第2章 幽体離脱現象の諸相
第1節 幽体離脱(体外遊離)現象とは何か
解説 幽体離脱現象の諸相  カール・E・ミュラー博士

人間とは物的身体に包まれた〝霊〟であるとよく定義される。〝霊〟という用語さえ正しく理解すればこの定義はまさしくその通りであると言えよう。かつての〝霊〟の概念においては物質とは全く縁のない最高の形而上的原理という観念的な捉え方をしており、従ってこれが物質に影響を及ぼすことは有り得なかった。そのことが哲学的に様々な行き詰まりを生ぜしめたばかりでなく、心霊現象の存在の理解を困難にし、ましてや〝霊魂説〟を到底受け入れ難いものにしていた。

実際は人間は元来が〝霊〟であって、それが身体を具えているのである。正確に言うと、その身体と霊との橋渡しをする中間的物質をも含む複合的存在である。多分昔から用いられている〝魂〟というのはその中間的物質のことを指していたのであろう。それが、正確な知識がなかった為にいつしか〝霊〟と同じものと見なされるようになったのであろう。

成長するにつれて人間の身体は周りの物的環境と接触する為の機能を発達させていく。魂というのは意識の場において〝自分〟と繋がっている感覚、感情、思念という形を通じてその存在が知られる。その繋ぎ役をする媒体の中で最も重要なのが〝幽体(アストラルボディ)〟で、霊視すると肉体とそっくりなので〝複体〟と呼ばれることもある。

日常生活を営んでいる間は幽体は肉体の中に収まっており、ほぼ同じ形体をしていて、完全に一体となっている。従ってその存在を示す兆候としては、それが肉体から分離した時にしか現れない。それも様々な形をとるが、例えば睡眠がそれであり、昏睡状態がそれであり、生者の幻影(その殆どは無意識)がそれであり、そして本稿の主題である幽体離脱がそれである。これはESP離脱と呼ばれたり霊界旅行と呼ばれたりすることもあり、完璧な状態では立派に意識的体験となる。

その完全に離脱した状態は他界した〝霊〟と全く同じ状態である。事実、死んだと思われた人間が生き返って、その間の体験を思い出して語ってくれた人の話(近似死体験)と、睡眠中に離脱して体験する人の話とが内容的に実によく似ている。その意味で幽体離脱現象は死後存続の証拠となる一連の事実を関連付ける重大なカギであることは明白である。そのことは既に幾人かの著名な研究者、特にデュ・プレル、マティーセン、最近ではH・ハート教授などが同じような認識を持っている。

第2節 筆者の個人的体験
私自身に離脱の超能力はない。ただ、少年の頃明らかに離脱の初期と思われる段階の体験を何度かしている。ある夜いつものように寝たところ、これといった理由もなしにベッドから上方2フィート程、そして真横へ同じく2フィート程離れた位置に浮いているのに気が付いた。気分はとても爽快で、あたかも水中にいるみたいに手を前後に動かすと前へ行ったり後ろに下がったりすることが出来た。

両腕を身体にぴったりつけると感触があり、又その格好で上昇したり下降したりすることも出来たが、もとよりそう遠くへ行くつもりもなかったので、この距離は二、三フィート程度だった。こうした体験が数回あったが、いつの間にか起きなくなった。暫く起きていないことに気が付いて意識的にやってみようとしたが、駄目だった。

今からほぼ一年前にそれに似た、ちょっとした体験をした。左向きになって寝ていたところ少しずつ意識が戻って来た。すると私の後ろ側で誰かが眠っている息遣いが聞こえてきた。〝まさか〟と思ったが、誰もいる筈はない、(気のせいだ)と思っている内に寝入ってしまった。が、間もなく又意識が戻って来て、又誰かの息遣いが聞こえて来る。その息遣いがあまりにはっきりしているので振り返ってみたが、やはり誰もいなかった。

結局これは私の上半身だけ幽体が離脱して、肉体の息遣いを幽体の耳で聞いていたという説明がつく。些細な体験ではあるが、多くの人の体験と一致するという点で私には意義ある体験である。完全離脱が事実であれば当然のことながら初期的な部分離脱も、中間的離脱も有り得ることを予期しなければならない。

離脱中は意識的な行動をしていても肉体に戻ってからそれが思い出せないということは明らかに有り得るようである。意識的離脱体験の能力を持つ数人から聞かされていることであるが、睡眠中に離脱しているこの私と会って地上と変わらない意識的状態で会話を交わしたというのであるが、私自身は目が覚めてからそれが全く回想出来ないのである。かくかくしかじかの珍しいパジャマを着ていたとまで指摘されたのであるが、確かにその夜はそのパジャマを着ていた。

何年も前の話であるがW-という生まれついての超能力者がいて、その人は浮遊霊を霊視したり、シンボルによる夢を見たり、幽体離脱をしたり、外国語による自動書記をしたり、自分の病気を奇跡的に治したりする人だった。その人がある夜ふと気が付くと自分のベッドの脇に立っていて、自分の寝ている姿を見つめていた。これが幽体離脱の初体験で、W氏はてっきり自分は死んでしまったと思い込んだ。すると、そのショックで次の瞬間には肉体に戻っていたという。強烈な感情を抱くと大抵そういうことになるようである。

これは自然発生的現象の中でも初心者がよく体験する典型的なケースである。同じタイプの例をもう一つ挙げると、私のよく知っている婦人がある時〝これは一体どういうことでしょうか〟と言って語ってくれた話であるが、ある日の真昼に寝椅子で横になっている内に、ふと気が付くとその部屋の天井とシャンデリアの辺りを自分が浮遊しており、下を見ると寝椅子に自分の身体が横になっていたという。その婦人は元々超能力があり、これは明らかに幽体離脱の初体験である。

