中国・四国の城



63  鳥取城 64  松江城
鳥取城 松江城
  所在地   鳥取県鳥取市東町
  
別  名   −
  
城地種類 : 山城→平山城
  
築城年代 : 天文14年(1545)頃、慶長7年(1602)
 
 築城者   山名誠通(説あり)、池田長吉
 
 主要城主 : 武田氏、山名氏、吉川氏、宮部氏、池田氏(備中松山)、
              池田氏(岡山)、池田氏(鳥取)


 伝承によると、天文14年(1545)頃、因幡守護山名誠通が築いたとされる。天正9年(1581)、羽柴(豊臣)秀吉が大軍で兵糧攻めにし、城将吉川経家が将兵の助命を条件に自害した。関ヶ原の戦い後、池田長吉が入封し、大改修を行い、山頂の戦国時代の山城(山上の丸)と麓の近世城郭(山下の丸)という今日見られる縄張に整備、山頂に二重天守、山麓に三階櫓が建てられた。


  
 (1992年9月23日、2009年10月10日登城)

  所在地   島根県松江市殿町1−5
  
別  名   千鳥城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 慶長12年(1607)
 
 築城者   堀尾吉晴
 
 主要城主  堀尾氏、京極氏、松平氏

 慶長12年(1607)、堀尾吉晴が宍道湖を見下ろす亀田山に築城。慶長15年(1610)に築かれた黒塗の下見板張で覆われる荘重な外観五重内部六階の天守は山陰地方唯一の現存天守。二の丸の隅櫓群や本丸の多聞櫓の一部が再建され、かつての景観がよみがえった。


   (1992年9月24日、2009年10月11日登城)

 
65  月山富田城 66  津和野城
月山富田城 津和野城
  所在地   島根県安来市広瀬町富田2188
  
別  名   月山城、富田城
  
城地種類  山城
  
築城年代 : 平安時代?、鎌倉時代?、慶長5年(1600)
 
 築城者   不明、堀尾吉晴
 
 主要城主  尼子氏、毛利氏、吉川氏、堀尾氏

 創築は平安末期とも鎌倉初期ともいわれるが不明。城は標高197mの月山を利用し、戦国大名尼子氏代々の居城。永禄8年(1565)、毛利元就に攻められ、1年半に及ぶ籠城の末開城し、尼子氏は滅亡。慶長5年(1600)に堀尾吉晴が入城し、近世城郭に大改修したが、慶長16年(1611)、松江に居城を移したため廃城となった。花の壇の屋敷が復元整備されている。


  
 (2009年10月11日登城)

  所在地   島根県鹿足郡津和野町後田
  
別  名   三本松城、蕗城、
  
城地種類 : 山城
  
築城年代 : 永仁3年(1295)、慶長6年(1601)
 
 築城者   吉見頼行、坂崎成正
 
 主要城主  吉美氏、坂崎氏、亀井氏

 創築は永仁3年(1295)頃、鎌倉幕府が能登の豪族吉見頼行を派遣して築かせたといわれる。慶長6年(1601)、関ヶ原の戦いの行賞で入城した坂崎成正が、石垣を設け三重天守を建てた近世城郭へと大改築した。廃城時の取り壊しを免れた櫓2基が城下に現存。


   (2009年12月23日登城)
 
67  津山城 68  備中松山城
津山城 備中松山城
  所在地   岡山県津山市山下
  
別  名   −
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 慶長9年(1604)
 
 築城者   森忠政
 
 主要城主  森氏、松平(越前)氏

 関ヶ原の戦いの戦功により入った森忠政が元和2年(1616)に完成させた「一二三段」と呼ばれる構えの平山城。本丸の五重の層塔型天守を取り囲むように櫓と門を配していた。平成17年(2005)、築城400年を記念して備中櫓が再建された。


   (2009年6月13日登城)

  所在地   岡山県高梁市内山下1
  
別  名   −
  
城地種類 : 山城
  
築城年代 : 延応2年(1240)、慶長10年(1605)頃、天和元年(1681)
 
 築城者   秋庭重信、小堀政次・政一、水谷勝宗
 
 主要城主 : 秋庭氏、高橋氏、上野氏、庄氏、三村氏、毛利氏、小堀氏、池田氏、
              水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏


