関東・甲信越の城 |
14 | 水戸城 | 15 | 足利氏館 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 那珂川と千波湖にはさまれた台地の先端に築かれた城。鎌倉時代に常陸大椽馬場資幹がこの地に最初の館を築いた。天正18年(1590)、佐竹義宣が入城して近世城郭に改修、佐竹氏が秋田へ移った後に徳川家康の11男・頼房が入った。水戸城に大幅に手を加え、徳川御三家の居城として、東北諸藩ににらみをきかせる存在とした。 (2009年6月27日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 創築者には諸説あるが、足利氏2代目義兼説が有力。水堀と土塁に囲まれた方形の館跡は、鎌倉時代の地方武士の館の姿を伝える貴重な遺構。健久7年(1196)に館内に持仏堂をつくり、これが足利氏一門の氏寺である鑁阿寺となり、現在にいたる。 (2009年5月29日登城) |
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16 | 箕輪城 | 17 | 金山城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() 天正18年(1590) ![]() ![]() 創築には諸説あるが、戦国時代初期に長野氏によって築かれ、後に武田氏、織田氏、後北条氏、徳川氏の城となった。天正18年(1590)、家康から箕輪城を与えられた井伊直政が近世城郭に改築したと伝えられている。 (2009年5月29日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 金山山頂に新田氏の後裔岩松家純が築城。享禄元年(1528)、岩松氏の家臣の由良氏が実権を握り城主となった。武田氏や上杉氏、後北条氏などに攻められたが、そのたびに撃退して堅城ぶりを証明。発掘調査を基に大手虎口や石敷きの城道、石垣や土橋などが復元整備された。 (2009年5月29日登城) |
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18 | 鉢形城 | 19 | 川越城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 荒川の河岸段丘上に、文明8年(1476)、山内上杉氏の家臣長尾景春が築城したとされ、永禄3年(1560)頃北条氏邦が大修築。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に鉢形城も豊臣方の大軍に囲まれ、氏邦は城兵の助命を条件に城を明け渡し、まもなく廃城となった。近年の発掘により、曲輪や土塁などが整備されている。 (2009年5月29日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 松平(越前)氏、松平(松井)氏 扇谷上杉持朝の家臣太田道真・道灌父子が長禄元年(1457)に築城したことに始まる。江戸にとっては重要な城で、江戸時代には徳川家の譜代大名が代々城主となった。松平信綱が藩主となると何年にもわたり城を拡張改修するとともに城下町を整備。本丸御殿は数少ない現存する御殿の遺構として貴重。 (2009年5月30日、2011年3月5日、2012年5月3日登城) |
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20 | 佐倉城 | 21 | 江戸城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 戸田氏、稲葉氏 鹿島台地西端の川や急崖に囲まれた要害の地に、地元豪族の千葉氏が中世の城郭を築いたといわれる。慶長15年(1610)に土井利勝が入封して大修築。以後、江戸の背後を固める城として代々譜代大名の居城となる。現在、城跡の主要部は佐倉城址公園として整備されている。 (2009年5月2日、2012年8月10日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() 寛永14年(1637) ![]() ![]() 長禄元年(1457)、扇谷上杉氏の家臣太田道灌によって築かれた。豊臣秀吉の関東平定後、江戸に入封した徳川家康は慶長8年(1622)、征夷大将軍になると江戸城を本格的近世城郭へと改築。秀忠・家光と3代にわたる築城工事で、壮大な城となった。天守は3回建てられたが、明暦の大火で焼失してからは再建されなかった。伏見櫓、桜田巽櫓などが現存。 (2009年5月2日、2009年9月26日、2010年12月17日、2012年1月12日登城) |
