北陸・東海の城 |
33 | 高岡城 | 34 | 七尾城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 富山城が焼失したため加賀藩主前田利長が慶長14年(1609)に築城。元和元年(1615)、一国一城令が出されたため、未完の建物は破却されたが、一部の土塁や石垣、堀はそのまま残った。 (2009年5月23日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 能登守護畠山氏の居城で、標高約300mの要害に16世紀前半に築かれた。「七尾」の名は城が七つの尾根にまたがっているからといわれる。 (2009年5月23日登城) |
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35 | 金沢城 | 36 | 丸岡城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天正8年(1580)、加賀一向一揆の拠点であった金沢御堂を織田信長軍の佐久間盛政が陥落させ、そこに城を築いたことに始まる。天正11年(1583)、前田利長が入封して、加賀支配の拠点とすべく近世城郭へと改修した。天守は慶長7年(1602)の落雷により焼失。海鼠壁が美しい三十間長屋(二重二階の多聞櫓)が現存。 (2009年5月23日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天正4年(1576)、柴田勝家の甥・勝豊が築いたとされ、天守は現存する最古のものであるといわれている一方で、天守の構造分析などから慶長18年(1613)頃という説もある。天守に石瓦を使用した現存例は丸山城のみ。昭和23年(1948)の福井地震によって倒壊、可能な限り倒壊前の建材を活用して再建された。 (2007年12月1日、2009年4月29日登城) |
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37 | 一乗谷城 | 38 | 岩村城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 文明3年(1471)、朝倉孝景が越前守護斯波氏を破って一乗谷川沿いの天然の要害を拠点としたことに始まる。2つの城戸にはさまれた細長い城下町が全国に先駆けて形成された。応仁の乱を逃れてきた京都の文化人たちにより越前の中心地として栄えたが、天正元年(1573)、織田信長の軍勢により放たれた火によって灰燼に帰した。現在、武家屋敷や町並みが復原されている。 (2009年4月29日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() 天正3年〜慶長5年(1575〜1600) ![]() ![]() 松平(大給)氏、丹羽氏、松平(大給分家)氏 近世山城の代表で、標高717mの日本一高い地に築かれた城。高取城、備中松山城とともに近世城郭における日本三大山城といわれる。創築についてはっきりとした時期は不明だが、永正年間(1504〜21)には遠山氏の居城として築かれていたと考えられる。山麓部の居館群は明治14年(1881)に焼失したが、平成2年(1990)に太鼓櫓や表御門などが再建された。 (2009年3月12日登城) |
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39 | 岐阜城 | 40 | 山中城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() 永禄年間(1558〜70) ![]() ![]() 最初は、鎌倉時代に二階堂行政によって創築されたとされるが不明。戦国時代、斎藤道三が稲葉山城と城下を整備した。それを美濃支配を推し進める織田信長が攻め落とし、岐阜城と改め、整備した。信長が安土城に移ってからは信長の子息や一門が入るが、関ヶ原の戦いで城主織田秀信が西軍につき、その後池田輝政に攻められ開城し、廃城となった。現在の天守は昭和31年(1956)に再建されたもの。 (2009年1月31日、2009年8月12日、2011年10月1日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 戦国末期、関東の覇者後北条氏が西方に対する防備の要塞として箱根外輪山の西側斜面に築いた城。信長の亡き後、天下統一を進める豊臣秀吉が圧倒的な大軍で一気に陥落させた。発掘調査をもとに現在、障子堀が復元整備されている。 (2009年3月21日、2010年12月18日登城) |
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41 | 駿府城 | 42 | 掛川城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 幼少時代人質となっていた今川氏の居館があったとされる場所に、徳川家康が最初に城を築いたのは天正13年(1585)といわれるが詳細は不明。その後、慶長12年(1607)、隠居した家康は、西国の大名たちに負担させ、三重の堀と六重七階の天守を持つ城に大改築させた。天守は寛永12年(1635)、出火で焼失し、以後は再建されなかった。二の丸東御門、巽櫓などが復元されている。 (2009年2月21日、2011年7月29日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 松平(桜井)氏、本多氏、松平(藤井)氏、北条氏、井原氏、小笠原氏、 太田氏 最初の城は古城と呼ばれ、戦国時代に駿河守護の今川氏親が朝比奈泰熈に命じて現在の北東の小高い岡上に築かせた。天正18年(1590)、山内一豊が入り、三重天守を建て、城下町全体を堀で囲み、近世城郭へと大改築を始めた。現存する二の丸御殿は幕末に再建されたもの。天守は幕末に取り壊されたが、平成6年(1994)に木造で再建された。 (2009年2月21日、2011年12月23日登城) |
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43 | 犬山城 | 44 | 名古屋城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天文6年(1537)、織田信長の叔父信康が木曽川沿いの丘陵上に築いたことに始まる。本丸の背後は木曽川によって守られている「後堅固」の構えとなっていた。城主はめまぐるしく交替。元和3年(1617)、尾張徳川家の付家老の成瀬氏が城主となった。明治になり、政府が城の修理・整備を条件に成瀬氏に譲渡し、個人所有の形態が平成16年(2004)3月まで続いた。国宝の望楼型天守が現存。 (2008年3月1日、2009年1月31日、2009年8月12日、2011年5月6日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 元々今川氏の支城があった「那古野」の地に徳川家康が慶長15年(1610)、西国の外様大名らに大々的な天下普請を命じた。広大な縄張に、天守・小天守を中心に多くの櫓を建て並べた最大級の要塞が完成した。第2次世界大戦で天守・小天守、御殿とも焼失。天守は昭和34年(1959)、鉄筋コンクリート造で再建された。 (2005年、2009年1月31日、2009年7月25日、2009年11月14日、2010年9月25日、 2010年10月16日、2011年7月9日、2011年12月10日、2012年8月25日、 2013年3月9日、2013年6月8日、2013年11月9日登城) |
