近 畿 の 城



49  小谷城 50  彦根城
小谷城 彦根城
  所在地   滋賀県東浅井郡湖北町郡上
  
別  名   −
  
城地種類 : 山城
  
築城年代 : 大永3年(1523)頃
 
 築城者   浅井亮政
 
 主要城主 : 浅井氏

 大永年間(1521〜28)、浅井亮政が琵琶湖を一望する小谷山に築城。浅井亮政・久政・長政3代の居城であった。長政は織田信長の妹お市を妻に迎え、勢力の拡大をはかった。しかし長政は元亀元年(1570)、朝倉攻めに出陣した信長に突然反旗を翻し、天正元年(1573)、信長によって小谷城は落城した。石垣や空堀、土塁などが残る。


   (2009年4月4日登城)

  所在地   滋賀県彦根市金亀町1−1
  
別  名   金亀城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 慶長9年(1604)
 
 築城者   井伊直継・直孝
 
 主要城主  井伊氏

 徳川四天王の一人、井伊直政が琵琶湖湖畔の磯山の地に城を築こうとしたことに始まる。直政の死で築城は計画のみに終わるが、子の直継が彦根山(金亀山)を城地と定め、慶長12年(1607)に天守などを完成させた。三重三階の華麗な装飾を施された天守は明治維新の廃城令も戦災もまぬがれ、国宝に指定されている。


  
 (2001年3月19日、2009年2月13日、2011年6月4日登城)

51  安土城 52  観音寺城
安土城 観音寺城
  所在地   滋賀県蒲生郡安土町下豊浦
  
別  名 :  −
  
城地種類 : 山城
  
築城年代 : 天正4年(1576)
 
 築城者   織田信長
 
 主要城主 : 織田氏

 織田信長が天下統一の拠点の城として、標高約198の安土山に築城した。五重七階の豪壮な天主や総石垣の普請、麓の城下町などは以後の城づくりにはかりしれない影響を与えた。
 本能寺の変後、天主などの建物は焼失し、現在は天主台や主要な郭の石垣を残すのみ。


   (2009年2月13日登城)

  所在地   滋賀県蒲生郡安土町石寺ほか
  
別  名   佐々木城
  
城地種類  山城
  
築城年代 : 建武2年(1335)?、文明3年(1471)?
 
 築城者   佐々木氏頼?(佐々木六角氏)
 
 主要城主 : 佐々木六角氏

 創築は明らかではないが、宇多源氏の流れを汲む近江国守護佐々木六角氏の居城で、「太平記」に記述が残る。文明3年(1471)頃から石垣・石塁による城づくりが進められたと思われる。永禄11年(1568)、織田信長の上洛の際、近隣の城を猛攻するすさまじさに、六角義賢・義治父子は城を捨てて逃げ出し、以後廃城となったとされる。繖山全体に多くの曲輪跡が残り、戦国時代最大級の規模の山城。


   (2009年2月13日登城)

53  二条城 54  大阪城
二条城 大阪城
  所在地   京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
  
別  名   −
  
城地種類 : 平城
  
築城年代 : 慶長6年(1601)、寛永3年(1626)
 
 築城者   徳川家康、徳川家光
 
 主要城主 : 徳川氏

 徳川家康が慶長6年(1601)、京都における儀礼施設として築城に着手。その後改築が行われ、家光のとき、後水尾天皇行幸を迎えるため本丸御殿と総塗籠の白亜の五重天守がつくられた。天守は寛延3年(1750)落雷で焼失。現存の二の丸御殿が徳川幕府の栄華を伝える。平成6年(1994)「古都京都の文化財」のひとつとして、世界文化遺産に登録された。


  
 (2001年10月6日、2009年3月20日登城)

  所在地   大阪府大阪市中央区大阪城1−1
  
別  名   錦城、金城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 天正11年(1583)、天和6年(1620)
 
 築城者   豊臣秀吉、徳川幕府
 
 主要城主 : 豊臣氏、松平氏、徳川氏

 豊臣秀吉が天下取りの拠点とすべく、水運の利に恵まれた上町台地に、天正11年(1583)に築城を開始。これが豊臣大坂城。天正13年(1585)には五重八階、黒漆塗の下見板と金箔瓦、金の飾り金具をつけた豪華な望楼型天守を完成させた。しかし、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、天守もろとも炎上。その後、徳川秀忠は徳川への政権交代を天下に知らしめるため、豊臣大坂城の縄張の上に盛土をし、石垣を積み直して城を築いた。そして寛永3年(1626)、秀吉の天守を上回る規模で白漆喰総塗籠の徳川大坂城天守が完成した。この天守も寛文5年(1665)に焼失。以来、昭和6年(1931)に復興されるまで天守は存在しなかった。この復興天守は、豊臣大坂城天守を模して、徳川大坂城の天守台上に建てられている。


