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1984年以前と以後

ビック・ブラザーと私たち


ゲンナジー・ゲラシモフ


英国化学学会は、1946年の昔に書かれたジョージ・オーウェルのエッセイ「一杯のおいしい紅茶」に対して反論をした。オーウェルは、おいしい紅茶を淹れるため11の手順を推奨したが、英国化学学会はそのうち10項に同意している。けれども、食品科学研究所のデータを引用し、カップにはまず最初に若干のミルクを注ぎ、しかるのちお茶を注ぐべきであり、その方がこの飲み物に含まれているタンニンをより抽出できるとしている。一方、オーウェルは、カップの紅茶にミルクを注ぐよう主張していた。それぞれ、自分の方法のほうがより美味しいと言っているわけだ。

このエピソードは、卵を食べるのに、尖ったほうから始めるべきか、丸い方から始めるべきかという、スイフト的な意見の相違を思い起こさせる。これは同時に、全体主義の摘発者としてだけでは終わらない、オーウェルの現代性をも表している。

浮浪者 エリック・ブレア

今年の6月25日のオーウェル誕生日を前にして、イギリスの新聞「イヴニング・スタンダード」は、オーウェルに倣い、同社特派員デヴィッド・コーエンに寝袋、歯ブラシと、小銭の入った財布を持たせ、パリとロンドンに五日間派遣した。

1933年に、エリック・アーサー・ブレアの本「パリ・ロンドン放浪記」が刊行された。その時彼は、権威あるイートン校卒業生である自分たちの息子が浮浪者になってしまったことで、まっとうな両親を悲しませない為、初めて「オーウェル」という筆名を使った。筆名を選びながら、あるいは子供の頃から馴染んでいたオーウェルと言う名の小川を思い出していたかも知れない。

このルポルタージュで、オーウェルは、ベンチや、テームズ河や、セーヌ河の橋下で夜を過ごしてロンドンとパリのどん底生活をその内部から描き出した。60年後、「イヴニング・スタンダード」特派員は一体何を見たのだろう? それより酷くはないにせよ、全く同じ光景だった。オーウェルは、当時の人口統計を引用して、ホームレスの人数を2,061人としている。現在、その数は51,200人だ。ホームレスが、彼ら以外の人々に迷惑をかけない限りは、連中のことを、警察官は昔のように追い立てはせず、ホームレスはどこでも好きな所にねぐらをしつらえることができる。

オーウェルは、お茶について、あるいはホームレスについてのエッセイ、或いは英国料理擁護の声をあげる場合ですら現代的なようだ。彼は料理賛さえ書いている。とはいえ二冊の著作が無かったなら、オーウェルについての記憶は色褪せていたと想像することができるだろう。「動物農場」(1945年)と「1984年」(1949年)だ。この二冊は60カ国語以上の言語に翻訳されている。だが、さらには多くの評論家達が、スペイン内戦(オーウェル自身が参戦し、負傷した)に関する名著と見なしている「カタロニア讃歌」、イギリス人ジャーナリスト必読の「政治と英語」も付け加えるべきだろう。シンガポールの新聞「ストレート・タイムス」はこう書いている。「もしもジャーナリズムが、宗教団体であったならば、ジョージ・オーウェルは、その守護聖人にあたろう。」

言語についてのエッセイで、オーウェルは、政治的ステレオタイプはいけない、月並みな決まり文句という柵を乗り越え、起きている物事の本質を見るようにと、仕事仲間達に呼びかけている。オーウェルはまた、こうも警告していた。「政治の言語とは、嘘が本当のように聞こえるように、殺人が立派なことに見えるように、そしてそら言が当てになりそう思えるようにするものである。」テレビ画面に登場して論議している我が国の連中が連想される。もちろん全員というわけではないが。

