九州・沖縄の城 |
85 | 福岡城 | 86 | 大野城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 関ヶ原の戦いの戦功により筑前を与えられた黒田孝高・長政父子が、慶長6年(1601)に築城し、明治まで黒田氏の居城となる。大天守、中天守、小天守が連なる巨大な天守台が築かれたが、天守が建てられたという事実は確認されていない。40基以上の櫓が建てられたが、現存するのは南の丸多聞櫓や伝潮見櫓などごくわずか。 (2009年11月22日、2011年1月9日登城) |
![]() 福岡県太宰府市大宰府字原1498−25ほか 福岡県大野城市瓦田1−1ほか ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 663年の白村江の戦いで、新羅・唐の連合軍に敗れた大和朝廷が、連合軍が日本に来襲することを恐れ、大宰府の北側の守りとして四王寺山に築いた。百済からの渡来人の指導でつくられた古代朝鮮式山城。 (2010年3月6日登城) |
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87 | 名護屋城 | 88 | 吉野ヶ里 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天下統一を果たした豊臣秀吉が、大陸出兵を目指す足がかりとして朝鮮半島に近い東松浦半島北端に築いた。約17万uにも及ぶ城域で、金箔瓦の五重天守も建てられた。秀吉が亡くなると廃城となった。 (2010年3月7日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 弥生時代前期から後期にかけての環濠集落。現在は遺跡の整備が進み、物見櫓や主祭殿・住居などの建物が復元されている。 (2010年3月6日登城) |
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89 | 佐賀城 | 90 | 平戸城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 慶長13年(1608)、鍋島直茂・勝茂父子が、戦国大名龍造寺氏の居城であった村中城を拡張して築城。享保年間(1716〜36)の火災で天守をはじめ建物の多くを失い、さらに天保6年(1835)に2度目の火災で二の丸御殿が焼失したため、10代藩主直正が本丸御殿を建設した。本丸御殿は、明治以降も活用されたが、昭和32年(1957)までに解体された。平成16年(2004)に本丸御殿の一部が木造復元され、佐賀城本丸歴史館となっている。 (2010年3月6日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 慶長4年(1599)、松浦鎮信が亀岡山に日之嶽城を築いたが、幕府による改易を恐れ、慶長18年(1613)に自ら城を焼き捨て、以後、城は築かれなかったが、元禄16年(1703)、新規築城を幕府に願い出て許された。宝永元年(1704)、松浦棟が築城を開始、享保3年(1718)に完成した。明治4年(1871)廃藩置県により廃城、現存する北虎口門、狸櫓を残して取り壊された。昭和37年(1962)、三重五階の模擬天守が建造された。 (2010年3月7日登城) |
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91 | 島原城 | 92 | 熊本城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 元和4年(1618)に松倉重政が築城を開始。しかし、築城のための課役やキリシタン弾圧、過酷な年貢などが要因となって、農民たちによる天草・島原の一揆が起こった。その責任をとらされ、松倉氏は断絶となった。その後、高力氏、松平氏などが入った。城は連郭式の縄張で、五重五階の天守を中心に、3基の三重櫓が建っていた。明治になって民間に払い下げられ、建物は壊されたが、昭和35年(1960)に西三重櫓が再建されたのを皮切りに、天守、巽三重櫓、丑寅三重櫓が順次再建された。 (2009年11月22日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 慶長6年(1601)に加藤清正が築城し、慶長12年(1607)に、本丸には大天守や小天守を建て、各曲輪には宇土櫓をはじめ、三重天守に匹敵する五階櫓を5基も建て並べた城が完成した。加藤氏改易後は細川氏が入り、明治維新を迎えた。明治10年(1877)の西南戦争でも落城せず、城の強固さは証明されたが、本丸の大部分が焼失した。宇土櫓をはじめ12基の櫓が現存し、高石垣もほぼ完全な姿で残る。昭和35年(1960)には大天守と小天守が再建され、平成20年(2008)には本丸御殿も復元された。 (2001年9月24日、2009年11月21日、2011年1月8日登城) |