先のW氏は離脱中にしばしば遠い外国や見知らぬ都市を訪れている。心霊関係の本も雑誌も読んだことがない人なので、自分の体験を全部自己流の用語で説明しており、この〝外国旅行〟の体験も〝鮮明な夢〟と呼び、普通の夢と区別していた。そう呼んだ訳は光景の輪郭の明確さと細部に至るまでの鮮明さと印象の生き生きとした現実性にある。大抵の報告がその点を指摘している。

W氏は旅行の度に何か具体的な証拠になるものを持ち帰ることを試みたそうであるが、一度も成功していない。ある時外国のある通りで一人の通行人の後を付け、その町の名前を聞こうと思ってその人の肩を叩いた。するとその男性は振り返ったが、狐につままれたような顔をしていた。つまり肩を叩かれたのは明らかに感じ取ったのに何も見えなかった訳である。又ある時は肩を叩かずに一人の婦人に町の名前を訪ねてみた。すると婦人は声のする方へ顔を向けてから、キャーッという声を出した。声がしたのに何も見えなかったからか、それとも多分、薄ボンヤリとした〝幽霊〟のようなものでも見えたのであろう。

離脱者の体験の中には説明困難なものもある。私の知人のE氏は色々な心霊体験の持ち主であるが、ある時寝椅子で新聞を読んでいる内に睡気を催したので新聞を脇に置いた。その直後に離脱が起き、水平のまま上昇した。見下ろしていると寝椅子の上の自分の身体がむっくと起き上がって座り、それから又横になった。意識的な離脱状態はその後もずっと続き、台所へ行き、それから肉体に戻った。

同じくE氏の体験で、ある時通りを歩いていると何となく後ろから誰かが追いかけてくるような気がして振り返ると、青いコートを着た自分の幽体が追い付いて直ぐ横を歩いている。じっと見つめている内に消滅したという。

人によっては初めての離脱の時に、まず最初に螺旋運動を感じたという人がいる。有名な超能力者のアンドリュー・J・デービスも同じことを言っている。私のよく知っている霊感の鋭いZ夫人も最初そうだった。ある時椅子に腰掛けて寛いでいるとトランス(入神)状態になった。その状態でZ夫人はまるで大きな煙突から飛び出ていくような勢いで螺旋状に上昇していくのを感じたという。気が付くとどこかの外国の上空を飛行機のように飛んでいる。その内ビルマとおぼしき国の上空に差し掛かった。大きな円い帽子を被った農夫が畑で働いている姿が見える。やがて今度は中国風の寺院が見えてきた。夫人はその屋根に開いている風窓から中へ入り、下で礼拝をしている人達の姿を見ていた。その辺りで意識が失くなった。

これなどは地上の幽体旅行の一つの典型である。私はある霊媒を通じて、霊界の知人に螺旋運動による離脱の訳を聞いてみたところ、初心者はまだ各種のバイブレーションのバランスが取れていないことからそう感じるのだという返事だった。これはこの後で紹介されるマルドゥーン氏の説とそう違っていない。

しかし霊界にも渦巻き状の運動がない訳ではない。地上の嵐に似たものが発生することがあり、従ってそれは本人のせいではない。私の知人のU夫人は離脱中につむじ風に巻き込まれた体験をお持ちである。非常に不快な感じがするという。ただそういう時には背後霊が守ってくれているようである。

離脱の後遺症の中にはその現象はただの霊視現象に過ぎないという説を生みそうなものもある。公務員のM氏は非常に母親思いの人で、それだけに母親を失った時の悲しみ様は一通りでなかった。そして何とかして霊界の母親に会えないものかと思い、可能性については半信半疑ながらも、とにかく一心にそう祈っていた。

暫くは何の心霊体験もなかったが、ある日の午後ベッドに横になって母親のことを思っていると、いつの間にか肉体から離れて、気が付くと霊界のある一軒の家を目指して歩いていた。なぜかその家に母親が住んでいるような気がした。家へ入ってみると母親はそこにはいなくて庭に出ていた。そこで自分も庭に出て母親と話を交わし始めると、直ぐに母親が〝もうお帰りなさい。それに、こういうことはこれきりですよ〟と言った。肉体に戻ると胃がムカムカして吐き気を催し、それが三十分も続いた。

私の推察では、これは祈りに応えて背後霊が本人の気付かない内に一回だけということで叶えさせてくれたのであって、背後霊の援助がなかったら不可能だったであろう。

第3節 スカルソープ氏とよく似たケース
先のU夫人とは長いお付き合いであるが、ここ数年の間に数多くの興味深い体外遊離体験をしておられる。その原因は一つには夫人が精神統一の修業を欠かさないからである。つまり夫人の場合は霊的発達に伴って発生する体験であり、その体験の内容はスカルソープ氏のケースと、この後紹介する予定のイーラム氏のケースとよく似ているようである。

初めて離脱した時は普段霊視している複数の背後霊によって肉体の上方へ持ち上げられた。それが少し苦痛だった為に、あまり長続きしていない。が、その後の離脱体験には割合苦痛は伴っていない。夫人の場合は大体において横側に脱け出る。戻る時は大抵肉体に入り込むのが分かるが、脱け出る時の分離の過程は自分で観察したことはないという。

横たわっている自分の肉体を見たことはあるが、肉体と幽体とを結んでいる玉の緒(シルバーコード)は見たことがないという。そのことが私との間で話題となった後、夫人が背後霊に一度シルバーコードを見せて欲しいと頼んだところ、ある夜、近くのアパートの三人家族の家へ案内された。見ると三人の幽体がベッドの上で立っており、その幽体と肉体とがシルバーコードによって繋がっているのが見えた。色々と細かく観察した中でも、コードの色が三人とも違っているのが一番印象的だったという。