  
 (2008年4月12日、2009年1月24日、2009年11月28日、2010年3月13日、
    2012年6月2日、2012年10月7日、2013年9月21日登城)

55  千早城 56  竹田城
千早城 竹田城
  所在地   大阪府南河内郡千早赤阪村千早
  
別  名   −
  
城地種類 : 山城
  
築城年代 : 元弘2年(正慶元年、1332)
 
 築城者   楠木正成
 
 主要城主  楠木氏

 鎌倉末期の武将楠木正成が金剛山一帯に築城した山城のひとつ。元弘3年(正慶2年、1333)、正成軍が千早城に籠城し、城を囲む鎌倉幕府の大軍に大石や大木を落としたり火攻めにするなどして善戦。その間に東国で挙兵した新田義貞が鎌倉幕府を滅亡へと導いた。その後、南北朝時代に城は北畠氏に攻められ落城し廃城となった。城跡には曲輪跡や空堀・堀切などの跡が残り、二の丸跡には千早神社が建っている。


   (2009年2月28日登城)

  所在地   兵庫県朝来市和田山町竹田字古城山169
  
別  名   虎臥城
  
城地種類 : 山城
  
築城年代  嘉吉年間(1441〜44)、文禄元年〜慶長5年(1592〜1600)
 
 築城者   太田垣誠朝?、赤松広秀
 
 主要城主  太田垣氏、桑山氏、赤松氏

 嘉吉年間(1441〜44)に山名宗全が家臣太田垣氏につくらせたのが始まり。羽柴秀吉の但馬攻めで落城した後は赤松広秀が入り、現在見られるような総石垣の城に修築した。しかし、広秀は鳥取城攻め失敗の責により徳川家康から切腹を命じられ、廃城となった。縄張は標高354mの古城山の山頂部に、羽を広げた鳥のような形で曲輪が配されている。


   
(2009年3月20日登城)

57  篠山城 58  明石城
篠山城 明石城
  所在地   兵庫県篠山市北新町2−3
  
別  名   桐ヶ城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 慶長14年(1609)
 
 築城者   徳川家康
 
 主要城主  松平(松井)氏、松平(藤井)氏、松平(形原)氏、青山氏

 慶長14年(1609)、徳川家康が大坂城の豊臣氏にそなえて、大坂や京都から山陽や山陰へ通じる交通の要衝に築城した。本丸と二の丸はすべて高石垣で囲まれ、その外側に三の丸と堀が巡る。平成12年(2000)に大書院が再建された。


   (2009年3月20日登城)

  所在地   兵庫県明石市明石公園1−27
  
別  名   喜春城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 元和5年(1619)
 
 築城者   小笠原忠真
 
 主要城主  小笠原氏、松平(戸田)氏、大久保氏、松平(藤井)氏、本多氏
              松平(越前氏)

 松本城主だった小笠原忠真が元和3年(1617)に明石の地に入った。翌年、西国諸大名に対する監視とそなえとして、徳川秀忠より築城の命が下り、元和5年(1619)から1年間で明石海峡を望む丘陵端に築城した。本丸に巨大な天守台が築かれたが天守は建てられなかった。2基の三重櫓が修復されながらも現存。


   (2009年1月24日、2009年11月7日、2011年7月16日登城)

59  姫路城 60  赤穂城
姫路城 赤穂城
  所在地   兵庫県姫路市本町68
  
別  名   白鷺城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 天正8年(1580)、慶長6年(1601)
 
 築城者   羽柴(豊臣)秀吉、池田輝政
 
 主要城主  豊臣氏、池田氏、本多氏、松平(奥平)氏、松平(越前)氏、榊原氏、
              酒井氏


 創築は南北朝の初めとされる。羽柴(豊臣)秀吉が三重の天守を築いて近世城郭として整備し、姫路城と改称。今日に残る城の形にしたのは池田輝政で、9年の歳月を費やし、慶長14年(1609)、五重六階地下一階の大天守に3基の小天守を結んだ天守群を中心に、多くの櫓と門が並び建つ大城郭を築き上げた。その後、本多忠政が西の丸などを増築した。平成5年(1993)、世界遺産に登録された。