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22 | 八王子城 | 23 | 小田原城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天正12年(1584)頃から、北条氏康の次男氏照によって築かれ始める。後北条氏の支城のなかでは最大規模の山城。天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東制圧により激戦の場となり落城した。城は本丸を中心とした要害地区とその麓にある居館地区、外郭の防御施設からなる。近年発掘調査に基づく復元整備が進められている。 (2009年5月3日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 初期の小田原城は15世紀中頃、大森氏が築いたと考えられる。城の存在がはっきりするのは、明応4年(1495)に北条早雲が入城してから。後北条氏の拠点となり、難攻不落の城であったが、秀吉軍の大包囲によって開城し、徳川の譜代大名大久保忠世・忠隣によって近世城郭として整備された。明治に入り建物はほとんど解体された。現在の天守は昭和35年(1960)に再建されたもの。 (2009年3月21日、2011年6月18日登城) |
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24 | 武田氏館 | 25 | 甲府城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 甲斐源氏の流れを汲む武田信虎が永正16年(1519)に石和から館を移したことに始まる。その後、信玄・勝頼と武田氏3代にわたり続く。かつては館の南側に家臣の屋敷や寺社を含む城下町が展開され、戦国時代有数の規模を誇っていた。 (2009年5月3日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 武田氏滅亡後、豊臣政権の重臣浅野長政らによって武田氏館に代わる城として築城された。関ヶ原の戦い後は、徳川一門によって支配された。徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が城主となって入城した際に、城の拡張と修築が行われ、城下も整備された。吉保の子吉里が大和郡山に天封した後は、幕府の直轄地となる。野面積石垣は圧巻。平成16年(2004)に稲荷櫓が再建された。 (2009年5月3日登城) |
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26 | 松代城 | 27 | 上田城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 酒井氏、真田氏 永禄3年(1560)頃、武田信玄が北信濃を支配するために築城した。築城当時は海津城と呼ばれ、川中島の戦いの舞台となった。信玄の死後は、織田信長の家臣や上杉景勝の武将が入城するなど、城主はめまぐるしく変転。元和8年(1622)、真田信之が城主となり、3代幸道のときに名を松代城と改めたといわれる。近年、本丸石垣や内堀が修築され、本丸大手の太鼓門や搦手の北不明門などが復元された。 (2009年2月7日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天正11年(1583)、真田昌幸が千曲川の分流尼が淵の河岸段丘上に築いた城。天正13年(1585)に徳川家康に攻められるも、落城することはなく、堅城ぶりを天下に示した。慶長5年(1600)には関ヶ原に向う徳川秀忠軍を真田氏は上田城で迎え撃ち、秀忠軍は関ヶ原の戦いに遅れることとなる。関ヶ原の戦い後、城は破却されたが、元和8年(1622)、仙石忠政が復興し、本丸、二の丸が改修されたが、忠政の死によって未完に終わった。本丸に建てられていた7基の櫓のうち3基が現存。 (2009年2月7日登城) |