スカルソープ氏との出会いがあった後に、幽体離脱の家族の実験の可能性について語り合ったことがある。そして私からスカルソープ氏に、離脱中に同じく離脱中のU夫人に会ってみて欲しいとお願いしてみた。もっとも、スカルソープ氏と共にある霊媒を通じて霊界の複数の知人にその件についてあらかじめ相談したところ、その為には色々と条件を整える必要があり、何と言っても波長の調整がカギなので、人間が考える程簡単にはいかないという返事だった。確かに我々が得た唯一の結果は次のようなものに過ぎなかった。

1957年10月14日付のスカルソープ氏からの手紙にこうある――〝次に述べる体験はもしかして例の実験を背後霊団が準備してくれたものではなかろうか、つまりその中に登場する女性はU夫人ではなかろうかと思ってメモしておいたものです。残念ながらこの時の私の意識は百パーセント目覚めていなかったので、夫人の目鼻立ちまで覚えておりません。9月15日日曜日の午後3時15分のことですが、私は肉体を離脱して、ある部屋で一人の女性を見つめておりました。その女性は部屋を行ったり来たりしながら、ある芝居のセリフを練習しているところで、もう一人の女性がテーブルに向かって座り、台本に目をやって時折うなずいておりました〟

これは間違いなく実験だった。U夫人は同じ日付の同じ時刻にスイスのチューリッヒでブッダ(釈迦)についての本を前にしてテーブルに座り、もう一人の女性と込み入った話をしていたという。その相手の女性は議論する時はいつも行ったり来たりする癖があるとのことで、芝居のリハーサルではなかったが、場面そのものはスカルソープ氏が叙述した通りであった。

U夫人は離脱中に邪霊の類に襲われることは一度もないという。が、旅行から戻ってみると肉体に誰かが入り込んでいたことが一度ならずあったという。夫人が一方の側から入ると、その霊は仕方なく別の側から出て行った。別に後遺症はないという。私はここで、幽体離脱現象には普通の睡眠中と同じく危険は伴わないことを断言しておきたい。

ある時U夫人は離脱中にシルバーコードが引っ張られるのを感じたことがあるという。又ある時は(何も見えないのに)霊の存在を感じ、夫人は意識が朦朧とし始めるとエネルギーを注入してくれるのが分かったという。霊界では多くの霊と会い、会話も交わしている。その中には今は他界しているかつての知人や親戚の人など、よく知っている人もいれば、全く知らない人もいる。離脱状態では壁やドアは抵抗なしに突き抜けられるという。但し、初めの頃は少しばかり抵抗を感じたそうである。

もう一つ興味深い体験を語ってくれている。ある時、賑やかな通りを歩いている内に突如として意識が途切れた。そして次に意識が戻った時は同じ通りを25メートルも歩いていた。それから二年後のこと、たまたま同じ通りを歩いていると、二年前と同じ地点まで来て妙な感じに襲われた。夫人は何とかそれに抵抗して事なきを得た。夫人の意見によると、その時もし負けていたら二年前と同じことが起きていたと思う、という。

この例を挙げたのは、この種の体験がけっして珍しくないように思えるからである。個人的なお付き合いのあるP夫人が数年前に二度も体験したことであるが、通りを歩いている内に自分が身体から脱け出ていくような感じがして、ふと見ると、その自分がすぐ横を一緒に歩いていた。距離にして20メートル程歩いたという。頭がおかしくなったのではないかと思うと怖くなり、二度と起きないように念じたという。当然まだ心霊知識はまるで無かったのである。

私はこれまでに断片的なものから完全に意識を留めたものまで、実に様々な形の離脱体験をした人達と会ってきたが、どの人も皆正常で健全な精神の持ち主であり、霊視現象との違いを見分けられる人もいる。そうした体験を総合的に観察すると、そこに、程度の差こそあれ肉体から分離出来る別個の幽質の身体の存在を仮定する他に説明のしようのないものばかりである。体外遊離体験が精神異常の兆候となったことは一例もない。が、自然発生的によくそういう体験をするという方は、きちんとした知識を持っておくべきであり、その分野に詳しい信頼の置ける人の助言を受けるべきであろう。

第4節 歴史上の記録
幽体離脱が事実であり人類に共通した可能性を持つものであるならば、その事実は歴史上にも見られる筈である。確かに通常は目に見えない霊的身体の観念は東洋にもエジプトにもギリシャにも見受けられる。新プラトン派ではこれをAstroeideと呼んだ。元の意味は〝星のような光輝を放つもの〟という意味で、英語のAstralと語原が同じらしい。似たような概念は未開人と文明人の区別なく世界中に見られる。自然発生的な例も古い文献に数多く出ている。

幽体離脱の問題に何らかの光を当ててくれるものとしてはアントン・メスメル(1734~1815)が病気治療に利用したメスメリズム(かつては動物磁気(アニマルマグネティズム)ないし生体磁気(バイオマグネティズム)と呼ばれた)に関連した実験が最初であろう。患者の身体に触れるか触れないかの距離で施術者が手を前後させることによって知覚が異常に明晰な状態に誘導される。これを夢遊病や催眠状態と混同してはならない。その状態において患者によっては自分並びに他人の身体を透視し、内臓器官を観察してその機能や健康状態を適確に述べることが出来たり、遠距離の土地へ行ってそこで観察したものを叙述したりすることが出来る。

その結果はドイツ人ヨハン・H・ユングによる「霊知識の理論」Theorie der Geisterkunde by Johann H. Jung(1809)に反映している。米国の東部からロンドンへの実証性に富む実験的幽体離脱に関する詳しい報告が載っている。その証例は信頼の置ける筋からのもので、ユングは間違いのない歴史的事実と断定している。その論じるところを読むと、この種の問題におけるユングの洞察力の鋭さに感銘させられる。

時代的に更に新しい幽体に関する研究としてはカール・デュ・プレルによる「魂の一元論的私論」Die monistische Seelenlehre by Carl Du Prel (1888)が挙げられる。このタイトル自体にやや問題があるが、新旧の諸説を考察し、四肢が切断された後も完全な知覚が残っている問題、各種の幽霊現象、夢遊病、主観的心霊現象、霊視と幽界旅行の違い等々について論じている。