 秋庭重信が延応2年(1240)に築いたのが最初とされる。江戸時代になり、小堀政次・政一父子の修築を経て、天和年間(1681〜84)に水谷勝宗の大改修で最終的な城の形になった。二重二階の天守は現存する天守の中で最小。平成9年(1997)、本丸南御門をはじめ平櫓・土塀などが再建された。近世の三大山城にあげられている。


   (2009年6月13日登城)

69  鬼ノ城 70  岡山城
鬼ノ城 岡山城
  所在地   岡山県総社市奥坂、黒尾
  
別  名   鬼城山
  
城地種類 : 山城
  
築城年代 : 7世紀後半説が有力
 
 築城者   大和朝廷が有力
 
 主要城主 : −

 標高400mの鬼城山に築かれた神籠石系の古代山城。西門周辺では、版築土塁、高石垣、角楼などが復元されている。


   (2009年6月13日登城)

  所在地   岡山県岡山市丸の内2−3−1
  
別  名   烏城、金烏城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 大永年間(1521〜27)、元亀元年(1570)、慶長2年(1597)
 
 築城者   金光氏、宇喜多直家、宇喜多秀家
 
 主要城主 : 金光氏、宇喜多氏、小早川氏、池田氏

 旭川の西方の丘陵を城地とする平山城で、元々、金光氏の居城があったところ、元亀元年(1570)、宇喜多直家が略奪。その子秀家が、慶長2年(1597)に大改修し、五重六階の構造を持つ前期望楼型の天守を築いた。関ヶ原の戦い後に入った小早川秀秋や池田氏によって拡張整備が続けられた。天守は昭和20年(1945)の空襲で焼失。昭和41年(1966)再建された。


   (1980年、2009年3月7日、2012年2月10日登城)

71  福山城 72  郡山城
福山城 郡山城
  所在地   広島県福山市丸之内1−8
  
別  名   久松城、葦陽城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 元和5年(1619)
 
 築城者   水野勝成
 
 主要城主  水野氏、松平(奥平)氏、阿部氏

 元和5年(1619)、水野勝成が入封し、海陸路の要衝地の芦田川のデルタ地帯に築く。徳川幕府の西国経営の拠点として重要な位置づけを与えられる。京都の伏見城や、近くの神辺城の建物が移築されたといわれ、伏見城からの移築とされる伏見櫓が現存。天守は五重六階地下一階の層塔型で、北面の外壁が鉄板で覆われていた。明治維新後も天守など多くの建物が残ったが、ほとんどが昭和20年(1945)の空襲で焼失。昭和41年(1966)、天守などが鉄筋コンクリートで再建された。


   (2009年8月1日、2010年7月31日登城)

  所在地   広島県安芸高田市吉田町吉田字郡山
  
別  名   −
  
城地種類 : 山城
  
築城年代 : 延元元年(建武3年、1336)?、天文20年(1551)頃、
              天正年間(1573〜92)
 
 築城者   毛利時親?、毛利元就、毛利輝元
 
 主要城主 : 毛利氏

 14世紀中頃地頭として勢力を拡大しつつあった毛利氏が創築。16世紀中期に毛利元就が城の拡大強化を図った。山全体を城域として270もの曲輪をもつ西日本最大級の中世山城となった。元就の孫輝元は天正17年(1589)、近世城郭の広島城築城に着工し、天正19年(1591)に本拠を移した。


   (2010年2月27日登城)

 
73  広島城 74  岩国城
広島城 岩国城
  所在地   広島県広島市中区基町21−1
  
別  名   鯉城
  
城地種類  平城
  
築城年代 : 天正17年(1589)
 
 築城者   毛利輝元
 
 主要城主 : 毛利氏、福島氏、浅野氏

 天正17年(1589)、毛利輝元が太田川の三角州に築城。望楼型の五重五階の大天守に小天守2基を連ねた連結式天守をはじめ、数多くの櫓群が120万石の大名にふさわしい格式を誇った。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで輝元は萩へと移され、代わって福島正則が入ったが、幕府に無断で石垣を修築したため改易。その後入封した浅野氏が明治まで続いた。昭和20年(1945)の原爆によって倒壊した天守は、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリートで再建。平成6年(1994)には二の丸の表御門や太鼓櫓、平櫓などが再建された。


   (2010年1月30日登城)

  所在地   山口県岩国市横山3
  
別  名   横山城
  
城地種類 : 山城
  
築城年代 : 慶長6年(1601)
 
