ベールの彼方の生活
第一巻 『天界の低地』 オーエン氏の母親 アストリエル霊
GVオーエン(George Vale Owen)著
近藤 千雄(こんどう かずお)訳
潮文社発行

推薦の言葉 ノースクリッフ卿
私はまだオーエン氏の霊界通信の全編を読む機会を得ていないが、これまで目を通した部分だけでも実に美しい章節を各所に発見している。

こうした驚異的な資料は霊媒自身の人格が浅からぬ重要性を持ち、それとの関連性に置いて考察さるべきであるように思われる。私はオーエン氏とは短時間の会見しか持っていないが、その時に得た印象は、誠実さと確信に満ちた人物を前にしていると言う事であった。ご自分に霊能があると言うような言葉はついぞ氏の口からは聞かれなかった。

出来るだけ名前は知られたくないとの気持ちを披歴され、これによる収益の受け取りを一切辞退しておられる。これだけ世界中から関心を寄せられた霊界通信なら大変な印税が容易に得られたのであろうと思われるのだが。

(ノースクリッフ卿Lord North cliffe―本名ウィリアムズ・ハームズワースAlfred Charles William Harms worth。アイルランド生まれの英国の新聞経営者で、有名なDaily Mail-デイリーメール-の創刊者。死後フリート街の法王と呼ばれたハンネン・スワッハーHannen Swafferがそれを「ノースクリッフの帰還」North cloffe,s Returnと題して出版、大反響を呼んだ)

序 アーサー・コナン・ドイル
永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々な事が起きるであろう。後退もあれば失望もある事であろう。が勝利は間違いない。新しい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに典型的美しさと合理性とがあればかならずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものである事は、いつの時代に置いても真理なるものに触れた者ならば断固たる確信を持つものである。

いまその内の一つ・・・至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源を持つ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに主の御手ここに在り、の思いがする。

それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本分の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭から素晴らしい。が、読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。

一字一句に捉われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新しいものだから、珍しいから、と言う事で無闇に有難がってもいけない。

地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、霊的である事を必要以上に強調し過ぎる事によって嘲笑の的とされる事が十分あり得る事を明記すべきである。この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外にはあり得ない。

神は二千年前に啓示の泉を閉鎖された、と言う。一体何の根拠を持ってこんな非合理きわまりなる信仰を説くのであろうか。

それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている。と、信じる方がどれほど合理的であろうか。

驚異的と言われ不可思議とされた過去70年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手を持って目を蔽う者のみと言って良いほどである。現象そのものはなるほどとるに足らぬものかも知れない。

がそれは実は我々人間の注意を引きつける為の信号(シグナル)だったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったからである。その完璧な一例がこの通信と言えるかもしれない。

啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。

通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされる事は免れないのである。完全に純粋な通信は純真無垢な霊媒に対して始めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許す限りにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えて良いであろう。

その内容は古き信仰を覆すものであろうか。私は絶対にそうでない事を断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘り精神を忘れた心狭き偏屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。

真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉づけされ意味を持つにいたった部分が幾つある事であろうか。

例えば、「父の家には住処多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解が行くのではなかろうか。

それはもはや捉え難き遠き世界の幻ではなく、この“時”に縛られた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固とした光として輝き、神の摂理と己の道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後の待ち受けているとの確信を植え付けてくれる事によって、喜びの時はより一層その喜びを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるものである。

言葉即(イコール)観念の認識に固執する者はこの通信は全てオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他に多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。

筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を二冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。オーエン氏の通信が私の二冊とは無関係に綴られたのと同じである。

どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、この度読み返してみて私のものより遥かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私は誤りを犯したところは一つも見あたらない。もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致があり得るであろうか。

今や世界は何らかのより強力な駆動力を必要としている。これまではいわば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走ってきたようなものである。今や新しい機関車が必要なのである。

もしも既成宗教が真に人間を救う者であったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮した筈-例えば第一次世界大戦も起きなかった筈である。その厳しい要請に応え得た教会があったであろうか。今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々足る事実ではなかろうか。

新しい時代が始まりつつある。これまで貢献してきた者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかもしれない。そして、それは自惚れの誘因とはならない。目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎない事を自覚しているからである。

しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進してきた航路が間違っていなかった事を知って安堵の気持ちを抱いたとしても、それが人間味と言うものではなかろうか。

(コナン・ドイルArthur Conan Doyle―言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。其のシャーロック・ホームズ・シリーズによる知名度が最高度に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、様々な非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは“スピリチュアリズムのパウロ”の異名を取るほど、その普及に献身した―訳者)

まえがき G・V・オーエン
この霊界通信すなわち自動書記または(より正確にいえば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では四部に分かれているが、内容的には一貫性を持つものである。いずれも通信を送ってきた霊団が予め計画したものである事は明白である。

母と子と言う肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となった事は疑う余地がない。その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されている事は極めて自然なことと言える。

それが一応軌道に乗った頃、新しくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信に較べて霊格が高く、同時に哲学的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表れている。母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第一巻『天界の低地』を構成している。

このいわば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母達からの通信に較べると流石(サズガ)に高等である。第二巻『天界の高地』は全部このザブディル霊からの通信で占められている。

第三巻『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。その名のもとで綴られたのが第四巻『天界の大軍』で文字通り本通信の圧巻である。前三巻のいずれにも増して充実しており、結局前三巻はこの第四巻の為の手馴らしであったと見ても差し支えない。

内容的に見ても本通信が第一部から順を追って読まれるべき性質のものである事は言うまでもない。始めに出た事柄が後になって説明抜きで出てくる場合も少ないのである。

本通信の主要人物について簡単に説明しておくと―。

私の母は1909年に63歳で他界している。アストリエルは18世紀半ばごろ、英国ウォ―リック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。霊界側の筆記役をしているカスリーンは英国リバプール市のアンフィールドに住んでいた裁縫婦で、私の娘のルビーが1896年に僅か15ヶ月で他界するその3年前に28歳で他界している。

さて“聖職者というのは何でもすぐ信じてしまう”と言うのが世間一般の通念であるらしい。なるほど“信仰”と言うものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかもしれない。が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。

因みに私が本通信を“信ずるに足るもの”と認めるまでにちょうど四分の一世を費やしいている。すなわち、確かに霊界通信と言うものが実際にある事を認めるのに十年、そしてその霊界通信と言う事実が大自然の理法に適っている事をはっきりと得心するのに15年かかった。

そう得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こりだした。最初まず私の妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じで、お前も鉛筆を持って机に向かい頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよ、という注文が私宛に送られてきた。

正直なところ私はそれが嫌で、暫く拒否し続けた。が、他界した私の友人達がしきりに私を通じて通信したがっている事を知るに及んで、私の気持ちにも大分変化が起き始めた。

こうした事実からも十分納得して頂ける事と思うが、霊界の通信者は通信の目的や我々に対する希望は述べても、その為に我々の都合や意思を無視したり強制したりするような事は決してなかった。結果論から言えば少なくても私の場合は強引に書かせた方が手間ひまが掛らずに済んだろうにと思われるのだが…。

が、それでも私はすぐには鉛筆を握らなかった。しかし、その内注文する側の真摯な態度に好感を覚え、多分に懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、晩課が終わってからカソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったのである。

最初の4,5節は内容に統一性がなく、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、その内次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者がいままさに読まんとされているのがその産物である。
1925年秋


第1章 暗黒の世界
第1節 霊界の風景
1913年9月23日 火曜日

―どなたでしょうか(オーエン氏の質問)

あなたの母親です。ほかに援助して下さる方が幾人かお出でです。私達は順調に進歩しております。しかしまだ、述べたい事の全てを伝える事が出来ません。それはあなたの精神状態がこちらが期待するほど平静で受け身的でないからでもあります。

―住んでおられる家屋と、今携わっている仕事について教えて下さい。

仕事はその対象となる人間の必要性によって異なります。非常に多種多様です。しかし現在地上にいる人々の向上に向けられている点は一様に同じです。

例えばローズ(オーエン氏の妻)にまず働きかけて自動書記をやらせ、その間の危険から護ってあげる霊団を組織したのは私達です。今でもその霊団が彼女の面倒を見ております。時折近くに存在を感じているのではないでしょうか。多分その筈です。必要とあればすぐにまいりますから。

次は家屋について。これはとても明るく美しく出来上っております。そして高い界におられる同志の方々がひっきりなしに訪れては向上の道へ励まして下さいます。

(ここで一つ疑問が浮かんだ。母達の目にはその高級界からの霊の姿が見えるのだろうか、それとも我々人間と同じなのだろうか、と言う事である。断っておきたいのは、この霊界通信を読んでいかれるうちに読者は、私が明らかに口に出していない思念に対する答えが“イエス”あるいは“ノー”で始まって綴られているのを各所に発見される筈である。その点をご了承頂いて、特に必要がない限り、それが実際に口に出した質問なのか、それとも私の意念を読み取ったものかは断らない事とする)

はい、見えます。その方達が私達に姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私達の発達程度と、その方達の私達に対する力量次第です。

では今住んでおられるところ…景色その他を説明をして頂けますか。

完成された地上、と言った感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私達が地上から来た時の為に前もって先輩達がこしらえてくれているものもあります。

今は代わって私達が、今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々の為に、環境をこしらえたり整えたりして上げております。こちらへこられた時には万事がうまく整っており、歓迎の準備も出来ていると言う訳です。

ここで最近私が目撃した興味深い光景(シーン)をお話いたしましょう。そうです、此方のこの土地でのシーンです。私達の住んでいる家からほど遠からぬ広い平地である儀式が執り行われると聞かされ、私達もそれに出席するようにとの事でした。儀式と言うのは、一人の霊が“偏見”と呼ばれている段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々への僻み根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へ進んでいく事になったのを祝うものです。

言われるままに私達も行ってみました。すると方々から大勢の人が続々とやって参ります。中には馬車で・・・何故躊躇するのですか。私達は目撃した事をありのままに述べているのです。

馬車で来る人もいます。お好きなように別な呼び方をしても構いませんよ。ちゃんと馬にひかれております。御者の言う事がすぐに馬に通じるようです。

と言うのは、地上の御者のように手綱を持っていないのです。それでも御者の思う方向へ走っているようでした。歩いてくる人もいました。空を飛んで来る人もいました。いえ、翼はついておりません。要らないのです。

さて皆さんが集まると円座が作られました。そこへさっきの方が進み出ました。祝福を受ける霊です。その方はオレンジ色の長い礼服を着ておられます。明るいオレンジ色で、地上では見かけない色です。こちらの世界の色はどれも地上では見られないものばかりです。

ですが、地上の言葉を使う他ありません。さて指導霊がその人の手を取って円座の中央の小高い芝生の所に位置させ、何やら祈りの言葉を述べられました。すると実に美しい光景が展開し始めました。

空の色…殆ど全体が青と金色です…が一段と強さを増しました。そしてその中から一枚のベールのようなもの、小鳥や花を散りばめた見事なレースで出来たように見えるものが降りてきました。白いと言うよりは金色に輝いておりました。

それがゆっくりと広がって二人を蔽う様に被さり、二人がそのベールに溶け込み、ベールも又二人と一体となって、やがてその場からゆっくりと消えて行きました。二人ともそれまでとは格段の美しさ、永遠の美しさに輝いておりました。なにしろ二人とも一段界上の光明の世界へと向上して行ったのですから。

それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく楽器による演奏が聞こえ、それが私たちの歌声と融合し一体となっておりました。

それはそれは美しい光景でした。それは、向上していく二人にとってはそれまでの努力を祝福する餞別(ハナムケ)であり、見送る者、二人が辿った道をこれから辿らねばならない者にとっては、一層の努力を鼓舞するものでした。

後で尋ねてみましたら、その音楽は円座の外側にある寺院の森から聞こえて来ていたとのことで、道理で一定の方向から聞こえてくるようには思えませんでした。それがこちらの音楽の特徴なのです。大気の一部と成りきっているように感じられるのです。

お二人には宝石までついておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けた霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊…この方にはすでに一つ付いておりましたが、…にも新たにもう一つ左肩についており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。どういう過程でそうなるのかは判りません。

私達の推測をしておりますが、あなたに言えるほどの確信はありません。それに、私達が理解している事を地上の言葉で伝える事自体が難しいのです。儀式が終わると、みんな其々の仕事に戻りました。実際の儀式は今述べたよりも長時間にわたるもので、参加した人たちに深い感銘を与えました。

儀式の最中の事ですが、私たちが立っている位置から丘越しに見える平地の向こう端に一個の光が輝いて見え、それが私達には人間の容姿をしているように見えました。今思うとそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお一人であったようです。

勿論私より鮮明にその御姿を拝した人もおられます。何故なら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。

さて、ここであなたに考えてみて頂きたいのです。こうした話をあなた自身の頭から出たものだと思われますか。それともあなたを通じてあなたの外部から来たものだと思われますか。今日その机に座って腰かけた時、あなたはまさかこうした話が綴られるとは予想しなかった筈です。

私達も予めその点に配慮して先入観を入れないように用心したのです。でも、こうしてあなたと霊的なつながりが出来た途端に、今の話を綴られました。そうではありませんか。

…その通りです。その点は正直に認めます。

そうですとも、では、これでお別れです。あなたとお別れすると言うのではありません。私達はあなた理解出来ない或る意味で常にあなたの側におります。あなたの手を借りて書くと言う仕事としばしお別れと言う意味です。神の祝福のあらん事を祈りながら、ではまた明日まで、さようなら。

第2節 悲しみの館
1913年9月24日 水曜日

あなたとの間に始められたこうした通信が究極に置いてどう言う影響をおよぼすか…其の事を少し遠い先へ目をやって現在のご自分の心理状態の成り行きとの関連に置いて考察して御覧なさい。

私達霊界の者から見た時、これまでの事の成り行きが私達の目にどのように映っていたと思われますか。それはちょうど霧の海に太陽に光が差し込んだのと同じで、霧が次第に晴れ上がり、それまで隠されていた景色がはっきりと、そしてより美しくその姿を見せてまいります。

あなたの精神状態もいずれそうなると私達は見ております。暫くは真理と言う名の太陽に目がくらみ、真相が分かるよりはむしろ当惑なさるでしょうけど、目指すものは光明である事、究極においては影を宿さぬ光だけの世界となる事を悟られる事でしょう。

光は必ずしも有難たがられるものとは決まっておりません。日光で成長するようにできていない種類の生物がいるのと同じです。

そういう人は其れで宜しい。そしてあなたはあなたの道を歩まれる事です。進むにつれてより強い光、神の愛のより大きな美しさに慣れてくるでしょう。光を好まぬ者には、無限の叡智と融合したその光の強さは迷惑でしかないのでしょうけど……。

ではここでもう一つ、神の御光そのものに輝くこの地域で見かけた楽しい光景をお伝えしましょう。

つい先頃の事ですが、私達は美しい森の多い土地を散策しておりました。歩きながらおしゃべりを始めたのですが、それもほんの少しの間でした。と言うのは、全てを聖なる静寂の中に吸い込んでしまうような音楽を感じ取ったのです。

その時です。前方に間違いなく上級界の天使と思われる神々しいお姿が目に入りました。

その方は立ったまま笑みを浮かべて私達を見つめておられます。何も語りかけません。が、その内私達の内の一人に特別のメッセージを持って来られた事を私は感じ取りました。そしてそれがほかならぬ私である事もすぐに分かりました。

私達が立ち止まって待ち受けていますとすぐ近くまでお出でになり、身に着けておられるマント風のもの…琥珀色でした…。を片手で少し持ち上げて私の肩に掛け、手も肩に置き、さらに頬を私の髪を当てて…私より遥かに背の高い方でした。…優しくこうおっしゃいました。

「私はあなた方が信仰しておられる主イエスの命を受けてまいりました。主は全てをお見通しです。あなたはまだ先の事がお判りでない。そこでこれからあなたがおやりになる仕事の為の力をお授けしましょう。実はあなたはこちらでの新たな使命に携わる一人として選ばれております。

勿論そちらにおられる仲間の方々とお会いになろうと思えばいつでもできますが、申し訳ないが暫くお別れ頂いて、これからあなたが新しく住まわれる場所と、やって頂かねばならない仕事の案内をさせて下さい」

天使様がそう言い終わると仲間のものが私の周りに集まってきて頬にキスをしたり手を握ったりして祝福してくれました。皆自分の事のように喜んでくれました。いえ、この言い方はぴったり致しません。嬉しさを十分に言い表しておりません。

先ほどの御言葉の真意を私達が語り合うのをお待ちになってから天使様が再び私に近づき、今度は私の手を取って何処かへ連れて行かれました。

暫く歩いて行くうちに、ふわっと両足が地面から離れ空中を飛び始めました。別に怖いとは思いませんでした。私にはすでにそれだけの力が与えられていた訳です。数々の宮殿のような建物の見える高い山並みの上空を通過し、かなりの長旅の末にようやく降りました。そこは一度も見来た事のない都市でした。

その都市を包む光は決して悪くないのですが、私の目が其の明るさに慣れていない為に周りの事が良く判りませんでした。が、その内大きな建物を取り囲む庭の中にいる事が判ってきました。玄関へ向けて階段状に長い道がついており、その一番上にテラスのようなものがあります。

建物全体が各種の色彩―ピンクと青と赤と黄―の一つの素材で出来ており、それが全体として黄色の様な輝き、柔らかさを持った輝きを見せておりました。其の昇り段を天使の方へ上がって行き入口のところまで来ました。そこにはドアはついておりませんでした。

そこで一人の美しい女性が迎えて下さいました。堂々としておられましたが決して尊大に見えません。実はその方は「悲しみの館」の主人です。こんなところで不似合いな言葉と思われるでしょう。実はこう言う事なのです。

悲しみと言うのはここに住んでおられる方の悲しみではなく、世話を仰せつかっている人間の身の上の事です。悲しみに打ちひしがれている地上の人々の事です。

この館に勤める人はそうした地上の不幸な人々へ向けて霊波を送り、その悲しみを和らげてあげるのが仕事なのです。こちらでは物事の真相に迫りその根源を知らなくてはなりません。

それには大変奥の深い勉強が必要であり、少しずつ段階的に進んでいく他有りません。

今“霊波”と言う用語を用いたのも、それが真相をズバリ言い表した言葉であり、あなたにとって一番理解しやすいと思うからです。
其の女性はとても優しく私を迎えて中へ案内し、建物の一部を紹介して下さいました。地上とはまるで趣の異なるもので、説明するのが困難です。強いて言えば建物全体が生命で脈打っている感じで、私達の意志の生命力に反応しているようでした。

以来そこでの仕事が現段階での私の最も新しい仕事で、とても楽しいものになりそうです。でも私はまだ、地上から届いて鑑識される祈りと、耳に聞こえてくる…と言うよりはやはりこれも鑑識されると言った方が良いでしょう…悶え苦しむ人々の嘆きがやっと分かるようになり始めたばかりです。

私達は其れをいわば感じ取り、それに対する回答をバイブレーションで送り返します。慣れれば無意識に出来るようになるものですが、最初の内は大変な努力が要ります。私にはとても大変な事です。でもその努力にも、携わる者にはそれなりの恵みがあるものです。

送り届けた慰めや援助などの効果は再び跳ね返ってくるものなのですが、勉強していくうちに分かってきたのは、地上と接触を保っているこちらの地域でも、この送り届ける慰めと援助の他は私には何も知り得ない地域があると言う事です。

今のところ私がその仕事に携わるのは一度にほんの僅かな間だけで、すぐにその都市や近郊の見学に出かけます。何処をみても荘厳で、前にいたところよりもずっと美しいです。

今ではかつての仲間を訪ねに行く事があります。会った時にどんな話をするか、あなたにも大体の想像がつくと思います。

仕事も楽しいですが、それに劣らず語り合うのも楽しいものです。あたりは主イエスキリストのもとにおける安らかさに包まれております。そこは暗闇のない世界です。あなたも始めに述べた霧が晴れればこの土地を訪れる事になるでしょう。その時は私が何もかも案内して差し上げましょう。

その内多分あなたも向上して、今度はあなたの方が、あの天使様がして下さったように、私の手を取ってあなたの携わるお仕事を見せに案内して下さることになるでしょう。随分意欲的だと思っておられるようですね。それはそうですよ。

それが母親のそうね、煩悩と言うものかしら。いえ、母親ならではの喜びではないかしら。

では又にしましょう。今のあなたの心の状態を見れば、全てを真実と信じておられるのが分かります。嬉しそうに明るく輝いて見えますよ。それは母親である私にも嬉しい事です。では、おやすみなさい。神よ、安らかに垂れ給え。

第3節 バイブレーションの原理
1913年9月25日 木曜日

聖書の中に主イエスがペテロの事を自分への反逆者であるかの如く述べた部分があり、あなたは其の真意を捉えかねている様子だから、今夜は、十分でないかもしれないけれどぜひその事を明らかにしてみたいと思います。

御存じの通り、その時イエスはエルサレムへ行く途中でした。そして弟子達に対し自分はエルサレムで殺されるであろうと述べます。

その時のイエスの真理は、自分が殺される事によって一見自分達の使命が失敗に終わったかのごとく思われるかもしれないが、見る目を持つ者には…弟子達がそうであって欲しいとイエスは思った事でしょうが…自分の真の目的はそれまでの伝導の道よりもはるかに強力にして栄光ある発展の為の口火を切ることであり、それが父なる神より授かった地上人類の霊的高揚の為の自分の使命なのだと言う事でした。

ペテロは其れが理解できない事を彼なりの態度で示しました。当然であり、無理もないことですが、この事に関しては何時も見落とされている事があります。

それは、イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(ハリツケ)はその使命の中における一つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような“喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。

何故ならば、テコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば災いを転じて福となし、神の計画を推進する事になると言う事でした。悲劇をただの不幸と受け止める事が如何に狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の“価値”を理解して始めて分かる事です。

さてイエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子達にもたらさんとしておりました。

もし弟子達がその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子達に託す使命が成就されません。そこでイエスは言いました。…「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」と。そして遂にそうなりました。

最もそれは悲しみの奥義を理解できるようになってからの事です。理解と言っても限られた程度のものでした。が、ある程度の理解は確かに出来たのでした。

こうして文章で綴ってしまえば随分簡単な事のように感じられます。又ある意味では現に単純なのです。神の摂理の基本的原理は全て単純だからです。ですが私達、特に現在の私にとっては、あなたにも判然としないかもしれない重要性を秘めております。

と言いますのは、今の私の生活の大半を過ごしている新しい建物に中での主の課題がそれと同じ事、つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換する事だからです。とても素敵な仕事です。

ですが自由意思の尊厳がもたらすところの数々の制約がいろいろと面倒な問題を生み出します。いかなる人間であっても、その人の自由意思を無視する事は許されないのです。当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同時に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。

時にはうんざりする事もありますが、この仕事に携わる事によって強くなるにつれて、そうした念も消えていく事でしょう。ところであなたの質問は何ですか。訪ねたいと思っている事があるようでしたが。

…いえ、ありません。特別な質問はありませんが。

尋ねたいと思われた事がありませんでしたか。あなたにこうして霊感を印象づける方法と関連した事で。

…そう言えば今朝がた其の事をお聞きしようと思ったことは事実です。すっかり忘れておりました。でも大して説明して頂くほどの事でもないように思いますがいかがでしょうか。私は“精神感応”と呼んではどうかと思いますが。

なるほど当たらずといえども遠からずですね。でもピッタリと言う分けでもありません。精神感応と言うのは未知の分野も含めた大雑把な用語です。私達があなたの印象付ける手段は各種のバイブレーションです。本質が其々少しずつ異なります。

それをあなたの精神へ向けて集中するのです。ですが、どうやらあなたはこの種の問題は今あまり気が乗らないようですね。又の機会に改めて述べる事にしましょう。今あなたが関心を抱いているものがあればおっしゃって見てください。

…では、あなたの住んでおられる家と、新しく始められた仕事についてもう少し話して下さい。

宜しい。では出来るだけ分かりやすくお話いたしましょう。

住居は内側も外側も実に美しく設備が整えられております。浴室もあれば音楽室もあり、私達の意念を反映させて行く上で補助的な役割をする道具もあります。

随分広いものです。私は今“住居”と言いましたが、本当はその続きの建物で、その一つ一つがある主の仕事を割り当てられていて、それが段階的に進んでいくように工夫されております。

どの家からでも始めて次の建物へ進む事が出来ます。でもこんな話は人間にはあまりに不思議過ぎて理解する事も信じる事も出来ないでしょうから、もっと分かりやすいものを取り上げてみましょう。

土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係の様なものがあります。例えば樹木は地上と同じ樹木そのもので、同じように成長しておりますが、其の樹木と建物との間に共鳴関係の様なものがあり、

樹木の種類が異なると共鳴する建物も異なり、建物が目的としている仕事の効率を上げる作用を及ぼしております。それと同じ事が森の中の一つのグループについても言えますし、小道の両脇の花壇、各所にみられる小川や滝の配置についても言えます。

全てが驚くべき叡智から生み出され、その効果は“美しい”の一語に尽きます。

実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側もともにこちらに比して鈍重である為に、その効果がほとんど目立たないだけです。

でも実際にある事はあるのです。例えば花や樹木の栽培が特に上手な人がいるのをご存じでしょう。それから、花が他家よりも長持ちする家―そういう家族があるものです。

切り花の事です。荒削りではありますが、すべて同じ事です。こちらでは影響力が強力で、受ける側も鋭敏なのです。ついでに言えば、この事は私達が今携わっている仕事で個々のケースを正確に診断する上で良い参考になります。

大気も当然この植物と建物によって影響を受けます。と言いますのは、繰り返す事になりますが、そうした建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶―産物と言っても良いでしょう―であり、従って大変強力な創造的念力によるものだからです。
(其の詳しい原理は第六章でアストリエル霊が解説)

大気は又私達の衣服にも影響を及ぼします。更にはその生地と色への影響が私達の性格その物まで沁みこんでいきます。

ですから霊的に性格が似ている者同士は同じ大気の影響を受けている訳ですから、身に纏っているものも色合いと生地がよく似ておりますが、実際には一人一人その個性の違いによって少しずつ違っております。

更に私達がたまたま位置したその地面の影響で衣服の色合いが変化する事があります。あたり一面に色とりどりの草花が繁茂している歩道や様々な品種の植物の配置具合が異なる場所を通りかかると衣服の趣が変化していくのを見るのは面白くもあり、為にもなり、又見た目にも美しくもあります。

小川が又美しいのです。水の妖精の話はあなたも聴いた事があるでしょう。地上の話ですよ。あれは少なくてもこちらで本当の話です。その場全体に生命がみなぎり、すみずみまで浸透しております。と言う事は生命の存在がそこにあると言う事です。

この事は前にいた界でもある程度は知っておりましたが、この界へ来て辺りの不思議さ目新しさに慣れてくると、そうした事は一層はっきりと認識され、同時にこの調子で行くとこれから先の界は一体どうなっているのだろうかと驚異を抱き始めております。

この界の不思議さ等どこへ行ってもあたり前のように思えるからです。

でも、今日はこの辺で止めにしましょう。この美しい御国の片鱗を見せて下さった神は又別の片鱗を見せて下さる事でしょう。これはあなたへの言葉ですよ。今日はこの言葉で終わりとしましょう。それでは。

≪原著者ノート≫
この日のメッセージの最初の部分を綴っている時、私がその話の流れが読み取れず、纏まりがなく混乱しているように思えたが、いま読み返してみると決してそうではない事が判る。

悲しみのバイブレーションについて述べている事を“神の摂理の基本的原理”についての単なるヒントと受け取り、波動の原理を光や熱の解釈に当てはめるのと同じ推理を行えば次の様になりそうである。

悲しみを生ずるバイブレーションの組み合わせは“置き換え”ではなく、“調整”によって行われる。つまり悲しみに沈む魂へ向けて別種のバイブレーションを送る事によって、悲しみのバイブレーションの内の幾つかが中和され幾つかは修正されて別種のものに変化し、その効果が喜び、あるいは安らぎとなる。

こう観れば、この日のメッセージも興味を持ち、多分人生における悩み事を実際に解決していく方法に光を当てる事になるかも知れない。確かにそれが神の一つの手法なのなのであろう。悲しみを生み出す外的条件が取り除かれると言う意味ではない(極端な場合はそうするかもしれないが)。

別種のバイブレーションを吹き込む事によって悲しみを喜びへと転換してしまうと言う意味である。これなら日常生活でもよく見かける事である。

こうした説は科学的思考に馴染めない人には突拍子もない話に聞こえるであろうし“別種のバイブレーション”が実際に同じ“交換価値”を持つ数種のバイブレーションであるとする説を別に非合理的とは思わない人がいる事であろう。

尚最初に言及しているイエスの言葉はヨハネ第16章20である。


第4節 光のかけ橋
1913年9月26日 金曜日

前回の通信は、あなたにもう少し深入りした感応の仕方を試して見るべきであるとの霊団の一人の要請を受けてやってみたものです。が、説明できるようには成りましたが、説明の内容がまだ十分とは言えません。あなたがお望みであれば引き続き同じ問題を取り上げようと思いますが。

―有難うございます。お願いします。

では、あなたにも暫く私達と共にベールのこちら側から考えて頂かねばなりません。まず理解して頂きたいのは、此方へ来て見ると地上で見ていたものとは全く異なった様相を呈している事―おそらく現在地上にいる人の目には非現実的で空想的さえ思えるのではないかと言う事です。

どんなに小さなことでも驚異に満ちておりますから此方へ来たばかりの人は地上での三次元的なものの考え方から脱していない限り飛躍的な進歩は望めません。そしてそれが決して容易なことではないのです。

さてここで例のバイブレーションと言う用語を使用しなくてはなりません。しかしこれを物的なもののように考えては真相は理解できません。私達の言うバイブレーションは作用に置いても性質に置いても単なる機械的な波動ではなく、それ自体に生命力が宿っており、私達はその生命力を活用してものをこしらえているのです。

言わば私達の意志と環境とを結ぶ懸け橋御の様なものです。突き詰めればすべての現象はその生命力で出来ているからです。環境は私達を始め全存在を包む深い生命力の顕現したもの過ぎません。それを原料として私達は物をこしらえ成就する事が出来るのです。

バイブレーションと言うとなんだか実体のないもののように思われがちですが、それがちゃんとした耐久性のあるものを作り上げるのです。

例えば光明界と闇黒界との間の裂け目(127p参考)の上に橋を架けるのもその方法によります。その橋がただの一色ではないのです。暗黒の世界の奥深い処から姿を見せ、次第に輝きを増しながら裂け目を超え、最後に燦々たる光輝を発しながら光明の世界へと入り込んでおります。

その光明界の始まる高台に掛る辺りはピンク色に輝き、大気全体に広がる何とも言えない銀色、アラバスターと言った方が良いでしょうか。そんな感じの光の中で輝いて見えます。

そうですとも、その裂け目に立派に“橋”が掛っているのです。もし無かったら暗黒の世界から光明へと闇を通り抜けて霊魂はどうやって向上進化してくるのですか。

本当なのです。言い落としておりましたが、恐ろしい暗闇の世界をくぐり抜けてその橋をよじ登り、裂け目を此方側へやってくる霊魂が実際にいるのです。最も数は多くありません。

大抵は其の道案内の任に当たっておられる大天使様の言う事が聴けずに後戻りしてしまうのです。

又こう言う事も知っておく必要があります。そうした大天使様の姿は魂の内部に灯された霊的明かりの強さと同じ程度にしか映らないと言う事です。ですから大天使様の言う事を聞いて最後まで付いて行くには、天使様に対する信頼心も必要となってきます。

その信頼心は同時に光と闇とをある程度まで識別できるまで向上した精神の産物でもある訳です。

実際人間の魂の複雑さは一通りではなく、捉え難いものですね。そこで、もうすこし言葉で表現しやすい話に移りましょう。私は其れを“橋”と呼びました。しかし「目は汝の身体の光である」と言う言葉がありますね。

この言葉を此処で改めて呼んで頂きたいのです。そうすれば、それが地上の人間だけでなく、此方の霊魂についても言える事がお判りになると思います。

私はこれまで“橋”と言う呼び方をしてきましたが、実際には地上の橋とはあまり似ていないのです。第一、幅がそれはそれは広いのです。“地域”と呼ぶのが一番当たっているようです。

私はまだ死後の世界のほんの一部しか見ておらず、その見た限りのものだけを話している事を念頭に置いて聞いて下さいよ。同じような裂け目や橋が他にも―多分数えきれないほど―有るに相違ありません。

其の畝つまり私が橋と呼んでいるものを通って光明を求める者が進んできます。実にゆっくりとした足取りです。しかもその途中には幾つかの休憩所が設けてあり、闇黒界から這い上がって来た霊魂がその内の一つに辿り着くと、そこで案内役が交替して、今度は別の天使の一団が次の休憩所まで付き添います。そうやって漸くこちら側に着きます。

私が属している例のコロニ―での仕事も、地上の救済の他に、そうやって向上してくる霊魂の道案内も致しております。それは先ほど述べた仕事とはまた別の分野に属します。私はまだあまり勉強しておりませんのでそこまでは致しません。そちらの方が難しいのです。

と言うのは、此方の世界の暗黒界にいる者を取り巻く悪の影響力は地上のそれに比して遥かに邪悪なのです。

地上はまだ善の中に悪が混じっている程度ですからましです。此方へ来た邪悪な人間がうっかりその暗黒界へ足を踏み入れようものなら、その途轍もなく恐ろしい世界から抜け出ることの大変さを思い知らされます。想像を超えた長い年月にわたって絶望と諦めの状態で過ごす霊が多い理由はそこにあります。

暗黒の世界から這い上がってきた霊魂が無事その橋を渡りきると天使様が優しく手を取って案内して差し上げます。やがて草木の茂った小高い緑の丘まで来ると、そこまで実にゆっくりとした足取りで来た筈なのに、辺りの美しさに打たれて喜びで気絶せんばかりの状態になります。