   (2007年9月7日、2009年1月24日、2009年11月7日、2011年4月2日、
    2013年10月12日登城)


  所在地   兵庫県赤穂市上仮屋
  
別  名   加里屋城、仮屋城、苅屋城、蓼城
  
城地種類 : 平城(海城)
  
築城年代 : 慶安元年(1648)
 
 築城者   浅野長直
 
 主要城主 : 浅野氏、永井氏、森氏

 創築ははっきりしないが、浅野長直が、三角州の先端という要害の地にあった陣屋を、慶安元年(1648)に着手した工事によって近世城郭に整備した。天守台は築かれたが、幕府の許可が下りず、天守は築かれなかった。昭和58年(1983)からの発掘調査に基づき、本丸門や本丸庭園などが復元整備されている。


   (2009年1月24日、2009年11月7日登城)

 
61  高取城 62  和歌山城
高取城 和歌山城
  所在地   奈良県高市郡高取町高取
  
別  名   芙蓉城
  
城地種類  山城
  
築城年代 : 元弘2年(正慶元年、1332)頃、天正13年(1585)
 
 築城者   越智邦澄、本多利朝
 
 主要城主 : 越智氏、本多氏、植村氏

 吉野山系の標高583mの山頂に築かれた山城。城の起源は南北朝時代に越智邦澄によって築かれたといわれている。一時廃城となるが、筒井順慶の復興の後、本多太郎左衛門・利朝父子が、本丸上段の曲輪に三重の天守がそびえ、27基もの櫓を備えた巨大な近世城郭へと修築。近世の三大山城にあげられている。


   (2009年2月14日、2010年2月6日登城)


  所在地   和歌山県和歌山市一番丁3
  
別  名   竹垣城、虎伏城
  
城地種類 : 平山城
  
築城年代 : 天正13年(1585)、慶長5年(1600)、元和5年(1619)
 
 築城者   羽柴(豊臣)秀吉、浅野幸長、徳川頼宣
 
 主要城主 : 羽柴(豊臣)氏、桑山氏、浅野氏、徳川氏

 天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が居館を築いたのに始まる。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの功績により入った浅野幸長が大改築を行い、さらに元和5年(1619)に入城した家康の第10子頼宣が、三重三階の大天守と小天守・乾櫓・ニの門などが多聞櫓で結ばれた連立式天守の城へと大拡張を行った。嘉永3年(1850)に再建された天守は第2次世界大戦で焼失。昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造で再建された。


   (1996年6月1日、2009年2月28日登城)



100名城以外の城


長 浜 城 水 口 城 水口岡山城
長浜城 水口城 水口岡山城
 (滋賀県長浜市公園町)

 天正元年(1573)に、羽柴(豊臣)秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に今浜と呼ばれていた地を長浜に改名。小谷城で使われていた資材などを使用し築城を開始した。 本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが元和元年(1615)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された。れている。現在、模擬復元された天守が市立長浜城歴史博物館として建っている。

 (滋賀県甲賀市水口町水口)

 寛永11年(1634)、徳川幕府が3代将軍家光の京都への上洛の際の宿館として築城させた。城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれた。しかし、この御殿が将軍の宿舎として使われたのは、この家光上洛の1回限りで、その後は、幕府の任命した城番が管理する番城となった。4代家綱以降将軍家の上洛は途絶したため、その意味が薄れ、天和2年(1682)に加藤明友が2万石で入城し、水口藩が成立した。明治維新により廃城となった。現在、東出丸部分に櫓や門を模した資料館が建てられている。

 (滋賀県甲賀市水口町水口)

 
戦国期、甲賀郡の地侍層は、甲賀郡中惣と呼ばれる同盟関係を結んで相互の結束を固め、彼らの城郭が密集して存在していたが、郡中惣は、永禄10年(1567)、織田信長の侵攻に伴って弱体化し、その後、信長、羽柴秀吉に属するが、天正13年(1585)、紀伊太田城水攻めの際に落ち度があったとして、秀吉によって解体されてしまった。その後、秀吉の家臣・中村一氏が甲賀郡に入封。秀吉の援助を受けて、本格的な拠点城郭として大岡山(古城山)に水口岡山城を築いた。天正18年(1590)、一氏が駿府城に転封となると、増田長盛が入城。ついで文禄4年(1595)には長束正家が入城する。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、正家は西軍方となって敗れて自刃し、水口岡山城も東軍に接収され、やがて廃城となる。寛永11年(1634)、徳川氏によって水口岡山城の西方約1kmのところに水口城が築かれ、築城にあたり、大岡山(古城山)からも石垣が搬出された。城は、比高約100mの大岡山(古城山)を中心に築かれ、山上には5つの大きな曲輪が並び、その周囲に帯曲輪、腰曲輪が広がっている。現在、城跡の主要部は県立自然公園郷土の森となっている。

