わからないことを わかったふりをすることなく
わからないのだということを
だから心のどこかで ひっかかっているということを
継続させる
これ!
素晴しい音が滋養となった週末であった。
plan Bにて、斎藤朋氏主宰の「ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン」の帰還」というイベントに出かける。イスラム神秘歌謡の巨星の追悼イベントで、第1部は斎藤氏によるパキスタンの風景のスライド・ショー。第2部はいとうせいこう氏と斎藤氏による対談。そして、第3部はこれまでのパフォーマンスのビデオであった。いとうせいこう氏いうところの「テクニックと無垢」の境地を究めているということ、ゆるぎなき勢いで歌も磨かれ、異質なものも取り込んだということのベースであったのは、やはり、ムスリムの信仰の一環として芸もあるという「芸教一致」ということなのだ。ゆるぎなき強さ。自らが歌うことが、信仰の一環であり、歌うことがより良く生きることであり、より良く生きるために歌う。そのループが揺るぎなさの所以であろう。
「何を根拠として歌うのか。」という問いは、「何を根拠として生きるのか」ということに通じる。「芸教一致」というところからは程遠いところから始めた中川の歌う活動。迂遠であろう。揺らぐであろう。しかし、自分なりに「芸」と「生きる」ことが合ってきて、表現者としての力が増すことにいずれは、つながるであろう。日々精進とはそういうことか。
芸能と宗教の分離、芸能と経済の結び付き。宗教と経済の結び付き。そういう経済社会の中で生きること。自分の状況はそういうことなのだ。ふわふわしているのが当り前なのであり、その時、その時のふわふわさ加減から逃げずに、その時、その時の在り方を表明し続ける。ごまかしようもないし、ごまかさない。余計なことをしているのではないかと不安で、不安で仕方なくなることもあるのだけれども、逃げず、ごまかさず、迂遠なるプロセスを続ける。
それにしても、ハルモニウムとタブラ、そして、手拍子。教の文脈で行われていることなのだろうけれども、教という文脈を媒介としてもっと奥底の何かに触れているゆえに、ひびいてくる。身体が自然に動いた。というわけで、CDを3枚買った。
ずうっと気になっていた場所。東高円寺U.F.O. Club(杉並区高円寺南1-11-6 ハーモニー・ヒルズ B1F:環7と青梅街道の交わる所の、北側&東側:ファミリーマートのあるビルの地下。毎日営業:21時から5時まで。電話:03-5306-0240)に本日、はじめて、中川R氏と出かけることができた。感激のあまり、レビューまがいまで書いてしまった。レビューと名乗ると、とても書けないことが、「レビューまがいなわけですので、感想過多でも勘弁、勘弁」と思って書ける、自分の感じ方。「イチオー」と通じるところがあるの鴨。
新宿のTower Recordsにて、「大熊亘ユニット Chicala Mvta」を買った。これまで、ライブで聴いた曲が入っている。木村氏と大熊氏の間の共通の音楽感覚は何なのだろうと思っていたのだが、それは篠田氏だったのかもしれないと、ふと、思った。
パスタな気分
日本雑文協会
東京では、夜明けあたりに烏が鳴く そんなことに気づくような時間帯に 起きていたくはなかったのに、 諸般の情勢でそういうことになってしまった。 仮眠後、再度、オフィスに向かう途中、 烏が生ごみを食い散らかしているのを見た 多くのごみ袋がやられているのを見た 人間の作ったささやかな秩序を烏は突き破る 烏が群れるているのを見ると恐怖を覚える やられやしないかと心配になる。 朦朧とした頭で心配になる。
眠い。 眠い。 眠い。 作業だから、こんな遅くまでやっているのだろうけれども、 こんな遅くまでばかりやっていると、作業しかできなくなって しまうのかもしれないのだろうけれど まあ、修行のようなことだと思おう。 先が思いやられる。 眠い。
井上陽水「九段」を買う。ざっと聴く。「ビルの最上階」が気にいる。たたみかける記述。
帰省。親とゆっくりと話した。それが必要な時であった。
身近なところに、不況の影響が現われた。「南無観世音」と何度も繰り返した。
ご参考:
yosui-request@dumbo.ai.kyutech.ac.jp 宛に '#join' を本文として、e-mail を 送ってください。
文芸春秋 四月特別号を「東大法学部卒は教養がない」という中吊広告に釣られて購入してしまう。
さいわいなことに、風邪をひいていない