正反対の暗黒の世界に浸りきっていた霊魂には、僅かな光明にさえ魂が圧倒されんばかりの喜びを感じるのです。

私は今“小高い丘”と言いましたが、高いといっても、それは暗黒の世界と比べた場合の事です。実際には光明の世界の中でも一番低いところなのです。

“裂け目”とか“淵”とかをあなたは寓話のつもりで受け止めているようだけど、私が述べた通りに実際にそこにあるのです。この事は以前にも何処かで説明があった筈です。それから、何故橋をトコトコ歩いてくるのか、なぜ“飛んで”来ないのかと言うと、まだ霊的発達が充分でなくてそれが出来ないと言う事です。もしそんな真似をしたら、一変に谷底へ落ちて道を見失います。

私はまだまだ暗黒の世界へ深入りしておりません。ほんの少しだけですが、悲劇を見るのは当分これまで見たものだけで十分です。暫く今の仕事に精一杯努力して、現在の恵まれた環境のもとで気の毒な人々に援助してあげれば、もっと暗黒界の奥まで入る事を許されるかもしれません。多分許されるでしょう。しかしそれはまだまだ先の話です。

あと一つだけお話しましょう。―あなたはそろそろ休まなくてはならないだろうからね。霊魂が暗黒の世界から逃れて橋の所まで来ると、後から恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、それとともに狐火のようなものがチラチラと見えるそうです。

私は実際に見ていないのではっきりした事は言えませんが、それは仲間を取り逃がした暗黒界の霊魂が悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。要は所詮、善には勝てないのです。いかに小さな善にでもです。が、この事については今はこれ以上深入りしません。

私が今述べたことは私が実際に見たものではなく、又聞き、つまり人から間接的に聞いた事です。ですが、本当の事です。ではお休み。神の御光と安らぎが注がれますように。その御光の中にこそ光明を見出される事でしょう。そうしてその輝きこそ無限に開け行く安らかなる魂の聡明なのです。

第5節 キリスト神の“顕現”
1913年9月27日 土曜日

―もう少し鮮明に感応できないものですか。

これ以上に鮮明にする必要はありません。私達からのメッセージは一応意図した通りに通じております。

つまりこちらで私達の生活ぶりや環境は一応理解して頂けております。ただ一つだけ付け加えておきたい事は、此方へ来たばかりの私達は、まだ霊としての本来の能力を発揮しておらず、あなた方が実感を得ている環境が私達にはモヤのように漠然としか映らず、その状態で最善を尽くさねばならないと言う事です。

―私がこうして書いている姿が見えますか。

見えますとも。但し肉眼とは別のもので見ております。私達に眼は地上の明かりには慣れておりません。こちらの世界の明かりは種類が異なり、内部まで貫通する作用があります。

それであなたの心の中を見てとり、又心に直接働き掛け―あなたそのものに語りかけるのであって、もちろんその左右の耳ではありません。同じように、私達があなたを見る時はあなたそのものを見ており、その肉体ではありません。

肉体は外套の様なものに過ぎません。ですから、仮に私があなたに触れた場合、あなたは其れを肉体的に感じるのではなく、霊的に感じる訳です。私達の感応の具合を理解するにはその点を念頭に置いて、身体や脳と言った器官の奥を見なければいけません。

どうやらあなたは、此方での私達の働きぶりや暮らしの環境についてもっと知りたがっておいでのようですね。こちらに来てからの進歩にとって是非理解しておく必要のある基本的な真理の一つは、神と言うものは地上と同じくこちらでも直接そのお姿を排することはできないと言う事です。

これは必ずしもこちらへやってくる人間の全てが得心してくれるとは限らないのです。皆こちらへ来たらすぐに神々しいお姿を排せる者と期待します。そこで、その信仰が間違っており、神とはそういうものではないと言い聞かされて非常にがっかりします。

神の生命力と崇高さは別にこちらへ来なくても地上に置いて、大自然の内奥を洞察する力を持つ者には明瞭に感得できるものです。こちらでも同じ事です。

ただ異なるのは、生命力により実感があり、その本性を知った者にはその活用が容易に出来ること―あなたに脈動しており、より鋭敏な感覚を身につけた私達には、それを地上にいた時よりも強く感得できると言う事です。

以上は一般的な話として述べたのですが、これにはもう一つ付け加えておく必要があるのは、時折“神の存在”を実感させる現象が特別の目的の為に顕現される事がある事です。ではその一つをお話してみましょう。

有る時、私達は田園地帯のある場所に召集されました。そこには地上時代の宗教も信仰も国籍も異なる人々が大勢集まる事になっておりました。到着すると一団の霊が地上との境界付近の一地域における救済活動の任期を終えて帰ってくるところでした。

地上を去って霊界入りしながら、自分が死んだ事が自覚できずにいる霊を指導する仕事に携わっていた霊の一団です。その方達に連れられて、首尾よく死を自覚した霊が大勢参りました。其々の落ち着くべき界へ行く前にそこで私達とともに感謝の祈りを捧げる為です。年齢は様々です。

年ばかり取って若さも元気もない者、若くてまだ未熟な者などいろいろです。みんな一様に何か嬉しいことを期待している表情です。そして新しい仲間が次々と連れて来られるのを見て、民族による顔かたちの違い、地位や財産の違いからくる色とりどりの服装など不思議そうにじろじろ見つめ合っておりました。

やがて全員が到着しました。すると突如として音楽が押し寄せる波の如く鳴り響いて、その大集団を家族的一体感で包み込みました。その時私達の目に大きな光の十字架が見えました。

其の平野と接する大きな山の背に乗っているように見え、見ているとそれが砕けて細かい光の小片になり始めました。

だんだん判って見ると、それは高級界の天使の大集団で、それが山の上に十字架上に集結していたのでした。其の辺り一面が金色に輝き、遠くに位置する私達にも暖かい愛の息吹となって伝わってきます。

天使の集団がこの低い環境(天使から見て低いと言う事ですが)に馴染むにつれて、そのお姿が次第に私達の視野に明瞭になって参りました。するとです。ちょうど十字が交差する辺りの上方に更に一段と大きい天使のお姿が現れました。

それがどなたであるかは、そこに居合わせた者には直感的に判りました。それはあなたにはもう察しがつくと思いますが、具象体(*)としてのキリスト神の一表現でした。

(*本来は形体を持たない存在が一時的にその存在を示すためにとる形形態。それを見る者の理解度。宗教的信仰・先入観により様々な形態をとる。キリスト神とは地球神界のつまり地球の守護神である。詳しくは第三章で明かされる)

大天使はしばらく黙ってじっと立っておられましたが、やがて右手を高々と上げられました。すると一本に光の柱が見え、それが其の右手に乗りました。

それは一種の通路だったのです。その光の柱の上を別の天使の一団が降りてくるのが見え、手のところまで来ると一旦立ち止り其々に両手を胸にあててこうべを垂れ、拝むような格好でじっとしています。

すると大天使の手が大きく弧を画いて一回転し、その指先を平地へ向けられました。するとその光の柱が私達の方向へ延びてきて、山の頂上と平地との間の架け橋となり、その一番端がそこに集結していた私達の上に掛りました。

見るとその光の架け橋を通って先ほどの天使の一団が降りてきて、私達の真上まで来ました。そこで両手を広げ、一斉に大天使のおられる山頂へ向きました。すると語るとも歌うともつかない大天使のへの賛歌が聞こえてまいりました。

その光景の美しさ、崇高さと言ったら有りません。私達は初めのうちはただただ畏れ多くて黙するのみでした。が、やがて私達も一緒に歌いました。と言うよりは詠唱しました。

それを教えるのが天使様達の来られた目的だったのです。詠唱していると、私達とその山との間に青っぽいピンクの靄が発生し、それが不思議な働きをしたのです。

まるで天体望遠鏡のレンズのように大天使の姿が大写しになり、そのお顔の表情まで見えるようになったのです。同時に、すぐ下に立ち並ぶ天使の一団の姿も同じように大きく映って見えました。が、私達にはその優雅なお顔とお姿が見えるだけで、その真の霊格を読み取るとかはありませんでした。その表情はとても私には述べる事は出来ません。

言葉では言い尽くさない様々な要素が渾然一体となっておりました。愛と慈悲と喜びと威厳とが混じり合っておりました。其の時に私が感じたのは、こうして神と私達とが一体となった時、生命と言うものが実に聖なる遠と差に溢れたものであると言う事です。

仲間の者も同じものを感じ取ったと思いますが、その時はお互いに語り合うどころではなく。大天使のお姿にただ魅入れられておりました。

やがてその靄が大気中の中に融け入ってしまいました。山頂の十字架と大天使のお姿は同じ位置にありましたが、前より鮮明度が薄れ、私達の真上におられた天使の一団も今は去って大天使の上方に見えました。

そして次第に全体が薄れて行き、やがて消滅しました。しかし大天使の存在感はその後も強烈に残っております。多分今回のシーンを見せた目的はその存在感を印象付ける事にあったのでしょう。

私達のように少しでもこちらにいる者に較べて、地上から来たばかりの者には其の見え方は鮮明ではなかったでしょうけど、それでも魂を鼓舞し安らぎを与えるには十分で有ったと思われます。

私達はそれから少しの間其の辺りを散策してから静かな足取りで家路につきました。誰もあまり喋りません。今見たシーンが余りにも印象的だったからです。そして又、こうした顕現にはいろいろと考えさせられるものがあるのです。

その場にいる時にはあまりの荘厳さに圧倒されて全部の意味を考えている余裕はないのです。ですから、後になって段々に考えさせられる事になります。私達は一緒に語り合い、お互いの印象を述べあい、それを総合して、それまで余り理解していなかった事が啓示されている事を発見します。

今回の顕現で私達が最も強い印象を受けた事は大天使様の沈黙の内に語るその威力でした。一言も語られなかったにも関わらず、その動き一つ一つが声となって私達に語りかけてくるように思えたのです。それが何を語っているのかは、実際に声に出しておられないのに、よく理解できました。

今日はこれくらいにしておきましょう。では、さようなら。求める者に主が何を用意されているか、その内にあなたにも判る日が来る事を祈ります。

第6節 暗黒街の天使
1913年9月29日 月曜日

これまでの通信をお読みになるにあたっては、地上より高い視野から観ると言う事が実際にどんなものであるかを、十分に理解して頂く必要があります。

そうしないと私達が述べた事柄に一見すると矛盾するかに思えるところがあって、あなたが不可解に思うことが少なかろうと思うのです。

前回の通信におけるキリスト神の具象体の出現と前々回の巨大な裂け目に橋が架けられる話とは、私にとって皺めて自然につなぐ事が出来ます。と言うのは、実体のあるものとして―勿論霊界の私達にとって実体があると言う事です。

実感を持って私が目撃した暗黒界との間の架け橋は、大天使と配下の霊団が今私達が働いている界と其の霊団のいる高級界との間に掛けた“光の柱”と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象だからです。

私達にとって其の具象化の現象が、あなた方人間にとって物質化現象の様なものである事がこれでお分かりでしょう。あれが私達の低い界にいる者には使いこなせない高次元のバイブレーションによって、高級霊がこの“父の王国”(*)の中に二つの土地を結んだ訳です。

どう言う具合にするのかは今のところ推察するほかないのですが、私達のように地上からやってきた者には、この界と一段上の界とを結ぶ事は別に不思議な事とは思えないのです。

(*本書ではキリスト教的表現が其のまま使用される事が多い。これも聖書の中のイエスの言葉で、広義には死後の世界全体、狭義には其の上級界すなわち神界を差す事がある)

あなたにももっともっと私達の世界の驚異について勉強して頂きたいと言うのが私達の願いです。そうすれば地上生活にありながらもそうした事が自然な事に思えるようになるでしょうし、更に此方へ来てから全くの不案内と言う事もなくて済むのではないでしょうか。

地上生活にあってもと言う意味は、つまりは地上は天上界の胚芽期の様なもので、天上界は地上を磨きあげて完成させたものだと言う事を悟ると言う事です。こちらへ来てからの事は言うまでもないでしょう。

そこでこの問題に関してあなたの理解を助ける意味で、私達が大切なものと大切でないものとを見分け区別する、其の分類法についてお話してみようかと思います。

私達は何か困った事が生じると―私達の仲間内だけの話ですが―何処かの建物の屋上とか丘の頂上など、何処か高い処で周囲が遠くまで見渡せるところに登ります。そこでその困りごとを口で述べ、言い終わると暫く、いわば自分の殻の中に退避するように努めます。

すると普段の自分より高い次元のものを見聞きするようになり、大切なものが其の視力と聴力に反応し、其のまま何時でも高い次元に存在し続けるのが判ります。一方、大して重要でないものについては何も見えもせず、それで大切か否かが区別できる事になります。

―判るような気もしますが、何か良い例を挙げて頂けませんか。

宜しい。では、有る婦人の例で“不信感”の為に進歩を阻害され満足感が得られないまま過ごしていた人の話をしてみましょう。その方は決して悪い人ではないのですが、自分自身の事も、周りの人の事も、どうも確信が持てないのでした。

中でも一番確信が持てないのが天使の事―果たして本当に光と善の存在なのか、もしかしたら天使の身分でありながら同時に闇黒の存在と言う事もあり得るのではないかと疑ったりするのでした。
私達はなぜそんな事で悩むのか理解できませんでした。と言うのは、ここでは何もかもが愛と光明に溢れているように私には思えるからです。が、その内分かった事は、その方には自分より先に他界した親戚の人が何人かいて、此方へ来てもその人達の姿が一人も見当たらず、何処にいるのかも分からないと言う事が原因なのでした。

そうと判ってからは私達はいろいろと相談した揚句に、有る丘に登ってその方を救ってあげる最良の方法を教えて下さいと祈ったのです。すると思いもよらない驚くべき事が起きました。

跪いていると丘の頂上が透明になり、私達は頭を垂れていましたから丘を突き抜けて下の界の一部がくっきりと見え始めたのです。其の時私が見た情景―私達5人全員が見たのですから幻影ではありません―は薄暗い闇の中に荒涼とした平地で、一人の大柄な男が岩に背をもたれて立っております。

そしてその男の前にはもう一人、少し小柄な男が顔を手で覆った恰好で地面に跪ついております。それも男性でした。そしてどうやら立っている男に何か言い訳をしているみたいで、それを立っている男が不審の表情で聞いております。

やがて突然その男が屈み、伏せている男を捕まえて自分の胸のあたりまで立ち上がらせ、其のまま遠くの地平線の、ほのかな明かりの見える方向へと、平地を大股で歩いて行きました。

彼は小柄な男を引きずりながら相当な道のりを歩きました。そしてやがて明かりがずっと大きく見える辺りまで来ると手を離し、行くべき方向を指さしました。すると小柄な男が盛んに礼を言っている様子が見えます。やがてその男は明かりの方向へ走って行きました。

私達はその男の後を目で追いかけました。有るところまで来ると大柄な男の方が橋の方角を指差します。それは前にお話したあの橋です。但しそこは例の“裂け目”の暗黒界側の端です。

その時点でも私達は何故こんな光景を見せられるのかが判りませんでしたが、とにかく後を追い続けると、その橋の入口のところに建てられた大きな建物に辿り着きました。見張りの為の塔ではなく、闇黒界からやってきた者には休養と介助を施すところです。

其の塔からは、その男がずっと見えていた事が判りました。と言うのは、その男が辿りつくとすぐに、橋の上の次の塔へ向けて合図の明かりが点滅されるのが見えたのです。

その時点で丘が普通の状態に戻りました。そしてそれ以上は何も見えませんでした。

私達はますます分からなくなりました。そして丘を下りて帰ろうとしました。すると其の途中で私達の霊団の最高指導者であられる女性の霊が迎えて下さり、そしてその方と一緒にもう一人、私達の界のある地域の高い地位の方とおぼしき男の方がおられました。

私達がまだ一度もお会いした事のない方でした。指導霊がおっしゃるには、その男の方は今しがた私達が見た光景について説明する為においで下さったとの事でした。お話によりますと、

小柄な男性は例の私達が何とかしなければと思っている女性のかつてのご主人で、私達からその婦人に早くあの橋へ行き、そこで暫く滞在しておれば御主人がやってくるであろうとの事でした。

例の大柄な男はその婦人ならさしずめ“闇の天使”とでも呼びたがりそうな存在で、闇黒界でも相当な勢力を持つ霊の一人だと言う事です。でもあのシーンからも想像できますように、よい事もするのです。ではなぜ何時までも暗黒の世界に留っているのですか、と私達は尋ねてみました。

その方は笑顔でこう答えられました。「父なる神の王国はあなた方が想像されるより遥かに素晴らしいところです。これまでもあなた方には、いかなる地域もいかなる界層も他と完全に離れて独立し、それ自体で完全と言うところは一つも見当たらなかった筈です。

そのような処は一つも存在しないのです。あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております。あの土地に留っているのは、一つにはその本性の中の邪悪性のせいで、それが光明の土地に馴染めなくしているのです。

もう一つの理由は、心掛け次第で向上できるのに本人がそれを望まないと言う事です。それは一つには強情さのせいでもありますが、同時に光明を憎むところがあり、あの途方もなく急な坂道を登って行こうとするものを大バカ者だと思っております。

光明界と暗黒界の対比のせいで、其の坂道を登る時の苦痛と煩悶が事さらに大きく感じられるからです。

それで彼はその土地に留るのです。彼のように一種の憂鬱と麻痺的絶望感の為に光明界へ来ようとしない霊が無数におります。

そうかと思うと彼は憎しみと錯乱から残忍性をむき出しにする事があります。あなた方は先ほどご覧になったあの男にも散々残虐な行為を働き、苛めあげておりました。

それも臆病なごろつきに良くみられる残忍さを持ってやっておりました。が、其の残忍性も尽き果てたのでしょう。ご覧になったように、男の懇願が彼の魂の柔らかい琴線に少し触れると、気持ちが変わらないうちに男を放してやり、道まで教えてやりました。

心の奥ではあの愚か者が……と思いながらも、自分よりはましなおろか者だと思っていた事でしょう。」

こうした話は私にとっては始めての事でした。あの暗黒の世界にも少しでも善性があるとは知りませんでした。でも今にして思えば、そうであって当然だと思います。なぜかと言えば、もし完全な悪の固まりであれば私達の居る光明界へ来ようなどと言う心は起きないでしょうから。

―それにしてもこの話は、最初に言われた大切なものとそうでないものとを見分ける事と一体どういう関わりが有ると言うのでしょうか。

善なるものが全て神のものであることは言うまでもありませんが、我々神の子にとっては光明も暗黒界も絶対ではなく、又絶対ではあり得ないと言う事です。両者は相対的に理解しなくてはいけません。

今にして判った事は“暗黒界の天使”が大勢いると言う事です。その人達は魂の本性に何らかの歪んだもの、善なるものへの思考を妨げる強情な処が有る為に、今のところは暗黒界にいるが、その内いつか、永い永い生命の旅路に置いて、もしかしたら今のところは彼らより祝福されている私達を追い越し、神の王国に置いて高い地位を占める事になるかも知れないのです。

ではお休みさない。私達が書いた事をよく熟考して下さい。私達にとっても大変勉強になりました。こうした事が地上にいる人々の多くの方々にも学んで頂ければ有難いと思うのですが。


第2章 薄明の世界
第1節 霊界のフェスティバル
1913年9月30日 火曜日

こうして私達が地上へ降りてきて、今なお地上と言う谷間を歩む一個の人間と通信を交わす時の心境はまずあなたには判らないでしょう。同じく霊界にいる者の中でも、私達は余ほど恵まれた境遇に有ることを身に沁みて感じるのです。

それと言うのも、こうして人類の向上の為に役立つ道がある事を自信を持って語れる段階まで来てみますと、善行と啓発の可能性は本当に無限に有るように思えるのです。もっとも、今のところ私達に出来る事は限られております。

あなたのように、神を信じ其の子イエスに身を預ける事によって神に奉仕する者には何一つ恐れるものは無いとの信念を基に、勇敢な私達に協力してくれる者(*)が出てくるまではこの程度で佳しとしなければならないでしょう。

(オーエン氏は英国国教会の牧師で「推薦文」の筆者ノースクリッフ卿が社主で有った新聞The Weekly Des patchにこの霊界通信を連載した事で教会長老から弾圧を受け撤回を迫られたが、それを拒否したために牧師の職を追われた経験がある)

今なお霊魂の存在と私達の使命とメッセージの疑いをはさむ人の為に一言言わせていただけば、私達が美しい霊界の住処を離れて地球を包む暗い霧の中へ降りてくる時は、決して鼻歌交じりの軽い気持ちで来るのではありません。

私達には使命があるのです。誰かがやらねばならない仕事を携えてやってくるのです。そして、その事に喜びを感じているのです。

さてあれから少し後―地上的な言い方をすれば―の事です。私達は、とある広い場所へ案内されました。そこには大きな湖―湖盆と言った方が良いようなもの―があり、其の中へ絶え間なく水が流れ込んでおり、周りにはかなりの間隔をおいて塔のついた大きな会館(ホール)の様なものが立ち並んで居ります。

建築様式も違えばデザインも違い、素材も同じ種類ではありません。ホールの周りには広々とした庭園や森があって、中には何マイルにも広がっているものもあり、そこには各種の動物や植物が群がっております。

大部分は地上でも見かけるものですが、見かけないものもあります。但し私の記憶では、現在は見かけなくても曽ては生息したものが少しは有ると思います。以上が外観です。

私がお話ししたいのは、そうしたコロニーの存在の目的です。

目的は実は音楽の想像と楽器の製造に他なりません。ここに住む人たちは音楽の研究に携わっているのです。各種の音楽の組み合わせ、その効果、それも単に、“音”として捉えるのではなく、他の要素との関連をも研究します。

幾つかの建物を見学して回りましたが、そこに働く全員が明るく楽しそうな表情で私達を迎えて下さり、隅々まで案内して下さいました。

同時に私達に理解できる範囲の事を説明して下さいましたが、正直言ってそれはそう多くはありませんでした。では私達に理解できた範囲の事を説明してみましょう。

有る建物、―見学してみると製造工場と言うよりは研究所と呼んだ方が良いと思いました―の中では地上で作曲の才能のある人間へ音楽的インスピレーションを送る最良の方法の研究に専念しており、又ある建物では演奏の得意な人間、教会音楽の専門家、コンサートミュージック、あるいはオペラの作曲に携わる人間等々の為に各各の建物が割当てられているのです。

研究の成果は体系的に図表化されます。そこまでがここに働く人達の仕事です。その成果を今度は別のグループの人達が目を通し、それをどうすれば最も効果的に地上へ送れるかを検討します。

検討が終わると更に別のグループの人達が実際にベールを通して地上へ送る作業に取り掛かります。まず目標とされる人間が選別されます。すなわちインスピレーションを最も感応しやすいタイプです、そうした選別をするのが得意なグループがいて、細かい検討が加えられます。

全てが整然としております。湖の周りの研究所から地上の教室やコンサートホール、オペラハウス等へ向けて、天上の音楽を送り届ける事に常時携わっている人達の連携組織が有るのです。

こう言う具合にして地上に立派な音楽が生まれるのです…。勿論そうです、地上の音楽の全てがこちらから送られてとは限りません。

それはこちらの音楽関係者の責任ではなく、ベールのそちら側の入口に問題があり、同時にこちら側の暗黒界の霊団による影響もあり、受け取った地上の作曲家の性格によって色付けされてしまう事もあります。

―塔は何の為にあるのでしょうか。

これからそれを説明しようと思っていたところです。
湖は広大な地域に広がっており、其の沿岸から少し離れた一円にさっきの建物(ホール)が建っております。

そして時折あらかじめ定められた時が来ると、それぞれの研究所で働く人の内の幾人か―時には全員―が其々の塔に集まり、集結し終わるとコンサート、まさしくコンサートの名に相応しいコンサートが催されます。

演奏曲目には前もって打ち合わせが出来ております。一つの塔には一つのクラスの演奏者がおり、別の塔には別のクラスの演奏者がおり、次の塔には一定の音域の合唱団がおり、そのまた次の塔には別の音域の合唱団がおります。それが幾つもあるのです。

地上では四つの音域しかありませんがこちらでは音域が沢山あるのです。更に別の塔の人にも別の受け持ちがあるのですが、私には理解できませんでした。私の推測では其々の塔からの音量を適度に調和させる専門家もいるようでした。

其の事よりも私は催しそのもの―コンサート、フェスティバル何でも宜しい―の話に入りたいと思います。私達は湖の真ん中あたりにある島へ案内されました。

そこは美しい木々と芝生と花が生い茂り、テラスや東屋、石または木で出来た腰掛けなどがしつらえてあります。そこでフェスティバルを聞いたのです。

まず最初のコードが鳴り響きました。長く途切れることなく、そして次第に大きくなって行き、ついにはその土地全体―陸も水も樹木の葉一枚一枚までも行き亘っていくように思えました。それは全ての塔にいる楽団及び合唱団にキーを知らせるものでした。

やがてそれが弱まって行き全体がシーンと静まり返りました。すると今度は次第にオーケストラの演奏が聞こえてまいりました。多くの塔から出ているのですがどの演奏が何処の塔と言う区別がつきません。完全なハーモニーがあり、音調のバランスは完璧でした。

続いて合唱が始まりました。其の天上の音楽を地上の言語で叙述するなど、とても無理な話なのですが、でもその何分の一でも感じ取って頂けるかもしれないと思って述べているのです。

簡単に言えば、全ての存在をより麗しくするものがありました。美しいと言うだけではないのです。麗しさがあるのです。この二つの形容詞は意味合いが違うつもりで使用しております。

私達の顔に麗しい色合いと表情が現われ、樹木は色彩が一段と深みを増し、大気は虹の様な色彩をした霞に似たものに変化していきました。それが何の邪魔にもならないのです。むしろ全てを一体化させるような感じすら致しました。

水面には虹の色が映り、私達の衣服も其の色彩を一段と強めておりました。更には動物や小鳥までが其の音域に反応を示しているのです。

一羽の白い鳥が特に記憶に残っておりますが、その美しい乳白色羽根が次第に輝きを増し、林の方に飛んでいく直前に見た時は、まるで磨きあげた黄金の様な色―透明な光あるいは炎のように輝いておりました。

やがて霞がゆっくりと消えて行くと私達全員、そして何もかもが再びいつもの状態に戻りました。と言っても余韻は残っておりました。強いて言うならば“安らぎ”とでも言うべきでものでした。

以上がこの“音楽の里”で得た体験です。私達が聞いた音楽はその後専門家が出来具合を繰り返し討論し合い、ここを直し、そこを直して、これを何かの時、例えばこちらでの感謝祭(*)とか、地上での任務を終えて帰ってくる霊団を迎えるレセプションとか、その他の用途に使用される事になります。

何しろこちらの世界では音楽が全ての生活面に浸透しております。いえ、全てが音楽で有る様にさえ思えるのです。音楽と色彩と美の世界です。全てが神の愛の中で生きております。私達はとてもその愛に応えきれません。

なのに神の愛が私達を高き世界へ誘い、行きつくところ全てに愛がみなぎり神の美を身につける如くに其の愛を身につけなくてはいけないのです。そうせざるを得ないのです。何故なら天界では神が全てであり、何ものにも変えられないものだからです。愛とは喜びです。

それをあなたが実感として理解するようになるのは、あなた自身が私達と同じ所へ来て私達と同じものを聞き、私達が神の愛を少し知る毎に見る事を得た神の美が上下、前後、左右、辺り一面に息づき輝いているのを目のあたりにした時のことでしかないでしょう。

力強く生きなさい。勇気を持って生きなさい。それだけの価値のある人生です。それは私たち自らが証言しているのですから。

では、おやすみ。時折睡眠中に今お話したような音楽の微かなこだまをあなたの霊的環境の中に漂わせているのですよ。それは必ず翌日の生活と仕事の中に善い影響を及ぼしております。
(*霊界でもよく祭日が祝われる話が他の霊界通信にも出てくる。地上を真似たのではなく、逆に霊界の催しが人間界に反映しているのである)

第2節 色彩の館
1913年10月1日 水曜日

昨晩の“音楽の里”について述べた事は、私達が見聞きした事のホンの概略を述べたものです。それに私達は其の里のごく一部しか見学していないのです。

聞くところによりますと実際は其の時想像していたよりもはるかに広いもの、湖を中心として説く山岳地方まで広がっております。その山の地方にも研究所があり、一種の無線装置によって他の研究所と連絡を取りながら全体としての共同研究が休みなく続けられております。

見学を終えて帰り道で脇へ眼をやると、又目新しいものが目に入りました。とても大きな樹木の植林地で、其の中にも高い建物が聳えております。

前の様なただの塔ではなく、色とりどりの大小の尖塔やドームがついており、其の中に大小のホールが幾つもありました。それが一つの建物で、とても高く又広々としております。私達が尋ねると住民の一人がとても丁寧に優しく迎えて中へ案内して下さいました。

そして、まずその壁の不思議さに驚かされました。外側から見ると不透明なのに内側から見ると透明なのです。そして大小のホールを次から次へと回って気が付いたのは、各々のホールの照明の色調が多少ずつ隣のホールと違っている事でした。

基の色彩は同じなのです。ですから別の色と言う感じはしないのですが、其の深みとか明るさとかが少しずつ違っておりました。

小さいホールはほとんど同じ色調をしておりました。其の数多い小ホールを通過していくと幾つか目に大ホールがあり、そこに、それに連なる小ホールの色彩の全てが集められております。

果たして小ホールの一つ一つが一個の色調を滲み出していると断言して良いのかどうか自信はありませんが、思い出す限りではそんな印象でした。見たものが余りに多くて一つ一つを細かく覚えていないのです。

それに、それが初めての訪問でした。ですから大雑把な説明と受け止めて下さい。

大ホールの一つは“オレンジホール”と呼ばれ、そこには原色のオレンジの有りとあらゆる色調―ほんのりとした明るい黄金色から最も深いオレンジ色まで有りました。更にもう一つの大ホールは“レッドホール”と呼ばれ、ピンクのバラの花びらのうっすらとした色調から深紅のバラかダリヤの濃い色調までがホール一杯に漂っていました。

さらには“バイオレットホール”と言うのがあり、ヘリオトロープあるいはアメシストのあの微妙な紫の色調からパンジーのあの濃い色調まで輝いております。

このような具合にしてその他の色彩にもそれぞれのホールが有るのですが、言い落としてならないのは、これ以外にはあなたの知らない色、―七色以外の、いわば紫外色と赤外色もある事で、それは其れは素敵な色です。

そうした色調は一つに融合してしまうことなく、それぞれが独自の色調を発散しながら、それでいて全体が素敵に、見事に調和しているのです。

そうした透明なホールが一体何の為に有るのかと思っておられるようですね。それは各種の生命―動物、植物、それに鉱物、このうち徳の前二者へ及ぼす色彩の研究をするところなのです。これに衣服も含まれます。

私達の衣服の生地と色調は着る人の霊格と性格を反映するからです。自分を取り巻く環境はいわば自分の一部です。それはあなた方人間も同じです。中でも光が一つの要素、重要な要素となっています。私達がホールで見た通り各種の条件下で実験する上でも重要な働きをしているのです。

聞くところによりますと、こうした研究の成果が地球及び他の惑星の植物を担当しているグループへ手渡されるそうです。しかし、全てが採用される訳ではありません。繊細過ぎて地球や他の惑星の様な鈍重な世界には応用できないものもあり、結局はほんの一部だけが地球へ向けられると言う事になるそうです。

残念ですがこれ以上の事は私には述べられません。一つには今述べた環境上制約がありますし、又一つには内容が科学的で私には不向きと言う事でもあります。ただ一つだけそこでお尋ねしたい事を付け加えておきましょう。

そこには原色の全てを一つのホールに一緒に集める事はしません。なぜか知りません。もしかしたら私よりその方面に通じている仲間の人達が考えているように、一緒にしたときに出るエネルギーが余りに強烈なので、特別に設計した建物を、それも多分どこか高い山の中にでも立てなくてはならないものかも知れません。

仲間の人達が言うには、その場合は周辺のかなりの距離の範囲で植物が生育しないだろうと言う事です。更に、私達がお会いした人々が果たしてそうした莫大なエネルギーを処理(コントロール)出来るかどうか疑問だと言っております。

もっと高い霊格と技術が必要であろうと考える訳です。しかし、もしかしたら高い界へ行けばすでにそうした研究所があって、それが今紹介した研究所と連絡が取れているのかもしれません。

こちらの整然とした秩序から判断すれば、その想像はまず間違いないでしょう。

私が其のコロニー、あるいは総合研究所と呼んでもよいかもしれませんが、そこを出て中央のドームが見あげられる少し離れた場所まで来た時、私達のこの度の見学旅行を滞りなく進める為に同伴していた指導霊が私達の足を止めて、出発の時から約束していたお別れのプレゼントをお見えしましょうとおっしゃるのです。

何だろうと思って見つめたのですが何も見えません。少し間を置いてから皆怪訝な顔で指導霊を見つめました。すると指導霊はにっこり笑っておられます。私達はもう一度良く見ました。

やがて仲間の一人が言いました。「さっきここで足を止めて見上げた時、あのドームは何色だったかしら」。すると、もう一人が「赤色だったと思うけど」と言いますが、誰一人確実に覚えている者はいませんでした。

ともかくその時は黄金色をしておりました。そこで「暫く見ていましょうよ」と言って皆で見つめておりますと、なるほど、やがてそれが緑色に変わりました。ところがいつどの辺から緑色に変化し始めるのかが見分けられないのです。

その調子で次から次へと一様に色彩が変化していくのです。それが暫くの間続きましたが、何とも言えない美しさでした。

やがてドームが完全に見えなくなりました。指導霊の話ではドームはちゃんと同じ場所に有るのだそうです。それが、各ホールから有る主の光の要素を集めて組み合わせる事によってそのように姿が見えなくなる―それがその建物で仕事をしている人が工夫した成果の一つだと言う事です。