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45 | 岡崎城 | 46 | 長篠城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 康正元年(1455)頃、土豪の西郷頼嗣が創築、家康の祖父・松平清康が享禄4年(1531)に改築を行う。その城で天文11年(1542)、松平竹千代(徳川家康)が生まれた。幼くして今川氏の人質となった家康は、桶狭間の戦い後、岡崎城に戻り、ここを拠点に三河を統一。家康の後、子の信康が入り、信康の自刃後は城代が置かれた。家康が豊臣秀吉によって関東に移されると、田中吉政が入り、関ヶ原の戦い後は徳川氏の聖地として重視され譜代・親藩が城主となって、元和3年(1617)には三重三階の天守が築かれた。明治初期に天守は取り壊されたが、昭和34年(1959)に再建された。 (1996年11月27日、2009年1月31日、2009年7月25日、2011年5月4日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 永正5年(1508)に土豪菅沼元成が宇連川と寒狭川の合流点の断崖上に築城。菅沼氏は武田氏の支配下に入ったが、後に徳川家康が城を奪い大改築した。天正3年(1575)、家康の家臣奥平貞昌(信昌)が城主のとき、武田勝頼軍が落城寸前まで攻めたが、織田・徳川連合軍がかけつけて城を死守した。城跡には土塁や堀切が残る。 (2009年2月21日、2011年10月8日登城) |
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47 | 伊賀上野城 | 48 | 松阪城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天正13年(1585)、筒井定次が三重の天守を築いたのに始まる。慶長13年(1608)、伊予から入封した築城の名手藤堂高虎が徳川家康の命を受けて大改築。石垣や水堀を設け、城地を3倍にした。五重の天守も計画されたが、建造中に暴風雨で倒壊し、以後再建されなかった。日本有数の高さを誇る高石垣が高虎の築城技術の高さを示している。昭和10年(1935)、個人の私財により木造で模擬天守が建てられた。 (2009年1月17日、2010年3月22日、2011年8月27日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天正16年(1588)、築城の名手・蒲生氏郷が海に面した松ヶ島城に代わる城として築城。本丸には三重の天守をはじめ多くの櫓が建てられ、各曲輪に豪壮な石垣が築かれた。氏郷は楽市楽座を設けるなど、松坂の城下町を整備して、伊勢商人の本拠地として栄えさせた。 (2009年1月16日、2010年3月20日、2011年5月3日登城) |
100名城以外の城 |
福 井 城 | 北 ノ 庄 城 | 越前大野城 | ||
(福井県福井市大手3) 慶長5年(1600)徳川家康の二男・結城秀康が越前一国を与えられ、翌年より柴田勝家以来の北ノ庄城を中心に築城に着手。本丸の北西隅に四重五階の天守が置かれ、他の三隅には二重の隅櫓、南側に桝形の大手門・御本城橋が設けられていた。万治2年(1659)、寛文9年(1669)と2度の大火に遭い、以後、天守代用として新たに三重櫓が建てられた。廃城後は大正12年(1923)に県庁が本丸へ移転された。 |
(福井県福井市中央1) 朝倉氏の滅亡後、越前一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正3年(1575)に自らの縄張りによってを築城を開始。同11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻お市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することとなった。天守は7層とも9層とも言われ、安土城に匹敵するほどの巨城であったと伝えられている。 |
(福井県大野市城町) 天正3年(1575)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近が築城し、その後、越前松平氏が3代続いた後天領となり、天和2年(1682)、土井利房が入封して後、そのまま明治に至る。大野盆地西部の亀山の山頂に本丸が置かれ、二重三階の天守、小天守、天狗書院、麻木櫓などの建物があった。城は安永4年(1775)に焼失。寛政7年(1795)に天守を除き再建されたが、明治維新後に破却された。現在は、古図をもとに天守、天狗書院が外観復元されている。 |
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小 浜 城 | 大 垣 城 | 金 山 城 | ||
(福井県小浜市城内) 小浜城は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、若狭一国を与えられた京極高次が、最初後瀬山城に入るが、すぐさま小浜湾に流入する北川と南川の河口部で築城に着手したのがはじまり。寛永11年(1634)には酒井忠勝が入封。高次の築城工事を引き継ぎ、城郭と城下が完成したのは正保2年(1645)頃であったという。縄張は、北川・南川を外堀に、両川に挟まれた河口の中洲中央に方形の本丸を置き、それを水堀で囲んで、南に二の丸、東に三の丸、北に北の丸、西に西の丸を設けていた。本丸南西隅には三重三階の天守が建てられていた。現在、本丸跡は小浜神社となっている。 |
(岐阜県大垣市郭町) 戦国時代には美濃斎藤氏の支城があり、美濃を平定した織田信長がその支配下に置く。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、石田三成率いる西軍の本陣ともなった。その後、家康の臣・石川康通が入城し、続く家成・忠総三代の間に現在の姿に改修・拡張された。寛永12年(1635)に戸田氏鉄が入封し、以降明治まで大垣藩戸田氏の居城となった。明治6年(1873)の廃城令により廃城となるも、天守などは破却を免れたが、昭和20年(1945)の空襲によって天守や艮櫓が焼失した。現在の天守は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で再建されたもの。 |
(岐阜県可児市兼山) 室町時代末期、天文6年(1537)斉藤道三の命を受け、その猶子斉藤正義が築城。永禄8年(1565)織田信長は東美濃経略の拠点として森可成を封じ、金山城主7万5千石とした。以来、森可成・長可・忠政父子三代の居城となった。本能寺の変で信長とともに討ち死にした可成の三男・欄丸、四男・坊丸、五男・力丸の三兄弟はともに金山城で出生し信長の側近、近習として仕えた。 三代城主・忠政は、長可の跡目を継ぎ、15歳で7万石を領し豊臣秀吉に仕え、城の整備拡充を手がけたが、慶長5年(1600)徳川家康の命により、信州海津城に移封、金山城は犬山城城主石川光吉の所領となり、天守、諸櫓等一切を取り壊し、犬山城の増築・修復に使われたといわれている。 |
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郡上八幡城 | 加 納 城 | 苗 木 城 | ||
(岐阜県郡上市八幡町柳町) 永禄2年(1559)、遠藤盛数が主家である東氏の赤谷山城を攻略する際に八幡山に陣を置いたのが始まりとされる。東氏を滅ぼした後に、郡上郡支配の拠点として本格的に城郭が構えられた。2代目の慶隆が、豊臣秀吉に敵対したため、天正16年(1588)に転封となり、替って稲葉貞通が入城し、城を改修。山頂に本丸、二の丸を築いた。その後、城主は遠藤氏、井上氏、金森氏と替り、宝暦8年(1758)に青山幸道が丹後宮津から入封し、明治まで青山氏の居城となる。 遠藤氏の時代に城は再修築され、天守台は築かれたが、天守は上げられなかった。現在建っているのは、昭和8年(1933)に大垣城を参考に、木造で建てられた模擬天守である。 |
(岐阜県岐阜市加納丸之内) 文安2年(1445)、美濃守護土岐氏の居城・革手城の出城として築かれたという。土岐氏を遂った斎藤道三が稲葉山城に入ると、加納城は廃城となる。関ヶ原の戦い後、徳川家康の命により岐阜城が廃されると、再び加納に城が築かれることとなる。築城は天下普請で行われ、家康の女婿・奥平信昌が城主となり、以後、江戸時代を通じて譜代大名の居城であった。 城は、中世の加納城を本丸に取り込み、二の丸と三の丸を梯郭式に配した形で、天守は上げられることはなく、二の丸北東隅の御三階櫓が天守代用であった。この御三階櫓は岐阜城の天守を移築したものというが、享保13年(1728)の大火で焼失した。 |
