喪失から悲嘆、そして絶望へ
家族を捨てるようにして父が死んだ。
父の為に、母も私も人生を捧げ尽くしてきた、その父が地下街
から地上へ上がる階段で転倒して、独りで死んだ。
「こんな最期があるか!」
この一言に尽きる。
これまで一緒に過ごしてきた50年間の家族としての"時"を、
ゴミ屑として屑箱に棄てられた。
家族だけでなく、自らの命もゴミ屑の様に屑箱に棄てた。
何故、こんな死に方をしたのか?
あれから3年、4年経った今でも、毎日自問自答している。
そして今この瞬間も、涙が悲嘆に追いつけないまま、その時から
私の時間は止まったままだ。
時間が癒せるような悲嘆は無い。
かけがえのない家族を突然に喪失すると悲嘆に暮れる。
その悲嘆はやがて絶望を生む。
悲嘆を受け入れ、絶望と共に新たな人生を生きる。
そうすれば、その絶望はやがて自分の一部になる。
人はなぜ落ちるのか?
這い上がるのを學ぶ為だ。
とある映画の台詞にあった。
父は這い上がる事は出来なかった。
自分はどうなのか?
この父の突然死からは、怒りも悲しみも隠すものだ、という事を
學んだ。
人と会う時はいつも時と場所に関わらず、常に笑顔を心掛ける。
誰にも共感したくないし、誰からも共感されたくはない。
そして、この絶望はやがて私の個性になる。
死者との対話を願うなら、孤独を恐れるな。
彼らは私達が独りの時に傍らにいる。
死者との邂逅を願うなら、悲しみから逃れるな。
悲しみは彼らが近づく合図だ。
死者と共にあるという事は、思い出を忘れないように日々を
過ごす事ではなく、死者と共に今を生きる事だ。
新しい歴史を積み重ねる事だ。
と、ある書籍にあった。
父は私が亡くなるまで、傍らに付き添うのかもしれない。
ありがとう。
【男性、50代】
2024.02.21
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