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28 | 小諸城 | 29 | 松本城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 石川氏、牧野氏 大井氏の鍋蓋城・乙女城を武田信玄が侵略し、山本勘助らに命じて拡張整備した城。豊臣政権成立後、城主となった仙石秀久は城を織豊系城郭に改修して三重天守や大手門などを建造し、秀久の子忠政によって近世城郭としての完成をみた。三の門は国の重要文化財。 (2009年2月7日、2012年5月4日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 永正元年(1504)に小笠原氏一族の島立貞永が築いた深志城が前身とされており、天正10年(1582)に松本城に改称。徳川家康の関東移封により、小笠原氏に代わって石川数正が入り、近世城郭の普請と城下町づくりを始めた。数正の代では完成せず、子の康長に受け継がれ、今日に残る国宝指定の天守・乾小天守・渡櫓などが完成した。 (2009年2月8日登城) |
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30 | 高遠城 | 31 | 新発田城 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天文14年(1545)、武田信玄が三峰川と藤沢川の段丘上にある高遠頼継の高遠城を攻略し、その後大規模な改修を行った。武田勝頼の実弟仁科盛信が城主のとき、織田信長軍に攻められ落城した。明治時代にタカトオコヒガンザクラが城址に植えられ、現在桜の名所となっている。 (2009年5月9日登城) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 戦国時代にこの地の新発田重家が本拠地とした旧新発田城跡に慶長3年(1598)、加賀国大聖寺から入封した溝口秀勝が築城。3代宣直の時完成し、本丸には実質上の天守として三階櫓が築かれた。丁字型の屋根に3匹の鯱が載る特徴のある櫓で、平成16年(2004)に再建された。本丸表門と旧二の丸隅櫓が現存。 (2009年9月21日登城) |
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32 | 春日山城 | |||
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 初期の築城者は不明だが、戦国時代に長尾為景とその子景虎(上杉謙信)らが本格的に城を整備強化した。石垣は用いられず、土塁や空堀で築かれ、山全体に多くの曲輪や屋敷を配置した巨大な山城だった。平成8年(1996)に土塁や水堀が整備された。 (2009年10月31日登城) |
100名城以外の城 |
土 浦 城 | 宇都宮城 | 高 崎 城 | ||
(茨城県土浦市中央) 永享年間(1429〜41)に小田氏の家臣・若泉(今泉)三郎が築城したと伝えられる。戦国時代には、同じ小田氏の武将・菅谷勝貞が拠ったが、天正18年(1590)の小田原攻めで滅亡する。徳川家康の関東入国に際し、この地方は二男・結城秀康の所領となった。しかし関ヶ原の戦いの後、越前へ移り、以後の城主は、松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と替わり、貞享4年(1687)に土屋氏が再封され、明治まで続いた。城は、桜川の本・支流を堀として利用し、霞ヶ浦の水を引いて五重に堀を巡らせ、本丸を中心に、二の丸・三の丸などが同心円状に取り巻く。現在、城址は亀城公園となっており、本丸太鼓櫓門や霞門が現存し、東櫓、西櫓が復元されている。 |
(栃木県宇都宮市本丸町) 平安時代後期に築かれたといわれ、鎌倉時代以後は宇都宮氏の居城であったが、慶長2年(1597)、国綱の時に、所領を没収され滅亡した。その後城主は浅野長政、蒲生秀行、大河内秀綱、奥平氏を経て、本多正純となる。以後、奥平氏、松平氏らを経て明治を迎えた。明治元年(1868)4月、戊辰戦争で土方歳三らが率いる旧幕府軍に攻められ落城。建物の大半が焼失した。平成19年(2007)、本丸があった宇都宮城址公園に、清明台、富士見櫓、築地塀、土塁、堀が復元された。 |
(群馬県高崎市高松町) 和田義信が、室町中期に築いた和田城が前身だといわれる。戦国期には、和田業繁が上野国の中心勢力として、上杉氏や北条氏と激戦を展開するが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、前田利家・上杉景勝らの連合軍に大軍をもって包囲され落城する。小田原攻めの後、関東へ移った徳川家康が、家臣の井伊直政を箕輪城に封じるが、中山道の要衝の地であることを重視し、慶長3年(1598)、直政に、和田城を取り込み東へ拡張する形で新城を築かせ、直政は居城を箕輪から移し、名を高崎と改めた。