デュ・プレルの観察では幽体は肉体のその時の状態、例えば着ている衣服や負傷箇所などがそのまま現れる場合と現れない場合とがあり、スイスの医学者パラケルススの次の説、すなわち肉体の欠陥及び知能上の欠陥も物体身体だけに起因した症状であって、死後の幽体にはそれは見られない、という説を引用している。また有名になったサゲーという女性教師にまつわる幽体離脱の例を論じている。サゲー先生は授業中にひとりでに(たとえ抵抗しても)幽体が離脱し、それがその度毎に可視性が異なり、生徒や仲間の教師や事務員がそれを証言している。このケースなどは人間に幽体という別個の身体が具わっていることが紛れもない事実であることを証明している。

デュ・プレルは更に幽体によってローソクの火が消されたり、スレートに文字が書かれたりした事実を挙げている。所謂リパーカッション現象、つまり催眠状態において遊離した幽体に針を突き刺すと肉体の同じ箇所に痛みを感じ、時には血が出ることもあるという現象も観察している。

第5節 バイロケーション
同一人物が二つの場所において同時に姿を見せる現象をバイロケーションといい、三つの場所で同時に観察される場合をトライロケーションという。いずれも古くからある用語で、最初は聖職者の間で言われ始めた言葉である。所謂〝聖人〟と呼ばれた人にそういう現象が見られたからである。離脱した幽体は肉眼には映じず霊視能力のある者にしか見えないのが普通であるが、バイロケーションの例でその場に居合わせた人全員によって観察され、しかもその幽体で物体を動かし、普通の人間と同じ行動をしたというケースがある。イタリアの研究家E・ボザーノは貴重な著書「バイロケーションの現象」Phenomena of Bilocation by Ernesto Bozzanoの中で、バイロケーションという用語を全ての幽体離脱現象に適用しているが、これは間違いである。

よく引用されるものにスペインの修道女マリヤ・デ・アグレダの例がある。この尼僧は突然昏睡状態に陥り、その間に海を越えてニューメキシコへ運ばれていくのを自分でも意識していて、行った先でインディアンに向かって説教をするといったことが百回以上もあったという。メキシコの修道士ベナビデスは1630年にヨーロッパを訪れてこの現象を確証付ける調査を克明に行なっている。このケースでは肉体はその間死体同然の状態となっていた。

デュ・プレルが指摘するところによれば、サンスクリット語のmajavi-rupaは意図的な幽体離脱を指しているという。そのワザを身に付けたインドの達人は豊富な生命力と意識とを自由自在に操って本当のバイロケーション、つまり同時に二つの場所にいて活動し意識を持ち続けることが出来るということになっている。が、実際問題としてその段階まで到達するのは大変なことであり、多分その用語は確立された現実ではなく、それを理想としたものと解される。

近代のインドの書Paramhamsa Yogananda(あるヨガ僧の自伝)にも幽体離脱の例が載っている。瞑想中に幽体が離れて通りにいる友人の所へ行って伝言を授けるのであるが、授けられた友人はそれをヨガ僧本人と思い込んでおり、声を普通に聞こえている。が、その場合も肉体の方に何の動きも見られなかったという。いずれにしても、その事実が正確であるとすれば、実証性をもった意図的な離脱の成功例と言える。

次の例が示すように、同時に二つの意識が活動する場合の謎を解くカギは、どうやら〝歩行運動〟と同じように潜在意識的な活動と見なすことにあるようである。J・カーナー博士が報告した中の一例であるが、F判事が書記官に隣の町への用事を言いつけた。暫く経ってからその書記官が判事の部屋へノコノコと入って来て、書棚から一冊の本を取り出した。とっくに隣の町へ行っているものとばかり思っていた判事は驚いて、何故直ぐに出掛けないのかと叱りつけた。するとその場で書記官の姿が消え失せ、本が床の上に落ちた。判事がそれを拾い上げて、開いたままテーブルの上に置いた。

さて、隣の町での用事を終えて帰って来た書記官に事の次第を質問すると、用事を言い付けられた後すぐさま出掛けたが、途中で友人と一緒になり、道中をある植物のことで議論しながら歩いていたという。そして自分の説に確信のあった書記官は、もし事務所にいればリンネの本のどこそこのページにそのことが出ているから確かめられるのにと思ったという。判事が拾い上げてテーブルに置いた本は丁度そのページが開かれていた。

ここで興味深いのは、幽体が本を取り出して目的のページを開くという物理的活動が出来たということである。更に興味深いのは、その間肉体の方は歩き続けていたと想像されることである。途中で休憩し座ったり横になったりしていないとの証言が欲しいところだが、残念ながらそれは無い。

このケースのように、近代の例では本人は離脱する瞬間は意識がないのに、幽体の方は物体をいじくることが出来ている。この奇怪な一面は幽体離脱現象の複雑性をよく示しており、同時に離脱のプロセスには意識も記憶も関与していないことを物語っている。

同じく自然発生的な例でも、ある人がどこそこに行きたいと思い、その場所で確かにその人の姿を見たというケースがあるが、これは〝テレパシー的幻影〟に過ぎない可能性も考えられる。

第6節 切断された四肢の幽体
例えば脚が切断された場合、人によってはその脚がずっと残っている感覚を持ち続けることがある。短期間の場合もあれば一生涯続いた例もあるが、大抵の場合は次第に消えていく。これを医学では切断された神経による一種の幻覚としている。大体においてそうであろう。が、感受性の強い人においては超常的な体験をすることがある。

例えば、切断された手がおがくずの入った箱に入れられて土中に埋められた。そのことを知らない筈の本人が、自分の手がおがくずの中に入れられたような感じがすると言い、更に、その中に入っていた釘が刺さって痛くて眠れないと訴えた。病院側はまさかと思って取り合わなかったが、あまりの強い訴えに、土中から掘り起こして調べてみたところ、確かに釘が指に突き刺さっていたという。