膳 所 城 八 幡 山 城 佐 和 山 城
膳所城 八幡山城 佐和山城
 (滋賀県大津市本丸町)

 慶長6年(1601)から徳川家康の命により築城が始まる。譜代大名が歴代の城主として入り、京都守護の最前線として重要な役割を果たす。琵琶湖の水面にせり出した本丸が特徴的な城で、典型的な水城であった。明治3年(1870)に廃城となる。現在、本丸部分は膳所城跡公園となっている。複数の城門が近隣の神社に移築され現存する。

 (滋賀県近江八幡市宮内町)

 天正13年(1585)、紀州攻めや四国攻めなどの戦功により、近江43万石を与えられた、豊臣秀吉の甥であり猶子であった豊臣秀次によって、琵琶湖東岸に位置する標高283mの八幡山(鶴翼山)に築かれた山城。山頂に位置する本丸を中心とした主郭部と、中腹の標高約130mの地点に配された居館からなる強固な城構えとなっている。天正18年(1590)、小田原攻めの戦功で秀次が尾張清洲城に移ると、代わって京極高次が入城。しかし、その高次も、5年後の文禄4年(1595)に大津城へ移ったため、廃城となった。同じくこの年、秀次は秀吉の逆鱗に触れ、高野山で自刃させられた(秀次事件)。山頂の山城部分は、総石垣造りりで、本丸、二の丸、北の丸、西の丸、出丸がY字形に延びる放射状に配置されている。居館部分は2本の尾根に挟まれた谷筋の中腹の空間に平坦地を設けて配置され、八幡堀付近から居館部分最高所に位置する秀次館まで大手道が伸び、その両側には雛壇状に家臣団屋敷群が広がっていたという。

 (滋賀県彦根市古沢町・佐和山町)

 
鎌倉時代初期、近江守護となった佐々木定綱の六男・佐保時綱が佐和山の麓に居館を構えたのが始まりと伝えられる。その後、佐々木氏は六角氏と京極氏に分かれて対立。両勢力の間で攻防が繰り返された。戦国時代に入ると、京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開され、戦国時代後期になると、六角氏勢力は衰退し、佐和山城は浅井氏の支城となる。元亀元年(1570)の姉川の合戦後、浅井氏を破った織田信長は重臣の丹羽長秀を配し、安土築城までの間、近江制圧の拠点として利用した。天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が横死し、後継者となった羽柴秀吉は、翌年佐和山城に堀秀政を入れた。天正13年(1585)、秀政が越前北ノ庄に転封となると、堀尾吉晴が入城。さらに天正18年(1590)、吉晴が遠江浜松に移ると、五奉行筆頭の石田三成が入城し、砦規模の城を、本格的な城郭として整備した。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで三成が敗れると、徳川家康は小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃、激戦の後、落城する。関ヶ原の戦いの論功行賞で、井伊直政に佐和山城が与えられたが、新たに彦根城築城を計画する。しかし、その最中の慶長7年(1602)、直政が死去。嫡子の直継が計画を引き継ぎ、慶長11年(1606)、完成した彦根城天守に直継が移ったことに伴い、佐和山城は廃城となった。三成時代の城は、山上に本丸以下、二の丸、三の丸、太鼓丸、法華丸などが連なり、山下は東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷、足軽屋敷、町屋などの城下町が建設されていたという。

大 溝 城 淀  城 福 知 山 城
大溝城 淀城 福知山城
 (滋賀県高島市勝野)

 
天下統一を目指す織田信長が甥の織田信澄に、琵琶湖を挟んで安土城の対岸に当たる高島の地へ築かせた水城で、明智光秀が縄張を担当したと伝承されている。信澄は、町屋や寺院などを移して城下町をつくり、高島郡の開発・発展に尽力したが、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起こると、明智光秀の娘婿であったことから内通が疑われ、大坂で自害する。信澄の後は、丹羽長秀、加藤光泰、生駒親正、京極高次と目まぐるしく城主が入れ替わる。その後、江戸時代に入り、元和5年(1615)、伊勢国上野より分部光信が2万石で入封し大溝藩となるが、一国一城令のため大溝城の三の丸に陣屋を構え、以後代々続いて明治に至る。当時は二の丸、三の丸を構え、琵琶湖の内湖である洞海(乙女ヶ池)を巧みに利用した内堀があって、本丸が湖上にそびえる浮城のような光景であったというが、現在は本丸の天守台跡石垣が残るだけである。