そう見ているとドームの林の上空にドームは見えないままです―巨大なピンクのバラが出現しました。それがゆっくりと色調を深めて深紅に変わり、其の大きな花弁の間で美しい容姿をした子供達が遊び戯れていたり、大人の男女が立ち話をしていたり、歩きながら話に興じたりしています。皆素敵で美しい、そして幸せそうな姿をしております。

一方では小鹿や親鹿、小鳥などが走り回ったり飛びまわったり寝そべったりしています。花は花弁が誇張して丘陵地や小山等の自然の風景の舞台と化し、その上を子供たちが動物と楽しそうに可憐な姿で遊び戯れているのです。

それがやがてゆっくりと薄れて行き、その内ただの虚空に戻りました。私達はその場に立ったままの姿でそうした光景を幾つか見せて頂いたのです。

もう一つ見せて頂いたのは光の円柱で、ちょうどドームの有る辺りから垂直に伸び、其のまま天空に直立しておりました。純白の光で、その安定した形を見ていると、まるで固形物のように見えました。

その内、先ほどのホールの一つから一条の色彩を帯びた光が斜め放たれて光の円柱に当たりました。すると各々のホールから様々な色彩の光が放たれました。

赤、青、緑、紫、オレンジ―淡いものから中間のもの、そして濃いものまで―いろいろで、あなたの知っているものは勿論、ご存じでないものもいくつかありました。それら全てが純白の光の柱の中間部に斜めにつながりました。

見ているとそれが形を整え始めました。一本一本が道となり、沿道にビルや住居、城、森、寺院、その他が立ち並んで居ります。そしてその傾斜した道を大勢の人が上がって行きます。

一つの道は全部同じ色をしておりますが、色調は多彩でした。それは其れは素敵な光景でした。円柱まで近づくと、少し手前のところで、それを取り囲む様な形で立ち止りました。

すると円柱の頂上が美しい白百合の花のように、ゆっくりと開きました。そしてその花びらがうねりながら反り返って、下へ下へと垂れて行き、立ち止まっている群衆と円柱との間に広がりました。

すると今度は円柱の底辺が同じように開き、丸い踊り場の様な形で、群衆が立ち止っている場所との空間を埋めました。

これで群衆は上へあがる事が出来ます。今や全体が―馬も乗り者も―其々の色調を止めながら渾然となっております。その様子はまるで祝宴か祭礼にでも臨むかのように、多彩な色調をした一つの巨大なパピリオンに集まり行く素敵で楽しい大群衆を見ていると言う感じでした。其の群衆の色調が天井と床つまり歩道に反映し、その全体から発する光輝は何とも言いようのないほど素晴らしいものでした。

やがて群衆は幾つかのグループに分かれました。すると中央の円柱が巨大なオルガンのような音を鳴り響かせました。何が始まろうとしているのかはすぐに判りました。

間もなく声楽と楽器による“グロリア・イン・エクセルシス・デオ”(*)の大音楽が始まりました。高き光の中に増します神―全ての子等に生命を与え、その栄光を子等が耐えうるだけの光の中に反映され給う全知全能なる神よ―と、大体そういう意味の賛歌が歌われ、そしてこのシーンも次第に消えて行きました。多分この後其の大群衆は光に道を後戻りして帰って行ったでしょうが、それは見せて頂けませんでした。確かに、その必要のなかったのです。

さ、時間が来ました。残念ですが、これにて終わりにしなければなりませんね。では神の御加護のあらんことを。(*Gloria in Excels is Deo点なる神の栄光あれ、の意のラテン語で、キリスト教の大小頌栄の最初の句ルカ2・14)

第3節 意念の力
1913年10月2日 木曜日

“イスラエルの民に申すがよい―ひたすらに前進せよ”と、(*)これが私達が今あなたに申し上げたいメッセージです。ひるんではいけません。

行く道はきっと明るく照らして下さいます。全能なる神と主イエスを固く信ずる者には何一つ恐れるものはありません。

(*モーゼが神のお告げに従ってイスラエルの民を引き連れてエジプトを脱出する時、ひるみかける民を励ました言葉であるが、この頃オーエン氏は国教会の長老から弾圧を受けて内心動揺をきたしていた事が推察される)

私が今更このような事を書くのは、あなたの心にまだ何かしらの疑念が漂っているからです。わたしたちの存在を感じ取っておられる事は私達にも判っております。ですが前回に述べたような話が余りにおとぎ話じみて信じられないようですね。

では申しますが、実を言えばこうした天界の不思議さ美しさは、地上のいかなるおとぎ話も足元にも寄れない位、もっともっと不思議で美しいのです。

それに、おとぎ話の中に出て来る風景や建物は、此方で見られるものと似ていない事もないのです。

まだ本の僅かしか見物しておりませんが、その僅かな見聞から判断しても、地上の人間の想像力から生まれるもの等は、其の不自由な肉体をかなぐり捨ててこの展開に光の中に立った時に待ち受けている栄光などに較べれば、まったく物の数ではない事を確信しております。

さて今夜お話したいのは、これまでとは少し趣が異なり、私達新米を教え楽しませる為に見せて下さった現象的な事ではなくして、此方の事物の本質にかかわる事です。

今あたりを見下ろす高い山の頂上に立ったとしましょう。其処から見晴らす光景は何処か地上とは違うのです。例えば、まず空気の澄みきり具合いと距離感が地上と何処か違う事に気づきます。遠いといっても、地上での遠さと違うのです。

と言うのは、其の頂上から地平線の近く、あるいはさらにその向こうのある地点へ行きたいと思えば、わざわざ山を下りなくとも、そう念ずるだけで行けるのです。

速くいけるか遅いかは意念の性質と霊覚次第です。又今おかれている境涯の霊的性質より一段と精妙な大気―とでも呼ぶより仕方ないでしょう―に包まれた地域へ突入できるか否かも、その人の意念と霊格次第なのです。

高級界からお出でになる天使のお姿が私達に必ずしも見えないのはその為です。見え方も人によって異なります。みんなが同じお姿を排するのは、私達の視覚にあったように容姿を整えられた時だけです。

もしその方の後をついて行く、つまりその方の本来の世界へ向かって行きますと、途中で疲労を覚え、ついて行けなくなってきます。霊力次第でもっと先まで行けるものもおりますが。

更にその頂上に立ってみますと天空が不透明に見えるのですが、それは天空そのものの問題ではなくて、霊的な光の性質つまり下の景色からの距離が大きくなるにつれて強度を増して行く性質を持つ霊的な光の問題で有る事が判ります。

ですから、霊力次第で遠くまで見通して其処に存在する生命や景色が見える人もおれば、見えない人もいる訳です。

又見わたせば一面に住居やビルが立ち並んでいるのが見えます。その内の幾つかは私が説明したとおりです。しかしビルと言っても単なる建物、単なる仕事場あるいは研究所と言うのではありません。

その一つ一つの構造からはその建物の性格は疎か、それを建設した人及びそこに住まう人の性格も読み取れない事でしょう。永遠に朽ちることなく存在している事は確かです。
が、地上の建物が何時までも陰気のたち残っているのとは違います。常に発展し、装飾を改め、必要に応じて色彩、形、素材を変えて行きます。取り壊して再び立て直すという手間は要りません。建っている其のままで手直しします。

時の開花による影響は出てきません。崩たり朽ちたりいたしません。其の耐久性はひとえに建築主の意念に掛っており、意念を維持している限り建っており、意念次第で形が変えられます。

もう一つ気がつく事は、小鳥が遠くから飛んできて、完璧な正確さで目標物に留る事です、此方にも伝書鳩の様な訓練された鳥がおります。

でも地上とは躾け方が違います。第一こちらの鳥は撃ち落とされたりいじめられたりする事がありませんから、人間を怖がりません。そこで小鳥を一つの通信手段として使用する事があります。勿論不可欠の手段と言う分けではありません。

他にもっと迅速で盲率的な通信方法が有るものですから。ですが、必需品でなくても美しいからと言うだけで装飾品として身につける事があるのと同じで、小鳥を愛玩道具として通信に使用する訳です。

そんなのがしょっちゅう飛びまわっており、とても可愛くて愛すべき動物です。小鳥も仕事をちゃんと弁えていて、喜んでやっております。

面白い話を聞きました。有る時そんな鳥の一羽が仲間を追い抜い抜こうとして、ついスピードを出し過ぎて地球の圏外に入り込んでしまいました。それを霊視能力のある人間が見つけて発砲しました。驚いた小鳥は―銃の音に驚いたのではありません。

撃とうとした時の意念を感じ取ったのです。―ここは自分の居るところではない事に気づき慌てて逃げ帰りました。感じ取ったのは殺そうと言う欲念でした。

それを不気味に思った小鳥はその体験を仲間に話して聞かせようとするのですが、うまく話せません。それはそうです。何しろそんな邪念はこちらの小鳥は知らないのですから。こちらでの小鳥の生活を地上の小鳥に話しても判ってもらえないのと同じです。

そこで仲間が言いました。―君が話せないような話なら、もう一度地球へ戻ってその男を見つけて、それをどう話して聞かせたらいいのか尋ねて来たらどうか。と。

そう言われて小鳥はその通りにしました。すると其の人間―農夫でした―が“ピジンパイ”と言えば判ってもらえるだろうと答えました。

小鳥はその返事を携えて帰ってきましたが、さてその言葉をどう訳せば良いのか判らず、第一その意味も判らなかったので、自分の判断で次の様な意味の事を伝えました。すなわち、これから地球を訪れるものはそこが本当に自分にとって適切な界であるかどうかをよく確かめてからにしなさい。と。

この話がお訓えんとしているのはこう言う事です。与えられた仕事は、自分の納得する範囲で努力すべき事、―熱心のあまりに自分の立場、あるいは領域を確かめずに仲間を出し抜いてはならない。

さもないと自分は“進んでいる”つもりでいて実はスタートした界より下の界層へ堕落し、そこの最高の者さえ自分本来の界の最低のものより進歩がくれており、仲間として連れ立って行く相手としては面白くないと言った結果になると言う事です。

これなどは軽い小話(エピソート)程度に聞いて頂けば結構ですが、これで私達も時に笑いこげる事もある事、馬鹿げた冗談を言ったり、真面目なつもりで間の抜けた事をしたりすることがお分かり頂ける事でしょう。

ではさようなら。常に愉しい心を失わないようにね。

第4節 死の自覚
1913年10月3日 金曜日

もしあなたが霊的交信の真実性に少しでも疑念を抱いた時は、これまでに受け取った通信をよく検討なさる事です。きっと私達の述べた事に一貫した意図が有る事を意味取られる事でしょう。

その意図とは、霊の世界が、不思議な面もあるにせよ、極めて自然に出来上っている事をあなたに、そしてあなたを通じて他の人々に理解して頂く事です。

実は私達は時折、地上時代を振り返り、死後の世界を暗いものにしていた事を反省して、今地上にいる人々にもっと明るく計画名ものを抱かせてあげたいと思う事があるのです。死後にどんな事が待ち受けているかが良く判らず、従って極めて曖昧なものを抱いて生きておりました。それで宜しいと言う人が大勢おりますがこうして真相に見える立場に立っていると、やはり確固たる目的を目的成就の為には曖昧では行けないと思います。

確固たる来世感を持っておれば決断力を与え勇気ある態度に出る事を可能にします。大勢でなくても、地上で善の為に闘っておられる人々に霊界の実在と明るさについての信念を植え付ける事が出来れば、その明るい世界からこうして地上へ降りてくる苦労も多いに報われると言うものです。

ではこれから、地上の人間がこちらへ来た時に見せる反応をいろいろ紹介してみましょう。勿論霊的発達段階が一様ではありませんから、此方の対応の仕方も様々です。御存じの通りその多くは当分の間自分がいわゆる死んだ人間である事に気づきません。

その理由は、ちゃんと身体を持って生きているからであり、それに、死及び死後について抱いていた先入観が決して容易に捨てられるものではないからです。

そうした人達に対して最初にしてあげる事は、ですから、ここがもう地上ではないのだと言う事を自覚される事で、その為に又いろいろな手段を講じます。

一つの方法はすでに他界している親しい友人あるいは肉親の名前を挙げてみる事です。すると、知っているけどもうこの世にはいません。そこで当人を呼び寄せて対面させ、死んだ人もこうしてちゃんと生き続けている事を実証し、だからあなたも死んだ人間なのですと説得します。これが必ずしも功を奏さないのです。誤った死の観念が執拗に邪魔するのです。そこで手段を変える事になります。

今度は地上の住みなれた土地へ連れて行き、後に残した人々の様子を見せて、その様子が以前と違っている様子を見せつけます。

それでも得心しない時は、死の直前の体験の記憶を辿らせ、最後の眠りのついた時の様子を辿らせ、最後の眠りに就いた時の様子と、其の眠りから醒めた時の様子とを繋いで、その違いを認識させるようにします。

以上の手段が全部失敗するケースが決して少なくありません。あなたの想像以上にうまくいかないものです。と言うのも性格は一年一年じっくりと築きあげられたものであり、それと並行して物の考え方も其の性格に沁みこんでおります。ですから、あまり性急な事をしないように言う配慮も必要です。無理をすると却って発達を遅らせる事にもなりかねません。

もっとも、そんなてこずらせる人ばかりではありません。物分かりがよくて、すぐに死んだ事を自覚してくれる人もおります。こうなると私達の仕事も楽です。

有る時私達は大きな町の大きな病院へ行く事になりました。そこで他の何名かの人とともにこれから他界してくる一人の女性の世話をする事になっておりました。

他の人達はそれまでずっとその女性の病床で様子を窺っていたと言う事で、いよいよ女性が肉体を離れると同時に私達が引き取る事になっておりました。

病室を除くと大勢の人が詰め掛け、皆まるでこれから途方もない惨事でも起きるかのような顔をしております。私達から見るとそれが奇異に思えてならないのです。

なぜかと言えば、其の女性はなかなかできた方で、ようやく永い苦難と悲しみの人生を終え、病に冒された身体からはもうすぐ解放されて、光明の世界へ来ようとしている事が判るからです。

いよいよ昏睡状態に入りました。“生命の糸”を私の仲間が切断して、そっと目醒目を促しました。すると婦人は目を開き、覗き込んでいる人の顔を見てにっこりされました。暫くは安らかで満足しきった表情で横になっておられましたが、その内周囲にいるのが看護婦と縁故者でなくて見知らぬ人ばかりなのだろうと、怪訝に思い始めました。ここはどこかと尋ねるのでありのままを言うと、不思議さと懐かしさが込みあげてきて、もう一度後に残した肉親を見せてほしいと言います。

婦人にはそれが叶えられました(*)ベールを通して地上の病室にいる人々の姿が目に映りました。すると悲しげに首を振って「私がこうして痛みから解放されて楽になった事を知ってくださればいいのに…」とため息交じりに呟き、「あなた方から教えてあげて頂けないかしら」と言います。そこで私達が試みたのですが、その内に一人だけが通じたようですが、それも十分ではなく、その内その人も幻覚だったろうと思って忘れ去りました。(*誰にも叶えられるとは限らない)

私達はその部屋を出ました。そしてその方の体力が幾分回復してから子供の学校へ案内しました。そこにその方のお子さんがいるのです。

其のお子さんと再会した時の感情的シーンはとても言葉では尽くせません。お子さんは数年前に他界し、以来ずっとその学校にいたのです。そこでは今ではお子さんの方が先生格になってお母さんにいろいろと教えていました。ほほえましい光景でした。

建物の中や講内を案内していろいろな物を見せ周り、又友達を紹介しておりました。その顔は生き生きとして喜びに溢れ、お母さんも同じでした。

それから暫く私達二人はその場を離れたのですが、戻って見るとその親子は大きな木の下に腰を掛け、母親が地上に残した人達の話をすると、子供の方はその後こちらへ他界してきた人の事や、その人達と巡り合った時の話、学校での生活の事などを話しておりました。

私達は二人を引き離すのは辛かったのですが、遠からず再び、そして度々、きっと面会に来られるからという約束をして学校を後にしました。

これなどはうまく行った例であり、こうしたケースは少なく有りませんが、又別の経緯(イキサツ)を辿るものが沢山あるのです。

ところで例の母子が語り合っている間、私達は学校の構内を回って各種の教育機器を見学しました。其の中に私が特に目を引かれたものがありました。

直径六~七フィート有ろうかと思われる大きなガラスの球体で、二本の通路の交差する位置に置いてあり、その通路の辺りの様子が球体に映っておりました。

ところが其の球体の内部をのぞくと、花とか樹木とか植物が茂っているだけでなく、それが遠い昔から枝分かれしてきた其の根元の目まで見分けられるようになっているのです。それはさながら地上における植物進化の学習の様なものでした。

ただ地上と異なるのは、そこにあるのは化石ではなく実際に生きており、今も成長していると言う事です。それも源種から始まって今日の形態になるまでが全部揃っているのです。

子供たちの課題は次の様なものである事を教わりました。すなわち実際に其処の庭に成長し球体に反射して見える植物、樹木、花などがどう言う過程を経て進化してきたのかを勉強してみる事です。

知的才能のトレーニングとして実にすばらしいものですが、創造されたものは大体において苦笑を誘うようなほほえましいものが多いようです。
さ、あまり長くなりすぎてもいけませんね。続きは又書けるようになってからにしましょう。神の御恵みを。さようなら。

第5節 天界の祝祭日
1913年10月6日 月曜日

この度の”収穫感謝祭”はまたずいぶん楽しかったではありませんか。あなたは気づかなかったようだけど私達はずっとあなたの側にいたのですよ。忙しくて私達の事を考える余裕が無かったのでしょうけど。地上にいる方々と共に礼拝に参加して何らかのお役にたてるのは嬉しいものです。

驚かれるかもしれませんが、こちらの光明界でも時折あなた方と同じような儀式を行い、豊かな実りを神に感謝する事があります。地上の同胞の感謝の念を補うためでもあり、同時に私たち自身の霊的高揚のためでもあります。こちらには地上のような収穫はありません。ですが、それに相当する他の種類の恵みに感謝する儀式を取り行うのです。

例えば私達は周りに溢れる美と、仕事と向上への意欲を与えてくれる光明と愛を神に感謝する儀式を行います。そのような時は大抵高い界からの“顕現”が見られます。その一つをこれからお話しましょう。

川のある盆地(*)で聖餐式(ユーカリスト)を催していた時の事です。流域に二つの丘が其の川を挟むような形で聳えております。私達は讃仰と礼拝の言葉を述べ、頭を垂れこうした時に必ず漲ってくる静かな安らぎの中で、その日の司祭を勤められている方からの祝福の言葉を持っておりました。その方は丘の少し高い位置に立っておられるのですが、何一つおっしゃらないので私達はどうしたのだろうと思い始めました。

暫くして私達は頭を上げました。まるで内なる声に促されたように一斉にあげたのです。見ると司祭の立っておられる丘が黄金色の光に包まれ、それがベールのように被さっておりました。やがてそのベールがゆっくりと凝縮し、司祭の身体の周りに集まってきました。

司祭はそうした事も一切気づかないような態度で立っておられます。其の時ようやく我に帰り、その光のベールの中から出て私達の方へ近づき“少しお待ちください。高き界から降りてこの儀式に御臨席になっておられるお姿を排する事が出来ます”とおっしゃいました。そこで私達は有難い気持ちでお待ちしていました。

こちらではおっしゃったことが必ず実現するのです。見ると凝縮していた光が上昇して流域全体を覆い、さらに止まることなく広がり続けて、ついに天空を覆い尽くし、おおったかと思うと今度はゆっくりと下降してきて私達を包みました。私達はまさに光の海、―に浸っておりました。浸っているうちに其の光で視力が増し、やがて眼の前に約束の影像が展開するのが見えてきました。

まず二つの丘が炎のように煌々と輝き始めました。良く見ると両方の丘が“玉座”の側部ないしは肘掛となり、その周りがイザヤ書と黙示録の叙述を髣髴とさせるように虹の色に輝いておりました。しかし玉座におられる方の真の姿は私達には見えません。

少なくとも形態を纏ったお姿は見えません。私達の目に映ったのは父なる存在を示す為の顕現の一つでした。その丘の中腹の台地―そこがちょうど玉座の“座”の位置になります―のところに大勢の天使が集まっており側にある大きな揺り籠の中を覗き込む姿で礼拝しているのです。

その揺り籠の中に一人の子供がいて天使団に向かって微笑んでおります。やがてその子供が両手を高々と伸ばしますと、天空から一条の光が差し込んだように見えました。

見るとその子供の両腕の中に黄金色に輝く一個の球体が降りてまいりました。すると子供が立ちあがってそれを左手で捧げ持ちました。それは生命の光で躍動し、きらきらと輝き、燃え盛り、いやがうえにも明るさを増して、ついには其の球体と子供以外は何も見えなくなり、その子の身体を貫いて生き光が放射されているように見えました。

やがてその子は球体を両手で持ち、それを真二つに割り、其の割れた面を私達の方へ向けました。一方にはピンクの光線が充満し、もう一方には青の光線が充満しております。よく見かけると後者は天界の界層が同心円状に幾重にも描かれており、その一つ一つが輝くばかりの美しい存在に満ちあふれております。

その輝きは内側ほど強烈で、外側になるほど弱まりますが、私達の目には外側ほど鮮明に見えます。それは私達の界がそれに近いからです。一番中心部になると光輝が強すぎて私達には何があるのか全然見えません。反対に外側の円は私達の界層である事が判りました。

もう一つのピンクの半球はそれと違って中に何の円も見えませんが、地球を含めた惑星上の動植物のすべての種が見えます。最もあなた方が見ているものとは少し様子が異なり、完成した姿をしております。人間から最下等の海の動物までと、大きな樹木や美味な果実から小さな雑草までがありました。

私達が暫くそれを見つめていると、その子が両半球すなわち壮麗なる天界と完成された物質界とを一つに合わせました。合わさったとたんに継ぎ目が見えなくなり、どっちがどっちだか見分けがつかなくなりました。

処が見る間にそれが大きくなり始め、ついに子供の手から離れて浮上し、天空へ向けて少しばかり上昇したところで止まりました。見事な光の玉です。其の時です。その玉の上にイエスキリストの姿が現れたのです。

左手に十字架を持っておられます。其の一番下の端は球体の上に置かれ、一番上は肩の少し上あたりまで来ておられます。右手で先ほどの子供を支え持っておられます。見るとその子供の額のところに紐状の一本の黄金の環が冠せてあり胸の辺りには大きなルビーのような宝石箱が輝いております。

そう見ているうちの光の玉はゆっくりと天空へ向けて上昇し始め、視界の中でだんだん小さくなって行き、ついに二つの丘の中間あたりの遥か上空へと消えて行きました。

そこで全てが不通の状態に戻りました。仲間たちと一緒に腰をおろして今見たものに感嘆し合い、その意味合いを考え合いました。が、こうではないかと言った程度の事を言いあうだけで、確信を持って述べられる人は一人もいませんでした。其の時ふと司祭の事を思い出しました。光に包まれ、見た目には私達より遥かに強烈な影響を受けたように思えました。

見ると司祭は岩の上に腰をかけておられ、静かな笑みを浮かべておられました。なんだか私達が最後にこうして自分のところへやってくることを見越して、思い出すのを待っておられたみたいでした。司祭は私達にもう一度座るように命じられ、それから先ほどの幻想的シーンの説明を始められました。

実は司祭は既にあの現象について予め説明を受けておられ、それを私達に授け、より高尚な意味、より深い意味については私達自身で良く考え、自分なりの理解力に応じたものを摂取する事になっていたのです。今回のような手段による教育が受けられる時はいつもそうなのです。

ピンク色の半球は私達の界より下層の世界の創造を意味し、青の半球は私達の界および上層界の創造を象徴しておりました。が、両者は“二種類の創造”を意味するのではなく、実は全体として一つであって、二つの半球にも他の小さな区分にも隔たりはないと言う事を象徴していました。子供は始まりと進歩と終わりなき目的を具象化したもので、要するに私達の限りなき向上の道を象徴していた訳です。

ルビーは犠牲を象徴し、黄金の環は成就を象徴し、光球が上昇した事、そこへキリストが出現し片手に子供を捧げ持った事は、現在の私達には到達できない高い界層への向上心を鼓舞するもので有りました。

勿論以上は概略であって、まだまだ多くの意味が込められております。さっき述べたように、それをこれから自分で考えて行く事になっている訳です。私達の慣習として、それをこれから先、折に触れて発表し合い議論し合う事になりましょう。

―どうもありがとう御座いました。ここであなたに尋ねて欲しいと言う依頼のあった質問をさせてくだい。

お書きになるには及びません。あなたの心の中に読み取ることができますから。右の言葉も書かれる前から判っておりました。

Eさんが教会の祭壇で見かけたハトは、私が今述べた類の一種の“顕現”です。あの儀式には目に見えない集会を催されておりました。祭壇の周りに大勢の霊がいて、受け入れる用意のある人にはいつでも援助を授けようと待機していたのです。

その霊達の心の優しさがハトとなって具現して、人を怖がる事なく飛び回っていたのです。進歩の遅れた人にとっては、そうした恐れを知らない純真さを高級霊の目で維持する事は容易にできる事ではありません。その輝かんばかりの崇高さが時として、僅かな餓らも持っている彼らの徳を圧倒してしまい、気の毒な事ですが、疑いを宿すものを怖じ気させる事があるのです。

第6節 念力による創造実験
1913年10月8日 水曜日

私たちからの通信の奥深い意味を理解なさろうとする方にとって大事な事が幾つかあります。今夜はそうした表面を見ただけでは判らない事―普通のものの考え方では見落とされがちな問題を扱う上で役に立ち指針となるものをお教えしようと思います。

その一つは人間界から放射された思念がこちらへ届く時の様子です。善性を帯びた思念には輝きが見られますが、善性が欠けているとそれが見られません。その光輝はもともと本人の体から出ており、それで私達はその色彩(オーラ)を見て霊的性格を判断することができます。

単に明るいとか暗いとか、明るさの段階がどの段階であると言った事だけでなく、その人のどういう面が優れていて、どういう面に欠点があると言う事まで判断します。その判断に基ずいて、長所をさらに伸ばし、欠点を矯正して行く上で最も適当な指導霊を当てがう事になります。

こうして一種のプリズム方式によって性格を分析し、それに基ずいて診断を下します。

これは肉体に包まれた人間の場合であって、こちらではそんな事をする必要はありません。と言うのは、こうした事は霊的身体(*)に関わる問題であり、こちらでは霊体は当然誰の目にもまる見えであり、それがいわば魂の完璧な指標なのですから、その人の霊的性格が全部わかってしまいます。

言い落しましたが、そうした色彩は衣服にも反映しますから、その支配的色彩を見て、この人はどの界のどの程度の人だと言う判断を下す訳です。しかし思念は精神的行為の”結果”ですから、その霊が生活している環境を見てもどういう思念を抱いている人であるかが判ります。

単に見えるだけでなく肌で感じ取ることが出来ます。地上よりも遥かに正確でしかも強烈です。

(日本の心霊科学ではこれを幽体と霊体と神体とに分けているのが常識となっているが、本書では霊体と言う用語を肉体とは別の霊的な身体と言う意味で用いることにする。霊界についても同じである)

こう言うふうに考えていけば私達が強烈な思考を働かせれば、その念が目に見える客観的存在となって顕現する事が当然あり得る事になります。と言う事は、美しいものを意図的に捉えることもできると言う訳です。

―何か例をあげていただけますか。

宜しい。その方が良く分かって頂けるでしょう。

有る時、こうした勉強をしている仲間が集まって、どの程度進歩したかを試してみましょうと言うことになりました。そこで美しい森の空地を選び、全員で有る一つの像を念じてその出来具合を見ました。

私達が選んだのは、後で調べるのに都合が良いように、固くて長持ちするということで象に似た動物でした。象とは少し違います。こちらにはいますが地上ではもう絶滅しました。私達は空地で円座を組み、その動物を想像しつつ意念を集中しました。

すると意外に速くそれが目の前に姿を現しました。こんなに速くできるものかと皆で感心しました。
しかし私達の目には二つの欠点が見えました。一つは大きすぎると言うこと。全員の意念を加減することを忘れたのです。もうひとつは確かに生きた動物では有るけれど、部分的には石像のようなところもあることです。

生きた動物を想像して念じた者が多かったからそうなったので、結局は石と肉と混合の様な、妙なものになってしまいました。他にも挙げれば細かい欠点が色々と目立ちます。例えば頭部が大きすぎて胴が小さすぎました。念の配分が片寄っていることを示すものです。

こういう具合に欠点を知り、その修正方法を研究します。実験してみてはその成果を検討し、再びやり直します。…

そうして捉えた像から注意を逸らして語り合っていると、その像が徐々に姿を消して行きます。そこでまた新たにやってみる訳です。私達は同じモデルは二度と使用しないことにしました。思念の仕方が一つのパターンにはまってしまう恐れがあるからです。

そこで今度は実の付いた果樹にしました。オレンジの木に似ていますが、少し違います。今度は前よりうまく行きました。失敗点の主なものとしては果実が熟したものと熟していないものとがあったこと。それから葉の色が間違っていましたし、枝の長さに、まとまりがありませんでした。こうして次から次へと実験し、その度にすこしずつうまくなっていきました。

あなたにはこうした学習の愉しさや、失敗から生れる笑いやユーモアがある程度は想像して頂けると思います。死後の世界には冗談も、従って笑いも無いかのように想像している人は、いずれその考えを改めて頂かねばなりません。

そうしないとこちらへきてから私達とお付き合いがしにくい―いえ、私達のほうがその方達とお付き合いしにくいのです。でも、そう言う人でもやがてこの世界の愛に目覚め、至って自然にそして屈託なく振る舞う事が出来る事を知り、そうならないとまともに相手にしてもらえなことをさとるようになります。

地上と言うところはそれとは反対のように思いますが、如何ですか。いえ、地上は地上なりに生きていてそれなりの教育を得ることです。そうすればこちらへ来て―タダブラブラするだけ、あるいはもっと堕落すれば別ですが―当たり前に生活すれば進歩も早いのです。そして学べば学ぶほど自由に使いこなせるエネルギーに感応するのです。

―アストリエル霊、昨日来られた方ですが、ここに来ておられますか。

今夜はおいでになりません。お望みであれば、またおいでになりましょう、きっと。

―どうも。であなたにも来て頂きたいですね。

ええ、それは勿論。あの方も私も参りますよ。あなたの為でもあり、同時に私達にとっても、こうして霊感操作をする事が、今述べていることが映像となってあなたの意識に入って来るのが見えませんか。

―見えます。時には実に鮮明に見える事があります。そう言う事だとは思ってもみませんでした。

おやおや、そうでしたか。でもこれでお分かりでしょう、さっきの事を書いたのもそれなりの目的があったと言う事が。あなたはどうもそれがピンとこない。―多分その通りだったでしょう。それは私達も認めます。―と思っておられましたし、一体何を訴えんとしているのかと、いささか不愉快にさえ思っておられた。

ね、そうではなかったかしら。私達はあなたのその様子をみてニコニコしていたのですよ。でもあなたは私達に思念をほぼ私達が念じた通りに解釈しておられましたし、そうさせた私達の意図も、意念と言うものがあれほど鮮明に、そして実感を持って眼前に現れるものである事を判って頂くことにあったのです。

では、さようなら。あなたに、そしてあなたのお家族に神の祝福を。

<現著者ノート>アストリエル霊のメッセージは数多く書かれているが、全体に連続性が見られない。何故か良く分からない。が、結果としては母の通信の合間に割って入る為に、アストリエル霊自身の通信は勿論母の通信の連続性も破壊してしまう。そこでアストリエル霊の通信は日付けの順で出さずに、巻末の第六章にまとめて紹介する。


第3章 暗黒から光明へ
第1節 愛と叡智
1913年10月10日 金曜日

私達の日常生活とあなた方の日常生活とを比較して見られれば、結局はどちらも学校で勉強している様なものである事、実に大きな学校で沢山のクラスがあり、大勢の先生がおられる事、しかし教育方針は一貫しており、単純な事から複雑な事へと進むようになっている事、そして複雑と言う事は混乱を意味するのではなく、宇宙の創造主たる神を知れば知るほど其の知る喜びによって一層神への敬虔なる忠誠心を抱くように全てがうまく出来上っている事を悟るようになります。

そこで今日も従来からのテーマを取り上げて、此方の世界で私達が日頃どんな事をして過ごしているのか、神の愛がどのように私達を包み謙虚さと愛を身につけるにつれて事物がますます明快に理解されていくかを明らかにしてみましょう。

こちらの事情で大切な事の一つに叡智と愛のバランスが取れていないといけない事が挙げられます。両者は実は別個のものではなく、一つの大きな原理の二つの側面を表しているのです。いわば樹木と葉との関係と同じで、愛が働き叡智が呼吸しておれば健全な果実が実ります。判りやすい説明をする為に、私達が自分自身の事、および私達が指導する事を許された人達の世話をする中でどう言う具合に其の愛と叡智を取り入れていくか、一つの具体例をあげてみましょう。

つい先頃の事ですが、私達は一つの課題を与えられ、其の事で私達5人で遠く離れたところにある地域(コロニー)を訪れました。目的は神の愛の存在について疑念を抱き、あるいは当惑している地上の人間に対して取るべき最良の手段を教わる事でした。

と言うのも、そうしたケースを取り扱う上でしばしば私達の経験不足が障害となっていましたし、又あなたも御存じの通り地上にはそういう人が多いのです。

そこにあるカレッジの校長先生は地上では才能豊かな政治家だった方ですが、その才能が地上ではあまり発揮されず、此方へ来て初めて存分に発揮できるようになり、結局地球だけが鍛錬の成果が発揮される場でない事を身を持って理解された訳です。

訪問の目的を述べますと、その高い役職にも拘らず、少しも偉ぶらず、極めて丁重で親切に応対されました。あなた達ならば多分天使と呼びたくなるだろうと思われるほど高貴なお方で、もしもそのお姿たで地上に降りられたら人間はその輝きに圧倒される事でしょう。

