそして美しくなるにつれて愛情と知恵も一緒に成長しないと本当の親にはなれません。ですから私たち女の子は、宿されている母性を大切にしなくてはなりません。それは神様があたしたちがお母さんのお腹の中で天使に起こされずに眠っている間に宿してくださり、そしてこの天国へ連れてきて下さいました。
あたしたちの母性が神聖なものであることには沢山の理由があります。その中でも一番大切なのは次のことです。あたしたちの救い主イエス・キリスト(と言って、くぼみのある可愛らしい両手を組み合わせて恭しく頭を下げ、ずっとその恰好で話を続けた)も女性からお生まれになり、お産みになったその母親を愛され、その母親もイエス様を愛されたことです。
私たちは今お母さんがいなくても、お母さんと同じように優しくしてくださる人がいます。でも、あたしたちと同じようにお母さんがいなくて、しかも優しくしてくれる人がいない人のことを、大きくなってから教わるそうです。その時に、自分が産んだ子供でない子共で、今のあたしのように、お母さんの代わりをしてくれる人を必要としている子供たちのお母さん代わりをする気があるかどうかを聞かれます。その時あたしははっきりとこう答えるつもりです。
“どうかこのあたしをこの明るい世界からもっと暗い世界へ行かせてください。もしあたしにその世界の可哀想な子供たちを救い育てる力があれば、あたしはその子供たちと共に苦しみたいのです。何故ならば、その子供たちも主イエス様の子羊だからです。その子供たちのためにも、そして主イエス様のためにも、あたしはその子供たちを愛してあげたいと思います”と」
私はこの三人の答えに大いに感動させられた。全部を聞き終わるずっと前から、これらの女性たちは上級界へ向上していく資格が充分あるとの認識に到達していた。
そこでこう述べた。「皆さん。あなた方は私の申し付けたことを立派に果たされました。三人の子供もよくやりました。特に私が感じたことは、あなた方はもうこの界で学ぶべきものは十分に学び、次の界でも立派になって行けるであろうということです。同時にあなた方は、やはりこれから後も、これまでと一緒に行動されるのが良いと判断しました。三人の子供を別々に教えても答えは同じ内容・・・地上の子供たちの事、その子供たちの義務のことでした。これほど目的の一致するあなた方は、一人一人で生きるよりも協力し合った方が良いと思います」
そこで全員に祝福を与え、間もなく吾々四人が帰る時に一緒についてくるように言った。
実はその時に言うのを控え、一緒に帰る中で注意したかったことが幾つかあった。その方が気楽に話せると考えたからである。その一つは、彼女たち十五人が余りに意気投合しすぎる為に、三人の子供たちへの教えの中に義務と奉仕の面ばかりに偏りが見られることである。
三人の子供並びに死産児としてこちらへ来る子供全てが、何れは地上の子供たちの看護と守護の仕事に携わることになるが、その子どもたちは本来なら地上で為さねばならない他の諸々のことを失って居ることを知らなければならない。更にもう一つは、実際に地上へ赴くのは彼らの中のごく僅かな数に過ぎないということである。その理由は性質的にデリケートすぎるということで、そういう子どもには実際に地上に来るよりも、他にもっと相応しい仕事があるのである。
が、今はこれ以上は述べないことにする。神の愛と祝福が貴殿と貴殿の子羊とその母親の上にあらんことを、神の王国にいる守護者は優しき目をもって地上の愛する者を見つめ、こちらに来た時に少しでも役に立つものを身に付けさせんと心を砕いている。このことを良く心に留め、それを喜びとするがよい。†
第3節 女性団、第六界へ迎えられる
1913年12月31日 水曜日
話を進める前に、前回に述べた面会が行われた都を紹介しておこう。と言うのは、私の知る限りでは、第五界にはこの界特有の特徴が幾つかあるのである。例えば大抵の界・・・全てとは言わないが・・・には中心となる都が一つあるのみであるが、この五界には三つあり、従って三人の領主がおられることになる。