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93 | 人吉城 | 94 | 大分府内城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 建久9年(1198)、相良長頼の築城と伝えられる。天正17年(1589)、相良長毎が大改修を開始し、慶長6年(1601)に本丸、二の丸などが竣工し、寛永年間(1624〜44)に石垣が完成した。文久2年(1862)の火災を機に、西洋式石垣を導入し、外塀も土塀に変わったが、明治5年(1872)からの払い下げで、石垣が残るのみとなった。平成5年(1993)に角櫓、長塀、多門櫓が復元された。 (2010年1月9日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 慶長2年(1597)、福原直高が入封後、築城を開始し、同4年(1599)に望楼型の四重天守が築かれた。関ヶ原の戦い後、竹中重利が新式の層塔型へと改めるなどの大改修を行った。寛保3年(1743)に天守ほか多くの建物が火災で焼失。以後、天守は再建されず、明治維新後も残っていた着到櫓なども戦災で失われた。現存する建物は宗門櫓と人質櫓のみであるが、戦後、西の丸西南隅櫓、大手門、東の丸西南隅櫓、廊下橋が再建された。 (2008年2月9日、2010年2月13日登城) |
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95 | 岡城 | 96 | 飫肥城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 文治元年(1185)に緒方氏が築いたのが最初だと伝えられている。その後、元徳3年(1331)に志賀貞朝が入り、城を拡張した。文禄3年(1594)に中川秀成が入って、高石垣を多用した近世城郭となった。本丸には天守代わりの御三階櫓が、西の丸には御殿がつくられた。明治になって建物はすべて解体された。作曲家瀧廉太郎の代表作「荒城の月」は、この荒廃した岡城がイメージになっているといわれている。 (2010年1月9日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 長禄2年(1458)、新納忠続が城主に封じられたのが史料上の初出。その後島津氏一族が城主となった。天正15年(1587)、九州平定に乗り出した豊臣秀吉にいち早く味方したいち早く味方した伊東氏が飫肥を与えられ、関ヶ原の戦い後は徳川氏より領地を安堵された。その後、貞享3年(1686)からの大改修により、伊東祐実が近世城郭としての体裁を整えた。明治6年(1873)にすべての建物が取り壊されたが、昭和53年(1978)に大手門が、昭和54年(1979)に松尾の丸御殿が再建された。 (2001年9月25日、2010年1月9日登城) |
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97 | 鹿児島城 | 98 | 今帰仁城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 島津家久が、慶長6年(1601)に築城を開始し、約10年後に完成。中世以来の館造りを踏襲した城構えで、本丸と二の丸が連郭式に並ぶだけのシンプルな縄張で、御楼門以外、天守も櫓もなかった。城は元禄9年(1696)に焼失、宝永4年(1707)に再建されたが、明治6年(1873)、再び焼失した。 (2010年1月10日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 創建は明確ではないが、13世紀末から14世紀初めにかけてつくられ、15世紀前半には城域が拡張され現在の姿になったと考えられる。1383年に怕尼芝が城主になり、その後3代にわたり、北山王を名乗ってこの地を統治した。琉球全土を統一しようとした中山王尚氏の攻撃にも耐えたが、1416年に城は陥落。尚氏のものとなった城は、慶長14年(1609)、薩摩軍に攻められ炎上し、廃城となった。城跡には1.5kmにも達する壮大な石垣が残っている。平成12年(2000)、世界文化遺産に登録された。 (2010年1月23日登城) |
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99 | 中城城 | 100 | 首里城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 14世紀後半に先中城按司によって築かれ、15世紀前半に護佐丸が増築。北東から南西にかけて6つの郭が並んでいる。1458年、勝連城主阿麻和利の策略によって滅ぼされた。城跡には石垣や石造拱門などが残る。平成12年(2000)、世界文化遺産に登録された。 (2010年1月24日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 城の基本的な縄張が完成したのは尚真王と尚清王の時代(1477〜1555)。東西400m、南北200mの規模で、内郭と外郭で構成されていた。王位争いや失火で3度焼失したが、再建された。明治になって軍が入った後、学校となった。太平洋戦争ですべてが灰燼に帰したが、平成4年(1992)に正殿などの建物が再建された。平成12年(2000)、世界文化遺産に登録。 (1999年11月22日、2010年1月25日登城) |