 (京都府京都市伏見区淀本町)

 伏見城の廃城に伴い、徳川2代将軍秀忠が、かつて淀殿が住んだ淀古城址の対岸に、松平越中守定綱に命じ築城させた。元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工し、定綱が入封した。築城に際し、伏見城の石材が流用され、当初は伏見城の天守も移す予定であったが、一回り小さい二条城の天守を移築したため、天守台と天守が整合せず、天守台の四隅に櫓を設けて外観を調整したという。寛永10年(1633)には永井尚政が入封、その後、寛文9年(1669)に石川憲之、正徳元年(1711)に松平(戸田)光熙、享保2年(1717)に松平(大給)乗邑と譜代大名が入城し、享保8年(1723)に稲葉正知が入封すると、明治まで稲葉氏の居城となる。

 (京都府福知山市内記)

 織田信長に丹波攻略を命ぜられた明智光秀が、天正年間(1573〜92)に新たに城を築いたのが始まりとされる。光秀は女婿の秀満を城主とした。関ヶ原の戦い後は有馬豊氏が入城し、大規模な改修・拡張が行われた。寛文9年(1669)に朽木氏が入封すると、以後明治まで続いた。昭和60〜61年(1985〜86)に、松平(深溝)氏在城期の絵図などを基に、天守・小天守が再建され、内部は郷土資料館となっている。また、元は二の丸の登城路にあった銅門番所が本丸跡に移築され現存する。

勝 龍 寺 城 鹿 背 山 城 丹後 田 辺 城
勝龍寺城 鹿背山城 丹後田辺城
 (京都府長岡京市勝竜寺)

 暦応2年・延元4年(1339)に細川頼春が京都へ進出してくる南朝方に対抗するため築いたといわれ、応仁の乱のとき、畠山義就によって修築された。永禄11年(1568)に織田信長が上洛し、西岡一帯を攻略、細川藤孝に城が与えられた。天正6年(1578)に明智光秀の娘玉(後の細川ガラシャ)が藤孝の長男・忠興に嫁ぎ、3年間勝龍寺城で過ごした。本能寺の変直後は一時明智光秀に属したが、山崎合戦後に廃城になったといわれる。現在、城址は勝龍寺城公園として整備されている。

 (京都府木津川市鹿背山)

 築城時期や築城者について定かではないが、文治4年(1188)頃、地元の領主であった木津氏によって築かれたと推定される。15世紀には南都興福寺の北方防御の拠点として史料上に登場し、古市氏以下興福寺傘下の武将がしばしば入城する。応仁・文明年間の争乱期には、東西両軍による木津荘の争奪戦が行われ、文明2年(1470)には畠山義就に攻められ落城している。その後、永禄5〜11年(1562〜68)にかけて、大和国北半部を勢力下に置いていた松永久秀が、多聞山、信貴山、龍王山とともに拠点として重視し、山城国方面への押さえとして大修築したと推定される。大手道脇の竪堀や城域の西北・東南2箇所の畝状空堀群などが良好に残る。

 (京都府舞鶴市南田辺)

 田辺城は、丹後守護・一色氏を滅ぼした功績として、織田信長から丹後の国をあてがわれた細川藤孝(幽斉)が、伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に、天正8年(1580)、子・忠興とともに縄張りし、丹後支配の本拠とすべく築城したのがはじまり。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前哨戦で、籠城した藤孝(幽斉)が、「古今伝授」の縁で勅命により開城したことで知られる。関ヶ原の戦いの後、細川氏は豊前に加増転封となり、替って京極高知が入封。寛文8年(1668)には牧野親成が入り、以後、牧野氏の居城として明治まで続いた。現在、本丸部分が舞鶴公園として整備されており、模擬櫓や本丸櫓門が復興されている。

園 部 城 丹波 亀 山 城 岸 和 田 城
園部城 丹波亀山城 岸和田城
 (京都府南丹市園部町小桜町)