この三重統治の理由は、この界の置かれた位置が、ここまで辿り着いた者がこの後どちらの方向に進むかについての重大な選択を迫られる位置にあるからである。一種の区分けのようなものであり、住民はここでの生活中にそれぞれに相応しいグループに配属され、最も相応しい仕事に携わるべく上層界へと進む。
三つの都は途方もなく広い平坦な大陸の境界線近くに位置し、その三つを線で結ぶと二等辺三角形となる。それ故、それぞれ都からでる何本かの広い道路が扇状に一直線に伸びている。こうして三つの都は互いに連絡し合っている。その三角形の中心に拝殿がある。森の中央の円形広場に建てられている。
各都市から延びる広い道路は途中で互いに交叉しており、結局すべてがこの拝殿とつながって居ることになる。そうして、折ある毎に三つの都市の代表を始めとして、その統治下にある住民の代表が礼拝を捧げるために一堂に会する。
その数は何万あるいは何十万を数え、見るからに壮観である。三々五々、みな連れだって到着し、広場に集合する。そこは広大な芝生地である。そこで大群衆が合流する訳であるが、五界にあるすべての色彩が渾然一体となった時の美しさは、ちょっとした見ものである。
が、それ以上に素晴らしいのは多様性の中に見られる一体感である。それぞれの分野でもうすぐ次の界へ向上して行く者がいて、決して一様ではない、が、その大集団全体を通じて“愛の調べ”が、脈うっている。そしてそれが不変不朽であり、これよりのち各自がいかなる道を辿ろうと、この広き天界のいずこかにおいて相見えることを可能にしてくれることを全員が自覚している。
それ故誰一人として、やがて訪れる別れを悲しむ者はいない。そのようなものは知らないのである。愛あるところには地上で言う別れも、それに伴う悲しみもない。それは〝人類の贖罪〟さえなければ、地上においてでも言えるところである。
人間がその資質を取り戻して行くのは容易ではあるまい。が、不可能ではない。なぜなら、今は目覚めぬままであるとは言え、よくよくの例外を除いては、その資質は厳然と人間に宿されているからである。
さて吾々は旅の次の段階、すなわち例の女性の一団を第六界へと送り届け、そこの領主へ引き渡す用事へ進まなければならぬ。
いよいよ第六界へ来ると、首都から少し離れた手前で歓迎の一団の出迎えを受けた。あらかじめ第五界との境界の高地において到着の報を伝えておいたのである。歓迎の一団の中には女性たちの曽手の知友も混じっており、喜びと感謝のうちに旧交を温めるのであった。
女性たちの暫しの住処となるべき市に到着すると、明るい衣装をまとった男女に僅かばかりの子供の混じった市民が近づいて来るのが見えた。あらかじめ指定しておいた道である。両側に樹木が生い茂り、所々で双方の枝が頭上で重なり合っている。一行はそうした場所の一つで足を止め、吾々の到着を待った。あたりはあたかも大聖堂の如く、頭上高く木の葉が覆い、その隙間を通して差し込む光はあたかも宝石の如く,そして居合わせる者はあたかも聖歌隊の如くであり礼拝の如くであった。
出迎えの人々は新参の女性たちのために花輪と衣装と宝石を手にしていた。それを着飾ってもらうと、それまでのくすんだ感じの衣装が第六界に相応しい新しい衣装に負けてたちどころに消滅した。それから和気あいあいのうちに全員が睦み合ったところで、出迎えの市民が市の方へ向きを変え、ある者は手にしていた楽器で行進曲を演奏し、ある者は歌を合唱しつつ行進しはじめた。
沿道にも塔にも門前にも市民が群がって歓迎の挨拶を叫び、喜びを一層大きなものにしていった。
新参者は皆こうした体験を経て自分たちへ向けられる歓迎の意向を理解していくのである。そして界を二つ三つと経て行くうちに新しい顔と景色の奇異な点が少しも恐れる必要がないこと、・・・全てが愛に満ちていることを悟るのである。