関ヶ原の戦いで戦功をあげた直政は、近江佐和山城へ転封となり、その後は、諏訪頼水が城番を勤め、酒井氏、松平(戸田)氏、松平(藤井)氏と城主が交代。元和5年(1619)には安藤重信が入封し、以後3代にわたって安藤氏が藩政にあたる。元禄8年(1695)に松平(大河内)氏、宝永7年(1710)に間部氏が入封し、享保2年(1717)に再び松平(大河内)氏が入り、以後10代約150年間続いて明治に至る。城は、烏川東岸の河岸段丘上に、ほぼ方形の本丸と、それを囲むように東に二の丸、北に榎曲輪、南に西の丸を配し、さらに二の丸の東周囲を三の丸が固める輪郭梯郭複合式の平城といえる。本丸の西辺土塁上には天守代用として御三階櫓が建てられ、四隅には二重櫓が配されていた。現在、本丸、二の丸は完全に失われて市街地化されてしまっているが、三の丸の土塁と堀が残り、大手門跡近くに、旧本丸乾櫓と旧三の丸東門が移築されて現存する。 |
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沼 田 城 | 忍 城 | 杉 山 城 | ||
(群馬県沼田市西倉内町) 天文元年(1532)に沼田顕泰によって築かれたのが始まりといわれる。関東へ至る要衝の地にあることから、上杉氏や北条氏、武田氏などの戦国大名によりめまぐるしい争奪が繰りひろげられることになり、永禄3年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)に攻略され、天正8年(1580)には、武田勝頼の命により沼田に進出した真田昌幸が攻略した。武田氏滅亡後、北条氏と真田氏との間に沼田城をめぐって攻防が続くが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。秀吉は真田昌幸に対し、信濃2郡と利根・吾妻の旧領を安堵し、昌幸は嫡子の信幸に沼田城を与えた。信幸は、近世的な城郭の整備にとりかかり、二の丸、三の丸、堀、土塁等を築き、五重の天守を完成させた。天和元年(1681)、真田氏5代信利が改易され、廃城となる。真田氏改易後、旧真田領は天領となるが、元禄16年(1703)、本多正永が封。本多氏3代の後は再び代官支配となり、その後、享保17年(1732)に黒田氏、寛保2年(1742)に土岐頼稔が入封し、以後、土岐氏が12代続いて明治維新を迎えた。城は、利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置し、現在、本丸跡と捨曲輪跡、二の丸・三の丸跡の一部が沼田公園となっており、本丸跡には堀跡や櫓台の石垣などが残る。 |
(埼玉県行田市本丸) 山内上杉家の重臣成田親泰が、延徳3年(1491)に完成させたと伝わる。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、石田三成らの水攻めを受けたがもちこたえた。徳川家康の関東移封後は、松平家忠・忠吉が城主となった後、一時番城となった。寛永3年(1626)以降は、酒井・松平(大河内)氏を経て阿部忠秋が入封し、元禄14年(1701)に大改造を行った。城跡の本丸には行田市郷土博物館が建っており、三階櫓や模擬城門などが復興されている。 |
(埼玉県比企郡嵐山町杉山) 築城年代などその歴史はよくわからない。戦国期の城主として、北条氏の配下の杉山(庄)主水の名が伝承として残っているが、その存在は不明である。従来、高度な縄張から築城者は北条氏とされ、築城年代も永禄(1558〜70)の初め頃と考えられていた。ところが、近年の発掘調査によって、15世紀末から16世紀前葉の土器や陶磁器が出土し、また、この杉山城をさすと思われる永正から大永頃(1510〜25)の文書が見つかり、築城年代が一気に50年も遡る見方が有力となり、長享の大乱の後、永正の初めに山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗するために築城した可能性が高いと考えられるようになってきた。城は、鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上最高所に本郭を置き、三方に伸びる尾根を空堀で区画し、およそ10ほどの郭を配した縄張となっている。傾斜の急な切岸、大規模な横堀と屏風折れの塁線、木橋や土橋を用いた様々な形態の虎口など、高度な築城技術の粋を集めた城となっており、そのことから「中世城郭の教科書」や「戦国期城郭の最高傑作の一つ」といわれる。 |
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菅 谷 館 | 岩 槻 城 | 大多喜城 | ||