(岐阜県中津川市苗木) 築城時期は諸説あるが、天文年間(1532〜55)に東美濃の名族・遠山氏が創築したともいわれる。元亀3年(1572)、織田信長の命を受けて、一族の飯狭間城主の遠山氏が苗木城主となるが、信長の死後、天正11年(1583)に、豊臣秀吉の意を受けた金山城主・森長可に攻められ城を追われることとなる。慶長4年(1599)に森氏が転封となると、河尻直次が城主となる。翌慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、西軍に属する河尻氏の苗木城を、徳川家康の命を受けた遠山友忠とその子・友政が攻め、城を奪還した。その後、城は友政により近世城郭へと改修され、以後、明治まで遠山氏12代の居城となる。城跡には、現在でも石垣がよく残っている。 |
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黒 野 城 | 浜 松 城 | 田 中 城 | ||
(岐阜県岐阜市黒野) 文禄4年(1595)に加藤貞泰によって築城された。貞泰の父・光泰は、始め斎藤龍興に仕えていたが、斎藤氏滅亡後は織田・豊臣氏に仕え、天正19年(1591)には甲斐国甲府城主となり24万石を領したが、文禄2年(1593)、文禄の役に出征中、朝鮮の陣中で没した。貞泰は、文禄3年(1594)、15歳で家督を相続し、大きく領地を減された上で、美濃国黒野に4万石を賜り、新たに黒野城を築いた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、始め西軍に属したが、後に徳川家康の先陣として働き、本領を安堵された。貞泰は、城下町を整えると共に、治水事業(尉殿堤)を行って領内の生産性を高めたが、慶長15年(1610)に2万石を加増されて、伯耆国米子6万石に移封となった。黒野藩は廃藩となり加納藩領となって、黒野城はわずか16年間の短期間で終わる。現在は本丸跡部分が公園として整備され、岐阜市史跡に指定されており、本丸周囲の土塁や堀跡が良好に残されている。 |
(静岡県浜松市中区元城町) 元亀元年(1570)、三河から遠江に進出した徳川家康が、遠江支配の根拠地とするため、引馬城のあった地に新しい城を築き、浜松城と改める。天正18年(1590)に家康が関東に移封された後、替わって入城した堀尾吉晴によって大幅に改修された。明治維新後建物が壊され、堀も埋め立てられた。昭和33年(1958)に、史実には基づかないものの、復興天守が建てられた。 |
(静岡県藤枝市西益津) 今から500年ほど前、今川氏の命を受け、この地の豪族・一色氏が屋敷を拡大して城としたのが始まりと伝わる。元亀元年(1570)、武田信玄が今川氏の支城・徳一色城を攻略して田中城と改称し、家臣・馬場信房に改修を命じる。武田氏滅亡後は徳川家康の支配下に置かれ、慶長12年(1607)、駿府城に隠居した家康は、田中御殿として整備した。家康の死後、駿府府領や幕領を経て、譜代大名が頻繁に入れ替わることとなる。方形の本丸を中心に二の丸、三の丸、総曲輪が同心円状に取り囲んだ「円郭式」の縄張りが特徴。 |
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諏 訪 原 城 | 二 俣 城 | 高 天 神 城 | ||
(静岡県島田市菊川) 元亀3年(1572)に始まる遠江への軍事行動で、武田信玄は徳川家康を三方ヶ原で完膚なきまでに破った。信玄が病没すると、跡を継いだ勝頼が、父・信玄の天下統一の夢を果たすため、遠江攻略を狙い、広大な牧之原台地北端の段丘上に築いたのが諏訪原城。駿河から遠江に入る要衝の地にあり、高天神城攻略のための陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担った。しかし、天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦いで大敗し、諏訪原城も家康に攻め落とされ、牧野城と改められ、大改修を施された。天正9年(1581)、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡すると、この城の必要性はなくなり、その後、家康が関東へ移封となったことから、天正18年(1590)頃廃城となったといわれる。武田系城郭に多い「後堅固の城」の典型であり、丸馬出を駆使した縄張は傑作。 |
(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣) 天竜川と二俣川の合流地点に位置するこの地は、信濃・三河へそれぞれ通ずる道の分岐点でもあり、その立地条件から、有力諸侯による争奪が繰り広げられてきた。戦国初期には守護・斯波氏と駿河から遠江進出を目指す今川氏が対立。後期には武田氏と徳川氏が争った。元亀3年(1572)、遠州の諸城を落とした武田信玄は、嫡子・勝頼を総大将として、二俣城攻略戦を開始。城は容易には落ちなかったが、水の手を断ったことで、開城し、城は武田氏の手に渡った。信玄の死後、家康は遠江・三河にある武田の諸城を攻撃。二俣城も攻略に半年を要したが、天正3年(1575)に奪還した。また、二俣城は、家康の嫡男・松平信康の自刃の場としても知られる。 |
(静岡県掛川市上土方嶺向) 「高天神を制する者、遠州を制す」と謳われた要衝の城で、武田と徳川による遠江をめぐる攻防の舞台として知られる。築城は、室町時代、今川氏が守護大名から戦国大名に成長する過程で築かれたとする説が有力であるといわれるが、明確ではない。永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後の今川氏の衰退、滅亡を機に、城主・小笠原長忠は徳川方に与し、高天神城は徳川方の城となった。元亀2年(1571)、武田信玄による遠江侵攻が開始されると、高天神城を2万5千とも云われる軍勢で包囲するも、長忠は籠城して死守、信玄は城を攻め落とせず退却を余儀なくされ、難攻不落の城としてその名を世に轟かせることとなった。天正2年(1574)、武田方が再び来攻。信玄の息子・勝頼の2万の大軍の攻撃に抗しきれず、開城することとなる。しかし、天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した武田氏はその後、衰退。徳川家康は、高天神城奪還のため、天正9年(1581)に高天神城包囲網である六砦を築いて攻囲し、激しい攻防の末、城を奪還。家康は城の全てを焼き払い、高天神城は廃城となった。城は、小笠山山稜から南東にのびる尾根の先端、標高132mの鶴翁山を中心に展開する山城で、東峰と西峰というほぼ同じ標高のピークを2つ持ち、それぞれ独立した曲輪群を従える。井戸曲輪によって連結した様は、ちょうどアルファベットの「H」型を呈し、これが俗に「一城別郭」などとも称される高天神城の特徴となっている。 |
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横 須 賀 城 | 小 山 城 | 丸 子 城 | ||
(静岡県掛川市横須賀) 天正6年(1578)、武田方に奪取された高天神城を奪還するための拠点として、徳川家康が家臣・大須賀康高に命じて築城させたとされる。高天神城落城後は、遠江東南部支配の拠点として、築城者の大須賀康高が初代城主となる。天正18年(1590)、家康の関東移封後に渡瀬氏、有馬氏が入城。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)には松平(大須賀)忠政が再び入封する。以後、譜代大名の居城となり、天和2年(1682)に西尾忠成が信濃小諸から入封すると、明治元年(1868)に安房花房に転封となるまで、西尾氏8代の支配が続いた。城は、小笠丘陵から西南端に派生した尾根と、そこから西へ延びる砂州を利用して築かれている。東西に長い連郭式の縄張で、松尾山を最奥に、その前面に本丸、西に二の丸、東に三の丸が配され、本丸部分は、三層四階の天守が存在した天守台や西の丸などの主要部と、御殿や倉庫があった北の丸に分かれる。築城当時は、城のすぐ近くまで入り江が迫っており、横須賀城は海運の拠点として遠州灘をおさえる要衝であったが、宝永4年(1707)の大地震の隆起により海岸線が後退し、今では海岸まで約2kmの距離がある。現在は、本丸、西の丸を中心に横須賀城址公園として整備されており、横須賀城の特徴である玉石積みの石垣もきれいに復元整備されている。 |