オーウェル流のニュースピークはいくらでもある。例えば「管理資源」。実際の意味は、業務上の立場を個人的な目的の為に利用することだ。あるいは「法による独裁」。これは実際の所、官僚による独裁だ。あるいは「ブラックPR」。これは本当の所は、政治的な闘いで、中傷や卑劣な手段を活用することだ。これらと等価な「外貨換算表示」的なものに...歪曲された「権力の垂直線」...「政治技術」がある。これは、ふやけた選挙人どもの雁首のセットに、威厳というベールを与える表現だ。ずっと率直なのは、英語のいささか冗談めかした同義語「スピン・ドクター」だ。これは、信じやすい国民の頭を惑わせる連中、つまり「報道対策アドバイザー」のことなのだ。等々。

民主社会主義者ジョージ・オーウェル

寓話「動物農場」では、十月革命の歴史が、そしてその結果、偉業が達成されたことが、グロテスクに物語られる。彼の作品が1917年のボリシェビキ革命に対する批判であることに触れながら、オーウェルは同時にある手紙の中で、自分の風刺の狙いは、いつも、社会にとって「権力者の交代」で終わる「人民の権力を渇望し、あるいはそのこと自体の自覚さえなしに指導する、暴力的、陰謀的な革命」だったと述べている。

オーウェルの伝記の著者である、バーナード・クリック教授はこう付け加えている。「動物農場」は挫折した革命にたいする挽歌であり、スターリン主義者による老ボルシェビキの根絶と、ロシア革命の初期と結びついたあらゆる希望にたいする挽歌である。」

オーウェルは自らを「民主社会主義者」と考えていた。彼は反ソ主義者だったのではなく、反スターリン主義者だった。彼は、ミハイル・シャトロフの戯曲と、アナトーリー・ルイバコフの本が好きだった。

「ワシントン・ポスト」新聞の記事で、グレン・フランケルは、以下のようなエピソードを思い起こしている。アメリカ版の本の中で、オーウェルは有名な文章を書いた。「1936年以降に私が書いたものは、あらゆる行が、直接あるいは間接的に、反全体主義を意図している。」引用はここで終わる。オーウェルはさらにこう書いていた。「...そして私の理解する民主社会主義の為に書いている。」

ソ連という時代は終わったが、オーウェルは依然として現実的だ。ロレイン・デヴィッドソンはイギリスの新聞「デーリー・ミラー」に書いている。「2003年の北朝鮮は、ジョージ・オーウェル的には「1984年」だ。とはいえ、ロレインがいなくとも、読者自身、今日政治的カレンダー上で、この1984年はどこなのか地図上で見つけだせるだろう...

オーウェルは自分の文学的才能を過大評価せず、自らを時評家と呼んだが、BBCが行ったアンケート調査によれば、オーウェルの小説はチャールズ・ディケンズあるいはトールキンと並び、優れた英文学上位十作に入っている。また彼は、政治・社会評論家が使う隠喩と表現を、何年も先だって提供したのだ。連中はそれを自由自在に活用している。「ビッグ・ブラザー」、「ニュー・スピーク」、「ダブルシンク(二重思考)」、「すべてが平等であるが、ある者はほかの者よりももっと平等である。」

ワシントン政府筋が何度も市民の権利と自由を踏みつけたと考えた時に、アメリカの権利擁護主義者達は、「ビッグ・ブラザー」という隠喩を活用した。とりわけ1991年9月11日のテロ事件後の今。政権の口実は、あるいは原因とも言えようが、国際テロリズムとの闘いである。立法組織は、早々と議会で342行からなる法律「愛国者法」を採択した。この法律は、拘留、捜索、及び秘密の監視を含む「予防的対策」の採用に関し、政権に対してきわめて広範な全権を与えた。

市民は、警戒心を働かせるよう呼びかけられ、お互い密告するように奨励されている。このテーマに関する「ニューヨーク・タイムス」新聞の社説は「スパイの国?」という題だった。

問題は、自由と安全のバランスをどうとるかという点にある。

イギリスの週刊誌「エコノミスト」はこう纏めている。「オーウェルの声は、現在もなお、彼が生きていた当時と全く同じように響いている。」

2003年

この記事は、下記の翻訳です。2004年8月28日

http://orwell.ru/a_life/gerasimov/russian/r_gg


ロシアの雑誌「ノーボエ・ヴレミヤ」(=新時代)27号 2003年7月6日に掲載されたもの

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