容姿もお顔も本当に美しい方で、それを形容する言葉としては、さしずめ“燦爛たる光輝に燃え立つような”と言うところでしょう。親身な態度で私達の話に耳を傾けられ、時折静かな口調で“それで?”と言って話を促され、私達はついその方の霊格の高さも忘れて、畏れも遠慮もなく話しました。するとこうおっしゃいました。

「生徒の皆さん―ここにいる間は生徒としましよう。―お話は興味深く拝聴いたしました。と同時に、そういうお仕事に良くある問題でもあります。さて、そうした問題を私が今あっさり解決してあげれば、皆さんは心も軽くお仕事に戻る事が出来るでしょう。が、いざ仕事に携わって見ると又あれこれと問題が生じます。

なぜか。それは、一番心に銘記しておくべき事と言うものは体験して見なければ判らない細々した事ばかりだからです。それがいかに大切であるかは体験してみて初めてわかると言う事です。では私についてお出でなさい。大事な事を私がお教えしましょう」

私達は先生の後について敷地内を歩いて行きました。庭では庭師が花や果実の木の選定などの仕事に専念しておりました。小道を右に左に曲がりながら各種の植え込みの中を通り抜けました。小鳥や可愛い動物がそこここに姿を見せます。やがて小川に出ました。そしてすぐ側にエジプト寺院のミニチュアの様な石の東屋があり、私達は其の中に案内されました。

天井は色とりどりの花で出来た棚になっており、その下の一つのベンチに腰掛けると、先生も私達のベンチと直角に置いてあるベンチに腰を下ろされました。

床を見ると何やら図面の様なものが刻まれております。先生はそれを指さしてこうおっしゃいました。

「さて、これが今私があなた方を案内して回った建物と敷地の図面です。この標のところが今居る場所です。ご覧の通り最初に皆さんとお会いした門からここまで相当の距離があります。

皆さんはおしゃべりに夢中で何処をどう通ったか一切気にとめられなかった。そこでこれから今来た道を逆戻りして見るのも良い勉強になりますし、まんざら面白くない事もないでしょう。無事にお帰りになってお会いしたら、先ほどお聞きしたあなた方の問題についてアドバイスいたしましょう」

そうおっしゃって校長先生は立ち去られました。私達は互いに顔を見合わせ、先生が迷路のような道を連れて来られた目的に気づかなかったうかつさを互いに感じて、どっと笑い出しました。それから図面を何度も何度も調べました。直線と三角と四角と円がごちゃごちゃになっている感じで、始めはほとんど判りませんでした。

が、その内徐々に判り始めました。それはコロニーの地図で、東屋は其の中心、ほぼ中央に位置しております。が入口が記されておりません。しかもそれに通じる小道が四本あって、どの道を辿ればよいか判りません。

しかし私はこれは大した問題ではないと判断しました。と言うのは四本ともコロニーの外郭へつながっており、その間に何本もの小道が交叉していたからです。その判断に到達するまでのすったもんだは省きましょう。時間がかかりますから。

とにかく私の頭に一つの案が浮かび、参考までに提案してみたところみんなそれはなかなか良い考えだと言い、これで謎が解けそうだと喜びました。といって別に驚くほどの事ではないのです。どの方向でも良いから、とにかく外へ出て一番直線な道を進んでみると言うだけの話です。

言い方がまずいようですね。要するにどちらの方角でも良いから一番真っ直ぐな道を取る

と言う事です。そうすると必ず外郭へ出る。其の外郭は完全な円形をしているから、それに沿って行けば遅かれ早かれ門まで来る事になる訳です。

いよいよ出発しました。道中は結構長くて楽しいものでした。そして冒険的要素がない訳ではありませんでした。と言うのも、其のコロニー―はそれはそれは広いもので、丘あり谷あり小川ありで、それが又実に楽しいので、よほど目的をしっかり意識していないと、道が二つに別れたところに来るとつい方向を誤りそうになるのでした。

しかし必ずしも最短で直線的な道を選んだ訳ではないと私は思うのですが、私はついに外郭に辿り着きました。ついでに言うと、其の外郭は芝生の生い茂った幅の広い地帯になっていて、全体は見えなくって、其の境界の様子からして円形になっている事はすぐに判りました。

そこで左に折れ、其のまま行くと間違いなく円形をしていて無限軌道のように続いておりました。どんどん歩いて行くうちに、ついに最初に校長先生にお会いした門のところまで来ました。

先生は良く頑張りました、と言って迎えて下さり、その建物の前でテラスに上がり、それまでの冒険談、―私が書いたものより遥かに多くの体験―をお聞かせしました。先生は前と同じように熱心に耳を傾けて下さり、「なるほど、結構立派にやり遂げられました。目的を達成し、ここまで帰って来られたのですから。ではお約束通り、あなた方の学ばれた教訓を私から述べさせて頂きましょう。」と言って次のような話をされました。

「まず第一に、行きたいと思う方向確認する事。次に近道と思える道ではなく一番確実と思える道を選ぶこと。其の道が一番早いとは限りません。限りなく広がると思えたこのコロニーの境界領域にまずやってくる。其の境界線から振り返ると、それまで通り抜けてきた土地の広さと限界の見当がつく。要はそれまでの着実さと忍耐です。望むゴールは必ず達成されるものです。

また、その限られた地域とその先に広がる地域との境界領域に立って見渡すと、曲がりくねった道や谷や小森が沢山あって、あまり遠くまで見通せなくても全体としては完全に釣合が取れている。―要するに完全な円形になっており、内部は一見すると迷路でごった混ぜの観を呈していても、より大きい、あるいはより広い観点から見ると、全体として完全な統一体で、実質は単純に出来ている事が判る筈です。小道を通っている時は迷うでしょうけど。

それに、其の外郭を直線に沿って行くと限られた範囲しか目に入らなかったでしょう。それでも、その形からきっと求める場所つまり門に辿り着けると判断し、その理性的判断に基づいた確信のもとに安心して辿って来られた。そして今こうして辿りつき、少なくとも概略に置いてあなた方の知的推理が正しかった事を証明なさった訳です。

さてこの問題は掘り下げればまだまだ深いものがありますが、私はここであなた方をこの土地にいて私を援助してくれている仲間達にお預けしようと思います。その人達がこの建物や環境をさらに御案内し、お望みならもっと広い地域まで案内してくれるでしょう。面白いものが沢山あるのです。

その方達と私が述べた教訓について語り合われると宜しい。少し後でもう一度お会いしますので、其の時には為したい事や尋ねたい事があればおっしゃってください」

そうおっしゃって私達にひとまず別れを告げられると、変わって建物の中から楽しそうな一団が出てきて私達を中へ招き入れました。まだまだ続けたいけど、あなたにはまだお勤めが残っているから今日はこの辺でやめにしましょう。少しの間とは言え、こうして交信の為に降りてくるのは楽しい事です。あなたを始め皆さんに神の祝福を。母と其の霊団より。

第2節 霊界の科学館
1913年10月11日 土曜日

昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終わってしまったので、今日はあのコロニーでの体験の幾つかを述べて見たいと思います。そこにはいろんな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば一番効果的かを研究するためのものです。昨夜お話した私達の体験を比喩として吟味されれば、その中に託された教訓をふくらませることができると思います。

さて、あの後に指導霊の一団の引率で私達はすでにお話しした境界の外側へ出ました。そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時おり取りおこなわれる高級界の神霊の〝顕現〟する場の一つです。

召集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群衆が集合し、その天界の低地で可能な限りのさまざまな荘厳なシーンが展開します。そこを通り過ぎて行くうちに次第に上り坂となり、辿り着いたところは台地になっていて、そこに大小さまざまな建物が幾つか建っております。

その中央に特別に大きいのが建っており、私達はそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りもない、ただの大きなホールになっております。円形をしており、周りの壁には変わった彫刻が施されております。細かく調べてみますと、それは天体を彫ったものでその中には地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。

そのほか動物や植物や人間の像も彫られていて、そのほとんどが壁のくぼみ、つまり入れ込みに置いてあります。訪ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとのことでした。私達はその円形施設の片側に取り付けられているバルコニーに案内されました。そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。

これからこの施設がどのように使用されるかを私達のために実演して見せて下さることになりました。腰かけて見ておりますと。青い霞の様なものがホールの中心付近に立ち込みはじめました。と同時に一条の光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。

すると地球儀がまるでその光を吸収して行くかのように発光し始め、まもなく光線が引っ込められた後も内部から輝き続けました。と見ているうちに今度は強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上に乗りました。すると地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。

それがホール中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに誇張をしはじめ、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。その時はまだ地上で使われる平面図にすぎませんでしたが、回転するうちに次第に様子が変わってきました。

山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざ波、都市のミニチュア、建物の細々とした部分までが見え始めたのです。きめ細かさがどんどん進んで、人間の姿─最初は群衆が、やがて一人ひとりの姿までも見分けられるようになりました。直径80フィートから100フィートもあろうと思われる球体の上で生きた人間や動物が見えるというシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。がそれがこの施設の科学の目的なのです。つまり各天体上の存在を一つ一つ再現することです。

その素晴らしいシーンはますます精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で忙しく働いている人間の様子まで見えるようになりました。広い草原や砂漠、森林そこに生息する動物の姿まで見えました。さらに回転して行くうちに、今度は内海や外洋が見えてきました。あるものは静かに波うち、あるものは荒れ狂っております。そしてそこここに船の姿が見えます。つまり地上生活の全てが目の前に展開するのでした。

私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私達に声を掛けられました。おっしゃるには、私達が見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みで有れば過去へ遡って知性をもつ存在としての人類の起源まで再現できますと言うことでした。是非その見事な現象をもっともっと見せて頂きたいともうしあげると、その方は現象の全てをコントロールしていると思われる機器のあるところへ行かれました。

その話の続きは後にして、今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。そのホールは暗くありません。全体が隅々まで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光に輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。

さて程なくして回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私達は長い長い年月を遡り、人間がようやく森林から出て来て平地で集落をこしらえるようになった頃の地上の全生命─人間と動物と植物の太古の姿を目の当たりにし始めました。

さて、ここでお断りしておかなければならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないと言うことです。当時の現象は"国家"と〝世紀〟の単位でなく〝種〟と〝累代〟(*)の単位で起きておりました。何代もの地質学時代がありました。人間が鉄器時代、とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実に面白い事が発見されます。あらかじめある程度知識をもつ者には、どうもそうした名称がでたらめであることが分かるのです。

と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の一、二の地域に当てはまるかもしれませんが、決して全体が氷で覆われていたわけではないことが、その球体を見ていると判るのです。それも大てい一時代に一つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が氷で覆われていたのです。が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そうしてさっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実となっておりました。(*地質学的時代区分を二つ以上含む最大の単位─訳者)

どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬわが地球なのかと思い、それにしては自分達が何も知らずに居たことを痛感していると、その球体が自然に小さくなって、もとの壁の入れ込みの中へ戻りやがて光輝が薄れていき、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物の様になってしまいました。

この現象に興味をそそられた私達が係の人に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途があること。あのような美しい現象を選んだのは科学的訓練を受けていない私達には美しさの要素の多いものが適切であるからと考えたからであること、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、其々の天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっていること。等々でした。

壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されると言うことでした。地球儀と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中央部へやってきます。そこでまるで生きた動物のように動き回ります。事実ある意味ではその間だけは生きた動物となっているのです。それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線─本当の科学的名称を知らないので仮にそう呼んでおきます。─を、当てられ、さらに透明にする光線を当てられます。すると動物の内臓が丸見えとなります。

施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物あるいは人間の内部組織の働き具合を実に見応えのあるものだそうです。

そのモデルに別な操作を施すと、今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形体まで遡って行くことができます。つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きたまま見られと言うわけです。面白いのはその操作を誤るとまちがったコースを辿ることがあることで、その時は初期の段階が終わった段階で一旦元に戻し、もう一度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くということがあるそうです。

また、研究生が自分のアイディアを組み入れた進化のコースを辿らせてみることもできるそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じことができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとのことでした。

一度話に出た(86p参照)子供の学校の構内に設置されていた球体は実はこの施設の学生が一人でこしらえたそうです。勿論ここにあるものよりはずっと単純に出来ております。もしかしたらこの施設の美しさを見た後だからそう思えるのかもしれません。

今日はこれくらいにして置きましょう。他にも色々と見学したものがあるのですが、これ以上続けると長くなり過ぎるので止めにします。

何か聞きたい事があるみたいですね。その通りです。私は月曜日の勉強会に出席しておりました。あの方が私に気づいておられたのも知っておりました。私が述べた言葉は聞こえなかったようですけど。
ではさようなら。明日またお会いしましょう。

≪原著者ノート≫最後のところで言及している勉強会の事について一言述べておく必要がある。前の週の月曜日の事である、礼拝堂の手すりと手すりの間に着席し、勉強会のメンバーは聖歌隊席で向かい合って着席していた。聖歌隊の至聖所側一番端で私に右手になる位置でE婦人が着席していた。そのE婦人が後で語ってくれたところによると、私が会の最後の締めくくりの言葉を述べて居る最中に私に母親が両手を大きく広げ情愛あふれる顔で祭壇から進み出て、私のすぐ後ろまで来たという。その姿は輝くように美しくまるで出席しているメンバーと少しも変わらない人間の身体をまとっているようだったと言う。E婦人の目には今にも私を抱きしめるかに見えたそうで、余りの生々しさに一瞬自分以外のものには見えていない事を忘れ、今にも驚きの声を出しそうになったけど、どうにかこらえて目をそらしたと言う。私が質問しようと思っていたのはその事だった。

第3節 霊界のパピリオン
1913年10月13日 月曜日

例のコロニーでの、貴方の喜びそうな体験をもう一つお話しましょう。私にとっても初めての体験で興味ぶかいものでした。全体として一つのグループを形成している各種の施設を次々と案内していただいていると、屋外パピリオンのようなものに出ました。

何本もの高い円柱の上に巨大なドームが乗っているだけで、囲まれている内部に天井がありません。建物の周りについている階段から壇上に上がると、その中央に縦横三フィート、高さ四フィートばかりの正方形の祭壇が設けてあります。その上に何やら日時計のようなブロンズ製の平たい板が立ててあり、直線やシンボル、幾何学的図形などがいろいろと刻まれてありました。

その真上のドームの中央部に通路があり、そこから入っていくとその施設の器械の操作室に出るとの話でした。私達をその文字盤(と呼んでおきましょう)の周りに並ばせて、案内の方はその場を離れてドームの天井へ上がり操作室へとはいられました。何が起きるか分からないまま、私達はジーとその文字盤を見つめておりました。すると様子が変化し始めました。まず空気の色彩と密度が変わってきました。

辺りを見ますとさっきまでの光景が消え、円柱と円柱との間に細い糸で出来たカーテン状のものが広がっておりました。さまざまな色調の糸が編み合わさっています。それが見る見るうちに一本一本分れ、判然とした形態を整えていきました。すっかり整え終わった時、私達は周りは林によって囲まれた空地の中に立っておりました。そしてその木々がそよ風に揺られているのです。

やがて小鳥のさえずりが聞こえ、木から木へと飛び交う綺麗な羽をした小鳥の姿が目に入りました。林は尚も広がり、美しい森の趣となってきました。ドームも消え、屋根のように樹木が広がっているところを除いては一面青空が広がっておりました。再び祭壇と文字盤に目をやると、同じ位置にちゃんとありましたが、文字盤に刻まれた図形やシンボルは祭壇の内部から発しているように思える明りに輝いておりました。やがて上の方から案内の方の声がして、文字盤を読んでみるようにと言われます。最初のうち誰にも読めませんでしたが、そのうち仲間の中で一番頭の鋭い方が、これは霊界の植物と動物を構成する成分を解説しているものです。と言いました。

その文字盤と祭壇とがどのような関係になっているのかも明らかとなりましたが、それは人間の言語で説明するのはちょっと無理です。ですが分かって見るとなるほどと納得がいきました。その後案内の方が再び私達の所へ来られ、その建物の使用目的を説明してくださいました。ここの研究生たちが〝創造〟についての進んだ科学的学習を行うためには、創造に使用される基本的成分について十分に勉強をしておかねばならないようです。それはあたり前と言ってしまえば確かに当たり前のことです。

この建物は研究生が最初に学習する施設の一つで、例の文字盤は上の操作室にいる研究生が自分なりに考えた成分の組み合わせやその比率などの参考資料が記されているのです。案内して下さった方はその道の研究で相当進んだ方で、さっきの森のシーンも同じ方法でこしらえたものでした。進歩してくるとその装置を使用しなくても思い通りのものが創造できるようになります。つまり一つずつ装置が要らなくなり、ついには何の装置を使わずに自分の意念だけで造れるようになるわけです。

そこで私達は、そうした能力が実生活においてどのような目的に使用されるかを尋ねてみました。するとまず第一に精神と意思の鍛錬が目的であるとのことでした。その鍛錬は並大抵のものではなく、大変な努力を要するとのことで、それが一通り終了すると次は同じくこの界の別のカレッジへ行って別の科学分野を学び、それでもさらに多くに段階の修練を積まねばならなりません。

その創造的能力が本当に自分のものとなり切るのは、いくつもの界でそうした修練を経たのちの事です。その暁にはある一人の大霊、大天使、能天使(本当の呼び方は知りません)の配下に属する事を許され、父なる宇宙神の無限の創造的活動に参加することになります。その時に見られる創造の過程は荘厳を極めるとのことです。

お話を聞いた時はそれは多分新しい宇宙ないしは天体組織の創造―物質か霊的かは別として─の事かも知れないと考えたりしました。が、そんな高い界の事は現在の私達にはおよその概念程度のことしか掴めません。しかもそこまで至るには人智を絶した長い長い年月を要するとのことです。勿論そういう特殊な方向へ進むべき人の場合の話です。どうやらそこを訪れた私達五人の女にとっては、向上の道は別の方角にあるようです。

でもたとえ辿るべき宿命は違っていても、さまざまな生命活動を知りたいと思うものです。すべての者が宇宙の創造に参加するとは限らないと私は思います。遥か彼方の、宇宙創造神の玉座に近いところには、きっと創造活動とは別に、同じく壮大にして栄光ある仕事があるものと確信しております。芝生の外郭を通って帰る途中で、別の科学分野を学ぶ別のカレッジへ行っていた研究生の一団と出会いました。男性ばかりではありません。女性も混じっております。

私がその女性たちにあなた方も男性と同じ分野を研究しているのですかと尋ねると、そうですと答え、男性は純粋に創造的分野に携わり、女性はその母性本能でもって産物に丸みを持たせる働きをし、双方が相俟って完成美を増すことになると言うことでした。勿論その完成美といってもその界の能力の範囲内で可能な限り美しく仕上げると言う意味です。まだまだ天界の低地に属するこの界では上層界への進歩が目的であって完璧な完成ということはあり得ないのです。
やがて私達はこの円形のコロニーの校長先生と出会ったところに帰り着きました。

―何故その方のお名前を出されないのですか。

お名前はアーノルとおっしゃいます。少し変わったお名前で、地上の人間はとかく霊の名前に拘るので、出すのを控えていただけで他意はありません。霊の名前の由来はあなたには理解し難いので、これ以後もただ名前を述べるに留めて意味には言及しない事に致します。

―そうですね。その方が回りくどい説明が省けていいでしょう。
そうなのです。でも私達がこうして霊界の説明をするときの霊的状況の真相がもし理解できれば、手間が掛るほど間違いが少ないと言う事が判って頂けると思います。例のアーノル様のコロニーでの私達の体験と教訓を思い出して下さい。

―それにしても、名前を出すと言う事が何故そんなに難しいのでしょうか。難しいものであると言う事は再三聞かされておりますが。

その難しさを説明するのがまた難しいのです。人間の立場から見れば何でもない事のように思えるでしょうけど。こう言う説明はどうでもいいでしょう。あなたもご存じの通り古代エジプト人にとっては神ならびに女神の名称には、頑迷な唯物主観の英語系民族(アングロサクソン)が考える以上に深い意味があったのです。

名前に何の意味があると言うのか―そう思われるかもしれませんが、私達霊界人から見ると、そして又(こちらへ来てから得た資料で知ったのですが)古代エジプトの知恵から観ても、名前には大いに意味があるのです。名前によっては、それを繰り返し反復するだけで現実的な力を発揮し、時には危害さえもたらすものがあります。地上にいる時は知りませんでしたが、此方へ来てそれを知ったのです。それで私達は、あなたには多分愚かしく思えるかもしれませんが〝名前〟と言う実在に一種の敬虔さを抱くようになるのです。もっとも、物分かりの悪い心霊学者が期待するほどに霊界通信で名前が出てこないのは、それだけが理由ではありません。

こうして地球圏まで降りて来ますと、名前によっては単に口にしたり書いたりする事さえ、あなたが想像する以上に困難な事があるのです。その辺の事情は説明が難しいのです。こちらの四次元世界の事情にもっともっと通じて頂かないと理解できないでしょう。この四次元と言う用語も他に適当な言葉がないから使用しているまでです。では二三の例を挙げて、それで名前の問題は終わりにしましょう。

その一つは例のモーゼが最高神の使者から最高神の名前を教えてもらった話(*)ですが、今日まで誰一人としてその名前の真意を知り得た者はおりません。

(*この説話は旧約聖書出エジプト記三章)に出ているが、ステイントン・モーゼスの「霊訓」の最高の指導霊イムペレーター、実は旧約聖書時代の予言者マキラによると、これは紀元前130年頃の予言者今でいう霊言霊媒チョムを通じて告げられたもので、其の時の言葉はNuk-Pu-Nuk,英訳すればI am the I amすなわち〝私は有るがままの存在である〟となり、宇宙の普遍的エッセンス、生命の根源をさすという。

次はそれより位の低い天使がヤコブから名前を聞かれて断られています。アブラハムその他、旧約聖書中の指導者に顕現した天使は滅多に名前を明らかにしておりません。新約聖書に置いても同じように殆どが〝天使〟と呼ばれているだけです。名前を告げている場合、例えばガブリエルの場合(*)も、その深い意味は殆ど理解されておりません。
(*)同じく「霊訓」によると、ガブリエルは同じ大天使の中でも“守護救済”の任に当たる天使団の最高位の霊であり、ミカエル悪霊、邪霊集団と“戦う天使団”の最高霊であると言う。

―ところで、あなたの名前、―そちらでの新しいお名前は何でしょうか。明かす事を許されているのでしょうか。

勿論許されておりますが、賢明ではありません。明かした方が良ければ明かします。でもさしあたってはさし控えます。理由は良く判って頂けなくても、あなたの為に良かれと思っての事である事は判って頂けるでしょうから。

―結構です。あなたの判断にお任せします。

その内あなたにも判る日が来ます。その時は「生命の書」(*)の中に記されている人々にいかなる栄光が待ち構えているかを理解されるでしょう。この書の名称も一考に与えするものです。軽々しく口にされておりますが、その真意は殆ど、あるいは全然理解されておりません。

(正式にはBook of Life of the Lamb)で「キリスト生命の書」。天国へ召されるのを約束された聖人を意味するとされている。)

ではあなたにもローズにもそしてお子たちにも、神の祝福のあらんことを。ルビー(まえがきを参照)が間もなく行けるようになると言って頂戴、と私に可愛らしく告げています。指示を書きとめられるようになってほしいなどと言ってますよ。まあ、ほんとに無邪気な子ですこと。皆さんから可愛がられて。ではさようなら。

第4節 暗黒街からの霊の救出
1913年10月15日 水曜日

自分のすぐ身の回りに霊の世界が存在する事を知らない人間に死後の存続と死後の世界の現実身と愛と美を説明するとしたら、あなたは何から始められますか。多分第一に現在のその人自身が不滅の霊である事を得心させようとなさる事でしょう。

そしてもしそれが事実だったら死後の生活にとって現在の地上生活が重大な意味を持つ事に気づき、その死後の世界からの通信に少しでも耳を傾けようとする事でしょう。なにしろ其の世界は死と言うベールをくぐり抜けた後に例外なく行きつくところであり、否応なしに暮さねばならないところだからです。

そこで私達は、もし地上の人間が今生きているその存在も実在であり決して地上限りの果敢(ハカ)ないものではない事を理解してくれれば、私達のように身を持って死後の生命と個性の存続を悟り、同時に地上生活を正しく生きている人間には祝福が待ち構えている事を知った者からのメッセージを、一考の価値のあるものと認めてくれると思うのです。

さてその死の関門をくぐり抜けてより大きい自由な世界へと足を踏み入れた人間が、滞りなく神の御国での仕事に勤しむ事になるのは何でもない事の様で、実はただ事ではないのです。

これまで私達は地上生活と死後の世界との因果関係について多くのケースを調べてみて、地上での訓練と自己鍛錬の重要性はいくら強調しても強調し過ぎる事はないという認識を得ております。多くの人間は死んでからの事は死んでからで良いと多寡を括っておりますが、いざこちらへ来て見るとその考えが認識不足であった事に気づくのです。

―今お書きになっているのはどなたですか。

あなたの母親と霊団のものです。アストリエル様は今夜はお見えになっておりません。また何時かお出でになるでしょう。霊団とともに通信においでになられた時はお知らせしましょう。では話を続けましょう。“橋”と“裂け目”の話は致しました…。

―ええ、聞きました。それよりも、アーノル様のコロニーでの体験と、あなたの本来の界へ戻られてからの事はどうなりました。他に面白いエピソートはもうないですか。

いろいろと勉強になり、知人も増え、お話した事より遥かに多くの事を見学したという以外には別に申し上げる事はありません。それよりも、ぜひあなたにお聞かせしたいと思っている事があります。あのコロニーでの話を続けてもいいですが、これも同じように為になる話です。

〝裂け目〟と〝橋〟―例の話を思い出して下さい。(41P参照)。その橋―地上の橋と少し趣が異なるのですが、引き続きそう呼んでおきましょう。―が暗黒界から延びてきて光明界への高台へ駆け上がる辺りで目撃したエピソートをお話しましょう。

私達がそこへ派遣されたのは恐ろしい暗黒界から脱出して首尾よくそこまで到達する一人の女性を迎えるためでした。その方は“光”の橋を渡ってくるのではなく“裂け目”の恐怖の闇の中を這い上がってくると言うのです。私達にはもう一人、すぐ上の界から強力な天使が付いてきて下さいました。特別にこの仕事を託されている方で、首尾よく救出された霊が連れて行かれるホームを組織している女性天使団の御一人でした。

―お名前を伺いたいのですが。

ビーニ・・・いけません。出てきません。後にしましょう。書いているうちに思いだすかもしれません。

到着してみると、谷を少し下った岩だらけの道に一個の光が見えます。どなたか男性の天使の方がそこで見張っている事が判りました。やがてその光が小さくなり始め、谷底へ降りて行かれた事を知りました。それから少しすると、谷底から上へ向けて閃光が発せられ、それに呼応して“橋”に幾つか設けられている塔の一つから照明が照らされました。

それはサーチライトに似ていない事もありません。それが谷底の暗闇へ向けられ、一点をじっと照らしています。するとビー・・・、私達について来られた天使様が私達に〝暫くここにいるように〟と言い残してその場を離れ、宙を飛んですばやく塔のてっぺんへ行かれました。

次の瞬間其の天使様の姿が照明の中に消えて失くなりました。仲間の一人が天使様が光線に沿って斜めに谷底へ降りて行くのを見かけたと言います。私には見えませんでしたが、間もなくその通りだった事が判明しました。

ここで注釈が要りそうです。その証明は見えやすくする為のものではありません。(高級霊は自分の霊眼で見えますから)その光には低級界の陰湿な影響力から守る作用が有るのです。

最初に谷底へ下った霊から閃光が発せられ、それに呼応して、常時見張っている塔から照明が当てられたのも、その為の合図だったのです。私には判りませでしたが、其の光線には生命とエネルギーが充満しており、―これ以上うまい表現が出来ません。―谷底で援助を必要としている霊の為に発せられた訳です。

やがて二人の天使が件(クダン)の女性を連れて帰って来られました。男の天使の方は非常に強い方なのですが、疲れ切ったご様子でした。後で聞いたところによりますと、途中でその女性を取り戻そうとする邪霊集団と遭遇したそうで、信号を送って援助を求めたのは其の時でした。

お二人は其の女性霊を抱きかかえるようにして歩いてきましたが、其の女性は光の強さに半ば気絶しかかっておりました。それを気遣いながら塔へ向けてゆっくりと歩いて行かれました。私にとってこんな光景は初めてでした。もっとも、似たような体験はあります。

例の色とりどりの民族衣装を着た大集団が終結した話(48p参照)をしましたが、今度の光景はある意味でそれよりも厳粛さがありました。と言うのはあの光景にはただただ喜びに溢れておりましたが、今目の前にした光景には苦悩と喜びとが混ざり合っていたからです。

三人は遂に橋に辿り着き、そこで女性は建物の一室に運び込まれ、そこで十分に休養を取り、回復した後に私達に引き渡されたのでした。

この話には私達にとって新しい教訓が幾つかあり、同時にそれまで単なる推察に過ぎなかったものに確証を与えてくれたものが幾つかあります。その内の幾つかを上げてみましょう。

まず女性霊を救出した二人の天使を見ればわかる通り、霊格の高い天使が苦しみを味わう事が無いかのように想像するのは間違いだと言う事です。現実に苦しまれるし、それも度々あるのです。邪悪な霊の住む領域に入ると天使も傷(ヤ)られます。

ならば、その理屈でいくと邪霊集団が大挙して押し寄せれば全土を征服できそうに思うのですが、やはり光明と善の勢力の組織がしっかりしていて、かつ杖に見張っておりますので、現実にそうした大変な事態になった話を聞いた事がありません。

しかし彼等との戦いは真実“闘い”なのです。しかも大変なエネルギーの消耗を伴います。これが第二の教訓です。高級霊でも披露する事があると言う事です。

しかし、その苦痛も疲労も厭わないのです。逆説的に聞こえるかもしれませんが、高級霊になると、必死に救いを求める魂の為に自分が苦しみを味わう事に喜びを感じるものなのです。

又例の照明の光―・エネルギーの活力の光線とでも言うべきかもしれません。・―の威力は強烈ですから、何かで光を遮断してあげなかったら女性霊は危害を被った筈です。あの様な光に慣れない霊にとってはショックが強すぎるのです。

更にもう一つ、其の光線が暗闇の地帯の奥深く照らされた時、何百マイルもあろうかと思える遠く深い谷底から叫び声が聞こえてきました。それは何とも言えない不思議な体験でした。と言うのは、その声には怒りもあれば憎しみもあり、絶望の声もあり、はたまた助けてと御慈悲を求める声も混じっていたのです。

それらが混ざり合ったものが至る所から聞こえてくるのです。私にはそれが理解できないので、後で件の女性霊を待っている間にビーニックスBeanix―こう綴るより他にないように思えますのでこれで通します。綴って見るとどうもしっくりこないのですが―その方に何の叫び声で何処から来るのかお聞きしました。

するとビーニックス様は、それは良く知らないが霊界にはそうした叫び声を全部記憶する装置があって、それを個々に分析し科学的に処理して、その評価に従って最も効果的な方法で援助が差し向けられるとの事でした。叫び声の一つ一つにその魂の善性又は邪悪性が込められており、其々に相応しいものを授かる事になる訳です。

件の女性をお預かりした時、私達はまずは休養と言う事で、心の休まる雰囲気で包んであげるよう心がけました。そして十分に体力が回復してから、用意しておいたホームへ御案内しました。今もそこで面倒を見てもらっています。

私達はその方に質問は一切しませんでした。逆にその方から二三の質問がありました。何とあの暗黒界に実に二十年以上もいたと言うのです。地上時代の事は断片的にしか聞いておらず、一つの話につなげられるほどのものではありません。

それに、そんな昔の体験をいきなり鮮明に思い出させる事は賢明ではないのです。現在から少しずつ辿って霊界での体験を一通り復習し、それから地上生活へと戻ってこの因果関係―原因と結果、種まきと収穫―を明確に認識しないといけないのです。

今日はこの程度のしておきましょう。ではさようなら。神の祝福と安らぎを。


第4章 霊界の大都市
第1節 カストレル宮殿
1913年10月17日 金曜日

前回のあのお気の毒な女性─今は充分祝福を受けておられますが、─をお預けするホームへまだ到着しないうちから私はもう一つの使命を思い出しました。そこから遥か東方にある都市まで行く事になっていたのです。あなたはまた、“東”という文字を書き渋っているけど、私達はその方角を東と呼んでいるのです。

と言いますのは、此方へ来て初めてイエス様のお姿と十字架の像を拝見したのがその方角だったのです。その方角にある山の頂上は今も明るく輝いております。私にはそれが地上の日の出を象徴しているように思えてなりません。

さて私達五人はその山の向こう側にある都市を目指して出発いたしました。出発に先立って良く道順をお聞きしておきました。上の方のお話ではその都市の中央には黄金色のドームを頂いた大きい建物があり、その都市の中心街はコロネード(列柱)で囲まれているとの事でした。

始めは徒歩で行きましたが、後は空を飛んで行きました。歩くより飛ぶ方が難しいのですが、飛んだ方が早いし、それに場所を探すには空から観た方が判りやすいと言う事になりました。

やがてその都市の上空に来て目標のドームを見届けてから正面入り口めがけて着陸し、そこから本通りはその都市のど真ん中を一直線に横切っており、その反対の裏門から出るようになっています。其の幅広い通りを境にして両側にはとても敷地の広い、宮殿のような建物がずらりと並んで居ります。そこはその地域一帯を治められる高官が住んでおられ、そこが首都になります。

畑仕事に精を出している光景も見られます。又建物が沢山見えます。一見して住居ではなく別の目的を持っている事が判ります。やがてコルネ―ドで囲まれた中心街に出ました。さすがに建物も庭園もそれはそれは見事なものでした。

どの建物にも必ずその建物に相応しい色彩とデザインの庭園がついております。それらを見て歩きながら、この辺で待ち合わせて下さると聞いていた方からの合図を気にしておりました。こうした場合には連絡が先に届いて待ち受けて下さっているのです。