もう一つの例では、腕を切断された人が、目隠しをされた状態で、その切断された実際には存在しない筈の手の辺りにローソクの炎を近づけると、指に熱さを感じたという。

切断された四肢の幽体を霊視した例は数多くある。写真に写ったこともあるが、これは実験を重ねる必要がある。片脚を切断されて間もない頃に松葉杖を使うのを忘れて〝幻の足〟で何歩か歩いたという例を幾つかある。信じられない話であるが、この場合は前に紹介した幾つかの例に見られるように、幽体が無意識の内に働いたという説明も出来るし、一種のテレキネシス(念力によって物体を動かす現象)とみることも出来よう。

第7節 主観的要素の問題
離脱体験の中には多分に主観的性格をもったものがある。その要因は数多くあるが、その一つに病気があり、中でも発疹チフスの患者によくみられる。医学者は、全体のほんの片隅にすぎないその局所的事例だけをもって全ては幻影であると決めつけ、従って幽体なるものは存在しないとして片付けている。それを医学ではHeautoscopyとかAutoscopyとか呼んでいる。その説によると人間は自分の容貌について精神的画像を抱いており、それが病気などが誘因となって幻影となって見えるのだという。

しかし、その説では到底全てを片付けることは出来ない。幽体の客観的実在は何度も確認されているのである。従って、仮に幻覚による離脱体験というものがあるにしても、それは寧ろ例外に属するものであるに相違ない。

その他にクロロホルムによる麻酔や事故、激痛、悶絶などでも離脱が生じることがある。

しかし、やはり健康な心身の持ち主が繰り返し体験し、それを分析・調査した上で公表してくれるのが望ましい。そうした調査をしてくれた体験者の中で最も著名な人を挙げれば――

○オリバー・フォックス。英国人。1914年から記事を書いて、それを纏めて1937年に「幽体離脱」と題して出版。

○イーラム(ペンネーム)。フランス人。1926年に「幽体離脱の実際」を出版。

○C・D・ラーセン。米国人女性。1927年に「私の霊界旅行記」を出版。

○S・マルドゥーン。米国人。心霊研究家のH・キャリントンと共著が数冊あるが、その第一冊目が1929年出版の「幽体の離脱」。

いずれも貴重な情報・知識が満載されており、共通点が非常に多い。しかし相違点も幾つか見られる。その中から幾つかを要約してみよう。

第8節 オリバー・フォックス氏の体験
フォックス氏は夢と幽体離脱体験との相互関係を論じている。彼は体験希望者に、夢を見ている最中に〝アラ探しの感覚〟を駆使する訓練をするよう奨励する。夢であれば必ずどこかに辻褄の合わないところがあるので夢であることが分かる。するとそれが〝体験夢〟――意識的な夢へと移行し、そこに新たな意識のレベルが出来上がる。

又彼は夢からの見せ掛けの覚醒があることを指摘する。つまり自分では目覚めているつもりでも、実際はトランス状態にあり、経験したことのない感覚を伴っているという。意識的離脱体験は純粋に精神的なものであるというのが彼の持論である。

彼は離脱中に自分の幽体を見ることが出来る。見たところでは色んな衣服を纏っていて、裸の姿を見たことは一度もないという。が、自分の肉体も、それからシルバーコードも一度も見たことがないという。肉体から離脱する時は頭部の小さい〝通風孔〟から出て行く感じがするというが、同じことを言う人が他にも多い。これは、トンネル又は煙突のような抜け穴から出て行く感じがするという報告とも関連がありそうである。

他の体験者と同じくフォックス氏も離脱中の体験に実体感があり夢とは全く異質のものである点を強調する一人である。氏の体験は全て主観的なものばかりであるが、一度だけ客観的実証性をもった体験をしている。ある夜、氏の友人の女性が幽体で訪れた。彼にはその女性の姿が明確に見えたし、女性の方も後でそれを回想して部屋の様子や家具について驚く程細かく叙述した。普段一度も訪れたことがないのに正確だった。別の機会に、代わってフォックス氏の方からその女性の家を早朝に訪れたが、女性の方はそのことを憶えていたのに、氏は回想出来なかったという。

第9節 イーラム氏の体験
イーラム氏の著書は1912年に始まった体験を基礎にしている。二、三年前に他界されたと聞いているが、本名その他、私的な細かい事は家族の要望で公表されていない。

その著書によると彼は離脱能力の開発の為に精神統一、呼吸法、弛緩法などを修業している。が、そうしたものより大切なのは道徳的生活、利己的欲望の排除、愛他精神であると考えている。

離脱体験はまず自分の部屋の内部から始めるようにと彼は勧めている。家具は一種独特の燐光性の光を発しているという。彼も離脱中の体験の絶対的実体感を強調し、それは〝冷徹なる事実〟であるとまで表現している。遠距離の旅行をしたいと思うと〝複体を構成している要素が肉体へ帰され、それよりもっと精妙な形体に宿ってから出掛ける〟という。

ある時自分の肉体を抱きしめてみたら温かく筋肉の堅さは感じられなかったという。シルバーコードは際限なく伸びることが出来、幽体全体の表面と無数の糸で結ばれているという。背後霊は滅多に姿を見せていない。ある時、既に他界している友人と会うことが出来て、長時間にわたって会話を交わしたという。

霊界へ旅行すると、時折低級霊に襲われている。そんな時に最も強力な武器となるのは愛の想念であるという。

離脱する時刻は数時間眠った後の早朝四時~五時が一番良いという。その訳は、潜在意識による邪魔が少なくなるからだそうである。又彼は一晩の内に数回離脱出来たことがあるという。つまり一回目の離脱から戻って来てその間の体験をメモし、又エネルギーを新たに加えて離脱するということを繰り返した。奥さんと一緒に霊界旅行を楽しんだことも何度かある。