さて、門を通過して市中へ入ると、まず聖殿へ向かった。見事な均整美をした卵型の大きな建物で、その形体は二つの球体が合体してできたものを思わせる。一つは愛を、もう一つは知識を意味する。それが内部の塔を中央にして融合しており、その組み合わせが実に見事で巧みなのである。照明は前日叙述した液晶柱のホールと同じく一時として同じ色彩をせず、刻一刻と変化している。全体を支配しているのはたった二色の・・・濃いバラ色と、緑と青の混じったスミレ色である。
やがて新参の女性たちが中へ案内された。中にはすでに大会衆が集まっている。彼女たちは中央の壇上に案内され、そこに暫く立っていた。すると聖殿の専属の役人がリーダーの先導で神への奉納の言葉を捧げ、すぐそのあと会衆が唱和すると、場内に明るい光輝を発した霧状雲が発生し、それが彼女たちのまわりに集結して、この第六界の雰囲気の中に包み込んでしまった。
やがてそれが上昇し、天蓋の如く頭上に漂ったが、彼女たちは深く静かな恍惚状態のままじっと立ちつくし、その美しい雲がさらに上昇して他の会衆まで広がるのを見ていた。すると今度は音楽が聞こえてきた、遥か遠くから聞こえてくるようであったが、その建物の中に間違いなかった。そのあまりの美しさ、柔らかさ、それでいて力強さに溢れた旋律に、吾々は神の御前にいるような崇高さを覚え、思わず頭を垂れて祈り、神の存在を身近に感ずるのであった。
やがて旋律が終わったが、余韻はまだ残っていた。それは恰も頭上に漂う光輝性の雲の一部になり切って居るように感じられた。実は、貴殿には理解できない過程を経てそれは、真実、雲の一部となっていたのである。そしてその輝く雲と愛の旋律とが一体となって吾々にゆっくりと降りてきて吾々の身体を包み込むと、聖なる愛の喜びに全会衆が一体となったのであった。
私を除く全会衆にはそれ以上の顕現は見えなかった。が、修行をより長く積んできた私には他の者に見えないものが見え、上層界からの参列者の存在にも気づいていた。また旋律の流れ来るところも判っていた。祝福の時に授けられる霊力がいかなる種類のものであるかも判っていた。それでも他のすべての者はこの上なく満足し、共に幸せを味わった。十五人の女性たちは言うまでもなかった。
・・・その間あなたは何をなさっていたのでしょうか。そこではあなたが一番霊格が高かったのではありませんか・・・
ただお世話をするために同行したに過ぎない私自身について語るのは感心しない。この度の主役は十五人の女性であった。私の界からは三名の者が同行し、それより上の界の者は一人もいなかった。吾々四人に全ての人が友好的で親切で優しくしてくれた。それが吾々にとって大いなる幸せであった。
いよいよ十五人が落ち着くべき住処へ案内されることになった時、彼女たちはぜひもう一度礼を述べたいと言って戻ってきて、感謝の言葉を述べてくれた。吾々も言葉を返し、そのうち再び戻ってその後の進歩の状態を伺い、多分、助言を与えることになろうと約束した。彼女たちからの要請でそうなったのである。そこに彼女たちの立派な叡智が窺えた。私もそうすることが彼女たちにとって大きな力となるものと確信する。
こうした形での助言は普通はあまり見られない。そう度々要請されるものではないからである。†
「真理は求めるものには必ず与えられる」・・・このイエスの言葉は地上と同じくこちらの世界にも当てはまることが、これで判るであろう。この言葉の意味を篤と考えるがよい。†
第4節 イエス・キリストの出現
1914年1月2日 金曜日
ここで再び私の界へ心の中で戻ってもらいたい。語り聞かせたいことが幾つかある。神とその叡智の表れ方について知れば知るほど我々は、神のエネルギーが如何に単純にして同時にいかに複雑であるかを理解することになる。これは逆説的であるが、やはり真実なのである。
単純性はエネルギーの一体性とそのエネルギーの使用原理に見いだされる。
例えば創造の大事業のために神から届けられるエネルギーの一つ一つは愛によって強められ、愛が不足するにつれて弱められていく。この十界まで辿りつくほどの者になれば、それまで身に付けた叡智によって物事の流れを洞察することが可能となる。