歩いて行くうちに、いつの間にか公園の様な所へ入りました。とても広い公園で、美しい樹木が程良く繁り、所々に噴水池が設けてあります。それ以外は一面緑の芝生です。其の噴水が水面に散る時の音はメロディと言えるほど快く、またそれぞれの噴水が異なったメロディを奏でており、それらが調和して公園全体を快い音楽で包んでおります。其の噴水にある細工を施すと、得も言われぬ霊妙な音楽が聴けるとの事です。

その細工を施すのは度々ではないのですが、時折行われますと、その都市に住む人は無論のこと、ずっと郊外や丘の牧草地帯に住んでいる人までが大勢集まってくるそうです。私達が行った時は素朴な音楽でしたが、それでもそのハーモニー、が其の快さは見事でした。

暫くその公園を散歩しました。とお御心の休まる美しいところです。芝生に腰をおろして休んでいますと、そこへ一人の男性が笑みを浮かべて近付いてきました。私達を迎えにこれらたのだと言う事はすぐに判ったのですが、お姿を拝見して、私達とは比較にならぬほど霊格の高い方で有る事が知れましたので、暫くは言葉が出ませんでした。

─どんな方ですか。出来れば名前も教えて下さい。

その内お教えしましょう。焦る事が一番いけません。こちらの世界では焦らぬようにと言う事が一番大切な戒めとされているほどです。焦ると判りかけていたものまで判らなくなります。

その天使様はとても背の高い方で、地上で言えば七フィート半は十分有ったでしょう。私は地上にいた時より背は高くなっていますが、その私より遥かに高い方でした。
その時の服装は膝まで垂れ下がったクリーム色のシャツを無造作に着ておられるだけで、腕も脚も丸出しで、足には何も履いておりませんでした。私は今あなたの心に浮かぶ疑問にお答えしているのですよ。

帽子?いえ無帽です。髪型ですか。ただ柔らかそうな茶色の巻き毛を真ん中で左右に分けておられるだけで、それが首の辺りまで垂れさがっておりました。頭には幅の広い鉢巻のような帯をしめておられましたが、その帯は金属で出来た帯(シンクチャー)をそめておられました。これらは全部その方の霊格の高さを示しておりました。

お顔は威厳に満ちていましたが、その固い表情の中にも言うに言われぬ優しい慈悲がにじみ出ており、それを見て私達の心に安心感と信頼心が湧いてきました。

又尊敬の念も自然に湧いてきました。やがて天使様は私達の波長に合わせている事がすぐに判るような、緩やかな口調でこう言われました。緩やかでも、その響きの中に心に沁みわたるものを感じ取る事が出来ました。「私の名前はカス…」いけません。

名前は私の弱点のようでして、地上へ降りてくるとどうも名前を思いだすのが苦手です。その内思い出すでしょう。とにかくご自分の名前をおっしゃってから、こんな事を言われました。

「私の事はすでにお聞きになっておられると思います。やっとお会いできましたね。では私の後に付いてきてください。早速あなた方をお呼びした目的をお話しいたしましょう。」私達は言われるままに天使様の後について行きましたが、其の道すがら気楽に話しかけられるので、いつの間にかすっかり気安さを覚えるようになりました。

天使さまと一緒に通った道は公園を出てすぐ左手にある並木道でしたが、やがて別の公園に入りました。入ってすぐに気付いたのですが、そこはつまり私有の公園つまり公園と言ってもいいほど広い庭園と言う事です。真ん中にはそれはそれは見事な御殿が建っていました。

一見ギリシャ風の寺院の様な格好をしており、四方に階段が付いております。よほど偉い方が住んでおられるのだろうと想像しながら天使様の後についてその建物のすぐそばまで近づきました。

近づいて観てその大きさに改めて驚きました。左右の幅のひろさもさることながら、アーチ形の高い門、巨大な柱廊玄関、そして全体を覆う大ドーム。私達五人はただただその豪華さに見とれてしました。

黄金のドームを頂いた大きな建物と聞いていたのはその建物の事でした。近づいてみるとドームの色は純粋の金色色でなく少し青みが掛っておりました。私は早速どんな方がお住みになっておられるのかお聞きしてみました。すると天使様はあっさりとこう言われました。

「いや何、これが私の住居ですよ。地方にも二つ私宅を持っております。良く地方にいる友を訪ねる事があるものですから。それではどうぞお入りください。遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました」

天使様の言葉には少しもきどりと言うものがありません。“気取らない”と言う事が霊格の高さを示す一つの特徴で有る事を学びました。地上でしたらこんな時には前もって使いの者が案内して恭しく勿体ぶって拝謁するところでしょうが、この度はその必要もないので全部省略です。

最も必要な時はちゃんとした儀式も致します。行うとなれば盛大かつ厳粛なものとなりますが、行う意味のない時は行われません。

さてカストレル様や─やっと名前が出ましたね。詳しい事は明晩にでもお話いたしましょう。あなたもそろそろ寝なくてはならないでしょう。ではお休み。

第2節 死産児との面会
1913年10月18日 土曜日

カストレル様の御案内で建物の中に入って見ますと、その優雅さは又格別でした。入口のところは円形になっていて、そこからすぐに例のドームを見上げるようになっています。そこはまだ建物の中ではなく、ポーチの少し奥まったところになります。

大広間の敷石からは色とりどりの光輝が発し、絹に似た掛けものなど等は深紅色に輝いておりました。前方と両側に一つずつ出入口があります。見上げるとハトが飛びまわっております。ドームのどこかに出入口が有るのでしょう。其のドームは半透明の石で出来ており、それを通して柔らかい光が差し込みます。

それらを珍しげに眺めてから、ふと辺りを見回すといつの間にかカストレル様が居なくなっております。

やがて右側の出入り口の方から楽しそうな談笑の声が聞こえてきました。何事だろうとその方向へ目をやると、其の出入り口から子供を交えた女性ばかりの一団がぞろぞろと入ってきました。総勢二十人もおりましたでしょうか。

やがて私達のところまで来ると、めいめいに手を差し出してにこやかに握手を求め、頬に接吻までして歓迎してくれました。挨拶をすませると中の一人だけが残って、後の方は其のまま引き返して行きました。大勢で来られたのは私達に和やかな雰囲気を与えようと言う心遣いからではなかったろうかと思います。

さて後に残られた婦人が、こちらへおいでになりませんか、と言って私達を壁の奥まったところへ案内しました。五人が腰掛けると、婦人は私達一人一人の名前を言い当て、丁寧にあいさつし、やがてこんな風に話されました。

「さぞかし皆さんは、一体何のためにここへ遣わされたのかと思おいの事でしょう。また、ここがどんな土地で何と言う都市なのかと言った事もお知りになりたいでしょう。この建物はカストレル宮殿と申します。其の事は多分カストレル様から直々にお聞きになられた事でしょう。

カストレル様はこの地方一帯の統治者にあらせられ、仕事も研究もみなカストレル様のお指示に従って行われます。話によりますと皆様は既に“音楽の街”も“科学の街も”ご覧になったそうですが、そこでの日々の成果もちゃんと私どもの手元へ届くようになっているのです。届けられた情報はカストレル様と配下の方がいちいち検討され、しかるべき処理されます。この地方全体の調和という点から検討され処理されるのです。単に調和と申しますよりは協調的進化と言った方がよいかもしれません。

例えば音楽の街には音楽学校があり、そこには音楽的想像力の養成に勤めているのですが、そういった養成があらゆる部門に設置されており、その成果がひっきりなしに私達の手元に届けられます。届きますとすぐさま検討と分析を経て記録されます。必要のある場合はこの都市の付属実験所で綿密なテストを行います。実験所は沢山あります。

ここへおいでになるまでに幾つかご覧になられた筈です。かなりの範囲にわたって設置されております。しかし実はその実験所の道具や装置は必ずしも完全なものとは申せませんので、何処かの界で新しい装置が発明されたり改良されたりすると、すぐに使いを出してその製造方法を学んで来させ、新しいものを製造したり古いものに改良を加えたりします。

そんな次第ですから、その管理に当たる方は叡智に長けた方でないとなりませんし、また次から次へと送られてくる仕事を素早く且つ身体強く処理していく能力がなくてはなりません。実はあなた方をここへお呼びしたのはその仕事ぶりをお見せするためなのです。ここに御滞在中にどうか存分に御見学なさってください。

もちろん全部を理解して頂くのは無理でしょうし、特に科学的な面はなかなか難しい所が多かろうと思います。さ、それでは話はこれ位にして、これからこの建物を一通り案内して差し上げましょう。」

婦人の話が終わると私達は丁寧にお礼を述べて、さっそく建物の中の案内をお願いしました。全てが荘厳としか言いようがありません。何処を見てもたった一色と言うものがなく、必ず何色か混ざっています。ただ何色混ざっていても実に美しく調和しているので、ギラギラ輝くものでも、どこかしら慰められるような柔らかさを感じます。

宝石、装飾品、花瓶、台石、石柱、何でもがそうでした。石柱には飾りとして一本だけ建っているものと束になったものとがありました。それから通路には宝石箱で飾られた見事な掛けものが掛けてあります。帰りがけにそれが肩などに触れると、何とも言えない美しいメロディを奏でるのです。

庭に出ると噴水池がありました。魚も泳いでおりました。中庭には芝生と樹木と灌木とが地上と同じような具合に繁っておりましたが、其の色彩は地上の何処にも見られないものでした。

それから屋上へ案内されました。驚いた事にそこにもちゃんとした庭があり、芝生も果樹園も灌木も揃っておりました。噴水池もありました。この屋上は遠方の地域と連絡を交わすところです。時には見張所の様な役目を果たします。通信方法は強いて言えば無線電信に似たようなものですが、通信されたものが言語でなく影像(*)となって現れますから実際には地上の無線とも異なりましょう。

(この通信が書かれた頃はまだテレビジョンが発明されていなかった事、そして、地上の発明品はことごとく霊界にあるものの模造品であることを考え合わせると興味深い)

私たち女性グループは随分永い間其の宮殿に御厄介になりながら、近くの都市や郊外まで出ていろんなものを見学しました。その地域全体の直径は地上の尺度で何千マイルもありましょう。それほど広い地域でありながら全体と中心との関係が驚くほど緊密でした。其の中心に当たるのが今お話ししたカストレル宮殿と言う訳です。その全部を話しているといくら時間があってもたりません。

そこでそのうち幾つかをお伝えして、それによって他を推察して頂きましょう。もっとも、それもあなた方の想像の及ばないものばかりです。

第一に不思議に思った事はその都市に子供がいる事でした。何故不思議に思ったのかと言いますと、それまで子供には子供だけの世界があって、皆そこへ連れて行かれるのかと思い込んでいたからです。最後に居残ってお話をしてくれた婦人はそこの母親のような地位にあられる方で、その他の方々はその婦人の手助けをされているらしいのです。

私は其の中の一人に、そこの子供たちが皆幸福そうで愛らしく、こんな厳かな宮殿で如何にもくつろいでいる事は何か特別な理由けが有るのですかと尋ねたところ、おおよそ次の説明をしてくれました。

ここで生活している子はみな死産児で、地球の空気を吸ったことのある子供とは性格上は非常に違いがある。僅か二三分しか呼吸した事のない子供でも、全然呼吸していない死産児とはやはり違う。それ故に死産児には死産児なりの特別の養育が必要であるが、死産児は霊的知識の理解の上では地上生活を少しでも体験した子より速い。

まだ子供でありながらこうした高い世界で生活できるのはそのためである。が、ただ美しく純真であるだけでは十分とは言えない。ここで一応の清純さと叡智とを身につけたら、今度は地球と関係した仕事に従事している方の手に預けられ、その方の指導のもとに間接的ながら地上生活の体験を摂取する事になる…。

私は最初この話を興味本位で聞いておりました。ところが其の呑気な心の静寂を突き破って、この都市へ来たのは実は其の事を知るためだったと言う自覚が油然と湧いてきました。

私にも実は一度死産児を生んだ経験がるのです。それに気付くと同時に私の胸に其の子に会いたいと言う気持ちがとめどもなく湧いてきました。“あの子もきっとここに来ているに違いない〝そう思うや否や私の心の中に感激に渦が巻き起こり、しばしば感涙にむせびました。その時の気持ちはとても筆には尽くし得ません。

側に仲間がいる事も忘れて木陰の芝生にうずくまり、膝に顔を押しあてたまま、湧き出る感激に身を浸したのでした。親切なその仲間は私の気持ちを察して黙って私の肩を抱き、私が感激の渦から抜け出るのを待っておりました。

やがて少し落ち着くと、仲間の一人が優しくこう語ってくれました。「私もあなたと同じ身の上の母親です。生きた姿を見ずに逝ってしまった子を持つ母親です。ですから今のあなたのお気持がよく判るのです。私も同じ感激に浸ったものです。」

それを聞いて私はゆっくりと顔を上げ、涙にうるんだ目をその友に向けました。すると友は口に出せない私の願いを察してくれたのでしょう。すぐに腕を取って立ち上がり、肩を抱いたままの姿勢で木立の方へ歩を進めました。ふと我に返って見ると、その木立の茂みを通して子供たちの楽しそうなはしゃぎ声が聞こえてくるではありませんか。多分私はあまりの感激に失神したような状態になっていたのでしょう。

まだ実際には子供には会っていないのにそんな有様です。これで本当に会ったら一体どうなるだろうか。―私はそんな事を心配しながら木立に近づきました。

表現がまずいなどと言わないでおくれ。そう遠い昔の事ではありません。その時の光景と感激とが生き生きと蘇ってきて、上手な表現などとても考えておれないのです。地上にいた時の私は死産児にも霊魂があるなどと考えても見ませんでした。ですから、突如としてその事実を知らされた時は、私はもう……ああ、これ以上書けません。どうか後は適当に想像しておくれ。

兎に角この愚かな母親にも神はお情けを下さり、ちゃんと息子に会わせて下さったのです。私がもっとしっかりしておれば、もっと早く会わせていただけたでしょうにね。

最後に一つだけ大切な事を付け加えておきましょう。本当はもっと早く書くべきだったんでしょうに、つい感激にかまけてしまって……その大切な事と言うのは、子供がこちらへ来るとまずこちらの事情に慣れさせて、それから再び地上の事を勉強させます。地上生活が長ければ長いほど、こちらでの地上の勉強は少なくて済みます。死産児には全然地上の体験がない訳ですが、地上の子である事に変わりは有りませんから、やはり地球の子としての教育が必要です。

つまり地上へ近づいて間接的に地上生活の経験を摂取する必要があるのです。勿論地上へ近づくにはそれなりの準備が必要です。また、いよいよ近づく時は守護に当たる方が付いておられます。死産児には地上の体験がまるでないので地上生活を体験した子に較べて準備期間が長いようです。

やはり地上生活が長いほど、又その生活に苦難が多ければ多いほど、それだけこちらでの勉強が少なくて済み、次の勉強へ進むのが速いようです。

勿論これは大体の原則を述べたまでで、ここに適用される時は其の子の性格を考慮し、その特殊性に応じて変更され、順応されます。

ともかく全てが上手く出来あがっております。では神の祝福を。お休みなさい。

第3節 童子が手引きせん
1913年10月20日 月曜日

引き続きカストレル様の都市の見学旅行中の話です。中央通りを歩きながら私は何故この都市には方形の広場が多いのか、そしてその広い中央通りの両側にある塔の様に聳える建物が何のために建てられているのかを知りたいと思っていました。

その中央通りの反対側の入り口に到着してやっと判ったのは、その都市全体が平地に囲まれた非常に高い台地にあると言う事でした。案内の方のお話によりますと、そこに設けられている塔からなるべく遠くが見渡せるようにと言う事と、周りの平地の遠い住民からも其の塔が見えるようにと言う配慮があるとのことでした。

そこが其の界の首都で、全てがそこを焦点として治められているのでした。

帰途も幾つかの建物を訪れ、何処でも親切なおもてなしを受けました。その都市ではカストレル様のお住まいで見かけた以外に子供の姿はあまり見かけませんでした。ですが時折そこここの広場で子供の群れを見かけます。

そこには噴水があり、周りの池に流れ落ちて行きます。池の水はその都市を流れる大きな川につながり、無数の色彩と明るい輝きを放散しながら、下の平地へ滝となって落ちて行きます。その滝の流れはかなり大きな川となって平地をゆったりと流れて行きますが、其の川のあちこちで子供たちが水遊びをして遊んでいるのを見かけたのです。

しきりに自分の体に水を掛けております。私は其の時はあまり深く考えなかったのですが、そのうち案内の方から、あの子供達はあのような遊びをするように奨励されているとの話を聞かされました。と言うのは、そこの子供たちは死産児としてきたので体力が乏しく、あの様な遊び方によって生体電気を補充し体力を増強する必要があると言うのです。

それを聞いて私が思わず驚きの声を上げると、その方は「でも別に何の不思議もないでしょう。御存じのように、私達の身体には血も肉もないのにこうして肉体と同じように固くて実態が有ります。また現在の私達の身体が地上時代より遥かに正確に内部の魂の程度を反映している事もご存じの筈です。

その点あの子供達の大半がやっと成長し始めたばかりで、それを促進する為の身体的栄養が要るのです。別に不思議ではないと思いますが」とおっしゃいました。

別に不思議ではない―言われてみれば確かにその通りです。私は先に天界を“完成された地上の様な所”と表現しましたが其の本当の意味が今になってようやくわかってきました。多くの人間がこちらへ来て見て地上とあまりよく似ている事に驚く筈です。

もっとも、ずっと美しいですけど。大抵の人間は地上とは全く異なる薄ぼんやりとした影の様な世界を想像しがちです。

が、よく考えてごらんなさい。常識で考えてごらんなさい。そんな世界が一体何の意味がありますか。それは段階的進歩ではなく一足飛びの変化であって、それは自然の理に反します。

確かにこちらへ来てすぐから少し勝手が違いますが不思議さに呆然とするほどは違わないと言う事です。特に地上生活でこれと言って進歩のない生活を送った人間が落ち着く環境も地上とは見分けがつかない程物質性に富んでおります。

そういう人間が死んだ事に気づかない理由はそこにあります。低い界から高い界へと向上するにつれて物質性が薄れて行き環境が崇高さを増して行きます。しかし地上性を完全に払しょくした界、地上生活とまったく類似性を持たない界に到達する霊は稀です。特殊な例を除いてまずいないのではないかと思っております。が、

この問題について私は断片的な事を言う資格は有りません。何しろ地上生活と全く異なる界に到達していないどころか、訪れてみた事もないからです。

今居る場所はとても美しく、私はこの界の美と驚異を学ばねばなりません。学んでみると、実は地球はこの内的世界が外へ向けて顕現したものに他ならず、従って多くの細かい面に置いて私達および私達の環境と調和している事が判ります。もしそうでなかったら、今こうして通信している事もあり得ない筈です。

そして又、―私みたいな頭の良くない人間にはそう思えると言う事までの事ですが―もしもあなた方の世界と私達の世界に大きな隔たり、巨大な真空地帯のようなものがあるとしたら、地上生活を終えた後、どうやってこちらへやって来れるでしょう。

その真空地帯をどうやって横切るのでしょうか。でも、これはあくまでも私自身の考えです。そんな事はどうという事はないかもしれません。ただ確実に言える事は、神と神の王国はひとつしかない事、それは、死とは何か、その先はどうなっているのかについての理解が遥かに深くなるであろうと言う事です。

死後の世界にも固い家屋があり、歩く為の道があり、山あり谷あり樹木あり、動物や小鳥までいると言う事が全くばかばかしく思える人が多い事でしょう。その動物が単なる飾りものとして存在するのではなく、実際の用途を持っております。

馬は馬、牛は牛の仕事があり、その他の動物も然りです。が、動物達は見た目に微笑ましいほど楽しく働いております。私は一度有る通りで馬に乗ってやってくる人を見かけた事がありますが、なんとなく人間よりも馬の方が楽しんでいるように見えたものです。でも、こうした話は信じて頂けそうにありませんから課題を変えましょう。

その広い市街地の建物の一つに地方の各支部から送られてくる情報を保管する図書館がありました。又、新しいアイディアを実地にテストする為の研究所もありました。更には教授格の人が自分の研究成果を専門分野だけでなく他の分野の人を集めて発表する為の講座もありました。そしてもう一つ、風変わりな歴史を持つ建物がありました。

それは少し奥まった所に立っていて、木材で出来ておりました。マホガニー材をよく磨いたような感じで、木目には黄金の筋が入っております。随分古い建物でカストレル様がその領地の管理を引き継がれるずっと前に、当時の領主の為の会議室として建てられたものです。

かつては領主がそこに研究者たちを召集され、其々に実際的知識を発表する事に使用されておりました。こんな話を聞きました。その発表会でのことです。青年が立ちあがって講堂の中央へ進み出て学長すなわち領主に向かって両手を上げて立ちました。

建っているうちにその青年の姿が変化し始め、光線が増し、半透明の状態になり、ついに大きな光の輪に包まれました。そしてその光の輪の中に高級界からの天使の姿が無数に見えます。学長が意味ありげな頬笑みを浮かべておられますが、青年にはそれが読み取れません。

彼―首席代表であり、領主の後を継ぐべき王子の様な存在でもあります―が、何か言おうと口を開きかけた時です。入口から一人の童子が入って大勢の会衆に驚いた様子できょろきょろ見回しました。

その子は光の輪のそばまできて層をなして座っている天使の無数の顔を見つめて気恥ずかしそうにしました。そしてその場から逃げだしそうにしました。そしてその場から逃げ帰ろうとした時に、中央におられる学長の姿が目に留まりました。光と荘厳さに輝いておられます。瞬間、子供は一切を忘れて、両手を広げ満面の笑みを浮かべて学長めがけて走り寄りました。

すると先生は両手を上げ腰を屈めて其の子を抱き上げ、ご自分の肩に乗せ、青年のところへ歩み寄って其の子を青年の膝の上に置き、元の位置に戻られました。が、戻りかけた時から姿が薄れ始め、元の位置に来られた時は完全に姿が見えなくなり、その場には何もありませんでした。子供は青年の膝の上にいて青年の顔―実に美しい顔立ちでした。―を見上げてニッコリと致しました。

やがて青年が立ちあがり、其の子を左手で抱き、右手を其の頭部に当てて、こう言われました。

「みなさん聖書に“彼らを童子が手引きせん”と言う件(クダリ)があります(イザヤ書11・6)それを今やっと思い出しました。今我々が見たのは主イエス・キリストの“顕現”(*)であり、背所の言葉通り、この童子は主の御国から贈られた方です。」そう述べてから童子に向かい「坊や、さっき先生に抱かれて私に所まで連れて来られた時、先生は坊やに何とおっしゃいましたか」と尋ねました。

(これまでの顕現と種類が異なり、これは霊界に“変容現象”見るべきであろう。イエス自身、地上時代丘の頂上で変容した話がマタイ⑰・マルコ9に出ている)

すると子供は始めて口を開き、子供らしい言い方で、大勢の人の前で気恥ずかしそうにしながらこう言いました。

「僕が良い子としてお兄さんの言いつけを守っていたら、時々あの先生がこの都市(マチ)と領土(クニ)になる新しい事を教えて下さるそうです。でも僕には何の事だか良く判りません。」

それは青年も他の生徒たちも最初は判りませんでした。が、青年は閉会を宣し、其の子を自宅へ連れて帰ってその意味を吟味しました。その結果彼が辿りついた結論は、あれはエリとサムエルの物語(サムエル)書1・3と同じだと言う事でした。そして事実その結論は正しかったのです。

その後其の子は研究所やカレッジの中を自由に遊び回る事を許されました。少しも邪魔にならず、面倒な質問もせず、反対に時折厄介な問題が生じた時など其の子が何気なく口にした言葉が問題解決のカギになっている事があるのでした。

時がたつにつれて、其の事があの顕現そもそもの目的だった事が理解できました。つまり子どもの様な無邪気な単純さの大切さを研究生達は学んだのです。特殊な問題の解決策が単純であるほど全体としての解決策にも通じるものがあると言う事です。

他にも学生達がその“顕現”から学んだものはいろいろとありました。例えばキリスト神は常に彼らとともに存在する事、そして必要な時は何時でもお姿をお見せになる事。これは、あの時、学生の中から姿を現わされた事に象徴されておりました。又広げた両手は自己犠牲を意味しておられました。

あの後光が象徴したように、荘厳さに満ちたあのコロニーに置いてさえも自己犠牲が必要なのです。其の後、あの童子はどうなったか―彼は例の青年の叡智と霊格が成長するにつれて生育し青年が一段高い界へ赴いた後、青年の地位を引き継いだという事です。

さて以上の話は随分昔の事です。今でもそのルールは存在します。内側も外側も花で飾られて、常によく手入れされております。しかし講演や討論には使用されず、礼拝場として使用されております。その都市の画家の一人が例の“顕現”のシーンを絵画にして、地上でも見られるように祭壇の後ろに置いてありました。

そこにおいて主イエスを通しての父なる神への礼拝が良く行われます。それ以上に盛大に行われるのはあの顕現の時の青年が大天使として、今では指導者格となっている例の童子を従え、あの時以降青年の地位を引きついだ多くの霊とともに、そこに降臨する事があります。そこに召集されたものは何か大きな祝福と顕現がある事を察知します。

しかしそういう機会に出席できるのはそれに相応しい霊格を具えたものに限られます。一定の段階まで進化していない者にはその顕現が見えないのです。

神の王国は何処も光明と荘厳さに満ちあふれ、素晴らしいの一語に尽きますが、其の中でも驚異中の驚異と言うべきものは、そうやって無限の時と距離を超えて宇宙の大霊の存在が顕現されると言う事実です。神の愛は万物に至ります。あなたと私の二人にとっては、こうして神の御国の中の地上界と霊界と言う二つの間のベールを通して語り合えるようにして下さった神の配慮に其の愛を見る事が出来るのです。

第4節 炎の馬車
1913年10月21日 火曜日

カストレル様の都市についてはまだまだお話しようと思えば幾らでもあるのですが、他のも取り上げたい問題がありますので、あと一つだけ述べて、それから別の話題へ移りたいと思います。

宮殿のある地域に滞在していた時の事です。そこへよく子供達が遊びに来ました。その中には私の例の死産児も含まれておりました。他の子供たちは其の子の母親つまり私と仲間の四人と会うのが楽しみだったようです。そして私達がそれまで訪れた土地の話、特に子供の園や学校の話をすると、飽きることなく一心に聞き入るのでした。

来る時は良く花輪を編んでお土産に持ってきてくれたのですが、実はその裏にはゲームで一緒に遊んでもらおうと言う下心があったのです。もちろん良く一緒に遊んであげました。その静かで平和な土地で可愛い幼児とはしゃぎまわっている楽しい姿は容易に想像して頂けると思います。

ある時あなたも子供のころ遊んだ事のあるジョリーフーバーゲームに似た遊びで、子供たちと向かい合っている子供たちが突然歌うのを止めて立ちつくし、私達の頭越しに遠くを見つめているのです。振り向くと、その空地の端の並木道の入口のところに、他でもない、カストレル様のお姿がありました。

笑みを浮かべておられます。風采からは王者の威厳が感じられますが、其の雰囲気には力と叡智が渾然となった優しさと謙虚さが有る為に見た目には実に魅力があり、つい近づいてみたくなるものがあります。こちらへゆっくりと歩を進められ、それを見た子供たちが走り寄りました。すると一人一人の頭を易しくなでておられます。

やがて私達のところへ来られると「ご覧の通りガイドなしで一人でやってきましたよ。何処におられるのかはすぐ判りますから、ところで悪いのですが、遊びを中断して頂かねばならない用事が出来たのです。あなた方もぜひ出席していただきたい儀式がもうじき催されます。こちらにおられる“小さい子供さん”」はそのままゲームを続けなさい。

あなた方“大きい子供さん”は私と一緒に来てください。とユーモラスにおっしゃるのです。

すると子供達は私達の方へ駆け寄ってきて、嬉しそうに頬にキスをして、用事が終わったらまたゲームをしに来てね。と言うのでした。

それからカストレル様の後について、頭が届きそうなほど枝の垂れ下がったトンネル状の並木道を進み、やがてそこを通り過ぎると広い田園地帯が広がっていました。そこでカストレル様は足を止めてこうおっしゃいました。「さてずっと向こうを見て御覧なさい何が見えますか。」

私達五人は口をそろえて、広いうねった平野と数々の建物、そして向こうには長い山脈の様なものが幽かに見えます。と答えました。

「それだけですか。」とカストレル様が聞かれます。

私達は目立ったものとしてはそれだけですと答えると「そうでしょうね。それがあなた方の視力の限界なのでしょうね。いいですか。私の視力はあなた方より発達していますから、其の山脈のさらに遠くまで見えます」良く聞いて下さいよ。ここから私の視力に映っているものを述べて行きますから。

その山脈の向こうに一段と高い山脈が見え、さらにその向こうにそれより高い山頂が見えます。建物が建っているものもあれば何もないものもあります。私はあの地方にいた事があります。ですから、あそこにも、ここから見ると小さく見えますが、実はこの都市を中心とした私の領土全体と同じくらいのひろさの平野と田園地帯が有る事を知っております。

私はいまその中に一つの山の頂上近くのスロープを見つめております。地平線ではありません。あなた方の視力の範囲を超えたところに位置しており、そこにこの都市よりもはるかに広くて壮大な大都市が見えます。

その中央へ通じる道の入り口がちょうど我々の方を向いており、その前は広い平坦地になっております。今の通路を騎馬隊と四輪馬車の列が出てくるところです。集合し終わりました。いよいよ出発です。今その中からリーダーの乗った馬車が進み出て先頭に位置しました。命令を下しております。群衆が手を振って無事を祈っております。

リーダーの馬車が崖の淵まで来ました。そして今その崖を離れて宙を前進しております。それを先頭に残りの隊が付いてきます。さあ、此方へ向かっていますよ。私達も別な場所へ行って到着の様子を見ましょう。

何の為にやってくるのか、誰ひとり尋ねる者はいませんでした。畏れ多くて聞けなかったのではありません。お聞きしようと思えばどんな事でもお聞き出来たのですが、なぜか以心伝心で納得していたようです。ですがカストレル様は一応私達の心を察して「皆さんはあの一隊が何のためにやってくるのか知りたがっておられる様ですが、その内分かります。」とおっしゃって歩を進められ、私達も後についてその都市を囲む外壁のところまで至り、そこから平地の向こうの丘の方へ目をやりました。が、さっき述べたもの以外は相変わらず何も見えません。

「隊の姿を誰が一番見つけますかな」とカストレル様がおっしゃいます。そこで私達は目を凝らして一心に見詰めるのですが、一向に見えません。その内私の目に遥か山脈の上空に星が一つ輝いて見えたような気がしました。それと時同じくして仲間の一人が「先生、あそこに見える星はここに来た時には無かったように思います」と大きい声で言いました。

「いえ最初から有ったのですが、あなたには見えなかっただけです。では、あなたが最初ですか、見えたのは」と聞かれます。

わたしはどうも“私にも見えておりました”とは言いたくありませんでした。先に言えば良かったのでしょうけど。するとカストレル様は「私にはもう一人見える方がおるような気がするのですがね。違いますか」と言って私の方を向いてニッコリされました。私は赤くなって何だか訳の判らぬ事を口ごもりました。するとカストレル様が、

「宜しい良く見つめていてください。他の方もそのうち見え始めるでしょう。あの星が現時点では数界を隔てた位置に有ります。まさかあの界まで見える方がこの中におられるとは予想しませんでした」とおっしゃって、私達二人に向かれ、「ご成長を祝福申し上げます。お二人は急速に進歩を遂げておられますね。この調子でいけばきっと間もなく仕事の範囲も拡大されます」と言って下さいました。二人はそのお言葉を有難く拝聴しました。

さて気がついて見ますと、その星がさっきよりずっと明るく輝いて見え、みるみる大きく広くなって行きます。その様子を暫く見続けているうちに次第にそれが円盤状のものでなくて別の形のもので有る事が判り、やがてその形が明瞭になってきました。それは竪琴(リラ)の形をした光のハーブと言うべきもので、まるでダイヤモンドを散りばめた飾りのようでした。が、段々接近すると、それが騎馬と馬車と従者の一団で、その順序で私達の方角へ向けて虚空を疾走しているのでした。

やがて都市の別のところからも歓声が聞こえてきました。同じものを発見したのです。

「あの一隊がこの都市へやってくる目的がそろそろお判りでしょう。」とカストレル様はおっしゃるので、

「音楽です」と私が申し上げると、

「その通り。音楽と関係があります。とにかく音楽が主な目的です」とおっしゃいました。更に近づいたのを見ると、その数は総勢数百名の大集団でした。見るも美しい光景でした。騎馬と炎の馬車―古い伝説に出てくるあの炎の馬車は本当にあるのです。

―それが全身から光を放つ輝かしい騎手に操られて天界の道を疾走してきたのです。ああ、その美しいさ。数界も高い天界からの霊の美しさはとても私達には叙述出来ません。其の中の一番霊格の低い方でもカストレル様と並ぶほどの方でした。が実はカストレル様はその本来の光輝を抑え、霊格を御隠しになっておられました。

それはこの都市の最高霊で有ると同時に一人の住民でもあるとのご自覚をお持ちだからです。ですが、高級界からの一隊がいよいよ接近するにつれてカストレル様のお姿にも変化が生じ始めました。お顔と身体が輝きを増し、訪問者の中で一番光輝の弱い方と同じ程度にまで輝き始めました。

何故カストレル様が普段この天界の低地の環境に会わせる必要があるのか。私は後で考えて理解がいきました。それは、こうして普段より光輝をまされたお姿を目の前にしますと、まだまだ本来の全てをお出しになっておられないのに私達にはとても近づき難く、思わず後ずさりされられるほどだったのです。おっかないと言うのとは違います。意外さに思わず……と言うよりほかに表現のしようが有りません。