(埼玉県比企郡嵐山町菅谷) 鎌倉時代の有力御家人であった畠山重忠が、文治3年(1187)以前に居住していたと伝えられる館跡である。館跡を含む周辺地域は菅谷と呼ばれ、古くから秩父平氏の流れをひく畠山氏の拠点があったと考えられている。元久2年(1205)に畠山重忠が執権・北条氏の謀略によって二俣川で討たれた際、この菅谷館から出発して鎌倉に向かったことが、「吾妻鏡」に記されている。その後、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った長享年中の大乱(1487〜1505)の際に再興され、城郭として拡大整備されたと考えられている。畠山氏時代の遺構は確認されておらず、現在見られる遺構は、この戦国時代の「須賀谷旧城」のもの。都幾川の断崖上に本郭を置き、それを取り囲むように二の郭、三の郭、西の郭、南郭が同心円状に配され、東西は自然の谷を利用して、各郭は深く堅固な堀と高い土塁で防御されている。 |
(埼玉県さいたま市岩槻区太田) 従来、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝が家臣の太田道真・太田道灌父子に命じ築かせたとされていたが、後に忍城主となる成田氏が築城したとする説もある。扇谷上杉氏と山内上杉氏が対立する中、大永2年(1522)、太田資頼が岩槻城を奪取し、以後、岩付太田氏の居城となった。その後、天文15年(1546)の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的となる中、岩槻城は孤立しながらも太田資正の居城として機能するが、永禄7年(1564)、資正の嫡子・氏資が北条氏康に内応して資正を追放し、岩槻城は北条氏方の城となる。永禄10年(1567)、三舟山合戦で氏資が戦死すると、氏資には男子がなかったため、岩槻城は北条氏が直接支配することとなり、北条氏政の子・氏房を城主に据え、太田氏房と名乗らせた。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、城主・氏房付の宿老・伊達房実の指揮の下、2000の兵が籠城するが、豊臣方の総攻撃を受け、2日後に落城した。北条氏滅亡後、徳川家康が関東へ入ると、譜代重臣・高力清長を2万石で岩槻城主に据える。江戸時代になると、岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、元和6年(1620)からは、青山氏、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平(藤井)氏、小笠原氏、永井氏と幕府要職の譜代大名が配される。宝暦6年(1756)に大岡忠光が入封すると、大岡氏が8代続いて明治に至る。城は、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地上に本丸、二の丸、三の丸などの主郭部が位置し、沼地を挟んで北側に新正寺曲輪、南側に新曲輪・鍛冶曲輪が配置されていた。主郭部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側に武家屋敷や城下町が広がり、城と城下町を囲むように大構が築かれていた。現在は、広大な沼地も姿を消し、城の中心部は住宅地化されて遺構は残っていないが、外曲輪であった新曲輪・鍛冶曲輪跡は岩槻城址公園となり、土塁や空堀、馬出などの遺構が見られる。また、他所へ移築されていた黒門と裏門が城跡へ戻され現存している。 |
(千葉県夷隅郡大多喜町大多喜) 大永元年(1521)、真里谷城主・武田信清が小田喜城を築いたのが始まりとされる。信清の死後、嫡男・直信、その嫡男・朝信が城主となるが、天文13年(1544)、安房の里見氏の重臣・正木時茂が刈谷ヶ原の戦いで武田朝信を破って小田喜城を奪取、以後は正木氏の居城となる。天正18年(1590)、北条氏の小田原城が豊臣秀吉に攻め落とされ、徳川家康に関八州が与えられると、家康は重臣・本多平八郎忠勝に房総攻略を命じ、中世小田喜城は落城する。忠勝は10万石を与えられて入城し、大多喜城として三層の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、安房里見氏に対する防衛拠点とした。慶長6年(1601)、本多忠勝が伊勢桑名へ転封となると、次男・忠朝が別家新封。3代続いた本多氏の後は、元和3年(1617)に阿部正次が城主となり、以後、青山氏、阿部氏、稲垣氏と城主が替わり、元禄16年(1703)からは松平(大河内)氏が城主となり、明治まで続いた。城は、屈曲して流れる夷隅川に囲まれた台地の北西部の一段高い場所に本丸を構え、一段下がって二の丸、さらに三の丸と造営されている。二の丸には城主御殿と重臣屋敷、三の丸に家臣屋敷や役宅、米蔵、火薬庫、馬場などが置かれた。天保13年(1842)、松平(大河内)正知のとき、火災で天守や御殿を焼失、後に御殿のみ再建された。現在、本丸跡には天守を模した千葉県立中央博物館大多喜城分館が建っており、二の丸跡は大多喜高校の敷地となっている。 |