〝近づき難き光〟すなわち神に向けて歩を進めるにつれて、すべてのものが唯一の中心的原理に向かっており、それがすなわち愛であることが判るようになる。愛こそ万物の根源であることを知るのである。
その根源、その大中心から遠ざかるにつれて複雑さが増す。相変わらず愛は流れている。が、創造の大事業に携わる霊の叡智の低下に伴い、必然的にそれだけ弱められ、従って鮮明度が欠けていく。
その神の大計画のもとに働く無数の霊から送られる霊的活動のバイブレーションが物的宇宙に到達した時、適応と調整の度合いが大幅に複雑さを増す。この地上にあってさえ愛することを知る者は神の愛を知ることが出来るとなれば、吾々に知られる愛が如何に程度の高いものであるか、思い半ばに過ぎるものであろう。
しかし吾々がこれより獲得すべき叡智はある意味ではより単純になるとは言え、内的には遥かに入り組んだものとなる。なぜならば吾々の視野の届く範囲が遥かに広大な地域にまで及ぶからである。
一界一界と進むにつれて惑星系から太陽系へ、そして星団系へと、次第に規模が広がっていく世界の経綸に当たる偉大な霊団の存在を知る。その霊団から天界の広大な構成について、あるいはそこに住む神の子について更には神による子への関わり、逆に子による神への関わりについて尋ね、そして学んで行かねばならない。
これで、歩を進める上では慎重であらねばならないこと、一歩一歩の歩みによって十全な理解を得なければならないことが判るであろう。吾々に割り当てられる義務は限りなく広がってゆき、吾々の決断と行為の影響が次第に厳粛さを帯びてゆき、責任の及ぶ範囲が一段と広い宇宙とその住民に及ぶことになるからである。
しかし、今は地球以外の天体については言及しない。貴殿はまだそうした地球を超えた範囲の知識を理解する能力が十分に具わっていない。私及び私の霊団の使命は、地球人類が個々に愛し合う義務と、神を一致団結し敬愛する義務についての高度な知識を授け、更に貴殿のように愛と謙虚さをもって進んで吾々に協力してくれる者への吾々の援助と努力・・・つまり我々はベールのこちら側から援助し、貴殿らはベールのそちら側で吾々の手となり目となり口となって共に協力し合い、人類は神が意図された通りの在るべき姿・・・本来は栄光ある存在でありながら今は光乏しい地上において苦闘を強いられている人間の真実の姿を理解させることにあるのである。
では私の界についての話に戻るとしよう。
ある草原地帯に切り立つように聳える高い山がある。あたかも王が玉座から従者を見下ろすように、まわりの山々を圧している。その山にも急な登り坂に見える道があり、そのところどころに建物が見える。四方に何の囲いもない祭壇も幾つかある。礼拝所もある。そして頂上には全体を治める大神殿がある。この大神殿を舞台にして時折さまざまな〝顕現〟が平地に集結した会衆に披露される。
・・・前に話されたあの大聖堂のことですか(五章4)・・・
違う。あれは都の中の神殿であった。これは〝聖なる山〟の神殿である。程度に置いて一段と高く、また目的も異なる。そこの内部での祈りが目的ではなく、平地に集結した礼拝者を高揚し、強化し、指導することを主な目的としている。専属の聖職者がいて内部で祈りを捧げるが、その霊格は極めて高く、この十界より遥かに上の界層まで進化した者が使命を帯びて戻ってきた時にのみ、中に入ることが許される。
そこは能天使(*)の館である。すでにこの十界を卒業しながら、援助と判断力を授けにこの大神殿を訪れる。そこには幾人かの天使が常駐し、誰一人居なくなることは決してない。が、私は内部のことは詳しく知らない。霊力と崇高さを一団と高め、十一界十二界と進んだ後のことになろう。
(*中世の天使論で天界の霊的存在を九段階に分けた。ここではその用語を用いているまでで、用語そのものにこだわる必要はない)