第10節 ラーセン女史の体験
C・D・ラーセン女史はこの分野での体験をもつ女性として私が知った最初の方である。著書を見た限りでは幽体離脱の為の特別の訓練はしておられないが、我々としてはその点について、更には心霊的な予備知識をどの程度もっていたかについて、もっと詳しく知りたいところである。

女史の最初の離脱体験はいたって突発的なもので、1910年の秋のことだった。その当時既に中年にさしかかっていて髪も白くなり、隠居生活を楽しんでいた。そんなある日、突然重苦しい圧迫感と不安感に襲われた。失神の前の発作の感じによく似ていたという。そのうち麻痺が起き始め、全身の筋肉が痺れて来た。やがて意識が失くなり、次に気がついた時は床に立っていて、ベッドに死体のように横たわっている青白い顔の自分の身体を見下ろしていた。それから化粧室へ行き、鏡の前に立つと、そこに映った自分はすっかり若返り、そして美しく、素敵な白く輝く衣装を纏っていた。

その化粧室にいても階下で夫と三人の仲間が四重奏の練習をしているのがはっきりと見え、その曲も聞こえた。その階下へ下りて行こうとしたところ女性の霊に呼び止められて、肉体に戻るように言われた。意識を留めたまま肉体と繋がり、やがて喘ぎながら目を覚ましてハッとした。彼女は述べる――〝これが私の体外遊離の最初の体験でした。が、それ以来、何度となく体験しております。宇宙を遠く広く旅行し、多くの天体を訪れました。霊界も訪れました。そこで地上では絶対に叶えられないと思えるようなことを見たり聞いたりしました〟

旅行中は必ず指導霊が付き添い、いつも同じ霊だっとという。ローマの貴婦人のような服装をしていて、彼女のことを(カロリンをつづめて)カロロと呼んだという。

ラーセン女史の体験をスカルソープ氏の体験と比較してみると、総体的には一致しているが、全く同一の体験というものはない。それよりも、女史はスカルソープ氏に見られない情報を提供してくれている。特に地上圏及び大気圏の霊界の情報が多い、「私の霊界旅行記」の大半が地上圏の霊界の叙述で占められている。既に他界している知人や最近他界したばかりでまだ死の自覚のない友人と会っている。遠い昔に他界した霊が地上の人間及び他界したばかりの霊と交歓し合っている興味深い光景が叙述されている。また地上の為に働いている霊団の活躍ぶりも見ている。

そうした言わば〝地上の霊の生活〟ぶりを見た後、女史は上層界へ案内されている。最初の界を女史は〝新来者の為の一種の収容施設〟であるといい、スカルソープ氏と細かい点までよく似た情景を描写している。女史のいう第二界にはもはや地縛霊というものは存在せず、指導霊のもとで能力開発に勤しんでいる。第三及び第四界はその一、二界と〝果てしない暗黒の空間〟によって仕切られており、その光輝溢れる美しさは地上の言語では表現出来ず、そこの住民は完成された高級霊ばかりであるという。

また女史は〝子供の国〟へも訪れ、そこで開かれていたオーケストラによるコンサートを見ている。演奏された音楽は荘厳さと情感に溢れ、女史は圧倒されて耐え切れなかったという。最後に女史は太陽系の外側に広がる〝無限の空間〟への旅を叙述し、宇宙に充満する無数の霊的存在に驚嘆している。その霊達は強烈な白色光を放ち、それが各々の身体を炎の輝きによって包んでおり、その強さは霊力に応じて異なっていたという。

以上の僅かな抜粋だけで女史の著書の価値の重要性を語るには十分であろう。それは実質的にスカルソープ氏の体験を確証付ける形になっている。

第11節 マルドゥーン氏の体験
マルドゥーン氏は十二歳の時に最初の離脱体験をしている。それは初めから終わりまで意識的なもので、これは珍しいことである。「幽体離脱」を書いた時は既に何百回もの体外遊離及び幽体旅行を体験しており、その大半が〝体験夢〟で始まっている。彼も幽体離脱中の強烈な現実感を強調する一人で、これを一度体験したから絶対に死後の存続を信じると主張する。幽体旅行中に霊に会うことはあっても、全て地上界の旅行に限られている。

彼の説はどれをとっても一考に値するものばかりであるが、ここでそれを全部考察するにはスペースが少なすぎる。例えば、意識的生活はある種の〝霊力〟を消耗しており、睡眠がそれを補う上で不可欠で、睡眠とは幽体が肉体から遊離した時に生じる現象であると考えている。病気の時に遊離体験が多いのはその為であるという。又、所謂夢遊歩行の現象は睡眠中に幽体が遊離してしかも意識がないのと同じであるという。

初歩の段階の離脱は大抵睡眠中に幽体から数フィートの高さまで硬直状態のまま上昇して、そこで直立し、それから床に降り立つ。そこでシルバーコードの波打つような動きで前後左右に揺れ、その内硬直状態がほぐれて自由な動きが出来るようになる。彼はそのシルバーコードに揺れる範囲を肉体から六ないし十八フィート(健康状態その他の条件によって異なる)と計算し、その時のコードの太さは直径1.5インチであるという。その長さを超えるとコードは淡灰色の細い紐となって見え、幽体は遠距離まで自由に行動出来るようになる。

よく肉体に戻る際に不快感を伴うことがあるが、その原因は、幽体が肉体に近付いた時点で再び硬直状態になり、更に肉体へ入って筋肉と結び付く時の衝動であると推定している。肉体への入り方には三つの型があるという。
①らせん運動による場合、②直線的の場合、③ゆっくりとした振動を伴う場合。この最後の③の場合が一番気持がいいという。この三種類になるのには二つの力が要因となっているという。一つはシルバーコードの引く力、もう一つは幽体への一種の重力作用である。その重力が強過ぎる時に直線的な入り方をし、弱過ぎる時にらせん運動となり、丁度よい強さの時に振動を伴ったものとなる、という。