100名城以外の城 |
小 倉 城 | 秋 月 城 | 久 留 米 城 | ||
(福岡県北九州市小倉北区城内) 戦国時代に毛利氏によって築かれ、天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州平定後は森吉成にあてがわれ、森氏によって高石垣と天守がそびえる近世城郭として整備されたと考えられている。関ヶ原の戦い後は、細川忠興が入城し、城を改修。外観四重の天守が築かれるなど、現在の城跡の姿が形造られた。細川氏が熊本へ移封となると、譜代大名の小笠原忠真が入封し、明治に至った。天保8年(1837)、失火により天守を焼失。以後、再建されなかったが、昭和34年(1959)、外観四重の天守と続櫓が復興された。 |
(福岡県朝倉市秋月野鳥) 中世・戦国時代の古処山城の麓にあった秋月氏の館跡を利用して築かれた平城。天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州平定と九州国割で、秋月を含む筑前は黒田孝高にあてがわれる。慶長5年(1600)、筑前には孝高の子・長政が配置され、長政は叔父・直之の知行地として秋月を与えた。元和9年(1623)、長政の遺命により三男・長興に5万石が分け与えられ、支藩としての秋月藩が成立し、翌寛永元年(1624)に新たな陣屋が築かれた。現在、城跡の一部は中学校の敷地となっており、堀や石垣、黒門や長屋門が残る。 |
(福岡県久留米市篠山町) 永正年間(1504〜21)に、この地の土豪が篠原城と称した砦を築いたのがはじまりといわれる。天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州平定と九州国割によって、久留米は毛利秀包にあてがわれ築城が開始されたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍についたため改易となる。戦後、筑後に封じられた田中吉政の支城となり、二男の吉信を城主とするが、吉政の子、忠政は嗣子なく没し田中氏は改易となる。代わって、元和7年(1621)に丹波福知山より、有馬豊氏が入封し、明治まで有馬氏の居城となる。現在、本丸には篠山神社が建っており、本丸石垣が残されている。 |
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柳 川 城 | 唐 津 城 | 大 村 城 | ||
(福岡県柳川市本城町) 永禄年間(1558〜69)に蒲池氏によって築かれたと伝えられる。その後、龍造寺氏の支城となるが、天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州平定と九州国割で立花宗茂にあてがわれ、城の改修が行われた。宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に与したため除封され、柳川を含む筑後には田中吉政が入り、再度改修し、近世城郭へと生まれ変わる。しかし、田中氏断絶により、元和7年(1621)に柳川は再び立花宗茂にあてがわれ、以降、柳川藩主立花氏の居城となる。城は本丸と二の丸で構成され、本丸には五重の天守が築かれていたという。周囲の城下町は水堀がめぐる水郷となっていた。現在、城跡は学校敷地となっており、一部石垣が残るのみである。 |
(佐賀県唐津市東城内) 慶長7年(1602)に寺沢広高が松浦川河口近くの満島山を中心に築城に着手。満島山に本丸、西側には二の丸、三の丸、外曲輪が築造されたが、天守は天守台のみで築かれなかった。築城には旧名護屋城の部材が使用されたという。明治に入り廃城後、建物は払い下げ、取り壊しで城跡は荒廃したが、有志の願いにより本丸周辺は舞鶴公園となった。昭和41年(1966)模擬天守が建てられ、以後本丸櫓門、二の丸・三の丸の整備、肥後堀・柳堀の石垣の復元、辰巳櫓・涼所櫓の復興がなされた。 |
(長崎県大村市玖島) 慶長4年(1599)、大村喜前によって大村湾に突き出した玖島崎に築かれた平山城で、北・西・南を海に囲まれた海城で、明治維新まで12代にわたり大村氏の居城であった。慶長の役の際に立て籠って明・朝鮮の大軍を撃退した順天城を参考にして築城場所を選んだといわれている。本丸の南に二の丸、その西に三の丸を配した梯郭式の縄張で、天守は建てられなかった。築城当初は北側を大手としていたが、2代藩主・純頼のときに大修築が行われ、角堀、長堀などを掘削し、北側から南側に大手門が付け替えられた。明治維新後に廃城となり建造物は破却され、明治17年(1884)に旧藩有志により本丸跡に大村氏歴代を祀る大村神社が創建された。平成4年(1992)には二の丸南西隅の板敷櫓が復元された。遺構としては、本丸、二の丸、三の丸の石垣や土塁、空堀のほか、三の丸南西部には全国的にも珍しい御船蔵跡の石積遺構が現存している。 |