 築城者   吉川広家
 
 主要城主 : 吉川氏

 関ヶ原の戦い後、岩国へ転封された吉川広家が築く。錦川に面した横山山頂の城郭部分と、山麓にある居館で構成され、居館と城下は錦帯橋で結ばれていた。本丸に築かれた天守は四重六階で、南蛮造(唐造)と呼ばれた。しかし、一国一城令により、完成から7年で天守をはじめ山上の建物や石垣は破却された。天守は昭和37年(1962)、本来の場所から50mずらしたところに、古図を参考に再建された。


   (2010年1月30日登城)

 
75  萩城 76  徳島城
萩城 徳島城
  所在地   山口県萩市堀内字旧城1−1
  
別  名   指月城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 慶長9年(1604)
 
 築城者   毛利輝元
 
 主要城主 : 毛利氏

 毛利輝元が、関ヶ原の戦いで敗れ広島城を明け渡した後、慶長9年(1604)から同13年(1608)にかけて、日本海に島状に突き出た標高143mの指月山とその麓の三角州に築いた。幕末の文久3年(1863)に藩庁が山口に移されてからは城の重要性は薄れた。現在は天守台や石垣、堀のみとなって建物は残っていない。


   (1992年9月25日、2009年12月23日登城)

  所在地   徳島県徳島市徳島町城内1ほか
  
別  名   −
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代  天正14年(1586)
 
 築城者   蜂須賀家政
 
 主要城主 : 蜂須賀氏

 豊臣秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀家政が吉野川河口の渭山に築城。初代の天守は元和年間(1615〜24)に取り壊されたといわれ、その後天守は山頂の本丸ではなく、一段下がった東二の丸に建てられた。石垣は「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩で築かれているのが特色のひとつ。麓の「御屋敷」と呼ばれる部分には表御殿庭園が当時のまま残る。平成元年(1989)に大手門にあらえう鷲の門が再建された。


  
 (2009年3月7日、2012年1月7日登城)

77  高松城 78  丸亀城
高松城 丸亀城
  所在地   香川県高松市玉藻町2−1
  
別  名   玉藻城
  
城地種類 : 平城(海城)
  
築城年代  天正16年(1588)
 
 築城者   生駒親正
 
 主要城主 : 生駒氏、松平(水戸)氏

 羽柴(豊臣)秀吉の部将生駒親正が、天正16年(1588)に瀬戸内海に面した地に築城を開始した本格的な海城。本丸に建てられた天守は松平ョ重によって三重四階地下一階に改築された。天守は明治17年(1884)に取り壊されたが、月見櫓や艮櫓などが残っている。


   (2009年3月7日登城)

  所在地   香川県丸亀市一番丁
  
別  名   亀山城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 慶長2年(1597)、寛永19年(1642)
 
 築城者   生駒親正、山崎家治
 
 主要城主 : 生駒氏、山崎氏、京極氏

 生駒親正が慶長2年(1597)から同7年(1602)にかけて、丸亀平野の海抜66mの亀山に隠居城として築城。元和の一国一城令でいったん廃城となったが、その後入封した山崎家治が寛永19年(1642)から再建に取り掛かるも、跡継ぎがなく改易。その後の京極氏が城を完成させ、その三重の小規模ながら3段に積み上げられた石垣の上に築かれた風格ある天守が現存している。


   (1980年、2009年3月7日登城)

79  今治城 80  湯築城
今治城 湯築城
  所在地   愛媛県今治市通町3−1−3
  
別  名   吹揚城、美須賀城
  
城地種類 : 平城(海城)
  
築城年代 : 慶長7年(1602)
 
 築城者   藤堂高虎
 
 主要城主 : 藤堂氏、松平(久松)氏

 慶長7年(1602)、藤堂高虎が築城を開始、慶長13年(1608)に直線的な城壁で囲まれた曲輪に、高石垣と広大な水堀を巡らした城が完成。本丸には層塔型の五重天守が建てられた。この天守は高虎転封の際に解体され、その後徳川家に献上され、丹波亀山城天守となった。現在の天守は昭和55年(1980)に建てられたもの。平成2年(1990)には山里櫓が再建された。


   (2009年8月1日登城)

  所在地   愛媛県松山市道後公園
  
別  名   湯月城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 南北朝期、天文4年(1535)
 