 元和5年(1619)、小出吉親が但馬出石から入封し、園部盆地の小麦山東側台地上に築城された。当初は方形の本丸を中心に、周囲を家臣屋敷が囲む陣屋形式であったが、小麦山を取り囲む外堀は2kmに及び、内堀や中堀も設けられ、陣屋とはいえ、城の様相を呈していたという。江戸時代を通して、小出氏10代の居城として存続した。幕末の慶応4年(1868)、戊辰戦争に際し、万一の事態を想定して園部を天皇避難の行在所と定めた新政府は、「帝都御守衛」のためとして築城を命じ、すぐさま陣屋は大改修され、背後の小麦山に天守代用となる三階櫓が上げられるなど、櫓門3箇所、櫓5箇所の普請が行われ、園部城としての体裁が整えられた。維新政府が造らせた「日本で一番最後の城」ということになる。明治4年(1871)7月の廃藩置県で園部藩が廃止され、翌5年(1872)には多くの建物が取り壊され。
現在、本丸跡は京都府立園部高等学校の敷地となっており、櫓門、番所、巽櫓、塀の一部が現存している。

 (京都府亀岡市荒塚町)

 織田信長の命で天正3年(1575)に丹波に入った明智光秀が、その攻略の拠点として、天正5年(1577)頃から築城した。天正7年(1579)の丹波平定後、そのまま丹波経営の拠点となるが、天正10年(1582)、光秀は本能寺の変を起こし、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れる。その後、秀吉の時代には、その重要性から一門の羽柴秀勝、豊臣秀勝、豊臣秀俊(小早川秀秋)が入り、文禄4年(1595)には五奉行の一人・前田玄以が領した。関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)、玄以の跡を継いだ茂勝が丹波八上城へ移封となり、亀山城は徳川直轄となって、城代官の北条氏勝が在城した。慶長14年(1609)、豊臣氏の大坂城を包囲する目的でこの城を重要視した徳川家康は、譜代の岡部長盛を入封させ、さらに天下普請により西国大名を動員して、近世城郭として大修築を行う。藤堂高虎が縄張りし、本丸には五重の層塔型天守が上げられた。その後は、松平(大給)氏、菅沼氏、松平(藤井)氏、久世氏、井上氏、青山氏と城主が替わり、寛延元年(1748)から松平(形原)氏が8代続いて明治へ至る。明治6年(1873)、廃城となる。現在、城跡は宗教法人大本の敷地となっており、破壊後に信徒の手で復元された本丸跡の石垣が見られる。

 (大阪府岸和田市岸城町)

 天正13年(1585)に豊臣秀吉の家臣小出秀政によって築城。本丸・二の丸によって構成された城は、その後、元和5年(1619)に松平康重が城主となり、伏見城の門と櫓を移築、寛永17年(1640)には岡部宣勝が入部し、外曲輪を造るなどした。五重の天守をもつ本丸の隅に櫓を設け、二の丸には御殿が建てられた。現在、本丸には内部が資料館になっている模擬天守と隅櫓、櫓門が建てられている。

下 赤 坂 城 高 槻 城 烏帽子形城
下赤坂城 高槻城 烏帽子形城
 (大阪府南河内郡千早赤阪村森屋)

 元弘元年(1331)、楠木正成は後醍醐天皇を迎える予定で下赤坂城を築城。 約1ヶ月の篭城の後、鎌倉幕府軍により笠置山は陥落、正成の居る千早赤坂を目指した後醍醐天皇は捕らえられ、正成は、護良親王を奉じてこの地で倒幕の兵を挙げた。遺構が残っておらず、本丸の場所についても、中学校の裏手とする説と、千早赤阪村役場の裏手とする説の2説がある。

 (大阪府高槻市城内町)

 
10世紀末に近藤阿刀連忠範が久米路山を本拠として居館を構えたのに始まる。延元元年(1337)には、足利尊氏の命により入江春則が入城し、以後12代続く。その後、永禄12年(1569)に、入江春継を追放した織田信長の武将・和田惟政が入城し、城の基礎を築く。元亀2年(1571)、惟政が戦死し、子の惟長が城主を継承するが、天正元年(1573)に、キリシタン大名として知られる家臣の高山飛騨守・右近父子により追放され、右近が城主となった。本格的な城郭となるのはこの右近の改築によるものであり、城内に天主教会堂が建てられ、宣教師を招くなどして、キリスト教布教の拠点として城下町を整備、セミナリオを中心に城下は最盛期を迎えた。しかしながら、天正15年(1587)の豊臣秀吉のバテレン追放令後、右近は城主の座を失い、文禄4年(1595)に新庄直親が城主となる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、直親は西軍に与したため改易となり、高槻城は徳川幕府の直轄地となる。その後、元和元年(1615)に内藤信正、同3年(1617)には土岐定義が城主となり、定義の時に幕府の命により本丸と二の丸が修築された。元和5年(1619)に松平(形原)家信が入封。寛永13年(1636)には岡部宣勝が入封。寛永17年(1640)に家信の子・松平(形原)康信に城主が替わり、慶安2年(1649)に永井直清がが入封すると、以後、永井氏が13代続いて明治に至る。明治以降、城郭は破却され陸軍用地や学校敷地となって城跡は埋没してしまった。