(静岡県榛原郡吉田町片岡) 今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となっているといわれるが、その規模は不明である。今川氏の没落後、武田氏と徳川氏は大井川を境として、それぞれ駿河・遠江を領有することとなるが、武田軍は大井川を越えて山崎の砦に入り小山城を築いた。その後、武田・徳川両軍の数度にわたる攻防戦の末、元亀元年(1570)、小山城は徳川方の領有するところとなる。しかし翌元亀2年(1571)、武田軍は2万5千の兵で大井川を越えて小山城を攻め、城を奪還し、武田信玄は、城主として大熊備前守長秀を置く。本格的な築城は武田方の城となったこれ以降といわれており、築城には馬場美濃守信房(信春)があたり、堀や土塁を築いて修築されたという。その後、武田氏と徳川氏の間で10余年にわたり激しい戦いが繰り返されたが、天正元年(1573)、信玄が病没。天正3年(1575)に長篠の戦いで武田勝頼が大敗すると、武田氏の勢力は下降線を辿り、天正9年(1581)3月、高天神城が徳川軍に攻略されると、もはや武田方に小山城を救う余力はなく、翌天正10年(1582)2月、城兵は自ら城に火を放って甲州へ落ち延びていき、小山城は落城。以後廃城となったとみられる。城は牧ノ原台地の南東端から大井川下流の沖積平野に張り出した舌状丘陵の末端を利用して築かれており、南西側全面に設けられた三重の三日月堀は最大の見所となっている。現在、城跡周辺は能満寺山公園として整備され、二の曲輪跡には展望台施設として三層五階の模擬天守が建てられており、また、本曲輪跡と二の曲輪跡の間の堀や丸馬出しがきれいに復元整備されている。 |
(静岡県静岡市駿河区丸子) 城の創築年代は明らかではないが、東海道という主要街道に接する重要地点であり、今川氏による駿府防衛の西の関門として、今川氏入府直後あるいは、それ以前の南北朝期まで遡る可能性も考えられるという。丸子から宇津ノ谷にかけては、斎藤加賀守一族の支配地であり、連歌師・宗長の『宇津山記』にも、泉ヶ谷に斎藤加賀守安元先祖よりの居館があたことが記されており、『今川記』に、応永19年(1412)の上杉禅秀の乱に今川範政に従った斎藤加賀守の名が見えることから、応永年間もしくはそれ以前から斎藤氏が在城していた可能性が考えられるが詳細は不明である。その後、永禄11年(1568)12月、武田軍の駿河侵攻に伴い、この地も武田氏の支配下におかれ、武田信玄は山県昌景に2500人をつけて丸子城に陣城を構えさせ、花沢城他の今川方諸城に対する守りを固めた。この武田氏が支配する時代に、大規模な武田流の改造が行われたのではないかと考えられる。天正10年(1582)、徳川家康は、持舟城での攻防を経て駿府を武田氏の支配から取り戻すが、丸子城における戦いの記録はなく、持舟城落城前後に武田勢は退去したのではないかと思われるという。家康は、一時家臣の松平備後守を入城させたが、天正18年(1590)の家康の関東移封とともに丸子城は廃城となったと考えられる。城は、旧東海道丸子宿の西、通称・三角山の標高140.1mの尾根先端に位置し、南に丸子川をひかえ、東に泉ヶ谷、西に大鈩という大きな谷に挟まれた要害地形をなしている。頂上の本曲輪に向かう尾根上に、地形に応じた大小の曲輪が土塁や堀それに虎口を組み合わせながら連なるように配置されている。 |
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韮 山 城 | 興 国 寺 城 | 吉 田 城 | ||
(静岡県伊豆の国市韮山韮山) 最初の築城については明らかではないが、『北条五代記』によると、文明年間(1469〜86)に堀越公方・足利政知の家臣・外山豊前守が城を築いたのが始まりとされている。明応2年(1493)、今川氏の客将であった興国寺城の伊勢新九郎盛時(宗瑞・後の北条早雲)が、堀越御所の内乱につけ込んで足利政知の子・茶々丸を討ち、伊豆へと進出。ほどなく伊豆一国を平定すると、伊豆支配の拠点として本格的な築城に取り掛かり、堀越御所の東の天ヶ岳から派生する龍城山と呼ばれる尾根上に韮山城を築いた。天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐にあたり、小田原城の支城である山中城へ7万人余、韮山城へ4万4千人の兵を向かわせる。この時、山中城はわずか半日で落城したが、韮山城の城主・氏規(氏政の弟)は3千人余の兵で3か月守り抜き、最後まで落城することなく、小田原城とともに開城した。その後、韮山城には徳川家康の家臣・内藤信成が城主として入るが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に廃城となる。城は、伊豆半島の田方平野の東にある天ヶ岳とそれに続く尾根上に城砦を築いた難攻不落の大城砦群で、標高128mの山頂に天ヶ岳砦、北西に中心となる本城(主郭部)、城池を挟んで東に江川砦、本城の南に土手和田砦、さらにその南東に和田島砦があり、それらの城砦は尾根を通じて連絡している。本城(主郭部)は、ほぼ南北に延びる直線連郭階梯式の構造で、北から三の丸・権現曲輪・二の丸・本丸の4つの曲輪が直線的に並び、本丸の南にも小さな曲輪がある。 |
(静岡県沼津市根古屋) 北条早雲の旗揚げの城として知られる。備中国高越城主の子として生まれたとされる早雲は、妹・北川殿が駿河守護・今川義忠の側室であった縁で駿河国入りし、今川家に身を寄せていたが、義忠の急死後、今川家の家督争いで今川氏助を助けた功により、長享元年(1487)に興国寺城の城主となる。延徳3年(1491)、伊豆国を治めていた堀越公方の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城へ移ると、再び興国寺城は今川氏の城となるが、駿河・甲斐・伊豆の境目に位置していたため、今川・武田・北条各氏の争奪戦の渦中に置かれる。河東一乱後の天文18年(1549)には、今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城の改修を行い、本格的な城郭となる。永禄11年(1568)、今川氏が滅亡し、甲相駿三国同盟が破棄されると、興国寺城は武田氏と北条氏の争奪するところとなるが、元亀2年(1571)に甲相同盟が成立すると、武田方の城となり、穴山梅雪の持城となった。天正10年(1582)、武田氏が滅亡した時、城主の曽根下野守正清は開城し、徳川方の城となり、天正18年(1590)の徳川家康の関東移封後は、豊臣秀吉の武将・中村一氏の家臣・河毛重次が城主となった。関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601)には、三河三奉行の一人、天野三郎兵衛康景が1万石の城主となったが、家臣が幕府領富士郡原田村の百姓を殺害したことから代官に訴えられ、康景は改易となり、慶長12年(1607)、興国寺城は廃城となった。城は愛鷹山南麓の尾根先端部に位置し、三方を浮島沼に囲まれた天然の要害で、城の構造は、本丸、二の丸、三の丸が連郭式に並び、さらに本丸の北には北曲輪、その東には清水曲輪が配置されている。主郭部の土塁は本丸以外はほとんど削られ、空堀や堀切も本丸と北曲輪の間の大空堀を除いて、ほとんどが埋められている。 |
(愛知県豊橋市今橋町) 永正2年(1505)、駿河守護今川氏親の意を受けた三河の国人牧野古伯によって築かれたといわれている。今川氏が桶狭間の戦いで敗れ衰退すると、徳川家康が攻略し、永禄7年(1564)、重臣酒井忠次を封じ、家康が天正18年(1590)に関東へ移封された後、15万石で入封した池田輝政によって拡張整備された。城内には9基の櫓が存在したが、天守はあげられていない。明治維新後、存城とされたが、建物は撤去された。昭和29年(1954)、本丸鉄櫓の位置に三重櫓が復興された。 |
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挙 母 城 | 清 洲 城 | 小 牧 山 城 | ||
(愛知県豊田市小坂本町) 関ヶ原の戦い後に入封した三宅康貞が、中世以来この地の中心であった金谷城が荒廃を極めていたため新たに桜城を築いた。150年後の宝暦6年(1756)、内藤政苗によって改修が試みられるが、矢作川の氾濫によって工事は中止に追い込まれる。政苗の養子学文が、天明元年(1781)、新たに築城許可を得て、桜城の南西1kmの高台に挙母城(七州城)を築いた。本丸には2基の櫓や御殿が建てられていたが、天守は存在しなかった。明治維新後、二重櫓をはじめとする建物は取り壊された。昭和55年(1980)に本丸隅櫓が復興された。 |