 築城者   河野通盛?、河野弾正少弼通直
 
 主要城主 : 河野氏

 南北朝期初頭に初めて史料上に姿を見せ、室町期以降、河野氏の伊予統治の中心となった。天文4年(1535)に河野弾正少弼通直が2重の堀をめぐらしたより堅固な城とする。天正13年(1585)に秀吉の四国平定の際に城を明け渡し、河野氏の伊予支配は終わる。福島正則が伊予の大名として入部した後、廃城となったと思われる。現在、武家屋敷や土塀、道路、排水溝などが復元されている。


   (2009年7月31日登城)

81  松山城 82  大洲城
松山城 大洲城
  所在地   愛媛県松山市丸之内1
  
別  名   金亀城、勝山城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 慶長7年(1602)、寛永4年(1627)
 
 築城者   加藤嘉明、蒲生忠知
 
 主要城主 : 加藤氏、蒲生氏、松平(久松)氏

 関ヶ原の戦いの戦功により伊予を与えられた加藤嘉明が、慶長7年(1602)に築城を開始。勝山山頂に本丸をおき、麓に二の丸、三の丸を設けた。本丸の天守曲輪を構成する建物の多くは数度にわたる火災で焼失。現存する天守は、嘉永5年(1852)に再建されたもの。加藤氏の時代には城は完成せず、蒲生氏を経て松平氏の時代に完成した。


   (2007年2月10日、2009年7月31日登城)

  所在地   愛媛県大洲市大洲903
  
別  名   −
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 14世紀前半、慶長15年(1610)頃
 
 築城者   宇都宮豊房、脇坂安治
 
 主要城主 : 宇都宮氏、戸田氏、藤堂氏、脇坂氏、加藤氏

 14世紀前半の宇都宮豊房の築城に始まる。秀吉の四国平定後は戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と城主が入れ代わり、元和3年(1617)に加藤貞泰が入封した。城は肱川に突き出す地蔵ヶ嶽に築かれ、山頂には四重四階の層塔型天守が台所櫓と高欄櫓を従える連結式天守がそびえていた。明治維新の廃城は免れたが、明治21年(1888)に取り壊された。平成16年(2004)、古写真や天守雛型などを基に、木造で天守が再建された。


   (2009年7月31日登城)

83  宇和島城 84  高知城
宇和島城 高知城
  所在地   愛媛県宇和島市丸之内
  
別  名   鶴島城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 慶長元年(1596)
 
 築城者   藤堂高虎
 
 主要城主 : 藤堂氏、富田氏、伊達氏

 藤堂高虎が慶長元年(1596)から6年を費やし築く。高虎転封後、富田氏を経て、伊達政宗の庶長子秀宗が入り、明治まで続いた。高虎創建の天守は望楼型であったが、寛文6年(1666)に建てられた2代目天守は層塔型で、これが今も現存する。


   (2009年7月31日登城)

  所在地   高知県高知市丸の内1−2−1
  
別  名   鷹城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 慶長6年(1601)
 
 築城者   山内一豊
 
 主要城主 : 山内氏

 関ヶ原の戦い後、山内一豊が掛川より入封し、大高坂山に近世城郭として築城し、四重六階の天守を建てた。現存する天守は、享保12年(1727)の大火で焼失後、延享4年(1747)に望楼型天守として再建されたもの。天守に接続している本丸御殿は数少ない現存する御殿遺構として貴重。


   (2007年2月11日、2009年7月11日登城)



100名城以外の城


米 子 城   備中高松城   下 津 井 城
米子城 備中高松城 下津井城
 (鳥取県米子市久米町)

 天正19年(1591)ころ、吉川広家が築城を開始し四重天守を築くも、未完の状態で慶長5年(1600)に転封となった。新城主の中村一忠は幼少であったため、家老の横田内膳が補佐し、築城を続行、翌慶長6年(1601)に完成をみた。標高90mの湊山山頂に2基の天守が並び建つ本丸を置き、北西峰続きに内膳丸、その山麓に二の丸、一段低く三の丸が配された。慶長14年(1609)に一忠の急死で中村家は断絶、翌年に加藤貞泰が入城。元和3年(1617)には因伯領主・池田光政の一族の池田由之が米子城預かりとなり、寛永9年(1632)には荒尾成利が米子城預かりとなって、明治まで続いた。

 (岡山県岡山市北区高松)