見えることを見えるとおりに伝えたい
伝わらない
もどかしい、せつない、さびしい、かなしい
彼は仮病を使う
歌はウィルスのようなものでもあって
さまざまな人の心のなかで増殖し、繰り返され、変容される
嘘を嘘で飾り 嘘を嘘でまぎらわす 他愛のない嘘だ とりとめもない嘘だ さりげない嘘だ 取るにたらない嘘だ それは嘘だ そんなばかな 彼は今も嘘を 彼の嘘はやさしい 彼の嘘はしなやかだ
改心。
改心。
「叫び 2」をいただき、読了する。
本日、第三回の「土足厳禁」にでかける。14時から、21時まで。ふだん聴かない音を、横になったり、踊ったりしながら、存分に浴びる。今日は見知らぬお客さんも一人訪れていて、続けるとそういうご利益もあるのだと思う。近所で行われるイベントなので、今後も大切にしたい。立ち上がりから出かけ続けるイベントというものが、生きているうちにひとつやふたつあったっていいだろう。今日は、佐藤さんのDJの時に、ギターを弾かせてもらった。身の程知らずであった。不用意に過ぎた。何年早いというか、覚悟して対峙するという気持ちで向かう必要がある。ぼくの場合、それはギターというよりも声なのだろうか、歌なのだろうかと思う。佐藤さん、野崎さんともに、道を究めているという様子が伝わってくる。次回もいきたい。もっと、たくさんの人(せいぜい、のべ15人くらい)が来てもいいのになあ・・・と思いながら、今日は後片付けも手伝わず、帰ってしまった。帰ったら、幸せを感じる食卓がそこにあった。
コミック版「パラサイト・イブ」を昨日、読んだ。ミトコンドリアの意思。「らせん」と通じるものがある。いよいよ、バイオの時代か。
昨日、「タイタニック」を新宿で観る。信念をもつことの大切さを学んだように思う。Faith、信念。その源泉には、信仰のようなものがあるのではないかと感じる。
ひるむ、よどむ
舗道、ガードレール
闇に向かえ 心の中の
闇に向かえ 終ってしまう時
闇に向かえ 遠慮はいらない
闇に向かえ 気分は最悪かね?
98.03.07
街では奇妙な本が売れている。
拾遺というノリで「レッド・ツエッペリン 狂熱のライブ 永久の詩」を借りて見ている。ジョン・ボナムのドラムスがびしっと身体に来る。
こうやって、片言を綴っている。これを通して読むことで、何らかの人物像というものがイメージされるのだろうか。どんなイメージなのだろう。ぜひ、教えてください。
今朝、観たくてたまらなくなって、ピンクフロイドのパルスを観ている。日本でもドーム球場とかでやってもらえないものだろうか。映像と光線が神々しい。Learning to Flyを観ながら、感涙してしまった。
明日は、地下から空へ#6である。今回、新しい歌をふたつやる。
小説を読む時 ××でばたばたしているとき、 心に余裕がない時ほど、 小説を読みたくなってしまうのだ。 それも駅の売店で売っているやつである。 あるいは、平積みになっているやつである。 読んでいる間、その小説の世界にはまる。 読むのは、そういうたぐいのはまりやすいやつである。 読んだ後、結末がどうであったかを忘れてしまう。 思えば、最近、映画やビデオを見ても結末を忘れてしまっている。 読んでいるとき、見ているときは、その世界にはまるある種の爽快感がある。 その爽快感を得られるような作品を無意識のうちに選んでいるような気がする。 こういうのは「現実逃避」なのだろうか。 まあ、どう形容されようがかまわないのであるけれども、 駅の売店でそういうたぐいの文庫本が売れていて、 ロードショーでそういうたぐいの作品が入っていて レンタルビデオ屋でそういうたぐいのビデオはなかなか借りられない。 きっと、けっこう、そうとう、たくさんの人たちが その「現実逃避」とやらに時間とお金を費やしているのかもしれない。 「めまい」をしている間の自分の気分に金を出し、時間を使う。 「はまって」いる間の陶酔感やら自分の感覚やらに金を出し、時間を使う。
下北沢は密度の濃い街だ。
カトリック世田谷教会にいく。ミサというものにはじめていったもの。佐久間神父は久しぶりであった。まだ、感想を言葉にするには至らない。
「沈黙の艦隊」のビデオを借りる。
エヴァンゲリオン第11巻をみおわった。過去を振り返る形で経緯が徐々に厚みをましていく感じ。次を観ずにはいられなくなるというものだ。なるほど。
鈴木光司「らせん」を文庫本にて読み終る。「おおお」という展開である。おりしも、ロードショーで、「リング」「らせん」をやっているのである。映像に対しても期待が高まる。(ビデオで観ることになるであろうけれども)