(愛知県清須市一場) 応永12年(1405)尾張・近江・越前守護の斯波義重が尾張守護所・下津城の別郭として築城。弘治元年(1555)、織田信長が清洲城を攻め、那古野城から移って大改修を加え、本拠として居城した。天正10年(1582)本能寺の変で信長没後、清洲会議の舞台となり、次男・信雄が相続し、天正14年(1586)に二重の堀をめぐらし、大天守、小天守、書院等の造営が行われた。信雄以降は、豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直が城主となった。慶長15年(1610)徳川家康の指令で清洲から名古屋へ遷府が行われ、慶長18年(1613)、名古屋城の完成と城下町の移転により廃城となった。現在、旧清須町の町制100周年を記念して平成元年(1989)に再建された模擬天守が建っている。 |
(愛知県小牧市堀の内) 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元を倒した織田信長が、稲葉山城に立て篭もる斉藤龍興を攻略するために築城。信長は、清洲城からここに居城を移した。永禄10年(1567)、信長は斉藤氏を滅ぼして、岐阜城に移ると小牧山城は廃城された。 小牧・長久手の戦いでは、織田信雄・徳川家康連合軍が、信長が築いた居城に大規模な改修を施し陣城とした。家康は天正12年(1584)、小牧山の築塁を榊原康政に命じ、山頂に本陣を置き、山の中腹から山麓にかけて曲輪・土塁・虎口等を配して、山の四方に空堀を巡らした。長久手の合戦に家康が出陣した際は、酒井忠次・本多忠勝・松平家忠等が守備した。 |
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岩 崎 城 | 西 尾 城 | 田 原 城 | ||
(愛知県日進市岩崎町市場) 享禄2年(1529)、織田信秀の属将荒川頼宗が守る岩崎城を三河の松平清康が攻め落とした記録に始まる。天文7年(1538)、丹羽氏の居城となり、慶長5年(1600)、4代目城主氏次の三河伊保への転封で廃城となるまで約60年間、その領地支配の拠点となっていた。 天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの際には、長久手がその戦場となる前哨戦がこの岩崎城で行われ、城兵約300人がほとんど討死にしたという歴史がある。 発掘調査後、城址公園として整備されており、展望塔として模擬天守が建てられている。 |
(愛知県西尾市錦城町) 承久年間(1219〜22)に吉良氏の祖である三河守護足利義氏によって築かれたといわれている。以来、吉良氏歴代の居城であったが、戦国時代には駿河今川氏の支配下に置かれる。永禄4年(1561)、徳川家康が攻略すると、家臣酒井正親を封じた。天正18年(1590)、家康が関東に移封されると、岡崎城主となった田中吉政が、その支城として拡張した。明治維新後、建物は取り壊され、堀もほとんどが埋められた。平成8年(1996)、丑寅櫓と鍮石門が復元された。 |
(愛知県田原市田原町巴江) 文明12年(1480)に三河の国人・戸田宗光により築かれ、以降戸田氏歴代の居城となったが、天文16年(1547)、戸田康光のとき、今川義元によって攻略される。桶狭間の戦いで今川義元が敗死した後、徳川家康の臣・本多広孝が入城。天正18年(1590)、家康が関東に移封となると、吉田城主・池田輝政の支城となり、近世城郭として整備された。慶長6年(1601)、輝政が姫路へ転封となると、戸田尊次が入封。その後、寛文4年(1664)に三宅康勝が三河挙母より入り、以降、明治まで続いた。明治維新後、建物は取り壊され、昭和33年(1958)に二の丸二重櫓が、平成6年(1994)に桜門が復興された。 |
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大 給 城 | 松 平 城 | 尾張 大 野 城 | ||
(愛知県豊田市大内町) 元々は土豪長坂新左衛門が居館として築造したものを、岩津に進出した松平宗家3代の信光が攻め落とし、三男親忠に与えたという。親忠は細川城とともに、これを次男乗元に譲り、乗元が大給松平氏の初代となり、その子・大給松平2代乗正が、永正7年(1510)までに城郭としての体裁を整備したとされる。以後、乗勝、親乗、真乗と続き、天正18年(1590)、6代家乗のとき、徳川家康の関東移封に伴って上野国に移り、大給城は廃城となった。中央の山頂付近に主郭と副郭を置き、その南側には居館を建てた曲輪を配する。北面に水ノ手曲輪といわれる曲輪を2つ設けているのが特徴的。 |
(愛知県豊田市松平町) 応永年間(1394〜1427)の頃に松平氏の始祖・親氏が築いたといわれる。2代泰親が三男信光とともに岩津に進出してからは、次男信広の居城となったという。信広は松平郷松平家(松平太郎左衛門家)の祖となり、その後も子孫は松平郷にとどまって、江戸時代を通じ幕府より「御称号の旧地」を守る役目として、交替寄合旗本に列せられ、15代続いて明治に至った。城は松平館の詰の城として築かれ、山頂の主郭を中心に、その西に細長い曲輪を段階的に配置した連郭式の山城。廃城の時期については諸説があり定かではないとのこと。 |
(愛知県常滑市金山) 伊勢湾を一望できる小高い丘陵に築かれた城。別名宮山城。築城年代は定かではないが、室町時代には大野氏、一色氏、佐治氏が代々居城とした。中でも佐治氏は4代100年にわたってこの地を支配し、水軍の将として、伊勢湾の海上交通を支配する上で重要な位置を占めた。佐治氏3代信方の正室が、織田信長の妹お犬の方であり、浅井三姉妹の三女・お江が最初に嫁いだのが、佐治氏4代与九郎一成であった。しかし、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄の仲が不和になると、一成が徳川・織田方に味方したため、お江は一成と離縁させられ、一成は追放される。佐治氏の後には、信長の弟の織田長益(有楽斎)が城主となるが、大野城の水利の悪さから、すぐ近くに大草城を築城したため、廃城となった。現在、城山公園として整備され、模擬天守の展望台が建てられている。 |
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末 森 城 | 足 助 城 | 東 条 城 | ||
(愛知県名古屋市千種区城山町) 天文17年(1548)に織田信長の父・信秀が、三河の松平氏や駿河の今川氏らの侵攻に備え、古渡城を破却して築城したとされる。信秀の死後、末森城は信長の弟・信勝(信行)に譲られたが、その後、織田家家督を継いだ信長と信勝(信行)の確執が深まるにつれ、末森城は信長からの攻撃対象となっていく。 弘治2年(1556)、信勝(信行)は林秀貞、柴田勝家らとともに信長に叛旗を翻すも、稲生の戦いで敗れて和睦する。翌弘治3年(1557)、再び謀反を企てるが、柴田勝家が信長に内報し、信勝(信行)は清洲城で謀殺された。この後、城は廃城となったといわれるが、遺構の残存状況等から、実際の廃絶時期はもう少し後(天正年間後半)ではないかという見方もあるとのこと。城は、尾張平野東部、東山丘陵地の南端部に位置し、標高約44m、麓部からの比高約20mの平山城で、現在は主要部が城山八幡宮の境内となっている。 |
(愛知県豊田市足助町須沢) 戦国時代に西三河山間部に勢力を伸ばした三河鈴木氏のうち、足助鈴木氏が築城したと考えられる。大永5年(1525)、松平清康がこの城を攻め、鈴木氏は松平の麾下に属する。天文23年(1554)には、今川氏の家臣・馬場幸家が攻め、鈴木氏は今川氏に降るが、永禄7年(1564)に松平元康(家康)に攻められた後は松平氏の国衆となる。元亀2年(1571)には武田信玄が2万5千の兵で三河に侵攻、足助城を攻略し、下条信氏を城代としたが、天正元年(1573)、家康の長男・岡崎三郎信康が城を奪回。天正18年(1590)、鈴木氏5代・康重が、徳川家康の関東入国に従って足助を離れ、足助城は廃城となった。城は、足助の町並みを眼下に見下ろす標高301mの真弓山の山頂の本丸を中心に、四方に伸びる尾根を利用して階段状に展開する。現在、城址には発掘調査を基に木造で想定復元された櫓などが建てられ、山城の主要部全体が整備されている。 |