さて平地は今、十界の全地域から招集された者によって埋め尽くされている。地上の距離にしてその山の麓から半マイルもの範囲に亘って延々と群がり、その優雅な流れはあたかも〝花の海〟を思わせ、霊格を示す宝石がその動きに伴ってキラキラと輝き、色とりどりの衣装が幾つもの組み合わせを変えて綾を織りなしてゆく。そして遠く〝聖なる山〟の頂上に大神殿が見える。集まった者たちは顕現を今や遅しと期待しつつ、その方へ目をやるのであった。
やがてその神殿の屋根の上に高き地位を物語る輝く衣装をまとった一団が姿を現した。それから正門と本殿とをつなぐ袖廊(ポーチ)の上に立ち並び、そのうちの一人が両手をあげて平地の群集に祝福を述べた。その一語一語は最も遠方にいる者にも実に鮮明に、そして強い響きをもって聞こえた。遠近に関わりなく全員に同じように聞こえ、容姿も同じように鮮明に映じる。
それからこの度の到来の目的を述べた。それは首尾よくこの界での修養を終え、さらに向上していくだけの霊力を備えたと判断された者が間もなく第十一界へ旅立つことになった。そこで彼らに特別な力を授けるためであるという。
その〝彼ら〟が誰であるのか・・・自分なのか、それとも隣にいる者なのか、それは誰にも判らない。それは後で告げられることになった。そこで吾々はえも言われぬ静寂のうちに、次に起こるものを待っていた。ポーチの上の一団も無言のままであった。
その時である。神殿の門より大天使が姿を現した。素朴な白衣に身を包んでいたが、煌々と輝き、麗しい一語に尽きた。頭部には黄金の冠帯を付け、足に付けておられる履き物も黄金色に輝いていた。腰のあたりに赤色のベルトを締め、それが前に進まれるたびに深紅の光を放つのであった。
右手には黄金の聖杯(カリス)を捧げ持っておられる。左手はベルトの上、心臓の近くに当てておられる。吾々にはその方がどなたであるかはすぐさま知れた。ほかならぬイエス・キリストその人なのである。(*)いかなる形体にせよ、あるいは顕現にせよ、愛と王威とがこれほど渾然一体となっておられる方は他に類を求めることができない。その華麗さの中に素朴さを秘め、
その素朴さの中に威厳を秘めておられる。それらの要素が、こうして顕現されたときに吾々列席者の全ての魂と生命とに沁み込むのを感じる。そして顕現が終了した後もそれは決して消えることは無く、いつまでも吾々の中に残るのである。
(*その本質と地上降誕の謎に関しては第三巻で明かされる)
今そのイエス・キリストがそこに立っておられる。何もかもがお美しい。譬えようもなくお美しい。甘美にして優雅であり、その中に一抹の自己犠牲的慈悲を漂わせて、それが又お顔の峻厳な雰囲気に和みを添えている。その結果そのお顔は笑顔そのものとなっている。と言って決して笑っておられるのではない。そしてその笑みの中に涙を浮かべておられる。悲しみの涙ではない。
己の喜びを他へ施す喜びの涙である。その全体の様子にそのお姿から発せられる実に多種多様な力と美質が渾然一体となった様子が、側に控える他の天使の中にあってさえ際立った存在となし、まさしく王者としてすべてに君臨せしめている。
そのイエス・キリストは今じっと遠くへ目をやっておられる。吾々群衆ではない。吾々を超えた遥か遠くを見つめておられる。やがて神殿の数か所の門から一団の従者が列をなして出てきた。男性と女性の天使である。その霊格の高さはお顔と容姿の優雅さに歴然と顕れていた。
私の注目を引いたことが一つある。それを可能な限り述べてみよう。その優雅な天使の一人一人の顔と歩き方と所作に他と異なる強烈な個性が窺われる。同じ徳を同じ形で具えた天使は二人と見当たらない。霊格と威光はどの方も極めて高い。が、一人一人が他に見られない個性を有し、似通った天使は二人といない。
その天使の一団が今イエス・キリストの両脇と、前方の少し低い岩棚の上に位置した。するとお顔にその一団の美と特質と霊力の全てが心地よい融和と交わりの中に反映されるのが判った。一人一人の個性が歴然と、しかも渾然一体となっているのが判るのである。さよう、主イエスはすべての者に超然としておられる。そしてその超然とした様子が一層その威厳を増すのである。