一隊はついに私達の領土の上空まで来ました。最初の丘陵地帯と私達の居る位置との中ほどまで来た時、速度を緩めて徐々に編隊を変えました。今度は……の形(*)を取りました。そして遂に都市の表面入口の前の広場に着陸しました。

カストレル様すでに私達から離れておられ一隊が着陸すると同時に表面入口からお付きの者を従えて歩みでられました。光に身を包まれて……と表現するのが其の時の印象に一番近いでしょう。王冠は嘗て見た事もないほど光輝を増しております。

腰につけられたシンクチャー(帯の一種)も同じです。隊長(リーダー)の近くまで来るとそこで跪かれました。カストレル様より遥かに明るい光輝を発しておられます。馬車から降りられるとカストレル様に急ぎ足で歩み寄られ、手を取って立ち上がらせ、抱き寄せられました。

その優雅さと愛に満ちた厳かな所作に、一瞬全体がシーンと静まり返りました。その抱擁が解かれ、私達に理解できない言語での挨拶が交わされてから、カストレル様が残りの隊へ向かってお辞儀をし、直立の姿勢で都市の外壁の方へ向かれ片手を挙げられました。

すると突如として音楽が鳴り渡り全市民による荘厳なる賛美歌が聞こえてきました。前に一度同じような大合唱のお話をした事がありますが、それとは比較にならない厳かさがありました。この界があの時より一界上だったからです。其の大合唱と鐘の音と楽器の演奏の中を二人を先頭に一隊から都市の中へ入って行きました。

こうして一隊はカストレル宮殿へ向かう通りを行進し、いよいよ例の並木道へ入る曲がり角で隊長が馬車をとめ、たちあがって四方を見回し、手を挙げて沿道の市民にその都市の言葉で祝福を述べ、それから並木道へと入り、やがて一隊とともに姿が見えなくなりました。

でも駄目ですね、私は。今回の出来ごとの荘厳さを万分の一でもお伝えしようと努力してみましたが、惨めな失敗に終わりました。実際に観たものは私が叙述したものより遥かに遥かに荘厳だったのです。私が主として到着の模様の叙述に時間を費やしたのは、今回の一隊の訪問については良く理解していなかったからです。

それは私ごとき低地の住民には理解の及ばない事で、その都市の指導的地位にある方や偉大な天使が関わる問題です。

せいぜい私が感じ取ったのは、あのコロニーの中で音楽の創造に関わっている人の中でも最高に進化した人々による研究に主に関連していると言う事だけです。それ以上の事は判りません。勿論私以上に語れる人が他にいるでしょうけど。

さっき出なかった言葉“惑星”です。編隊を変えた後の形の事です。いえ“惑星”ではありません。“惑星系組織”です。地球の属する太陽系なのかどうか―多分他の太陽系でしょうが、私にはよく判りません。

今夜はこれでお終いです。祝福の言葉をお待ちのようですね。では神の祝福を、目をまっすぐに見据えて理想を高く掲げる事です。そして私ども世界の本当の栄光に較べれば、地上で創造しうる限りの最高の栄光も、太陽に対するローソクの様なものでしかない事、それほど霊の世界の栄光は素晴らしいことをお忘れにならぬように。

第5節 “縁”は異なるもの
1913年10月22日 水曜日

もしも地球が一個のダイヤモンドか真珠の様なものであったら、太陽や星の光を反射して地球の周りがどんなにか明るく輝く事でしょう。勿論地球に輝きがない訳ではありません。少しは輝いております。ただ表面上にツヤがない為に至ってお粗末なものに見えます。その輝きと真珠の輝きとを比較して頂けば、地上生活と私達が今いる光と美の境涯、いわゆる“常夏の国”(*)との違いが想像して頂けると思います。

(*嘗ては“常夏の国”が天国とされていたが、近代の霊界通信によってそれがまだまだ霊界の入口あたりに過ぎない事が明らかになってきた。本通信でも“天界の低地”に属し、善と悪、暗黒界と光明界の二面性がある事が窺える)

この常夏の国の平野や渓谷に遠く目をやっておりますと、地上の大気による視覚への影響を殆ど忘れております。最も地上独特のものでこちらに存在しないものを幾つか思い出す事は出来ます。例えば距離です。

距離感覚はぼやけて行くのではなく、少しずつ消失していくのです。樹木や植物は地上のようにシーズンが来ると咲きシーズンが終わると枯れて行くと言うのではありません。何時も咲いております。

それを摘み取っても随分永い間は生き生きとしております。やがて萎れると思うとそうではなく、これもいつの間にか大気の中へ消滅して行くのです。大気は地上と同じような感じがしますが、必ずしも無色透明ではありません。カストレル様の都市は何処か黄金の太陽の光の様なものに包まれております。モヤではありません。

それが視力を妨げる事もありません。それどころか、他の様々な色彩を邪魔することなく一切を黄金の光輝の中に包み込んでいるのです。うっすらとしたピンク、あるいは青色をしている地方もあります。各地方に独自の色調又は感じがあって、それがそこの住民の本性と性向と仕事の特徴を表しているのです。

大気の色調はこの原理に基づいているようです。が同時に、其の色調が住民の言動に反映しています。他の地域を訪れるとそれが良く判ります。霊格が高くなると、その土地へ足を踏み入れるとすぐに、そこの住民の一般的性向と仕事の内容が判るようになります。

と同時にその人もすぐにその影響を受ける事になります。勿論根本的性格は変わりません。感覚的な面で影響を受け、それがすぐに衣服の変化となって表れます。

こちらでは地上での御縁が全て生かされております。ふとした縁、行きずりの縁も意味があるものです。人生におけるあらゆる出合いが何らかの影響を及ぼしております。たまたま隣り合わせに腰掛けた人と交わした会話、偶然の出会い、ふと買い求めた一冊の本、友人の紹介で握手を交わし、それきり生涯会う事のなかった人等々、全てが記憶され、考慮され、整合されて、必要に応じて利用されます。今回の私とS婦人との関係もその一つの例と言えましょう。

ですから、日常の行為の一つ、言葉の一つにも気をつけなくてはいけません。神経質になるのではなく、常に人の為を思いやる習慣を身につける事です。何時でも、何処でも親切の念を出し続ける習慣です。これは天界では大変重要なことで、それが衣服に明るさを、そして身体に光輝を与えるのです。

ではお休みなさい。この挨拶は“良い夜”をお過ごしくださいと言う意味ですから地上の方には意味がありますが、私達には意味がありません。こちらでは“善”を愛するものにとっては全てが“良い”事ばかりであり、絶対的な光に満ちておりますから“夜”が無いのです


第5章 天使の支配
第1節 罪の報い
1913年10月23日 木曜日

天界における進化向上の仕組みは実に細かく入り組んでおり、いかに些細な要素も見逃さないようになっておりますから、それを細かく説明していったらおそらくうんざりなさる事でしょう。

ですが、ここで一つだけ実例を挙げて昨晩の通信の終わりで述べた事を補足説明しておきたいと思います。

最近の事ですが、又一人の女性が暗黒街から例の“橋”に到着するという連絡を受け、私ともう一人の仲間が迎えに行かされた事がありました。急いで行ってみますと、件の女性がすでに待っておりました。

一人ぼっちです。実はそこまで連れてきた人達が其の女性に瞑想と反省の時を与える為にわざと一人にしておいたのです。これからの向上にとってそれが大切なのです。

一本の樹木の下の芝生の坂にしゃがみこんでおり、その木の枝が天蓋のようにその方を蔽っております。見ると目を閉じておられます。私達はその前に立って静かに待っておりました。やがて眼を開けると怪訝そうな顔で私達を見つめました。

でも何もしゃべらないので、私が「お姉さま!」と呼びかけてみました。女性は戸惑った表情で私達を見つめていましたが、そのうち目に涙をいっぱい浮かべ、両手で頬を蔽い、膝に押し当ててさめざめと泣くのでした。

そこで私が近づいて頭の上に手を置き「あなたは私達と姉妹になられたのですよ。私達は泣かないですから、あなたも泣いてはいけません」といいました。

「私が誰でどんな人間か、どうしてお判りになるのでしょう」―その方は頭を上げてそう言い、しきりに涙をこらえようとしておりましたが、その言葉の響きにはまだ何処か、ちょっぴり私達に対する反発心が有りました。

「どなたかは存じませんが、どんなお方であるか存じ上げております。あなたはずっと父なる神の一人でいらっしゃるし、従って私達と姉妹でもありました。

今ではもっと広い意味で私達と姉妹になったのです。それ以外の事はあなたの心掛け一つに掛っております。

つまり父なる神の光の方へ向かう人となるか、それともそれが辛くて再びあの“橋”を渡って戻って行く人となるかは、あなたご自身で決断を下される事です」と私が述べると、暫く黙って考えてから、

「決断する勇気がありません。何処もここも怖いのです」と言いました。

「でもどちらかを選ばなくてはなりません。このままここに留る訳にはいきません。私達と一緒に向上への道を歩みましょう。そうしましょうね、私達が姉妹としての援助の手をお貸しして道中ずっと付き添いますから。」

「ああ。あなたはこの先がどんな所なのか何処までご存じなのでしょう」―其の声には苦悶の響きがありました。「今まで居た所でも私の事を皆姉妹のように呼んでくれました。

私を侮っていたのです。姉妹どころか、反対に汚名と苦痛の限りを私に浴びせました。

ああ、思い出したく有りません。思い出すだけで気が狂いそうです。と言って、この私が向上の道を選ぶなんて、これからどうしてよいか判りません。私はもう汚れ切り、堕落しきった駄目な女です」

その様子を見て私は容易ならざるものを感じ、その方法を断念しました。そして彼女にこう言う趣旨の事を言いました。―当分はそうした苦しい体験を忘れる事に専念しなさい。

その後、私達も協力して新しい仕事と真剣に取り組めるようになるまで頑張りましょう、と。彼女にとってそれが大変辛く厳しい修行となるであろう事は容易に想像できました。

でも向上の道は一つしかないのです。何一つ繕う事が出来ないのです。全ての事―現在までの一つ一つの行為、一つ一つの言葉が、有るがままに映し出され評価されるのです。

神の公正と愛が成就されるのです。それが向上の道であり、それしかないのです。がその婦人の場合はそれに耐えうる力が付くまで休息を与えなければならないと判断し、私達は彼女を励ましてその場から連れ出しました。

さて道すがら彼女はしきりに辺りを見回しては、あれは何かとか、この先にどんな所があるのかとか、これから行くホームはどんな所かとか、いろいろと尋ねました。

私達は彼女が理解できる範囲の事を教えてあげました。その地方一帯を治めておられる女性天使のこと、そしてその配下で働いている霊団の事等を話して聞かせました。

その話の途中の事です。彼女は急に足を止めて、これ以上先に行けそうにないと言いだしました。“何故?お疲れになりましたか”と聞くと“いえ、怖いのです”と答えます。

私達は婦人の心に何かがあると感じました。しかし実際にはそれが何であるかは良く判りません。何か私達に掴みどころのないものがあるのです。

そこで私達は婦人にもっと身の上について話してくれるようにお願いしたところ、ついに秘密を引きだす事に成功しました。それはこう言う事だったようです。

“橋”の向こう側の遠い暗闇の中で助けを求める叫び声を聞いた時、待機していた男性の天使がその方角へ霊の光を向け、すぐに援助の者を差し向けました。行ってみると、悪臭を放ち汚れた熱い小川の岸に其の女性が気を失って倒れておりました。

それを抱きかかえて橋のたもとの門楼まで連れてきました。そこで手厚く介抱し、意識を取り戻してから、橋を渡って、私達が迎えに出た場所まで連れて来たという訳です。

さて援助に赴いた方が岸辺に彼女を発見した時の事です。気がついた彼女は辺りに誰かが要る気配を感じましたが、姿が見えません。

とっさに彼女はそれまで彼女を苛めに苛めていた悪の仲間と思い込み大声で「触らないで!こん畜生!」と罵りました。

が、次に気がついた時は門楼の中にいたと言うのです。彼女が私たちと歩いている最中に急に足を止めたのは、ふとその事が蘇ったからでした。彼女は神の使者に呪いの言葉を浴びせた訳です。

自分の言葉が余りに醜かったので光を見るのが怖くなったのです。実際には誰に向かって罵ったか自分でも判りません。しかし誰に向けようと呪いは呪いです。そしてそれが彼女の心に重くのし掛かっていたのです。

私達は相談した結果これはすぐにでも引き返すべきだという結論に達しました。つまりこの女性には他にも数々の罪は有るにしても、それは後回しに出来る。それよりも今回の罪はこの光と愛の世界の聖霊に対する罪であり、それが償われない限り本人の心が休まらないであろうし、私達がどう努力しても効果はないと見たのです。そこで私達は彼女を連れて引きかえし“橋”を渡って門楼の所まで来ました。

彼女を救出に行かれた件の天使に会うと、彼女は赦しを乞い、そして赦されました。実は其の天使は私達がこうして引き返してくるのを待っておられたのです。

私達より遥かに進化された霊格の高い方で、従って叡智に長け、彼女がいずれ戻って来ずに居られなくなる事を洞察しておられたのです。

ですから私達が来るのをずっと門楼から見ておられ、到着するとすぐでてこられました。その優しいお顔付きと笑顔を見て、この女性もすぐにこの方だと直感し、膝まずいて祝福を頂いたのでした。

今夜の話はドラマチックな処は無いかも知れませんが、この話を持ち出したのは、此方では一見何でもなさそうに思える事でもきちんと片づけなければならないようになっていることを明らかにしたかったからです。

実際私には何か私達の理解を超えた偉大な知性が四六時中私達を支配しているように思えるのです。

あのお気の毒な罪深い女性が向上して行く上に置いて、あんな些細な事でもきちんと償わなければならなかったという話がそれを証明しております。“橋”通って門楼まで行くのは実は大変な道のりで、彼女もくたくたに疲れ切っておりました。

ですが、自分が毒づいた天使様のお顔を拝見し、その優しい愛と寛恕の言葉を頂いた時に始めて、辛さを耐え忍んでこそ安らぎが与えられるものである事、為すべき事を為せばきっと恵みを得る事を悟ったのでした。

その確信は、彼女のように散々神の愛に背を向けてきた罪をこれから後悔と恥辱の中で償って行かねばならない者にとっては、掛けがいのない心の支えとなります。

―その方はいまどうされていますか。

あれからまだ時間が経っておりませんので目立って進歩しておりません。進歩を阻害するものがまだ色々とあるのです。ですが、間違い無く進歩しておられます。

私達のホームにおられますが、まだまだ人の為の仕事を頂くまでには至っておりません。いずれはそうなるでしょうが、当分は無理です。

罪悪と言うのは本質的には否定的性格を帯びておりますが、それは神の愛と父性(*)を否定することであり、単に戒律を破ったということとは比較にならない罪深い行為です。

魂の本性つまり内的生命の泉を汚し、宇宙の大霊の神殿に不敬を働く他なりません。其の汚れた神殿の掃除は普通の家屋を掃除するのとは訳が違います。

強烈なる神の光がいかに些細な汚点をも照らし出してしまうのです。それだけに又、それを清らかに保つ者の幸せは特別です。何となれば神の御心のままに生き、人を愛すると言う事の素晴らしさを味わうからです。

(*民族的性向の違いにより神を“父なる存在”とみなす民族と“母なる存在”とみなす民族とがる。哲学的には老子の如く“無”と表現する場合もあるが、いずれにせよ顕幽にまたがる全宇宙の絶対的根源であり、神道流に言えばアメノミナカヌシノカミである)

第2節 最後の審判
1913年10月27日 月曜日

今夜もまた天界の生活を取り上げて、此方の境涯で体験する神の愛と恵みについてもう少しお伝えできればと思います。私達のホームは樹木の良く繁った丘の中腹に広がる空地に建っております。

私がお世話している患者―ほんとに患者なのです。―は明かりの乏しい、いわば闇が魂に忍び込むような低地での苦しい体験の後にここに連れて来られ、安らぎと静けさの介抱されております。

きた時は大なり小なり疲労し衰弱しておりますので、ここから向上して行けるようになるのは、余ほど体力を回復してからの事です。

あなたはここでの介抱の仕方を知りたいのではないかと思いますので申し上げましょう。これを煎じつめれば“愛”の一語に付きましょう。それが私達の指導原理なのです。

と言う事は私達は罪を裁かず、罰せず、ただ愛を持って導いてあげると言う事なのですから、その事実を知った患者の中にはとても有難く思う人がいます。ところが実はそう思う事が原因となって、去ってそこにいたたまれなくなるものなのです。

例えばこんな話があります。最近の事ですが、患者の一人が庭を歩いている時に、私達霊団の最高指導霊であられる女性天使を見かけました。

その人はつい目をそらして脇の方へ折れようとしました。怖いのではありません。畏れ多い気がしたのです。すると天使様の方から近づいてきて優しく声をかけられました。

話をしてみると以外に気楽に話せるものですから、それまで疑問に思っていた事を尋ねる気になりました。

「審判官は何処におられるのでしょうか。そして最後の審判はいつ行われるのでしょうか。其の事を思うと何時も身震いがするのです。私の様な人間はさぞ酷い罰を言いつけられるに決まっているからです。どうせなら早く知って覚悟を決めたいと思うのです」

この問いに天使様はこうおっしゃいました。

「良くお聞きになられました。あなたの審判はあなたが審判を望まれた時に始まるのです。今のあなたのお言葉から察するにもうそれは始まっております。ご自分の過去が罰を受けるに値すると白状されたからです。

それが審判の第一歩なのです。それから、審判官は何処にいるのかとお尋ねですが、それ、そこにおられます。あなたご自身ですよ。あなた自身が罰を与えるのです。これまでの生活を総点検して、自分の自由意思によってそれを行うのです。

一つ一つ勇気を持って懺悔する毎に向上してゆきます。ここにおいでになるまでのあの暗黒街での生活によって、あなたは既に多くの罰を受けておられます。

確かにあれは恐ろしいものでした。しかしそれも過去のものとなり、これからの辛抱にはあんな恐ろしさは伴いません。もう恐怖心とはおさらばなさらなければなりません。但し苦痛は伴うでしょう。

大変辛い思いをなさる事と思います。ですがその苦痛の中にあっても神の導きを感じるようになり、正しい道を進めば進むほど一層それを強く感じるようになるでしょう」

「でも報酬を与えたり、罰したりする大審判者つまりキリスト神の玉座が見当たらないのはおかしいと思うのです」

「なるほど玉座ですか。それならいずれご覧になる日が来るでしょう。でもまだまだです。審判と言うのはあなたがお考えになっているものとは大分違います。でも怖がる必要は有りません。進歩するにつれて神の偉大な愛に気づき、より深く理解して行かれます」

これは実は此方へ来る人の多くを戸惑わせる問題のようです。悪い事しているので、どうせ神のお叱りを受けて拷問に掛けられるものと思い込んでいるので、そんな気配がない事に却って戸惑いを感じるのです。

また、自分は立派な事をしてきたと思い込んでいる人が、置かれた環境の低さ―時には惨めなほど低い環境に落胆する事が良くあります。内心では一気にキリスト教の御前に召されて“よくぞやってくれた”とお褒めの言葉でも頂戴するものと思い込んで居たからです。もうそれはそれは、此方へ来てからは意外な事ばかりです。喜ぶ人もいれば悲しむ人もいる訳です。

最近こんな人も見かけました。この方は地上では大変な博学な文筆家で、何冊もの書物を出版した人ですが、地上でガス工場のカマタキをしていた青年には為しかけ、いろいろと教わっているところでした。楽しそうな様子なのです。

と言うのも、その人は謙虚さを少しずつ学んでいるところだったのです。ですが、この人のいけないところは、そんな行きずりの若造を相手に教えを乞うのは苦にならないのに、すでにこちらへ来ている筈の嘗ての知人の所へ赴いて地上での過ちや知的な自惚れを告白することはしたくないのです。しかし、いずれはしなければならない事です。青年との関係はその為の準備段階なのです。

しかし同時に、私達の目には其の人の過去も現在も丸見えであり、特に現在の環境が非常に低いことが明白なのに、本人は相変わらず内心の自惚れは他人に知られたくないと思い続けているのが哀れに思えてなりません。

こう言う人には指導霊も大変な根気が要ります。が、それが又指導霊にとっての修行でもあるのです。

ここで地上の神霊家を悩ます問題を説明しておきましょう。問題と言うのは、心霊上の問題点について何故霊界からもっと情報を提供してくれないかと言う事です。

これにはぜひ理解して頂かねばならない事情があるのです。こうして地上圏まで降りてきますと、私達は既に本来の私達ではなく地上特有の条件による制約を受けます。

その制約が私達にはすでに馴染めなくなっております。例えば地上を支配している各種の法則に従って仕事を進めざるを得ません。

そうしないとメッセージを伝える事も物理的に演出して見せてあげる事も出来ません。実演会では出席者が有る特定の霊の姿を見せてほしいとか話を交わしたいとか、あるいは死に霊にまつわる証拠について質問したいと思っている事は判っても、それに応じるのは私達は非常に制約された条件下におかれています。

例えば其の出席者の有する特殊な霊力を活用しなければならないのですが、此方が必要とする肝心なものは閉じられたままで結局その人が提供してくれるものだけで間に合わせなくてはならない事になりますが、それが往々にして十分ではないのです。

更にその人の意念と私達の意念とが言わば空中衝突をして混乱を生じたり、完全に実験が台無しになったりする事もあります。なるべくなら私達を信頼して私達の思い通りにやらせてほしいのです。

その後で私達が何を伝えんとしているかを批判的態度で検討して下さればいいのです。もし特別に情報が欲しいと思われる問題があれば、それを日常生活におけるのと同じように、時折心の中に宿していただけばそれで宜しい。

私達がそれを察知し検討し、もし可能性があり有益でもあり筋が通っていると判断すれば、チャンスと手段を見つけて、遅かれ速かれ、それに応じて差し上げます。

実験その他、何らか居形で私達が側に来ている時に要求をお出しになるのであれば、強要せずに単に想念を抱くだけで宜しい。

後は私達に任せて下さい。出来るだけの事をして差し上げます。しつこく要求してはいけません。私達はお役に立ちたいと言う意図しかないのですから、あなたの為になる事なら出来る限りの事をしていると信じて下さい。

ちょうどそのよい例があります。あなたはずっとルビーの事を知りたいと思っておられました。それをあなたがしつこく要求する事がなかったので、私達は存分の用意する事が出来たのです。これからその様子をお伝えしましょう。

ルビーは今とても幸せです。そして与えられた仕事も上手にこなせるようになりました。つい最近会ったばかりで、もうすぐあなたやローズにお話をしに行けそうだと言っておりました。

何故今夜来れないのかと思っておられるようですが、あの子には他にする事がありますし、私達は私達で計画に沿って果たさねばならない事があります。

そう、こんな事も言っておりました。―「お父さんに伝えてちょうだい。

お父さんが教会でお説教をしている時の言葉があたしの所まで届けられて、其の中の幾つかを取り上げて皆で討論し合う事があるって。地上で学べなかった事についてのお話が入っているからなの」と。

―ちょっと考えられない事ですね。本当ですか。

おやおやこれは又異なことを。本当ですか、とは一体あなたはこちらの子供をどんな風に考えておいでですか。

いいですか。幼くしてこちらへ来たものはまず、この新しい世界の生活と環境について学び、それが終わってから今度は地球と地上生活について少しずつ勉強することを許されます。

そしていずれは完全なる知識を身につけないといけないのです。その為に、慎重を期しつつあらゆる手段を活用する事になります。

父親の説教を聞いて学ぶ事以上に素晴らしい方法が有るでしょうか。これ以上申しません。これだけ言えば十分の筈です。常識的にお考えになる事です。少しは精神的構造が啓発されるでしょう。

―でも、もしもあなたのおっしゃる通りだと、人間はうっかり他人にお説教などできなくなります。それと、どうか気を悪くなさらないでください。
ご心配なく、機嫌を損ねてなんかいませんよ。実はあなたの精神に少なくとも死後の環境とその自然さについて、かなりの理解が得られるようになって有難く思っていたのです。ところが、愚かしい漠然として死後の観念をさらけ出すような、あのような考えを突如として出されたので驚いたのです。

でも他人に説教する際には良く良く慎重であらねばならないと思われたのは誠に結構な事です。でも、この事はあなた一人に限った事ではありません。全ての人間がそうあらねばならない事ですし、すべの人間が自分の思念と言葉と行為に慎重であらねばなりません。

こちらではそれが悉く知れてしまうのです。でも一つだけ安心して頂ける事があります。万が一良からぬ事、品のない事をうっかり考えたり口に出したりした時は、そういうものはルビーが居る様な境涯へは届かないように配慮されております。

ですからそちらではどうぞ気楽に考えて下さい。思いのまま遠慮なくおしゃべりになる事です。こちらの世界では誠意さえあれば、たとえその教えが間違っていても、間違いを恐れて黙っているよりは歓迎されるのです。

さ、お寝みなさい。皆さんによろしく、神の祝福を。そして神が常にあなたの勇気と忠誠心をお与えくださいますように。

第3節 使節団を迎える
1913年10月28日 火曜日

これまで私達が伝えたメッセージはすべてあなたの精神(マインド*)に私達の思念や言葉を印象つける方法で行われております。

この為に私達はあなたの精神に宿されているもの、を出来るだけ多く取り出し、活用して、少しでも楽に伝わるように工夫します。ですが、それがうまく行かなくて、やむをえずあなたの霊を地上環境から連れ出して、私達が伝えんとしている内容を影像の形で見せ、それをあなたに綴らせると言う手段を取る事が良くあります。

(*霊側から観た精神には実態があり、そこに宿された想念や記憶が具体的に手に取るように見える。いわゆる潜在意識をもこれに含まれる)

いいえ、あなたの身体から連れ出すと言う意味ではありません。だってあなたはその間ずっとそこにいて意識を持ち続けておるのですから。

私達が行うのは言わばあなたの内的視野―霊力の視力―に霊力を注ぎ込む為に一時的にあなたの注意力を私達が吸収してしまうのです。するとその間あなたは環境をほとんど意識しなくなります。

つまり周囲の事を忘れ、気を取られなくなります。その瞬間をねらって今述べた霊界の影像を伝達して、それに私達が実際に見た出来事の叙述を添えると言う事をする訳です。

例えばカストレル様の都市へ音楽の使節団が光のハーブの編隊を組んで到着するシーンそのものは実際のものをお見せして、それに群がる群集や表面入口での挨拶の様子、その他、伝えたいと思った事を後で私達が復元して添えたものです。

そういう次第だったのです。具体的にどういう風にするかは、いずれこちらへおいでになれば判ります。

さてこれから私達はもう一つの光景をお見せしてみようかと思います。“みよう”と言う言い方をしたのは、大事な事については私達はそう滅多にしくじる事はありませんが、所詮私達も全能ではありません。いろいろと邪魔が入り、思うに任せない事もあるからです。

それではこれから暫くあなたの注意力をお貸し頂いて、私達のホームへ使節団が見学に訪れた時の様子を叙述してみましょう。私達は良くお互いに使節団を派遣し合って、他のホームでの仕事ぶりを学び合う事を致します。

私達はホームの裏手に有る丘の頂上近くに立って使節団の到着を待っておりました。やがて広々とした平野の上空遥か彼方にその姿が見え始めました。其の辺りの空は深紅と黄金と緑の筋が水平に重なって見えます。

それを見て私達は其の使節団がどの地域からのもので、どんな仕事に携わっている人達で有るかが判断できます。その施設は主に儀式と式典の正しいあり方を研究している人達で、非常に遠方のコロニーからお出でになられたのでした。

虚空を翔ける様子を見つめておりますと、平地で待機していた私達のホームの出迎えの代表団が空中へ舞い上がりました。大空での出迎えの様子を見るのも又一興でした。遥か上空でお互いが接近し、いよいよ距離が狭まると、此方の一団の何人かが音色もポストホルン(*)に似たものを吹奏し、それに応じて他のグループが別の楽器を取り出し、演奏を始めると同時に更に別のグループが歓迎の合唱を始めました。

(*昔の易馬車や郵便馬車の到着を知らせる為に御者が用いた二三フィートの真鍮のラッパ)

やがて歓迎の儀式が終わりました。後方に一台の二頭立ての馬車が用意してあります。昔の馬車にそっくりです。近代風の馬車を使用しても良いのですが、こちらでは天蓋は不要なのです。

それで古代の馬車がずっと使われている訳です。使節団は更に近づいて、此方の一団と向かいあって並びました。そのシーンを想像して下さい。

あなたには不思議に思える事でしょうが、私たちの世界では至って自然な事である事がそのうちにあなたにもお判りになる日が来るでしょう。

更に向上すると空中に立つだけでなく地上とまったく同じように跪いたり、横になったり、歩いたりする事が出来るようになります。

さて私達のお迎えのリーダーと使節団のリーダーとが進み出ました。そして両手を握りあい、互いに額と頬に口づけをしました。

それからお迎えのリーダーが右手で相手の左手を取って馬車まで案内し、迎えの残りの者が間を開け、恭しくお辞儀をしてお通ししました。お二人が馬車に乗ると、今度は双方の残りの人々が両手を広げて近づき合い、同じように額と頬に口づけをし合いました。

それから全員が私達の方角を向き、ゆっくりとした足取りで降りてきて、ついに丘の麓まで来られました。

空中を行くとどんな感じがするのか―これはあなたにはちょっと判って頂けないでしょう。私も一度ならず試してみた事があります。が、その感じはあなたの想像を超えたものです。

ですからそれを述べるよりも、見た目に実に美しいものだと言うに留めておきましょう。カストレル様やアーノル様の様な霊格の高い天使になると、地面を歩かれる時の姿は単に気品があると言うに留らず、その落ち着いた姿勢や動作にうっとりとさせられる美しさが有るのです。

空中になるとそれが一層美しさが増します。静かで穏やかな威厳と力に溢れた、柔らかい優雅な動きは、まさしく王者の風格と神々しさに満ち満ちております。今目の前にしたお二人はまさにその通りでした。

一行は曲がりくねった小道を歩いて私達のリーダーの住居に至りました。ここにおいて私達の指導霊である女性天使と共にこの領土を支配しておられます。

私にはお二人の間に霊格とか地位とかの差は無いように思われます。全く同じでは無いにしても、どちらが上でどちらが下かは直接お聞きしてみないと判らない程で、それはちょっとお聞きしかねる事です。

お互いの愛と調和性はとても程度が高く、命令と服従との関係が優雅で晴れ晴れとした没我性の中で行われる為に、お二人の霊的な差を見分ける事が出来ないのです。

そのお住まいをご覧になればきっと中世の城を思い出される事でしょう。山の中腹の岩の上に建てられており、周りは緑と赤と茶と黄色の樹木と、無数の花々と芝生に囲まれております。

使節団は玄関を通って中へ入り、そこで私達からは見えなくなりました。が中へ入った一行の光輝によって、あたかも一度に何千もの電灯が灯されたように、窓を明るく照らしだしました。

其の色彩豊かな光輝は何とも言えない美しさでした。一つに融合してしまわずに、それぞれの色調を保ちつつ、渾然と混ざり合い、あたかも虹の如く窓を通して輝くのでした。

これまでの私の叙述に“出入口”がしばしば出てきましたが“門”については特に述べていない事にお気づきと思います。実は私はこれまで出入口に至る門を見た事が無いのです。

“ヨハネ黙示録”の中には天界の聖都とその門についての叙述があります(21章)。私はヨハネが霊視したと思われる都市の門を思い出していろいろと考えたのですが、どうも今いる都市には出入口に通じる門は見当たらないように思います。

で、私が思うにヨハネが、“聖都の門は終日(ヒネモス)閉じる事なし”と述べておいて、その後すぐ地上の都市では昼間は闘いでもない限り門は閉じられる事は無く夜はずっと閉じられている事を思い出して―“此処に夜有る事なきが故なり”とカッコして釈明を付け加えたのは、本当は地上と同じ門は無かったからではないかと思うのです。これは私個人の考えです。間違っているかもしれませんが、ぜひあなたも改めて黙示録を読み返し、私の意見を思い出して、あなた自身で判断してみてください。

お城の中のフェスティバルの事は私自身出席しておらず、出席した方からお聞きしただけですので、ここでは述べない事にします。それよりも私が目撃したものを述べておきましょう。

その方が生き生きと表現できますから。しかし、あれだけ多くの高級霊が一堂に会したのですから、それはそれは荘厳なフェスティバルであったろう事は容易に想像できます。

そうね。あなたやあなたの家族もこの神の愛と祝福が草原の露のように降りて、辺り一面に芳香を漂わせる神の御国へおいでになれば、こうした事が全部目の当たりにする事が出来ます。

授かるよりは授ける方が遥かに幸いである事を何かにつけて学ばされている私達が、その素敵な芳香を私達の言葉を通じて地上の方にも味わって頂き、いかに神の愛が有難く優しいものであり、神を信じるものがいかに幸せであるかを判って頂きたいと思うのでは少しも不思議でない事が、これでお判りでしょう。

幾久しく神の祝福のあらんことを。アーメン

第4節 強情と虚栄心
1913年10月30日 木曜日

その手をご自分の頭部へ当ててみてください。そうすると通信が伝わり易くなり、あなたも理解しやすくなります。

―こうですか。

そうです。あなたと私たち双方にとって都合がいいのです。

―どう言う具合に。

私からあなたへ向けて一本の磁気の流れがあります。今言ったとおりにして下されば、その磁気の散逸が妨げられるのです。

―さっぱり判りません。

そうかもしれません。あなたにはまだまだ知って頂かねばならない事が沢山あります。今述べた事もその一つです。それ一つを取り上げれば些細なことかもしれませんが、それなりに大切なのです。

成功を支えるのは往々にしてそうした些細なことの積み重ねである事があります。ところで、私達がこうした通信で採用する方法については所詮あなたに完全な理解を期待するのは無理ですから、あまり細かい事は言うつもりはありません。