こうした現象は離脱時にも生じる。その際に一番大切なのは感情のコントロールである。またマルドゥーン氏は幽体が離脱すると波長が高められると考えている。そう考えないと、同じく幽体を宿している生者の身体を突き抜けてしまう事実が証明出来ないというのである。

シルバーコードは幽体の後頭部から出て肉体の前頭部か後頭部と繋がっている。他の部分、例えば太陽神経叢(みぞおち)には観察されたことがないという。太陽神経叢の周りには〝神経エネルギー〟が凝縮しているのが見られ、白色光のような光を発していて、それが幽体に青光を与えている。

マルドゥーン氏は幽体離脱には〝超意識〟精神が働いていると想定する。また体験が意識的なものにせよ無意識なものにせよ、潜在意識によって影響されることがあるし、通常意識による暗示を受けたり、〝習慣による強制〟によって行動することもあるという。こうした原理に基づいて離脱の方法をいくつか述べている。

あるときマルドゥーン氏は道路ではだかの電線に触れて、もう少しで感電死しそうになり、そのショックで意識的な遊離体験をしたことがある。それ以来、彼は何回も同じシーンを夢で見るようになり、しばしば自室での離脱と結び付くこともあり、一度は数ブロックも離れているその感電場所まで再現されたという。こうした体験は、例えば非業の死を遂げた時のシーンが繰り返されるのを見るとかいった現象を解く鍵を与えてくれそうである。それを幽界の霊が見ている夢であるとする説明も出来ないことはない。

第12節 新しい研究
この分野もぼつぼつ大学教授によって取り上げられるようになってきた。その先駆けとなったのは(大学教授が中心となって結成された)英国心霊研究協会で、生者と死者の〝幽霊現象〟の中から信頼性の高いものを収集した。が、大学関係者に共通した唯物思考のせいで、幽霊現象は全て何らかの幻影であると見なされた。

近年ではホーネル・ハート教授が果敢にこの幽体離脱をテーマとして研究に取り組んでいる。教授はそれを〝ESPプロジェクション〟と呼んでいる。1959年に出版された「死後存続の謎」The Enigma of Survival by Hornell Hartの中で死後存続の問題との関連におけるESPプロジェクションの重要性を指摘している。

教授は155人の大学生を対象に調査した結果、42~27%の学生が体外遊離体験をしていることが明らかとなったと述べている。その内70%の学生が一度きりでなく複数回の体験をしている。こうした数字は離脱体験がけっして珍しい現象でないことを示している。

第13節 スピリチュアリズムの観点から
もしも肉体を離脱した人間が死者の霊と同じ状態にあるとすれば、当然、霊界通信と同じ情報が報告されてよいことになる。現にそれが実に豊富にあるのである。他界した人間に会ったとか霊の助けを得たとかいう報告もよく聞かれる。

1848年の近代スピリチュアリズム勃興以来、テーブル現象、ラップ、ウィジャ盤、自動書記、霊言等の手段によって死者からの通信が得られているが、同時に生者からの通信も得られている。心霊写真で生者の幽体が写ったこともあり、関係者を驚かせた。

更には、物理的心霊現象に生者が出現した例もある。ダベンポート兄弟によるテレキネス現象は二人の幽体によって起こされていたと言われた。1876年には霊媒エグリントンの幽体の物質化した足の型が石膏で取られた。また直接談話現象と物質化現象に関連して霊媒M・C・ウラセク女史の興味深い話がある。

ウラセク女史は自由自在に離脱が出来る人だった。1926年のことであるが、オハイオ州のトレドーへ列車で向かっていた車中で二晩続けて離脱に成功して、しかも最初の晩はある交霊会へ出て、少しではあったがメガホンで喋り(直接談話)二日目の晩は物質化現象の実験会場へ出て、背後霊の助けを借りて完全に物質化して出現し、列席者に話しかけた。全員が知人ばかりで、ウラセク女史であることを疑う者は一人もいなかったという。

大抵の霊媒は少なくとも時たま幽体離脱を体験しているものである。米国のアーサー・フォード氏は二週間もの間霊界を旅行した体験を書いている。そのとき彼は入院中で、身体は昏睡状態にあった。またオランダの物質化霊媒アイナー・ニールセン女史はスピリチュアリスト・チャーチで入神講演をしている最中での霊界旅行の話を書いている。珍しい条件下での体験である。最近では英国人霊媒バーサ・ハリス女史がやはり入院中の幽体旅行記を書いている。

私が親しくしている霊媒でやはり入神中に、つまり肉体が霊によって使用されている最中に霊界を訪ねて来た体験の持ち主がいるが、この人は更にこんな興味深い体験もしている。ある交霊会でのことであるが、ふと意識が戻ると、入神中の自分の身体を支配霊が使用して列席者の一人一人と挨拶を交わして回っているのが見えた。彼にはその霊の姿は見えたが、自分の肉体は見えなかったという。

第14節 一つの試論
こうした例から言えることは、肉体から離脱した幽体は必ずしも全部が同じ条件下にはいないということである。自分の肉体が見える人もいるし、見えない人もいる。シルバーコードが見える人もいるし、見えない人もいる。霊界のスピリットが見える人もいるし見えない人もいる。肉体から離れた時の幽体のバイブレーションの変化の程度が個人によってことごとく異なり、それに伴って霊的視力の程度も変化しているということであるらしい。このことは体験者の報告を検討する際に是非とも心得ておくべきことである。

さて、作業仮説として我々は少なくとも四つの身体の存在を認めねばならないであろう。すなわち物質体physical 幽体etheric 霊体astral 本体mentalの四種である(巻末注参照)。しかもそれぞれに紐(コード)がついている。肉体のコード(へその緒)は誕生時に切られる。幽体のコードは太さがほぼ一インチ程である。霊体のコードになるとクモの糸位の細さになる。本体のコードについては詳しいことは分かっていない。