(愛知県西尾市吉良町駮馬) 承久年間(1219〜22)に三河守護職に任じられた足利義氏は、吉良荘の東側に東条城を築き、三男・義継を置く。この義継が東条吉良氏の祖となる。永禄4年(1561)、松平元康(後の徳川家康)が東条城を攻め、14代義昭は降伏し、東条吉良家は滅亡する。その後、東条城には青野松平家の家忠が入り、家忠が東条松平氏の祖となる。天正9年(1581)、家忠が男子なく病没すると、家康の四男・松平忠吉が後嗣に迎えられるが、翌天正10年(1582)に駿河国沼津へ転封となり、天正18年(1590)、家康の関東移封後、東条城は廃城となった。城は、茶臼山から伸びる尾根状丘陵の先端部に位置し、城域の東から南側は湿地になっており、矢崎川と支流の炭焼川が自然の堀の役割をしていたという。現在、城跡は古城公園として整備されており、主郭跡には物見櫓と城門が復元されている。 |
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大 高 城 | 安 祥 城 | 刈 谷 城 | ||
(愛知県名古屋市緑区大高町) 知多半島の基部、南部の半島側から北へ延びる西側が開けた丘陵上に位置する。築城時期ははっきりとしないが、永正年間(1504〜21)には北方の鳴海周辺に出自を持つ花井備中守が居城としていたと伝えられる。戦国期になり、天文・弘治年間(1532〜58)の頃には、水野氏が居城していた。16世紀後半、この地域は、織田信長と今川義元との間で揺れ動く。水野氏も、はじめ今川氏に属するが、後に織田氏についたため、永禄2年(1559)、織田方から今川方に転じた鳴海城主の山口教継(佐馬之助)に攻められ、大高城は攻略される。その後、大高城には今川義元の家臣・鵜殿長照が入った。丸根砦や鷲津砦が築かれ、織田方の包囲網が強化される中、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いのときに、松平元康(後の徳川家康)が、その包囲の中を兵糧の運び入れに成功した。元康はそのまま城の守備についたが、やがて今川義元が織田信長に討たれると、それを確認した元康は父祖の城である岡崎城へ引き下がったため、大高城は再び織田方の水野氏の支配下にて機能したと考えられるという。その後、戦略上の価値を失った大高城は廃城となるが、元和2年(1616)に、尾張藩家老・志水忠宗が在所屋敷として城跡を拝領し、館を構え明治まで存続した。現在、城跡は公園整備され、外堀土塁などは急傾斜の地形が改変されて往時の面影は薄れているが、内堀はよく残っている。 |
(愛知県安城市安城町) 永享12年(1440)、在地豪族であった和田氏の居館として築城されたと推定される。文明3年(1471)頃、岩津城を拠点とする松平信光が謀略を用いて城を攻め取り、信光の息子のひとりである親忠が入って、以後50余年間、親忠、長忠、信忠、清康と、安城松平4代の居城となった。永正5年(1508)には今川氏の侵攻により一族の要である岩津松平家が滅亡し、代わって安祥松平家が惣領としての地位を固めた。大永3年(1523)、清康が家督を継ぐと、翌4年(1524)に居城を岡崎へ移し、安祥城は松平の将が城代となったとされる。天文4年(1535)、清康が尾張国守山に出陣中、家臣の阿部弥七郎に殺害されるといういわゆる「守山崩れ」が起こると、その後、岡崎城を本拠とする安祥松平家は、清康の長子・広忠が継ぐはずであったが、清康の叔父で織田氏と関係の深い松平信定が実権を握る。広忠は足かけ3年、伊勢・遠江を流浪するが、天文6年(1537)、今川氏を頼って岡崎城主に復帰した。天文9年(1540)、織田信秀が安祥城を奪い、城代として織田信広を置く。その後、岡崎城の広忠は何度も安祥城へ攻撃をかける。そして天文18年(1549)、広忠が家臣の岩松弥八に暗殺された後、岡崎城へ今川方から派遣された大原雪斉が指揮をとり、安祥城への攻撃を強め、同年11月9日、城を落とし、織田信広を捕えた。この時、織田方の人質となっていた竹千代(のちの徳川家康)と信広の人質交換が成立し、安祥城は今川氏の将が預かることとなる。永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、西三河から今川氏が撤退すると、安祥城は廃城となったといわれるが、小牧・長久手の戦いにあたり、徳川勢により一部改修の手が加えられたという説もあるとのこと。安城は矢作川と乙川が合流する氾濫原で、城は三方を湿地に囲まれた台地突端に位置し、北部接続部に濠を掘った中世の本格的城郭であったといい、現在、本丸跡には大乗寺が、二の丸跡には八幡社が建っている。 |
(愛知県刈谷市城町) 天文2年(1533)、三河の国人・水野忠政によって築かれた。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは、忠政の子・信元が織田方に属していたため、今川方に攻められて城は焼失。信元はその後、織田信長から武田氏内通の嫌疑をかけられて自刃し、一時、佐久間信盛が城主となる。しかし、佐久間信盛が信長に追放されると、まもなく信元の弟・忠重が城主に復帰、その子・勝成の時、近世城郭へ改修された。忠政、信元、忠重、勝成、忠清と5代100年の水野氏の居城を経て、寛永9年(1632)に松平(深溝)忠房が入封。その後、松平(久松)氏、稲垣氏、阿部氏、本多氏、三浦氏と入り、延享4年(1747)に土井氏が入封して9代続き、明治4年(1871)の廃藩まで在城した。城は、衣浦湾に突き出す小丘に築かれた平山城で、本丸の東と南側に二の丸、さらにその東に三の丸が配されている。曲輪の大半は土塁で囲まれ、石垣は一部にしか用いられていなかった。天守はなく、本丸の北西と南東に二重櫓が建ち、藩主の御殿は三の丸に置かれていた。廃藩後、国の所有となり、城内の建造物は全て取り壊された。国有化の後、旧士族に払い下げられ、さらに昭和11年(1936)には刈谷町が譲り受け、亀城公園として整備された。なお、徳川家康の母・於大の方は水野忠政の娘として緒川城で生まれ、松平広忠に嫁し竹千代(家康)を産むが、松平氏と離縁後、刈谷で余生を過ごしたといい、その場所が「椎の木屋敷跡」として残されている。 |
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沓 掛 城 | (三河) 山 中 城 | (三河) 寺 部 城 | ||
(愛知県豊明市沓掛町) 築城については、正中2年(1325)に近藤宗光によって築かれたといわれるが、応永年間(1394〜1427)に藤原義行が築城したという説もある。戦国期になり、近藤景春は松平広忠の家臣となっていたが、尾張の織田信秀の勢力が強くなり、しばしば三河へ出兵するようになると、近藤氏は信秀に追従。天文20年(1551)に信秀が死去し、信長が跡を継ぐと、鳴海城主の山口教継・教吉父子とともに、織田氏から離反して今川義元の傘下に入った。永禄3年(1560)、2万5千の大軍を率いた今川義元は、5月18日に沓掛城へ入る。ここで義元は軍評定を開き、翌19日早朝、沓掛城を出発するが、桶狭間で織田信長勢に討ち取られる。景春は沓掛城に戻り、刈谷城を攻めるなどするが、沓掛城は5月21日に織田勢に攻められて落城、景春も敗走の際に討ち死にした。桶狭間の戦い後は、織田方の城となり、恩賞として梁田政綱(出羽守)に与えられ、その後、信長の異母弟・織田信照が入り、さらに川口久助が城主となる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、久助は西軍に与し、戦後捕えられて伊達政宗に身柄お預けとなり、沓掛城は接収された後、廃城となった。現在、城跡は沓掛城址公園として整備されており、本丸跡や空堀などが良好に残る。 |
(愛知県岡崎市羽栗町・舞木町) 築城は、三河西郷氏とも、岡崎松平氏ともいわれるが、詳細は分かっていない。大永4年(1524)、岡崎松平氏の持城であった山中城は、3代・西郷信貞(松平昌安)の時、安祥城主・松平清康の命を受けた大久保忠茂の奇襲を受け、一夜にして落城。その結果、信貞は清康に屈し、岡崎城をも明け渡すこととなった。天文4年(1535)のいわゆる「森(守)山崩れ」で清康が家臣によって殺されると、山中城は今川氏の西三河攻略の拠点となる。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、自立した松平元康(後の徳川家康)が、今川軍が籠もる山中城を攻め落として奪取、再び松平氏の城となった。永禄6年(1563)の三河一向一揆では、一時的に一揆衆に占領されるが、永禄7年(1564)以後は、家康重臣の酒井忠次の居城となる。天正16年(1588)に忠次は隠居して、家督を嫡男・家次が継ぐが、天正18年(1590)、家康の関東移封に従い、酒井氏も下総臼井へと移り、山中城は廃城となる。城は東海道を北に見下ろす城山、岩尾山、医王山とも呼ばれる山上一帯に築かれている。標高196mの山頂の主郭を中心として、東・東北・西北に延びる尾根筋に曲輪を重ねた連郭式の構造で、東西400m、南北200mの規模を持つ。 |