でも、この事だけは述べておきたいのです。つまり私達が使用するエネルギーはやはり、“磁気”と呼ぶ事が一番適切である事、そしてその磁気に乗って私達のバイブレーションがあなたの精神に伝わると言う事です。

そうやって手をあてがって下さると、それが磁石と貯蔵庫の二つの役目をしてくれて、私達は助かるのです。でも、この問題はこの位にして、もっと判り易い問題に移りましょう。

この“常夏の国”では私達は死んでこちらへやってくる人と後に残された人の双方の面倒をみるように努力しております。これは本当に切り離せない密接な関係にあります。と言うのも、こちらへ来た人は後に残した者の事で悩み、背後霊がちゃんと面倒を見てくれている事を知るまで進歩が阻害されるケースが多いのです。そこで私達は度々地上圏まで出かける事になるのです。

先週も私達のもとに三人の幼い子供を残して死亡した女性をお預かりしました。そしてぜひ地上へ行って四人のその後の様子を見たいとせがむのです。

あまりせがまれるので、やむを得ず私達は婦人を連れて地上へ案内しました。ついた時は夕方で、これから夕食が始まる所でした。御主人は仕事から帰って来たばかりで、これからお子さんに食事をさせて寝かせようと忙しそうにしておりました。

いよいよ四人が感じの良い台所のテーブルを囲み、お父さんが長女にお祈りをさせています。其の子はこう祈りました。“私達とお母さんの為に食事を用意して下さった事をキリストの御名において感謝します”と。

その様子を見ていた婦人は思わずその子のところへ近づき頭髪に手を当てて呼びかけましたが、何の反応も有りません。

当惑するのを見て私達は婦人を引きとめ、少し待つように申しました。しばらく沈黙が続きました。その間、長女と父親の脳裏に婦人の事が去来しています。

すると長女の方が口を開いてこう言いました。―「お父さん、母さんは私達が今こうしているのを知っているかしら?それからリズおばさんの事も」

「さあ良く判らないけど、きっと知っていると思うよ。この二三日、母さんがとても心配しているような、なんだか悲しい気がしてならないからね。リズおばさんの念かもしれないけれどね。」

「だったら私達をおばさんとこに届けないで頂戴。○○婦人が赤ちゃんの面倒を見てくれるし、私だって学校から帰ったら家事のお手伝いをするわ。そしたら行かなくって済むでしょう」

「行きたくないのだね?」

「行きたくないわ。赤ちゃんとシッシーは行くでしょうけど。私は嫌よ」

「なるほど父さんも良く考えておこう。だから心配しないで。皆で何とかうまくやっていけそうだね。」

「それに母さんだってあの世から助けてくれるわ。それに天使様も。だって母さんはもう天使様とお話が出来るでしょう。お願いしたらきっと助けてくれるわ」

父親はそれ以上何もしゃべりませんでしたが、私達にはその心の中が見えます。そしてこんなことを考えているのが読み取れました。―“こんな小さい子供がそれほどの信仰を持っているからには自分もせめて同じくらいの信念は持つべきだと”。

それから次第に考えが固まり、とにかく今のままでやって見ようと決心しました。もともと子供を手離すのは父親も本意ではなく、引きとめる為のいい訳ならいくらでも有るじゃないか、と思ったのでした。

こうした様子を見ただけで母親が慰めを得たとはとても言いきれません。が地上を後にしながら私達はその婦人に、あの子の信仰が父親の信念によって増強されたら私達が援助していく上で強力な手掛かりになりますよ。と言ってあげました。そうでも言っておかないと、今回の私達のとった手段が間違っていた事になるのです。

帰るとその経過を女性天使に報告しました。すると即座に家族が別れ別れにならないように処置が取られ、その母親には、これから一心に向上を心掛け、早く家族の背後霊として働けるようになりなさいとのお達しがありました。

それからと言うもの、其の婦人に変化が見られるようになりました。与えられた仕事に一心に励むようになったのです。私達の霊団に加わって一緒に地上に赴き、彼女なりの仕事ができるようになる日もそう遠くは無いでしょう。

この話はこの位にして、もう一つ別のケースを紹介してみましょう。先ごろ私達のコロニーへ一人の男性がやってきました。この方も最近地上を去ったばかりです。

自分の気に入った土地を求めて彷徨あるき、私達の所がどうやら気に入ったらしいのです。ずっと一人ぼっちだったのではありません。少し離れた所から何時も指導霊が見守っていて、何時でも指導する用意をしていたのです。

この男性も私達が時折見かける複雑な性格の持ち主で、非常に多くの善性と明るい面を持ち合わせていながら、自分でもどうにもならない歪んだ性格のために、それが発達を阻害されているのでした。

その男性がある時私達のホームのある丘からかなり離れた土地で別のホームの方に呼び止められました。その顔に複雑な表情を見てとったからです。

実は出会った時点ですぐに、少し離れた位置にいた指導霊から、合図によってその男性の問題点についての情報が伝わり、その方は即座にそれを心得て優しく話しかけました。

「この土地にはあまり馴染みが無い方のようにお見受けしますが、何かお困りですか。」

「お言葉は有難いのですが、別に困ってはおりません」

「あなたが抱えておられる悩みはこの土地で解決できるかもしれませんよ。全部と言う訳にはいかないでしょうけど」

「私がどんな悩みを抱えているか御存じないでしょう」

「いや、少しわかりますよ。こちらで一人も知り合いに会わない事で変に思っておられるのでしょう。そして何故だろうと」

「確かにその通りです」

「でもちゃんとお会いになっているのですよ」

「会った事は一度もありません。一体どこにいるのだろうと思っているのです。実に不思議なのです。あの世へ行けば真っ先に知人が迎えてくれるものと思っておりました。どうも納得がいきません」

「でもお会いになっていますよ」

「知った人間には一人も会っておりませんけど」

「確かにあなたはお会いになっていませんが、相手はちゃんとあなたにお会いしています。あなたは気づかないだけ、いや、気づこうとなさらないだけです」

「何に事だかよく判りませんね。」

「こう言う事です。実はあなたが地上からこちらへ来てから、あなたの知人が面倒をみているのです。

所があなたの心は一面なかなか良いところもあり開かれた面もあるのですが、他方、非常に頑なで無闇の強情な処があります。あなたの目に知人の姿が映らないのはそこに原因があるのです」

男は暫くその方を疑い深い目でじっと見つめておりました。そしてついに、どもりながらもこう言いました。

「じゃ私の何処がいけないのでしょう、会う人はみな優しく幸せそうに見えるのに、私はどの人とも深いお付き合いが出来ないし落ち着ける場所もありません。私の何処がいけないのでしょう。」

「まず、第一に反省しなくてはいけないのは、あなたの考える事が必ずしも正しくないと言う事です。因みに一つ二つあなたの誤った考えを指摘してみましょう。

一つは、この世界を善人だけの世界か、さもなくば悪人だけの世界と考えたがりますが、それは間違いです。地上と似たり寄ったりで、善性もあれば邪悪性も秘めているものです。

それからもう一つ、数年前に他界された奥さんは、あなたがこれから事情を正しく理解した暁には落ち着かれる界よりも、もっと高い界におられます。地上時代は知的にあなたに敵いませんでしたし、いまでも敵わないでしょう。

所が総合的に評価すると霊格はあなたの方が低いのです。これがあなたが認めなければならない第二の点です。心底から認めなくては駄目です。あなたのお顔を拝見していると、まだ認めていないようですね。でも、まずそれを認めないと向上は望めません。

認められるようになったら、その時は多分奥さんと連絡が取れるようになるでしょう。今のところそれは不可能です」

男の目が涙で曇ってきました。でも笑顔を作りながら、何処か寂しげに言いました。

「どうやらあなたは予言者でいらっしゃるようですね」

「まさしくその通り。そこで、あなたが認めなければならない三つ目の事を申し上げましょう。それはこう言う事です。あなたのすぐ近くのあなたをずっと見守り救いの手を差し伸べようと待機している方がいると言う事です。

その方は私と同じく予言者です。先覚者と言った方が良いかもしれません。さっき申しあげた事は全部その方が私に伝達してくれて、それを私が述べたに過ぎません。」

それを聞いて男の顔に深刻な表情が見えてきました。何かを得ようとしきりに思い詰めておりましたが、やがてこう聞きました。

「結局私は虚栄心が強いと言う事でしょうか」

「その通り。それもいささか厄介なタチの虚栄心です。あなたには優しい面もあり謙虚でもあり、愛念が無い訳ではありません。この愛こそ何にも勝る力です。

ところがその心とは裏腹にあなたの精神構造の中に一種の強情さがあり、それは是非とも柔げなくてはなりません。いってみれば精神的轍の中にはまり込んだようなもので、一刻も早くそこから抜け出して、もっと拘りを棄て、自由に見渡さなくてはいけません。

そうしないと何時までも“見えているのに見えない”と言う矛盾と逆説の状態が続きます。つまり、あるものは良く見えるのに有るものはさっぱり見えないと言う状態です。

証拠を突きつけられて自説を改めると言う事は決して人間的弱さの証明でもなく堕落でもなく、それこそ正直の証明である事を知らなくてはいけません。

もうひとつ更け加えておきましょう。今言ったように、其の強情さはあなたの精神構造に巣食っているのであって、もしそれが霊的本質つまり魂そのものがそうであったら、こんなに明るい境涯には居れず、あの丘の向こう側―ずっと向こうにある薄暗い世界に落ち着くところでした。以上、私なりにあなたの問題点を指摘して差し上げました。後は別の人にお任せしましょう」

「どなたです?」

「さっきお話した方ですよ。あなたの面倒を見ておられる方」

「何処におられるのですか」

「ちょっとお待ちなさい。すぐに来られますから」

そこで合図が送られ、次の瞬間にはもうすぐ側に立っていたのですが、その男には目えません。

「さあ、お出でになられましたよ。何でもお尋ねしなさい。」

男は疑念と不安の表情で言いました。―「どうか教えてください。此処におられるのであれば、何故私に見えないのでしょうか」

「さっきも言った通りあなたの精神構造に見えなくさせるものが潜んでいるからです。あなたがある面において盲目であると言う私の言葉を信じますか。」

「私は物が良く見えています。非常にはっきり見えますし、田園風景も極めて自然で美しいです。その点で私は盲目ではありません。ですが、同じく実質的なもので私に見えないものが他にもあるかもしれないと考え始めております。多分それもそのうち見えるようになるでしょうでも…」

「お待ちなさい、其の“でも”は止めなさい。さあ、ここをよく見なさい。あなたの指導霊の手を私が握って見せますよ。」

そういって指導霊の右手を取り「さ、良く見なさい。何か見えますか」と聞きましたが、男にはまだ見えません。ただ何やら透明なものが見えるような気がするだけで、実態があるのか無いのか良く判りませんでした。

「じゃ、ご自分の手で握って見なさい。さ、私の手から取ってご覧なさい」

そう言われて男は手を差し出し、指導霊の手を取りました。そしてその瞬間、どっと泣き崩れました。
男にそうした行為が出来たと言う事は、男がその段階まで進化した人間であった事を意味します。手を出しなさいと言われた時は既に、それまでのやりとりの間に男がそれが出来るまで向上していたと言う事で、さっそくその報いが得られた訳です。

指導霊は暫くの間男の手をしっかりと握りしめておりましたが、そのうち男の目に指導霊の姿がだんだん見え始め、かつ、手の感蝕も強くなって行きました。

それまで相手にされた方はそれを見てその場を去りました。男は間もなく指導霊が見えるだけでなく語り合う事も出来るようになった事でしょう。そして今はきっと着々と霊力を身につけて行きつつある事でしょう。

ルビーがあなた方両親にこんなメッセージを伝えて欲しいとの事です。―「お父さん、お母さん、地上の親しい人が良い行いや親切な事をしたり、良い事を考えたりお話したりすることが全部影像となってこちらへ伝わってくるのは本当です。
私達はそれを使って部屋を美しく飾ったりします。リーンちゃんがあのお花で部屋を飾るのと一緒よ」と。

では神の祝福を。お寝すみなさい。

<原著者ノート>最後のルビー殻のメッセージの中の“あのお花”と言うのは、学校で寮生活をしている姉のリーンに私達が時折送り届けている花の事の様である。以上で母からのメッセージは全部終了し、この後の通信は私の守護霊であるザブディエルに引き継がれる。それが第二巻「天界の高地」篇である。」


第6章 見えざる宇宙の科学
[本章は、これまでオーエン氏の母親からの通信の中に時折割り込む形で綴られたアストリエルと名乗る霊からの通信をまとめたものである。99ページ<原著者ノート>参照]
第1節 祈願成就の原理
1913年10月7日 火曜日

この度始めて同行してきた霊団の協力を得て私はこれより、ベールのこちら側より見た信仰の価値について少しばかり述べてみたいと思う。キリスト教の信徒信条に盛り込まれた教義については今ここで多くを語るつもりはありません。

すでに多く語られ、それ以上の深いものをまだ人間側にそれを受け入れる用意が充分に出来ていないからである。そこで我々は差し当たってその問題については貴殿の判断にお任せし、どの信条も解釈を誤らなければそれなりの真理が含まれている。と述べるに留めておきます。

そこで我々としては現在に地上の人間が余り考察しようとしない問題を取り上げる事にしました。その問題は、人間が真理の表面―根本真理でなく真理のうわべに過ぎないもの―についての論争を卒業した暁には必ず関心を向けるようになるものである。

それを正しく理解すれば、今人間が血眼になっている問題の多くがどうでも良い些細なことである事が判り、地上だけでなくこちらの世界でも通用する深い真理へ注意を向ける事になるでしょう。

その一つが祈りと瞑想の効用の問題である。貴殿はこの問題については既にある程度の教示を受けておられるが、我々がそれに追加したいと思います。

祈りとは成就したいと思うことを要求するだけのものではない。それより遥かに多くの要素をもつものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されてしかるべきものです。

祈りに実効を持たせるためには、その場限りの事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛りこみたいと思っていた有象無象の頼みごとの大部分が視界から消え、より重大で幅広い問題が想像力の対象として浮かび上がってくる。

祈りも現実的創造性があります。例えば数匹の魚を五千人分に増やしたと言うイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作による創造的行為である。

その信念のもとに祈りを捧げれば、その祈りの対象が意念的に創造され、その結果として”祈りが叶えられる“ことになる。つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的解答が与えられるのです。

祈りの念の集中を誤っては祈りは叶えられません。

放射された意念が目標物にあたらずに逸れてしまい僅かに的中した分しか効果が得られないことになる。さらにその祈りに良からぬ魂胆が混入しても効果が弱められ、こちら側から出す阻止力または規制力の働きかけを受けることになります。

どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。さて、こうしたことは人間にとっては取り留めのない話の様に思われるかもしれませんが、吾々にとっては些かもそうではない。

実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られてくる祈りを分別し、選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る、そこで更に検討が加えられ、その価値評価に従って然るべき処理されているのです。

これを完璧に遂行する為には、地上の科学者が音と光のバイブレーションを研究するのと同じように祈りのバイブレーションを研究する必要があります。たとえば光線を分析して種類分けが出来るように祈りも種類分けが出来るのです。

そして科学者にもまだ扱いきれない光線が存在する事が認識されているように、我々の所に届けられる祈りにも、こちらでの研究と知識の範囲を超えた深いバイブレーションを持つものがあります。

それは更に高い界層の担当者に引き渡され、そこで一段と高い叡智による処理に任される。

高等な祈りが全て聖人君子からのものであると考えるのは禁物です。往々にして無邪気な子供の祈りの中にそれが見出されます。その訴え、その嘆きが国家的規模の嘆願と同じ程度の慎重な検討を受けることすらあるのです。

「汝からの祈りも汝による善行も形見として神の御前に届けられるぞよ」―天使がコルネリウス(*)に告げたと言われるこの言葉を御存じであろう。

これは祈りと善行が其の天使の前に形態を取って現れ、多分その天使自身を含む霊団によってたかき世界へと届けられる実際の事実を述べたものであるが、これが理解されずに無視されています。

この言葉は次のように言い替える事ができよう。―“貴殿の祈りと善行は私が座長を勤める審議会に託され、その価値は正当に評価された。吾人はこれを価値あるものと認め、吾人よりさらに上の界の審議官によりても殊の他価値あるものとのご認知を頂いた。

依ってここに命を受けて参じたものである”と。我々はわざとお役所風に勿体ぶった言い方で述べましたが、此方では実際の事情を出来るだけ理解して頂こうとの配慮からです。(ローマ教皇251-253)

以上の事実に照らしてバイブルに出ている祈りの奇跡の数々を吟味して頂けば、我々霊界の者が目の当たりにしている実在の相をいくらか推察して頂けるであろう。

そして大切なのは、祈りについて言えることが其のまま他のあまり関心出来ぬ心の働きにも当てはまると言う事です。例えば憎しみや不純な心、貪欲その他諸々の精神的罪悪も、そちらでは目に見たり実感したりは出来ないでしょうが、此方では立派な形態を取って現れるのです。

悲しいかな天使は嘆く事を知らぬと思いこむような人間は、地上で苦しむ同胞に対して抱く我々の心中をご存じない。

神から授かれる魂の使用を誤っているが故に悩み苦しむ人々の為に我々がいかに心を砕いているかご覧になれば、我々の愛着を感じて下さると同時に、むやみに神格化してくれる事も無くなるでしょう。

さてこの問題は貴殿が其の価値をお認めになれば、後はご自分で深く考究して頂く事にして、貴殿はもう少し通信を続けたいとのお気持なので、貴殿にとって興味もあり為にもなる別の問題を提供しようかと思います。

貴殿の教会の尖塔に風見鶏が付いております。あれは貴殿があの様な形にしようと決められた事は覚えておられる事と思いますが、いかがであろう。

今あなたから指摘されるまですっかり忘れておりました。おっしゃる通りです。建築家から何にするかと言われて魚と鶏のどっちにしようと迷ったのですが、最終的には鶏にしました。でもそんな事が何の意味があるのでしょうか。

ごもっとも貴殿にとっては些細な事でしょうが、我々の世界から観ていると、些細な事と言うのは滅多にないものです。

鶏の格好をしたものがあの塔の先に付いている光景は実は5年前に貴殿の精神の中で一連の思念の働きの直接の結果でした。一種の創造的産物と言う訳です。こんな話を聞けばお笑いになる方も多いでしょうが、それは一向に構いません。

我々の方から観ても人間のする事に苦笑する事が多々あり、何故笑うのか理解に苦しまれるであろうことがあるものです。

貴殿が何気なく決めた時の一連の思念の働きと言うのは、風見鶏を見る事によって信者の方に、ペテロが主イエスに反いたことを思い出してもらおうと言う事でした。

思うに貴殿は今の時代に二度とペテロと同じ過ちを繰り返さぬように其の警告のつもりだったのでしょう。しかしただそれだけの一見些細に思える決断が我々の世界へ届き、我々はそれを真剣に取り上げたのです。

申し上げますが、新しく教会を建立すると言う事は実は此方の世界からの大いなる働きかけを誘う大事業です。新しい礼拝の場の建立ですから、礼拝に出席する霊、建物を管理する霊、等々実に大勢の霊が其々の役目を与えられてその遂行に当たります。

貴殿の同僚の中にはその様子を霊視した人がおられますが、その数は極めて限られております。牧師、会衆、聖歌隊、等々のそれぞれの性格を考慮に入れ、我々の中の最適の霊、つまり指導する対象にとって最も相応しい霊を選出し、さらには建物の構造までに細かく配慮する。象徴性は特に念入りに検討します。

人間には気づかない重要な意味があるからです。風見鶏もその意味で考慮した訳です。

話題としてはもっと大きなものを取り上げてもよさそうですが、一見何でもなさそうに思えるものでもちゃんとした意味がある事をお教えしたくて、これを選んだ訳です。

さて、シンボルとして貴殿が風見鶏を選んだからには、我々としてもそれに応えて教会に何かを寄贈しようと言う事になった。それがわれわれの習慣なのです、そこで選ばれたのが例の鐘で、その為に聖歌隊の一人に浄財を集めさせたのです。

教会が完成して祝聖式が行われた時はまだ鐘は付いておりませんでした。雄鶏は中空高く聳えていても、その口からは貴殿の目論む警告が発せられない。

そこで我々がその“声”を雄鶏に与えたと言う次第です。鐘の音が雄鶏の言葉、―“夕べの祈り”の時も聞こえていた如く―です。

貴殿はこうした事を霊界での幻想とでも思われますか。ま、そういう事にでもしておきましょう。でも、とにかくあの鐘の事は有難いと思われたのではないですか。

―それはもう本当にうれしかったです。この度の通信にもお礼申し上げます。宜しかったらお名前を伺いたいのですが。

我々は貴殿のご母堂が時折訪れる界から参ったものです。実はご母堂から我々のもっと貴殿を身近に観察して、出来れば何かメッセージを送ってほしいとのご要望があった。仲間の方と一緒に来られたのです。

霊団を代表して私から言わせて頂けばこの度の事は我々も喜んでお引き受けいたしました。が実は貴殿の事も教会の建立のことも、ご母堂からお聞きする前から知っておりました。

―御厚意に感謝いたします。お名前をお聞きするのは失礼にあたりましょうか。

別に失礼ではありませんが、申し上げても貴殿は御存じないし、その名前の意味も理解できないのではないかと思いますが。

でも宜しかったらぜひお教えください。

アストリエル。神の祝福を。†

<アストリエル霊は通信のお終に必ず十字架のサインをした>


第2節 神々の経綸
1913年10月9日 木曜日

この度も貴殿のご母堂の要請を受けて参じました。再びベールのこちら側より語りかける機会を得て嬉しく思います。こうして地上へ戻ってくる事を我々が面倒に思っているとは決して考えないで頂きたい。

勿論地上の雰囲気は我々の境涯に較べて明るさに掛け、楽しいもので無い事は事実ですが、こうして使命を仰せつかる事の光栄はそれを補って余りあるものがあります。

今回は天体の科学について述べてみたく思います。貴殿にも興味がおありであろうし役に立つと考えるからです。科学と言っても地上の科学者が行っている単なる物質の表面的分析の事ではありません。その構成要素の内奥に関わるものです。

御承知のように恒星はその一つ一つが周囲に幾つかの惑星を従えた一個の組織を構成していると言うところまでは認識されていますが、実はそれのみでなく、組織全体にわたって地上の

いかに精巧なる機器や秀でた頭脳を持ってしても鑑識出来ない程精妙な粒子が行き亘っております。その粒子は物質と霊質との中間的存在で、物質的法則と霊的法則の両方の働きに反応します。

それと言うのも、両者は根源的に多面性を有する一個の進化性を持つ有機的組織の二つの面を表すに過ぎず、あたかも太陽と其の惑星の関係の如くに互いの作用と反作用とを繰り返しています。

重力もその粒子に対し物的・霊的の両面において反応します。吾々が心霊実験において写真の乾板に、さらには肉眼に感応するまでに霊体に物質性を付加する時に使用するのがこのエネルギーです。本当は貴殿に理解できない要素があるのですが、貴殿の知る用語としては“エネルギー“しかないのでとりあえずそう呼んでおきます。

それ以外にも広い規模で機能しております。例えばもしその粒子が存在しなかったら大気は真っ暗になります。つまり太陽や恒星からの光線が地球まで届かないと言う事です。

なぜかと言えば、そもそも光線が肉眼に映じるのは光波がその粒子に当たった時の反射と屈折の作用のせいだからです。”伝導“と言うのは正しくありません。

伝導とか伝達には別の要素が関わっており、それについてはここでは次のように述べるに留めておきます。すなわち、人間の肉眼に映じているのは光線でもなく光波でもなく、光線が其の精妙な粒子に当たった時の衝撃によって生じる波動である、と。

この問題に関しては地上の科学者はまだまだ学ばなければならない事が沢山あります、と言ってそれを我々がお教えすることは許されません。人間が自らの才能を駆使して探るべきものだからです。

もしその範囲を逸脱して教えてしまえば、地上と言う物的教育の場が地球ならではの価値を減じます。人間の個人的努力ならびに協調的努力によって苦心しながら探る事の効用を台無しにすることのない範囲に援助を抑えているのは、そういう理由によります。

この点をよく明記して頂きたい。その点を理解して頂けば、こうした通信において吾々が良く釈明する事がある事も納得がいかれると思います。

さて、恒星は光を放射している。が、放射するにはそれを内部に蓄えておかなければならない。しかし恒星は自らを自らの力で捉えた訳ではない以上、エネルギーを蓄えるには何処からか与えてもらわねばならない理屈になります・では一体誰が与え、どう言う過程で与えられるのであろうか。

「それは神が与えるのである。何となれば神は万物の根源だからである」―こう言ってしまえば無論簡単である。そしてそれは確かにその通りなのであるが、実際に其の事に携わるのは神の使徒である天使(*)であり、その数は人間的計算の域を超えます。そしてその一人一人に役目が割り当てられているのです。(*日本神道で言う八百万の神々である)

実は恒星は、整然たる秩序と協調性を持って経綸に当たるその数知れぬ霊的存在からエネルギーを賦与されている。霊的存在が恒星の管理に当たっているのであり、各々の恒星が天体としての役目を遂行するためのエネルギーはそこから受けるのです。

貴殿に是非とも知って頂きたいのは神の造化の王国には何一つとして盲目的ないし無意識的エネルギーは存在しないと言う事です。光線一本、熱の衝撃波一つ、太陽その他の天体からの電波一つにしても、必ずそれには原因があり、その原因には意識的操作が加わっている。

つまり、有る意識的存在による確固たる意図にもとづいた、ある方角への意思の働きがあると言う事です。その霊的存在にも無数の階級と種類があり、霊格は必ずしも同じでなく、形態も同一ではありません(*)。

がその働きは上層界の霊によって監督され、その霊も又さらに高い霊格と崇高さを具えた神霊によって監督されているのです。(*日本の古神道ではこれをひとまとめにして“自然霊”と呼んでいる)

これら物質の大きな球体は、ガス体であろうが、液体であろうが固体であろうが、あるいは恒星であろうが彗星であろうが、全てが連動され、エネルギーが活性化され、其々に存在価値を与えられている。

何か機械的な働きによるものではなく、そうした意識的存在が内面より先に述べた法則に則って働きかけております。今“知的存在”と言わずに“意識的存在”と言いましたが、創造神のもとで造化の大事業に勤しむ霊的存在はそのすべてが必ずしも知的ではありません。

貴殿が理解しているところの“知性”を持つ存在は全体の割合から言うと極めて限られております。但し驚かないで頂きたいのは、貴殿が“知的存在”と呼ぶであろう処の存在は、実は、下等な存在と高等な存在の中間に位置する程度のものであり、其の下等な存在は知的とは言えませんが、全体の経綸にあたる高等な存在になると貴殿の言う“知的”と言う用語の遥かに超えた、崇高なる存在ばかりです。

其の下等と高等の中間に、知的存在と呼ぶに相応しい霊の住む界層が幾つも存在します。
注意しておきますが、下等と言い高等と言い知的存在と言い、その意味するところは地上の人間が使用するものとは違います。

貴殿がこちらへこられてある程度こちらの事情に慣れれば、その本来の意味が判るでしょう。私は地上の言語を使用しているのであり、貴殿の立場に立って説明している事を忘れないで頂きたい。

さて以上の説明によって霊と物質とがいかに緊密なる関係にあるかがお判りになるでしょう。そして又、先日の夜にお話した貴殿の教会の建立と指導霊の働き、なかんずく例の風見鶏に関するものは、今述べたのと同じ創造の原理を小規模の形で物語ったものに他なりません。

小規模とはいえ、全く同じ原理なのです。数知れぬ恒星と惑星の存在を維持する為の機構と同じものが各種の原子の集合体―石材、木材、レンガ等―の配列に関与し、その結果があの教会と呼ぶ一個の存在の創造となった訳です。

その素材は奔流の如き意念の働きによって、それぞれの位置にあってしっかりと他と連動されています。他とのつながりなしにおかれているのではありません。もしそんなことをしたらすぐ崩壊が始まります。バラバラになってしまいます。

今述べた事に照らして、貴殿らが教会とか劇場とか住居とか、その他諸々の建物に入った時の“印象の違い”について考えて見られると宜しい。其々の機能に相応しい影響力が放射されておりますが、それは今我々が解説したのと同じ原理が働いた結果です。

言ってみれば霊から霊への語りかけ―物的身体を持たない霊が物的粒子を媒体として、その建物に入ってくる人間の霊に働きかけているのです。

お疲れのようですね。通信がしにくくなりました。これにて失礼します。宜しければ改めて又参りましょう。貴殿ならびにご家族、教会関係の皆様に幾久しく神の祝福のあらんことを。
アストリエル†


第3節 天体の霊的構成
1913年10月16日 木曜日

吾々が霊界の事情について述べる事の中にもしも不可思議で非現実的に思えるものがある時は、此方には地上の人間に捉えられないエネルギーや要素が沢山なる事を銘記して頂きたい。そのエネルギーは地上の環境にまったく存在しない訳ではありません。

大半が人間の脳では感知し得ない深い所に存在するという事です。霊的感覚の発達した人にはある程度―あくまである程度でしかありませんが―感知できるかもしれません。

霊的に一般のレベルより高い人は平均的人間にとって“超自然的”と思える世界との境界線辺りまでは確かに手が届いております。

その時に得られる霊的高揚は知能や知識をいくら積んでも得られない性質のもので、霊的に感得するしかないものです。


今夜もまたご母堂の要請で、人間界について吾々が見たまま知り得たままを語りに参りました。可能な範囲に限ってお話しましょう。それ以上の事は、すでに述べた如く吾々には伝達技術に限界があり、従って内容が不完全になります。

―アストリエル様ですか。

―アストリエルと其の霊団です。

まずイエスキリストの名において愛と平和の御挨拶を申し上げます。我々にとっての主との関係は地上における人間と主の関係と同じです。ただ、地上にいた時に曖昧であった多くの事がこちらへ来て明らかとなりました。そこで厳粛なる気持ちで申し上げます。

―主イエスキリスト神性の真意と人間とのかかわりの真相を知らんと欲するものは、どうか恐怖心に惑わされることなく敬虔なる気持ちを持って一心に求めよ、と。そういう人にはこちらの世界から思いもよらない導きがあるものです。

そして又、真摯に求めるものは主の説かれた真理の真意がいずこにあるかをしつこく問い詰めようと、決して主への不敬には成らない。―何となれば主がすなわち真理だからである。と言う事を常に心に留めて頂きたく思います。

しかしながら、我々にもそれと同じ大胆さと大いなる敬意をこめて言わせて頂けば、地上のキリスト教徒の間で“正統派”の名のもとに教えられているものの中には、此方で知り得た真相に照らして見た時に、多くの点において適正さと真実性に欠けているものがあります。

と同時に、それ以上のものを追求する意欲と、神の絶対愛を信じる勇気と信念に欠ける者が多すぎます。

神は信じて従うものを光明へと誘い、その輝ける光明が勇気あるものを包み、神の玉座へ通じる正しく且つ聖なる道を教え示して下さる。

その神の玉座に近づける者は何事をも克服していくだけの勇気ある者のみである事、真に勇気ある者とは、怖じ気づき啓発を望まぬ仲間に惑わされることなく、信じる道を平然と歩む人の事である事を知ってください。

さて前回の続きを述べましょう。貴殿に納得のいくものだけを信じて頂けば宜しい。受け入れ難いものは構わないで宜しい。そのうち向上するにつれて少しずつ納得がいき、やがて全体の理解がいきます。

前回は天体の構成と天体間の相互関係について述べました。今回はその創造過程と、それを霊的側面から観察したものを、少しばかり述べましよう。

御承知の如く、恒星にも惑星にも、その他物的なもの全てに“霊体”が具わっております。其の事を貴殿は御承知と思いますので、それを前提として吾々の説を披露します。

天体は“創造界”に属する高級神霊から出た意念が物的表現体として顕現したものです。全天体の一つ一つがその創造界から発せられた思念と霊的衝動の産物です。

その創造の過程を見ていると、高級神霊が絶え間なく活動して、形成過程にある物質に霊的影響力と、その天体特有の言わば個性を吹き込んでおります。

かくして、例えば太陽系に属する天体は大きな統一的機構に順応してはいても、其々に異なった性格を持つことになる。

そしてその性格は責任を委託された天使(守護神)の性格に呼応します。天文学者は地球を構成する成分の一部が例えば火星とか木星とか、あるいは太陽にさえも発見されたと言う。それは事実であるが、その場合あるいは組み合わせが同じであると考えたら間違いです。

各天体が独自のものを持っております。ただそれが一つの大きな統合体系としての動きに順応しているとのことです。太陽系を構成する惑星について言える事は、其のままさらに大きな規模の天体関係についてもあてはまります。

つまり太陽系を一個の単位として考えた場合、他の太陽系とは構成要素の割合においても成分の組み合わせにおいても異なります。各太陽系が他と異なる独自のものを有しております。

さてそういう原因は既に説明したとおりです。各太陽系の守護神の個性的精神が反映する訳です。守護神の配下に更に数多くの天使が控え、守護神の計画的意図に沿って造化の大事業に携わっている。

とはいえ、各天使にはその担当する分野において自由意思の行使が赦されており、それが花と樹木、動物、天体の表面の地理的形態と言った細かい面にまで及ぶ。千変万化の多様性は其の造化の統制上の“ゆとり”から生まれます。

一方、其のゆとりある個性の発揮にも一定の枠が設けられている為に、造化の各部門、更にはその部門の各分野にまで一つの統一性が行き亘る訳です。

こうした神霊の監督のもとに、更に幾つかの段階に分かれた霊格の低い無数の霊が造化に関わり、最下等の段階に至ると個性的存在とは言いかねるものまで居る。

その段階においては吾々のように“知性”と同時にいわゆる自由意思による独自の“判断力”を所有する存在とは異なり、“感覚的存在”とでも呼ぶべき没個性的生命の種族が融合しております。