 (大阪府河内長野市喜多町)

 築城年代は不明であり、伝承では楠木正成が上赤坂城の支城として築城した、いわゆる楠木七城の一つといわれるが、その確証はない。室町時代・戦国時代には義就流畠山氏と政長流畠山氏の間で争奪戦が行われ、元亀年間には、キリシタン大名でこの地域の有力な武士であった甲斐庄正治が入った。畠山氏の滅亡後、正治が徳川家康の家臣となって遠江へ移ると、天正12年(1584)、羽柴秀吉は根来攻めの拠点として、岸和田城主である中村一氏に烏帽子形城の改築を命じる。その後、大坂の陣で正治の子・正房が、幕府方として河内の道案内を行ったことにより、甲斐庄氏は戦後加増され、旗本として再び故地である烏帽子形城に戻ってくるが、大規模なこの城を維持できず、元和3年(1617)に廃城処分にした。城は、石川本流と天見川の合流点のすぐ南の標高182mの丘陵尾根部に所在し、城の東麓には京・堺と紀伊とを結ぶ高野街道が走る交通の要衝に位置する。規模は,南北約140m、東西約160mで、丘陵頂部に主郭と腰郭となる曲輪を配置し、これを中心に「コ」の字状に堀と土塁が巡らされている。

有 岡 城 龍 野 城 洲 本 城
有岡城 龍野城 洲本城
 (兵庫県伊丹市伊丹)

 鎌倉時代末期、伊丹氏により築かれたと伝わる。戦国時代末期の天正2年(1574)、荒木村重が伊丹氏に替わって伊丹城の領主となり、有岡城と改め、大改築を施した。侍屋敷、町屋を堀と土塁で囲んだ惣構えの城で、難攻不落の名城とうたわれた。しかし、村重が主君の織田信長に背き、大軍の攻撃を受けることとなる。籠城10か月で城主・村重は城を脱出、天正7年(1579)に落城し、その後、廃城となった。現在は、本丸跡の一部分が小公園として整備されている。

 (兵庫県たつの市龍野町上霞城)

 龍野城は、中世戦国時代の山城と、近世に築かれた山麓の平山城の二期に分けられる。山城は、明応8年(1499)に赤松一族によって築かれたと伝わり、赤松村秀が最初の城主として、この地を治めた。赤松氏は4代78年続くが、天正5年(1577)、織田信長に播磨攻めを命じられた羽柴秀吉軍に攻められ、戦わずして城を明け渡し、秀吉の軍門に下る。その後、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政など、秀吉配下の重臣たちが城主となった。徳川の時代となると、播磨一国は池田氏の領地となり、龍野には城代が置かれた。元和3年(1617)、姫路城に本多忠政が入ると、龍野には二男政朝が配置されたが、兄・忠刻の死により、姫路城主に移り、その後、小笠原長次、岡部宣勝、京極高和が城主として入城する。万治元年(1658)に京極氏が讃岐丸亀へ移封となると、城は破却され、一時幕領となった。寛文12年(1672)、幕命により信州飯田から脇坂安政が入封し、鶏籠山麓に御殿を建造し龍野城を再建。以後、明治まで脇坂氏が10代200年に渡り続いた。現在、山麓の城跡には城壁、多聞櫓、埋門、本丸御殿、鍜坂門、模擬隅櫓などが整備されており、鶏籠山山頂の山城には赤松氏時代に築かれた石垣などの遺構が見られる。

 (兵庫県洲本市小路谷)