本体は時として発光性の球体となって見えることがあるが、ある一定の条件下では肉体と同じ形体をとる。スカルソープ氏やU夫人もそれを観察しているし、他にもいくつか観察報告がある。

肉体的特徴が明瞭に再現されている場合とか、肉体と間違えるほど実質性を具え、その場に居合わせた人全ての目に映じるような場合には、幽体が主役を演じていると私は考えている。この際、肉体は大抵深い昏睡状態にあり、肉体も同時に活動していたというケースは滅多にない。シルバーコードに操られている範囲内での行動も幽体のせいである。私はこのコード範囲の行動を〝遊離〟excursionと呼んで区別することを提唱したい。

意識と記憶の問題はかなり複雑そうである。意識というのは最高の霊的原理、所謂〝神の火花〟なのかも知れない。だからこそ連続性があるのであり、何らかの形で記憶に留められていない時にだけ無意識になっているのであろう。四つの身体にそれぞれの形での記憶能力があり、相互関係もあるものと推定出来る。ただ、それが必ずしも正しく機能していないだけのことであろう。その記憶は本能や前世の記憶(再生が事実であると仮定して)と一緒に潜在意識に留められているのであろう。

こうした試論は観察された事実と一致していると思うからこそ述べられるのである。各身体の記憶には部分的ないし副次的意識があって、それが中心的意識によって支配されているのかも知れない。そう仮定すればバイロケーションも説明がつく。驚異的なスピードで働く思念には、それが可能と思われるのである。

以上、幽体離脱現象について概観してみたが、自然発生的なものから実験的なものまでの多面的なケースの全てを取り上げることは出来なかった。また麻薬や特殊な香料を使用した言わば人為的ケースについても論じていない。そうしたものも含めて、幽体離脱現象の研究を発展させる為には総合的な調査が必要であり、もっと多くの自然発生的ケースを検討し、もっと多くの実験を行なう必要があろう。

第15節 結語
幽体離脱を一度体験した人はその驚異的な開放感によって死後の存続への確信を抱き、以来、その確信は揺らぐことはない。この事実によって、所謂霊能養成会や精神統一その他の手段によって心霊的能力を開発することが重要であることが分かるし、同時に、その原理を日常生活において応用することも大切であることが知れる。

それは主観的側面であるが、心霊実験によって客観的な側面も知ることが出来る。両者を兼ね備えれば、デュ・プレルが“死後存続の証明は生者を研究することによって確立できる”と主張したその意図が達成されることになる。私はこの分野の科学的研究によって最後は人間の複雑な本性に大きな証明が当てられ、数多くの現象についての一層の理解が得られるものと確信している。

霊魂説を信じる者にとって科学的知識は全て一つの目標へ向けての手段の一つに過ぎない――人類の霊的発達という目的への一歩である。近代的交通機関の発達によって確かに地球は狭くなり、政治も国際貿易も世界的規模のものとなってきている。しかし霊的側面が遅れている。それは人類の大半が霊の客観的実在についての認識を欠いているからである。

一方には長い歴史をもつ伝統的宗教の教説(ドグマ)に執着している者がいる。人類を結び付けるどころか分裂の元凶となっているドグマである。そのドグマの矛盾撞着を解決し、世界平和の確固たる礎を築くことが出来るのは心霊科学の広大な分野において得られる確定的事実しかないように思える。

スピリチュアリズムは交霊会等の催しを通じて数え切れない程の人々に死後存続の証拠を提供したが、同時に、人間の本質と死後の生命についての確定的な知識が得られるのもスピリチュアリズムしかない。科学的志向の人間向けの一段と詳細な知識が着々と積み重ねられつつある。

こうした観点からみて私は、スカルソープ氏のこの体験記が広く世間に公にされることを嬉しく思う。これまでになかった知識を提供してくれると同時に、既に知られている事実に厖大(ぼうだい)な量の詳細な事実を加えてくれることになった。その詳細な情報こそ本書をこの上なく興味深いものにしている。

私のこのささやかな解説がこの分野における研究の重要性と普遍的な性格を知って頂く上で役立てば幸いである。

(原題 “Some Aspects of Astral Projection”by Dr. Karl Muller)

(注)人間の四種の身体について――訳者
人間が肉体以外に三種類の身体を具えていることは日本でも古神道で和魂、幸魂、奇魂という用語で出て来るが、浅野和三郎氏が心霊学の立場から確認してこれを幽体、霊体、本体又は神体と名付け、“四魂説”を唱えた(肉体は荒魂)。

その後西洋にも同じ説を述べる人が出始め、ルース・ウェルチ女史の「霊的意識の開発」にはイラストまで載っている。最早人間が肉体を含めて四つの身体から構成されているというのは確定的事実と言ってよいと思われるが、問題はその呼び方である。日本語ではほぼ浅野氏の呼び方に統一されていきつつあるが、英語ではどうも一定してないようで、それぞれの筆者がどの身体のことを言っているのかを見極めるのに苦労することが多い。読者にはあまり用語に拘り過ぎないようにお願いしておきたい。

ついでに言わせて頂けば、現段階の地上人類にとっては、人間は死後も生き続ける――従ってその為の霊的身体も具わっている、という基本的知識の普及が急務であって、その身体の詳細な分析的研究は急ぐことはないと私は考えている。

例えば内臓についての詳しい専門的知識を持つことは必ずしも健康と繋がるものではなく、むしろそんなことに拘らないで、邪念や心配を抱かない明るく積極的な精神状態の方が健康のもとであることが、古今東西を問わず真理であるように、霊的なことも、今述べた基本的なことだけを知って、後は数々の霊訓が教えてくれているような生き方に精励することである。

“知”に走り過ぎてはいけないというのはどの分野でも言えることである。〝科学的〟ないし〝実証的〟というのは無論大切な一面であるが、それのみに拘ると、かえって総体的には進歩を阻害することを指摘しておきたい。