以上の光景を篤と考えてみてほしい。この後のことは貴殿が機会を与えてくれれば明日にでも述べるとしよう。主イエスのお姿を私は地上を去ってのち一度ならず幾度か拝して来たが、そこには常に至福と栄光と美が漂っている。常に祝福を携え、それが同胞のために残していかれる。常に栄光に包まれ、それが主を高き天界の玉座とつないでいる。そしてその美は光り輝く衣服に歴然と顕れている。
しかも主イエスは吾々と同じく地上の人間と共にある。姿こそお見せにならないが、実質となって薄暗い地上界へ降り、同じように祝福と栄光と美をもたらしておられる。が、そのごく一部、それもごく限られた者によって僅かに見られるに過ぎない。地球を包む罪悪の暗雲と信仰心の欠如がそれを遮るのである。それでもなお主イエスは人間と共にある。貴殿も心を開かれよ。主の祝福が授けられるであろう。†
第5節 ザブディエル十一界へ召される
1914年1月3日 土曜日
主イエスは黙したまましばし恍惚たる表情で立っておられた。何もかもがお美しい。やがて天使団が動き出した。ゆっくりと、いささかも急ぐ様子もなく、その一団が天空へ向けて上昇し卵型に位置を取った。後部の者は主より高く、前方の者は主の足より下方に位置している。かくして卵型が整うと、全体が一段と強烈な光輝を発し、吾々の目にはその一人一人のお姿の区別がつかぬほどになった。
今や主の周りは光輝に満ちている。にもかかわらず主の光輝はそれより更に一段と強烈なのである。但し、主の足元のすぐ前方に一箇所だけ繋がっていないところがある。つまり卵形の一番下部に隙間が出来ているのである。
その時である。主が左手を吾々の方へ伸ばして祝福をされた。それから右手のカリスを吾々の方へ傾けると、中から色とりどりの色彩に輝く細い光の流れがこぼれ出た。それが足もとの岩に落ち、岩の表面を伝って平地へと流れ落ちて行く。落ちながら急速に容積を増し、平地に辿り着くと一段と広がり、
なおも広がり続ける。今やそれが光の大河となった。その光に無数の色彩が見える。濃い紫から淡いライラック、深紅から濃いピンク、黄褐色から黄金色等々。それらが大河のそこここで各種の混合色を作りつつ、なおも広がり行くのであった。
かくしてその流れは吾々の足もとまで来た。吾々はただその不思議さと美しさに唖然として立ちつくすのみであった。今やその広大な平野は光の湖と化した。が、吾々の身体はその中に埋没せず、その表面に立っている。だが足元もとを見つめても底の地面まで見つめることはできない。
あたかも深い深い虹色の海のような感じである。しかも吾々は地面に立つようにその表面にしっかり立っている。が、表面は常に揺らめき、さざ波さえ立てている。それが赤、青、その他さまざまな色彩を放ちつつ吾々の足元を洗っている。何とも不思議であり、何とも言えぬ美しさであった。
やがて分かってきたことは、その波の浴び方が一人一人違うことであった。群衆の所々で自分が他と異なるのに気付いて居る者がいた。そう気づいた者はすぐさま静かな深い瞑想状態に入った。側の者の目にもそれが歴然としてきた。
まず周囲の光の流れが黄金色に変わり、それがまず踝を洗い、次に液体のグラスのような光の柱となって膝を洗い、更に上昇して身体全体が光の柱に囲まれ、黄金色の輝きの
真っただ中に立ちつくしているのだった。頭部には宝石その他、それまで付いていたものに代って今や十一個の星が付いている。それがまた黄金色に輝いていたが、流れの黄金色より一段と強烈な輝きを発し、あたかも〝選ばれし者〟を飾るために、その十一個の星に光が凝縮されたかのようであった。
その星の付いた冠帯が一人一人の頭部に冠せられ、両耳の後ろで留められていた。かくして冠帯を飾られた者はその輝きが表情と全身に行き亘り、他の者より一段と美しく見えるのであった。
そこで主がカリスをまっすぐに立てられた。と同時に流れが消えた。光の流れにおおわれていた岩も今はその岩肌を見せている。平地も次第に元の草原の姿を現し、ついに光の海は完全に消滅し、吾々群集は前と同じ平地の上に立っていた。