 洲本港に臨む標高133mの三熊山頂の「上の城」と山麓の「下の城」と呼ばれる居館部分からなる。永正年間(1504〜21)に熊野灘を拠点とする水軍の安宅氏が築いたのがはじまりとされる。天正9年(1581)安宅氏が滅亡すると、洲本城は羽柴秀吉の四国攻めの拠城として、翌10年(1582)に菅平右衛門尉、ついで仙石秀久が配置された。天正13年(1585)、仙石秀久が讃岐高松へ移封となると、脇坂安治が入城し、24年間の在城中に本格的な石垣の城を築いた。慶長14年(1609)、脇坂氏が伊予大洲へ転封となると、藤堂高虎が城代を置き、同15年(1610)に池田輝政が淡路領主となるが、輝政の三男・忠雄は由良城を築いて居城としたため、洲本城は廃城となる。元和元年(1615)、大坂の陣の功により、阿波の蜂須賀至鎮に淡路が加増され、淡路は徳島藩領に属することとなる。寛永7年(1630)、蜂須賀忠英は、由良が地理的に不便なため、洲本への政庁移転を願い、幕府がこれを許可。翌8年(1631)、三熊山麓に居館(「下の城」)を新築し、城下町を整備。由良城を廃して洲本に戻る、いわゆる「由良引け」が実施された。城代には徳島藩の主席家老の稲田氏が任じられ、明治まで続いた。現在、山上には戦国から江戸初期までに築かれた土塁や石垣が残り、昭和3年(1928)に日本で初めての鉄筋コンクリート製として知られる模擬天守が建つ。

柏原陣屋 大和郡山城 宇陀松山城
柏原陣屋 大和郡山城 宇陀松山城
 (兵庫県丹波市柏原町柏原)

 柏原陣屋は、元禄8年(1695)に大和松山藩から柏原へ国替えとなって柏原藩を再興した織田信休
によって、正徳4年(1714)に造営され、柏原藩主・織田氏十代の居館であった。陣屋は背後を大内山に抱かれた緩やかな傾斜地上に立地し、当時の城下町の最高所に位置しているが、高低差はほとんどなく、典型的な平地立地の陣屋で、規模は東西130m、南北158mの方形の単郭構造。大内山に接する南側部分は一角が張り出すように突出しており、自然地形を取り込んだ回遊式の庭園が築かれていた。4代藩主・信憑の治政下の文化13年(1816)に火災のため長屋門など一部の建物を残して全焼したが、4年後の文政3年(1820)に再建された。現在は、創建当時の長屋門とその文政3年(1820)に再建された表御殿の一部が残っており、昭和46年(1971)に国の史跡に指定されている。

 (奈良県大和郡山市城内町)

 戦国初期以降、筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛らが居城とした。江戸時代に入ると、しばらく城番による管理が続けられたが、大坂の陣で焼失し、元和2年(1616)に水野勝成が領主となり、再建された。享保9年(1724)には柳沢吉里が甲府から転封され、以降、明治まで柳沢氏が続いた。廃城令により、明治6年(1873)に破却、建築物はすべて解体された。現在、追手門や二重の隅櫓などが復元されている。

 (奈良県宇陀市大宇陀春日ほか)

 宇陀郡を領分した有力国人宇陀三将の一人である秋山氏の居城として築かれ、少なくとも南北朝期には本拠を構えていたと考えられる。天正13年(1585)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴って秋山氏は追放され、宇陀から退却。以後、豊臣家配下の諸将である伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種らの居城となり、近世城郭へと改修される。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、多賀秀種は西軍に属したため改易となり、その後、福島正則の弟である福島高晴が入城するが、元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣方に内通した嫌疑をかけられて改易され、城も破却された。福島氏改易後、宇陀には織田信長の二男・信雄が入り、以降、高長・長頼・信武と織田氏が続くこととなる。4代80年にわたり栄えた宇陀松山藩であったが、4代・信武の代に至り藩の財政は窮乏し、打開策をめぐって重臣が対立。元禄7年(1694)、信武は重臣の生駒三左衛門、田中五郎兵衛を討ち果たすが、自らも自害するという、いわゆる「宇陀崩れ」が起こる。これにより、信武の子・信休への家督相続こそ認められたものの、翌元禄8年(1695)、織田家は丹波国柏原へ減移封となり、宇陀松山藩は廃藩となって、以後は幕府領となる。城下には大手筋の西口関門が現存する。

新 宮 城
新宮城
 (和歌山県新宮市新宮)

 慶長6年(1601)頃、浅野氏によって熊野川の南に面する丹鶴山に築かれたとされる。その後、一国一城令によって一度破棄されるが、再建され、元和元年(1619)の徳川頼宣の紀伊領有に伴い、付家老水野重仲が修築を引き継いだ。寛文7年(1667)には三重五階の天守を擁する本丸、鐘の丸、松の丸、二の丸などで構成される平山城の姿がほぼ完成された。現在は丹鶴城公園となっており、天守台ほかの石垣や枡形虎口などもきれいに形状が保存されている。


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