(愛知県西尾市寺部町) 築城年代、築城者については不明であるが、永正11年(1514)、小笠原定政がそれまで寺部城に拠っていた早川三郎を倒して寺部城主となり、以後小笠原氏の居城となった。寺部城の西800m程のところにあった欠城の小笠原氏とともに、永禄の初め頃までは今川氏に従い、以後は徳川家康に属したといい、天正18年(1590)の家康の関東移封に従って小笠原氏も上総国に領地を賜って移ったため、寺部城は廃城となった。城は、旧幡豆町のほぼ中央部、眼下に寺部港を臨む海岸線から250mほどのところにあり、舌状にのびた標高29.7mの丘陵上に地形を利用して築かれた連郭式平山城で、曲輪、土塁、堀などの遺構が残る。 |
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野 田 城 | ||||
(愛知県新城市豊島) 永正5年(1508)に、奥三河地域で勢力を張った三河菅沼氏一族の菅沼新八郎定則によって築城されたといわれる。天文13年(1544)には2代・定村が家督を継承。弘治元年(1555)に定村が雨山の戦いで討死すると、3代・定盈が家督を相続。元亀4年(1573)の野田の戦いでは、武田軍と籠城戦を強いられ、水の手を断たれたことで、降伏・開城した。この野田の戦いは、武田信玄最後の戦いとしても知られる。天正18年(1590)、徳川家康が関東へ移封となると、定盈もそれに付随。吉田城へ入った池田輝政によって野田城は廃城とされた。城は、本宮山麓からなだらかに派生した丘陵が舌状に張り出した先端部に位置し、東側を桑淵、西側を龍淵と呼ばれる淵によって挟まれ、南北に延びる丘陵地に北から三の丸、二の丸、本丸と三つの曲輪を配した連郭式の縄張となっている。 |
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桑 名 城 | 長 島 城 | 保 々 西 城 | ||
(三重県桑名市吉之丸) 文禄年間(1529〜96)に一柳直盛によって神戸城の天守が移され築城された。慶長6年(1602)に徳川四天王の一人本多忠勝が入部し拡張を行う。四重六階の天守が屹立していたが、元禄14年(1701)に焼失、以降再建されなかった。幕末期、鳥羽伏見の戦いの後、新政府軍に無血開城され、本丸の櫓は燃やされ、堀の石垣は四日市港築港のために取り去られた。現在、本丸、二の丸跡は九華公園となっており、蟠龍櫓があった場所に、その櫓を模した外観の揖斐川の水門統合管理所が建てられている。 |
(三重県桑名市長島町西外面) 寛元3年(1245)、前摂政・藤原道家が鎌倉幕府との抗争で敗れ長島に流された時、西外面に館を設けたことに始まる。文明14年(1482)には、北勢47家の一つであった伊藤重晴がその居城として長島一帯を治めた。その後、元亀元年(1570)、一向宗・願證寺の住職・証意によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点とされた。しかし、織田信長の3度にわたる長島攻めにより、天正2年(1574)9月、長島城は落城し、城は滝川一益に与えられた。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄が城主となって以降、豊臣秀次、天野周防守景俊、原隠岐守胤房、福島正頼と短期間で城主は交替。慶長6年(1601)、菅沼定仍が2万石で入封。元和7年(1621)に菅沼氏が移封となると、長島藩は廃藩となり、桑名藩主・松平定勝の兼領となって、長島城も一時廃城となる。その後、慶安2年(1649)に松平(久松)康尚が1万石で入封、長島藩が再興される。元禄15年(1702)、増山正弥が2万石で入封し、以後8代続いて明治に至る。現在、城跡は長島中部小学校、長島中学校の敷地となっており、遺構の大半は失われてしまっている。 |
(三重県四日市市西村町) 康正年間(1455〜57)に朝倉備前守詮真によって、朝明川北岸の丘陵地に築かれ、4代兵部までの居城であったという。朝倉氏は、北勢四十八家の一つで、室町幕府の奉行衆も務めた名門。茂福城、中野城の朝倉一族とともにこの地方に強い勢力を誇っていたというが、永禄11年(1568)、織田信長の北伊勢侵攻の際、滝川一益の攻撃を受け、茂福城、中野城とともに落城したといわれる。城址は、現在、北勢中央公園として整備されている丘陵の南側先端部に位置し、曲輪、土塁、空堀、井戸跡、家臣団の館跡などの遺構が良好に残る。 |
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采 女 城 | 千 種 城 | 神 戸 城 | ||
(三重県四日市市采女町) 詳細は定かでないが、文治年間(1185〜90)に後藤氏によって築城されたといわれる。 後藤氏は藤原氏の流れをくみ、後藤兵衛実基が保元・平治の乱に武功を顕し、後藤兵衛門尉基清が検非違使として京都守護に活躍、元久元年(1204)、平賀朝雅の討伐に奮闘したという。文応元年(1260)、後藤伊勢守基秀は戦陣武功があって三重郡采女郷の地頭職となり、一族郎党を引き連れて采女の地に移り、采女山(北山)に城郭を築き、以後300有余年、15代にわたって居城とした。しかし、後藤采女正藤勝のとき、織田信長の伊勢侵攻にあい、関家・蒲生家に一味して戦うが、永禄11年(1568)に采女城は落城する。城は、足見川が内部川に合流する地点北岸の標高50〜70mの泊丘陵南端に位置し、西側から北側にかけては深い谷、南側は内部川とその支流・足見川によって防備された自然の要害であり、城域内に2つの谷が入り込み、この谷によって3つに分かれた丘陵尾根に、堀切によって分断された9つの曲輪が配置されている。 |
(三重県三重郡菰野町千草) 南北朝時、後醍醐天皇に仕えた千種忠顕の子・顕経が築いたと伝わる。正平24年(応安2年、1369)、足利義満が土岐頼康に命じて北伊勢を攻めさせた際、伊勢国司・北畠顕康は三重郡に砦を築き備えたというが、このとき顕経は、禅林寺城を築き、公家方諸将の総大将として三重郡を統轄し、その後、弘和元年(永徳元年、1381)に、鈴鹿山脈の支脈のつきる小丘に千種城を築いて移った。 千種氏は、北勢48家の豪族をその支配下におき、三重郡24郷を領して大いに勢威があったが、弘治元年(15 55)、近江の佐々木六角義賢に攻められ、城主・千種忠治は和議を結び、千種氏は佐々木六角氏の一味となる。そして永禄11年(1568)、織田信長が滝川一益をして北伊勢を攻めたとき、北勢の諸家と共にその軍門に降り、天正12年(1584)、羽柴秀吉と伊勢長島の織田信雄の問が不仲になると、秀吉は蒲生氏郷に攻めさせ、このとき千種城も落城した。城は西側の本丸と東側の出丸の二つの郭に分かれており、その間は空堀で区切られ、郭の周囲には土塁跡も見られ、中世の山城の形状をよく残す。 |
(三重県鈴鹿市神戸本多町) 神戸氏4代の神戸具盛が天文年間(1532〜55)に築城。その後、織田信長の3男信孝によって拡張され、五重の天守が築かれた。本能寺の変後、信孝の死によって天守は解体され、江戸時代を通して天守は再建されなかった。関ヶ原の戦い以降は、一柳氏が入り、その後天領となった時期もあったが、慶安3年(1650)に石川総長が封じられ、享保17年(1732)には本多忠統が城を修築し入城した。以後明治維新まで本多氏7代の居城となる。 |
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亀 山 城 | 峯 城 | 津 城 | ||
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(三重県亀山市本丸町) 文永元年(1264)、関実忠が現亀山城の西の若山に亀山古城を築いたのに始まる。天正18年(1590)に関一政が奥州に移った後に岡本宗憲が入城し、天守、本丸、二の丸、三の丸など、その後の亀山城の母体となる城が完成された。寛永9年(1632)に幕府から丹波亀山城の修築命令を受けた堀尾忠晴の間違えによって天守が取り壊された。現在、天守台に多聞櫓が現存している。 |