―物語に出てくる妖精(フエアリー)小妖精(ピクシー)精霊(エレメンタル)と言った類の事ですか。

その通り皆本当の話です。それに大抵は優しい心をしています。ですが進化の程度から言うと人間よりは遥かに低くそれで人霊とか、天使と呼ばれるほどの高級霊ほどその存在が知られていない訳です。

さて地球それ自身についてもう少し述べてみましょう。地質学者は岩石の形成過程を沖積層とか火成岩とかに分けますが、良く観察すると、其の中には蒸気状の発散物―磁気性の成分とでも言っても良さそうなものを放出しているものがある事が判ります。

それがすなわち、その形成を根源にして担当した霊的存在による“息吹”の現れです。こうした性質はこれまで以上にもっともっと深く探求する価値があります。科学的成分の分析はほぼ完了したと言えますが、休むことなく活動しているより精妙な要素の研究が疎かにされている。

岩石の一つたりとも休止しておらず、全成分が休むことなく活動していると言うところまで判れば、その作用を維持し続ける為には何か目に見えない大きなエネルギーがなければならない事、更にその背後にはある個性を持った“施主”が控えているに相違ないと言う考えに到達するには、もうあと一歩でしかありません。

これは間違いない事実です。その証拠に、そうした目に見えない存在に対する無理解の為に被害を被る事があります。これは低級な自然霊の仕業です。

一方“幸運の石”(ラッキーストーン)と呼ばれるものをご存じと思いますが、これはいささか曖昧ではありますが、背後の隠れた真相を物語っております。

こうした問題を検討するに際しては“偶然”の観念を一切拭い去って秩序ある因果律と置き換え、曽に因果律を無知なるがゆえに犯しているその報いに過ぎないとお考えになれば、我々が言わんとする事にも一理あることを認めて頂けるでしょう。

便宜上、話題を鉱物に絞りましたが、同じ事が植物界や動物界の創造にも言えます。今夜はそれには言及しません。こうした話題を提供したのは、科学に興味を抱く人でこれまでの科学では満足できずにいる人に、見えざる世界に奥することなく深く踏み込める分野がいくらでも開けている事をお知らせしようと言う意図からです。

以上を要約してみましょう。それに納得がいかれれば吾々が意図した結論も必然的に受けいれねばなりません。つまり物的創造物はどれ一つとってもそれ自体は意味がないし、それ一つの存在でも意味がない。

それは高級神霊界に発した個性的意念が低級界において物質と言う形態となって表現されているもので、霊的観念が原因であり、物的創造は其の結果だと言う事です。

ちょうど人間が日常生活において自分の個性の印象を物体に残しているように(*)創造界の神々と其の霊団が自然界の現象に個性を印象付けている訳です。

(*サイコメトリと言う心霊能力によって、物体を手にするだけでその物体に関わった人間の事が悉く読み取れる)

何一つ静止しているものはありません。全てがひっきりなしに動いております。その動きには統一と秩序があります。それは休むことなく働きかける個性の存在を証明するものです。

下等な存在が高等な存在の力によって存続する様に、其の高等な存在は更に崇高なる守護神の支配を受け、その守護神は宇宙の唯一絶対のエネルギー、すなわち宇宙神の命令下にあります。が、そこに至るともはや吾々の言語や思索の域を超えております。

宇宙神に対しては、全てはただただ讃仰の意を表するのみであり、我々は主イエスの御名において崇高の意を表するのみです。全ては神の中に在り、全ての中に神がまします。
アーメン†


第4節 霊的世界の構図
1913年10月24日 金曜日

今夜もまた貴殿のご母堂ならびにその霊団の要請を受け、私の霊団と共にメッセージを述べに参りました。貴殿にとって何が一番興味があろうかと考えた挙句に吾々は、地上へ向けられている数々の霊力の真相を幾らかでも明かせば、貴殿ならびに貴殿の信者にとって、地上生活にまつわる数々の束縛から解脱した時に始めて得られる膨大な霊的知識へ向けて一歩でも二歩でも近づく足掛かりとなり、天界への栄光へ向けて自由に羽ばたく事になろうとの結論に達しました。

―どなたでしょうか。

前回と同じ―アストリエルと其の霊団です。第十界(*)より参りました。話を進めても宜しいでしょうか。(*界が幾つあるかについての回答はこの先に出てくる=訳者)

―どうぞ、ようこそこの薄暗い地上界へ降りて来られました。さぞ鬱陶しい事でしょう。

“降りてくる”とおっしゃいましたが、それは貴殿の視点からすればなかなかうまい表現ですが、実際の事実とは違いますし、完璧な表現でもありません。

と言うのは貴殿が生活しておられる天体は虚空に浮いている訳ですから“上”とか“下”とかの用語の意味が極めて限られたものとなります。

其の事はすでに貴殿の筆録されたもの、と言うよりは霊的に印象付けられたものをお読みになって気付いておられる筈です。

最初地上へ向けられている“数々の霊力”と申しましたが、これは勿論地上の一地域の事ではありません。地球と呼ばれている球体全部を包括的に管理している霊力の働きの事です。

地球のまわりに幾つもの霊的界層があり、言わば円心円状に取り巻いております。下層界ほど地表近くに在り距離が遠のくほど力と美が増して行きます。

もっとも、その距離を霊界に当てはめる際は意味を拡大して理解して頂かないといけません。吾々にとっては貴殿らの様な形で距離が問題となる事がないからです。

例えば私がそのうちの十番目の界にいる以上は、大なり小なり其の界特有の境涯によって認識の範囲が制限されます。時折お許しを得てすぐ上の界、あるいは更にその上まで訪れる事は出来ますがそこに永住する事は許されません。

一方下の界に住む事は不可能ではありません。何となれば私が住む第十界も球体をしていますから幾何学的に考えても、下の九つの界を全部包含している事になるからです。

従ってこれを判り易く言い替えれば次のようになりましょう。すなわち地球は数多くの界の中心に位置し、必然的にその全ての界層に含まれている。

故に地球の住民はその全ての界層と接触を取る可能性を有しており、現に霊的発達程度に応じて接触している。―あくまで霊的発達程度です。何故なら其の界層は全て霊的であり物質的なものではないからです。

その地球の物質性は実は一時的な現象に過ぎません。と言うのは、地球は其れを取り巻く各界の霊力が物質となって顕現したものだからです。

実はそれらの界の他にも互いに浸透し合っている別の次元の影響もあるのですが、それは描(オ)いておきます。当面は今まで述べたもののみの考察に留めましょう。

さて、これで人間の抱く願望とか祈願とかがどういう意味を持つかが、ある程度はお判りでしょう。絶対的創造神ならびに(貴殿らに判り易い言い方をすれば)最高界ないしは再奥界にあって他の全ての界の全存在を包含する聖霊との交わりの手段なのです。

従って地球は創造神より託された計画のもとに働く聖霊によって行使される各種の、そして様々な程度の霊的影響力によって取り込まれ、包み込まれ、その影響を受けているのです。

しかし向上していくと事情は一段と複雑となってまいります。地球に属するその幾つかの界層に加えて、太陽系の他の惑星の一つ一つが同じように霊的界層を幾つも持っておるからです。

地球から遠く離れて行くと、地球圏の霊界と一番近くの惑星の霊界とが互いに融合し合う領域に至ります。

各惑星にも地球と同じように霊的存在による管理がいき届いておりますからそれだけ複雑さが増す訳です。此処まで来ると、霊界の探求が地上の熱心なお方がお考えになるほどそう簡単にできるものではない事が判り始めます。

ちなみに太陽を中心においてまわりに適当な惑星を配置した太陽系の構図を描いてみてください。それからまず地球の周りに、さよう、百個ほどの円を画きます。

同じ事を木星、火星、金星、その他にも行います。太陽にも同じようにして下さい。これで神界までも探求の手を広げる事の出来る、我々の汲めども尽きぬ興味のある深遠な事情が大雑把ながら判って頂けるでしょう。

しかし事はそれでおしまいではありません。今太陽について行った事を他の恒星と其の惑星についても当てはめてみなくてはなりません。そして各々の太陽系について行った上で、今度は太陽系と太陽系との関係についても考えなくてはなりません。

これで、あなたがこちらへおいでになったら知的探求の世界が無限に広がって行くと述べた真意が理解して頂けるでしょう。

所でその霊的界層が幾つあるのかと言う質問を良く受けます。ですが、以上の説明によって、まさか貴殿が同じ質問をなさる事はありますまい。

万一お聞きになっても多寡が第十界の住民に過ぎない吾々にはこうお答えするしかありません。―“知りません。また、これ以後同じ質問を何百回、何億回繰り返され、その間吾々が休むことなく向上進化し続けたとしても多分同じ返事を繰り返す事でしょう”と。

さて貴殿にはこの問題を別の角度から考えて頂きたい。以上述べた世界は霊的エネルギーの世界です。御承知の如く天体は科学者が“引力”と呼ぶ所のエネルギーによって互いに融合し合っておりますが、各天体の霊界と霊界との間にも霊的エネルギーの作用と反作用とがあります。

先ほどの太陽系の構図をご覧になればお判りの通り地球はその位置の関係上、必然的に数多くの界層からの作用を受け、それも主として太陽と二三の惑星が一番大きい事が推察されます。

その通りです・占星術にも意味があるのです。科学者はそれについて余計な批判はしない方がいいでしょう。と言うのは、霊的エネルギーと言うものが源として存在することを理解しない科学者には到底理解しがたい事であり、ともすると危険でもあるからです。

霊的エネルギーには実質があり、驚異的威力を秘めております。それがあればこそ各界がそれなりの活動ができ、他の天体と霊界との関係も維持されているのです。こうした問題になると最高の崇高の念と祈りの気持ちを持って研究に当たらねばなりません。

何となれば、そこは天使に経綸する世界であり、さらにその上には全ての天使をも一つに収めてしまう宇宙の大霊が座します。吾々はただ讃仰を捧げるのみ。何とお呼びすべきかも知りません。

近づかんとすれば即座に己の力の足りなさを思い知らされます。距離をおいて直視せんとしても、その光の強さに目がくらみ、一面真っ暗闇となってしまいます。

しかし貴殿に、そして未知なるものへの敬虔の念を抱かれる方に誓って申し上げますが、例え驚異によって立ちすくまれる事はあっても、神の存在感の消えうせる事は決してない事、神の息吹とはすなわち神の愛であり、其の導きは慈母が我が子を導く手にも似て、この上なく優しいものである事を自覚せぬ時は一時たりともありません。

それ故、貴殿と同じく吾々は神を信じてその御手に縋り、決して恐れる事はありません・栄光より更に大いなる栄光へと進む神々の世界は音楽に満ちあふれております。友よ来たれ。

挫けず倦まず歩かれよ、と申し上げたい。行く手を遮る霧も進むにつれて晴れて行き、未知の世界を照らす光が一層その輝きを増すことでしょう。未知の世界は少しも怖れるに及びません。

故に吾々は惑星と星たちの世界の栄光と神の愛の真っただ中を幼子の如く素直に、そして謙虚に進むのです。友であり同志である貴殿に今夜もお別れを述べると同時に、この機会を与えて下さった事に感謝申し上げます。

吾々の通信が、例え数は少なくても、真理を求める人にとって僅かでもお役に立つ事を願っております。では改めてお寝みを申し上げます。†

第5節 果てしなき生命の旅
1913年10月25日 土曜日

今夜も、宜しければ、死後の世界に関する昨夜の通信の続きをお届けしようと思います。引き続き太陽に関してですが、昨日の内容を吟味してみると、まだまだ死後の世界の複雑さの全てを述べ尽くしておりません。

と言うのも、太陽と各惑星を取り巻く界層が互いに重なりあっているだけでなく、其々の天体の動きによる位置の移動、―ある時は接近しある時は遠ざかると言う変化に応じて霊界の相互関係も変化している。

それ故、地球へ押し寄せる影響力は一秒たりとも同じではないといっても過言ではありません。事実その通りなのです。

又同じ地球上でも、その影響の受け方、つまり強さは一様ではなく場所によって異なります。それに加えて、太陽系外の恒星からの放射性物質の流入も計算に入れなければならない。

こうした条件を全て考慮しなければならないのです。なにしろそこでは霊的存在による活発な造化活動が営まれており、瞬時たりとも休む事がない事を銘記して下さい。

以上が各種の惑星系を支配している霊的事情のあらましです。地上の天文学者の肉眼や天体望遠鏡に映じるのはその外側に過ぎません。

ところが実は以上述べた事も宇宙全体を規模として考えた時は大海の一滴に過ぎない。船の舳先に立っている人間が海のしぶきを浴びている光景を思い浮かべて頂きたい。

細かいしぶきが霧状となって散り、太陽の光を受けてキラキラと輝きます。その様子を見て“無数のしぶき”と表現するとしたら、ではそのしぶきが戻って行く海はどう表現すべきか。

キラキラと輝く満天の星も宇宙全体からすればその海のしぶき程度に過ぎません。それも目に見える表面の話です。しぶきを上げる海面の下には深い深い海底の世界が広がっているのです。

もう少し話を進めてみましょう。そもそも“宇宙”と言う用語自体が、所詮表現できる筈のないものを表現するために便宜上もちいられているものです。従って明確な意味は持ち合わせません。地上のあらゆる詩人が宇宙を一篇の詩で表現しようとして。

中途で絶望して筆を折ったという話がありますが、それで良かったのです。もしも徹底的にやろうなどと意気込んでいたら、その詩は永遠に書き続けなければならなかった事でしょう。

一体宇宙とは何か。何処に境界があるのか。無限なのか。もし無限だとすると中心がないことになる。すると神の玉座はいずこにあるのか。神は全創造物の根源に位置していると言われるのだが。

いや、その前に一体創造物とは何をさすのか。目に見える宇宙の事なのか。それとも目に見えない世界も含むのか。

実際問題として、こうした所詮理解できない事をいくら詮索してみた所で何の役にも立ちません。もっとも判らないながらもこうした問題を時折探って見るのも、人間の限界を知る上であながち無益とも言えますまい。そう観念したうえで吾々は、理解できる範囲の事を述べてみたいと思います。

これまで述べてきた霊的界層には其々の程度に応じた霊魂が存在し、真理を体得するにつれて一界又一界と、低い界から高い界へ向けて進化していく。そして、先に述べたように、そうやって向上していくうちにいつかは、少なくとも二つ以上の惑星の霊界が重なり合った段階に到達する。

さらに向上すると今度は二つ以上の恒星の霊界が重なり合うほどの直径を持つ界層に至る。つまり太陽系の惑星はおろか、二つ以上の太陽系まで包含してしまうほどの広大な世界に至る。

そこにもその次元に相応しい崇高さと神聖さと霊力を具えた霊魂が存在し、その範囲に包含された全ての世界へ向けて、霊的、物的の区別なく、影響力を行使している。御承知の通り我々は惑星より恒星へ、そして恒星よりその恒星の仲間へと進化してきたところです。

その先にはまだまだ荘厳にして驚異的世界が控えておりますが、この第十界の住民たる吾々にはその真相はほとんど判らないし、確実な事は何一つ判らないと言う有様です。

が、これで吾々が昨夜の通信の中で“神”の事を、何とお呼びすべきか判らぬ路にして不価値の存在のように申しあげた。その真意がおぼろげながらも理解して頂けるのではないかと思います。

ですから、貴殿が創造主を賛美する時、正直言ってその創造主の聖秩について何ら明確な観念はお持ちじゃない。“万物の創造主の事である”と簡単におっしゃるかも知れませんが、では、万物とは一体何かと言う事になります。

さて少なくとも吾々の界層から見る限り次の事は確実に言えます。すなわち“創造主”と言う用語をもって貴殿が何を意味しようと、確固たる信念を持って創造主に祈願する事は間違っていない。

その祈りの念はまず最低界に届き、祈りの動機と威力次第でそこでストップするものとそこを通過して次の界に至るものがある。中にはさらに向上して高級神霊界へ至るのもある。

吾々の遥か上方には想像を超えた光と美のキリスト界が存在する。そこまで到達した祈りはキリストを通して宇宙神へと届けられる。地上へ誕生して人類に父なる神の説いたあの主イエスキリストである。(この問題に関しては第二巻以降で詳しく説かれる)

ところで、以上に述べたことは全て真実であるが、その真実も、語りかける我々の側とそれを受ける貴殿の側の双方の能力の限界によって、その表現が極めて不適切となるのです。

例えば段階的に各界層を通過して上昇していくと述べた場合、あたかも一地点から次の地点へ、さらに次の地点へと、平面上を進むのと同じ表現をしている事になります。ですが実際は吾々の念頭にある界層は“地帯”と言うよりは“球体”と表現した方がより正確です。

何故なら繰り返しますが、高い界層は低い界層の全てを包んでおり、其の界に存在すると言う事は低い界の全てを存在すると言う事でもあるからです。

その意味で“神は全てであり、全ての中に存在し、全てを通して働く”と言う表現、つまり神の偏在性を説く事はあながち間違ってはいないのです。

どうやら吾々はこのテーマに無駄な努力を費やし過ぎている感じがします。地球的規模の知識と理解力を一つの小さなワイングラスに例えれば、吾々はそれに天界に広がる広大なブドウ畑からとれたぶどう酒を注がんとしているようなもので、この辺でやめておきましょう。

一つだけお互いに知っておくべきことを付け加えておきますが、その天界のブドウ園の園主(宇宙神)も園丁(神々)も霊力と叡智において絶対的信頼のおける存在であると言う事です。

人生は其の神々の世界へ向けて果てしない旅であり、吾々は目の前に用意された仕事に精を出し、感遂し、成就し、それから次の仕事へと進み、それが終わればすぐまた次の仕事が待っている。かくしてこれでお終いと言う段階は決して来ない。

向上すればするほど“永遠”あるいは“終わりなき世界”と言う言葉に秘められた意味の真実性を悟るようになります。しかし貴殿にそこまで要求するのは酷というものでしょう。失礼な言い方かもしれませんが。

では再び来れることを希望しつつお別れします。ささやかとは言え天界の栄光の一端をこうして聞く耳を持つものに語りかける事が出来るのは有難いことであり、楽しい事でもあります。

どうか、死後に待ち受ける世界は決して黄昏に包まれた実体なき白日夢の世界ではない事を確信して頂きたい。そしてその事を聞く耳を持つ者に伝えて頂きたい。

断じてそのような世界ではないのです。そこは奮闘と努力の世界です。善意と努力とが次ぐ次と報われ成就される世界です。父なる神へ向けて不屈の意思を持って互いに手を取り合って向上へと励む世界です。

その神の愛を吾々は魂で感じ取り鼓舞されてはおりますが、そのお姿を排する事も出来ず、その玉座は余りにも崇高なるがゆえに近づく事も出来ません。

吾々は向上の道を必死に歩んでおります。後に続く者の手を取ってあげ、その者の裾を其の後に続く者が握りしめて頑張っております。友よ、吾々も奮闘している事を忘れないで頂きたい。

まさに奮闘なのです。貴殿とそして貴殿のもとへ集まる人々と同じです。吾々が僅かでも先を行けば、つい遅れがちなる人も大勢おられる事でしょう。

どうかそういう方達の手を貴殿がしっかりと握ってあげて頂きたい。―優しく握ってあげて頂きたい。貴殿自身も同じ人間としての脆さを抱えておられる事を忘れてはなりません。

そして、例えあなたに荷が過ぎると思われても決して手を離さず、上に向けて手を伸ばして頂きたい。そこには私がおり、私の仲間がおります。絶対に挫折はさせません。

ですから明るい視野を持ち、清らかな生活に徹する事です。挫折するどころか、視野が燦然たる輝きを増す事でしょう。聖書にもあるではありませんか。―心清き者は幸いなり。神を見ればなり、と。(マタイ5・8)†

第6節 予知現象の原理
1913年10月31日 金曜日

吾々がこうして地上を訪れるのは人間を援助するためである。と思って下さるのは結構であるが人間本来の努力が不要となるほどの援助を期待されるのは間違いです。地上には地上なりの教育の場としての価値があり、その価値を減じる様な事は許されません。

これはもう薄明の理と言ってもよいほどの当たり前の事でありながら、人間にしかできない事まで吾々に依頼する人が多く、それもほどほどならともかくも、いささか度を越した要求をする人が多くて困ります。

―どなたでしょうか

ご母堂と共に参りました。アストリエルとその霊団の者です。

―どうも、いつもの母の霊団の文章とは違うように思えたものですから。

違いましょう。同じではない筈です。その理由(ワケ)は一つには性格が異なり、属する界が異なり、性別も違うからです。性別の違いは地上と同じく、此方でも其々特有の性格が出るものです。もう一つは地上での時代がご母堂達とは違うからです。

―古い時代の方ですか。

さよう英国でした。ジョージ一世(1660~1717)年の時代です。もっと古い時代の者もおります。

―霊団のリーダーとお見受けしますが、ご自身について何かお教え願えませんか。

いいでしょう。ただ地上時代の細かい事柄は貴殿らには難なく判りそうに思えても吾々には大変厄介ものです。でも判るだけの事を申し上げましょう。

私はウォーリック州に住み、学校の教師―学校長をしておりました。他界したのが何年であったか、正確な事は判りません。調べれば判るでしょうが、大して意味のない事です。

では用意してきたものを述べさせていただきましょうか。吾々は援助する事は許されていても、そこには思慮分別が必要です。

例えば我々霊界の者は学問の分野でもどんどん教えるべきだと考える人がいるようですが、これは、神が人間なりの努力をする為の才能をお授けになっている事を忘れた考えです。

人間は人間なりの道を踏みしめながら努力し、出来る限りの事を尽くした時にはじめて我々が手を差しのべ、向上と真理探究の道を誤らないように指導してあげます。

―何か良い例を上げて頂けますか。

すぐに思い出すのは、ある時、心理学で幻影と夢について研究している男性を背後から指導していた時の事です。彼は夢の中に予知現象が混じっている研究をしていました。

つまり夢そのものと、その夢が実現する場合の因果関係です。私との意思の疎通ができた時に、私は、今までどおりに自分の能力を駆使して研究を続けておれば時期を見て理解させてあげようと言う趣旨の事を伝えました。

その夜彼が寝入ってから私は直接彼に会い(*)現在と言う時の近くを浮遊している出来事、つまり少し前に起きた事と、そのすぐ後に起きる事を映像の形で映し出す実験をする霊界の研究室へ案内しました。

そこでの実験にも限界があり、ずっと昔の事や、ずっと先の事までは手が届かないのです。それはずっと上層界の霊にしか出来ません。
(睡眠中人間は肉体から抜け出て、地上または霊界を訪れる。そのとき必ず背後霊が付き添うが、その間の体験は物的脳髄には滅多に感応しない。きちんと回想出来る人が霊能者である)

吾々は器具をセットしてスクリーンの上に彼の住んでいる地区を映しだし、よく見ているように言いました。そこに“上演”されたのは、さる有名な人物が大勢の従者を従えて彼の街に入ってくる光景でした。

終わると彼は礼を言い、吾々の手引きで肉体へ戻って行きました。翌朝目を覚ました時なんとなくどこかの科学施設で実験をしている人達の中にいる様な感じがしましたが、それが何であったかは思い出せません。

が、午前中いつもの研究をしている最中に、ふと夢の中の行列の中で見かけた男性の顔が鮮明に蘇ってきました。それと一緒に、断片的ながら夢の中の体験も幾つか思い出しました。

それから二三日後の事です。新聞を開くと同じ人物が彼の住んでいる地区を訪問する事になっていると言う記事を発見したのです。そこで彼は自分で推理を始めました。

吾々が案内した実験室も、スクリーンに上演して見せたものも思い出せません。が、その人物の顔と従者だけは鮮明に思い出しました。そこで彼が推理したのはこう言う事でした。―肉体が眠っている時人間は少なくとも時たまは四次元世界を訪れる。

その四次元世界では本来の事を覗き見る事が出来るが、三次元の世界に戻る時にその四次元世界での体験の全てを持ち帰る事は出来ない。しかし、地上の人物とか行列の顔といった三次元世界で“自然”なものは何とか保持して帰る、と。

予知された実際の出来事との関係は四次元状態から三次元状態への連絡の問題であり、前者は後者より収容能力が大きい為に、時間的にも、出来事の連絡性においても、後者よりはどうしても広い範囲にわたる事になります。

さてこうして彼は自分の才能を駆使して、私が直接的に教示するのと変わらない、大いなる知識の進歩を遂げました。それは同時に彼の知能と霊力の増強にも役立ちました。

無論彼の出した結論はこちらの観点からすればとても合格とは言えず、幾つか修正しなければならない点がありますが、全体的に見てまずまずで有り、実際的効用を持っております。私が直接的にインスピレーションによって吹き込んでも、あれ以上の事は出来なかったでしょう。

以上が吾々の指導の仕方の一例です。こうしたやり方に不満を抱き、人間的観点からの都合の良いやり方をしつこく要求してくる人は、吾々は放っておくしかありません。謙虚さと受容性を身につけてくれれば再び戻ってきて援助を続けることになります。

ではこの話が差し当たって貴殿とどう関わりがあるかを説明しましょう。貴殿は時折吾々の通信が霊界からのものである事に疑念も躊躇もなしに信じられるよう、なぜもっと(貴殿の表現によれば)鮮明にしてくれないのかと思っておられるようであるが、以上の話に照らしてお考えになれば、貴殿自ら考察していく上でヒントになるものはちゃんと与えてある事に納得がいかれる筈です。

忘れないで頂きたいのは、貴殿はまだまだ“鍛錬”の段階にあると言う事です。本来の目的はまだまだ成就されておりません。嫌、地球生活中の成就は望めないでしょう。

ですが吾々を信じて忠実に従ってくだされば事情が段々明瞭になって行きます。自己撞着のないものだけを受け入れて行けば宜しい。証拠や反証を求めすぎてはいけません。それよりは内容の一貫性を求めるべきです。

吾々は必要以上のものは与えませんが、必要なものは必ず与えます。批判的精神は絶対に失ってはなりません。が、その批判に公正を欠いてはなりません。貴殿のまわり、貴殿の生活には虚偽よりも真実の方が遥かに多く存在しています。

少しでも多くの真理を求める事です。きっと見出されます。虚偽には用心しなければなりませんが、さりとて迷信に惑わされて神経質になってはなりません。例えば山道を行くとしましょう。貴殿は二つの方向へ注意を向けます。

すなわち一方で正しい道を探し、もう一方で危険がないかを確かめます。が、危険がないかと言うのは消極的な心構えであって、貴殿なら正しい道と言う積極的な方へ注意を向けるでしょう。それで宜しい。危険ばかり気にしては先へ進めません。

ですから、滑らないようにしっかりと踏みつけて歩き、先を怖がらずに進む事です。怖がるものはとかく心を乱し、それがもとで悲劇に陥る事が良くあります。

では失礼します。こちらでの神の存在感はただただ素晴らしいの一語に尽きます。そして地球を取り巻く霧を突き抜けて輝きわたっております。その輝きは万人に隔てなく見える筈のものです。―見る意思無き者を除いては。神の光は、見ようとせぬ者には見えません。

<原著者ノート>読者は多分、母からの通信を中心とするこのシリーズの終わり方が余りにも呆気無さ過ぎるようにお感じであろう。筆者もその感じを拭いきれない。そこで次に通信を引き継いだザブディエル霊にその点を率直に質してみた。(第二巻の冒頭で)

―私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょうか。・あのまま終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。

さよう終わりである。あれはあれなりで結構である。もともと一つにまとまった物語、あるいは小説の様なものを意図したものではない事を承知されたい。断片的かもしれぬが正しき眼識を持って読む者には決して無益ではあるまい。

―正直言って私はあの終わり方に失望しております。余りに呆気なさすぎます。また最近になってこの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望は、ありのまま公表すると言う事ですか。

それは汝の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが、ただ一言申し添えるが、これまでの通信も今回新たに開始された通信も、これより届けられる更に高尚なる通信の為の下準備であった。それを予が行いたい。

結末について筆者が得た釈明はこれだけである。どうやら本篇はこれから先のメッセージの前置き程度のものと受け取る他はなさそうである。

G・V・オーエン



解説 霊的啓示の進歩
本書は「まえがき」にもある通り1913年から始まった本格的な霊界通信を四つの時期に分けてまとめた四部作の内の第一部である。

「推薦の言葉」をよせたノースクリッフ卿が社主を務める「ウィークリー・ディスパッチ」紙上に連載され、終了と同時に四冊の単行本となって発行されたのであるが、これとは別に、オーエン氏の死後、残された霊界通信の中から断片的に編集されたものが二種類あり、それが一冊にまとめられ第五巻として発行されている。誰が編纂したのか、その氏名は記されていない。それは止むを得ないとしても、内容的に前四巻の様な一貫した流れが無く、断片的な寄せ集めの感が拭えないので、今回のシリーズには入れない事にした。

通信全体の内容を辿って見ると、第一巻の本書はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占め、その母親らしさと女性らしさとが内容と文体によく表れていて、言ってみれば情緒的な感じが強い。

がその合間をぬってアストリエルと名乗る男性の霊からの通信が綴られ、それが第六章にまとめられている。地上で学校長をしていたと言うだけあって内容が極めて学問的で高度なものとなっている。

が、それも第二巻以降の深遠な内容の通信を送る為の肩慣らし程度のものであったらしい。

第二巻を担当したザブディエルと名乗る霊はオーエン氏の守護神であると同時に、本通信の為に結成された霊団の最高指導霊でもある。が地上時代の身元については通信の中に何の手がかりも出て来ない。

高級霊になると滅多に身元を明かさないものであるが、それは一つには、こうした地上人類の為の啓発の霊団の最高指揮者を任じられるほどの霊になると、歴史的に言っても古代に属する場合が多く、例え歴史にその名を留めていても、伝説や神話がまとわりついていて信用できない。

と言う事が考えられる。さらには、それほどの霊になると地上の人間による“評判”などどうでも良い事であろう。このザブディエル霊の通信の内容は如何にも高級霊らしい厳粛な教訓となっている。


これが第三巻そして第四巻となるとアーネルと名告る(ザブディエル)と同じ界の霊が荘厳な霊界の秘密を披露する。

特にイエスキリストの神性に関する教説は他のいかなる霊界通信にも見られなかった深遠なもので、キリストを説いてしかもキリストを超越した、人類にとって普遍的な意義を持つ内容となっている。まさに本通信の圧巻である。

さて近代の霊界通信と言えば真っ先に挙げられるのがステイトン・モーゼスの自動書記通信「霊訓」であり、最近ではモーリス・バーバネルの霊界通信「シルバーバーチの霊訓」である。そして時期的にその中間に位置するのがこの「ベールの彼方の生活」である。

内容的に見ると「霊訓」はキリスト教的神学の誤謬を指摘し、それに代わって霊的真理を説くと言う形で徹頭徹尾、文字通り“霊的教訓”に終始し、宇宙の霊的組織や魂の宿命、例えば再生問題などについては概略を述べる程度で、余り深入りしないようにと言う配慮でもあろう。

これが「ベールの彼方の生活」になると宇宙の霊的仕組みやキリストの本質について極めて明快に説き明かし、それが従来の通念を破るものでありながら、それでいて理性を納得させかつ魂に喜悦を覚えさせるものを持っている。もっともそれは、正しい霊的知識を持つ者に限られる事ではあるが。

そしてシルバーバーチに至ると人間世界で最も関心をもたれながらもっとも異論の多い“再生”の問題について正面から肯定的に説き、これこそ神の愛と公正を成就する為の不可欠の摂理であると主張する。ほぼ五十年続いた霊言に矛盾撞着は一つも見られない。

同時にシルバーバーチが“苦難の哲学”とでも言えるほど苦しみと悲しみの意義を説いているのも大きな特徴で「もし私の説く真理を聞く事によって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた宿命に背いた事になりますまい私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

それに厳然と立ち向かい、それを克服し、そして一層力強い人間と成って下さることが私どもの真の目的なのです」と語るのである。

こう観てくると、各通信に其々の特徴が見られ、焦点が絞られている事が判る、そして全体と通覧した時、そこに霊的知識の進歩の後が窺われるのである。それをいみじくも指摘した通信が「霊訓」の冒頭に出ている。その一部を紹介する。

『啓示は神より授けられる、神の真理であると言う意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾する事はあり得ぬ。但しその真理は常にその時代の必要性と受け入れ能力に応じたものが授けられる。

一見矛盾するかに見えるのは真理そのものにあらずして人間の心にその原因がある。人間は単純素朴では満足しえず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。

時の経過とともに、何時しか頭初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなって行く。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなってしまう。やがて新しき啓示が与えられる。

がその時はもはやそれをそのまま当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築きあげられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾は無い。

が矛盾せるが如く思わしめる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。

人間はおのれに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は無知なる者や偏見に固められた人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。

神は決して真理の押し売りはせぬ。この度の吾々による啓示も、地ならしとして、限られた人間への特殊なる啓示と思うが良い。これまでも常にそうであった。モーゼは自国民の全てから受け入れられたのであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者を見るがよい。

自国民に受け入れられたものが一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押し付けはせぬ。用意の出来た者のみがそれを受け入れる。無知なき者、備えなき者は拒絶する。それで良いのである』

今改めて本霊界通信を通覧すると、第一巻より第四巻へ段階的に“進歩”して行っている事が判る。それを受け入れるか否か、それは右の『霊訓』の通り“己に宿る理性の光”によって判断して頂く他は無い。願わくば読者の理性が偏見によって曇らされない事を祈りたい。

訳者としてはただひたすら、本通信に盛られた真理を損ねないようにと務めるのみであるが、次元の異なる世界の真相を如何に適切な日本語で表現していくべきか、前途を思うと重大なる責任を感じて身の引き締まる思いがする。が、賽は投げられたのである。後は霊界からの支援を仰ぐ他は無い。

シルバーバーチの言葉を借りれば“受け入れる用意の出来た人々”が一人でも多くこの霊界通信を巡り合い、その人なりの教訓を摂取して下さる事を祈る次第である。
1985年 完