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杵 築 城 | 臼 杵 城 | 中 津 城 | ||
(大分県杵築市城山) 明徳4年(1393)に大友氏一門の木付氏によって築かれた中世城郭が基となっている。守江湾に面して突出した台地上に築かれ、天然の要害をなしていた。木付氏滅亡後、前田玄以などが入城し、近世城郭へと改修した。その後、杉原氏が城主となり、続いて慶長4年(1599)には細川忠興が領することとなった。細川氏は、重臣の松井氏を城代として置いた。寛永9年(1632)、細川氏が熊本に移封となると、替わって小笠原氏が入った。正保2年(1645)には松平(能見)氏が豊後高田より封じられ、明治維新まで居を構えた。天守は慶長3年(1608)に落雷で焼失して以来再建されなかった。現在本丸跡には三層の模擬天守が建てられ資料館として利用されている。 |
(大分県臼杵市臼杵) 戦国時代の弘治2年(1556)、大友宗麟により、臼杵湾に浮かぶ丹生島に築かれた。豊臣秀吉の文禄の役に従軍した際の咎により大友氏改易後、石田三成の妹婿である福原氏、太田氏を経て、関ヶ原の戦い後、慶長5年(1600)に稲葉貞通が入封し、以降、明治維新まで、稲葉氏15代の居城となった。城には三層四階の天守と31基の櫓が上げられた。廃藩後は天守以下建物は一部を残し取り壊され、周囲の海も埋め立てられた。現在、二の丸に畳櫓が、本丸に卯寅口門脇櫓が現存しており、平成13年(2001)に二の丸大手口の大門櫓が復元された。 |
(大分県中津市ニノ丁)) 天正15年(1587)、秀吉による九州平定と九州国割によって黒田孝高に中津があてがわれ、築城を開始。関ヶ原の戦いにより、黒田氏は筑前に移封となって、豊前は細川忠興にあてがわれた。忠興は総石垣の城郭へと改修した。一国一城令でも廃城とならず、明治まで続いた。山国川河口の地に築城された梯郭式の平城で、堀には海水が引き込まれており、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。本丸石垣は黒田氏が築いた箇所と細川氏により改修された箇所との違いを確認することができる。 |
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知 覧 城 | 座 喜 味 城 | 勝 連 城 | ||
(鹿児島県南九州市知覧町永里) 鎌倉末・南北朝期に南朝方となった薩摩平氏一族の郡司系知覧忠世により築かれたと推測される。室町期、島津忠宗の三男・佐多忠光がこの地の領主となった。その後、島津一族・伊集院頼久は、島津本家に対抗し、川辺を本拠に知覧を今給黎久俊に与えた。応永27年(1420)、島津久豊が伊集院一族からこの城を取り返し、再び佐多氏の居城となった。天正19年(1591)11代久慶のとき、家人の海賊行為が島津義弘の耳に入ってその怒りをかい、、久慶は川辺に転封となり、知覧は島津氏直轄領となって城は使われなくなった。佐多氏は、慶長15年(1610)、12代忠充のとき、知覧の領主に復帰した。城は、南九州特有の群郭式城郭で、 シラス台地を刻む浸食谷を利用し、強い防御性をもった曲輪多数並立する形となっている。 |
(沖縄県中頭郡読谷村座喜味) 15世紀の初頭、読谷山按司護佐丸によって築かれたといわれる。護佐丸は当初、座喜味の北東の山田グスクに居城していたが、1416年中山尚巴志の北山城攻略に参戦し、その直後、地の利を考慮して座喜味へ築城した。標高120m余の丘陵に立地し、二つの郭からなる。それぞれの郭にはアーチ石門が造られており、アーチがかみ合う中央にくさび石がはめられている。2000年「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして、世界遺産に登録された。 |
(沖縄県うるま市勝連南風原) 琉球王国が安定していく過程で国王に最後まで抵抗した有力按司・阿麻和利が居城していた城。阿麻和利は、中城の護佐丸を1458年に滅ぼし、さらに王権奪取を目指し首里城を攻めたが大敗して滅んだ。四方に眺望のきく孤立丘を取り込んで築かれており、四つの郭からなる。各郭は珊瑚質石灰岩の切石を使って曲線状に築かれており、最高所に位置する一の郭には瓦葺きの建物やアーチ式の門があったと伝えられている。2000年「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のしとつとして、世界遺産に登録された。 |
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