(三重県津市丸之内) 正平年間(1346〜70)に関盛忠の五男・峯政実によって築城されたと伝えられる。以後、峯氏6代の居城であったが、天正2年(1574)に峯八郎四郎が伊勢長島で討ち死にし、峯氏は滅亡した。その後、城は織田信孝老臣の岡本宗憲(良勝)に与えられたとされる。天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦として、亀山・峯両城が滝川一益方の手に落ちると、羽柴秀吉は自ら3万の大軍を率いて北伊勢に侵攻し、亀山城・峯城を包囲する。城を守る滝川儀太夫(益重)は、孤立無援の中、籠城を続けるが、兵糧弾薬が尽き、賤ヶ岳の戦いの直前に降伏開城した。戦いの終息後、織田信雄が入城し、佐久間正勝に城を守らせたが、翌天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの発端として、蒲生氏郷らによって攻城され、落城。天正18年(1590) 、岡本宗憲(良勝)が亀山城に移されるにあたり廃城にされたと伝わる。城は亀山市北部を流れる安楽川と八島川に挟まれた標高85mほどの丘陵上に位置し、中心郭のほか、複数の郭が連立する形となっていて、峯城攻防戦で籠城した複数の武将が、それぞれ郭を構築した可能性が指摘されている。主郭の北・西・南側の三方には、高さ6mを超える土塁が廻り、西側土塁の中央部の一段高い土壇は天守台と伝えられる。 |
(三重県津市丸之内) 天正8年(1580)、織田信長の弟信包が築城。その後、富田信高が入城した。関ヶ原の戦いの際に、西軍との攻防で大きな被害を受け、天守が焼失するなど荒廃した。慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊予今治から入城し、大掛かりな修築を行った。以後、明治維新まで藤堂氏の居城となる。両隅に三重の櫓が建てられたが、天守は再建されなかった。明治4年(1871)、廃藩置県により廃城となり建造物は破却された。昭和33年(1958)に本丸東鉄門に隅櫓が模擬復元された。 |
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霧 山 城 | 阿 坂 城 | 大 河 内 城 | ||
(三重県津市美杉町下多気) 南朝方の最も有力な公卿であった北畠親房の三男・顕能が、伊勢国司として、建武3年・延元元年(1336)、親房と共に入国すると、伊勢地方に南朝方の城砦が設けられた。その後、北朝方に攻められ、康永元年・興国3年(1342)に田丸城が陥落すると、顕能は多気の地に移り城館を築き、霧山城もその頃築かれたと考えられる。南北朝の合一から戦国時代にかけ、北畠氏はこの地方に勢威を振るい、8代具教の頃に最盛期を迎えるが、元亀元年(1570)に織田信長の攻撃を受け、これに屈服。具教は降伏の際に、養子として信長の次男の信雄を迎えることとなる。しかし、天正4年(1576)、具教は信雄により暗殺され、このとき霧山城も落城する。 |
(三重県松阪市大阿坂町) 標高312mの枡形山山頂に築かれた山城。文和元年・正平7年(1352)の南北朝の争乱を伝える史料に最初にその名が見えるという。よく知られるのは、応永22年(1415)、北畠満雅が足利幕府軍を迎え撃った戦いで、籠城する満雅は、水を断たれて難儀する中、馬の背に白米を流して水があるように見せて幕府軍を欺き撃退したと、江戸時代初めの「南方紀伝」は伝えている。その後、永禄12年(1569)、大河内城に拠る北畠具教を攻略するため、織田信長は大軍を率い南伊勢に侵攻。阿坂城には北畠の重臣・大宮入道含忍斎が立て籠もるが、木下藤吉郎らによって攻め落とされ、長く北畠氏の重要拠点であった城も廃城に至らしめられた。城跡は南北2つの郭からなり、北郭を椎ノ木城、南郭を白米城とも呼び、台状地を中心に堀切り、土塁等が配されている。 |
(三重県松阪市大河内町) 阪内川とその支流の矢津川に挟まれた標高約110mの丘陵北端部に築かれた平山城で、応永年間(1394〜1428)に伊勢国司・北畠満雅が築き、弟・顕雅の子孫が代々拠点とした。永禄12年(1569)、織田信長が大軍をもって南伊勢へ侵攻した際、北畠具教は本拠を多気からこの城に移して迎え撃つ。50日におよぶ激しい籠城戦の末、信長の二男・茶筅丸(信雄)を北畠の養子とすることで和睦が成立。以後、南伊勢は信長の支配下に組み込まれていくこととなる。天正4年(1576)、信雄は南伊勢を統治する拠点を田丸城に移し、大河内城は廃城となった。城跡は、本丸跡を中心に二の丸跡、西の丸跡、馬場跡、御納戸跡などが残り、随所に空堀が見られる。 |
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田 丸 城 | 五 ヶ 所 城 | 鳥 羽 城 | ||
(三重県度会郡玉城町田丸) 南北朝時代に北畠氏によって築かれたといわれる。天正3年(1575)に織田信長の次男・信雄が改築し、三層の天守を備えた近世城郭生まれ変わった。慶長5年(1600)に稲葉道通が城主となり、藤堂氏領を経て、元和5年(1619)に、徳川御三家の一つ、紀州徳川家の治める紀州藩の所領となった。明治になって、建造物はほとんど取り壊されたが、天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などの遺構は今も整備されて残る。 |
(三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦) 築城年代ははっきりとはしないが、康永年間(1342〜45)頃に愛洲氏によって築かれたといわれる。愛洲氏は、南北朝の頃には、国司北畠氏と共に、南朝方の武将として北朝方と攻防を繰り返す。しかしながら、北畠氏が織田信長により攻略されると、天正4年(1576)、送り込まれた織田信雄に攻められて愛洲氏は滅亡し、五ヶ所城は廃城となった。城は五ヶ所川東岸の台地上に立地し、主郭の南と東側を二重の横堀と土塁で強固に防御している。 |
(三重県鳥羽市鳥羽) 戦国時代末期の有力な水軍頭領であった九鬼嘉隆によって、文禄3年(1594)に築かれた。寛永10年(1633)に内藤忠重が入封すると、二の丸、三の丸を築き、本丸とあわせて城郭の体裁を整備した。東の海側に大手水門が設けられており、このような城は、近世城郭では鳥羽城だけである。安政元年(1854)の地震と津波で大きな被害を受け、そのまま再建されなかった。天守台や家老屋敷跡などの石垣や土塀が残る。 |
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百地丹波城 | 福 地 城 | 赤 木 城 | ||
(三重県伊賀市喰代) 築城年代は定かではないが、百地氏によって築かれた中世城館跡と考えられる。百地氏について、史実としてはほとんど分かっていないとのことであるが、戦国時代には有力な土豪で藤林長門守・服部半蔵と共に伊賀上忍三家に数えられていたようである。天正9年(1581)、伊賀の乱で織田信長の侵攻を受け、自ら城を焼き放ったとされる。城跡は丘陵の尾根を利用してつくられ、4つの郭が段々に形成されていて、主郭は、四方に土塁を築き、南側に自然地形を利用した堀、東側には堀切が見られる。 |
(三重県伊賀市柘植町) 南北朝期、福地伊予守が築城したといわれる。天正9年(1581)、織田信長の伊賀侵攻に際し、福地氏は信長に味方し、伊賀侵攻の道案内をした。伊賀の乱後は、池尻平左衛門尉が城主となったとされる。城は西に石垣の表門をもち、四方土塁の掻揚式の城で、本丸内部には、石蔵跡や井戸が残り、周囲には館跡や堀跡が現存する。松尾芭蕉の先祖は福地氏の一族とされる。 |
(三重県熊野市紀和町赤木) 天正16年(1588)、秀吉の検地に反対して北山一揆が起きたことで、翌17年(1589)、藤堂高虎によって、反対勢力を抑える目的で築城されたと云われる。主郭を中心とした三方の尾根上と裾部に郭を設けており、尾根を利用した郭配置は中世山城の様相を引き継ぐ一方で、高く積まれた石垣や発達した虎口など近世城郭の要素も見受けられる。 |
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