さてその〝選ばれし者〟のみが最後まで光輝に包まれていたが、今はその光輝も消滅した。が、彼らはすでにもとの彼らではなかった。永遠に、二度ともとに戻ることは無いであろう。表情には一段と霊妙さが増し、身体もまた崇高さを加え、衣装の色調も周りの者に比して一段と明るさを加え、異なった色彩を帯びていた。
十一個の星は相変わらず輝いている。包んでいた光の柱のみが今は消滅していた。
その時である。〝聖なる山〟の神殿からもう一人の天使が姿を現し、優しさを秘めた力強い声で、星を戴いたものはこの山の麓まで進み出るように、と言われた。それを聞いて私を含め全員が集結し・・・実は私も星を戴いた一人だったのである。・・・そして神の神殿の前に立たれる主イエスのお姿を遥かに見上げながら整列した。
すると主がおよそ次のような主旨のことを述べられた。「あなた方は託された義務をよくぞ果たされた。父なる神と余に対し、必ずしも完璧とは言えかねるが、出来得る限りの献身を為された。これより案内いたす高き界においても、これまでと変わらぬ献身を希望する。ではここまで上がって来られたい。あなた方を今や遅しと待ち受ける新たな館まで案内いたそう。さ、来るがよい」
そう言われたかと思うと、すぐ前に広い階段が出来上がった。一番下は吾々の目の前の平野にあり、一番上は遥か山頂に立たれる主の足元まで伸びている。その長い階段を吾々全員が続々と登り始めた。数にして何万人いたであろうか。が、かなりの位置まで登って平野を見下ろして別れの手を振った時、そこにはそれに劣らぬ大群衆が吾々を見上げていた。それ程その時の群集は数が多かったのである。
かくして吾々全員が神殿の前の広場に勢ぞろいした時、主が下に残った群集へ向けて激励と祝福を述べられた。仮に吾々と共に召さらなかったことを悲しんだ者がいたとしても、私が見下ろした時は、そこに悲しみの表情は跡形もなかった。主イエス・キリストの在すところ誰一人悲しむ者はあり得ず、ひたすらにその大いなる愛と恩寵を喜ぶのみである。
その時吾々と同じ神殿の前から幾人かの天使が階段を降り始めた。そしてほぼ中途の辺りで立ち止まった。全員が同じ位置まで来ると〝天に在す栄光の神〟を讃える感謝の讃美歌を斉唱した。平地の群集がこれに応えて交互に斉唱し、最後は大合唱となって終わった。
聖歌隊が再び上がってきた。そして吾々と同じ場所に立った。その時はすでに階段は消滅していた。どのようにして消えたのか、それは私にも判らなかった。見た時はもうすでにそこになかったのである。そこで主が両手をお上げになって平地の群集に祝福を与えた。群衆はただ黙って頭を垂れていた。それからくるりと向きを変えられて神殿の中へお入りになった。吾々もその後に続いたのであった。
ザブディエル最後のメッセージ
さて、私の同志であり、友であり、私が守護を託されている貴殿に、最後に申し置きたいことがある。別れの挨拶ではない。これよりのちも私は常に貴殿と共にあり、貴殿の望みに耳を傾け、そして答えるであろう。いついかなる時もすぐ側に居ると思うがよい、たとえ私の本来の住処が人間の距離感では遥か彼方であっても、吾らにとってはすぐ側に居るのも同然であり、貴殿の考えること望むことそして行うことにおいて、常に接触を保ち続けている。
なぜなら、私はその全てについて評価を下す責務があるからである。それ故、もしも私が友として援助者として貴殿に何らかの役に立ってきたとすれば、私が下した評価において貴殿が喜ぶように私も貴殿のことを喜んでいるものと心得るがよい。
七つの教会の七人の天使のこと(七章2)を思い出し、私の立場に思いを馳せてほしい。更に又、何れの日か貴殿も今の私と同じように、自分の責任において保護し指導し監視し援助し、あるいは人生問題に対処し、正しい生き方を教唆すべき人間を託されることになることを知りおくが良い。
では祝福を、もしかして私は再び貴殿と語る手段と許しを授かることになるかもしれない。同じ手段によるかもしれないし、別の簡単な手段となるかもしれない。それは私も今は何とも言えない。貴殿の選択に任されるところが多いであろう。ともあれ、何事が起ころうと常に心を強く持ち、辛抱強く、あどけない無邪気さと謙虚さと祈りの心を持ってことに当たることである。