 松山城主・三村氏譜代石川氏が築城。天正3年(1575)の備中兵乱で石川氏が滅んだ後、清水宗治が城主となる。天正10年(1582)織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めの先鋒を任され、高松城攻めにかかる。周囲を沼地に囲まれ、難攻不落を誇っていたが、城を築堤で囲み水没させた。世に言う「高松城水攻め」。ちょうどこの時、本能寺の変が起こり、秀吉は毛利氏と和睦、城兵の命と引き換えに清水宗治は自刃、秀吉は「中国大返し」を行い、明智光秀と対決すべく強行軍で引き返した。遺構は残っておらず、城跡は城址公園になっている。

 (岡山県倉敷市下津井)

 文禄年間(1592〜96)に宇喜多秀家が築城し、城主に家臣の浮田家久(遠藤秀清)を入れたといわれる。関ヶ原の戦い後に備前に入った小早川秀秋も、瀬戸内海の制海権を考えてこの城を強化し、家臣の平岡頼勝が居城した。慶長8年(1603)、池田忠継が岡山藩主となると、家老の池田長政が下津井城主となり近世城郭として整備を行った。長政が病没後、慶長14年(1609)に池田之助の長男で、池田輝政の甥にあたる由之が城代として利神城から移る。寛永9年(1632)には、由之の子で米子城代の由成が、岡山藩・鳥取藩国替えに伴い城代となる。寛永16年(1639)、一国一城令により廃城となった。城は、南に古来から瀬戸内の軍事・海運の要衝であった下津井の町並みを見下ろす標高89mの丘陵上にあり、西から西の丸、二の丸、本丸、三の丸、中出丸、東出丸が直線的に配される連郭式の縄張りで、本丸には天守が建てられていた。

三 原 城 一 宮 城 勝 瑞 城
三原城 一宮城 勝瑞城
 (広島県三原市城町)

 毛利水軍の拠点として、永禄6年(1567)頃、小早川隆景によって整備が始められた。豊臣政権下、隆景は筑前に移されるが、家督を秀秋に譲ると、三原城を隠居城とし、大改修を行った。関ヶ原の戦い後、安芸・備後49万石を領した福島正則は、広島城と三原城など6箇所の支城の大改修を行う。一国一城令後も、三原城は存続を認められ、元和5年(1619)、福島氏が改易され、浅野氏が広島を領有すると、筆頭家老浅野忠吉が入城し、以後明治まで、代々城主を務めた。現在、城跡の上にJR三原駅が設置されている。

 (徳島県徳島市一宮町)

 延元3年・暦応元年(1338)に阿波国守護の小笠原長宗によって築かれたとされる山城で、小笠原氏の一族・一宮氏が居城とし、戦国時代になると大規模に整備された。三好氏と長宗我部氏との戦いの舞台ともなり、天正10年(1582)、長宗我部元親の阿波侵攻の際に城主は謀殺され、一宮氏は滅亡した。また、天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐時には、豊臣秀長と長宗我部元親との攻防の舞台となり、この時一宮城は、元親の重臣・谷忠澄が守っていたが、秀長軍の猛攻を前に、結局開城することとなる。秀吉の四国平定後、阿波一国を与えられた蜂須賀家政が一宮城に入城し織豊系城郭として大改修を行うが、同時に徳島城の築城を開始。翌年、家政が徳島城に移ると、一宮城は徳島城の支城群であるいわゆる「阿波九城」の一つとなり、家臣の益田長行が城番として管理した。その後、元和元年(1615)の一国一城令により、寛永15年(1638)に廃城となった。
起伏の大きい山に占地しているため、そのピークごとに曲輪を構え、それぞれが独立した形に造られており、本丸のみ織豊系城郭の特徴である石垣で周囲を囲まれている。

 (徳島県板野郡藍住町勝瑞)

 室町時代の阿波国守護・細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、築城年代には諸説あるが、一説に正平18年・貞治2年(1363)に細川頼春によって築かれたとされる。細川氏によって守護所が、それまでの秋月から勝瑞に移され、守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。天文22年(1553)、細川氏の家臣・三好義賢が守護・細川持隆を殺害し、その実権を奪う。天正10年(1582)、土佐の長宗我部元親が十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せる。十河存保は中富川の合戦で長宗我部元親軍に大敗を喫し、勝瑞城に籠城するがやがて城は落ち、存保は讃岐へ敗走。以後廃城となった。北側の勝瑞城跡と県道を挟んでその南西側の勝瑞館跡を合わせた範囲が、勝瑞城館跡として国の史跡に指定されている。現在、北側の勝瑞城跡には、三好氏の菩提寺である見性寺が建ち、土塁と堀の一部が残る。


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