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滝 山 城 | 石垣山城 | 高 島 城 | ||
(東京都八王子市丹木町) 大永元年(1521)に、山内上杉氏の重臣で武蔵国守護代であった大石定重が築城したといわれる。その後、山内上杉氏の衰えとともに勢力を伸ばしてきた北条氏に服従することとなり、永禄2年(1559)に大石定久の養子として、北条氏康の三男・氏照を迎え、氏照は城を大改修する。永禄12年(1569)に武田信玄が武蔵に侵攻し、滝山城に迫る。戦いは熾烈を極め、滝山城は三の丸まで破られたが、かろうじて落城は免れた。氏照は領地の備えをより固めるため、八王子城を築き、天正15年(1587)頃、滝山城から移ったため、滝山城は廃城となる。城は多摩川を望む丘陵上に築かれ、大規模な空堀など、遺構の保存状態はよい。 |
(神奈川県小田原市早川) 天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉が、総勢20万余とされる大軍をもって関東へ侵攻し、北条氏直らが籠城する小田原城を完全包囲する態勢を敷いた際に本営として築かれた陣城。関東で最初の、石垣・瓦・天守を備えた本格的な織豊系近世城郭として知られる。秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、周囲の樹木を伐採したため、それを見た小田原城の将兵が、一夜のうちに城が出現したことに仰天し、戦意を喪失したという伝承から、「石垣山一夜城」又は「太閤一夜城」などとも呼ばれる。実際には、延べ4万人が動員され、約80日間に及ぶ突貫工事によって築かれたという。城は、南北方向に走る尾根を軸に、その最高地点に本丸と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が配置され、北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されている。 |
(長野県諏訪市高島) 天正18年(1590)に入封した豊臣秀吉の武将・日根野高吉が、文禄元年(1592)に着工、慶長3年(1598)まで7年の歳月をかけて完成させたという。慶長6年(1601)に日根野吉明が下野壬生へ転封となると、諏訪頼水が旧領諏訪に復帰し入城する。以後、270年の間、諏訪氏の居城となる。築城当初は、城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから、別名「諏訪の浮城」と呼ばれたという。明治8年(1875)に天守は撤去されたが、昭和45年(1970)に天守や冠木門、角櫓などが復興された。現在、本丸跡部分は高島公園となっている。 |
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龍 岡 城 | ||||
(長野県佐久市田口) 慶応2年(1866)、田野口藩主・松平(大給)乗謨が完成させた城郭で、正しくは田野口陣屋もしくは龍岡陣屋である。築城にあたっては稜堡式城塞を採用し、設計は乗謨自身が行ったという。函館の五稜郭と同様、形状が星形となることから、龍岡五稜郭と呼ばれる。文久3年(1863)1月、三河奥殿藩・11代乗謨は大番頭登用とともに、前年の参勤交代制緩和により家臣の在国期間が長くなり、本領三河が4千石でその狭さから、信州領1万2千石の地へ本領移転を願い出るとともに、併せて新陣屋五稜郭建設の許可も申請し、6月に許可が下りると、7月に家老・出井勘之進に普請奉行を命じ、元治元年(1864)3月から着工し、慶応3年(1867)に竣工した。本領移転に伴い田野口藩と改め、さらに明治元年(1868)には龍岡藩と改められた。廃藩後の明治5年(1872)、城は取り壊されたが、御殿の一部の御台所だけは学校としての使用が認められた。現在、内部は佐久市立田口小学校の敷地となっているが、堀、土塁、石垣はよく残っており、また旧位置とは場所が異なるが、御台所が現存している。 |
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