神の御恵みのあらんことを。私はこれをもって終わりとするに忍びないが、これも致し方ないことであろう。
主イエスキリストの御名のもとに、その僕として私は常にすぐ側に居ることをつゆ忘れぬでないぞ。アーメン†
訳者あとがき
第一巻はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占めた。その親子関係が醸し出す雰囲気には情緒性があり、どこかほのぼのとしたものを感じさせたが、この第二巻は一転して威厳に満ちた重厚さを漂わせている。文章は古い文語体で書かれ、用語も今日では〝古語〟または〝廃語〟となって居るものが数多く見受けられる。
が、同時に読者はその重厚は雰囲気の中にもどこかオーエン氏に対する温かい情愛のようなものが漂っていることに気づかれたであろう。最後のメッセージにそれがとくに顕著に出ている。もしそれが読み取って頂けたら、私の文筆上の工夫が一応成功したことになって有難いのであるが・・・
実は私は頭初より本書をいかなる文体に訳すかで苦心した。原典の古い文体をそのまま日本の古文に置き換えれば現代人にはほとんど読めなくなる。それでは訳者の自己満足だけで終わってしまう。
そこで語っているのがオーエン氏の守護霊である点に主眼を置き、厳しさの中にも情愛を込めた滋味を出すことを試みた。それがどこまで成功したかは別問題であるが・・・
さてその〝厳しさの中の情愛〟は守護霊と人間との関係からでる絶対的なもので、第一巻が肉体的ないし血族的親子関係であれば、これは霊的ないし類魂的親子関係であり、前者がいずれは消滅していく運命にあるのに対し、後者は永遠不滅であり、むしろ死後においてますます深まっていくものである。
ついでに一言述べてきたいことがある。守護霊と言う用語は英語でもGuardian(ガーデアン)と言い、
ともに守るという意味が込められている。そのためか、世間では守護霊とは何かにつけて守ってくれる霊と言う印象を抱き、不幸や苦労まで取り除いてくれることを期待する風潮があるが、これは過りである。
守護霊の仕事はあくまでも本人に使命を全うさせる宿命を成就させるよう導く事であり、時には敢えて苦しみを背負わせ悲劇に巻き込ませることまでする。そうした時、守護霊は袖手傍観しているのではなく、共に苦しみともに悲しみつつ、しかも宿命の成就のために霊的に精神的に援護してやらねばならない。
そうした厳粛な責務を持たされているのであり、その成果如何によって守護霊としての評価が下されるのである。
そのことは本分の〝七つの教会〟の話からも窺われるし、シルバーバーチの霊訓が〝苦難の哲学〟を説くのもそこに根拠がある。
守護霊にはその守護霊がおり、その守護霊にもまた守護霊がいて、その関係は連綿として最後には守護神に辿り着く。それが類魂のなかの一系列を構成し、そうした系列の集合体が類魂集団を構成する。言ってみれば太陽系が集まって星雲を構成するのと同一である。
その無数の中でも一番厳重な形体の中での生活を余儀なくさせられているのが我々人間であるが、それは決して哀れに思うべきことではない。苦難と悲哀に満ちたこの世での体験はそれだけ類魂全体にとって掛がいのないものであり、それだけ貴重なのであり、それゆえ人間は堂々と誇りをもって生きるべきである。と言うのが私の人生観である。
但し一つだけ注意しなければならないのは、この世には目には見えざる迷路があり、その至る所に見えざる誘惑者がたむろしていることである。大真面目に立派なことをしているつもりでいて、その実トンでもない邪霊に弄ばれて居ることが如何に多いことか。
ではそうならないためにはどうすべきか。それは私ごとき俗物の説くべきことではなかろう。読者自ずから本書から読み取っていただきたい。それが本書の価値の全てとは言えないにしても、それを読み取らなければ本書の価値は失われるのではなかろうか。